2012年8月31日金曜日

きりのいい話

Clip to Evernote
こんな私ですが、人並みに買い物をしたり、日常生活を送ったりしています。
すると、人並みの感想を抱いたりすることがあります。

感想に人並みも何もないような気はしますが、当然といえば当然です。

今回はそんな話です。


ぴったり


私の住まいの近所に、スーパーがあります。
それから、私は自宅にいつも牛乳とオレンジジュースをストックしています。

すると必然に、そのスーパーで頻繁にその二つを購入することになります。もちろん、牛乳とオレンジジュースがなくなるスピードは等しくありませんので、牛乳だけを買うことも、オレンジジュースだけを買うこともあります。

そして、当たり前ですが、それらを同時に買うこともあります。
そのお店で牛乳とオレンジジュースを同時に買うと、合計で256円になります。

レジで「256円になります」と言われると、「おお、ぴったり!」と感動します。
牛乳とオレンジジュースを買うのは初めてのことではありませんので、よく考えればレジで言われるまでもないはずですが、毎回感動します。

このところは、牛乳だけが必要な場合でも、一緒にオレンジジュースも買ってしまったりしています。
完全に、お店の販売戦略に乗せられています。後悔はありません。


きりのいい


考えてみると、ぴったりが特別な意味を持つような状況は、身の回りにたくさんあります。

このような記事を読みました。

投資も恋も「過去の思い出」に引きずられてはいけません~マネーハック心理学(2) : ライフハッカー[日本版]

引用いたします。
似たような話には「1000円単位の節目」のようなものもあります。「日経平均が10000円を回復した」とか「B社の株価が1000円を割った」というキリのいい数字を、弱気や強気のシグナルとするものです。
言われてみれば、9990円が10000円になるのも、10050円が10060円になるのも、現象としてはそれほど大きく変わるものではありません。
引用した文章の詳細や前後の文脈については、私には解説できませんので、リンク先をお読みいただければと思います。
いずれにせよ、良くも悪くも、ぴったりのものには何かしらの力があるようです。


ライフハック


ライフハックや仕事術界隈にも、こういった話はあります。

有名なものの一つとしては、「仕事をきりのいいところまでやらない」があります。
私から詳しくは述べないことにしますが、要するに、仕事をきりのいいところまで仕上げないでその日を終える(または、休憩に入るなど)ことにより、次にとりかかる際に仕事へのエンジンがかかりやすい、といった内容です。私個人としてもこれの効果はよく感じられますので、基本的に賛成です。

こちらは先の例とは異なり、積極的に「きりのいい」を否定しよう、避けよう、とするものです。

仕事を行う場合、「きりのいい」には良い面もあります。これには、タスクリストでタスクを完了にしたときの気持ちよさ、あたりを想像すればよいでしょう。しかし一方で、こと仕事に関しては「きりのいい」状況にたどり着くのはとても大変であるという事実もあり、これはどちらも確かなことです。
その意味では、「きりのよくないところで止めてもいい」と考えられることが、この手法のメリットに、ひいては仕事のやりやすさにつながっているのかもしれません。


活かす


このように考えていくと「きりのいい」をうまく活かしていく方法も見えてきそうですが、ある意味、それをプラスに利用するのは、意識しなくてもできることだったりします。
すぐ上の例で言えば、たいていの人にとって、タスクを完了にしたときの気分の良さは意識しなくても得られます。実際にタスクに取り組んで、完了させて、チェックを付ければ良いのです。

となると、気をつけておくべきは「きりのいい」のマイナス面の方になるでしょう。
今のところは「気をつけておく」くらいしか言えませんが、気をつけておこうと思います。


終わりに


このあたりの話は、私がとやかく言わなくてもきちんと研究がなされているような気がします。
関連する書籍が見つかれば、読んでみたいです。

2012年8月30日木曜日

そんなに単純なはずが

Clip to Evernote
私が何かを考えるときの方針の一つに「そんなに単純なはずがない」があります。目を引く表現をするなら「トリガーワード」などとなりそうですが、そんなに大層なものではありません。何となく、いつもそんな方向でものを考えている、くらいのイメージです。

今回は、そんな話です。


この前の話


本ブログで下記のようなエントリを書きました。

23-seconds blog: ある言明がそれらしい

エントリ内「終わりに」節で、少しだけ「本質」についての話をしています。
大雑把に言えば、「私が使う本質という言葉に、それほど深い意味はない」との内容です。

これは決して昔から考えていたりはせず、上記のエントリを書いていた時分に、ふと思いいたったことです。
それほど深い意味はないと言っているのは、考えるほど深い意味がありすぎるように思えるので、そういう部分には目をつぶってこの言葉を使います、とのことを意図しています。

要は、私はこれまでこの言葉を考えなしに使っていましたが、このたび疑問が出てきたというわけです。


抽象


ところで、こういった話は例を持ち出した方がやりやすくはなりますが、そうするといらぬ誤解が生まれやすくもなります。
私にはその、誤解を生まないような例示を行える自信がありませんので、できれば、それに頼らずに進めたいものです。

話を戻します。
私がここで持ち出したいのは「抽象」との言葉です。
いま、「抽象」と「本質」との言葉を見比べてみたいのです。

ここに、「Aの本質はBである」との主張があるとします。私から指定はしませんので、必要に応じてAとBには適当なものをあてはめていただければと思います。

適当な定数が代入できましたら、考えていただきたいことがあります。
そのAとBの関係は、本当に「本質」か、ひょっとして、「抽象」だったりしないだろうか、とのことです。
AとBの関係が抽象であるとは、つまり、Aを抽象化したものがBであるということです。これは逆でも構いませんが、話がややこしくなりますので、「Aを抽象化したものがB」に限定しておきます。

それから、後々のためにもう一つ問いを用意します。

先ほど代入したAとBを元に、適当なB'を考えてみてください。
うまくB'を選ぶと、「Aの本質はB'である」との文章が成り立つようにできると思います。むしろ、これが成り立つようにB'を選んでください、と言う方がわかりやすいかもしれません。


中身


中身の話に入っていきます。

上述したうち、後半の話の方が直感的にわかりやすいです。
つまり、主張「Aの本質はBである」は正しいのに、「Aの本質はB'である」も正しくできてしまう、との話です。

これはすなわち、「本質」に相当するものが、同じAに対して複数あって良いのか、とのことを言っています。

私には、あまりそうとは思えません。
「本質」が、それを考える人の視点や状況などによって変化してしまうというのは、やや受け入れにくい話です。
もちろん、「本質」というのは流動的で頻繁に変化するものだ、との主張があっても良いのですが、本エントリではそうではないとして進めます。

そしてこれが、前半の話につながります。
「本質」が状況によって様々に変化するなら、それは「抽象」だとか、別のものなのだろうと思うわけです。なお、ここで言う「抽象」には実は言葉のこだわりはあまりなく、「概要」「大雑把」「要約」「俯瞰」などと置き換えてしまっても構いません。用いる単語は何であれ、だいたいそのようなことが言えていれば良いです。


わかりやすく


上で挙げた「抽象」「概要」「要約」といった言葉は、多くの場合、話を単純にしてわかりやすくするためのものです。
話を単純にしているなら、必ずどこかの面では物事を正確にとらえていないことになります。

もちろん、考え方によっては「本質」がこの並びに入るとしても良いのかもしれません。そこの解釈は自由です。

しかし、私には「本質」が「話を単純にするもの」であるとは、どうしても思えません。
感情の話ではあります。それでも、思えないのです。
「本質」とは、話し手の都合で自由に出したりしまったりできるものではないはずなのです。

