2012年10月28日日曜日

仁和寺へ行く途中

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昔話をします。
昔話とは、つまりは昔の話のことです。

こう書いてしまうととても違和感があります。昔話とは昔の話である、とは同じことを繰り返しているだけで、何も説明していないように見えるためです。
ですが、昔話と昔の話が等価であることは、それほど自明ではありません。現に(うつつに、ではありません)、日常生活でこれらを混同して使用したなら、一定の混乱が起こることには間違いないでしょう。同様の意味で、実際にはこれらが混同されるようなことは滅多になく、大多数の人がこの間にある差異に気づいているとも言えます。

すると、「昔話とは昔の話のことである」とは、「昔話」との単語を全く別の言葉である「昔の話」を用いて説明している点で、いたって普通の文章ということになります。

にも関わらず、「昔話とは昔の話のことである」がきちんとした説明であるとするのは、非常に納得しにくい話です。

今回はそんな話です。


昔話


私はどうも昔から、何かのきっかけで一度始めたことを、何も考えずにずっと続けることが多いようなのです。ここが妙にふわっとした口調になっているのは、自分ではその自覚がさっぱりないためで、個人的には誰しもがそういった部分はあるだろうとは思っています。
つまり、「物持ちがいい」「ぶれない」「こだわりが強い」などと評されることが私は多いのです。これはしかし、私にとっては思ってもみないことで、むしろ、何のこだわりもないからずっと同じものを使っているのが実態だったりします。
(現に、新しいガジェットや音楽CDなど、好きなものに対してはきちんとぶれています。)

そう言われてふと考えてみると、私は飽きるという感情を持ったことがあまりないかもしれません。

思えば、小さい頃からその面影はありました。いえ、小さい頃の私だって私には違いありませんから、私の面影があるのは当然なのですが、とにかくその面影はありました。
ある日、お昼の給食でカレーが出たことがありました。さらに、その日は偶然夕食もカレーだったのです。私は母から尋ねられました。「給食もカレーだったの。ごめんね、飽きない?」と。
そこで小さい私はこう聞き返しました。「飽きるってなに?」と。
その後母がどんな返答をしたかは覚えていませんが、さぞかし困ったことでしょう。

しかし実際問題として、別に夕食のカレーを食べるときに給食のことをわざわざ思い出したりはしませんし、そもそも給食のカレーと母が作るそれで同じ味がしたりはしません。さらには、食べる場所も時間も状況も違います。すると、もはや飽きる要素が何もないように思えます。

ここまで、さも「昔の私は飽きるという感情を知らなかったけど、今はちゃんと知っている」かのように書いてきたものの、ふと、今の私もそれについてよくわかっていないことに気づいてしまいました。

急に不安になってきました。
飽きるとは、どんな感情のことなのでしょうか。現状、私には思い当たる節がありません。
「飽きる」の言葉とそれにまつわる状況については、社会を生きてきた中で学びました。だいたいどんなものかは想像がつきます。
ですが、私の中でどんな感情のことなのか、何も思い当たらないのです。

怖いので、この話はここまでにします。
少なくとも、私が「同じことばかりしているからそろそろ変えた方がいい」、つまり「飽きている」ことに気づくのは、周囲の人に教えてもらう必要がありそうです。

このように同じことばかりしているのは、「ぶれない」などと評してもらえる一方で、あまり嬉しくないこともあります。

ある、ほぼ毎日通っていた道のりがありました。ここでは仮に、自宅から仁和寺までとしましょう。
私はそれをヤフーマップで調べて、目印になる大きな道路や建物をもとに決定しました。

ひとたび道のりが決定してしまうと、私はそれについて何か考えることはしなくなります。もちろん、新しいガジェットのように大好きなものは別ですが、私はこれといって道に興味はありませんので、慣性の法則にしたがい、特に何も考えることなく毎日通っていました。

しかし、慣性の法則は外から力が加わらない限りでの話です。

しばらくして私は、出発点と目的地がだいたい同じの友人に出会いました。要は、自宅が近所で、私と同じように毎日仁和寺に行っている友人です。そして話の流れからして、彼が外からの力になるわけです。

