2012年12月30日日曜日

three albums of the year (2012版)

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ふと気づけば、今年も残すところあとわずかになりました。
おそらく、全世界における「残すところ」という言葉の登場数を折れ線グラフに表すと、この十二月末あたりで跳ね上がっていることと思います。考えてみれば、「残すところ」とは普段の生活ではそれほど使わない言葉です。
その意味だと、同じ折れ線グラフで「良いお年を」などが似たような傾向になっていても、それほど興味深くはありません。「残すところ」が表面的には特別に年末らしい言葉ではないため、面白いわけです。

さて、私にとって年末といえば、その年に素晴らしかった音楽アルバムを三枚決定する時期です。
昨年も本ブログでそのようなエントリを書きましたし、ブログに関わりなくとも、何年も続けてきた習慣です。これをすると、私にとっては一年の振り返りになるのです。

本ブログの事情だけ見ると、音楽の話が続いてしまうのが気になりますが、ともあれ、さっそく「three albums of the year」をご紹介します。

アルバム名 / アーティスト名
で、敬称略でいきます。

***

12012 / 12012

一枚めに選ぶのは、ロックバンド「12012」が自身のバンド名を冠した4thアルバム、「12012」です。
バンドの中心人物だったギターの須賀勇介が脱退し、一人少ない四人編成に変わってから初めてのアルバムになります。

今作の「12012」では、音像、ヴィジュアルともこれまでの雰囲気から大きく変化しています。
言われてみれば、前作「SEVEN」からそういった気配は多少ありましたが、「12012」では、よりシャープに、激しくなっています。

聞きどころは、一気に攻撃的になった宮脇渉のヴォーカルはもちろんのこと、個人的には酒井洋明のギターを推します。
須賀勇介の脱退によってギターが一人になり、どうなるのかというところで、とても鋭くて強いプレイを聞かせてくれています。

これはギターパートに限らず、全体として、一人減ったことを逆手にとってと言いますか、プラスにとらえているような感覚を受けます。
個人的には今の12012が好きですし、またそういった、マイナスのことでも前に進む糧にする心意気は憧れます。

***

D-Formation / 茅原実里

二枚めは、茅原実里の「D-Formation」を選びます。

こちらのアルバムについては、本ブログの「新世界のように」とのエントリで書いていますので、ここでは簡単に書きます。

何と言っても特筆すべきなのは、前作までバンドサウンド寄りに進んでいた茅原実里が、デジタルなアレンジに大きく舵を切ったことです。
ちなみに厳密な話ではないものの、何となく「打ち込み」や「エレクトロ」より「デジタルサウンド」とする方が適切に感じます。伝わるかどうかは怪しいですが、そういうアルバムだということです。

その中で、「D-Formation」というデジタルな世界を提示する冒頭の三曲の流れが、インパクトもあり、大変秀逸です。

また、デジタルとばかり言っていますが、アルバム後半ではヒューマンなメッセージの曲も変わらずあり、こちらも良いです。

***

so_mania / SOUL'd OUT

三枚めはSOUL'd OUTの「so_mania」を選びます。

SOUL'd OUTのオリジナルアルバムとしては、2008年の「ATTITUDE」以来久しぶりの作品になります。
その間SOUL'd OUTの三人のメンバは個々の活動をしており、そこから再集結して新しいアルバムを発表したということで、ファンにとってはこれだけでメモリアルな一枚になります。

私も、それぞれのメンバの活動はすべてチェックしていました。
その上で言えるのは、今作「so_mania」は、それらの活動内容をすべて踏まえて、持ち寄って一つにした、これまでのSOUL'd OUTとは違う一枚に仕上がっているということです。
私の印象では、個々の活動がSOUL'd OUTに良い影響を与えたと間違いなく言えます。最高傑作、と言ってしまっても良いかもしれません。

すごく抽象的な表現になりますが、音がこれまでとまるで違うのです。


終わりに


2012年は、テクノのアルバムを聞く数が少なくなりました。
これは、私の生活の様子がやや変化して、少しずつ音楽アルバムをデータで購入するようになってきたためだと思います。

私の場合、テクノ以外の音楽では追いかけるアーティストがだいたい固定になっていますので、データで購入するのにもそれほど不都合は起きません。
一方のテクノは、CDショップを実際に歩いてみて情報収集することがよくありましたので、データではそれができなくなってしまうわけです。

もともと私には、CDショップにおもむく時間が確保しにくくなったために、音楽をデータで購入することを考え始めたとのいきさつがあります。
そのため、自然にテクノを聞く機会が減ってきてしまったわけです。これはなんとかしたいと思っています。

またこのことは、私が最近電子書籍も買い始めた影響で、読書についても似た状況が起こりそうな予感がします。

というわけで、私の来年の目標は「本屋さんとCDショップをたくさん歩く」になるかもしれません。

とはいえ、電子の本も音楽も、私が購入したいコンテンツがすべて揃うような状態はまだ達成されそうにない(と思う)ので、お店にまったく足を運ばなくなることは、しばらくなさそうです。

2012年12月27日木曜日

音楽と雑誌への思い

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先日、「FOOL'S MATE」という月刊誌が、刊行休止となりました。
(正確には、「月刊誌という形態を一時的に止める」とのことです。詳しくはリンク先をご確認いただきたいと思いますが、本エントリではとりあえず「休止」との言葉で統一します。)

FOOL'S MATE OFFICIAL WEB

本誌読者の皆さまへ

「FOOL'S MATE」は、主にヴィジュアル系のアーティストを取り上げる音楽雑誌です。
(少なくとも、私にとってはそうです。昔はそうではなかったことを、上記のリンク先で初めて知りました。)

私は長年この「FOOL'S MATE」を読んできましたので、休止を知った際には様々に考えることがありました。
本エントリでは、そんな私の「音楽と雑誌」への思いをつづっていきます。

今回はそんな話です。


「FOOL'S MATE」


いわゆるヴィジュアル系と呼ばれる文化は、基本的には日本にしか存在しないものです。
近年では、ヴィジュアル系アーティストが海外へ進出し、そこで喝采を持って迎えられることも多くなっています。ひとつ、ヴィジュアル系は日本人として世界に誇れるものなのです。

「日本のヴィジュアル系」は、その発展の歴史のうちかなりの割合を雑誌に依ってきました。
そして、日本でのヴィジュアル系雑誌の二大巨塔と呼ぶべき存在が、「SHOXX」と、件の「FOOL'S MATE」なのです。

それでは、なぜヴィジュアル系にとって雑誌は重要なのでしょう。
これを考えるところに、私の「音楽と雑誌への思い」があります。

雑誌には、例えば、近々アイテムのリリースがあるアーティストに、それについてのインタビュー記事が載ります。
そこで、アーティストはその作品にこめた気持ちやメッセージ、こだわりの部分などを大いに語ることができます。アーティストは普段は楽曲を作っているだけですので、それについて語ることができる場はとても重要です。

また、ヴィジュアル系の楽曲は、世界観やストーリーが想像を絶して壮大であることが往々にしてあります。「想像を絶して壮大」とはずいぶんと大仰な表現ですが、きっと、ヴィジュアル系界隈に詳しい方なら同意していただけると思います。そうでない方は、とにかくものすごく壮大だと思っていただければよいです。「これ音楽だよね?」というくらいです。
これに関しては、語れる場がないことにはもはやどうしようもありません。

そして、そういった長くて複雑な話が、おそらく、プロのインタビュアーさんやライターさんの手で文章にされ、編集の方が校正するのでしょう。詳しくは私も知りませんが、文章や紙面作りのプロの方が、アーティストの思いがきちんと伝わるようにしておられるのは間違いありません。
重要なのはこの、「文章や紙面作りのプロの方」がやっているというところです。自分でブログ等を書くアーティストもたくさんいますが、情報として、それとはまったく別のものなのです。

文章だけではありません。ヴィジュアル系のアーティストにとって、アー写と呼ばれる写真は、音楽に負けないくらい大事なものです。
こちらにも、プロのスタジオやカメラマンさんが登場してくるわけです。
さらには、アーティストは、アー写の雰囲気についてなどは自分たちからもアイデアを出したりするようです。自分たちが掲載される数ページを、全力で、共に作るということです。

彼らにとって、雑誌に掲載されるインタビューは立派なひとつの「表現」なのです。
そして、雑誌の人は、プロとしてそれを伝えてくれます。

これが、私の「音楽と雑誌への思い」です。

(ヴィジュアル系ほどではないかもしれませんが、)他のジャンルであっても、
  • 「音楽の情報」の姿をした「アーティストの表現」を、
  • 「アーティストの表現」の姿をした「音楽の情報」を、
伝える媒体として雑誌は最強です。これは、何かと比較したら雑誌の方が良かった、といったことではなく、絶対的に雑誌しかありえないのです。


電子版


そうは言っても、「FOOL'S MATE」は休止となってしまいました。
やはりと言いますか、何と言いますか、次に期待をかけるのはウェブサイトだったり、電子版の雑誌だったりするわけです。

現状、(紙の)雑誌ほどのポテンシャルを持ったウェブサイトは、私には見つけられていません。
先述したように、「FOOL'S MATE」などはアーティストからも信頼を置かれ、掲載される側もこだわりを持つような雑誌です。
(「FOOL'S MATEだから言いますが、」というインタビューを何度も読んだことがあります。)

数多ある(だろう)「音楽情報サイト」たちの中で、それほどの存在になっているものがどれだけあるのか私にはわかりませんが、少なくとも、私が紙の雑誌程度の満足を得られるようなところには、いまだ出会えていません。

あるいは、ウェブサイトは基本的に無料で読めるのが問題なのかもしれません。
その意味では、「cakes(ケイクス)」のような仕組みで音楽情報を発信できるような場所があると、良さそうな気がします。

それから、雑誌の電子版についてです。
アプローチには、
  • 紙で刊行されている雑誌を電子化
  • 電子版オリジナルの雑誌
の二つがあるでしょう。

前者に関しては、ぜひ電子化が進んでほしい、としか私には言えません。残念ながら、私が読みたい雑誌で電子版が販売されているものは見つかりませんでした。今後に期待です。

後者については、最近「ERIS」という電子の雑誌を知り、購読を申し込みました。

音楽雑誌「エリス」 | 音楽は一生かけて楽しもう

無料で購読できますので、音楽好きの方はチェックしてみると良いかもしれません。私もこれから読みます。楽しみです。

とはいえ、無料ではなかなか続けるのも大変な気がしますし、ここはひとつ、有料で良質な電子版雑誌が登場してくるのに期待したいと思います。


終わりに


こうして見ると、まだまだ情報が足りていない部分はたくさんあるのだなと、改めて思います。

2012年12月24日月曜日

気持ちは負けているのに

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ことわざで、「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」というものがありますが、常々、これほど言いにくいことわざが他にあるだろうかと思っています。私の抱く、ことわざとは語呂が良くて言いやすいものである、とのイメージに適合しないのです。
もし対抗馬を挙げるとするなら、「青は藍より出でて藍より青し」で間違いないでしょう。私の中では、この二つが非常に強いです。
もちろん、「色即是空、空即是色」などが言いにくいのは明らかではあるものの、私の感覚では、なんとなくそれは対象外になっていたりします。

ところで、ことわざで思い出しましたが、「花いちもんめ」という遊びがあります。

はないちもんめ - Wikipedia

おそらく、多くの方がご存じのものと思います。
すごく大雑把に言うと、二つのチームの間を人が動いていき、どちらかのチームの人がいなくなると終了になる遊びです。上記のリンク先によると、地域によってかなりバリエーションがあるようですが、基本的なルールには差はないはずだとして、話を進めます。

私は幼い頃、この「花いちもんめ」の遊びが苦手でしかたありませんでした。小学校の低学年、あるいは小学校に入学する以前のことだったでしょうか。休み時間に「花いちもんめ」を始める流れになると、とても憂鬱だったことを思い出します。いえ、当時は「憂鬱」などという字は書けませんでしたので、「とても憂鬱だった」は嘘になります。だいたいそのような感情、くらいにしておきます。

私が「花いちもんめ」を苦手に感じていた理由は明らかです。
この遊びは、両チームの人がいろいろと入れ替わることで進行していき、最後の一人がいなくなった時点で終了となります。直感的に、誰もいなくなった方のチームが負けになるわけです。
ですが、「誰もいなくなったチームが負け」なのですから、「負けて、残念だ」と思う人は結局誰もいなくなります。勝ち負けを決めたはずなのに、負けた人がいないのです。

とはいえ、負ける人がいないだけでしたら、そういうものだと思えばさほど気になりません。

問題なのは、後ほど負ける側のチームにしばらくいて、終盤に、勝つ方のチームに移動してきた人の気持ちです。
極端に言えば、負けチームの最後の一人になって、自分がじゃんけんで負けたためにゲームが終了となった人のことです。

最後の一人であろうと、初めからずっと負け側のチームにいようと、さらにはその負け側チームにどれほど思い入れがあろうと、その彼(彼女)は最終的には勝ちチームのメンバとしてゲーム終了を迎えるわけです。

つまり、彼(彼女)は勝者であり、喜ぶべき立場になります。

私が苦手だったのは、この部分です。
私は、負けたのだから素直に悔しがりたいと感じていました。心情としてはどう考えても「負け」なのに、「勝った」ような顔をして周囲の人と喜びを分かち合わなくてはいけないのです。

要するに、負け側のチームにいた人はどこかで一度は所属を変えていますので、自分がどちらのチームにいるのかはっきりしなくなってくるのです。

これがもし、例えば「ずっとチームを移動しなかったら勝ち」などといった、もう少し「チームへの所属感」があるようなルールになっていたら、私の苦手意識もなかったはずです。
(この例だと別の問題が発生しそうですが、あくまで例です。)

この例のような構図なら、いくつかの場所で見かけることがあります。
「経済の奇跡」の頃の西ドイツがトルコなどから労働者を呼んでいた様子などが、ちょうどこれに重なるでしょうか。

しかし、「花いちもんめ」はそれよりさらに複雑になるのです。
勝った方のチームにずっといたように見えても、実はゲーム序盤で移動していたのかもしれません。二度、三度と移動していることも考えられるでしょう。
私には今のところ、この状況を見いだせそうな他の場所が思いつきません。

無理矢理やろうとすれば、例えば、本当は負けているのに、勝ったような顔をして喜ばなくてはいけないというところから、自分の気持ちにそぐわなくても周囲に合わせなければいけないこともあると、ここで学ぶのかもしれません。

これはあまり楽しくない解釈です。

前向きに考えるなら、例えば、どこに属するかはさほど重要なことではないこと、属する場所は変わっても構わないことが学べるでしょうか。
こちらは(「前向き」の定義にもよりますが)、どちらかと言えば前向きな見方と呼べなくもありません。

ただもちろん、「花いちもんめ」から無理に何かを読みとる必要はまったくありません。多くの方にとっては、別に放っておけば良いことです。
ですが、私の場合は幼い頃にそれで苦労をしていますので、せめてそこから何かを学んだことにでもしないと、納得がいかないわけです。

今のところはこれといった解釈が思いつきませんが、何とかこじつけてでも、学べたことを見つけてみます。

ことわざで言うと、「鰯の頭も信心から」です。
私の好きなことわざの一つです。


終わりに


そして、大変言いやすいことわざです。

2012年12月23日日曜日

紙のような書籍

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先日、ソニーの電子書籍端末「Reader PRS-T2」を購入したとのエントリを書きました。それからしばらく経っていますが、これまでのところ非常に気分良く使えています。
私にとって、俗に言う「電子インク」で文字を読むのは初めての経験になりますが、ひょっとすると紙よりも紙らしいのではないかと思うほど、違和感なく読書することができています。

こちらの記事で、次のような言及がありました。

紙書籍・電子書籍関連の気になるニュースまとめ(12月10日~12月16日) - 見て歩く者 by 鷹野凌 -
汎用端末だと、例えばメールのお知らせやらなんやらで、本への没入を妨げられてしまうという感じがします。専用端末だとめっちゃ読書が捗る。だからやっぱり、専用端末は「本読みのための端末」なんだと思います。
読書に集中できるため、本を読む人ほど、(タブレット等ではなく)電子書籍専用端末を買うのが良いだろう、との意見になっています。
本エントリでは、私もその意見について考えてみたいと思います。

もう少し正確に言うと、私も同様に「本好きの人ほどそれを利用するのが良い」と思っているのですが、その私なりの根拠を明らかにするつもりです。

今回はそんな話です。


専用端末


今より少し前の時代には、電子書籍について、ある主張を目にすることがよくありました。
それは、電子書籍では「そこにモノがある」との実感が得られない、ひいては読書の楽しみを感じられない、といった趣旨のものです。
さすがに、近頃はそのような話を聞くこともなくなりましたが、ある短い期間には、私もそのように考えていたこともありました。

私の場合、その考えはいつの間にかなくなって、電子書籍を支持するようになりました。つまり、別に「モノがある実感」がなくても、読書は楽しめたというわけです。

しかし、この度はそれに加えて、また違う感情を持つようになりました。
私は、電子書籍専用端末を使い始めてから、電子書籍に対しても「モノがある実感」を覚えてきているのです。

これについては、ある重要な指摘があります。

『街場の文体論』との書籍に、次のような文章があります。
引用いたします。

街場の文体論(内田樹)
電子書籍は「買い置き」をしておく必要がない。読みたいと思えば、いつでも買える。電子書籍では「積ん読」ということが起こらない。そんな必要ないから。
電子書籍と紙の書籍を比較した箇所からの一文です。
電子書籍の制度からして、そこでは、買った本が読まれずに置いておかれるということが発生しないと述べられています。

私が言及したいのはこの部分です。
というのも、引用のような納得のいく主張があるにも関わらず、私は現状、電子書籍での積ん読が発生しているのです。

このことを考えたときに、少し上で述べた考えに至りました。つまり、私は電子書籍に対しても(紙に対してのそれと類似の)「モノとのしての実感」を感じていることに、です。
すなわちこのことは、私が電子書籍での「積ん読」を発生させていることが、『街場の文体論』で展開されている論を否定する類のものではないことが言えます。『街場の文体論』で「電子は、紙は、」との分類をはっきりさせて話が進んでいる一方、私にとってはその境界が少なくなって、「紙」の話が「電子」にも当てはまってしまっているのです。

これによれば、電子書籍の「積ん読」が起こる理由は、基本的には紙でのそれと同じものが使いまわせるわけです。
それは、本を買うときの私と読むときの私が別人だからかもしれません。あるいは、数字的に絶対に読み切れないほどの本を買っているためかもしれません。きっと他にもいろいろあることでしょう。

話は逸れますが、「別人」に関して、下記のような記事を読みました。引用いたします。

ライフハック心理学 » 別人問題は同一人物問題
たとえば早朝になると決まって同じ「やつ」が現れて、一昨日と昨日と同じく今日も「二度寝したい!」といって聞かないわけです。しかもこの「二度寝したいやつ」はいつも決まって早朝だけに現れるのかもしれません。
大変興味深く感じました。
こちらのお話に則れば、「本を選ぶときに決まって登場してくる私」と「本を読むときに決まって登場してくる私」がいるわけです。

