2012年7月29日日曜日

倒錯する小説

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こちらの記事を読みました。

重力を忘れる小説 #5novels - #RyoAnnaBlog
きっかけは伊坂幸太郎だった。
私は、伊坂幸太郎では『ラッシュライフ』が好きです。

さて、同記事は以下のように結ばれています。
#5novelsというハッシュタグを用意した。どんなテーマでもいい、何冊でもいい、あなたにとって最高の小説を教えてほしい。
私はTwitterのアカウントを持っていないため「ハッシュタグ」なるものが何を意味するかはわかりませんが、「最高の小説を紹介してほしい」と言われれば、乗らないわけにはいきません。

そこで、本エントリでは、私の「人生の小説」に位置づけられる本をご紹介します。
なお、私がやると「小説」はミステリ限定になりますが、その辺はよろしくお願いします。

今回はそんな話です。


人生のミステリ


以降、作家のお名前は、敬称略かつフルネームで表記させていただきます。

***

一冊め :
『倒錯の帰結』(折原一)

折原一は、好きすぎて、そして影響を受けすぎて、フラットに何かを判断することができません。その中で、本作は折原一の代表作の一つに数えられることもあり、ここに挙げることとします。

想像を絶する超大作です。心から、本作に出会えて良かったと思っています。

***

二冊め :
『叔父殺人事件』(折原一)

あまりに好きですので、例外的に折原一からは二冊挙げさせていただきます。
こちらは上の『倒錯の帰結』とは異なり、大作といった趣ではありません。

ミステリの醍醐味の一つとして、終盤、思わぬ事実が現れたときのぞくっとする感覚があると思っていますが、その感覚が何のことかわからない方は、本作を読むのが良いです。
きっと、その感覚を味わえます。

***

三冊め :
『木製の王子』(麻耶雄嵩) 

『螢』や『鴉』と迷いましたが、こちらを選んでみました。
『螢』『鴉』が素晴らしいのは間違いありませんが、こちらの『木製の王子』は無茶苦茶です。無茶苦茶で、最高です。

あ、「無茶苦茶」の意味がもし、――いえ、これ以上は止めておきましょう。

いずれにせよ、本作が好きなら、絶対に麻耶雄嵩を読み進めるべきです。

***

四冊め :
『アリス・ミラー城』殺人事件(北山猛邦)

実にミステリです。新本格以降のミステリが一般的に好きな方は、必ず楽しめます。

との説明は、誤ってはいないと思いますが、ともすると本作がすごく普通のミステリに聞こえてしまうかもしれません。
もちろん、この場で私が力一杯ご紹介しているからには、そのようなことはありません。

あ、「普通」の意味がもし、――いえ、これ以上は止めておきましょう。


***

五冊め :
『幻惑の死と使途 Illusion Acts Like Magic』(森博嗣)

森博嗣からも、一冊を選ぶのが難しいです。
森博嗣の魅力は、とのテーマで文章を書こうとするとそれだけで大仕事になってしまうわけですが、その一つは「ロマンティック」だと、私は思っています。

そして、本作はとてもロマンティックなのです。

特にラストの、――いえ、これ以上は止めておきましょう。

***

六冊め :
『星降り山荘の殺人』(倉知淳)

大好きな作品です。
こちらは、「大好きな作品」と形容するのが適当なように感じるのです。

ちなみに、派手さと外連味に目が行きがちですが、本作のロジックのすごさには着目すべきです。

とはいえ、あの、――いえ、これ以上は止めておきましょう。

***

七冊め :
『電氣人間の虞』(詠坂雄二)
※ 上記はタイトルの漢字表記が正しくありません

本作は発表が新しいためか、ここまで挙げてきた作品と同じ文脈で語りにくいように感じます。詠坂雄二の別の著作からもそういった雰囲気が感じられますので、あるいはそれが著者の個性なのかもしれません。

ある意味、初心者向けではないのかもしれませんが、新しいミステリを求める方にはぜひお勧めしたい作品です。

とりわけ、――いえ、これ以上は止めておきましょう。


感性の話


ミステリ小説の紹介は以上です。

いま、ミステリのことをあれこれ考えていて一つ思い当たったことがあります。どうも私には、規格外のことに出会ったときにそれを自分の常識や経験に照らして評価(多くの場合、批判)する、といった思考回路が存在していないような気がするのです。
必ず一度、「おお、これは無茶苦茶ですごいぞ」と考えてしまうのです。

いまひとつ何のことかわかりにくいかもしれませんが、私自身もよくわかっていませんので、詳しいことはまた別の機会に考えてみます。


終わりに


冒頭に、「人生の小説に位置づけられる」との表現を用いました。
ここは、初めは「私の人生に影響を与えた」となっていたのですが、それだと選ばれる本が変わってきます。

今回は、「人生の小説」の方を採用しました。
この差は大きいのです。

2012年7月28日土曜日

時間がないと言う

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訳あって、このところブログの「執筆」を行えていません。

この文は単に「訳あって」と言いたかっただけですので、実際は大したことはありません。
要は、最近忙しいです、という話です。

ちなみに、「執筆」に鍵括弧がついているのにはちゃんと意味があります。今のところ、本エントリでその意味をきちんと判明させられると思ってはいますが、実際にはどうなるかわかりません。

この「どうなるかわからない」が何を言っているのか、文章を書いた経験があまりない方にはわかりにくいかもしれません。
(もちろん、わかりにくいのは私の責任であって、あまり文章を書かない人がいることは全然問題ありません。)

こちらの記事では、その「どうなるかわからない」に触れているようです。

R-style » 【書評】『小田嶋隆のコラム道』(小田嶋隆)

ぜひ全体を通して読んでいただきたい、素晴らしい記事ですが、ここでは一か所だけ引用させていただきます。
文章を、何かしらのベクトルを基に書いていくことについての話です。
するとどうだろう。当初思いもしなかったような場所に文章が着陸するときがある。「あれ?」というフキダシがそばに浮かんできそうな感覚だ。
まさに「あれ?」といった感覚です。
どうも文章というやつは、誰にとっても、どこに進んでいくのかわからない性質を持っているようです。
本エントリの例で言えば、今のところは「執筆」に鍵括弧がついている理由を陽に明らかにするつもりでいますが、書き上がったときにそれがどうなっているかは、私にもわからないわけです。

脱線がネストしてしまいました。
一番上を見ていただくとわかる通り、本エントリは「時間がない」ことについて述べるものです。

今回はそんな話です。


時間がない


本ブログの以前のエントリに、以下のものがあります。

23-seconds blog: 最近忙しい

ここで述べた考え方は、現在も大筋で変わっていません。

よく、時間がないときに「忙しい」「時間がない」などと言わないようにしよう、といった話があります。

確かに、それは価値のある方針だとは思います。ですが私は、忙しいときは忙しいときで、そのときにしか得られないこともある、と考えています。

それは忙しいときにしか経験できないことだったり、考えが及ばない部分だったり、いろいろあるはずです。
「忙しいと言わないようにする」ことでそれを封じてしまうのは、もったいないと思うのです。