さらにイメージの話に行きます。

「抽象」「要約」などの言葉は、対象からとても離れたときに、それでも見えるようなもののことを言っているように思います。
一方の「本質」は、対象にすごく近づくことによって、やっと見えるようになるものだと思います。

やはりイメージの話ですので、そんなことはないと言われたら、そんなことはないのかもしれません。


日本語


日本語を英語に訳すときに、だいたい同じ意味を持つ単語が存在していても、そのニュアンスなどに至るまで完璧に翻訳することはできない、との話をご存知の方も多いと思います。本ブログでも、「美しさに気持ちを」とのエントリで「美しい」と「beautiful」について触れました。
これは日本語と英語の関係に限らず、すべての二つの言語の組み合わせについて成り立つことでしょう。

他方、上で述べた通り、「本質」とは一定のものであり、それを考える人の解釈の仕方や置かれている状況にはよらないと考えます。

であるなら、物事の「本質」がそもそも日本語で表現できる時点で、かなりの奇跡です。日本語はこの世界でほんの何割かの人たちにしか使用されない、マイナーな言語であるはずだからです。

これも、「本質」と呼ばれるものはもっと大雑把で、言語による細かい差異など気になるようなものではない、と解釈するのも決して間違いとは言えませんが、私にとってはそれは受け入れにくいことなのです。


言い直し


いろいろ言いましたが、それほどたくさんのことは言っていません。

話としては、
  • 「本質」とは、何かを単純にするために用いる便利な言葉ではないだろう
  • 「本質」と「大雑把」がだいたい同じ意味ということはないだろう
とのことです。

本エントリの立場を採ると、「それは本質じゃないよね」との言明は、ほとんど何も言っていないに等しいことになります。


終わりに


それほどたくさんのことは言っていませんが、そんなに単純なはずはないのです。

ある言明がそれらしい

Clip to Evernote
雲をつかむような話になってしまうものの、少し考えたことがあるので、書いてみようと思います。

それはそうと、その話とは何も関係ありませんが、「雲をつかむような」との素晴らしい表現を考えついた人に興味があります。
その人はどのような人で、どのような状況でこれを思いついたのか、についてです。

想像するに、やはり空を見上げていて、雲がつかめそうだと考えたのでしょう。あるいは、実際に手を伸ばしてみたのかもしれません。しかし、雲をつかむことはかなわなかったわけです。

何となく、この人とは仲良くなれそうな気がします。

こちらの記事を読みました。

こどもコンパス × ママコンパス | 今、ここにあるものを、さぁどうぞ。

とても素晴らしい記事です。
ここから考えることはいくつかありますが、とりあえず、私も少しだけ空を見てみようかと思いました。

今回はそんな話です。


ある言明


ここに、ある肯定の言明があるとします。
「AはBである。」というものです。

私から例示はしませんが、この形をした命題を一つ想像してみていただけると、今後の話がわかりやすくなるかもしれません。そのとき、想像する言明は一般論めいたものが良いでしょう。

さて、そのような肯定の言明に対して、おそらくそれを表明した人とは別の人によって、否定の言明がなされることがあります。今回の状況ではやや語弊があるようにも思いますが、多くの場合ではこれを反論と呼びます。

「XはYであることから、AはBではない。」
といった具合です。

多くの人は、このような反論を行った経験があると思います。
反論、との言葉には多少マイナスのイメージが含まれていますので、「反論したことがありますよね?」との問いかけに、素直にそうだと言いたくない気持ちが浮かんできます。ですがこれは「反論」の言葉の問題であって、本質には影響はありません。

(一般論めいた)肯定の言明に対して反論するためには、それなりの能力が必要です。そして同時に、反論することでその能力を表現しているということも、ある面では言えます。
確かに、(一般論めいた)肯定の言及を様々な根拠をもって否定しているのを目にすると、すごく何かの能力を持っているように見えますし、また、おそらく実際にそうです。

ですが、単純に「AはBである。」と「AはBではない。」を見比べると、どう考えても後者の方が含む範囲が広いです。「AはBである。」が成り立つようなある一範囲があるとしたら、それの否定はそれ以外の範囲すべてになるからです。

すると、何かしらの高い能力を持った人が言うことの方が、当たり障りがないということになります。すごいことをしているようで、ただ当たり障りのないことを言っているだけなのだとしたら、それは妙な話です。


それらしい


二つめの話です。
『100の思考実験』との書籍に、下記のような文章があります。

『100の思考実験』(ジュリアンバジーニ、向井和美) 
もっともらしく聞こえるパラドックスほど、深遠な思想という錯覚を効果的に生みだすものはない。
私は、この文章を読む以前からこういったことをよく考えており、これに出会ったときはなかなかに嬉しく感じました。

もう少し引用いたします。
自分でも作ってみるといい。簡単にできる。まず何か強調したいものを考える(知識、力、猫)。次に、その反対を考える(無知、非力、犬)。最後にそのふたつの要素を結びつけて、何かもっともらしいことを言うのだ。「最高の知は無知の知である」、「非力な者のみが真の力を知っている」、「猫を知るには犬も知れ」。ほら、たいがいはうまくいく。
まったくその通りです。簡単に、とてもそれらしい文章が出来上がっています。

私も一つやってみましょう。
「iOSの本当の価値は、Androidの中にある。」

何の話かさっぱりわかりませんが、確かにそれらしくなりました。


本当のこと


先の引用文では、この「それらしく見える現象」を皮肉めいた言い回しで説明しています。
それはそれで間違いではないのでしょうが、しかし、なぜこれでそれらしく見えてしまうのかについては判明していません。
(同書ではその方向に話を進めていませんので、当然ではあります。)

そして、私はそれについて、皮肉など一切なく、いたってまじめに「それが真理だから」という回答を考えています。

つまり、どんな単語を持ってきてもそれらしく見えるのは、それが本当にそうだからだと思うわけです。



本エントリ前半の話も振り返ってみます。「AはBではない」についての内容でした。
これを、すぐ上の「猫を知るには犬も知れ」の話と組み合わせてみると、下記のようなことが言えます。
「AはBかもしれないが、AはBではない。」

細かい言い回しについての議論は置いておきます。
本エントリの二つの話を組み合わせると、だいたいこのようなことが言えるわけです。

するとやはり、能力のある人は真理を話していることになりました。


終わりに


ちなみに、私はよく「本質に影響はない」との表現を使いますが、本質に影響がないものがすなわち、完全に無視してしまって構わないものだとは思っていません。

本質に影響がないなら、本質ではないところにきちんと影響があるのです。
そして、物事が本質のみで構成されていない以上、決して切り捨ててはいけないものなのです。

私が言う「本質に影響はない」は、単に、
  • 今話を進めたい方向ではない
  • その方向はまだよくまとまっていない
  • その話をする時間がない
  • 疲れた
といった理由から「今ここでは文章化(または言語化)しない」というだけの意味です。

2012年8月26日日曜日

WIRE12、アフター

Clip to Evernote
毎日がみっくみく!(挨拶)

ブログ「- 見て歩く者 by 鷹野凌 -」さんで、コンビニのファミリーマートと初音ミクのコラボ企画商品が、まとめて紹介されています。

ここでは、代表して一つの記事をご紹介させていただきます。

初音ミク×ファミリーマートコラボ商品を買ってきた - 見て歩く者 by 鷹野凌 -

こちらが企画のオフィシャルページのようです。

初音ミク×ファミリーマート コラボ商品が登場!|商品情報|FamilyMart

上記をはじめとした一連のブログ記事を読んで、とにかく素晴らしいと思いました。

「ブログには好きなことを書きなさい」といった、何のことだかよくわからない主張をたまに見かけることがありますが、それがここまでやるという意味であれば、心から納得できます。
圧倒的ですし、個性的ですし、情報としても大きな価値があります。