私の場合は、この二人はわりと仲が良く、考え方もだいたい同じ方角を向いているように思います。多少「本を選ぶ私」の方が自分の使える時間を多く見積もってしまうきらいがありますが、それも許容範囲と言える程度です。
結果として、私の「積ん読」はそれほどの量には至らずに済んでいるのかもしれません。

話を戻します。
私が電子書籍にも「モノとしての実感」を感じ、紙の書籍との境界が小さくなってきたために、電子書籍でも「積ん読」が発生しているとの話でした。

ですが、ここにはある重要な条件があります。

私が電子書籍に対して「モノとしての実感」を感じるのは、今のところ電子書籍専用端末に格納されているものだけなのです。
ソニーのReaderを使用し始める以前にも、私はiOSのアプリから電子書籍を購入して読むことが幾度かあり、またそれらはいまだに私のiOS端末に保存されていますが、そこではそういった実感を得ることはありません。
ここでの差異をもたらしているものは自分でもわかりませんし、その感覚は時とともに変わっていくようにも思います。とりあえず、現状ではこのとおりです。

そして、冒頭の話に戻ります。
私にとって、「本好きの人ほど電子書籍専用端末を買うのが良い」のは、購入した書籍に対して「モノとしての実感」が得られるためなのです。


終わりに


それにしても、「紙の書籍」とは味わい深い日本語です。

2012年12月18日火曜日

「デザインするメモ帳」概観

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こちらの記事を読みました。

「超」文具HACKS!: DIME×abrAsus デザインするメモ帳開封の儀

「デザインするメモ帳」という製品のレビューがされています。
商品ページはこちらになります。

[DIME×abrAsus]デザインするメモ帳|小学館PALSHOP

こちらの記事も参考になります。

「超」文具HACKS!: 2012年12月の #筆箱定点観測

私は、一つめの記事を読んだ瞬間から、この「デザインするメモ帳」が欲しくてたまらなくなりました。
寝ても覚めても「デザインするメモ帳」のことが頭から離れず、少しでも情報を集めようと、暇さえあればキーワード検索を試みていました。

ところが、関連する情報がさっぱり見つからないのです。
まだ発売して間もないからなのか、私の探し方が悪いのか、原因ははっきりしませんが、とにかく見つかりませんでした。

ここで思い出したのは、こちらの記事です。

シゴタノ! ネットにはまだまだ情報が足りないと思うからもっといっぱい情報が溢れると嬉しいって話

引用いたします。
ちょいと考えてみると、まだまだ「ネットで見つからない」ことなんて世の中にいくらでも存在しています。 
インターネット上にはもはや既に「無限」の情報があるんだけど、それでもまだまだ「足りない」と思ってます。
今回、このことを身をもって知りました。

さて、ふと考えをめぐらせると、情報を探すことに費やしている時間が、そろそろ無視できない程度になってきていることに気づきました。

これに気づいてしまうと、購入を思いとどまるのが難しくなってきます。

いろいろ言いましたが、先日「デザインするメモ帳」を購入しましたので、本エントリではそれをご紹介いたします。

外観は上の写真のようになっています。
外観そのものは、冒頭でご紹介した商品ページでも確認できますが、手で持ったサイズ感が伝わればと思い、写真を撮ってみました。いわゆる、手帳サイズになるかと思います。

そして、実際に、中に文房具類を配置した様子が次の写真になります。


モレスキンのポケットサイズをメインに据え、必要なものを周辺に配置した形になりました。

左上に見える丸いものはマスキングテープです。マスキングテープはゴムバンドで固定しないようにしました(次の写真も参照していただけるとわかりやすいと思います)。
同じく左上に見える白くて四角いものは、名刺サイズの情報カードです。こちらはゴムバンドで留めています。
モレスキンの左手には、ジェットストリーム4+1(0.7mm)と、ジェットストリーム黒(0.5mm)をセットしています。
モレスキンに隠れて見えるのは、『日経ビジネスアソシエ』(2012年11月号)の付録である、付箋ケースです。
そしてモレスキンの右手には、No11.とNo.10のロディアをそれぞれ配置しています。上部にあるNo.11のロディアは、メモ帳をはさむ箇所に差し込んでいます。
一方のNo.10のロディアは(一応「メモ用スリット」なる箇所に挟んではいますが、)マスキングテープで固定しています。上の写真からは読み取れませんが、「デザインするメモ帳」自体にNo.10のロディアをきちんと固定できるようなものはありませんので、そこはご注意いただきたいです。

モレスキンは、次の写真のように、表紙部分をゴムバンドで固定しています。


ゴムバンドに固定したままだと下がでこぼこしますが、ハードカバーのモレスキンですので、まったく問題なく書くことができます。
もちろん、モレスキンを横に引き抜いて使うこともできます。
また、マスキングテープはこのように自由に動かせるようにしています。

私の使い方については以上です。ちなみに、ゴムバンド等は私は何本も余っています。


使ってみて


一週間ほど、この「デザインするメモ帳」を使用しています。

多くの方と同様に、私も、一冊のノートだけでは様々な作業を進めることができません。そのため、こまごまとしたものをたくさん持ち運ぶ必要が出てしまうわけですが、その際に「デザインするメモ帳」は非常に都合が良いです。

これ一つ持ち歩いて、ぱっと開けば自分の作業空間が一瞬で構築でき、ぱたんと閉じれば片付ける手間もかかりません。
今のところ、とても気に入って使っています。

以前のエントリで、ポメラとSony Readerで何か「揃った」気がする、といったことを書きましたが、「デザインするメモ帳」を手に入れてみて、そこには手書きのノート類がなかったことに気づきました。

これで、完全に揃ったと思います。


終わりに


「作業空間が持ち運べること」にときめくのは、どういった感情なのでしょう。
まったくの想像ですが、これはわりと普遍的なものなのではと思っています。

2012年12月17日月曜日

Yはロジカルでない

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有名だと思っていたのですが、あまり目にすることがないのでひょっとするとそうでもないのかもしれない、という話があります。
せっかくですので、それが有名でないものとして、本エントリで説明を試みてみます。さしあたって、この話が私のオリジナルでないことを表明しておきます。

選択と、世界の分岐についての話です。

話には、背理法が用いられます。

前提はこうです。
「世界がはじめ一本線で進んでいたとき、ある選択を境に世界は分岐する」、さらには「仮にA、Bという選択があったとするなら、Aを選んだ世界とBを選んだ世界に分岐する」です。

もう少し細かくすると、A、Bの選択肢はどちらか一方しか選べませんので、(ここでAを選んだなら)「Aを選んだ世界」と「Bを選んだとしたら発生していたはずの世界」の二つに分岐して、Bの方は想像するしかない、との話になります。

平たく言うなら、何かしらの選択をしたとして、「あのときあっちを選んでいれば、ああだったのになあ」と嘆いているような状況です。

だいたい、状況はつかんでいただけたかと思います。ここまでが前提です。
そして、背理法ですので、この前提に従って話を進めると妙なことになるわけです。

一本線で進んでいた世界が分岐するわけですので、アルファベットの "Y" の字を使って説明するのが良いでしょう。 "Y" の下から上に向かって時間が進んでいき、二股に線が分かれるあたりで何かの選択があって、そこから世界が分岐するわけです。
「コーヒーを飲もうか、紅茶を飲もうか」との選択を迫られたとすれば、「コーヒーを飲んだ世界」と「紅茶を飲んだ世界」に分岐するはずだということです。なお、以降はコーヒーを飲むことを選択したとして進めます。

ここで、 "Y" の字のちょうど分岐点上では、まだ世界は分岐していないことを確認しておきます。分岐するのは、分岐点を過ぎてからであり、この分岐点上で何かが起こったわけです。
当たり前のようですが、重要な確認です。

問題なのは、その点で起こったことは何か、です。

分岐点の上で、「コーヒーを飲むという選択」が起こっているはずはありません。点の上ではまだ世界は分岐していないのですから、その時点ではコーヒーも紅茶も選んでいないはずです。
「コーヒーを飲むという選択」は、 "Y" の線が分かれた後のどちらかの線上にあるわけです。言うなればコーヒールート上です。

であるなら、分岐をもたらしているのは、まさに分岐点で起こっているのは、何でしょうか。
「コーヒーを飲むという選択をするという決断」でしょうか。しかし、それもすでにコーヒールートに入ってしまっています。
以降、選択に至る過程をどんなに細かくしていっても、ちょうど分岐点の上で起こっていることは明らかになりません。

あと取り得る可能性としては、「コーヒーを飲むという選択」が分岐点よりも前にあるパターンだけです。
ですが、これが良くないのは明らかです。分岐点より前はまだ世界が分岐していませんので、コーヒーも紅茶も選択されないのです。

ここまでで、場合はほぼ尽くしたかと思います。

これを満たすような解釈は、現状二つしかありません。

一つは、はじめから書いていますとおり、背理法を用いるパターンです。つまり、すべての場合で矛盾が生じたため、前提である「ある選択によって世界が分岐する」が誤りであったとするわけです。
これはすなわち、世界はずっと分岐などしなくて、別の選択をしていればあり得たかもしれない世界など、決して存在しないことになります。

もう一つは、少し上に書いた「分岐点上で起こったことは何か」に着目するパターンです。先ほどは「分岐点上」で発生したことが判然としないために、論理が破綻に至っていました。
これを成立させる解釈は、世界を分岐させる点の上では何も起こっていない、というものです。
ここでは、分岐した別の世界が存在することは否定しませんが、そちらのルートに入らなかったのは「自分が紅茶を選ばなかった」ためではまったくなく、単なる偶然であることになります。
自分の選択は、自分の未来を決定していないわけです。

まとめると、論理的な結論として、二つの言明に行き当たりました。
  • はじめからおわりまで、世界は一本線しかない
  • 分岐したとしても、それを分けたのは偶然であって選択ではない
直感には反しますが、論理的にはこう言わざるを得ないわけです。

とはいえ、それはそれとして、私たちはこの言明をどう受け止めるかを考えることができます。

個人的には、上の二つの言明はわりと悪くないと感じます。
この話があるから、何か決断しなければならないときに、(もちろん良い選択のために努力はしますが、)過度に悩まずにいられるのです。

逆に、これらの言明を悲観的にとらえる方もいらっしゃることでしょう。

ただ、生きていく上で、論理がどんなに違うと言っても、直感の方に従ってしまって構わないことはたくさんあります。たぶん、論理的であることがすごく偉いわけではないだろうと、私は思うのです。

論理的でも、そうでなくても良くて、そこには選択の余地があるわけです。


終わりに


せっかくですので、今日は紅茶を飲む選択をしようと思います。

2012年12月16日日曜日

十年も続くこと

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今から十年ほど前に、当時から音楽が好きだった私は、ある主張をどこかで目にしました。
それは「ボーカリストがどんなに感情をこめて歌っても、それが作詞家などの本人以外による作詞であるなら、説得力という意味では、自分で作詞して歌うボーカリストには絶対に及ばない」といった趣旨のものです。

こと「歌とその歌詞」の関係に限れば、私の気持ちは十年前から一貫して「そんなことはないだろう」です。
つまり、他の人が作った歌詞を歌う人が、負けないくらいの説得力を備えていることはそう珍しくなくあると思うわけです。もう少し言うなら、歌の説得力の有無は、歌う人が作詞したかどうかには特に依存していないような気もするのです。
(音楽に説得力が必要かどうかは、また別の話であるとしておきます。)

歌に関しては、私の中ではここまでの話で納得いっています。
他方で、冒頭の説得力に関する主張は、さらに大きな問いかけを私に与えることになりました。
すなわちそれが、「当事者」と「説得力」の関係についてです。

今回はそんな話です。


当事者と説得力


この、「当事者と説得力」との言葉が指しそうな範囲はかなり広くなりそうですので、上述の歌と歌詞の話のように、例を挙げることにします。その場合、まずは「説得力」との言葉を定義する必要があるのでしょうが、今回は気にせず始めてしまいます。

ビジネス書を読むときのことです。
以前、「作家ではなく、成功した社長などが自身の体験をもとにして書いたビジネス書を読むことにしている。その方が説得力があるからだ」との主張を目にしたことがあります。
これを見たとき、私にはそのような視点で本を選ぶ発想がまったくありませんでしたので、とても驚いたことを思い出します。そして、確かに筋は通っており、なるほどとも思いました。

しかし、ここで疑問がわいてきました。
「成功した社長が書いた文章の方が説得力がある」との主張を、どうして私は「筋が通っている」と思ったのでしょうか。

その主張を受けてここで真に考えるべきは、文章により説得力があるのは社長と作家のどちらなのだろうか、になることでしょう。「その方が説得力があるからだ」と言われているわけですので、本当にそうなのかを考えるのが自然な流れになるわけです。
(例によって、そもそも本の文章に説得力が必要かどうかはまた別の話です。)

ですが私は、そこにたどり着く前に、別のところで立ち止まってしまいました。
私が何をもってそれを「筋が通っている」と感じたのか、疑問なのです。これはもう、完全に個人的な話ですが、これを明らかにしないと本題に入れませんし、とても大事な疑問である気もします。

この疑問はつまり、「説得力の所在が、どこであるように思えるのか」と言い換えることができます。「説得力の所在はどこか」ではなく、「どこにあるように思えるのか」、あるいは「どこにあることにするのが直感に反さないか」です。
これはちょうど、冒頭の歌と歌詞の話に対応するかもしれません。

ここでの答えとしては「自身の体験をもとにして、自分の言葉で語っていること」で間違いないと思います。語ることが自身の体験に基づいているとき、その言葉は説得力があることにすると、直感に反しません。

しかしながら、もう少しよく見てみると、これは妙な話に思えます。

一つ考えてみたいのが、社長が書いたことが明らかになっていない状態で文章だけを見たとき、説得力に変化はあるかということです。誰が書いたのかわからない文章を、ぱっと見せられたような状況を想像していただければよいでしょう。その状態であっても、その文章は社長が自身の体験に基づいて書いたものであることに変わりはありません。

こう言うからには、私の意見は「説得力の有無に変化がある」で、しかもそれは小さくなる方に変化すると思うのです。この話は、歌と歌詞の話にも同じように当てはまることでしょう。

ここまでで、自身の体験をもとにした文章だからといって、必ずしも説得力があるわけではないことが明らかにできたでしょうか。少なくとも、私がそう思っていることだけは言えたと思います。

これは裏を返せば、説得力を持つために自身の体験は必須ではないとも言えます。
残念ながら、結局、説得力を持つために必要なものについてまで、すなわちビジネス書作家の説得力についてまでは行き着きませんでしたが、個人的には悪くない結論になりました。

当事者でないことだからといって、説得力が生まれないわけではないのです。

さて、はじめの方で述べたとおり、この「当事者と説得力」が指す物事の範囲は大変に広くあります。ここまで述べてきたビジネス書の話も、ほんの一例です。
そのため、すぐ上の一文は、私の中で非常にたくさんの意味を含んでいたりします。

それから、私は説得力とはまったく別の理由から、社長が書いたような本を読むことがほぼありませんので、ものの見方が偏っている可能性は否定できません。

大雑把なことを言うなら、私は作家さんが書く本の方が好きです。


終わりに


本エントリを一歩引いて見ると、実は何も言っていなかったりします。
ですが、これをお読みいただいた方が、説得力の所在について少しでも思いを馳せることになるなら、私は嬉しく思います。

私にとってはもう十年来の疑問ですので、簡単に結論が出ない、難しい話なのです。

2012年12月14日金曜日

熱くなる心の冷静

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少し前になってしまいましたが、こちらの記事を読みました。

僕の憧れのギターヒーロー5人紹介します #mycoolGuitarist | delaymania

記事タイトルのとおり、「憧れのギターヒーロー」が紹介されています。

さて、本ブログの右上部分には「シンセサイザー」や「テクノ」との言葉が掲げてあるものの、ギターヒーローに熱くなる心なら私も持ち合わせています。

ですので、本エントリでは私の憧れのギタリストをご紹介させていただこうと思います。

今回はそんな話です。


ギタリスト


早速紹介していきます。ちなみに敬称略です。
また、各人のすごさがよく伝わるような楽曲も一つ選んでいくことにします。

***

Ruiza (D)

一人めは、DのRuizaです。
「メタル寄りのソロ」とはこのRuizaを評してよく言われることで、実際、ヴィジュアル系らしいハードロックな曲調からメタルなソロに繋ぐ様は圧巻です。
それに加え、Dは楽曲の触れ幅がかなり広くなっており、そのすべてを当然のように牽引しているのは、本当に驚きです。

一曲は、「闇の国のアリス」を選びます。

D - 闇の国のアリス (Yami no Kuni no Alice) PV - YouTube

リフの重さと、ソロへの展開が素晴らしいです。

***

招鬼、狩姦 (陰陽座)

いきなり二人同時紹介になってしまいました。しかし、どんなに悩んでも一人ずつの紹介ができなかったのです。陰陽座はメタルバンドということもあり、ユニゾンやソロの受け渡しが多いこともその理由でしょうか。

正しいのかはわかりませんが、何となく、招鬼はダブルネックギター、狩姦はライトハンド奏法のイメージがあります。あくまでイメージです。

一曲は、「組曲「九尾」~玉藻前」を選びます。

陰陽座 - 組曲「九尾」~玉藻前(Audio Only) HQ Sound - YouTube

もっと派手なツインギターが炸裂する曲は他にたくさんありますが、私はこの曲のギターが大好きです。
特に、リフ(おそらく招鬼)と、ラストのサビの後ろで暴れるギター(おそらく狩姦)と、そこから再度リフに受け渡される箇所が、個人的には聞きどころです。

***

ユアナ (boogieman、蜉蝣)

元蜉蝣で、現在はboogiemanのユアナです。
私は長いこと蜉蝣のファンですので、「蜉蝣のユアナ」のイメージが強いです。もちろんboogiemanも大好きなバンドですので、単に期間の問題でしょう。

ユアナは、ここまでに挙げたギタリストとは系統が異なり、あまり派手なソロを弾いたりはしません。そのため、「ギターヒーロー」の語感からは離れるようにも思います。

一歩下がるところは下がる、といった感じです。
蜉蝣はギター一本編成のバンドですので、そうして、少ない音で全体を聞かせています。ヴォーカルを立たせる意図もあることでしょう。
boogiemanはギター二本編成ですが、やはり爆音のリフを重ねたりせず、二本で絡みながら全体を形作ります。
どちらにせよ、随所に「凄いなあ」とため息の出るようなプレイを挟み込んできます。

一曲は、蜉蝣から「黒髪のアイツ」を選びます。

Kagerou - Kurokami no aitsu - YouTube

ヴォーカルとの兼ね合いが見事です。

余談ですが、久しぶりに動いている大佑を見たら泣きそうになりました。

***

ナオ (heidi.)