得たもの


本エントリの冒頭で、私が最近忙しいと書きました。
であるなら、すぐ上に書いた方針に従えば、私は忙しいときならではの何かを得たことになります。

それについて書いてみます。
「習慣」についてです。


習慣づける


ライフハック界隈では、習慣づけることの重要さと、いかにして習慣づけるかについて日々考察がなされています。

私も習慣の重要さについては全面的に同意です。習慣をうまくコントロールできれば、大きな力となるのです。

ではその一方で、何かが習慣づいたかどうかはどのようにして知るのか、との疑問があります。習慣づける方法についてはよく語られますが、こちらの方はぱっと回答が思いつきません。


習慣づいた


私はこのところ、ブログの「執筆」にかけられる時間がほとんど取れませんでした。

その一方で、道を歩いていたり、食事していたりといった普段の生活の合間に、ブログについてよく考えます。
具体的には、次のエントリで書きたい内容だったり、ブログを書くための時間の取り方だったりします。

ですが、そういった理屈抜きに一番思うのが「ああ、ブログ書きたい」です。
そして、このことをもって、私にとってブログを書くことは習慣になっている、と言えると思っています。

つまり、「何かから少し離れたとき、ことあるごとにそれについて考えている」との状況に到っていたら、それは習慣なのだろうとの考えです。
忙しくなって、それから離れてみないと習慣かどうか判断できないため、残念ながらあまり汎用的な手法ではありません。もしそういった状況に直面することがあれば、思い出していただけると嬉しいです。

さて、以上、話としては大したことではありませんでした。しかしここで重要なのは、忙しいときにしか気づかないことがあった、との事実の方です。それは、「習慣について」は例示で、ここで述べたいのは時間がないことについてだったためです。

同時に、「執筆」に鍵括弧がついていた理由も判明していると思うのですが、いかがでしょう。


終わりに


本エントリは、二つの伏線を一つの話で回収する形になりました。
面白いとは思いますが、あまり綺麗ではない気がします。

いずれにせよ、やはり、思ってもみない場所に着地しました。

それから、全く関係のない話が一つあります。

本文中でもご紹介した「R-style » 【書評】『小田嶋隆のコラム道』(小田嶋隆)」の記事に、下記の文章があります。
そのページのプロフィールに記載されている「ひきこもり系コラムニスト」の響きににあこがれを感じる人も多いだろう(でもないか)。
ええ、それはもう、あこがれを感じます。

2012年7月22日日曜日

学んだことのない

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各所で語られていることの一つに、「一度も勉強する機会がないのに、生きていく上ではそれが必要である」との話があります。
具体的には、
  • お金の使い方
  • 時間の使い方
  • 仕事の進め方
などが挙げられることが多いようです。
そして、ここから「教育でこれらを扱うべきだ」や「本を読むべきだ」など、様々な方向に話が発展していったりします。

本エントリで取り上げたいのは、上記の他に、その対象としてよく挙げられるあることについてです。

今回は、そんな話です。


知的生産のこと


『知的生産の技術』に、それに関わる文章がありました。

『知的生産の技術』(梅棹忠夫) 

引用いたします。
情報の生産、処理、伝達について、基礎的な訓練を、小学校・中学校のころから、みっちりとしこんでおくべきである。
すなわち、本エントリで取り上げたいのは、「情報の扱い方」です。
おそらく、「情報の扱い方を学校で教えられないため……」といった主張を目にしたことがある方も多いでしょう。

この『知的生産の技術』の初版が著されたのは、1969年のことのようです。上記の主張は現在に到っても目にしますので、ずいぶんと長いことこの問題が続いていることになります。


生きる上で


そして、この「情報の扱い方」は、やはり生きる上で必要な知識、技術です。それをどこで学ぶ機会もないまま、それが必要な状況に投げ込まれてしまうのです。

さて、私はここ数ヶ月ほど、周囲の複数の人から同種の相談を受けています。その深刻さの度合いはその人によって様々ですが、大雑把に相談の内容を表せば、このようになります。
「メモの取り方に悩んでいるので、教えてほしい。」

この「メモの取り方」は、上記の「情報の扱い方」に含まれることでしょう。「メモの取り方」など、なるほどどこかで教えられた記憶はありません。にも関わらず、突然その技術が必要になってしまうことがあるわけです。

ちなみに、本エントリでは「だから、学校でメモの取り方について学ぶ機会が必要である」などと言うつもりはありません。それはまた別の問題で、また別のいろいろな難しい問題を含んでいます。
ただ、それについて困っている人がいるのは、事実なのです。


悩まないために


私は幸いにも 「メモの取り方」 について悩むことはなく、むしろ相談を聞くことのできる立場であったために、特に問題と感じることはありませんでした。ですが、それまでそのようなことを考えたことのなかった人が、突然その技術を求められてしまう苦労は想像できます。

どうやら、私に考え方の変化があったようです。

本ブログでのエントリを中心として、私はこれまで、「人生をモレスキンに入れる」だとか、「ロディアとマスキングテープで情報に向きを付ける」だとか、そういったことを考えてきました。
ところが、今まさに「メモの取り方」について悩んでいる人に、「いいか、モレスキンは人生そのものなんだ」などと語っても、役に立ちません。
実際、相談を受けた際にこのことを言いそうになり、はっとしました。自分は困っている人に対して無力だったのです。

そこで、もっと「今困っている人に役に立つ、メモの取り方」について、考察を進めていきたいと思うのです。
いろいろ語弊があるのを承知で言えば、「初心者向けのメモの取り方」です。

もちろん、こういった方向は、往々にして表面的なテクニックや小技めいてきてしまうので、それには注意が必要です。


ちなみに


話は逸れますが、「表面的なテクニックや小技めいてくる」のがなぜいけないのかについては、考えておきたいところです。

私も、これといった回答を持っているつもりはありません。その表面的なテクニックでうまくいくのであれば、それはそれで構わないとも思います。

ただ、私が回答として一つ思いつくのが、表面的なテクニックだけでやっていると途中でつまらなくなってきてしまうことです。つまらなくなってしまえば、せっかく効果のあるテクニックでも実践しなくなってきてしまいます。
これは私のオリジナルではなく多くの人が述べていることですので、特にここで詳しく説明したりはしませんが、やはり「何のためにやっているか」「どういう枠組みの中でやっているか」は知っておく方が良いはずです。