ですが、逆に圧倒的でも何でもない情報であっても、価値がないことにはなりません。
それは「ブログには好きなことを~」とはまた別の文脈から出てくることなのでしょう。

とはいえ、私は「ブログに何を書くか」といった話にはあまり興味がありませんので、ここは、「ブログ「- 見て歩く者 by 鷹野凌 -」さんのコラボ商品紹介記事シリーズが、とにかくすごかった」とのまとめといたします。

今回は、そんな話です。


考えない


これを書いているのは2012.8.26のことです。
去る2012.8.25~2012.8.26にはWIRE12なるイベントが開催され、私も参戦してきました。

WIREについては、本ブログの過去エントリで書いていますので、ここでは省略します。

23-seconds blog: 私とWIRE

普段から、重要なこともそうでないこともいろいろと考えている私ですが、一年の内でこの二日間だけは何も考えずに過ごします。
体が疲れてくるにつれて徐々に頭の中から何かがなくなっていく感覚は、言葉にはしにくいものの、なかなかに悪くありません。

そして、イベントが終わって外に出てくると、体は疲れていますが、頭が軽くなっているのを感じます。メモリのフリーとデフラグが済んだ状態、とでも言うのが良いでしょうか。

そして、唯一「テクノっていいなあ」との思いだけを持って、帰路に着くわけです。

「考えないこと」については、このような記事もあります。
冒頭に、見覚えのある記事が紹介されています(嬉しいです)。

R-style » 考えない方が出る答え

こちらの記事で述べられていることは、本エントリのこととは多少様子が異なりますが、いずれにせよ、普段から物事を考えすぎているような場合には、「考えない」との選択肢もあることくらいは知っておいても良いかもしれません。


WIREのこと


一応、WIREのことについてもざっと書いておきます。

ですが、今日あたりにインターネットを通してやりとりされる情報は、おそらくかなりの量が「今年のWIREはどうだった」といったものになるでしょう。
「あけましておめでとう」や「バルス!!」に匹敵するくらいだと思います(未調査)。

加えて言うなら、今後一週間くらいのテクノのCDや配信の売り上げを見てみると、昨日までより大きく増加していることが観測できるはずです。
多くの人が、「テクノっていいなあ」と感じたためです(未調査)。

WIRE12は、入場の時間が遅かったりと、例年と少し勝手が変わったように思える部分がいくつかありました。
もちろん、それで何か不便な思いをしたりといったことはなく、楽しく過ごせました。

ステージとしては、やはりまりんが良かったです。
4つ打ちじゃないWIREというのも、とても良いです。

フランク・ムラーも素晴らしかったです。大盛況でした。

そして、何といってもデリック・メイをこの目で見られたことは、一生の宝になるでしょう。


終わりに


「雪が溶けると何になる?」との話もありますが、WIREが終わると、いよいよ秋が近づいてきます。

それでは、「See you next year!」(挨拶)

2012年8月25日土曜日

デザインは大変

Clip to Evernote
本エントリでは、単純に私の願望についてを書きます。いわゆる、こうなったらいいな、です。
つまり、まだ起こっていないことについて書くわけですので、ある面では、何でもありません。しかし、どこかの面では何かであるかもしれません。

なお、本エントリでは、その筋の業界用語を説明なしで使うと思いますが、話を円滑に進めるためですので、よろしくお願いします。

ところで、現在はこの前置き部分を書いていますので、実際にはやってみないとわかりませんが、「業界用語を使うと話が円滑に進むように思える」というのは、なかなか興味深いです。
ですが、逆に「話を円滑に進めるために、普遍的な用語を使います」と言うのも成り立つような気がします。
どんな言葉を使っても、話は円滑に進むのでしょうか。円滑に進まない話とは、存在し得ないのでしょうか。

今回は、そんな話です。


タスク管理


そんな仰々しい前置きをしておきながら、タスク管理の話です。

私も多くの方と同様に、様々なタスク管理の考え方や手法を目にして、いくつかは実践もしてきました。

それらの手法にはそれぞれにメリットがあって、なるほどと思うばかりでしたが、一般論として、経験が増えてくるにつれて自分なりにやりたいことが出てきます。
そして、今回の私にもそれがあてはまるわけです。


タスクリストから


まず前提として、私はタスクリストから出発したいです。プロジェクトからでも、コンテクストからでもありません。
さらに言えば、デイリータスクリストからです。

多くのタスク管理の方式からすると、かなり厳しい考え方と言えるでしょうし、これを掲げている人を、私はあまり見たことがありません。
(だからこそ「自分なりにやりたいこと」なわけです。)

その内容を見ていきます。


例えば


例えば、このような(デイリー)タスクリストがあったとします。
  • 買い物に行く
  • ブログを書く
  • ライブのチケットを取る
実際にはもっといろいろときちんとしていますが、基本的にはこの形だとしてよいでしょう。
このリストを上から順に実施していけば、つつがなく一日が終わるわけです。
(もちろん、そのためにはリストが実施する順に並んでいる必要があります。そこのところは省略します。)


一つめ


一つめの問題点に触れます。
上記リストの「ブログを書く」を実施したところ、文章を書き終えたところまでで時間切れとなってしまい、それを成形して、エントリとして投稿するのは明日以降に回すことになったとします。

このとき、タスクリストはどのようになるのでしょうか。

完了していませんので、単純にチェックは付けられません。何かしらの工夫がここに入るはずです。

私は、よく言われるタスク管理で、この部分にうまく対処できないのが不満でした。

もちろん、打つ手がまったくないわけではありません。

一つは、今日の「ブログを書く」を完了にしてしまって、明日のタスクに「文章を成形する」を加えることです。
しかしこの方法では、明日の「文章を成形する」が、今日の「ブログを書く」の中から出てきたものであることが判然としません。
ここには本来階層関係があるはずなのです。
明日には、今日よりもタスクを寄った目線で見ることになりますので、これが明らかでないと、「文章を成形する」が何の話なのかがわからなくなってしまいます。

もう一つは、「ブログを書く」を初めからプロジェクトとして扱うことです。
つまり、
  • ブログを書く
    • 文章を書く
    • 画像を用意する
    • 文章を成形する
    • エントリとして投稿する
としておき、デイリータスクリストを
  • 買い物に行く
  • 文章を書く
  • 画像を用意する
  • ライブのチケットを取る
のようにするのです。

ところが、この方法もあまり嬉しくありません。
タスクを実行する前から、そんなにきっちりと先を見通すことはできないということは言うまでもなく、さらに本質的に問題があるのです。
それは、元のタスクをどんなに細かく分解しても、その一つを途中までしか完了できないことが必ず発生してしまうためです。

この例で言えば、「ブログを書く」を分解して「画像を用意する」とのタスクを作っても、実施してみたら、半分まで画像を用意したところで時間切れとなってしまうようなことです。
そして、次に「画像を用意する」を何かのタスクの集まりに変換したとしても、状況は変わりません。

タスクが途中までしか完了できないことがある以上、本エントリの話である、それをどう扱うかの問題は解決しないのです。


Doingログ


他方、私は、上に書いたようなタスクリストとは別に「まさにこれからやること」「まさに今やったこと」を、時刻入りでモレスキンに記入しています。

やはり先の例で言うと、
(20:00) ブログ書く
(21:18) 文章書いた。画像用意する
(21:32) 投稿した!
といった具合です。
これはDoingログと呼ぶのかもしれませんが、とりあえず名前は何でも良いです。