その日は彼と行程を共にすることになったのですが、私が歩き出そうとすると彼は言うわけです。「どこに行くの?」と。
どこと言われても、私は彼と同じ道のりを行くはずです。不明なところはないでしょう。

ところが、よくよく話を聞いてみると、どうやら私はとんでもなく遠回りな道を行っていたようなのです。確かにそれはヤフーマップからは広くてわかりやすい道でしたが、いかんせん遠回りで、毎日飽きもせず使うようなものではなかったのです。

なんということでしょうか。

さて、それからは私も、友人から教わった新しい道を行くことにしています。
驚くことに、移動時間が半分程度になりました。

すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。


終わりに


本エントリでは、「うつつに」「むしろ」「さも」「さぞかし」など、好きな日本語をたくさん使うことができましたので、満足です。
「うつつに」は無理やりではありますが、よしとします。

2012年10月27日土曜日

円周率は体で覚える

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空想の世界の話ですが、円周率というものがあります。おそらく、かなりの知名度があることでしょう。

一応書いておくと、とても綺麗な円があったときに、それの円周の長さを直径の長さで割った値が円周率です。
私も正確には覚えていませんが、確か3.05より少し大きいくらいの数だったと思います。不安になったので正八角形を取り出して確かめてみたところ、やはりそれで間違いないようです。

すぐ上に、円周の長さを直径の長さで割った、と書きました。しかし、この割り算では、答えが割り切れることはありません。さらに言えば、どのような大きさの円を持ってきても、同じ割り切れない数が答えに出てきます。
これは表現を変えると、円周の長さか、直径の長さか、あるいはその両方が、割り切れない長さになるわけです。つまり、ある長さに切ったひもをくるりと円にすると、その直径を定規で測ることはできませんし、ある長さの棒を円でぴったり囲うと、囲ったひもの長さは定規で測れないのです。

一見妙な話にも思えますが、それほどのことはありません。
はじめに書いた「とても綺麗な円があったときに」が絶対に実現しないためです。あるいは、とても綺麗な円があったとしても、その世界には私たちの知っている定規やひもが存在しないためです。

今回はそんな話です。


思考と言葉


ところで、「思考と言葉は別のレイヤにある」といったことを、本ブログでは一貫して述べてきています。これは、「言葉はいつもそれ以上のものを含んでいる」とか、「言葉では表しきれない」のような表現のこともあったかもしれませんが、だいたい近いことを言っています。

改めて大雑把に説明すると、思考と言葉はまったく別の階層にあるものであるため、例えば「思ったことをそのまま口にする」のは絶対に不可能です。だからこそ、「理由は答えられないけど、好き」とか「何がどのようにかは説明できないけど、理解した」といったことが起こるのです。

この発想自体は再三語ってきていますので、今回はあまり立ち入りません。

ですが、この思考と言葉のレイヤについての話が、冒頭に書いた「私たちの住む世界」と「とても綺麗な円がある世界」の話にも似ているように思ったのです。
「私たちの住む世界」が思考に、「とても綺麗な円がある世界」が言葉に対応します。

「とても綺麗な円がある世界」とは少しわかりにくいですが、要するに数学の世界、空想の世界ということです。
そこでは、ものの長さや面積はちょうど測ることができますし、線には太さはありません。

つまり「物事を複雑にするような、何だかわからないもの」は存在しないわけです。
これがちょうど、言葉が「言葉としての情報しかない」ことに似ているのです。

一方の現実世界は、そうではありません。
太さのない線を引くことは不可能ですし、長さをちょうど測れることもありえません。仮にちょうどに見えたとしても、それは単に測定器具の限界なだけです。
現実世界での「長さ5cmの直線」には、実は「0.1mmの太さ」や「わずかな曲がり」や「鉛筆で書いた」などの無数の情報が隠れていて、それがまるで、思考には言葉にならないあらゆる情報があることのように見えるのです。

そう考えると、円周率(正確には無理数です)は不思議です。
空想の世界の産物のはずなのに、その世界の言葉で表しきれずに、現実世界に住む人の想像力にゆだねられているわけです。
言うなれば、限りなく現実に近い空想なのです。