悩んでいること


実際に「メモの取り方」の何に悩んでいるのか質問してみたところ、
  • 重要なこととそうでないことが混ざっている
  • メモを見返せない
  • 見返したとき、自分のメモが何を言っているかわからない
などの部分だということです。このあたりが、私の考えのとっかかりとなりそうです。


終わりに


本エントリ自体は、役に立つものではありませんでした。
「役に立ちたい!」と言っているエントリが、役に立たないわけです。
興味深いです。

2012年7月21日土曜日

情報カード概観

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「情報カード」という言葉があります。

言葉にはよく、「単にそのもの」を表している場合と、「それ以上の何か」を表している場合とがあります。前者は、要するに辞書に載っている言葉のことですので、比較的わかりやすいものです。
後者を説明するのは容易ではありません。なにせ、言葉では表しきれない部分を言葉で描写しようとする試みだからです。

言葉では表しきれない部分ですので、その内容は人によって全く異なります。
私の場合は、「Evernote」「コーラ」「エネループ」などがこれに該当してきます。私の中で、これらはどれも「単にそのもの」以上を表しているのです。

時折、今使った言葉が「単にそのもの」としてなのか、あるいは「それ以上の何か」としてなのかを取り違えることが、人と人との意思疎通を妨げることもあります。

それはまた別の話なのですが、本エントリでは、単にそのものとしての「情報カード」について書いてみます。
(ということは、「情報カード」との言葉にも「それ以上の何か」が含まれることがあるわけです。)

今回は、そんな話です。


ライフとコレクト


文房具屋さんでよく見る情報カードには、ライフとコレクトのものがあります。
両方購入してみてわかったのですが、ライフのものの方が、硬い紙となっています。より「カード」との言葉からのイメージに近いものです。
(ちなみに、購入したのはどちらも名刺サイズのものです。)

一方でコレクトのものは軟らかめです。

これらは、どちらが良いといったことはありません。
このようなときの常套句として「用途に合ったものを選ぶと良いです」がありますが、情報カードを購入する前から、用途がはっきり定まっていることもあまりないでしょう。
(あらゆることへの敷居を高くしてしまっている表現かもしれません。使うときは注意が必要な表現です。)

ここでは、「両方購入して、置いておくのが良いです」と言うことにします。
幸いにもそれほど高価なものではありませんし、こういうものはたくさんあると良いことがおきたりします。

以前、本ブログで下記のようなエントリを書きましたので、もし何かの参考になれば幸いです。
「たくさんあると良いことがおきる」話です。

ロディアと情報カード


情報カードを購入するまでは、自分はロディアを使っているからそれは不必要だと思っていました。

しかし、やはり、手元に置いてみるとそこには違いがあったのです。

ロディアにはなんとなく、書いたら捨てる感覚があります。「今書かなくては!」と思ったことをすぐに書いて、用が済んだらしかるべき処理をするのです。
一方の情報カードは、書いたものを長くとっておきたいイメージがあります。

もちろんこれは私のイメージです。
「使い分け方」ですらありません。別に、私が意識して上記のように使い分けているわけでもないのです。
情報カードに「書いて捨てる」イメージを持っても、全く問題ありません。

それからもう一つ、ロディアは一つのセットになっているのに対して、情報カードはただの山として積んである、との違いもあります。
こちらも、感覚として結構大きな差です。

いずれにせよ、これもありきたりの言葉ではありますが、重要なのは、手元に置いてみないとわからない点です。
様々なことがそうなのでしょうし、だからこそ、ブログとか、そういったものに価値があるのかもしれません。
(これも脱線です。)


メモパース


情報カードを使っているうちに、これを普段から持ち歩くことができれば、ロディアよりもさらにメモしやすい環境が作れるのではないかと思い立ちました。

そんなことを考えながら文房具屋さんを歩いていると、コレクトのメモパースという商品が目に留まり(カラーバス効果)、その場で購入してしまいました。

メモパースとは、このようなものです。



開くとこのようになっています。



Amazonにも商品ページがありましたので、リンクをご紹介しておきます。


基本的な情報などは、以下のオフィシャルページを見ていただくのが良いと思います。


こちらに書いていないことで言うと、まず、見た目はなかなかに格好良いです。普段から持ち歩くのに、積極的になれます。
上記のオフィシャルページにも「手にフィットする」との文言がありますが、これは本当にそうです。とても持ちやすい感触になっています。
それから、直接メモが書けるようにするためか、叩くとこつこつと音がする程度には硬いです。

今後どんどん持ち歩いて、長く使用していきたいと思っています。


終わりに


エントリ内で、「紙が硬い、軟らかい」との言葉を使いましたが、漢字はこれで正しかったのでしょうか。
難しいです。

2012年7月19日木曜日

夏をぐんぐん変える曲

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決して私だけということはないと思いますが、このところとても暑いです。
どうひいき目に見ても、どんなに当たり障りのない表現を用いても、夏です。

ただ、私の生活では朝と夜にしか外を出歩くことがないため、天気予報なるものを目にしない限りは、事実として今がどれほど暑いのかを知ることはありません。そして、私はその天気予報なるものを見ることはまずありませんので、結局、今が暑いのかどうかは体感でしかないのです。これが冒頭の一文につながっています。
そんな私が一つ言えるのは、この時分がどれほど暑いのかなど知らなくても、案外生活に支障はないということです。もちろん一般論ではありません。知らないと支障が出るような生活を送っている方も多くいらっしゃると思います。少なくとも私の場合は、何も問題はありませんでした。
いずれにせよ、体調には留意するのが良いです。

関係ありませんが、今書いてみて不思議に感じたことがあります。
「ひいき目に見る」とは「ひいき、という目、で見る」ことなのか、「多少、ひいき、しているように、見る」ことなのか、どちらなのでしょう。言いかえれば、「ひいき目」の「目」とはどういう意味なのか、との疑問です。
私は後者のつもりで書いたのですが、変換したら「目」が漢字で出てきたので驚きました。
調べたらわかりそうな気がしますが、私はあえて疑問のままにしておきます。もし答えを知っている方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。

ところで、梅雨は明けたのでしょうか。
夏に雨が降るのも、また趣があります。

今回は、そんな話です。


夏といえば


夏ですので、私が考える、夏に聞きたい歌をリストアップしてみます。
前振りからは想像しにくいかもしれませんが、今回はそういうエントリなのです。

さっそく始めます。

アーティスト名 / 曲名
です。
それから、今回は歌詞が重要です。以降、インデントしている箇所は歌詞の引用とします。

***

yozuca* / Fragment ~The heat haze of summer~

どうしても、挙げないわけにはいかない曲です。
こう、夏だからテンションを上げよう、ではなく、じわっと暑い感じが伝わってきます。
蝉時雨、遠い記憶
揺らめく景色を振り返り
向日葵は風にゆれて
思い描く夏の空へと
***