最後は、heidi.のナオです。
heidi.もギター一本編成であり、しかも、音使いや曲調でわかりやすくバリエーションをつけることが少ないバンドです。
それらが「似たような曲」になっていないのは、ナオの力が大きいと思います。
音色や編成に制限される中で、様々なリフやフレーズのアイデアが飛び出してくるのです。

昔どこかのインタビューで、ナオは音作りをエフェクターに頼らず、ギターとアンプの調整でやっている、との話を目にしました。
昔の記憶ですので真偽のほどは定かではありませんが、しかし、ナオのプレイの様子がよく伝わる話だと思います。そういうギタリストだ、ということです。

一曲は、「シンクロ」を選びます。

[PV] heidi. - Synchro - YouTube

超絶テクニックではないかもしれませんが、珠玉のリフとフレーズです。


終わりに


「ギターヒーローに熱くなる心」と言って本エントリを始めましたが、後半は、冷静に一歩引いて全体をデザインできるギタリストの話になってしまいました。
どちらも好きです。

2012年12月9日日曜日

千年も後のこと

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こちらの記事を読みました。

7年使える「セブンイヤーボールペン」なら"ありがとう"が43435回書ける : ライフハッカー[日本版]

43435回も、「ありがとう」と書けるようです。

まず、私はこの記事のタイトルを見たとき、「43435だと…5で割ったらおしまいかな」と思いました。おしまい、というのはつまり、5以外の数では割れない、あるいは5で割った後は他の数で割れない、との意味です。
もちろん、前者はそのまま約数の話ですから、5と対になる数でも割れることになります。今回で言うと8687です。ですが、記事タイトルを見たときに「おお、43435は8687で割れるな」とは思いませんでしたので、先の「5以外の数では割れない」との表現になっています。

3で割れないことはすぐにわかりますので、5以外は厳しいのかな、と思うわけです。

そして、記事を読んでいくと、次のようなことが書いてありました。
文字の長さを定規で測ってみると約10cm。つまり1日17回、7年間で43435回くらいの「ありがとう」になります(曲線も含むので、あくまでだいたいですけれど)。
驚きました。
これはつまり、43435は7でも17でも、さらには365でも割れたということです。
自分の考えの至らなさに気づかされましたが、それと同時に、素因数分解の難しさも感じました。

ここでの「難しい」は、日常で使うそれとは少し趣が違い、「構造的に困難である」といった意味です。平たく言えば、「どうしようもない」「がんばってもどうにもならない」とでもなるでしょう。
(正確には「がんばるしかない」かもしれません。)

数学、広く言えば理系にはこういった、日常の言葉なのに、その意味しているところが少し異なっているようなことがたまにあります。この世界に興味のない人でも、その「言葉の意味が違って面白い」くらいは感じてもらえると良いなと、常々思っています。
別に面白くなくても、ある人がある言葉で伝えようとしたことが、受け取る側で違ってとらえられることはよくある話ですので、注意は要るかもしれません。

さて、日常といえば、私たちの日々の生活は素因数分解が難しいおかげで成り立っています。
それが何のことかをここで述べるのはとても大変ですので省略しますが(私も調査の必要があります)、ここでは、暗号の話です、とだけ言っておきます。

素因数分解ですとか、その周辺のことを研究する分野は、整数論(数論)と呼ばれます。その名の通り、数の様々な関係についてが研究され、かなり歴史のある分野です。

他方、暗号を研究する分野も、整数論とは別にあります。
こちらも歴史のある分野ですが、少なくとも、整数論の知識が絡んできそうなときには、すでに整数論はありました。
要するに、暗号論では整数論の知識を流用できる状況にあったわけです。

この部分に、一つ有名な話があります。

整数論は長い間、何の役にも立たない分野として有名でした。ただ面白いからやっているだけ、な研究の代表だったのです。

ですが、整数論の研究がたくさん進んだ頃、その知識が暗号論で活かせることがわかりました。上でも述べたとおり、それは現在の私たちの生活を強く支える知識です。
つまり、役に立たない研究の筆頭だった整数論が、なくてはならない研究に突如変身したのです。

非常に興味深い話です。
何より一番気になるのは、自分たちの研究に実用性があると知ったとき、整数論の人たちは嬉しかったのだろうか、とのことです。
直感的に言えば、嬉しくないはずはありません。自分たちの研究が、世界のためになるのが判明したわけです。私には想像しがたい衝撃があったと思います。

しかし、整数論の研究とは、ともすると紀元前からあるような代物です。一方の暗号論はというと、整数論が明確に関係しだしたのはせいぜい1970年代頃でしょうか(暗号論自体はもっと昔からあります)。
当然「自分の研究が世界の役に立った」ことを知らないまま亡くなってしまった研究者も数多くいるわけです。

ここに、私は語る言葉を持ちません。
具体的に学べることもありません。

例えば、「一生懸命やっていれば、今はわからなくても、いつかは何かの役に立つ」ことが学べるかもしれません。
ですが今回の話では、「一生懸命やる」も「いつかは」も「何かの」も、想像を絶するレベルのものです。
研究者は人生を賭けて整数論を研究していますし、役に立ったのは1000年も後ですし、役に立った対象は世界の人々なわけです。

そんな研究者たちは、自分たちの研究が役に立つと知って、どれほど嬉しかったのでしょう。あるいは、嬉しくなかったのでしょうか。知らずに亡くなっていった研究者は、それを知ったらやはり嬉しかったのでしょうか。

私には、思いを馳せることしかできません。

ただ、一つ言えることがあります。
本エントリは、理系のある狭い分野のお話でした。興味のない方も多いことでしょう。
しかし、ここで私が感じた言葉にならない感覚や、馳せる思いだけは、どんな人にも伝わってほしい、抱いてほしいと思いますし、そうであると嬉しいです。

とはいえ、人がそれをどのように感じるかを私が操作することはできませんので、(その努力は可能ではあるものの)「伝わってほしい」というのは単なるわがままではあります。

「どうしようもない」ことです。
つまり、「難しい」話です。


終わりに


7でも割れることはすぐに気づきそうなものですが、なぜか思いつきませんでした。

2012年12月8日土曜日

損する選択

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どうも、私がお金を使っている対象が、周囲の人にとっては不思議であることが多いようです。これは具体的には、モレスキンだとか、各種ガジェットだとか、音楽CDのことを指します。
私が観測する世界ではこういったものにお金を使うのは珍しくないために忘れてしまいがちですが、なるほど、それを不自然に思う人は当然いるわけです。
これは、私もまた他者のお金の使い方を不思議に思うことがあるということを思い出せば、何も驚くことはありません。

ここで取り上げたいのはそれではなく、先述の、周囲の人に不思議がられる過程で、「よくそんなにお金があるねえ」と言われることが幾度かあることについてです。
周囲の人が私をどのように見るかは自由ですので、そう言われること自体は別に問題はありません。
(客観的に見てそんなはずがないことは、一応明記しておきます。)

ですが実際には、何か好きなものがあって、それについて詳しいおかげでお金がかからないような状況は、とても頻繁にあります。

ガジェットの類を例にとります。ノートPCの話がわかりやすいでしょうか。
私は、自分がPCをたくさん使うような生活をしていないとわかっていますし、マシンのケアの仕方などもいくつか知識があります。そのため、安いものを購入し、それを長く使うことができます。
この点で、「よくわからないから家電量販店に並んでいるものを買う」ような人よりお金がかかっていないわけです。

iPhoneなどもそうです。
好きな人にとっては、次の機種の噂はよく目にするものですし、新しい機種が発表されたときに、型落ちになってしまったものがかなり安く(正規で)販売されることも、いつも情報を追いかけていれば知っていることです。
そこで、「いつごろに新機種が出るから、そこで現行のものを買おう」とすれば、お金がかかりません。

モバイルWi-Fiルータを契約してスマートフォンのデータ通信をなくす、といった話も同様でしょう。

ともかく、ガジェットが好きで詳しいおかげで、お金がかからないような状況はよくあるわけです。
今回は私の実例に沿わせたために「ガジェットとお金」になりましたが、もちろん、ここに入れて成り立つ定数はいくらでもあります。

外食が好きでいろんなお店に詳しければ、(安いのに)満足のいく食事をとることができるでしょう。
様々な交通機関に詳しければ、目的地まで早く到達できるかもしれません。

いずれにしても、知識があることで、より多くのメリットを得られる状況の話です。

ところが、私が本エントリで書きたいのは、それの良さではありません。

ここまでの話を元にすると、どんなことに対しても多くの知識を持っている方が良い人生が送れるように思えますし、確かにそのような面があることも否定しません。
ですが、私たちの周囲を見回したとき、より多くのメリットが得られそうな情報は、それこそ数え切れないほどあります。それらのひとつひとつについて十分な知識を手に入れ、メリットが得られる選択をきちんと行うことは、不可能です。

ですので、実際には、どこかに線を引いて「知識がなく、メリットが得られない選択」をあえてしていく必要があります。
ここには、「お金を節約できる以上に時間がかかってしまう」など理屈はいろいろあると思いますが、私は単純に「きりがないから」だと思っています。

これは、自分が損をしていることを受け入れる必要があるため、多少勇気の要ることです。
そうは言っても、周囲には「得をしそう」な情報がありすぎますので、仕方ありません。きりがないのです。

だからかどうかはわかりませんが、私は、誰かが知識がないために損をしている場面を目にしたとき、(一応その知識くらいは伝えても)得をする選択をするように言ったりはしません。
もちろん、その人がそれを知りたいのなら全力で教えます。ですが、きっとその人は、私が損をしているような他の場面では、私より良い選択肢を持っていることでしょう。単に、「きりがない情報」に対する線の引き方が違っただけなのです。

結論めいたことを書くなら、自分の大切にしたいことを明らかにしておく必要がある、とでもなるでしょうか。

ちなみに、私はここで情報を発信することが悪いということを意図してはいません。誰かが発信した情報は、きっとどこかの誰かの役に立ちます。それに、この「周囲に、得をしそうな情報が際限なくある」状況は、きっといつの時代もそうだったのだろうと想像します。

さて、ここまでをすべて踏まえた上で私が考えるのは、たぶん、良くない情報に対してもこの話は当てはまるのかもしれない、ということです。

こちらは難しい問題になりますので、あまり具体的に物を言うつもりはありませんし、自分の中でも答えが出ていません。

しかし、こちらについては、「自分の大切にしたいこと」が明らかになっている人はきっと少ないでしょう。
それでいて、こちらの方が、「自分の大切にしたいこと」が強く効いてくるのかもしれません。


終わりに


最後はすいぶんあいまいな書き方になってしまいました。
もう少し悩んでみます。

2012年12月2日日曜日

決めつけられてそんな気も

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俵万智さんの歌に、次のものがあります。
一年は短いけれど一日は長いと思っている誕生日
有名な歌でしょうか。

すごく大雑把に見たとき、この「一日は長く、一年は短い」という感覚はわりと普遍のものでしょう。多くの方がうなずけるものと思います。

感覚自体は普遍でも、それを「思っている」のが「誕生日」であることについては、大層考えさせられるものがあります。何とも、言葉にならないものを感じるのです。きっとこれは、「一日は長く、一年は短い」感覚に同意しておしまいの歌ではないのでしょう。そのあたりについては、私も思うところはたくさんあれど、ここには書き記さずにおきます。

この歌については、もうひとつ、気になる点があります。
それを明らかにするために、Hysteric Blue の「カクテル」という楽曲から、歌詞を引用させていただきます。
一日をこんなに長く感じるのに
一年がこんなに早く過ぎてしまう
一年をこんなに早く感じるのに
一生をどんなにうまく生きれるでしょう
一見すると、先の歌と同じことを表しているように思えます。つまり、「一日の長さ」と「一年の短さ」との対比です。

ただ、私は、この「カクテル」の歌詞の方が、より自然な感覚に近いと思っています。というのは、「一日を長く感じる」ことの方が、「一年を早く感じる」ことよりも日常に頻繁にあるためです。

そのため、「一日が長いのに、一年が早い」と考えることになるわけです。
一方で、冒頭の俵万智さんの歌の方はそうなっていません。先に、「一年は短いけれど」と思っているのです。
このことと、先述した「誕生日」のこととを重ねて見ると、やはり書き記しはしませんが、いろいろと思うものがあります。

俵万智さんの歌について(とりとめなく)考えるのはこれくらいにしますが、後に掲げた「カクテル」の歌詞にも、無視できない部分があります。
歌詞を引用した最後の行、「一生をどんなにうまく生きれるでしょう」です。

先にも書いたとおり、一日と一年の長さについて比較した様子はあちこちで見かけます。対して、そこから一生について思いを馳せているのは、なかなか目にすることはありませんし、自分でも考えることはそうありません。

言われてみれば、当然考えるはずのことではあります。
つまり、一年が何が何だかわからないまま猛スピードで流れてしまうものであるなら、一生はどのようなものになるのだろうか、とのことです。
それを考えていくと、もし「一生を良く生きたい」と思うのであれば、一年が早く感じるのはあまり良い傾向ではないような気がします。

一年をゆっくり進めることについては、例えばこちらの記事で言及されています。

加速し続ける毎日を劇的にスローダウンさせる方法 | Lifehacking.jp

こちらの記事ではいくつかの「時間をゆっくり進める方法」が述べられていますが、その一つとして「手帳と向かい合う」ということが登場しています。
象徴的な箇所を引用させていただきます。
忙しくても、記録する量に比例して時間は遅く感じられるようになり、過去を振り返っても毎年の出来事が豊かに感じられるようになります。つまり「思い出せることが多い」ほど、時間は遅く感じられるという原理にいきあたったのです。
記録の量が多くなると、時間をゆっくり進められるとのことです。
私も、これにはとても納得がいきます。
個人的な感覚ですが、目に見える記録が積み重なっていると、それがあたかも時間の流れそのもののように感じられてきます。そこから、「時間が過ぎ去ってしまっていない」と思えるようになるのです。

以上を踏まえて、自分の状況を振り返ってみます。

私は現状、「一年が早く過ぎてしまう」と感じません。これは実感としてもそうですし、積み重なった記録を確認してもそうです。
2012年の1月ははるか昔のことに思えます。そして、それからいろんな経験をしてきて、たくさんのことができるようになりました。

ほっとしました。
私は今のところ、一生を良く生きられそうです。少なくとも、そのスタートラインには立てているはずです。

さて、それはそれとして、一つ触れておきたいことがあります。

上で、記録の量が多いほど記憶が豊かになって、時間がゆっくり流れる、といった趣旨のことを言いましたが、まさに記録している瞬間のことを考えると、これは順番が逆です。
すなわち、先に物事が自分の頭を通過して、それを記録するはずなのです。決して「自分」がないところ(つまり、記憶がないところ)に記録があったりはしません。記録は自分がするものなのですから、当然です。

(だからこそ、「ライフスライス」といった概念は面白かったりします。)

とは言うものの、こういった順序の入れ替わりは、ライフハックあたりが好きな人にとってはよくあることであり、そして、触れておきたかったのはここです。
今は記憶がないのに、記録を見ることでそれが想起されてくるような状況はわりとよくあって、そこに考えが至ると、たぶんわずかながら毎日が楽しくなります。少なくとも、私はそうです。

もう少し広く言うなら、今の自分の中になくても、外から「こんなのあるよね?」と言われて出てくるようなことです。

それが記憶なら、きっと一生を良く生きることに繋がるはずです。


終わりに


いろいろ言いましたが、俵万智さんは、そこにも気づいておられたようです。
「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする

2012年12月1日土曜日

季節はずれのキショウブ

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このところ、とても寒くなってきました。
以前もどこかで書きましたが、私は寒いのが苦手です。
(冬は嫌いではありません。)

すると、毎日の生活の大変さとも相まって、この時期は一日一日を積み重ねていくことに苦労します。ちなみに、私の生活が人よりとても大変なわけではありません。誰もが、それなりに大変な毎日を送っていると思うのです。

特につらいのは朝です。
私の場合は、家を出て、歩いているときに最も寒さを感じます。寒さに耐えながら、そして今日の大変さを思いながら歩くのは、決して楽な作業ではありません。
きっと、多くの方にとっても同様でしょう。

しかし、私にはライフハックがあります。
さらに言うと、「私にはライフハックがある」と私は心から信じています。ですので、ライフハックを持ってくれば何とかなるはず、との想定のもとにものを考えられるのです。

このことは、良くもあれば、「すべてのものが釘に見える」のように悪くもあります。ここは忘れてはいけない部分ですが、それを言っていると話が先に進みませんので、ここでは良いものとしておきます。

話を戻すと、「憂鬱で寒くてメランコリックな朝をなんとかするライフハック」についてです。

そこで私が考えたのは、「斜め上を見て歩くこと」です。
そうすると、少し前向きな気持ちになって歩いていくことができます。

今回はそんな話です。


小さな


アシタノレシピ」とのブログメディアに、「小さく踏み出す!アシタノミニ処方箋」という連載があります。

小さく踏み出す!アシタノミニ処方箋

私はこちらの連載がとても好きです。

「簡単に試せるような小さな工夫を紹介」との言葉通り、確かに一つ一つは大したことのないものです。物事をうがって見るのが好きな人には(そんな人がいるかどうかはわかりませんが)、何の価値のないものに映ることでしょう。

少しだけ例示させていただくと、「入ったことのないお店に行ってみる」「席を離れる前にメモを書いてみる」といったものです。何か壮大な話が展開されるわけではありません。

しかし、それでいて、その一つ一つにまつわる話には納得させられますし、その上で実践してみるのも容易です。そして、納得して、信じて、実践してみると、たぶん毎日は良い方に変わっていきます。

ここで興味深いのは、たった今挙げた三つ、
  • 納得する
  • 信じる
  • 実践する
は順不同であることです。そして、気になるのは「信じる」の部分です。
どんな順番でも構わないので、どこかのタイミングで「信じる」が入ることで、きっと幸せがあると思うのです。

ちなみに、私は性格的に「信じやすい」ので、ライフハックの価値を大きく享受できるのかもしれません。逆に、私が先のように「毎日は良くなる!」と高らかに言えるのは、単に私が「信じやすい」だけなのかもしれません。

それでも、私は信じています。少し前向きになって、歩いていきます。

それから、同じ「アシタノレシピ」さんで、こちらの記事を読みました。

ある1つの仕事術を得た農夫の話。

とても感動しました。素晴らしかったです。

話としては、記事タイトルのとおり「ある一つの仕事術を得た農夫」にまつわる物語です。
もう少しだけご紹介させていただくと、
『これは、魔法のノートとペンなのです。このノートに、一日でやりたいことを書いてみてください。すると、紙に書いたことはその日のうちに終わるでしょう。』
という魔法にかかった農夫の物語です。