ライフハック


ここまでの話で、特に数学のようなものに興味のない方にとっては、何のことやら、といった感覚も抱いていることでしょう。
ですが、私はいつでもライフハックの話をしています。いえ、いつでも、は言い過ぎですが、ある程度はそうなのです。

本エントリではここまでで、「単純な世界」と「複雑な世界」の話をしてきたつもりです。

繰り返すと、「単純な世界」は数学をはじめとした世界のことで、そこでは物事がぴったり決定します。「数学」と言ってしまうと縁遠いものに見える方もいるかもしれませんが、例えば物の数を数えることもそうですし、「文字」だってそうです。この世界ではあらゆる事象が切り捨てられており、観測できるのは本当にわずかな側面のみなのです。

一方の「複雑な世界」には、ありのままの現実世界や、頭の中で繰り広げられる思考などが該当します。この世界では逆に、すべてのことが複雑です。「hogehogeはfugafugaである」などと言い切れるようなことは何一つありません。

さて、この二つの世界についてよく言われることがあります。
一つは、「単純な世界」の方が理解がしやすい、あるいは少なくとも理解したような気になれやすい、というものです。これは翻って見れば、当然「複雑な世界」の方が理解しにくいことになります。

それを踏まえた上で一つまとめめいたことを書くと、私は世界が複雑であることをきちんと認識している人が好きです。そんな人と関わって生きていきたいと思っています。

もう一つ、別の話としてよく言われるのが、「単純な世界」の方が暗記がしにくく、「複雑な世界」はその逆であることです。こちらについては、多くの方が納得しやすい話になるかと思います。
平たく言うなら、人間は世界を対象にするようなパターン認識には優れているが、数字の羅列を暗記するのは難しい、となるでしょうか。誰しも、それぞれを行う際には明らかに頭が別の種類の動きをしていると感じ取れることでしょう。
後者がうなりながら頭を動かして暗記しているのに対して、前者は体で覚える、といった具合です。

だから、円周率は限りなく体で覚えているに近いのです。


終わりに


この二つの世界をごっちゃに見てしまうと、いろいろやっかいなことが起きます。
最低限、自分がごっちゃに見ていることは認識できる方が良いはずです。

2012年10月21日日曜日

彼を見る私

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彼は驚きました。

「ポメラとEvernoteが連携……!」

彼が読んでいたのは、こちらの記事です。

【PC Watch】 「ポメラDM100」がファームアップデートでFlashAir対応に ~無線LAN経由でEvernoteへのアップロードが実現

記事には、ポメラDM100がFlashAirに対応し、Evernoteと連携するようになったことが書いてあります。

彼は取り乱しました。
同じ記事を、下まで読んでは上に戻り、下まで読んでは上に戻り、かれこれ五回繰り返しました。しかし何度確認しても、ポメラがEvernoteと連携するようなのです。

それは取り乱しもするでしょう。さすがの私も驚きました。
まさか、ポメラから直接Evernoteにテキストを送れるようになるとは。

「嘘だろ……。これからは、ポメラで書いてるそばからEvernoteに送れるってことじゃないか」

そういうことになります。
彼にとっては、ポメラDM100はかけがえのない存在です。発売と同時に購入し、いまではもう彼の体の一部と言ってしまって差し支えありません。あるいは、全部でしょうか。