シド / 夏恋

歌詞がものすごく秀逸です。
一度全力で解説してみたいと思わなくもありませんが、それは野暮というものなのでしょう。
散々な前の一件で もう十分懲りたんじゃなかった?
***

茅原実里 / Planet patrol

とにかく「熱い!」曲です。夏の曲、と聞いたらやはりこういったタイプの曲が王道になるはずです。
元気になります。
飛ばせ宇宙で 夏休み過ごす頃は
私も君も銀色のコスチュームで
***

PIERROT / 神経がワレル暑い夜

上とはうって変わって、「夏らしく」はない曲です。PIERROTが夏を表現するとこうなるわけです。
さわやかなだけが夏ではないのです。
なぜ黙っているのこんな暑い夜
聞こえてきそうだよ神経のワレル音が
***

GARNET CROW / 夏の幻

こちらは変化球で、よく見ると実は夏の歌ではありません。シングルの発売も10月という念の入れようです。
GARNET CROWは、これ以外にもあらゆる部分で感嘆させられるグループです。
何よりも、「感嘆」との表現が適当だと感じます。
強いオフショア 波を待ってた
中途半端に離れて 流されていくよ
***

heidi. / 夏一途

これは名曲です。
実にheidi. らしいと言いますか、heidi. にしかできないと言いますか、heidi. のこういうところが好きです。
きらきら光るあの小川も 縁側に下がる風鈴も
夜に燈ったあの灯りも 全てが僕の宝物
***

ひまわりと飛行機雲 / 堀江由衣

いわゆる真打ち登場というやつです。
4割くらい、この曲が紹介したくて本エントリを書きました。
夏になると、毎年この曲を聞きたくなります。

素晴らしいです。
飛行機雲を2人で いつまでも眺めてた
心に咲くひまわりを ゆっくりと近づけて
さあ‥
***


終わりに


やはり、夏は夜が良いですね。趣があります。
月が出ているとさらに良いです。

ピースには違いない

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以前、以下のエントリを書きました。

23-seconds blog: 楽しさのためなら

この中で、読書とRSSフィードを読むことは似ている、と仮定して話を進めている部分があります。
実際、ある程度の時間を費やして情報を取り入れようとするような点で、これらは似ているでしょう。

そこで、本エントリでは読書とRSSフィードを読むことの間にある違いについてを考えてみます。

一般論ではありますが、どんなに似ているように見えるものにも違いはありますし、また似ているからこそ違いがわかりやすくもあるはずです。

今回はそんな話です。


ピースとフレーム


書籍『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』に、非常に参考になる表現があります。

『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』(倉下忠憲) 

引用いたします。
パズルのピースには違いないけれども、それをはめ込むフレームが存在していないか、他のピースを持っていないということです。
この文章自体は、「役に立つかはわからないけど、なんとなく興味を引かれた情報」について書かれたものです。

しかし、ここで本エントリでは、この「パズルのピース」をRSSフィードを読むことに、「フレーム」を読書に当てはめて考えてみたいのです。


当てはめる


この、ピースとフレームのたとえは、なかなかに適当なように感じます。
おそらくあまり必要ないと思いますが、まずはそのことについて少し書いておきます。

RSSフィードをリーダーに登録すると、ある程度の方向性は自分で選択できるにせよ、基本的には雑多な情報が入ってくることになります。
ここでの「雑多」とは、まとまっていない、脈絡がない、といったことを指しています。「点在している」との表現が、私のイメージに近いかもしれません。

新たなRSSフィードは脈絡なく次々に入ってくるのに対して、読書のための本は、この方面の知識や情報を手に入れたい、との意図の下に集められます。
そうして集められる本、すなわち情報は、一定の流れに沿って、体系立った適切なものが並ぶことになります。

以上の点より、それぞれを「ピース」と「フレーム」にたとえるのは適当だと考えられるのです。

余談として、このような書き方をすると、読書の方がすごく優れているように見えます。情報としてまとまりがあるか、ないかに着目して述べているため、当然まとまりのある方が良い印象があるわけです。

ですが、実際はもちろんそんなことはありません。
一定の流れに沿っているということは、逆に言えばその流れに乗れないものは切り捨てられていることになります。

つまり、流れに乗った情報ばかりを集めていると、何かしらの偏りが生じてくるのです。
どんな偏りなのか、それは悪いことなのかなど、このあたりは面白そうなので、これを考えるのはまた別の機会にします。


ピースには違いない


ピースとフレームの話題に戻ります。
いま、RSSフィードを読むことと読書することを、パズルのピースとフレームになぞらえても良さそうだ、との話までしました。

さて、上で『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』から、「パズルのピースには違いない」との表現を引用させていただきました。

ここから、RSSフィードを読んで得られる情報は、長い目で見れば決して無駄にはならないことが言えます。それがパズルのピースである以上、どこかのフレームでは必ず使えるのです。
しかし、どの箱から出てきたのかわからないパズルのピースを、無事にフレームにはめ込むことが困難なのは明らかです。残念ながら、それは無駄に思えやすいですし、あるいは逆に「なんとなく重要そう」とも思えやすいです。

これを時間の観点から見てしまえば、パズルのピースを集める作業が削減の対象になるのはうなずける話です。手持ちの時間とうまく折り合いを付けながら、行っていかなくてはなりません。


役立てるために


いつ、どこで使いどころが見つかるかわからないピースを無事に役立てるためには、どうしてもそれを取っておく場所が必要です。しかも、使いどころが見つかっていないものを置いておくわけですから、うまく分類することはできません。妙な表現になりますが、分類できるくらいなら、使いどころが見つかっているはずだからです。

この意味で、Evernoteが「何だかわからないもののたまり場」で「整理ができない」場所になるのは当然のことなのです。


終わりに


それにしても、「それをはめ込むフレームが存在していないか、他のピースを持っていない」とは、秀逸な表現です。
心から感銘を受けました。


2012年7月12日木曜日

方程式じゃない

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世の中には、クイズだとか、なぞなぞだとか、パズルだとか、そういったものが存在します。おそらくとても長い歴史を持っており、詳しい人に聞いてみれば、今書いた三つの単語の間には細かく、明確な差があるのでしょう。