そして、ここにようやく、本エントリ冒頭に書いた「私の願望」の話が出てきます。

この節の書き出しは「他方」となっていますが、これが「他方」でなくなるような手順を、誰かに提唱してほしいです。
すなわち、現状はタスクリストとDoingログが別の流れから存在しており、これがすごく無駄に感じるのです。

もちろん、無駄なだけなら気にしなければ良いでしょう。
ですが、もしこの二つをうまく統合できれば、明らかに前半に書いたタスクリストの問題点が解決します。
つまり、「途中までやったタスクの扱い」です。


終わりに


本エントリが、そのような手法を「自分で考える」ではなく、「誰かに考えてほしい」となっているのは、それがどうなっていてほしいのか、自分にも完全には明らかでないためです。
要するに、デザインは大変だという話です。

話が円滑に進みませんでした。

2012年8月19日日曜日

あれはランドルト環

Clip to Evernote
誰にでも、どうしても苦手なものがあると思います。
自分のがんばりが足りないとか、そういったことは何もないのに、どうしようもなく苦手なものです。

誰にでもあることなのに、その対象が偶然「他の人があまり苦手に感じないもの」だったりすると、途端に世界が生きにくくなります。
ただでさえ「感受性潰すマジョリティ」の中で傷つけられながら生きているのに、「偶然苦手だったもの」にまで苦労させられなくてもいいだろうと思いますが、仕方ありません。

例えば、私はバスが苦手です。
どうしてと言われても、どこがと言われても、わかりません。
それから、手早く片づけたり、速く歩くのも苦手です。

悲しくなるので詳しくは書きませんが、ある状況ではこれらが問題になって、つらい思いをしたりするのです。

以上の話を踏まえなくても良いのですが、本エントリでは私が苦手なものの一つについて述べてみます。

今回は、そんな話です。


エレベーター


私は長いことエレベーターに苦手意識がありました。
そして、やはり上に書いたことと同様、エレベーターの何が苦手なのかといったことはわからずにいました。

よく言われることには、閉鎖された空間が苦手、といった話があるでしょうか。どうも私はそれには当てはまらなさそうです。
他には、エレベーター外の慣性系から見たときに鉛直方向に見かけの重力が大きくなることも(ニュートン力学に従うなら)言われるでしょうが、私はこれにもあまり苦手意識はありません。

つまり、どうやら私は容易に思いつくような理由ではないところで、エレベーターが苦手らしいのです。

さて、残念ながら、このところエレベーターを日常的に使用する環境になってしまいました。
始めはとても憂鬱でしたが、しかしほんの二度ほど使用した後には、驚くことに苦手意識がまるでなくなっていたのです。

たった二回ですから、決してエレベーターに慣れたわけではないはずです。私がこれまで乗ってきたエレベーターと、今回苦手意識がなくなったエレベーターとの間に、何か違いがあると考える方が自然です。

その違いは、思いつく限り一つしかありません。

扉を開閉するボタンの表記が、これまで乗ってきたエレベーターでは
   {"開", "閉"}, {"◀|▶", "▶|◀"}
となっていましたが、今回使用したものでは
   {"Open", "Close"}
だったのです。


一見して


表記が「開」「閉」の場合だと、これらの漢字のつくりが似ているため(または、同じため)、エレベーターの扉を開閉しようとする際にどちらのボタンを押したら良いのか、迷いが発生します。
それだけでも十分に問題ですが、加えて、一瞬でも迷ってしまうと「開」「閉」の文字をじっと見つめることになり、そこからゲシュタルト崩壊めいたことが起きてしまいます。
こうなってしまうともうお手上げで、つまり私はエレベーターの扉を開閉しようとすると、動作が停止してしまうのです。

一人で乗っているなら別にそれでも構いませんが、そこに他の人がいた場合には、今度はどんどん気持ちが焦ってきます。

そんなことを繰り返していたためにエレベーターが苦手になったと断定はできませんが、今こうして回想してみると、可能性は高そうです。

「◀」や「▶」の印によって扉の開閉を表現している場合は、事態はさらに深刻です。
おそらく、この三角印は扉が動いていく方向を示しているのだと思います。ですがこの三角印、私にはどうしても、左右どちらを指しているのかがとっさに判断できません。
そしてやはり、ひとたび「判断できない!」と思ってしまうと、見つめれば見つめるほど何が何だかわからなくなり、立ち尽くしてしまうのです。


OpenとClose


その点、「Open」「Close」は優秀です。
ぱっと見てわからないようなこともまずありませんし、もしわからなくても、文字を読めばきちんと判断できます。

おかげで、この表現が用いられているとわかっているエレベーターに対しては、苦手意識がなくなりました。
あとは、世の中のエレベーターの開閉ボタンがすべて「Open」「Close」になるのを待つばかりです。


振り返って


ここで、私がすごく幼い頃のことを振り返ってみると、いくつか思い当たる節が出てきます。

私が小さい頃、家にはビデオデッキがありました。それで子供向けアニメなど、よく見たものです。
おそらくこう言えば、これをお読みの多くの方は何の話か想像がつくことでしょう。

「再生」ボタンです。

ビデオの「再生」ボタンには、「▶」が記載されています。
私は幼い頃、この印の意味するところがさっぱりわかりませんでした。しかも「再生」の漢字は読めません。
このままでは、幼い私は自分でビデオを見ることができないことになってしまうわけですが、当時の我が家のビデオデッキは、幸いにも「▶」の印のみ緑色で記載されていました。私は「緑色の三角印のボタンを押す」と覚えることで、一人でビデオを見ることができたのです。

実はこの状況は、現在でもあまり変わっていません。
ハード、ソフトを問わず、今どきの様々な動画プレーヤーは再生ボタンが目立つデザインとなっていますし、あるいは現在の私なら「再生」の文字を読むことができます。

年齢を重ねても、「▶」マークが「右を向いている」ことがどうしても判断できないのです。


図形


ひょっとすると、私は図形を把握する能力が劣っているのかもしれません。
「▶」が三角形であることは、頂点の数を落ち着いて数えればわかるのですが、右を向いていることは、考えれば考えるほどわからなくなってきます。一度でも「あれ、これ、左上を向いているようにも見えるな……」と思ってしまうと、もうだめです。
(実際、たった今、私はかなりだめな状態です。)

ちょっと思い出してみるだけで、上記の再生ボタンの話以外にも、いくつか実例が出てきます。

数学の問題では、二次元ベクトルの話が私はとても苦手でしたが、四次元以上のベクトルになると、得意になりました。

私は昔野球をやっていました。練習のときには所定の場所にホームベースを置く必要があります。
当然、五角形の角がキャッチャー側を向くわけですが、その「五角形の角」に、五つある頂点のうちどれが該当するのかわからなくなってしまうことが何度もありました。

視力検査で、輪っか(ランドルト環と呼ぶそうです)の開いている方向を答えるとき、「ランドルト環がこっちを向いている」ことは見えているのに、それが上下左右の何なのかがわからなくて、考え込んでしまうことがありました。

これくらいにしておきます。


まとめ


ここから「デザインとは何か。」といった話をしようと思っていましたが、ここまでがずいぶん長くなってしまいましたので、やめます。

すると、本エントリは何も言っていないような気がしますので、「あの輪っかはランドルト環と呼ぶ」とのことだけ覚えておいていただければと思います。


終わりに


本文中に、「エレベーターが動くときに見かけの重力が……」との話をしましたが、これは平たく言うと、体に重力がかかって気持ち悪いという意味です。

2012年8月13日月曜日

美しさに気持ちを

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。
『モンスター』(百田尚樹)との小説について書かれているようです。