この物語も、一見すると「そんなにうまくいくはずがない」とも思えます。
記事の「あとがき」と題された節にも、
それだけで、君の今日は変わるからさ。
との言葉がありますが、そんなに簡単に「今日」が変わるはずがないようにも考えられます。

しかし、私が斜め上を見て歩いたら少し前向きになれて、今、それの価値を心から信じているように、先の記事の「ある一つの仕事術」で、本当に一日は良くなります。

ここには、少し前の話を伏線にして、重要なことが隠れています。

私が斜め上を見てみたのは、ほんの思いつきでした。
朝が寒くて、小さくなって歩いていたときに、もう少し上の方を見て歩いてみたらどうかと思ったのです。自分と世界の境目を、きちんと感じておこうと思ったこともあります。
そうしたら、思いのほか効果があって、それを信じるようになりました。

一方の「農夫の話」では、農夫が一つの仕事術を信じたのは、魔法の力によるものでした。つまり、効果を実感するより前に、信じていたのです。

これが伏線の回収に相当します。すなわち、順不同なのです。

そのため、私がここまで述べてきたことは決して、「信じれば、ライフハックには価値がある」といった話ではありません。乱暴に言ってしまえば、信じることは、ライフハックにとってそれほど重要ではありません。

とはいえ、せめてどこかのタイミングでは信じたいと私は思いますし、きっとその方が少し幸せになれると思うわけです。

これは、私が信じやすい性格であるため、それをなんとか正当化しようとしているとも解釈できます。
すると、私は物事をうがって見るのが好きな人なのかもしれません。


終わりに


キショウブは春の花ですので、季節はずれでした。

キショウブ 花言葉

私は信じる者です。

2012年11月26日月曜日

私とPRS-T2

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先日、下記のエントリを書きました。

23-seconds blog: 「PRS-T2」概観

Sonyの電子書籍端末、「Reader PRS-T2」についての記事をまとめたエントリです。

その中で、eBookUSER でSony Reader用の電子書籍ストアのレビュー記事が、近いうちに公開されるらしい、とのことを書きました。

で、この度そのレビュー記事が公開されたわけです。
こちらです。

あなたに合った電子書店を見つけよう:これでもう迷わない、電子書店完全ガイド――Reader Store (1/5) - ITmedia eBook USER

非常に大がかりな、素晴らしい記事です。
本当に、こちらを読めばわからないことはまずありません。

そして、この記事の公開を待って、私もそのPRS-T2を購入しました。
何度か使用してみて、大変素晴らしいと感じています。

それから、ちょうど時期を同じくして、このような記事も読みました。

Evernote連携が決め手な「SONY Reader」を買ってよかった5つの理由 : ライフハッカー[日本版]

これらの記事をお読みいただければ、じゅうぶんにPRS-T2について知ることができます。

今回はそんな話です。


ハードウェア


PRS-T2のハードウェアとしての良さは、先に掲げた記事の二つめ、「Evernote連携が決め手な「SONY Reader」を買ってよかった5つの理由」がわかりやすいです。

いくつか見てみます。
第一に、記事タイトルにもあるように、PRS-T2ではEvernoteとの連携が可能になりました。本エントリでは詳細は割愛しますが、私のようなEvernoteユーザには嬉しい機能です。

第二に、PRS-T2には物理ボタンが搭載されています。同記事によれば、入浴中に操作する際にメリットがあるとのことです。確かに、入浴時にはタッチパネルのみのインタフェースだと不便なところもあるでしょう。

ですがこの物理ボタン、個人的には普段使いのときにも価値が感じられています。
PRS-T2ではタッチパネル越しにページを送ることもできますが、それは当然、スマートフォンなどのように画面が指にくっついてくる感覚にはなりません。私は普段スマートフォンなどを使用していますので、その気持ちで画面に触れるとやや違和感があるのです。
それと比べると、物理ボタンでページを送ることには、スマートフォンのときとは違う動作になるためか、違和感を覚えなくなります。

慣れの問題かもしれませんが、とても気分良くページ送りができており、私としては今のところわりと重要な話になっています。

ここまで、先にご紹介した記事から二点を見てみました。これら以外にも、同記事ではPRS-T2のメリットがいくつか挙げられていますので、ご確認いただくと良いかもしれません。

さて、ここから、少し話の方向が変わります。

上で掲げた「PRS-T2の良いところ」とは、要素であり、スペックです。
近頃なぜだかよく聞く「コモディティとスペシャリティ」の話に照らせば、これらのスペックにしか「PRS-T2の良いところ」が見いだせないのであれば、時間とともにその価値は薄れていくことになります。
平たく言えば、「同じようにEvernoteに連携できて、物理ボタンが付いている端末が現れれば、別にPRS-T2でなくても構わないのか」ということです。

この点については、最低限自分の中でだけでも、明確にしておく必要があると思っています。それはガジェット好きの責任と言ってしまっても構いません。

そして、私は今のところ「PRS-T2でなければならない」と考えています。今後、他のメーカからそれ以上のスペックを持った端末が登場したとしても、です。

一応、言葉になりそうな理由が二つほどありますので、つづっておきます。

一つは、私がこのPRS-T2を心底気に入ったことです。
どこがどう、などはありませんが、箱から出したとき、手に持ったとき、電源を入れたとき、使用したとき、いずれも非常に気分の良いものでした。
私には愛機ポメラDM100があるのですが、それとこのReader PRS-T2を併せて、何か「揃った」ような感覚がしたのです。

もう一つは、Sony Readerシリーズが私にとっての先駆者であることです。

今でこそ、電子書籍を読むための何かには、何やらいろいろと選択肢があるようですが、このSony Readerシリーズは、前から、モデルチェンジを繰り返しつつ存在しているわけです。
そして私は、そのモデルチェンジの様子を(すべてではないと思いますが)ウォッチし続けてきました。もちろん、購入の検討のためにです。

現状いろいろとある選択肢とこのSony Readerとを見比べてみると、もう圧倒的に「思い焦がれてきた時間」で後者に分があるのです。乱暴に言ってしまえば、最近現れてきた選択肢は、私の中ではまだ同じ土俵にすら上がれていません。

それは、ある意味で仕方のないことと言えますし、それだけ先駆者になるのは重大なことだとも言えます。
野茂英雄が、iPadが、LUNA SEAが、『アクロイド殺し』が、FastEverが、mini moogが、何年経ってもその分野ですごいように、Sony Readerは私にとって最強で、スペック競争に乗ることはないのです。

現在になってもiPad2が一番好き、という方が世の中にはいらっしゃるようですが、おそらくそれと同じ理屈です。


終わりに


こうなると、私はこのReader PRS-T2を長く使っていきそうな予感がします。

2012年11月19日月曜日

不安定な恋、綱渡り

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こちらの記事を読みました。

”イメージを膨らまそう”とするときのイメージ - なんかカラフルな生活

何かについて「イメージを膨らまそう」としたとき、それはどのようなイメージなのかについて書かれた記事です。

非常に興味深く感じました。
なにせ、イメージについてのイメージですので、それを文章にしようとする試みがどれほどチャレンジング(常々、「チャレンジング」に対応する日本語がないなと思っていました。「タフ」などもそうです)であるかは、容易に想像がつきます。

ですが、この「イメージが広がるイメージ」がそれなりに明確にある人は、それがない人より「イメージが広がりやすい」ような気がします。少なくとも、「広げよう」と意識しないといけない状況では、多少有利になるように思います。

そう思ったこともあり、あるいは単に興味深いと思ったこともあり、私も、本エントリではそれに挑戦してみようと考えました。

今回はそんな話です。


躊躇


さっそく、私の「イメージが広がるイメージ」を書いてみます。
私の中では、その映像はわりと明確に見えているのですが、どうもそれが現実世界にある「モノ」の姿をしておらず、説明するのが難しいです。しかしその難しいことをするのが本エントリの趣旨ですので、めげずにやってみます。

いろいろ考えましたが、私の「イメージが広がるイメージ」はビーズです。真ん中に穴があいていて、銀の紐をとおしてアクセサリなどを作ったりする、あのビーズです。
まずは、それが大量にある状況を思い描いていただければと思います。

それから、ビーズには、大きさ、色の種類が様々にあることでしょう。
ここには、そのありとあらゆる種類のビーズがすべてあります。なんなら、丸くなくても、真ん中に穴があいていなくても構いません。それなりに小さめで、ビーズの質感をしていれば、私の描く映像からはかけ離れません。

次に、ものすごく急な角度をしたすべり台を考えます。
このすべり台には坂の部分しかなく、しかもその坂は無限に長くなっています。幅の方は、それほど広くありません。人が二人ほど、並んで滑ることのできる程度です。
もちろん、その坂は完全な平面で、つるつるとしています。

そして、そのすべり台の上から、大量のビーズを放ちます。
物理的にはあり得ませんが、放たれたビーズは目にも止まらぬ速さで流れていきます。ざーっ、という音も立てているでしょう。

ここで、坂の途中ところどころにボンドが塗ってある状況を考えます。

ちなみに、私の中の映像には別にボンドは出てきませんが、そうとしか説明ができないのです。

ボンドは、本当にわずかな箇所にしか塗られていません。
また、塗られている各々の面積も、ごくわずかです。
小さな点が、ぽつぽつとある感じです。

すると、やはりごくわずかですが、いくつかのビーズがそこにぴたっと貼りつきます。ものすごい速さで流れていたビーズが一粒二粒ほど、急にぴたっと止まるわけです。
それが、数は多くないにしろ、いくつかの場所で起きています。

あるビーズがボンドに貼りつくと、そのすぐ後ろを流れていたビーズは、そのボンドにさらに貼りつくか、あるいは、貼りついたビーズにぶつかって少しだけ進路を変えて流れていきます。

以上の
  • ビーズがボンドに貼りつく
  • その後ろのビーズも同じボンドに貼りつく
  • または、貼りついたビーズにぶつかって少しだけ進路が変わるが、すぐに流れていく
が、私の「イメージが広がるイメージ」です。


決心


たぶん、大量のビーズは情報のインプットを表しています。
それから、ボンドは「その中で気になった情報」を示していることでしょう。

すなわち、私にとってイメージを広げることとは、大量のインプットを流し込んで、ほとんどは無駄になるものの、たまに引っかかることがある、という感覚になります。
引っかかる場所は外からはうかがいしれませんので、とにかく大量にビーズを流してみるほかはありませんし、引っかかった場所どうしが近くにあることもあまりありません。

今よりもっとイメージを広げようと思ったら、もっと大量のビーズを流すのです。

大変効率が悪い気がします。
しかしそうは言っても、これが私のイメージですので、しかたありません。


終わりに


これ 夢?

2012年11月18日日曜日

冬とモレスキン

Clip to Evernote
モレスキン好きにはおなじみの「モレスキナリー」さんで、こちらの記事を読みました。

Keiの寒くなってきたのでモレスキンを振り返ってみる・・・ | Moleskinerie

そこで、下記の記事が紹介されています。

モレスキンが使いたい 手帳と私の生活ブログ

こちらに、大変興味深い一文がありました。引用いたします。
なぜだかわかりませんが、寒くなるとモレスキンが使いたくなります(笑)
こちらの方は、寒くなると、または冬になるとモレスキンが使いたくなるそうなのです。
(本エントリでは「冬になると」で統一することにします。)

私はなぜだか、こういった話を見るといろいろ考えずにはいられなくなります。
何と言いますか、
  「冬になる」 → 「モレスキンが使いたくなる」
のような、一見論理的でない論理に興味を引かれるのかもしれません。

この文章は論理的でないから良くない、といった話ではまったくなく、「この論理が成り立つこの人は、どんな人なんだろう」とか、「この論理が成り立っていると感じる感覚は、どんなものなんだろう」といった、ずっとずっと夢見がちな空想です。

ひとつ例を挙げておきます。
『それでも、読書をやめない理由』という本には、以下のような文章があります。少し長くて申し訳ありませんが、引用いたします。


『それでも、読書をやめない理由』(デヴィッド・L. ユーリン) 
たとえば、ロワー・マンハッタンのスプリング・ストリート書店のような、お気に入りの本屋へ入っていくとしよう。店内の様子、におい、壁を覆っていたり、新刊案内のテーブルに積まれたりしている書物の量。それらが、たちまちわたしの下腹を打つ。とたん、腹がごろごろいい出し、括約筋がきゅっと締まる。

こちらは、
  「好きな本屋に入る」 → 「腹がごろごろいい出す」
との論理なわけです。
これはどういうことなのだろうと、やはり興味を思えます。

今回はそんな話です。


冬になると


「冬になると、モレスキンが使いたくなる」にある名詞は、「冬」と「モレスキン」です。これらを見ていくことで、何かわかるかもしれません。

まずは「モレスキン」を見ます。
個人的に、確かにモレスキンには冬のイメージを感じます。特に、年月が経って使い込まれたものではなく、薄いビニールを開封したばかりの、ゴムバンドをきれいにつけた様子がとても冬らしいです。張りつめたといいますか、凛としたといいますか、そんなところです。
(「凛とした」との言葉が存在する日本語は素晴らしいと思います。)

「冬」はどうでしょう。
私がこの「冬になるとモレスキンが使いたくなる」を目にしたとき、ぱっと頭に浮かんだ言葉があります。

「冬って、自分と世界の境目がはっきりするから良いよね」といった趣旨の言葉です。うろ覚えで申し訳ありませんが、昔読んだ小説(確か、『半分の月がのぼる空』)にあったものです。

私はそれに強く影響を受けました。とても好きな言葉です。
それまで夏が好きで冬が嫌いだった私が、冬も悪くないな、と思うようになったほどです。

この言葉が示すとおり、「自分」は「世界」ではありません。少なくとも、「世界」そのものではないはずです。
ですが、こういったことが日常で意識にのぼることはあまりありませんので、ともすると忘れてしまいがちです。意識にのぼらないと、何やら、「自分」が「世界」に溶けこんでしまって、「自分」の実体が見えなくなってしまうようにも思えます。

それでも、「自分」と「世界」の間には、確かに境目があります。張りつめた冬の空気は、それを鮮明にしてくれるものなのでしょう。

このあたりで、一つ結論が出たでしょうか。

モレスキン好きにとってのモレスキンは(あるいはノートブック好きにとってのノートブックは)「自分」に非常に近い存在です。これはまず疑いようのないことです。
しかし一方で、モレスキンとは単なる物質である以上、どちらかといえば「世界」の方に属するものになります。

もちろん「自分」と「世界」の定義にもよりますが、モレスキンは「世界」にあるものであり、かつ「自分」そのものではありません。残念ながら、これは間違いないことです。

ですが、この畏怖すべき「世界」の中で、モレスキンはものすごく「自分」に近い場所にいてくれるものであることも、また正しい実感です。
言い換えれば、「自分」と「世界」の境目にいるのがモレスキンです。

そして、冬は、自分と世界の境目に思いを馳せる季節です。冬は、自分が世界ではないことに意識を傾けることのできる季節です。
そのために、まさにその接点にいるモレスキンを使いたくなるのかもしれません。

そんな結論でした。
私は今、モレスキンに出会えて心から良かったと、再認識しているところです。


終わりに


個人的に、本エントリのタイトルは非常に気に入っています。
新谷良子さんに「月とオルゴール」という楽曲があるのですが、それのオマージュになっています。

その「月とオルゴール」を初めて見たときに、すごく良いタイトルだな、と感じ入ったことを思い出しました。

2012年11月15日木曜日

どちらでもある部分

Clip to Evernote
「(前略)ということは――決定、a0 の値は0!」
「正解。でも、怒鳴っちゃ駄目だよ」
「あっと……すみません。求められているのは静寂――でしたね」
「そうじゃなくって、0! って怒鳴ると1になっちゃうからね」
「…………」
以上の引用文は『数学ガール』(結城浩)という本の一節で、私が世界で一番面白いと思っているジョークです。

さて、先日『経済ってそういうことだったのか会議』という本を読了しました。
(「さて」と「ところで」ほど便利な言葉はなかなかありません。)

『経済ってそういうことだったのか会議』(佐藤雅彦、竹中平蔵)

そちらが本当に良い書籍でしたので、本エントリでは同書についてご紹介いたします。

今回はそんな話です。


出会い


私はこの『経済ってそういうことだったのか会議』を、書店で偶然見かけて購入しました。購入に至った直接のきっかけは、当然「書店をうろうろしていたこと」なわけです。
しかし、たくさんの本の中から同書が目に留まったのは、間違いなくcakesの連載「文章ってそういうことだったのか講義」のおかげです。こちらの連載では、同書にあやかって連載タイトルを決定したことが書かれており、私はそれが頭に残っていたのです。

第一講 あなたはなぜ文章を書くのか?|古賀史健|文章ってそういうことだったのか講義|cakes(ケイクス)

奥付を調べると、私が購入したのは2012年6月22日の第35刷のようです。第1刷は2002年9月1日となっており、さらには、私が手に取ったこの本は、もともと2000年4月に刊行された同名書を文庫化したものだということです。
ここからも、同書がいかにすごい本なのかが読み取れます。

ここで、思い馳せるは電子書籍です。

上に書いた、どこかで聞いたような本を偶然本屋さんで見つけて購入することは、本好きにとってはたまらない経験です。
電子書籍ストアではこのような体験ができない、といった話は各所で語られていますので、私からは特に何もありません。人によってはそうかもしれませんし、別の人にとってはそうでないかもしれないでしょう。

ただ、個人的なことを言うなら、書籍を検索するときに「人気のある順」だけでなく「人気がない順」「人気がまあまあある順」「人気がなさそうである順」「人気があるとないが交互の順」などがあると、面白いような気がします。あるいは、「関連書籍」だけでなく「無関連書籍」「微妙に関連のある書籍」「この本を読んだ人は、他にこんな本は読んでいません」なども面白そうです。

要は、普通の買い物などと違って、(本好きにとって)本を探すのは別に便利でなくても良いということです。

それからもう一つ、先述の「たくさん刷を重ねていてすごい」のような状況も、おそらく電子書籍では起こりにくいでしょう。すでに他の形で刊行されている書籍を文庫化することも、同様です。
関連して、本屋さんの棚には限りがあるため、昔の本であれば置かれているだけで何かしらの評価ができるはずであり、これも電子書籍にはない話です。

だからといって、どうするべきかは、私にも特に考えはありません。
そういった部分を電子書籍ストアでも反映するような仕組みがあれば、実際の本屋さんで本を選ぶのに近い体験ができるでしょう。逆に、そういった仕組みを排除するようにすれば、「電子書籍ストアらしい」体験を促進することになるはずです。


内容


ここまで、電子書籍に関する話でした。

『経済ってそういうことだったのか会議』の内容の話に移ります。

同書に、非常に感銘を受けた文章がありましたので、引用させていただきます。
(「非常に感銘を受けた文章」は他にもたくさんありました。実に良い本です。)
ですから、失業問題というのは経済学と人間の生活との大きな接点になってくるんです。
うなりました。
私としては、この箇所を同書の一つの到達点だと思っています。