多くの方と同様に、私もこういったことに対して詳しくはないものの、決して嫌いではない、との立場にいます。

今回はそんな話です。


なぞなぞとクイズ


一般的に言って、なぞなぞとクイズの違いは「知識を必要とするかどうか」に拠ると思います。もちろん、「知識を必要とする」のはクイズの方です。

クイズに知識が必要なことについては、とりたてて問題はありません。クイズは知識を問うものであり、だいたいにおいて知識があれば回答できるものです。

例えば、「日本で一番北にある県は?」といったら青森県ですし、「日本で一番南にある都道府県は?」といったら東京都なわけです。

もとい、この例は少し違いました。

「義経のお妾さんの名前は?」といったら静御前なわけです。

これは問題ありません。


なぞなぞとは


厄介なのは、なぞなぞの方です。

上でクイズを「知識を必要とするもの」と定めてしまったので、なぞなぞの定義は、残った「知識を必要としないもの」になります。

例えば、「上は洪水、下は大火事、なんだ?」といったらお風呂なわけですが、このお風呂はなかなかに古風です。
普通の感覚でお風呂を想像してしまうと、このなぞなぞはさっぱりわからないことになってしまいます。

すると、この場合「お風呂には、下で火を燃やすタイプのものが存在する」との知識がないと、これがなぞなぞであるにも関わらず、回答できません。

これは矛盾です。
従って、「なぞなぞは知識を必要としないものである」との前提が誤っていることになります。

これを背理法といいます。


知識が必要


実は、なぞなぞの厳密な定義にはあまり興味がありませんので、何かしらつじつまの合うようなものを用いれば良いです。

しかし、こういった問題と回答の手続きにおいて、回答者にどの程度の前提知識を要求するかというのは、とても難しい問題です。
ほんのちょっとした知識があれば楽しめたのに、偶然にもそれがなかったために「そんな話知らない!」となってしまうのは、とても残念なことです。

例えば、「なぜアイは目に見えないのか?」といったら、実数の範囲にないためですが、ただ単に、その二乗したらマイナスになる不思議な表記を知らなかっただけでこの問題を楽しめないのは、もったいないことです。
(電気、電子屋さんの方々には申し訳ありません。)


キーワード検索の時代


ところが、現代にはここまでの話をひっくり返す存在があります。
キーワード検索です。

誰もがキーワード検索を利用できる時代では、「ただ、知識がない」ために回答できなかったり、楽しめなかったりするような問題は完全になくなります。
出題者の側も、回答者に知識がない可能性を考慮する必要がなくなります。全ての回答者に、十分な知識があることを前提として良いのです。

これを踏まえると、面白い話がいくつか思い浮かびます。

一つは出題者の視点です。
キーワード検索によってあらゆる知識が得られることを想定した上で、問題を考えることができます。
これは、典型的なクイズやなぞなぞといったものとは、大きく異なった様相を呈してくるでしょう。
あえて名付ければ、クラウド時代のなぞなぞです。

一方の回答者側にも、新しい状況が生まれます。
これまでなぞなぞやクイズを解くのに必要だった知識や考える力に加えて、与えられた問題文の中でこの言葉が重要だと思う力や、良い問いを立てられる力が求められます。

これはすなわち、検索ボックスに良い単語を入力できる力を指しています。
問いの立て方を誤ってしまえば、回答には行きつかないわけです。

『数学ガール』には、下記のような文章があります。

『数学ガール』結城浩
「テトラちゃん、これは x を求めるという問題じゃないよ。つまり、この式は方程式じゃない。」
私たちが目にしているのは、実は x を求める問題ではないかもしれないのです。

これは、決してなぞなぞなどにのみ当てはまることではないでしょう。


終わりに


そこで問題です。

本ブログでは以前、下記の二つのエントリを書きました。

23-seconds blog: 月見坂上り
23-seconds blog: 宇宙で道草

この、二つあるエントリを、一つの名前で呼ぶとしたら、何が適当でしょうか。
また、それは誰から聞いたでしょうか。

2012年7月10日火曜日

それはもう面倒

Clip to Evernote
FastEver Snap というiOSアプリがあります。

FastEver Snap 1.6.4(¥170)App
カテゴリ: 仕事効率化, 写真/ビデオ
販売元: rakko entertainment - rakko entertainment(サイズ: 2 MB)


Evernoteに写真を送信する際の定番アプリとして、多くの方がすでに所有しているものと思います。
私は一時期このFastEver Snapから離れていたものの、また最近使用するようになりました。

今回はそんな話です。


残らない


FastEver Snapは、写真を撮影したその場でEvernoteに転送してくれるアプリです。また、写真をカメラロールに保存しないように設定することまでできます。
これについて、「FastEver Snapは非常に素早く写真をEvernoteに転送できる」といった語られ方をすることが多いのですが、私個人としては、写真が手元に残っていないことの快感の方を重要視しており、また嬉しく感じています。

例えば手書きのメモを撮影してEvernoteに保存したいときなど、画像さえEvernoteに保存されていれば、他は全て不必要なものになります。紙のメモ自体も、撮影した写真のローカルデータも、処分の対象になるわけです。
この意味で、写真がローカルに残らないでくれるのはとても快感であり、FastEver Snapが他のアプリで代用できない一つの要因となってくるのです。


二通りのパターン


FastEver Snapから写真を送信する際には、ノートブックとタグを指定することができます。

いま、詳細には触れませんが、私の生活においては、FastEver Snapで写真を送信する際に使用したいノートブックとタグの組み合わせが、二通り存在しています。
  • この画像は、タグtを付けてノートブックNに送りたい
  • この画像は、タグsを付けてノートブックMに送りたい
といった具合です。
(以降、これらをパターン1、パターン2と呼ぶことにします。)

今のところ、わずか二つのパターンしかありません。
しかしそれは同時に、ただ一つのパターンではないことを意味しています。

このことで、大きな問題が発生します。
FastEver Snapを起動させて写真を撮る前には、毎回ノートブックとタグの指定をする必要が出てくるのです。

当然ながら、今回使いたいのがパターン1で、前回の撮影もパターン1であるなら、指定する作業自体は行われません。
しかし少なくとも、起動する度に、現在設定がどちらのパターンになっているかを気にする必要はあるわけです。

これは非常に厄介です。


何とかする


解決策を考えました。

私は、日常的にアプリを使うなどの作業にはiPod touchを用いています。それに加え、私には家置きにしているiPadがあります。
他方で、FastEver Snapを使用したい場面は、家にいるときしかありません。

そこで私は、iPod touchのFastEver Snapをパターン1の設定で固定とし、そしてiPadのそれをパターン2の設定に固定としました。

すると、大変素晴らしいことに、設定をアプリ内でいちいち気にかけることなく、自分の思い通りに写真を送信することが可能になったのです。
パターン1で撮影していて途中からパターン2にしたくなったときには、ただ持つデバイスを取り替えれば良いわけです。

これで、格段に作業が快適になります。


そんなライフハック


ここまでは事実の話です。
現実に、このようにしたら快適になったということを述べました。

しかし、ここで立ち止まって考えてみると、かなり妙なことがあります。

どうして、FastEver Snapの設定を毎回変更するのは面倒で(ええ、それはもう面倒です!)、今まで持っていたiPod touchを置いて、iPadに持ち替えることは面倒ではないのだろうか、とのことです。