その後、彼は下記の記事も読み、やはりポメラとEvernoteが連携することを確認しました。

誠 Biz.ID:仕事耕具:ポメラからEvernoteへの投稿が可能に、ソフトウェアバージョンアップで

「FlashAir買いに行かなきゃ!」

彼は記事を読み終えると、慌ただしく家を飛び出していきました。

ちなみにFlashAirとは、東芝のWi-Fi内蔵SDカードのことです。公式ページへのリンクを置いておきます。

無線LAN搭載SDHCメモリカード FlashAir(TM) | 東芝 Pocket Media

彼もこれについてはあまり詳しくないため説明は聞けないでしょうが、上記の公式ページを読めば、問題なく情報は得られそうです。

そうこうしているうちに、彼が帰ってきました。
荷物を置くのもそこそこに、買ってきたFlashAirを取り出して、ポメラにセットしています。

それから彼は何やらごそごそやっていましたが、突然、大きな声を上げました。

「やった! Evernoteに転送できた!」

どうやら、無事にポメラからEvernoteにテキストを送ることができたようです。
彼はすっかり満足そうな表情で、つぶやきます。

「よし、これについてブログに書こう」

そうして彼は、以下のような文章を書き始めたのです。


私は驚きました。
まさか、ポメラとEvernoteが連携するようになるなんて、夢にも思わなかったのです。

それを伝えている記事を始めて目にしたときは、それはもう、取り乱しました。
同じ記事を十回くらい読んでしまったものです。いえ、十回は大げさかもしれませんが、とにかくたくさん読んだのです。

(君が読んだのは五回ですよ。)

すなわち、これからは、ポメラで書いているそばからEvernoteに送れるということになります。
感動的です。

(その表現気に入ってますね。)

そこで本エントリでは、それを実現する手順について、簡単にまとめておくことにします。

まずは、ポメラのソフトウェアバージョンを1.2.10.0にアップデートする必要があります。
下記のページ最下部の、「「ポメラ」DM100ソフトウェア(Ver.1.2.10.0)をダウンロードする。」のところにあるリンクをクリックします。

「ポメラ」DM100ソフトウェア(Ver.1.2.10.0)ダウンロードサービスを受けられる方 | 「ポメラ」DM100 ソフトウェアアップデートのご案内 | 「ファイル」と「テプラ」のキングジム

(下記のページ最下部、とは微妙にひっかかる日本語です。)

規約の確認を済ませると、アップデート用のexeファイルが置いてあるページに行けますので、それを一度ローカルにダウンロードしてきます。

そのexeファイル自体は圧縮ファイルになっており、実行すると展開され、binファイルが出来てきます。これで準備は完了です。

次に、SDカードをセットしたポメラDM100を、「電源オフの状態で」PCとUSB接続します。
接続すると、ポメラ本体メモリとSDカードの二つが外部記憶デバイスとして認識されますが、今回重要なのはSDカードの方です。

SDカードの方に、先ほど作成したbinファイルを保存します。このとき、保存ディレクトリはSDカードの最上位の階層にします。私は試していませんが、SDカード内に作成したディレクトリ配下に格納してしまうと、アップデートができないそうです。

binファイルを保存できたら、Windowsの「ハードウェアの取り外し」をしてUSBケーブルを抜きます。

一度USBケーブルを抜いたら、ポメラを「電源オンの状態で」再度PCとUSB接続します。

今度はPC側から認識されないので、接続でき次第、ポメラで[menuボタン] -> [設定] -> [バージョン情報]と移動します。
現在のポメラのソフトウェアバージョンが表示されますので、そこでF1キーを押下します。

すると、最終確認のダイアログが出て、ソフトウェアアップデートが始まります。

(このアップデート中の画面、格好良かったですね。)

完了したら、USBケーブルを抜きます。
するとポメラが再起動されて、めでたくソフトウェアバージョンが最新になるわけです。

なお、アップデート前にファイルのバックアップはしておく方がよいでしょう。
私は何もありませんでしたが、何が起こるかはわかりません。

(これはその通りです。ちなみに、ポメラの各種設定もデフォルトに戻るようです。)

さて、いよいよEvernoteにデータを飛ばしてみます。

そのためには、Evernoteに転送したいファイルをポメラ上でFlashAirに保存します。ポメラでは、保存先として本体メモリとSDカードが選択できますので、FlashAirをセットして、SDカードの方に保存すればよいです。

あとは、ポメラの[menuボタン] -> [ツール] -> [FlashAir]を選択し、画面の指示に従って無線LANへの接続とEvernoteアカウントの設定を行って、転送したいファイルを選択すると、Evernoteにファイルが転送されます。

Evernoteでは、「pomera」というノートブックが新たに作られて、その中にノートが作成されていくようです。ノートタイトルは、元のファイル名がそのまま使われます。

(ファイル名は拡張子も込みです。つまり「hogehoge.txt」というノートが作られます。ノートタイトルに「.txt」が付いているのは、多少違和感がありますね。)

彼はここまで書くと、大きく伸びをしました。

「よし、これでだいたい完了だな」

確かに、文章ばかりでやや読みにくいきらいはあるものの、手順としてはこれくらいでしょう。

「ところで」

彼は不意に虚空を見上げました。

「おい、そこのおまえ」

私ですか?