ぜひ、同書を初めから読んだ上でこの文にたどり着いていただきたいです。
ここでは大雑把に説明することにします。

経済学では元来、人間とは労働力であると考えます。同書には「医学が人間を蛋白質のかたまりと見るように」との表現が出てきますが、つまりはそういうことです。
市場に価値をもたらすものとして、人間は労働力であり、カウンタブルであり、そしてそれ以上でも以下でもないわけです。

一方で、「人間の生活」はその反対側にあるものです。「生きがい」や「生きる喜び」、「お金に代えられないもの」などは、数値にできないものであり、(古典的な)経済学は相手にしない部分です。

そして、そのように対局にある二つのつなぎ目にあるのが、失業問題だということです。失業問題とは、経済学の問題でもあり、同時に人間の生活の話でもあるのです。

だからこそ、失業問題を考えるのは難しく、かつ、解決した暁には大きな効果と喜びがあるものなのでしょう。

ここでは言葉の綾で「解決した」と書きましたが、もちろん、完全な解決はなかなかないものでしょうし、さらに言えば解決するのが誰にとっても望ましいことなのかも判然としません。
そういったところまですべて含めて「難しい」のだと思います。


終わりに


ところで、『数学ガール』が面白いのは、ここで言う失業問題と同質の、難しいものを描いているからなのかもしれません。

2012年11月11日日曜日

動的でないもの

Clip to Evernote
公開されたのは少し前になりますが、以下のような記事があります。

R-style » ジョブチェンジの心境 オッズとチップ あるいはささやかなエール

こちらにある言葉が置かれていますので、引用させていただきます。
<価値とは、「見出される」ものだ>
価値とは「見出されるもの」、ということです。

これは、目にして以来私がそれなりに大変な毎日を送る中で、ずっと心に留め置かれる言葉となっています。私が、今日まで無事に生きてこられた原動力の一端は、この言葉が担ってくれていたと言っても、まったく過言ではありません。
ぜひ、先の記事と合わせて、多くの人に知っていてもらえたらと思っています。

さて、ここでこの話を出したのは、本エントリで書きたいことがそれの反対側にあるものだからです。もちろん、「反対側にある」とは対称軸をうまく設定したときの話ですが、その設定のしかたについては省略します。予めうまく設定されているものとして、話を進めていきます。

その対称軸に従う場合、先の話は「価値とは、動的で、変化するものである」との解釈になります。
つまり、本エントリは、静的で、変化しないものの話です。


美しさ


『100の思考実験』という本に、「芸術のための芸術 - 見る人のいない芸術作品は芸術か?」との項目があります。

『100の思考実験』(ジュリアン バジーニ)

詳しい内容は同書を参照していただければと思いますが、私はこの項目から、美しさの所在について思いを馳せることとなりました。

先ほど、「価値」は動的なものであると書きましたが、一方、「美しさ」はそれ自体が携えているものだと、私は考えています。人の目に触れるとか、どう思われるとかは関係なく、静的で、変化しないものです。

この発想は、『史上最大の発明アルゴリズム』の巻末解説に、おそらくその足場があります。引用いたします。

『史上最大の発明アルゴリズム』(デイヴィッド バーリンスキ)
本書の原題は The advent of the Algorithm 、直訳すると「アルゴリズム降臨」とでもなるだろうか。確かに原題には「発明」という言葉は入っていない。なぜ「発明」に引っかかるかといえば、数学者たちはそれを「発見」と呼んでも「発明」とは呼ばないからだ。
数学者たちは、新しいアルゴリズムを生み出すことを「発明」ではなく「発見」と呼ぶらしいのです。

大変興味深く感じました。
アルゴリズムは人の手によって作り出されるものではなく、はじめからそこにあるものなのです。私たちが知る数多のアルゴリズムは、そこにあったものが発見された結果、人類に届いてきたというわけです。

このことが、私の「美しさは、そのものが内包している、静的なものである」との発想をもたらしています。
アルゴリズムは「美しい」ことがとても頻繁にありますが、それは誰に見つけられなくてもはじめから備わっているためです。


動的なもの


再度、動的なものの話に戻ります。少し方向が変わっていますが、大きく「動きのあるもの」として見ます。

『街場の文体論』という本に、これに関係しそうな文章がありますので、引用いたします。

『街場の文体論』(内田樹)

大学の講義をしている場面を思い浮かべていただけるとよいです。
僕が九十分の授業のためにきっちり九十分ぶんの原稿を作ってきて、それをすらすらと読み上げても、たぶん五分もしないうちに、教室にいる皆さんの半数はばたばたと寝てしまうでしょう。必ずそうなる。
ここまでが前置きです。状況はこれでつかんでいただけるかと思います。
重要なのは、それに続く箇所です。
それは起きて話を聴いているのは、コンテンツが面白いからではなく、今ここで言語が生成しているという状況そのものに君たちが感応しているからなんです。
なるほどと思いました。
目の前で、ライブに言語が生成している状況に対して、私たちは感応するわけです。これを動的であると呼んでもさしつかえないでしょう。

さて、ここまでで、動的であるものと静的であるものとを明らかにしてきました。
振り返ると、動的なものとは、ライブに言語が生成している状況であったり、人から見出される価値だったりします。一方の静的なものとは、美しさのような、観測者の有無に依存せずに、そのものが内包しているようなことです。

これらを踏まえた上で、私は、その「モノ」が有形か無形かを問わず、静的な美しさを大事にしていきたいと思っています。というのは、「美しさ」はきっと、そのモノが内包しているため、ともすると動的なものより見過ごしやすくなっているような気がしてしまうわけです。
だから、立ち止まって、その何かが持っている美しさを感じたいのです。

もちろん、なにも動的なものをおろそかにする、と言うつもりはありません。ただ、静的なものの方が「わかりにくい」気がするので、大事に思っておきたいという話です。

美しさは観測者に関係のないものであるなら、わざわざ立ち止まってそれを感じることには、何の意味もないでしょう。平たく言えば、無駄な労力です。
でも、と言いますか、だからこそ、と言いますか、そんな感じです。

ここでふと、近頃の音楽業界でよく聞かれた、「ライブ偏重」の話を思い出しました。
私から詳しく語るつもりはありませんが、これなどはもしかすると、顕著な例かもしれません。確かに私は、よく考えられた録音物を繰り返し聴く方が好きなような気がします。


終わりに


本文中で、『街場の文体論』から引用させていただきました。
ただ、この引用箇所だけ読むと、同書が少し別の話のように見えてしまうような気がします。
できれば、その引用箇所だけで何か判断を下す前に、ぜひ同書の方にあたっていただきたいと思います。

2012年11月10日土曜日

思い出したと等価

Clip to Evernote
現在、巷の話題をすべて独占しているできごとがあります。
例えばそれは、下記の記事で紹介されています。

速度、操作性、未来につながる新機能。すべてが新しいEvernote 5 for Mac のベータ版 | Lifehacking.jp

Evernoteのクライアントソフトが、ベータ版ながら新しいバージョンとなったようなのです。
同記事ではMac版について取り上げられていますが、下記の記事ではiOS版についても書かれています。

Evernote 5 for iPhone iPad -Mac版に続き今度はiOS版が大幅リニューアル | ごりゅご.com

私はMacユーザではありませんので、この、世間を大いに賑わせている新しいMac版Evernoteクライアントを使うことはできませんが、それはいずれ可能になることでしょうから、あまり気にしてはいません。

そちらは気にしていませんが、一つ、気にせずに通り過ぎることがどうしてもできない事柄がありました。

各所で言及されてはいますが、例えば下記の記事にそれがあります。
引用いたします。

Evernote 5 for Mac ベータ版のレビュー 1日使っての感想やカスタム方法など | ごりゅご.com
今までは基本的に「検索」を使おうとする場合、自分でキーワードを入力して、目的のものが見つけられなくてもう一回検索して、みたいな手間がかかったりしてましたが、これがちょっと「Google的」になってきました。 
検索キーワードを入力すると、自分のノートの中身を元にキーワードの候補を出してくれる
検索ワードの先読みと言いますか、そのような機能が追加されたとのことです。機能そのものについては、携帯電話の文字入力やGoogle検索などで、多くの人にとっておなじみのものでしょう。特に説明なしで、想像がつくものと思います。
しかし、これが自分のEvernote内を検索する際に行われることからは、文字入力の例とは異なる性質を読みとることができます。

先の引用文の後半では、「先読みされるワードは、自身のEvernoteの中身によって変化する」とのことも書かれています。
すると、出てくるのは、ブラウザのテキストボックスでよくあるような「過去に入力したことのあるワード」ではないことになります。
もちろんそれも出てくるのでしょうが、Evernoteに保存しているノートに関連が深ければ、「過去に入力したことがなくても」先読みで出てくるわけです。

この違いは重要です。
なぜなら、Evernoteは第二の脳だからです。

もう少し正確に言うと、Evernoteの検索語先読み機能は、人間の「思い出す」とか「類推する」という行為を鮮やかに切り取って見せているのです。
もちろん、それが「思い出す」「類推する」のすべてだと言うつもりはありませんが、確かにある一面を切り取っています。

私たちが何かを思い出す場合を考えてみます。
やはり一概には言えないものの、例えば、ある一つのものとその名前を思い出したとして、それをもとに別のことを思い出し、また別のことを思い出し、最終的にまったく関係のないことを思い出した、といったことがあります。

これがちょうど、Evernoteの検索語先読みと重なるわけです。
Evernoteには私たちのすべての記憶が入っていますので、一つ検索語を思いついて入力すると、自分としては思ってもみなかった、しかし自身の「記憶」に関連の深いワードが出現してきます。
それをたどっていくと、最終的にまったく関係のないノートに到達することになるでしょう。そして、思ってもいないノートに到達することは「思い出した」と等価です。

Evernoteの検索語先読みで、私たちは何かを思い出すことができるのです。
人間が物事を思い出す行為が変質している、あるいは拡張されている点で、これは革新です。

「類推する」の場合も、状況はだいたい同じです。

今書いてみて気づきましたが、「類推する」と「思い出す」では、思ってもいない方向に行こうとしているか、そうでないかの違いだけで、現象としては同じなのかもしれません。まったく関係のないことを思い出そうとする、意志の有無だけが違うということです。
(もちろん「必要なことを思い出す」パターンもたくさんありますが、先の例のとおり、今回は除外しています。「思ってもいなかったことを思い出す」ときの話です。)

しかし「類推する」と「思い出す」が同じものを指しているとは、やや直感に反します。
あるいは、「思い出す」が示す範囲がとても広く、「類推する」はそこに内包されているのかもしれません。その場合は、類推でたどり着いた先はものすごい発想などではなく、単に何かを思い出しただけにすぎないことになります。個人的には悪くない結論です。
このあたり、ひょっとすると詳しい人の間ではもう結論が出ているのかもしれませんので、後で調べてみることにします。

この話を踏まえると、Evernoteの検索語先読みでは、類推することと思い出すことが同時に行えることになります。
それは、人間の脳では昔から可能でしたが、ついに第二の脳でも実現したのです。

いろいろ言いましたが、話は複雑ではありません。
Evernote内のノートを元にして検索語が先読みされるのは、人間のふるまいを変質させるほどの、ものすごいことだということです。


終わりに


まだまだEvernoteの話は尽きません。

2012年11月5日月曜日

Evernote原体験

Clip to Evernote
Evernoteが私たちのもとにやってきてから、それなりの年月が経ちました。クラウドを通して自分だけのノートを作成することのできる「ツール」であるところのEvernoteではありますが、しかしその「ツール」が、私たちの生活を、考え方を変質させた部分は多くあります。
ありきたりの表現で恐縮ですが、「されどツール」であるわけです。

ですが、物事をもう少し丁寧に見ていくと、Evernote以前から存在はしており、Evernoteがそれを明確に切り出してみせたような概念もあるように思います。

Evernoteが変質させた、あるいは創造したのではなく、顕在させた概念です。
それを本エントリでは、エントリタイトルのように「Evernote原体験」と呼んだわけです。

余談ですが、上に書いた「Evernote以前(またはEvernote以降)」との表現には、私の心が強くこもっています。
Evernoteとは、それらの表現が成り立つほどのものなのです。
これは、新本格ミステリにとって「十角館以降」との表現が成り立つように、東西ドイツにとって「壁崩壊以降」との表現が成り立つように、重大なことです。
(どちらもそれほど詳しくありません。)

今回はそんな話です。


Gmail


確か発売して間もなかった頃、私はiPhone 3Gを購入しました。国内で発売された最初のiPhoneです。
当時は「iPhoneを買った」と言っても、「iPhone…って聞いたことあるけど、何だっけ」のような反応をされるような時代でしたし、私の記憶に間違いがなければ、まだ「スマートフォン」なる言葉すら耳にすることはありませんでした。私も私で、iPhoneを電車内で取り出すのに少しためらいを感じていたことを覚えています。

その頃から考えると、まさに世界が変わっていく様子をこの目で見てきたと感じられますが、それはまた別のお話とします。

さて、私を含めた当時のほとんどの人には、端末間でデータが同期する発想がありませんでした。これも、知ってしまった現在からするとかなり想像しにくい現象だと言えます。何しろ、確かに自分がPCで作成したデータがiPhoneにもある、との状況がさっぱり理解できないのです。現象として認識はできるのですが、「わからない」のです。データというのは、CD-RやUSBメモリに入れて、手で持ち運ぶものだったはずなのです。

それから、私はiPhoneを購入する以前から、Gmailのアカウントを持っていました。これも、私にとっての理解は「ブラウザから見られるPC用メール」でした。現在のそれとはだいぶ趣が違います。
当時の私からしたら、「携帯メール」と「PCメール」では、「メール」との言葉が同じだけで、全く別のものである認識でした。とても相容れるものではなかったのです。

あるときiPhoneの設定を見ていた私は、メールアカウントにGmailの項目を発見しました。
Gmailとは、私がアカウントを持っているあのGmailのことだろうかと思うわけです。現在のようにiPhoneについての情報が世の中に溢れていることもなく、周囲に質問できる人もいませんでしたので、試行錯誤しながら、なんとかアカウント情報の入力を終えることができました。

すると驚くことに、「PCメール」であるはずのGmailが、「携帯メール」と何も変わらずにiPhoneから使えるようになりました。「PCメール」と「携帯メール」は、相容れないものではなかったのです。
このときの衝撃といったら、おそらく生涯忘れることはないでしょう。いまでもそれをありありと思い出すことができます。

何と言っても、確かにPCで受信したメールが、iPhoneの受信フォルダにもあるわけです。
当初は不思議で不思議でなりませんでした。

それからしばらくは、感動を覚えながら、様々なことに「PCのメールが携帯で見られる、携帯のメール(Gmail)がPCで見られる」ことを活用していきました。

しかしあるとき、私にある思いつきが生まれました。
「Gmailあてにメールを送っておけば、ちょっと覚えておきたいメモとか、もう一度みたいWebページのURLとか、写真とかが、家のPCからでも、出先の携帯からでも自由に見られて、ずっと保存しておけるんじゃないか?」と。

お察しのとおり、これが私の「Evernote原体験」です。

当時の私は、このあたりに不便さを感じていました。
例えば、どこかに行くときに調べた電車の経路や、後で買いたいと思ったものなどは、紙にメモしていましたが、用が済んだら、捨てるかどこかにしまいこむかするしかありませんでした。すると、時間が経ってから再度同じ場所に行くことになったりすると、この前調べたのにまた調べないと、と残念な思いをするわけです。

Webページについては、当時はブラウザのブックマークを使用する以外に方法はありませんでしたが、その数がどんどん増えてしまいますし、他の端末と同期することもなかったのです。
写真についても事情はだいたい同じと言えるでしょう。

自分のGmailあてにメールを送っておけば、これらのことがすべて解決したのです。
つまり、
  • 別にすごく必要ではないけど一応とっておきたくて、
  • これといって行き場所はなくて、
  • もし必要なときはいつでも見られるようにする
方法ができたということです。

そして、私がEvernoteを導入すると同時に、Gmailがその役目を担わなくなったのは言うまでもありません。


終わりに


うまく本文中に含められなかったのですが、「これといった行き場所がないメモやURL」の管理は、結局自分の記憶に頼るしかなかったわけです。

2012年11月4日日曜日

クライマックスシリーズと長期戦

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こちらの記事を読みました。

ライフハック心理学 » クライマックスシリーズとモチベーション

かれこれ十五年来の広島カープファンである私として、これは反応せざるを得ません。

今回はそんな話です。


クライマックスシリーズ


クライマックスシリーズとは、大雑把に言えば「ペナントで三位までに入れば、日本一になれるかもしれない」という制度です。

制度自体についてここでいろいろと語るつもりはありませんが、確かに導入当初は議論になりました。しかし、それを賛成か反対かと問われれば、私としては反対しようもありません。
その理由も軽く触れるだけにとどめますが、要は私は広島カープファンなのです。
私が広島カープファンであることと、2012年ペナントのカープの様子を合わせて見れば、答えは自ずと明らかになります。近年で、今年ほど夢を見た年は記憶にありません。なんとか石井琢朗と一緒にクライマックスシリーズに行きたかったです。

さて、冒頭でご紹介した記事では、クライマックスシリーズからライフハックの教訓を得ています。これに関して、私も常々思っていることがありますので、書くことにします。

私の話の場合は、クライマックスシリーズよりも高校野球を例に出したほうがわかりやすそうです。
クライマックスシリーズも高校野球(特に、夏の甲子園とその県予選)も、いわゆる「短期決戦」と呼ばれるものです。もちろんこの言葉はプロ野球のペナント戦が長期にわたることを念頭に置いています。そちらは便宜上「長期戦」と呼ぶことにしましょう。あまり聞く言葉ではありませんが、便宜上、です。
高校野球の場合はクライマックスシリーズよりさらに状況の移り変わりが早く、「短期決戦」よりは単に「トーナメント」と言われることが多いのですが、ここでは同じ「短期決戦」のくくりとします。

野球というスポーツを考える上で、行っているのが「長期戦」か「短期決戦」かの違いは相当なものがあります。
攻撃の作戦の採り方や選手起用の方針、それからバッテリーの配球にいたるまで、あらゆる箇所に差異が出現してきます。ここにある差異は本当に大きなものですので、多少なりとも野球を見たことがある方なら、十分に感じ取れることと思います。

私などは、プロ野球と高校野球とでは、もはや別のスポーツであるとの認識を持っています。ほとんど同じような見かけをして、だいたい似たようなルールではあります(ルールも違うところは多々あります)が、その中身はまるで違うのです。
ですので、よく「プロ野球と高校野球の、どちらが好きか」といった話を聞くことがありますが、それは私にとっては「バスケットボールと卓球のどちらが好きか」くらいの質問になるわけです。そのため、その質問をされたときに私がまず疑問に思うのは、「なぜ数あるスポーツの中からその二つ(プロ野球と高校野球)が選ばれてきたのだろう」だったりするほどです。