本ろぐ[2]モンスター。 | やよこぶろぐ

とても素晴らしい記事です。

いま、その小説の話とは少し逸れてしまうかもしれませんが、一つ気になった部分があります。引用いたします。
美しさというものは、何なのでしょう。
この文章が出てくるに到った流れは、ぜひ上記リンク先にある記事に当たっていただきたいと思います。
私はそういった文脈は無視させていただいて、単純にこのことについて考えてみます。

今回はそんな話です。


美しいこと


昔どこかで読んだ話です。
(出典をご存じの方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいです。)

"美しい" と "beautiful" は、言葉としては同じに見えるけど、それが示しているものは等しくはない、ということです。

"beautiful" は、花や自然を目にしたときに、それを形容するために使われます。
"What a beautiful day!" と言ったらとても天気が良い日のことですので、そんなイメージで良いと思います。

一方の "美しい" は、その昔、武士が自らの腹を切って果てたときの、その潔さですとか、そういった意味を含んでいるそうです。

実際に "美しい" がそのために使われた言葉かどうかはわかりませんし、そもそもこの話自体、私が覚えていないだけで「筆者はこう思います」といったものだったのかもしれません。

ですが私は、わりとこの話を信じています。

だとすると、英語には潔く散った武士を形容する言葉がないことになりますが、そうなのかもしれません。


beautiful


さて、美しいものと言って初めに思いつくのは、






ですとか、










(この表現は数学的には正しくありませんが、私はこれが最も美しいと思っています。)
ですとか、









などがあります。

私は、これらを何となく "beautiful" に感じます。


美しい


それから、私は源義経が好きです。
この「好きです」との表現も非常に難しいのですが、やはりここを語り出すのはやめます。少なくとも、「Evernoteが好き」の「好き」とは違うということだけ明記しておきます。

多くの義経が好きな人は静御前も好きだと思いますが(イメージ)、私もそうです。

やはり静御前といえば鶴岡八幡宮での白拍子の舞なわけです。頼朝に命じられた話のことです。

もちろん実際に見たことはありませんが、きっとそれは綺麗で "美しい" ものだったでしょう。


綺麗な


ところで、「綺麗」もそうなのですが、「いとへん」の漢字には、きらびやか、荘厳、華やか、といった雰囲気を感じるものが多いです。

「綺」「絃」「絢」「絨」「紗」あたりが、ぱっと思いつくところです。

概して、「いとへん」の漢字は好きです。
正確には、上に書いたような「きらびやか、荘厳、華やかな感覚」が好きです。
「いとへんの漢字」以外からも、生活の中で似たような雰囲気を感じる場面はあり、それらもやはり好きです。


終わりに


途中現れた数式は、Googleドキュメントの機能を用いて書き、それをキャプチャ、トリミングして使用しました。
Wikipediaあたりからお借りしてきても良かったのでしょうが、この方が気持ちがこもると思ったのです。

今回の例に限らず、数式というものには大抵、気持ちがこもっています。

2012年8月12日日曜日

とても役に立つ記事

Clip to Evernote
新しいラップトップPCを購入しました。レノボのIdeaPad Z575です。
Amazonの商品ページへのリンクを置いておきます。

Amazon.co.jp: Lenovo IdeaPad Z575シリーズ LED バックライト付 15.6型 HD液晶 1299-96J ガンメタルグレー: パソコン・周辺機器

これまでのラップトップはもう五年ほども使ってきたためか、Google Chromeがまともに動かないような状況でした。
Chromeが動かないためにブログの更新ができないことも多々ありましたので、この度、新たなマシンを導入したわけです。

やはり、こういった新しいガジェットが到着するのは嬉しくて、初めは触っているだけで満足な感覚になります。Windows機ですので、自分なりの設定にするためにもそれなりの手間がかかりますし、またそれが楽しかったりもします。
ですがふと気づくと、そういった時間には何も生み出していないことがあります。

その意味では、このようなものに価値があるのかどうかが明らかになるのは、「触っているだけで満足」の段階から抜け出した頃なのかもしれません。

しかしその一方で、そういった「ツール」自体にこだわるのがライフハックの一つの側面でもあり、そしてそれは私の好きな考え方です。

すごく大雑把に言って、人生を楽しんでいる人は「ツール」自体を楽しんでいる気がします。

いずれにせよ、慣れないキーボードで文章をタイプするのはとても大変です。
実際には、普段ブログの文章を作成するのはほとんどがポメラからのため、問題になることは少ないでしょう(今は練習も兼ねて新しいPCでタイプしています)。これが慣れてくる頃には何か違ったものが見えてくるのかもしれません。

少なくとも、今タイプしていて、普段の文章作成時とは使われる頭の部分が違っているような、変な感覚があります。
とても興味深い現象です。


Evernote


上述したような非力なラップトップを使用していたため、長いことEvernoteのWindowsクライアントソフトは使用しておらず、ChromeからのWeb版と、iPadなどからのiOS版のみでした。

ですが今回、久しぶりにクライアントソフトを使ってみようと考え、インストールしてみました。

最初の同期に時間がかかることは有名ですので、気長に待っています。
現状としては、同期が始まってから五時間ほど待って、「すべてのノート」が4984となっています。
私のEvernoteの全ノート数は15737ですので、あと少しです。あと、ほんの十時間くらいでしょう。

途中、何度か同期が止まったり、警告が出たり、「競合する変更」が出たりしていますが、全く問題ありません。

ところで、人間誰しも、普通に五時間も生活していたらEvernoteのノートはどんどん増えていきます。
そこで、これだけ同期に時間がかかっていると、同期のスピードより、Evernoteのサーバの私のアカウントにノート数が増えるスピードの方が速くなってしまい、結果として永久に同期が終わらないのではないかとの不安があります。

そんなことを言っている間に、「すべてのノート」は5182まで増えていました。
大丈夫そうです。

ちなみに、Evernoteには毎日毎日お世話になっていますが、久しぶりにWindows版から見るEvernoteには、また違った趣があります。
とても良いです。


終わりに


いつも通りではありますが、新しいラップトップを買ったと言いつつ、そのレビューなどはしていません。
ただ、このままだと何の役にも立たないエントリになってしまいます。

そこで、こちらの記事をご紹介いたします。

ノートPC派に贈る、キーボードショートカット30選(Windows編) : ライフハッカー[日本版]
7. Altを押しながらダブルクリック
ファイルのプロパティを開く。
これは知りませんでした。便利そうです。

とても役に立ちます。

2012年8月7日火曜日

電子と銘と矛盾する

Clip to Evernote
「サウンド&レコーディング・マガジン」という雑誌があります。
公式ページはこちらです。

サウンド&レコーディング・マガジン | リットーミュージック

訳あって今は買わなくなっていますが、当時は5年以上毎月書かさず購読していた、私の好きな月刊誌です。
その名の通り、音楽に関係する雑誌です。

また、渋谷慶一郎(敬称略)というアーティストがいます。肩書きは他にも、ピアニストだったり、プロデューサーだったり、いろいろあると思います。
こちらはWikipediaへのリンクを置くことにいたします。

渋谷慶一郎 - Wikipedia

さて、私は、彼がその「サウンド&レコーディング・マガジン」でプライベートスタジオについての取材を受けた記事を読んだことがあります。

念のため補足しておくと、プライベートスタジオとはミュージシャンが自宅に作る音楽の作業場のことです。
作家が書斎にこだわるように、画家がアトリエにこだわるように、ミュージシャンは様々なコンセプトや考え方を持って、プライベートスタジオを作っていくのです。
ここで作家や画家と異なるのは、その対義語として商業スタジオなるものがある点です。これはレコード会社などが所有しており、たくさんのミュージシャンがそこに通って作品を作ります。