「ずっと見てたんなら、エントリのタイトルくらい考えてくれよ。俺はもう疲れた」

あら、気づいていたのですか。

「タイトル付けたら、公開もしといて。俺はテキスト書いて、それをおまえに転送するまでが仕事なんだ」

わかりました。では、タイトルは「ポメラを見るEvernote」あたりにしておきましょう。普段は、渡されたファイル名をそのままタイトルにしているのですが、今回は特別です。


終わりに


という、エントリを書きました。

タイトルはストレート過ぎますので、少し変えておきます。
それから、公開も私がします。

私が他所のクラス

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こちらの記事を読みました(ありがとうございます)。

R-style » 「仕事術のiPhoneアプリっぽさ」について

記事の内容についてはぜひリンク先をチェックしていただきたいと思います。
本エントリで取り上げたいのは、上の記事の内容とはあまり関係なく、そこで現れていたある一文についてです。
引用いたします。
仕事術をiPhoneアプリに類推する(※)と、次のようなことが思い浮かびます。
※関数っぽく表記すると、類推(“仕事術”,”iPhoneアプリ”);
なるほど、String二つを引数にとるような、「類推」メソッドを呼んでいるわけです。返り値(リターン)については、とりあえずここでは明示されていません。

いま、私は「類推」メソッドが定義されているものとは別のクラス(モジュール)だとします。
つまり、「類推」を使うには、定義されたクラスをimportしてくるなどする必要があるわけです。

今回はそんな話です。


別のモジュール


現実の行動としての「類推する」に上で述べたような様子を当てはめてみると、非常に興味深い話が思いつきます。
こればかりは、実際に「類推する」ことの経験がないと説明しにくいのですが、たぶん、そのような方はあまりいらっしゃらないでしょうから、そんな説明でいきます。

私が「類推」メソッドが定義されているのとは別のクラスだった場合、「類推」が実際に内部で何をしているかは見えません。わかるのは、String二つを渡すと何かを返してくれることだけです。
オブジェクト指向プログラミングの言葉では、これを「カプセル化」などと表したりします。これはあちこちで出てくる重要な概念ですので、「カプセル化」以外にも似た単語を目にするかもしれませんし、あるいは「カプセル化」の定義はそんなものではない、といった話もあるかもしれませんが、とりあえず本エントリでは「カプセル化」で統一することにします。

ちなみに、私は社会の発展の歴史はカプセル化の歴史だと思っているのですが、この主張は極論過ぎてあまり面白くないので、いまのところ、それについて深く考えたりどうこうしたりする予定はありません。

話が逸れました。「カプセル化」、つまり他所からは中身が見えないことの話です。

そして、私たちが実際に「類推」と呼ばれる行為をするときも同様、その中で何が行われているかを見ることはできません。「何かを何かに(先の例では仕事術をiPhoneアプリに)類推しよう」と思ったとき、どこがどうなって類推結果が得られているのかは、普通はわからないのです。
ここでわかるのは、「何かを何かに」の「何か」を決めると、ある類推結果が得られることだけです。


化学反応


それから、こちらの記事を読みました。

外向的な人優位の中で、内向的な人が渡り合っていくための、小さな工夫と考え方 #tokyohack010 | Find the meaning of my life.

こちらも、本エントリでその内容まで踏み込むことはしませんが、ぜひお読みいただきたい素晴らしい記事です。

私が取り上げたいのは、記事内の以下の文章についてです。
引用いたします。
フラスコに同じ薬品をいくら入れても化学反応は起きません。熱を加えたり、異なる薬品を入れて初めて化学反応というのは起こるものです。
なるほどと思いました。もちろん、同じ薬品であっても、それを過剰に入れることで別の反応が起きることは多々ありますが、そういった話は置いておきます。