ましてや、私のiPadは家置きで、部屋の中で普段活動している場所からは離れたところに置いてあることも多いです。
そのとき、わざわざ部屋の反対側まで歩いてiPadを取り上げてきてでも、やはりまだその方が面倒でないと感じるのです。

決して、FastEver Snapでタグとノートブックを指定する作業が極端に手間のかかるものである、といったことはありません。
タグやノートブックのマークをタップして、表示される一覧から目的のものを選択するような、いたってシンプルなものです。

この疑問に対する回答は、まったく一通りではありえないと思います。
特に、この話の中のどの要素に着目するかによって、回答は大きく異なってくるでしょう。


二つの説明


本エントリでは、その説明となりそうな考えを二つ掲げてみます。

一つめは、以下の記事で説明されています。

シゴタノ! パッと見わたせる効用

記事中で、以下の記事も紹介されています。

時間を短縮するために使うツール - UEI/ARC shi3zの日記

後者の「時間を短縮するために使うツール - UEI/ARC shi3zの日記」から引用いたします。
マルチウィンドウだから切り替えれば良いじゃないかと思われるかも知れませんが、人間は画面が切り替わるとそれを認識して次の作業にとりかかるまで(タスクスイッチと言います)に2~5秒かかります。この時間は全く無意識に過ぎるため、どんなに訓練しても短くはなりません。
PCで作業する際に使用するウィンドウを、一度に見えるようにしておくのか隠しておくのか、についての話です。

続いて、前者の「シゴタノ! パッと見わたせる効用」から引用いたします。
画面切り換えの手間は、“仕事の勾配”をきつくする要因の1つになるわけです。
画面を切り替えないで、一つの視野に必要な情報が入ってくるようにしておくと、「仕事の勾配」を緩やかにする効果があるとのことです。

以上のことから、本エントリでの問題が説明できそうです。

FastEver Snapのタグ選択画面は普段は隠れているため、(たった1タップにせよ、)画面を切り替える必要があります。
その点、iPadに持ち替えるのであれば、(たとえ遠くにあるにせよ、)目の届く位置にありますので、「パッと見渡せ」ているわけです。

このあたりは、
  • iPhoneとiPadの比較
  • デジタルツールとアナログノートの比較
の文脈にも通じるところがありそうです。

ですが、本エントリの事例の説明としては弱いかもしれません。

二つめの説明は、以下の記事にヒントがありました。

テクノロジー使用を最小限にして生産性をアップさせる : ライフハッカー[日本版]

引用いたします。
この傾向を打破するには、あえてテクノロジーを使わないことを、米lifehackerでは提案しています。
「あえてテクノロジーを使わないように」とは、言われてみると、よく聞くような表現ではあります。

本エントリの話に当てはめれば、「タグやノートブックを選択する」とのデジタルな作業の変わりに、「手にしている物を持ち替える」というアナログな動作をしよう、と言っていることになるでしょう。

ただ、記事の文脈からは少し外れているようですし、やはりこちらの説明も弱いかもしれません。

また、三つめの説明として「単に慣れている」というのも考えましたが、ここでは詳しい話は省くことにします。


終わりに


これは、私よりさらにデジタルに慣れ親しんだ世代からしてみると、また違うのかもしれません。

2012年7月7日土曜日

楽しさのためなら

Clip to Evernote
私は、毎日それなりの時間をRSSフィードを読むことに費やしています。
今の時代ですので、私がとりたてて変わっているようなこともなく、多くの方にとって同様かと思います。

一部では、RSSはすでに過去のものであるとの意見もあるようですが、ここではそういった方向には立ち入りません。
ここで明らかにするのは、RSSフィードを読んで情報を取り入れることについて、になるはずです。

今回はそんな話です。


RSSフィードを読む


まず大前提として、日常的に大量の新着RSSフィードをさばいていて、そこにそれなり時間を使っているような人を想定します。これは冒頭に掲げたとおりです。私もそうですし、多くの方もそうでしょう。

そのような人たちにとってRSSとはどのような存在なのかを考えたとき、以下の記事に参考になる一節があります。

シゴタノ! 年末に、情報環境の見直しを!

該当する部分を引用いたします。
それは、デザートを食べなくてもカロリー的には生命活動に問題ないけれども、それを食べるのを止めるのが難しい、というのに似ているかもしれません。
非常に納得のいく考え方です。
大量のRSSフィードを読む人にとって、それを読むことはデザートを食べることであり、生きていく上で必須のものではないのです。

ここから言えるのは、「RSSフィードは楽しいから読んでいる」との意識を持つのが良さそうだということです。またさらに、「RSSフィードを読むことに過度な期待を抱かない」ことも付け加えておきましょう。
つまり、日々RSSフィードを大量に読んでいることで、自分は何かすごくためになることをしていると思うべきではないのです。


読書する


ここで、少し別の話を持ち出します。
本を読むことについてです。

『知的生産の技術』に、以下のような文章があります。

『知的生産の技術』(梅棹忠夫)  
食事には栄養ないしは健康という面と、味覚のたのしみという面とがあるように、読書にも、精神の糧という面と、心のたのしみとしての読書という面とがあるのではないか。
読書することのある側面を、食事との対比によって明らかにしている文章です。
私はここで、読書には「勉強になる」ものと「単に楽しい」ものがあると述べられていると理解しました。
これは、普段から陽には意識に上っていなくても、言われてみれば確かに納得できることではあります。

同書では、次に以下の文が続きます。
栄養学と食味評論とがはっきりちがうように、読書論においても、技術論と鑑賞論とは、いちおう別のこととかんがえたほうがいいということなのである。
なるほどと思いました。
読書について考える際には、それが「勉強のため」なのか「楽しいため」なのかを分けて考えるのが良いとのことです。

こちらについては、私は考えたことがありませんでした。
私はいつも、読書からは楽しさも学びも感じていて、そのどちらに対しても「良かった」などと言っていました。

しかしここではそうではなく、「楽しかったら、どこがどう楽しかったのか」「学びがあったら、どこがどう学びだったのか」をはっきりさせるべきだと言っているわけです。


学びと楽しみ


この「学びと楽しみを分ける」ことを、読む前から行うのは困難でしょう。つまり、本を買うときあたりに「この本は学びのために(あるいは楽しみのために)読むぞ」などと考えることです。

おそらく、『知的生産の技術』でもそのようなことは言っていないと思います。
(これについてはまだ自信がありません。もう少し考えてみます。)