やや説明が雑ですが、先に進みます。

その雑誌記事で、渋谷慶一郎が自身のプライベートスタジオへの考え方を問われ、「プライベートスタジオなんだから、商業スタジオで "良い" とされることを真似することはない」といった趣旨のことを発言していました。

本エントリでは、このことについて三つほど考えたことがありますので、それを述べていきます。

今回はそんな話です。


考えたことその1


一つめは、そもそもの「雑誌」についてです。

上でご紹介した渋谷慶一郎の言葉は、きちんとした引用になっていません。「そのような趣旨のこと」との表現を用いています。
それは、ひとえに雑誌が今手元になく、正しい発言の内容を確認できないためです。大変申し訳ないことに、私の記憶を基にしてしまっているのです。
(ですので、絶対に正しいかと言われると断言はできません。)

しかし、仮に購入したものが全て手元にあったとしても、雑誌は買い続けると膨大な質量になってくることもあり、必要としている部分を見つけだすのはなかなか困難です。数が多いので、(しかも無造作に積んであるので、)すべての表紙を見るだけでも大変です。

また、大雑把に言って、雑誌には有用でない情報もありますので、そのために部屋の空間を割くのもあまり嬉しくありません。

こういったことから、よく言われることではありますが、雑誌は電子書籍や自炊とやはり相性が良いと、今回強く実感しました。
おそらく、こういった事項が気になって雑誌を買わない人、しかし電子書籍として買えるのなら買いたい人は、世の中にたくさんいることでしょう。

少なくとも私は、「サウンド&レコーディング・マガジン」の電子版が販売されたら必ず買います。
紙の雑誌と同じ値段でも、特定の端末でしか読めなくても、買いたいです。
(とはいえ、私の調査が甘くて、実はもう販売されているのかもしれません。その場合はぜひ教えていただきたいです。)


考えたことその2


二つめの話です。
上で紹介した「商売やプロの世界で良しとされることを、そうでない状況でも真似しなければいけない、ということはない」とのことは、私の座右の銘の一つだったりします。
これを読んだのはかなり前のことだったはずなので、わりと長いこと私の座右の銘としています。

座右の銘について詳しく語るのは気恥ずかしいものがあるので省略しますが、一つの側面としては、プロでない人がプロの真似をしても、プロの廉価版みたいなものにしかならないことが言えるでしょう。

ちなみに、ここでの「プロ」には深い意味はないことを明記しておきます。


考えたことその3


三つめに考えたことは、その、座右の銘についてです。

私は何となく、座右の銘やそれに類するものはあまり口に出さない方が良いような気がしています。
あるいは、口に出すものじゃない、とするのが正しいかもしれません。

それは、「私はこういうことを意識して生きています」と宣言してしまうより、生きている様子を他の人が見て、「あの人はこういうことを意識しているんだな」と思われる方が良いと感じるからです。

少し話が飛躍しますが、そのため、この文章自体も今書いていて「うーむ」と思っています。

それでも書くことにしたのは、私がこの考えそのものは悪くないと思っていて、ぜひ人に伝えたいことだからです。

「人に伝えないでいる」ことを伝えようとしているから、苦しいわけです。
余談ですが、私はそういった話がわりと好きではあるものの、自分がその苦しみに巻き込まれるのであれば話は別です。

そういうわけで(つまり、苦しいので)詳細は語りませんが、そういうことです。


終わりに


本エントリでは三つの話を挙げました。もちろん、「私の座右の銘について」である二つめが一番重要なはずです。
それから、全体の話の流れとしてはこれで悪くないと思っています。

しかし「三つ挙げて二つめが一番重要」な構成など、プロの文章屋さんが見ればおそらく許さないでしょう。

2012年8月6日月曜日

ついでのメリット

Clip to Evernote
世間的には「ライフハック」なる言葉がすっかり浸透し、それなりに批判のようなものも出尽くした頃かと思います。
私個人としては、「ライフハック」に対する評判を十分な量、直接目にしたことがありませんので、あまり実感はありませんが、言葉としての盛り上がりは一時期ほどはなくなっているのだろうと感じています。

ですが私はライフハックが好きですし、これからもそれについて考えることを止めるつもりはありません。それから、ライフハックが人生を良くすることも信じています。
これは私が過度に夢見がちなこともあるかもしれませんが、いずれにせよ、ライフハックには力があるのです。

さて、やけに仰々しい話から書き出していますが、本エントリではある一つのライフハックについてご紹介したいと考えています。したがって、上記の内容で始まるような、「ライフハック論」に踏み込むエントリにするつもりはありません。
「ライフハック」とは何かがさっぱりわからなくても、意味のある内容になるはずです。

であるなら、ここまでの話は不要であるとも言えます。確かに、どうしても必要かと言われれば、そんなことはありません。

この辺りの無意味さを説明するためには、私の生い立ちについてまで触れることになってしまいますので、今回はあまり立ち入らないことにします。
私の好きな言葉は「過度」や「過剰」です、とだけ書いておくことにします。

今回はそんな話です。


ついでに


本エントリで私が提案したいライフハックは、「ついでにやること」に関することです。
提案とは言ったものの、私はすでにその効果を実感しているので、紹介、などとするのが正しいでしょうか。

状況としては単純です。
何かタスクを行う場面にあるとします。ここでは仮に、コンビニに買い物に行くことだとしましょう。
そこで、自分でふと思い出しても、周囲の人から言われても良いのですが、「コンビニに行くのだから、ついでに近くの薬局に立ち寄って、別の買い物も済ませてしまおう」となることがあります。

特に珍しくない光景だと思います。


時間がかかる


ここで私が言いたいのは、どんなに「ついで」であっても、それを時間ゼロでこなすことはできないということです。
今回の例で言えば、どんなに薬局とコンビニが近くにあっても、コンビニだけに行ってくるのと完全に等しい時間で、コンビニと薬局での買い物を済ませることはできないのです。

加えて、「ついで」の作業はもともとの時間の見通しに含まれていないことにも注意が必要です。
やはり上述の例で言えば、「30分で帰ってこられるな」と思ってコンビニに向かったのに、途中で薬局にも寄ることにしてしまったために、帰ってきたら45分も経っていて驚いたりするわけです。

コンビニに買い物へ行くことならそれほど問題にならないかもしれませんが、これが時間を気にしながら行う仕事だったらどうか、というのが本エントリで重要な部分です。

つまり、
  • 仕事Aを二時間で終えようと考えた
  • いざ仕事Aに取りかかろうとしたところ、仕事Bも「ついでに」やれることに気づいた
  • 実際にやってみた
  • 終わったら、二時間半が経過していた
との状況です。


ついでの仕事B


もちろん、仕事Bが、今まさに行おうとしている仕事Aと同じくらい重要で緊急のものであるなら、何も問題はありません。

ですが、仕事Bがただ単に「ついでにやれるから」との理由で実行されたのであれば、これは良くありません。仕事Bが完了しても状況はあまりプラスにならないのに、今対象としたい仕事Aを終えるための時間は長くかかってしまうためです。

どんなに「ついでに」やるのが効率的に見えても、時間ゼロで行うことはできないのです。

話は逸れますが、「効率化」との言葉には、どこかこういった虚しさや間抜けさの響きがあるように感じます。不思議です。


対策


この「ついでに」問題の対策として考えられることはあまり多くありませんし、そもそも、汎用的な対策を考えるのは難しいです。

その中で一つ間違いないのは、「ついでに」の言葉の魔力とでも言いますか、「すごく効率的にやれそうな雰囲気」を感じたら、それを疑うことです。
言い換えると、「ついでに」やるのが本当に価値あることではないかもしれないと「知る」ことです。