ここで、化学反応と呼ばれるものについてもう少し見てみます。
上の引用文のように、日常生活における比喩として化学反応の言葉が使われる場合には、「別のものを複数持ってきて混ぜると、何か思いもよらないものが出てくる」といった雰囲気があるように思います。音楽CDのディスクレビュー記事などを思い出してみるとわかりやすいでしょう。

ですが、実際の化学反応では、なにもそういった不思議なことが起きているわけではありません。
反応の前後では、全体の質量も電荷もその他諸々も大抵が一定に保存されますし、変化する部分も、元の化学式から「これは弱酸の遊離だな」などといってきちんと計算できます。
その計算が複雑で大変であるような状況はあるにせよ、得体の知れないことが起きているわけではないのです。

ただし、これは「化学反応」が定義されたクラスの内部にアクセスできる場合での話です。
もし、私が「化学反応」をimportして使う立場のクラスだった場合、やはりそこでは得体の知れないことが起きています。適当な薬品を複数渡すと、全く別の薬品が返されてくるわけです。そこで保証されているのは、返されてくるものは自分が渡したものに依存して決まる、ということだけなのです。

翻って、この「化学反応」が日常生活の比喩である状況に再度目を向けてみます。

私はやはり「化学反応」の内部で起きていることはわかりません。化学反応はカプセル化されているわけです。わかるのは、自分が渡したものによって、返されるものが決まることだけです。

しかし、このことは、一つ悪くない発想に私を行き当たらせます。

「化学反応」メソッドが有用であることは先人たちの様子から明らかなわけですので、もしそれによって良いリターンが得られなくても、それは単に渡すものが良くなかっただけになります。
与えられたメソッド内部の出来が悪いとか、そういったことは考える必要はありません。そもそも「化学反応」も「類推」も他所のクラスのものですので、どうしようもないのです。
(継承してくることはできるかもしれません。)

ですので、自分の使っている「類推」や「化学反応」は駄目だ、と嘆く必要はありません。渡すものの選択に、工夫する余地が十分あるわけです。
きっと、良いリターンを得られるインプットは、どこかで見つかるはずなのです。


終わりに


本文中に、「極論過ぎて面白くない」とのことを書きました。

書いてから気づきましたが、私は、極論過ぎるものを面白くないと感じるようです。
これはどのような現象なのでしょうか。不思議です。

そうすると、「面白い」も他所のクラスで定義されたメソッドということになります。

2012年10月17日水曜日

これはテクノですか

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こちらの記事を読みました。

10月14日(日)、東京ライフハック研究会Vol.10でプレゼンします!15分間で恥ずかしげもなく夢を語ってきます! | jMatsuzaki

記事自体は、「東京ライフハック研究会」なる場所でプレゼン大会が行われることについてのものですが、本エントリで取り上げたいのは、それとは別の点です。
引用いたします。
私はこの貴重な15分で恥ずかしげもなく存分に夢について語ってくるつもりです。
私はこの「恥ずかしげもなく」という言葉が好きです。
こちらのブログ「jMatsuzaki」を私はとても好きであり、その理由の一つはその「恥ずかしげもなく」な部分なのかもしれないと思っています。

それから、上でライフハックとの単語が出現していますが、本ブログでたびたび言及しているとおり、私はそれが好きです。

近頃は声高にライフハックを叫んでいる記事などもあまり見なくなってきていますし、同時にライフハックについていろいろと言われることも少なくなってきているような気がします。
いろいろとは、例えば以下の記事でそれについて触れられています。

若葉ブロガーさんへの手紙其の3−あなたの「言葉」と「声」を聞かせて欲しい | Hacks for Creative Life!
いわゆる信念の部分さえしっかりしていれば、2chやはてなブックマークのコメントで「ライフハック(笑)」とか「手段と目的が逆転している」と書かれたとしてもさほど気にはならないわけです。
実際、私自身はこのような意見を自分で目にしたことはありません。それはもう、一度たりともありません。おそらく、それはひとえに私の観測範囲が好きなブログのRSS購読と読書でほぼ尽きているためなのでしょう(最近は「cakes」が増えました)。ですので、「ライフハックについていろいろと言われている」かどうかは、知らない、というのが本当のところです。