このことは、ライフハックや仕事術にも示唆を与えます。

何かの仕事術を用いて仕事を進めようと思ったとき、対象の仕事が「長期戦」なのか「短期決戦」なのかを考えておくことには価値があるということです。なお、ここで言うところの「長期戦」が指すのが数時間なのか数年なのかといった解釈の仕方については、もちろんそれも重要ですが今回は踏み込みません。
言及したいのは、対象の仕事が想定する期間がどれほどなのかを考えてみること、のみです。

きっと、これを考えてみると、プロ野球と高校野球とが別のスポーツに見えるほど用いる戦術が異なるように、仕事の期間によっては役立つ仕事術が異なってくることがあるだろうと思うわけです。
これを戦術、つまり仕事術の方から見れば、同じ仕事術(やライフハック)でも、対象とする期間が変わると役に立たなくなることがあると言えます。

大雑把な例として、例えば「夜寝る前にEvernoteを見返して整理する」と決めたとします。きっと五日程度ならそう苦労せずうまくいくでしょうが、それを数年にわたって継続していくつもりなら、何か別の仕組みをどこかで考える必要があるかもしれないわけです。


終わりに


すぐ上の例は「長期戦だとうまくいかない」パターンでしたが、逆に、長期戦を想定しているからうまく回るものももちろんあると思います。

2012年11月1日木曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2012

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近ごろ、「現代は時代の移り変わりが早い」といった話をよく聞きます。その話によると、現代では様々なものが非常に早く変化しているそうです。
確かに、現代で様々なものがすごい早さで変化しているのであれば、それを「時代の移り変わりが早い」と評して間違いないでしょう。

すると、今より少し前の時代を生きていた人たちは、「今は時代の移り変わりが遅いねえ」との話をしていたことになります。「現代は時代の移り変わりが早い」のですから、きっとそうなのだと思います。

その「移り変わりが早い」との話は、「インターネットの普及によって」というよくわからない日本語とセットになっていることが多くあります。
日本語としての「インターネットの普及」への違和感は大変ありますが、それとは別の話として、インターネットが時代の移り変わりをもたらしているのであれば、そこで、そうでないことを試みるのも興味深いことです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月ということなのです。
記憶力の良い方は、おそらくこのあたりで一年前を懐かしむ気持ちになっていることと思います。そうでなくとも、第二の脳をひもといていただければ問題ありません。

さて、2012年も11月を迎えています。
11月には、
  • 冷たい空気
  • 文化の日
  • 勤労感謝の日
  • 霜月
あたりからか、なんとなく知的なイメージを私は持っているのですが、まさに好きなブログを告白するのにはぴったりです。

前置きが長くなりました。それでは私が好きなブログをご紹介させていただきます。

***


はじめはこちらです。
文章は読みやすいですし、調査は徹底していますし、とにかく読んでいて楽しいブログです。
電子書籍をはじめとして、その周辺についてを知ろうとしたら、こちらのブログに行くのがベストの選択肢だと思います。

というのはあえて客観的にこの「見て歩く者」さんを見た場合の話で、私はそれ以前に大ファンだから読んでいます。

***


二番目はこちらです。
本ブログでも度々こちらのブログの記事をご紹介させていただいています。

軽妙な語り口で、様々な試行錯誤と思考の過程を伝えておられます。
ブログタイトルには3つのキーワードが現れていますが、もちろんそれも含んだ上で、私は「試行錯誤と思考」のブログだと思っています。

そういった部分に面白さを感じられる方は、必ず楽しめます。

***


三番目はこちらです。
こちらも、何度となく記事を引用させていただいているブログです。

改めて言いますが、大変影響を受けています。

***


四番目はこちらです。

トピックが多様にわたるにも関わらず、一貫して、熱く、楽しく、わかりやすく書いておられます。
読んでいて、ディスプレイ越しに楽しさが伝わってきます。

その中に、熱いメッセージも込められていたりしており、気が抜けません。

***


五番目はこちらです。

独特の、とはとても難しい言葉ですが、独特のブログです。
書かれているトピックはわりと明らかかと思いますが、それを言ってもこちらのブログについて何も説明しないような気がします。

少なくとも一つ言えるのは、最近、自分が書いた文章がこちらのブログのそれに似ていることに気づいて、はっとすることが頻繁にあるという事実です。
だいぶ影響を受けているようです。

***


少し上で、「楽しさ」との言葉を使いましたが、それと対比させるなら、こちらのブログは「朗らか」です。もちろん私のイメージです。

読むと朗らかな気持ちになれて、元気が沸いてきます。
この感覚は、他のブログにはまったくないものです。

***


七番目はこちらです。

なんといいますか、挙げざるを得ません。
好きなブログでないはずがないのです。

私も長いことこちらのブログを読ませていただいていますが、いまだに表現の面白さに吹きだすことがあります。

ちなみに、ロックバンド「D」に、「薔薇色の日々」という楽曲があります。
私はいつも、その曲とこの「jMatsuzaki」さんを重ねて見ています。

たとえば、同曲には下記のような歌詞があります。
明日になればきっと世界は変わる
信じているからこそ終わりにはしない

***


八番目はこちらです。

面白いです。面白いブログです。

それだけで終わらせても構わないくらい面白いブログなのですが、何か物事を考える契機となるのもまたこちらであることが、よくあります。

それも含めて、面白いです。


終わりに


今年の11月も、多くの人の「好きなブログ」を見られると嬉しいです。

2012年10月28日日曜日

仁和寺へ行く途中

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昔話をします。
昔話とは、つまりは昔の話のことです。

こう書いてしまうととても違和感があります。昔話とは昔の話である、とは同じことを繰り返しているだけで、何も説明していないように見えるためです。
ですが、昔話と昔の話が等価であることは、それほど自明ではありません。現に(うつつに、ではありません)、日常生活でこれらを混同して使用したなら、一定の混乱が起こることには間違いないでしょう。同様の意味で、実際にはこれらが混同されるようなことは滅多になく、大多数の人がこの間にある差異に気づいているとも言えます。

すると、「昔話とは昔の話のことである」とは、「昔話」との単語を全く別の言葉である「昔の話」を用いて説明している点で、いたって普通の文章ということになります。

にも関わらず、「昔話とは昔の話のことである」がきちんとした説明であるとするのは、非常に納得しにくい話です。

今回はそんな話です。


昔話


私はどうも昔から、何かのきっかけで一度始めたことを、何も考えずにずっと続けることが多いようなのです。ここが妙にふわっとした口調になっているのは、自分ではその自覚がさっぱりないためで、個人的には誰しもがそういった部分はあるだろうとは思っています。
つまり、「物持ちがいい」「ぶれない」「こだわりが強い」などと評されることが私は多いのです。これはしかし、私にとっては思ってもみないことで、むしろ、何のこだわりもないからずっと同じものを使っているのが実態だったりします。
(現に、新しいガジェットや音楽CDなど、好きなものに対してはきちんとぶれています。)

そう言われてふと考えてみると、私は飽きるという感情を持ったことがあまりないかもしれません。

思えば、小さい頃からその面影はありました。いえ、小さい頃の私だって私には違いありませんから、私の面影があるのは当然なのですが、とにかくその面影はありました。
ある日、お昼の給食でカレーが出たことがありました。さらに、その日は偶然夕食もカレーだったのです。私は母から尋ねられました。「給食もカレーだったの。ごめんね、飽きない?」と。
そこで小さい私はこう聞き返しました。「飽きるってなに?」と。
その後母がどんな返答をしたかは覚えていませんが、さぞかし困ったことでしょう。

しかし実際問題として、別に夕食のカレーを食べるときに給食のことをわざわざ思い出したりはしませんし、そもそも給食のカレーと母が作るそれで同じ味がしたりはしません。さらには、食べる場所も時間も状況も違います。すると、もはや飽きる要素が何もないように思えます。

ここまで、さも「昔の私は飽きるという感情を知らなかったけど、今はちゃんと知っている」かのように書いてきたものの、ふと、今の私もそれについてよくわかっていないことに気づいてしまいました。

急に不安になってきました。
飽きるとは、どんな感情のことなのでしょうか。現状、私には思い当たる節がありません。
「飽きる」の言葉とそれにまつわる状況については、社会を生きてきた中で学びました。だいたいどんなものかは想像がつきます。
ですが、私の中でどんな感情のことなのか、何も思い当たらないのです。

怖いので、この話はここまでにします。
少なくとも、私が「同じことばかりしているからそろそろ変えた方がいい」、つまり「飽きている」ことに気づくのは、周囲の人に教えてもらう必要がありそうです。

このように同じことばかりしているのは、「ぶれない」などと評してもらえる一方で、あまり嬉しくないこともあります。

ある、ほぼ毎日通っていた道のりがありました。ここでは仮に、自宅から仁和寺までとしましょう。
私はそれをヤフーマップで調べて、目印になる大きな道路や建物をもとに決定しました。

ひとたび道のりが決定してしまうと、私はそれについて何か考えることはしなくなります。もちろん、新しいガジェットのように大好きなものは別ですが、私はこれといって道に興味はありませんので、慣性の法則にしたがい、特に何も考えることなく毎日通っていました。

しかし、慣性の法則は外から力が加わらない限りでの話です。

しばらくして私は、出発点と目的地がだいたい同じの友人に出会いました。要は、自宅が近所で、私と同じように毎日仁和寺に行っている友人です。そして話の流れからして、彼が外からの力になるわけです。

その日は彼と行程を共にすることになったのですが、私が歩き出そうとすると彼は言うわけです。「どこに行くの?」と。
どこと言われても、私は彼と同じ道のりを行くはずです。不明なところはないでしょう。

ところが、よくよく話を聞いてみると、どうやら私はとんでもなく遠回りな道を行っていたようなのです。確かにそれはヤフーマップからは広くてわかりやすい道でしたが、いかんせん遠回りで、毎日飽きもせず使うようなものではなかったのです。

なんということでしょうか。

さて、それからは私も、友人から教わった新しい道を行くことにしています。
驚くことに、移動時間が半分程度になりました。

すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。


終わりに


本エントリでは、「うつつに」「むしろ」「さも」「さぞかし」など、好きな日本語をたくさん使うことができましたので、満足です。
「うつつに」は無理やりではありますが、よしとします。

2012年10月27日土曜日

円周率は体で覚える

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空想の世界の話ですが、円周率というものがあります。おそらく、かなりの知名度があることでしょう。

一応書いておくと、とても綺麗な円があったときに、それの円周の長さを直径の長さで割った値が円周率です。
私も正確には覚えていませんが、確か3.05より少し大きいくらいの数だったと思います。不安になったので正八角形を取り出して確かめてみたところ、やはりそれで間違いないようです。

すぐ上に、円周の長さを直径の長さで割った、と書きました。しかし、この割り算では、答えが割り切れることはありません。さらに言えば、どのような大きさの円を持ってきても、同じ割り切れない数が答えに出てきます。
これは表現を変えると、円周の長さか、直径の長さか、あるいはその両方が、割り切れない長さになるわけです。つまり、ある長さに切ったひもをくるりと円にすると、その直径を定規で測ることはできませんし、ある長さの棒を円でぴったり囲うと、囲ったひもの長さは定規で測れないのです。

一見妙な話にも思えますが、それほどのことはありません。
はじめに書いた「とても綺麗な円があったときに」が絶対に実現しないためです。あるいは、とても綺麗な円があったとしても、その世界には私たちの知っている定規やひもが存在しないためです。

今回はそんな話です。


思考と言葉


ところで、「思考と言葉は別のレイヤにある」といったことを、本ブログでは一貫して述べてきています。これは、「言葉はいつもそれ以上のものを含んでいる」とか、「言葉では表しきれない」のような表現のこともあったかもしれませんが、だいたい近いことを言っています。

改めて大雑把に説明すると、思考と言葉はまったく別の階層にあるものであるため、例えば「思ったことをそのまま口にする」のは絶対に不可能です。だからこそ、「理由は答えられないけど、好き」とか「何がどのようにかは説明できないけど、理解した」といったことが起こるのです。

この発想自体は再三語ってきていますので、今回はあまり立ち入りません。

ですが、この思考と言葉のレイヤについての話が、冒頭に書いた「私たちの住む世界」と「とても綺麗な円がある世界」の話にも似ているように思ったのです。
「私たちの住む世界」が思考に、「とても綺麗な円がある世界」が言葉に対応します。

「とても綺麗な円がある世界」とは少しわかりにくいですが、要するに数学の世界、空想の世界ということです。
そこでは、ものの長さや面積はちょうど測ることができますし、線には太さはありません。

つまり「物事を複雑にするような、何だかわからないもの」は存在しないわけです。
これがちょうど、言葉が「言葉としての情報しかない」ことに似ているのです。

一方の現実世界は、そうではありません。
太さのない線を引くことは不可能ですし、長さをちょうど測れることもありえません。仮にちょうどに見えたとしても、それは単に測定器具の限界なだけです。
現実世界での「長さ5cmの直線」には、実は「0.1mmの太さ」や「わずかな曲がり」や「鉛筆で書いた」などの無数の情報が隠れていて、それがまるで、思考には言葉にならないあらゆる情報があることのように見えるのです。

そう考えると、円周率(正確には無理数です)は不思議です。
空想の世界の産物のはずなのに、その世界の言葉で表しきれずに、現実世界に住む人の想像力にゆだねられているわけです。
言うなれば、限りなく現実に近い空想なのです。


ライフハック


ここまでの話で、特に数学のようなものに興味のない方にとっては、何のことやら、といった感覚も抱いていることでしょう。
ですが、私はいつでもライフハックの話をしています。いえ、いつでも、は言い過ぎですが、ある程度はそうなのです。

本エントリではここまでで、「単純な世界」と「複雑な世界」の話をしてきたつもりです。

繰り返すと、「単純な世界」は数学をはじめとした世界のことで、そこでは物事がぴったり決定します。「数学」と言ってしまうと縁遠いものに見える方もいるかもしれませんが、例えば物の数を数えることもそうですし、「文字」だってそうです。この世界ではあらゆる事象が切り捨てられており、観測できるのは本当にわずかな側面のみなのです。

一方の「複雑な世界」には、ありのままの現実世界や、頭の中で繰り広げられる思考などが該当します。この世界では逆に、すべてのことが複雑です。「hogehogeはfugafugaである」などと言い切れるようなことは何一つありません。

さて、この二つの世界についてよく言われることがあります。
一つは、「単純な世界」の方が理解がしやすい、あるいは少なくとも理解したような気になれやすい、というものです。これは翻って見れば、当然「複雑な世界」の方が理解しにくいことになります。

それを踏まえた上で一つまとめめいたことを書くと、私は世界が複雑であることをきちんと認識している人が好きです。そんな人と関わって生きていきたいと思っています。

もう一つ、別の話としてよく言われるのが、「単純な世界」の方が暗記がしにくく、「複雑な世界」はその逆であることです。こちらについては、多くの方が納得しやすい話になるかと思います。
平たく言うなら、人間は世界を対象にするようなパターン認識には優れているが、数字の羅列を暗記するのは難しい、となるでしょうか。誰しも、それぞれを行う際には明らかに頭が別の種類の動きをしていると感じ取れることでしょう。
後者がうなりながら頭を動かして暗記しているのに対して、前者は体で覚える、といった具合です。

だから、円周率は限りなく体で覚えているに近いのです。


終わりに


この二つの世界をごっちゃに見てしまうと、いろいろやっかいなことが起きます。
最低限、自分がごっちゃに見ていることは認識できる方が良いはずです。

2012年10月21日日曜日

彼を見る私

Clip to Evernote
彼は驚きました。

「ポメラとEvernoteが連携……!」

彼が読んでいたのは、こちらの記事です。

【PC Watch】 「ポメラDM100」がファームアップデートでFlashAir対応に ~無線LAN経由でEvernoteへのアップロードが実現

記事には、ポメラDM100がFlashAirに対応し、Evernoteと連携するようになったことが書いてあります。

彼は取り乱しました。
同じ記事を、下まで読んでは上に戻り、下まで読んでは上に戻り、かれこれ五回繰り返しました。しかし何度確認しても、ポメラがEvernoteと連携するようなのです。

それは取り乱しもするでしょう。さすがの私も驚きました。
まさか、ポメラから直接Evernoteにテキストを送れるようになるとは。

「嘘だろ……。これからは、ポメラで書いてるそばからEvernoteに送れるってことじゃないか」

そういうことになります。
彼にとっては、ポメラDM100はかけがえのない存在です。発売と同時に購入し、いまではもう彼の体の一部と言ってしまって差し支えありません。あるいは、全部でしょうか。

その後、彼は下記の記事も読み、やはりポメラとEvernoteが連携することを確認しました。

誠 Biz.ID:仕事耕具:ポメラからEvernoteへの投稿が可能に、ソフトウェアバージョンアップで

「FlashAir買いに行かなきゃ!」

彼は記事を読み終えると、慌ただしく家を飛び出していきました。

ちなみにFlashAirとは、東芝のWi-Fi内蔵SDカードのことです。公式ページへのリンクを置いておきます。

無線LAN搭載SDHCメモリカード FlashAir(TM) | 東芝 Pocket Media

彼もこれについてはあまり詳しくないため説明は聞けないでしょうが、上記の公式ページを読めば、問題なく情報は得られそうです。

そうこうしているうちに、彼が帰ってきました。
荷物を置くのもそこそこに、買ってきたFlashAirを取り出して、ポメラにセットしています。

それから彼は何やらごそごそやっていましたが、突然、大きな声を上げました。

「やった! Evernoteに転送できた!」

どうやら、無事にポメラからEvernoteにテキストを送ることができたようです。
彼はすっかり満足そうな表情で、つぶやきます。

「よし、これについてブログに書こう」

そうして彼は、以下のような文章を書き始めたのです。


私は驚きました。
まさか、ポメラとEvernoteが連携するようになるなんて、夢にも思わなかったのです。

それを伝えている記事を始めて目にしたときは、それはもう、取り乱しました。
同じ記事を十回くらい読んでしまったものです。いえ、十回は大げさかもしれませんが、とにかくたくさん読んだのです。

(君が読んだのは五回ですよ。)

すなわち、これからは、ポメラで書いているそばからEvernoteに送れるということになります。
感動的です。

(その表現気に入ってますね。)

そこで本エントリでは、それを実現する手順について、簡単にまとめておくことにします。

まずは、ポメラのソフトウェアバージョンを1.2.10.0にアップデートする必要があります。
下記のページ最下部の、「「ポメラ」DM100ソフトウェア(Ver.1.2.10.0)をダウンロードする。」のところにあるリンクをクリックします。