作業のついでに別の作業が終えられることが、何か劇的なメリットをもたらしたりはしませんし、むしろマイナスになることだって珍しくありません。
それなら、合計の時間がより多くかかってしまっても、仕事Bは他の適切なタイミングに、適切な見積もり時間の下で行われる方が価値があるでしょう。

さて、今回の話は「明日出来ることは、今日やらない」や「作業の脱線」、「割り込み作業」といったトピックにもつながりそうです。
それらを「ついでに」との言葉の方から見てみたと考えると、もう少し話がわかりやすくなるかもしれません。


終わりに


すると次に考えるべきなのは、「ついでに」にはそういった魔力のようなものがどうして備わっているのか、といったことになります。
考えれば考えるほど、ついでで作業を行うことにメリットはないような気がしてきます。

考えない方が答えが出るのでしょうか。
そもそも、「考えない方が答えが出る」などという状況はありえるのでしょうか。

2012年8月4日土曜日

メモ帳を開いたら

Clip to Evernote
以前、以下のようなエントリを書きました。

23-seconds blog: 学んだことのない

この中で、「メモを取ることに慣れていない人にとって、役立つことを考えていきたい」といった趣旨のことを述べました。
本エントリはその第一弾をお送りしようかと思っています。

誰かの、何かのお役に立てれば幸いです。

今回は、そんな話です。


ポイントを絞る


伝統的な初心者へのアドバイスの手法に則り、本エントリではポイントを一つに絞って述べてみようかと画策しています。

ただ、このようなことを表明してしまっている時点で、すでに一つに絞って話していないとも言えます。すでに、その一つを消費してしまっているためです。
はて、であるなら、一般的な「要点は一つに絞って書きなさい」といった教えを遵守するのは、かなり困難なように思えます。

世の中(曖昧な言葉です)の人たちは、いったいどのようにして、要点をたった一つしか述べずに文章を書いているのでしょうか。
一瞬そのような疑問がわきかけましたが、つまりはこのような文章を書かなければ良いということになりそうです。

しかし、この文章を書かないとすると、「このような文章を書かなければ良い」ことはどうすればわかるのでしょう。
「この文章」に「この文章を書かなければ良い」とあるのですから、「この文章」が無ければ「この文章を書かなければ良い」かどうかはわかりません。

よく見てみると、これは「 "この壁に貼り紙をしてはいけません" という貼り紙」の話と、とても近い距離にあります。
近い距離にあるのです。


ポイントを絞ってみる


さて、メモを考える際のポイントの一つとして、ここでは「メモ帳を開くこと」を挙げてみます。
もう少し詳しく言うと、「メモを取りたいと思っていないときに、メモ帳を開く」となるでしょうか。

チェックポイントとしては単純です。
一日の内で、最初にメモを取りたいと思うタイミングがあったとします。
一日一ページの手帳を使っている方なら、そこでぱっと手帳を開いたとき、今日のページにはすでにしおりのひもは入っているか、がそのチェックポイントになります。
日付のないノートタイプを使っている方なら、開いたときすでに今日の日付が記入してあるか、がそれです。

もちろんそれ以外にも様々なバリエーションがあるでしょうが、適宜読み替えていただければと思います。
ここでは、二番目の「ノートタイプの場合」を例にとって進めてみます。つまり、一日の内で最初にメモを取りたくなったときに、すでに日付が書かれていることについてです。


日付が書いてある


これは「メモを取ろうとしたときにまず日付を書く必要があるため、スピードが落ちる」といった手間の問題もありますが、それだけではありません。

初めにメモ帳を開いたときにすでに今日の日付が記入されているためには、当然ながら、メモを取りたいと思う前にメモ帳を開いて、あらかじめ日付を記入しておくことになります。

言い換えれば、必要に迫られていないときにメモ帳を開くわけです。
この行為は非常に重要です。

率直に考えて、
  • メモを取るときにしかメモ帳を開かない
  • メモを取るとき以外にもメモ帳を開く
を比べれば、後者の方が良さそうなのは明らかです。
あるいは、準備の大切さなどの話につなげることもできるでしょう。


ディスタンス


しかし、私が強調したい点は別にあります。

それは、メモ帳と心の距離です。

おそらく、メモの必要があるときにしかメモ帳を開かないでいると、メモ帳との距離はどんどん遠ざかっていきます。
すると、「これはどうしても忘れてはいけない」といったことを無理して書くことになり、きっと、徐々にメモすることが嫌になってきてしまうはずです。

一方で、メモ帳との距離が近いと、「これも書いておきたい!」とのことまで書くようになります。

「これはどうしても忘れてはいけない」と「これも書いておきたい!」の違いです。
間違いなく、有意な差が現れてきます。

そんな境地に、「あらかじめ今日の日付を書いておく」ことで到達できるなら、悪い話ではないでしょう。


実利


ここまで夢見がちなことばかりつづってきましたので、一つ、現実的にメリットがあることも述べておきます。

「メモを取るため」にしかメモ帳を開かないと、そのメモ帳はいつまで経っても「メモを取るため」にしか使われません。
「メモを取るため」に開いているのですから、当然といえば当然です。トートロジーというやつです。

一方で、「メモを取るためではない」目的のためにメモ帳を開くと、そのついでに、過去のメモを見返してみようか、との気持ちになります。

自分のメモを見返せない、活用できないといった悩みがもしある方は、ひょっとするとメモを書くためにしかメモ帳を開いていない可能性があります。
もっと、何でもないときにメモ帳を開いて、せっかく開いたのなら今日の日付くらい書いておけば、きっと良いことがあります。

以上、現実的なメリットでした。
とはいえ、私にとっては夢見がちな話の方がずっと大事です。


終わりに


繰り返しますが、本エントリはメモに悩む初心者(語弊はあります)の方へ向けています。
これは、心底そう思って書いています。

文房具の大きさ

Clip to Evernote
以前、このようなエントリを書きました。

23-seconds blog: 情報カード概観

この中で、現在私が「メモパース」と呼ばれるものを使用していることを述べています。

そのことを踏まえた上で、いわゆる購入報告のエントリを書いてみます。
最近、情報カードのことばかり書いている気がします。

今回はそんな話です。


二つの文房具


ミドリの「カードメモ MEMORANDUM CARD」というメモ用紙を購入しました。



ミドリのオンラインストアに該当のページがありましたので、リンクをご紹介しておきます。

【ミドリ】カードメモ ブロンズ (11722006)

こちらは、薬包紙のように薄くて軽い紙となっており、全部で31シートであるものの、持ち歩くのにキャッシュカード程度の労力しかかかりません。上記のリンク先にわかりやすい画像があるようですので、ご興味のある方はご確認いただければと思います。

もう一つ、ゼブラの「SL-F1mini」も購入しました。
小さなボールペンです。


オフィシャルページへのリンクをご紹介いたします。

ZEBRA | ゼブラ株式会社 | SL-F1mini

こちらは、普段は全長8センチくらいなのですが、筆記時には10センチくらいに伸びて、同時にペン先が飛び出してきます。
(上記リンク先で調べたところ、全長83ミリのものが、伸ばすと103ミリになるそうです。)

機構としても面白いですし、もちろん持ち運び用のペンとして十分なコンパクトさになっています。

そして、私はこの二つの文房具と、メモパース、情報カードを合わせてポケットに入れておき、どこでもメモがとれる環境としました。


別の買い物


何か深い意味があったわけではありませんが、以前、100円ショップでB4サイズのボードを購入していました。
(紙が留められるやつです。名称が「ボード」で良いかはわかりません。)