ですが、このことを何となくでも予想してから本を読むことには、私は価値があると考えています。「この本は楽しみのために読もう」と決めてから、読み始めるのです。

すぐ上に書いたとおり、この予想を間違いなく行うのは困難でしょう。
どんなに楽しみのために読もうとした本からでも、実利的に学べることは必ずあるでしょうし、その逆もまたしかりです。

それでも(「それでも」とは良い言葉です)分類を予想してから読書に臨んでおくと、読んでいてその分類を飛び越えたときの感動や革新さが際だちます。
各所で語られていることですが、用意していた分類に収まらなかったときが、新しいアイデアが生まれるときなのです。


RSSの話


ここで、RSSフィードの話に戻ります。

RSSフィードを読むことと読書することがどの程度似ているかの議論はここではしませんが、RSSフィードを読むことにも、上述した読書の分類の話があてはまるのではと考えます。
ただ、RSSフィードの場合は、読書で言った「学びがあるか、楽しいだけかの予想」が、「楽しいだけ」で固定です。これは本エントリの前半で述べたとおりです。
RSSフィードは、常に「これは楽しいから読んでいるんだ」との考えの下で読み進められるのです。

その中で、「これは勉強になった!」と思える記事に出会うことが出来たとすれば、すなわちそれが分類を飛び越えたことに相当します。
強力なアイデアに、革新になり得るのです。

もちろん、そもそも「勉強になった」とはどのようなことなのか、といった議論は決して無視できません。これについてはよく考えておく必要がありますし、難しいテーマでもあるでしょう。
少なくとも、それほど頻繁に起こる現象ではないのは確かです。


意識すること


本エントリで述べたことを踏まえると、生活とRSSフィードとの関わりで見えてくるものがあります。

一つは、RSSフィードを読むことで、自分がすごく成長しているだとか、学習しているだとか、過度な期待を抱かないことです。あくまで、自分が楽しいから読んでいるのです。
またもう一つは、楽しいから読んでいる中にあっても、そこから勉強になることに出会えれば素晴らしいし、分類を飛び越えているという意味において、それは革新であるとのことです。

そして、革新はそう頻繁に起こるものではないので、単に楽しいだけで終わることの方が多いのです。

ちなみに、私はこの「RSSフィードは、楽しいから読む」ことを割と以前から意識していますが、それを時間の無駄と言って止めるつもりはありません。
やはり、それは楽しいからです。その楽しさのためなら、時間をうまく使うことだって考えます。


終わりに


ところで、RSSに対しては「さばく」や「消化する」、「仕分ける」といった独特の動詞が使われます。
これは何なのでしょう。

自分は駄目だけど

Clip to Evernote
自分の好きなものを自分で知るのは非常に難しいことです。
そのためのアプローチは数え切れないほどあるでしょうが、その中の一つとして、自分の原点を明らかにしていく、との考え方があると思います。

今回は、そんな話です。


出会いと


多くの方にあてはまると思いますが、私にも「現在の自分を作った」、「出会っていなければ現在の私は全く違うものになっていた」と言えるものがいくつかあります。

一般的に言って、対象が物であるか人であるかを問わず、出会いというものは常にインパクトを携えてやってきます。
このことを、どこか頭の片隅か第二の脳あたりに留めておくと、多少は悪くない日々を過ごせるかもしれません。

ここで、出会いが持つ力強さを語るのに私の言葉はやや役不足ですので、こちらの素晴らしい記事をご紹介します。

[手紙]あの頃の僕とカッコイイおじさんへ | Last Day. jp

非常に感動しました。どうも最近、涙もろくていけません。


アリバイ


私にも、客観的に見れば上記の記事のことほど劇的ではないかもしれませんが、大きな出会いと呼べるものがあります。

ちなみに、出会いや別れがドラマティックさに欠けているかどうかは、その後の自分の行動でいくらでも決定できると思っています。このことはまた別の機会に考えてみることにしましょう。

ここでは論の展開を急ぎます。
私自身の、出会いと原点の話です。


原点


PIERROTというロックバンドがいました。
数年前に解散してしまい非常に悲しい思いをしましたが、私にとって、今でも不変の原点です。

上にも書きましたが、PIERROTと出会っていなければ、現在の私は全く異なったものになっていたことでしょう。
そして私は、現在の私を大筋で好ましく思っていますので、この出会いは良いものだったことになります。

さて、残念ながら、この場でPIERROTの良さなどについて語ることはできません。
なぜなら、自分にもよくわからないためです。わからないのか、わかっているけどうまく表現できないのかはわかりませんが、とにかくわからないのです。

私が自分の原点と考えているものたちは、どれもがそのような感じになっていたりします。
何となく、他のものとはちょっと違う場所にいるのです。


PIERROTの楽曲


PIERROTの「壊れていくこの世界で」という楽曲から、一節をご紹介します。
どうかせめて 同じ蒼ざめた月の下で 笑っていて
他になにも出来ないから
とても感動的な楽曲です。

次に、同じくPIERROTの「HUMAN GATE」という楽曲からも一節をご紹介します。
きっと誰もが同じだけの苦しみ背負いながら
それでも笑顔見せている
涙なくしては聞けない楽曲です。
もし、この曲を聞いたことのない方がいらっしゃったら、「青い鳥」の行方に思いを馳せていただけると良いと思います。


冒頭に


さて、本エントリの冒頭には、ここまでの話と一見関係のなさそうなことが書いてあります。

「自分の好きなものを明らかにするのは難しい」とのことです。
つまり、本エントリは、ここまで述べてきたような、出会いの力強さといったことについてのものではありません。

いま私が考えたいのは、自分の好きなもの、とりわけ「好きな接続詞」についてです。

私が好きな接続詞は二つあって、それは「せめて」と「それでも」です。

文法的に正しいことを言うなら、ひょっとするとこれらは副詞かもしれませんが、ここではそういった議論には立ち入らないことにします。
(立ち入らないだけで、こういった話は大好きです。)

「せめて」にも「それでも」にも、「自分は駄目な人間ではあるけれど、何とか少しだけでもがんばりたい」といった響きがあります。

この、自分は駄目だけど、と認めた上で何とか前に進もうとする姿勢に、私は感動します。
私にとっては、ある種の人生観というか、座右の銘というか、そういった重要なものなのです。


ライフハック


今回、好きな接続詞について考えたことで、自分の人生にとって重要なことにたどり着きました。
ぜひ、これをお読みの方にもお試しいただければと思います。

「好きな接続詞を考えるというライフハック」です。


終わりに


途中、PIERROTとは全く関係ないネタが挟まっていますが、これもPIERROTとの出会いがもたらしたことです。
PIERROTがいなければ、存在しなかったことなのです。