「ポメラ」DM100ソフトウェア(Ver.1.2.10.0)ダウンロードサービスを受けられる方 | 「ポメラ」DM100 ソフトウェアアップデートのご案内 | 「ファイル」と「テプラ」のキングジム

(下記のページ最下部、とは微妙にひっかかる日本語です。)

規約の確認を済ませると、アップデート用のexeファイルが置いてあるページに行けますので、それを一度ローカルにダウンロードしてきます。

そのexeファイル自体は圧縮ファイルになっており、実行すると展開され、binファイルが出来てきます。これで準備は完了です。

次に、SDカードをセットしたポメラDM100を、「電源オフの状態で」PCとUSB接続します。
接続すると、ポメラ本体メモリとSDカードの二つが外部記憶デバイスとして認識されますが、今回重要なのはSDカードの方です。

SDカードの方に、先ほど作成したbinファイルを保存します。このとき、保存ディレクトリはSDカードの最上位の階層にします。私は試していませんが、SDカード内に作成したディレクトリ配下に格納してしまうと、アップデートができないそうです。

binファイルを保存できたら、Windowsの「ハードウェアの取り外し」をしてUSBケーブルを抜きます。

一度USBケーブルを抜いたら、ポメラを「電源オンの状態で」再度PCとUSB接続します。

今度はPC側から認識されないので、接続でき次第、ポメラで[menuボタン] -> [設定] -> [バージョン情報]と移動します。
現在のポメラのソフトウェアバージョンが表示されますので、そこでF1キーを押下します。

すると、最終確認のダイアログが出て、ソフトウェアアップデートが始まります。

(このアップデート中の画面、格好良かったですね。)

完了したら、USBケーブルを抜きます。
するとポメラが再起動されて、めでたくソフトウェアバージョンが最新になるわけです。

なお、アップデート前にファイルのバックアップはしておく方がよいでしょう。
私は何もありませんでしたが、何が起こるかはわかりません。

(これはその通りです。ちなみに、ポメラの各種設定もデフォルトに戻るようです。)

さて、いよいよEvernoteにデータを飛ばしてみます。

そのためには、Evernoteに転送したいファイルをポメラ上でFlashAirに保存します。ポメラでは、保存先として本体メモリとSDカードが選択できますので、FlashAirをセットして、SDカードの方に保存すればよいです。

あとは、ポメラの[menuボタン] -> [ツール] -> [FlashAir]を選択し、画面の指示に従って無線LANへの接続とEvernoteアカウントの設定を行って、転送したいファイルを選択すると、Evernoteにファイルが転送されます。

Evernoteでは、「pomera」というノートブックが新たに作られて、その中にノートが作成されていくようです。ノートタイトルは、元のファイル名がそのまま使われます。

(ファイル名は拡張子も込みです。つまり「hogehoge.txt」というノートが作られます。ノートタイトルに「.txt」が付いているのは、多少違和感がありますね。)

彼はここまで書くと、大きく伸びをしました。

「よし、これでだいたい完了だな」

確かに、文章ばかりでやや読みにくいきらいはあるものの、手順としてはこれくらいでしょう。

「ところで」

彼は不意に虚空を見上げました。

「おい、そこのおまえ」

私ですか?

「ずっと見てたんなら、エントリのタイトルくらい考えてくれよ。俺はもう疲れた」

あら、気づいていたのですか。

「タイトル付けたら、公開もしといて。俺はテキスト書いて、それをおまえに転送するまでが仕事なんだ」

わかりました。では、タイトルは「ポメラを見るEvernote」あたりにしておきましょう。普段は、渡されたファイル名をそのままタイトルにしているのですが、今回は特別です。


終わりに


という、エントリを書きました。

タイトルはストレート過ぎますので、少し変えておきます。
それから、公開も私がします。

私が他所のクラス

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こちらの記事を読みました(ありがとうございます)。

R-style » 「仕事術のiPhoneアプリっぽさ」について

記事の内容についてはぜひリンク先をチェックしていただきたいと思います。
本エントリで取り上げたいのは、上の記事の内容とはあまり関係なく、そこで現れていたある一文についてです。
引用いたします。
仕事術をiPhoneアプリに類推する(※)と、次のようなことが思い浮かびます。
※関数っぽく表記すると、類推(“仕事術”,”iPhoneアプリ”);
なるほど、String二つを引数にとるような、「類推」メソッドを呼んでいるわけです。返り値(リターン)については、とりあえずここでは明示されていません。

いま、私は「類推」メソッドが定義されているものとは別のクラス(モジュール)だとします。
つまり、「類推」を使うには、定義されたクラスをimportしてくるなどする必要があるわけです。

今回はそんな話です。


別のモジュール


現実の行動としての「類推する」に上で述べたような様子を当てはめてみると、非常に興味深い話が思いつきます。
こればかりは、実際に「類推する」ことの経験がないと説明しにくいのですが、たぶん、そのような方はあまりいらっしゃらないでしょうから、そんな説明でいきます。

私が「類推」メソッドが定義されているのとは別のクラスだった場合、「類推」が実際に内部で何をしているかは見えません。わかるのは、String二つを渡すと何かを返してくれることだけです。
オブジェクト指向プログラミングの言葉では、これを「カプセル化」などと表したりします。これはあちこちで出てくる重要な概念ですので、「カプセル化」以外にも似た単語を目にするかもしれませんし、あるいは「カプセル化」の定義はそんなものではない、といった話もあるかもしれませんが、とりあえず本エントリでは「カプセル化」で統一することにします。

ちなみに、私は社会の発展の歴史はカプセル化の歴史だと思っているのですが、この主張は極論過ぎてあまり面白くないので、いまのところ、それについて深く考えたりどうこうしたりする予定はありません。

話が逸れました。「カプセル化」、つまり他所からは中身が見えないことの話です。

そして、私たちが実際に「類推」と呼ばれる行為をするときも同様、その中で何が行われているかを見ることはできません。「何かを何かに(先の例では仕事術をiPhoneアプリに)類推しよう」と思ったとき、どこがどうなって類推結果が得られているのかは、普通はわからないのです。
ここでわかるのは、「何かを何かに」の「何か」を決めると、ある類推結果が得られることだけです。


化学反応


それから、こちらの記事を読みました。

外向的な人優位の中で、内向的な人が渡り合っていくための、小さな工夫と考え方 #tokyohack010 | Find the meaning of my life.

こちらも、本エントリでその内容まで踏み込むことはしませんが、ぜひお読みいただきたい素晴らしい記事です。

私が取り上げたいのは、記事内の以下の文章についてです。
引用いたします。
フラスコに同じ薬品をいくら入れても化学反応は起きません。熱を加えたり、異なる薬品を入れて初めて化学反応というのは起こるものです。
なるほどと思いました。もちろん、同じ薬品であっても、それを過剰に入れることで別の反応が起きることは多々ありますが、そういった話は置いておきます。

ここで、化学反応と呼ばれるものについてもう少し見てみます。
上の引用文のように、日常生活における比喩として化学反応の言葉が使われる場合には、「別のものを複数持ってきて混ぜると、何か思いもよらないものが出てくる」といった雰囲気があるように思います。音楽CDのディスクレビュー記事などを思い出してみるとわかりやすいでしょう。

ですが、実際の化学反応では、なにもそういった不思議なことが起きているわけではありません。
反応の前後では、全体の質量も電荷もその他諸々も大抵が一定に保存されますし、変化する部分も、元の化学式から「これは弱酸の遊離だな」などといってきちんと計算できます。
その計算が複雑で大変であるような状況はあるにせよ、得体の知れないことが起きているわけではないのです。

ただし、これは「化学反応」が定義されたクラスの内部にアクセスできる場合での話です。
もし、私が「化学反応」をimportして使う立場のクラスだった場合、やはりそこでは得体の知れないことが起きています。適当な薬品を複数渡すと、全く別の薬品が返されてくるわけです。そこで保証されているのは、返されてくるものは自分が渡したものに依存して決まる、ということだけなのです。

翻って、この「化学反応」が日常生活の比喩である状況に再度目を向けてみます。

私はやはり「化学反応」の内部で起きていることはわかりません。化学反応はカプセル化されているわけです。わかるのは、自分が渡したものによって、返されるものが決まることだけです。

しかし、このことは、一つ悪くない発想に私を行き当たらせます。

「化学反応」メソッドが有用であることは先人たちの様子から明らかなわけですので、もしそれによって良いリターンが得られなくても、それは単に渡すものが良くなかっただけになります。
与えられたメソッド内部の出来が悪いとか、そういったことは考える必要はありません。そもそも「化学反応」も「類推」も他所のクラスのものですので、どうしようもないのです。
(継承してくることはできるかもしれません。)

ですので、自分の使っている「類推」や「化学反応」は駄目だ、と嘆く必要はありません。渡すものの選択に、工夫する余地が十分あるわけです。
きっと、良いリターンを得られるインプットは、どこかで見つかるはずなのです。


終わりに


本文中に、「極論過ぎて面白くない」とのことを書きました。

書いてから気づきましたが、私は、極論過ぎるものを面白くないと感じるようです。
これはどのような現象なのでしょうか。不思議です。

そうすると、「面白い」も他所のクラスで定義されたメソッドということになります。

2012年10月17日水曜日

これはテクノですか

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こちらの記事を読みました。

10月14日(日)、東京ライフハック研究会Vol.10でプレゼンします!15分間で恥ずかしげもなく夢を語ってきます! | jMatsuzaki

記事自体は、「東京ライフハック研究会」なる場所でプレゼン大会が行われることについてのものですが、本エントリで取り上げたいのは、それとは別の点です。
引用いたします。
私はこの貴重な15分で恥ずかしげもなく存分に夢について語ってくるつもりです。
私はこの「恥ずかしげもなく」という言葉が好きです。
こちらのブログ「jMatsuzaki」を私はとても好きであり、その理由の一つはその「恥ずかしげもなく」な部分なのかもしれないと思っています。

それから、上でライフハックとの単語が出現していますが、本ブログでたびたび言及しているとおり、私はそれが好きです。

近頃は声高にライフハックを叫んでいる記事などもあまり見なくなってきていますし、同時にライフハックについていろいろと言われることも少なくなってきているような気がします。
いろいろとは、例えば以下の記事でそれについて触れられています。

若葉ブロガーさんへの手紙其の3−あなたの「言葉」と「声」を聞かせて欲しい | Hacks for Creative Life!
いわゆる信念の部分さえしっかりしていれば、2chやはてなブックマークのコメントで「ライフハック(笑)」とか「手段と目的が逆転している」と書かれたとしてもさほど気にはならないわけです。
実際、私自身はこのような意見を自分で目にしたことはありません。それはもう、一度たりともありません。おそらく、それはひとえに私の観測範囲が好きなブログのRSS購読と読書でほぼ尽きているためなのでしょう(最近は「cakes」が増えました)。ですので、「ライフハックについていろいろと言われている」かどうかは、知らない、というのが本当のところです。

それはそれとして、ともかく、最近はライフハックの声を聞くことが減ってきているように感じています。統計などはなく、なんとなくです。

ですが、私は当分ライフハックの看板を下ろすつもりはありません。今も変わらず私はライフハックを信じていますし、これからもそうなのです。

私がライフハックを好きなのは、一言で言えば、ライフハックは手段にこだわるからです。
とはいえ、本ブログを読んでくださる方ならおそらくご察しの通り、この「ライフハックは手段にこだわるからです。」にはたくさんの意味と背景と、その他諸々のものが含まれています。

これに関係するかもしれないものがあります。
最近、『それでも、読書をやめない理由』との本を読みました。大変素晴らしい本で、強く影響を受けたのですが、その中に下記のような文章がありました。

それでも、読書をやめない理由(デヴィッド・L. ユーリン)
本の場合、あるいはある程度の長さにわたる文章の場合、状況は違ってくる。もっと緩やかで、深く、静かだ。
私が、本を読みたい、文章を書きたいと思う理由の一つはここにあるのかもしれないと、この一文を目にしたときに感じました。
長い文章は、緩やかで、静かなのです。

他方で、短い文章が唯一静けさを湛えているのは、そこにたくさんの何かが含まれているときだと言えるかもしれません。つまり、見た目は短くても、長い話があるわけです。有名な例で恐縮ですが、「サラダ記念日」などがそれでしょう。

したがって、私が言う「ライフハックは手段にこだわる」は、静かであってほしいと思うわけです。

さて、それもあって私はライフハックが好きです。
ここで、この「ライフハックが好き」にはある種独特の響きがあると、私は感じています。
これは、先の「手段にこだわる」とはやや趣を異にしており、「ライフハックが好き」との表現自体がその独特さをまとっているのです。

その独特さは、それゆえに言葉で表現するのがとても困難なのですが、私にとっては「テクノが好き」と似ているように思えます。

世間から見れば私などはまったくの無知の部類に入るため、説明するのは気恥ずかしいものがありますが、書きます。
現代で、テクノという音楽ジャンルについて答えるのは、とても難しくなっています。それは、テクノは常に変化を続けていて、ジャンルが次々に細分化されていったり、その細分化された先が別のジャンルと融合したり、といったことが起きているためです。これは、テクノの性質からして仕方のないこととも言えます。
その結果として、例えば、ある楽曲を聞かされて「これはテクノですか?」と問われても、明確に回答するのが難しくなってきます。あるいは、「テクノってどんな音楽ですか?」との問いも、とても答えにくいはずです。

それでも、私はテクノが好きです。
「テクノが好きです」
「テクノってどんな音楽ですか?」
「それは……」
となってしまうにも関わらず、好きなのです。
そして、少し上で言及した「独特の響き」とは、たぶん、このあたりのことを指しています。

つまり、ライフハックもこれと同様なわけです。
ライフハックとはいったい何なのか、何の役に立つのか、といったことに即答できないものの、やはりそれが好きなわけです。

ライフハックもテクノも、私は「恥ずかしげもなく」好きだと言うのです。


終わりに


前置きを書いていたつもりだったのですが、終わってしまいました。
今回は、そんな話でした。

2012年10月14日日曜日

幽霊を探さないで

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本エントリでは、私が好きなものについて書きます。
と思いましたが、今私が書こうとしていることが、好きなものについてではないような気もしてきました。
とはいえ、私は基本的には「これは何についての文章か」「何を伝えたいのか」といったところは、読む人に自由に解釈してもらってよいものだと思っていますので、「私が何について書こうとしているか」はそれほど重要ではありません。
(よくわかりませんが、このあたりの感覚はフィクションを書く人のそれに近いのかもしれません。)

一応、テーマとしては「瞬間」とか「一時的」といったものを想定しています。

今回はそんな話です。


コーヒー


私はコーヒーをよく飲みます。それは自宅、外出先を問わずのことですが、ここでは自宅でコーヒーを飲むときの話をします。

私は、自宅では必ずコーヒーをホットで飲みます。ここにはそう深い意味はなくて、私がコーヒーはホットの方がおいしいと思っているために過ぎません。

そのとき感じることがあります。
それは、どうやら私は冷めたコーヒーが好きらしい、ということです。
熱いコーヒーを入れて(「淹れて」は常用外のようです)、コーヒーをおいしく飲んでいるのですが、そのコーヒーが冷めてきたときに飲むと、おいしさとは違った何とも言えない満足感を覚えるのです。単純に比較すれば、間違いなくコーヒーは熱いほうがおいしいにも関わらず、です。

これについて細かく見てみると、私はコーヒーが冷めていく瞬間が好きなのかもしれないとの考えに至りました。清水愛さんの『記憶薔薇園』という曲に、「消えてく瞬間が好きでも 探さないで」との歌詞がありますが、たぶん、発想はこれと近いと思っています。
言い換えると、冷めたコーヒーはさほどおいしくなくても、コーヒーが冷めていること、コーヒーが冷めてきたこと自体に、私が満足する要素があるようなのです。

私は、コーヒーをまず間違いなく毎日飲んでいます。
それと、私はどちらかというと性格がのんびりしています。というか、のんびりしているようです。これは最近気づきました。

普段、時間に追われて生活していると、自宅でゆっくりコーヒーを飲む機会にはあまり恵まれません。熱いうちに、急いで飲み干して家を出る、といったこともままあるわけです。
一方で、時折は、ゆっくりコーヒーを飲む時間を確保できることもあります。休日などがわかりやすい例です。

これが、私が「コーヒーが冷めていること、コーヒーが冷めてきたこと」自体に満足を得る理由です。
冷めたコーヒーを飲めることはすなわち、自宅でゆっくりする時間がとれていることの象徴であるわけです。これは、自宅でゆっくりすることが好きでない方には自明でないのでしょうが、私にとっては、それはもう満足なのです。


幽霊


まったく別の話に移ります。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」との言葉があります。
私がこの言葉がとても好きです。「疑心暗鬼を生ず」よりも好きです。

これは、江戸時代の俳人、横井也有が「化物の正体見たり枯尾花」とつづったのが出自のようです。
横井也有については、こちらのページが詳しいです。

y横井也有

とても興味を引かれましたので、私も後ほどじっくり読んでみたいと思います。

さて、一つ気になるのは、この「幽霊(化物)の正体見たり枯れ尾花」、横井也有はどのような状況でこれを書いたのでしょうか、とのことです。
より詳しくは、「枯れ尾花だった!」と感じたのは誰だったのでしょうか、と言い換える方が良いかもしれません。
もちろん、きちんと調べればそのあたりのことはわかるのでしょうが、ここからはまったくの私の想像を書いてみます。

一つめに思いつくのは、横井也有が第三者だったパターンです。
その場合、横井也有の知り合いあたりから「それがさ、枯れ尾花だったんだよー」といった話を聞き、それを書き残したことになります。なるほど、ありそうな話です。

二つめは、横井也有が自分で「枯れ尾花だった!」との状況を経験したパターンです。
これは、横井也有ほどの人(といってもよく知りません)がそのような人間らしいエピソードを持っていることを意味しますので、それはそれで面白いです。

三つめは、これが幽霊(化物)目線で書かれているパターンです。
考えてみれば、幽霊は、「あれ、幽霊かも……」と思われた瞬間から、近づいていって「なんだ、枯れ尾花じゃないか」と確かめられた瞬間までの、ほんの少しの間にしか存在できない、うたかたの存在です。それはちょうど、熱いコーヒーが冷めてきたときにしか得られない満足感に似ているようにも思えます。
そう思ってこの「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を見てみると、何だか物悲しいものがあります。これは、幽霊がほんの少しだけこの世に生を受けて、すぐに消失していってしまう様子を表しているわけです。
私はそんな、「消えてく瞬間が好き」だったのかもしれません。

でも、「探さないで」とのことですので、そっとしておこうと思います。


終わりに


そんなことを考えているうちに、コーヒーが冷めてしまいました。

2012年10月13日土曜日

知っていることの話

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私は会ったことがありませんが、昔の人で、「無知の知」などということを考えた人がいるそうです。
言われてみれば確かに、知らないことを知っているかどうかは非常に重要なことでしょう。かくいう私も、知らないことをきちんと知ることができているか、あまり自信はありません。