こちらが我が家に特に用途もなく置いてありましたので、活用しようと、A4のコピー用紙を購入してきました。
何の変哲もないコピー用紙です。

これを、ボードにいつもセットして、自宅に置いておきます。


きっと何かの役に立つでしょう。


購入の様子


ここまでで、私の最近の文房具購入の様子をご紹介しました。

さて、世の中には、文房具を文字通りの意味でしか使用しない人と、それ以上の価値を求める人とがいます。
この言及を厳密に行おうとすると切りがありませんので、あえて曖昧に記述してしまいます。そしてこれ自体には、すなわち、「文字通りの意味」や「それ以上の価値」とはどういうことなのか、には深入りはしません。

とにかく、ここからは後者の「文房具にそれ以上の価値を求める人」に向けて文章を書きたいと思っています。


小さいものと大きいもの


上記のように断った上で、いま、文房具を「小さいもの」と「大きいもの」に分類してみます。
もちろん本エントリの例で言えば、ミドリの「カードメモ」やゼブラの「SL-F1mini」 が「小さいもの」に、A4のコピー用紙が「大きいもの」に相当します。

それぞれの特徴については、改めて述べるほどのことはありませんし、人によって様々な考え方があって良いです。
一般的なことを言うなら、「小さいもの」は持ち運びやすく、場所や状況を問わずにあらゆるメモ書きを可能とするものでしょう。一方の「大きいもの」は、ちょっとしたメモ書きというより、じっくり何かを考えたいときなどに使われることが多いと思います。


その違い


ですが、その用途が何であるにせよ、文房具にそれ以上の価値を見る人にとって「小さいもの」と「大きいもの」との差は、ものすごく大きくあります。
これは、単に物体の大きさの話ではなく、質として全く別のものであることを言っています。

それは、ひとえに「小さいもの」と「大きいもの」で、使われ方がまるで異なってくるためです。

すぐ上で、これら文房具の使い方は個人の自由であると書きました。しかしその一方で、個人それぞれの中では、これらの使われ方はきれいに住み分けられているはずなのです。これは逆に、「小さいもの」どうしでは使われ方にあまり差がないと言っても良いです。

この意味で、「小さいもの」と「大きいもの」を一言で「文房具」と呼んでしまうのは、(もちろんそうしないことの方がはるかに厄介ではありますが、)乱暴であるとも言えます。


観点から


そこで、自分が所有している文房具を、それが「小さいもの」なのか「大きいもの」なのか、との観点から見返してみます。

あるいは、新しく文房具を購入しようとする際に、そのような観点から判断してみます。
「自分が持っている「大きい文房具」セットに、これが入ると便利になるな」「自分の「小さい文房具」セットでは、この部分が弱いな」といった具合です。ここでの「セット」という単語は、「システム」に置きかえるとより私の意図に沿うような気がします。

すると、自分にはあとどんな文房具が必要なのかが明らかになります。
ひいては、自分が文房具に求めること、文房具を通じて達成したいことなども、少しずつ見えてくることでしょう。


終わりに


話が錯綜したのでまとめのようなものを書こうかと思いましたが、自分でもよくわかっていないこともあり、やめます。

ただ、「話があちこちに行っていてわけがわからない」という状態には、アイデアの素になるものがたくさん潜んでいたりします。
「わけがわからないなあ」で終わりにしてしまうのは、非常にもったいない話なのです。

2012年8月1日水曜日

情報カード、ワンダーランド

Clip to Evernote
本ブログでは、以前下記のような記事を書きました。

23-seconds blog: カードも山の賑わい

そこで述べたのは、
  • iOSアプリ「EverShaker」で、Evernoteのノートをランダムに一つ表示する
  • それについて、要約や考えたことなどを情報カードに書く
  • これを毎日続ける
とすることで、何か面白いことが起きそうだとのことです。
(何か面白いことが起きないかな……。)

Evernoteを再発見! EverShaker 2.0(¥170)
カテゴリ: 仕事効率化, ライフスタイル
販売元: hiranodept - Tetsuya Hirano(サイズ: 5.1 MB)



今回はそんな話です。


積み重なっていく


上に書いた中では、「Evernoteのノートをランダムに表示」の部分が特徴的に見えます。実際にやってみても、なるほど過去のノートがランダムに表示されるのはなかなかに楽しいです。

ですが、私が重要だと思っているのは「何か、自分にとって大事な文章を書いて、それが溜まっていくこと」の方です。話を単純にしてしまえば、それが実践できれば「ランダムに表示」の部分は何でも構わないとも言えます。
ただ、Evernoteのノートをここに持ち出すと、埋もれがちな過去の資産を活用できるかもしれない、との思いもありますので、これはこれで価値があったりします。

毎日一つ以上の重要な文章を自分の手で書いて、それがたくさん積み重なっていくこと、それから、その積み重なった文章が容易に見渡せることの価値は、改めてここで詳細に語ることではないでしょう。それに私は、一番重要なのが「それに価値がありそうだと思えること」だと考えていたりもしますので、そもそもその価値をきちんと語れないとも言えます。
確かに、それぞれの文章どうしには繋がりはありませんし、その数が少ないうちは意味が見えにくいものですが、しかしそこには必ず価値があり、大きな自分だけの財産となってくれるのです。


たくさんのカード


さて、上で述べたような作業を行っていくと、少しずつではあるものの、確実に「財産」となるカードが増えていきます。
将来、それらのカードがとても多くなったとき、何かが起こるはずです。

それを考えてみます。


挿し絵のない本


ところで、挿し絵のない本というのはとても退屈です。
よくもまあ、眠くならずにそんな本が読めるものだと思います。


カードたち


カードがたくさんになってくると、まずは、カードたちが自分の意志を持って動き始めます。
まだこのときは、自分たちだけでクリケットを始めたりはしないでしょうが、時計は午後の3時で止まっている可能性が高いです。そして、「忙しい、忙しい」と言っているわけです。使用した食器を洗う暇すらないほどです。

その上さらにややこしい問題が出てきます。書き物机とカラスの似ている点は何だろうか、とのことです。これに答えるのは容易ではありません。

さらにカードが増えてくると、いよいよカード同士に階層関係、上下関係が発生してきます。
大勢のカードは、頭にはかわいい帽子を、手には小さな槍を携えて、さながら「兵士」といった出で立ちです。
そして、おそらく一番偉そうにしているのは、ハートマークとアルファベットのQが書かれたカードです。仮に女王様と呼ぶことにしましょう。
女王様は、よくわからない理由のために不思議なクリケットを企画して、兵士たちを無理矢理参加させます。その上、少しでも気にくわないことがあると、「その者の首をはねよ!」と言うのです。

ですが(ご存じのように)幸いにも、そこにはハートマークとアルファベットのKが書かれたカードも同行しています。こちらは王様と呼ばせていただきましょう。王様は、「首をはねよ!」と言われてしまった兵士たちに、そっと「許してつかわす」と告げて回ってくれます。
優しい王様です。

そうこうしているうちに、気づくと、カードたちの裁判に連れ出されてしまいます。(やはり、ご存じのように)書記の担当たちが、どう見ても意味のない仕事を必死に行っているのが目に入ります。

裁判の内容もやはり理不尽です。
何とかして、この危機を脱さなければなりません。具体的には、話を元に戻さなくてはなりません。

とはいえ、(もちろん、ご存じのように)これを解決する魔法の言葉が存在します。


魔法の言葉


「何よ! あなたたちなんてただのカードじゃない!」


終わりに


その少女にとっては、カードなんてただのカードであり、退屈な日常を抜け出した、その思い出が財産になっていることでしょう。

しかし私たちにとっては、積み重なったカードそのものが財産になるのです。