2012年7月6日金曜日

大雑把なアプローチ

Clip to Evernote
本ブログで何度も紹介している記事に、以下のものがあります。

R-style » ひねくれ者のアプローチ

私にとっては、とても重要な記事です。
今回は、こちらを踏まえた話です。


アプローチ


いま、
  • 実施するのはそれなりに面倒
  • 積極的にやりたくはない
  • 緊急でやらないといけないわけではない
  • 作業完了の基準が明らかでない
ような仕事があったとします。
この中で、上の4つはその仕事の特性を説明しただけのことですので、特に触れることはありません。

大雑把な人にとって問題になるのは、一番下の「完了の基準があきらかでない」です。
これにより、大雑把な人は、客観的にはどう見ても作業が完了していないにも関わらず、「もう、十分やったかな」と思ってそれを切り上げてしまうのです。

実質作業は途中なわけですから、後に何かしらの問題が現れてくるのは間違いないでしょう。しかしながら、大雑把な人にとっては、仕事を最後まできちんとやり遂げることは困難なのです。

そこで、このとき取り得るアプローチを考えます。
大雑把な人の戦略です。

といっても、ここで考えられることはそう多くありません。
すなわちそれは、「少しずつ、頻繁にやる」ことです。

一回で完全にできないのなら、完全にできないことを認めた上で、頻繁に実施するのです。

これだけでも十分効果はあると思いますが、ある面では単なる心境の変化でしかないとも言えますので、一つだけ行動についても触れておきます。
それは、その作業が実施できるための道具を、あちこちに置いておくことです。とにかく、思いついたらすぐに実施できるように、さらには思いつきやすくしておくようにするのです。


メリット



上述したようなアプローチを用いたときに得られるメリットについて、考えてみます。

明らかに言えるのが、作業をきちんと最後までやらないと決めることで、それに取り掛かる際の気持ちのハードルをとても低くできることです。
必ず適当にやると決心してしまうと、それにかかると予測される時間を限りなく短くできますので、結果として、「じゃあ1分だけやろうか」といった考えになりやすいのです。

ここに、上で書いた「必要な道具はあちこちに置いておく」ことで、さらに取り掛かる際のハードルは低くなります。

すると最終的には、大雑把な人の方が、きちんとしている人よりも作業をたくさん進めることになると想像できます。
加えて、大雑把な人には「苦労して作業を終えた!」といった感覚もありません。

これが、大雑把な人が得られるメリットです。

この話はもう少し発展させることができます。
作業に取り掛かる際のハードルを限界まで低くしていくと、それは「作業」であるにも関わらず、いつしか「気分転換」のような状態になってくるのです。

こうなればもはや、その作業を積極的に行う必要すらありません。
まったく別の、それなりに労力のかかるタスクに取り組んでいる最中に、ふとした気分転換で件の作業が進んでしまうのです。

もちろん、それは「脱線」と紙一重ではありますが、ここでは深入りしないことにします。

いずれにせよ、大雑把な人が、自分を大雑把だと認めて何かを考え始めると、メリットが見えてくるのです。


終わりに



今回ご紹介した記事は、今後もまた出させていただくかもしれません。
とても感銘を受けています。

2012年7月2日月曜日

日記めいたもの

Clip to Evernote
本エントリは、ブログで日記めいたものを書くことに挑戦してみます。

こう書いてみると、元々ブログとは日記を書く場所なのかもしれないと思ったり、そうすると「日記」とはそもそも何のことだろうと思ったりしますが、そういった議論には立ち入りません。

あと、たった今、一行目の文章を「ブログ上で日記めいた」から「ブログで日記めいた」に修正したのですが、これはどちらが正しいのでしょう。

つまりは、「ブログ上」の「上」とは何のことで、上があるなら「下」は何を指すのか、との疑問です。

いま、日記なのだから、できるだけ思ったままに近いことを書こうと考えていたのですが、上記のようにどんどんどうでもいい方向に発散してきました。

私にはあまり向かないのかもしれません。

ここでまた、「向く、向かない」とはどういうことなのか、との疑問がわいてきましたが、私には向かないので、考えないことにします。

今回は、そんな話です。


日記1


数日前、劇団四季の「オペラ座の怪人」を見に行ってきました。
新橋駅から歩いて行ける、「電通四季劇場 [海]」にてです。

私はミュージカルといったものについて何かを語るような知識を持ち合わせてはいないのですが、とにかく感動しました。
どれほど感動したかと言えば、カーテン・コール(と呼ぶのかすらよくわかりません)のときに号泣するくらいです。

複数の意味で、ぜひまた行きたいものです。


日記2


「感動」という単語が、とても良い言葉だと思います。
こういった状況に「動く」との動詞を使う心意気が素晴らしいです。


日記3


ダイスキンの赤と白を買ってきました。

本ブログの以前のエントリで、ダイスキンの黒を購入したことをご紹介しており、話としてはそれに続くものになるわけです。

なんとなく、ゴムバンドが違うような気もするのですが、ひょっとするとダイスキンのにせものかもしれません。


日記4


次にエントリとしたい話があります。
何となくの方針は決まっていますが、細かい部分がまだもやもやとしている段階です。

こういった場合、書いてみるとうまくいくことが多々ありますので、この場で実際にやってみようと思います。
エントリタイトルは未定ですので、後で考えることとします。

本ブログで何度も紹介している記事に、以下のものがあります。

R-style » ひねくれ者のアプローチ

私にとっては、とても重要な記事です。

今回は、こちらを踏まえた話です。


ひねくれ者でない


記事中では、ひねくれ者がとることのできる方針について、抽象的な形で述べられています。

私は別に自分のことをひねくれ者だとは思っていませんので、非常に参考にはなるものの、記事で触れられている状況に直接当てはまるわけではありません。
とはいえ、その記事を読んで良いと感じたということは、私がひねくれ者であると示しているのかもしれません。

私は自分をひねくれ者でないと思っているとはいえ、記事のことを何かしらの形で自分に活かしていくことはできます。

例えば、私は自分が大雑把で、何かを最後まで完璧に行うのが得意ではないと思っています。

ここから、上で紹介した記事の考え方に基づいて、「大雑把な人間のアプローチ」を考えてみたいのです。


だからこそ、の部分


記事では、単にひねくれ者ががんばっていくことだけでなく、ひねくれ者だからこそたどり着ける部分にまで言及していました。

これと同様に、本エントリでも「最後まできちんとできない人間だからこそ、良いところがある」ことについてまで触れることができると良いと思っています。


アプローチ


このあたりはまだあまりまとまっていませんが、イメージとしては、大雑把な人が部屋掃除をすることについてを想定しています。


メリット


ここで、大雑把な人が部屋掃除をしたときの、そんな人独自のメリットについてを語ろうと思います。


終わりに


今回ご紹介した記事は、今後もまた出させていただくかもしれません。
とても感銘を受けています。


終わりに


ブログで日記を書こうとするのも、また難しいものでした。