一方で、知っていることを知っているかどうかも、また重要なことだろうと思います。やはりこちらも、私は自分が知っていることを知っているかどうか知るにはどうしたらよいか、自信がないものです。

本エントリでは、知っていることを知ったときについて知りたいと思っています。
そろそろ知るがゲシュタルト崩壊してきそうですが、つまるところ、知っていることを知っておくことには価値があるのです。

ちなみに、この書き出しはこちらの記事に影響され、最大級の敬意を込めて、このようになっています。

自分のことを考えるエネルギー効率が非情に悪い ( #ブログ合宿 での記事) - なんかカラフルな生活

とても好きな記事で、そしてとても好きなブログです。ぜひ、お読みいただきたいと思います。

さて、本エントリでは「知っていることを知ったとき」、きちんと言えば「すでに持っている知識についての情報を、再度目にしたとき」について考えます。
決して、「無知の知」などとは関係しませんし、複雑な話でもありません。

今回はそんな話です。


すでに知っている


こちらの記事を読みました。素晴らしい記事です。

「delaymania」に後付けで意味を持たせることにしました | delaymania.com

こちらでは、「それ知ってるよっていうことを敢えて書く」と題されて、下記のような文章が続いています。
TwitterやらFacebookやらを見てると「それ知ってるよ」とか「基本中の基本でしょ」というご意見が目についたりすると思います。
でもあなたの周りにはそのことを知らない人がわんさかいるんです。
まさにその通りだと思います。
ある情報について、自分が「それはもう知ってる」と思ったとしても、一方では、「それは知らなかった!」と、その情報が大いに役立つような人がたくさんいます。
私などは、直接「基本中の基本でしょ」といった意見を目にしたことはないのですが(おそらく「TwitterやらFacebookやらを見て」いないためでしょう)、いつだって、その情報に価値を感じる人はいるわけです。


知っている人


上記は、すでに知っている情報を目にすることの価値を、他人に求めたものでした。つまり、自分には役立たないけど、どこかに役立つ人はいる、との発想です。

他方、同じ状況で、自分にとっても価値のあることを考えましたので、それについても書いてみます。
要は、すでに知っている情報を目にすることが、目にした当人に対してもたらす価値についてです。

それは、自分の中で理解できていることでも、それを(文章をはじめとした)形ある表現として一度目にしないと、それを踏まえた行動をとることができないことです。
言い換えると、情報を目にして「基本中の基本でしょ」と思ったとしても、それを目にする以前では、「基本中の基本」の先にある行動はできていなかったことになります。

何か具体例を出すことにします。
『武器としての交渉思考』に、下記のような文章があります。


『武器としての交渉思考』(瀧本哲史) 
だからこそいま、若い世代の人間は、自分たちの頭で考え、自分たち自身の手で、合意に基づく「新しい仕組みやルール」を作っていかなければならない。
こちらは本書の出だしの部分でもありますし、内容や文脈についてはすべて脇によけておきます。
単純にこの文章だけを見たとき、多くの人にとって、特に目新しいことはないでしょう。「へえ、自分たちの頭で考えないといけないんだ!」と思うような人は、少数のはずです。

しかし、「今の時代は、自分の頭で考えないといけないんだろうな」と何となく思っているような状況では、実際に自分の頭で考えて、その上で行動をすることは難しいです。
当然わかっているとしても、一度「頭で考えないといけないんだよ」との情報を目にすることで初めて、それを踏まえた行動を検討できるのです。

すなわち、すでに知っている情報を目にしたときの心の動きとして、
  • それは知ってるな
  • 「基本中の基本でしょ」
ではなく、
  • それは知ってるな
  • だから、どうしようか
とすることで、既知の情報を改めて目にすることに価値が生まれますし、本来、「それは知ってるな」を抜きにして「だから、どうしようか」は発想し得ないことなのです。

ここで言っているのは、そのような状況でも工夫すれば価値を見出すことができる、といった妥協案ではなく、ここでの価値(「だから、どうしようか」を考えられること)はそのような状況(「それは知ってるな」が必ず一度先に来ること)でしか絶対に得ることができない、との原理の話です。

この「それは知ってるな」は、何も他者が発信した情報に限りません。自分で何となく理解していることを文章に起こしてみることなどでも、同様です。
そもそも、自分の力で書いた文章は、ある面では究極の「それは知ってるな」情報なのです。


終わりに


すぐ上で、「究極の」の前に「ある面では」と注釈が入っているのは、自分で書く文章でも、書いているうちに自分の手を離れていって、終わってみたら思わぬ場所に着地していた、ということがあるためです。
すると、自分で書いた文章を読み返してみても、「それは知ってるな」とならないのです。

2012年10月11日木曜日

蓄積にかかる手間

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仕事の進める上での考え方の一つに、自分なりのチェックリストを少しずつ作成していく、というものがあります。
これはつまり、日々作業を行っていく上で、気になったことや誤ってしまったことなどを逐一リストにしておき、成果物を検証するときにそれを持ち出してくることを指しています。
具体例で言うなら、あるとき句読点の付け方が良くない資料を作ってしまったとして、リストに
  • 句読点の付け方を確認する
との項目を記述しておくわけです。すると次に資料を作る機会には、このリストを用いてそれを点検することで、少なくとも句読点が適切でない資料が出来上がることは免れることができ、嬉しいのです。

さて、このようなチェックリストは、基本的には自分が将来の自分のために作成するものです。もちろん、そうでないものも世の中にはたくさんあるでしょうが、そうでなければないほどその効果は低くなると予想できます。

ですので、本エントリでは、自分で使うために、自分で少しずつ作るチェックリストに限定して、考えを進めていきたいと思います。

今回はそんな話です。


チェックリスト


それにしても、気にすべき事項が目に見えるようになっていることには大変な効果があります。何もこれは「チェックリスト」などという仰々しい容姿をしている必要はなく、とにかく今気にしたいことが目の前に明らかになってさえいれば、十分に効果的です。
と言いますか、逆に、今気にしたいこと(先の例なら「私は句読点を適切に使っているだろうか?」)が頭の中にしかない状態で成果物を点検する苦しさといったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。
この場合、いてもたってもいられず、私は目の前にある紙に「句読点は適切に使えているか」と書き出すのです。

この意味では、「チェックリスト」との名称は少し派手過ぎるのかもしれません。
重要なのは、気にしたいことが目の前にある状態の方です。名づけるなら「蓄積しないチェックリスト」となるでしょうか。

気になることを書き出して、その紙をきちんと保管しておき、次に気になることがあったらそこに追記する形式を採っていれば、それは普通のチェックリストです。
すぐ上で述べたのはそれとは異なり、苦しくて書き出さずにはいられないからそうしただけで、それをとっておいたり追記したりするかどうかは二の次になっているわけです。「蓄積しないチェックリスト」とは、そのような意味です。


蓄積する


別に、チェックリストが蓄積しようがしまいがどちらでも良いことではあります。それに、両者にはそれぞれに違ったメリットがありますので、そこは踏まえておくのが良いと思います。

ただ、蓄積する方、つまり普通のチェックリストを活用しようとする際に、一つ注意すべき点があります。蓄積しないチェックリストの方では、原理的に起こらないことです。

それは、チェックリストは、ほんの少しでも「これは飛ばしてもいいかな」「省略してもいいかな」と思ってしまうと、かなりの程度で価値が下がることです。

上で、チェックリストの項目は気になることがある度に追加していくことを述べました。しかし、それを繰り返していると、じきにそのリストを用いて成果物を点検するのに多大な時間がかかるようになってきます。
単に時間がかかるだけならまだしも、例えば、ずっと前に追加した項目が今や用を成していなかったり、項目が多くて点検自体を面倒に感じるようになってきたりすると、もはやそのリストは使い物にならなくなってきます。

冒頭で、他人が作ったチェックリストは効果があまり高くない、といったことを述べたのは、このことを理由にしています。
(もちろん、他人が使うことを念頭に、検討に検討を重ねたチェックリストはその限りではありません。それは、『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?』(アトゥール ガワンデ)などで明らかです。)

使いどきがぴったりで、省略できる項目は一つもないと心底思っていて、その効果を信じて疑わないようなものでないと、本当に効果のあるチェックリストとは言えないわけです。
状況に完全には合致していないようなチェックリストを持ち出してきて、「この項目は今回はチェック対象外だ」などというものがあったりすると、「あれ、これも、これも対象外なんじゃ……」と思ってきてしまい、身の入ったチェックは望めないのです。
(ちなみに、これは「まったく考慮していなかった事柄を教える」ような目的には効果があるかもしれません。このあたりはまた別の機会に考えてみます。)

このように考えていくと、究極に効果の高いチェックリストは、蓄積しないものであると言うこともできます。

一方で、蓄積するようなチェックリストを活用しようとするなら、それなりの手間と工夫をかける必要があることを、心にとどめておく必要があるのでしょう。


終わりに


自分で言うのも何ですが、句読点が良くない資料を作ってしまった、との状況がいまひとつぴんときません。

2012年10月9日火曜日

私と「カキモリ」さん

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文房具が好きです。その理由やきっかけは定かではありませんが、好きです。
しかし、好きとはいえ、世の中に数多ある様々な世界と同様に文房具のそれもなかなかに奥深いもので、軽く見渡してみるだけでも、私にとっては知らないことの方がはるかに多いようです。

それから、文房具が好きと一口に言っても、その楽しみ方はまた多様にあることでしょう。
「筆記用具を収集するのが好き」「紙類が好き」「手書きするのが好き」あたりが、ぱっと思いつくところです。
ちなみに私の場合は、一つには「たくさんある文房具を眺めるのが好き」ということがあるように感じます。とりもなおさず、それは「文房具屋さんが好き」なのかもしれませんが、とにかくそうなのです。

そしてこのたび、その「文房具がたくさんある場所」であるところの文房具屋さん、東京、蔵前の「カキモリ」さんに行ってきました。

たのしく書く人。カキモリ

こちらで大変素晴らしい時間を過ごさせていただきましたので、本エントリではそれについてご紹介します。

今回はそんな話です。


オーダーノート


今回私は、「カキモリ」さんで「オーダーノート」を作成していただきました。これは、表紙や中紙、留め具などを選んで、自分なりのリングノートを作ってもらえるというものです。
詳しくは、こちらのページをご覧いただくのが良いです。

中紙などは、罫線の引き方のバリエーションはもちろんのこと、紙自体の種類からたくさんの選択肢があり、私はだいぶ悩んで決めました。楽しかったです。

というわけで、今私の手元には、未使用のうちからすでに思い入れたっぷりのノートが一冊あります。
使い道は特に決まっていませんが、かたわらに置いておくだけで、非常に気分が良いです。


その他の文房具


オーダーノート以外にも、いくつか買い物をしました。そちらについてもご紹介します。

まずは、ステッドラーの「テキストサーファーゲル」です。
通販サイト「kaerumonCLUB」の商品ページが詳しい説明を掲載していましたので、リンクをご紹介しておきます。

ステッドラー クレヨンみたいな蛍光ペン テキストサーファーゲル 3色セット: 筆記具- 個人向け文具・日用品通販サイト カエルモンクラブ kaerumonCLUB カエクラ

リンク先は「3色セット」となっていますが、私が今回購入したのはそのうちのオレンジです。
商品ページには「クレヨンみたいな蛍光ペン」との表現があります。何のことやらと思われるかもしれませんが、使用してみると、確かにそうとしか言えないものがあります。
様子は間違いなく蛍光ペンであるにも関わらず、書き心地がクレヨンなのです。

それから、ぺんてるの「トラディオ・プラマン」も購入しました。
こちらはオフィシャルページ(おそらく)がありましたので、リンクをご紹介します。

ぺんてるライブラリー

「トラディオ・プラマン」は、属性としては水性のサインペンです。ですが、書き心地や筆記線が独特で、さながら万年筆を使用しているようなのです。

上記のオフィシャルページ(おそらく)には、このような説明があります。
その結果、1979年に万年筆とサインペンの特性を兼ね備えた「プラマン」が発売されたのです。万年筆のしなやかなペン先の弾力と微妙な角度によって筆幅が異なる筆跡は、金属ならではのものでした。しかし、「プラマン」では、その万年筆に近い筆跡を実現させたのです。
万年筆が出てくるのが大仰過ぎるのであれば、単に「すごく書きやすい水性サインペン」ととらえても問題ないと思います。
すなわち、万年筆に興味のない方にも、試してみていただきたいペンなのです。

最後に、マスキングテープも二つ購入しました。
こちらです。



普段はカモ井の「mt」シリーズを目にすることが多いためか、はたまた別の理由なのかはわかりませんが、あまり見ることのないデザインでした。良い買い物ができました。


終わりに


たくさんの文房具をゆっくり眺められ、楽しかったです。
ちなみに、私は本に対しても似たような感覚があります。要するに「本屋さんが好き」なのかもしれない、という話です。

2012年10月7日日曜日

よくあるコンソメ

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よくある話、という表現があります。直感的に言って、それはつまり、その話があまり珍しくない様子を指しています。
本エントリでは、そんなよくある話を二つほどしようかと思います。

二つともよくある話には違いありませんが、しかし二つありますので、誰にとってよくある話になるのかはそれぞれで少し異なります。それと、数あるよくある話の中からその二つの話を選んできた理由は、よくある話ではないかもしれません。こう考えていくと、まともによくある話をするのはとても難しいことのようにも思えてきます。

そんな話がしたいわけではありませんでした。

今回そんな話です。


コンソメ


私は家で自炊(スキャンじゃない方)をします。特に料理上手だといったことはありませんが、少なくとも自分が不満でない程度にはこなせています。

(まったく関係ありませんが、この「特筆すべきことはないが、自分が困らない程度には問題ない」という感覚がわりと好きです。ただ、それを日常会話の中で人に伝えるのが非常に困難で、いつも苦労しています。適当なたとえなどを思いつく方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいです。)

あるとき、必要があって固形のコンソメを買ってきました。
この固形のコンソメなるものがどの程度一般的で、そしてどの程度詳しい説明を必要とするものなのか、私にはよくわかりません。一辺が1センチくらいの立方体の形をしたコンソメのかたまりで、お湯などに溶かして使用するものです、あたりの説明で良いでしょうか。

さて、そのような固形のコンソメは、たいてい、一パックに相当な量が入っています。「相当」の感じ方は人それぞれでしょうが、とりあえず私にとっては相当で、容易には使い切れない量です。
加えて、固形のコンソメを使う機会は、私にはそれほど多くありません。つまり、必要があって買ってきたものの、そんなに使わないのです。

その結果、我が家には使われずに量が減らないコンソメが、長いこと置かれたままになることになりました。
幸い、コンソメの消費期限はそこそこありますし、収納スペースは十分にあります。よって、急いで廃棄する必要はありませんが、しかしいつかは何とかしなければなりません。

ところが、きちんと観察すれば、問題解決は可能でした。すなわち、我が家でコンソメが使われないのには、理由があったのです。

単刀直入に述べると、我が家にはスープ用のお皿(カップでしょうか)がなかったためです。
このあたりを説明するためには「固形のコンソメは何に使うものか」などの話が必要になってきてしまいますので、省略します。とにかく、我が家にはスープ用のお皿がなくて、固形コンソメの使いどころが少なくなってしまっていたのです。

それに気づいたのは、まったく別のきっかけから、スープ用のお皿を買ってきたときでした。

平たく言えば、スープ用のお皿を買ってきたときに、「あれ、これでコンソメ使えるじゃん」と思ったのです。

以来、我が家の固形コンソメは着々と減ってきています。
And I lived happily ever after.

以上が、一つめのよくある話です。


二つめ


二つめの話は非常に単純ですので、あっという間に終わります。

あらゆる場面において、物事にはいくつかの小さなものと、それを生かすような大きなものがあります。前者の「小さなもの」は「要素」などと呼ばれたりするでしょうし、後者の「大きなもの」は「文脈」あたりが表現としては良さそうです。とりあえず、以降はこの二つの単語を使って話を進めます。
(もちろん、二つだけなどということはありません。)

その物事を形成するためには、「要素」と「文脈」はどちらも必要です。そして、ある場合では、それら二つは必要なときに両方きちんとそろいます。
これは非常にスマートです。

一方で、別の場合では、そのうちのどちらかしかそろわないこともあります。
ですが、あるときに「要素」しか用意できなくても、またあるときに「文脈」が手に入れば、なんとか物事を形成することができます。
こちらの方が多少苦労しているものの、結果だけなら、先の例と同じようにスマートに見えます。

先のようにスマートにやれるならそれに越したことはありませんが、私は後の話もわりと好きです。

以上が二つめの話です。


要素の問題


「要素」と「文脈」が別のタイミングで手に入ることを考えるとすると、一つ気になる点があります。

それは、将来どんな「文脈」で必要になるかわからない「要素」を、どのようにとっておいて、どうやって取り出してくるか、ということです。

うまく「要素」を保管する場所を決めても、それには消費期限のようなものがあるかもしれません。あるいは、その保管場所が「要素」やその他のものでいっぱいになってしまい、何が何だかわからなくなってしまうかもしれません。

しかし、そのように見た目がスマートでないからといって、悪いことではないと思います。
スマートでない私でも、コンソメスープは食べられたわけです。


終わりに


すなわち、コンソメのように保存が楽ではないかもしれないのです。

2012年10月5日金曜日

イノベーターの魔法

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これを書いているのは2012年の10月5日ですが、少し前に、「Francfranc」にておしゃれなノートを買ってきました。
このようなものです。



モレスキンの感覚でいると、大抵のノートは安く思えるものですが、こちらは500円です。だいぶ安く感じます。

とはいえ、罫線の引き方などの様々な要素から、これをメインの普段使いにはできません。おそらく、ノートとして思い切り使うようには作られていないのでしょう。

それでは、このノートは何に使おうかという話になってきます。
ここで表紙を見ると、"Magic spell" の文字があります。なるほど、このノートは(見たことはありませんが)魔術書のようなものを模しているわけです。

というわけで、このノートには私にとっての "Magic spell" を集めていくことにします。

1ページめには、当然、これを書きます。


「In case of loss ~」です。間違いなく"Magic spell" です。

それから、このようなことも書きました。


有名な、「ずっと砂糖水を売っているつもりか」のくだりです。

それから、このような話もあります。


「ノーと言うこと」についてです。
次はこちらです。


「電話を再発明する」です。

それから、こちらです。


「Stay hungry, stay foolish」です。

これらどれもが "Magic spell" であることは間違いありませんが、やけに同じ人物の言葉が多いようにも思えます。
それもそのはず、早いもので、あれからもう1年が経ったのです。


終わりに


一年前には、このような素晴らしい記事が書かれました。

R-style » イノベーターのウィルス

この一年で、イノベーターのウィルスはどれほど広まったのでしょうか。

そして、世界はどうでしょうか。私は、それほど悪くないと思っています。