それはそれとして、ともかく、最近はライフハックの声を聞くことが減ってきているように感じています。統計などはなく、なんとなくです。

ですが、私は当分ライフハックの看板を下ろすつもりはありません。今も変わらず私はライフハックを信じていますし、これからもそうなのです。

私がライフハックを好きなのは、一言で言えば、ライフハックは手段にこだわるからです。
とはいえ、本ブログを読んでくださる方ならおそらくご察しの通り、この「ライフハックは手段にこだわるからです。」にはたくさんの意味と背景と、その他諸々のものが含まれています。

これに関係するかもしれないものがあります。
最近、『それでも、読書をやめない理由』との本を読みました。大変素晴らしい本で、強く影響を受けたのですが、その中に下記のような文章がありました。

それでも、読書をやめない理由(デヴィッド・L. ユーリン)
本の場合、あるいはある程度の長さにわたる文章の場合、状況は違ってくる。もっと緩やかで、深く、静かだ。
私が、本を読みたい、文章を書きたいと思う理由の一つはここにあるのかもしれないと、この一文を目にしたときに感じました。
長い文章は、緩やかで、静かなのです。

他方で、短い文章が唯一静けさを湛えているのは、そこにたくさんの何かが含まれているときだと言えるかもしれません。つまり、見た目は短くても、長い話があるわけです。有名な例で恐縮ですが、「サラダ記念日」などがそれでしょう。

したがって、私が言う「ライフハックは手段にこだわる」は、静かであってほしいと思うわけです。

さて、それもあって私はライフハックが好きです。
ここで、この「ライフハックが好き」にはある種独特の響きがあると、私は感じています。
これは、先の「手段にこだわる」とはやや趣を異にしており、「ライフハックが好き」との表現自体がその独特さをまとっているのです。

その独特さは、それゆえに言葉で表現するのがとても困難なのですが、私にとっては「テクノが好き」と似ているように思えます。

世間から見れば私などはまったくの無知の部類に入るため、説明するのは気恥ずかしいものがありますが、書きます。
現代で、テクノという音楽ジャンルについて答えるのは、とても難しくなっています。それは、テクノは常に変化を続けていて、ジャンルが次々に細分化されていったり、その細分化された先が別のジャンルと融合したり、といったことが起きているためです。これは、テクノの性質からして仕方のないこととも言えます。
その結果として、例えば、ある楽曲を聞かされて「これはテクノですか?」と問われても、明確に回答するのが難しくなってきます。あるいは、「テクノってどんな音楽ですか?」との問いも、とても答えにくいはずです。

それでも、私はテクノが好きです。
「テクノが好きです」
「テクノってどんな音楽ですか?」
「それは……」
となってしまうにも関わらず、好きなのです。
そして、少し上で言及した「独特の響き」とは、たぶん、このあたりのことを指しています。

つまり、ライフハックもこれと同様なわけです。
ライフハックとはいったい何なのか、何の役に立つのか、といったことに即答できないものの、やはりそれが好きなわけです。

ライフハックもテクノも、私は「恥ずかしげもなく」好きだと言うのです。


終わりに


前置きを書いていたつもりだったのですが、終わってしまいました。
今回は、そんな話でした。

2012年10月14日日曜日

幽霊を探さないで

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本エントリでは、私が好きなものについて書きます。
と思いましたが、今私が書こうとしていることが、好きなものについてではないような気もしてきました。
とはいえ、私は基本的には「これは何についての文章か」「何を伝えたいのか」といったところは、読む人に自由に解釈してもらってよいものだと思っていますので、「私が何について書こうとしているか」はそれほど重要ではありません。
(よくわかりませんが、このあたりの感覚はフィクションを書く人のそれに近いのかもしれません。)

一応、テーマとしては「瞬間」とか「一時的」といったものを想定しています。

今回はそんな話です。


コーヒー


私はコーヒーをよく飲みます。それは自宅、外出先を問わずのことですが、ここでは自宅でコーヒーを飲むときの話をします。

私は、自宅では必ずコーヒーをホットで飲みます。ここにはそう深い意味はなくて、私がコーヒーはホットの方がおいしいと思っているために過ぎません。

そのとき感じることがあります。
それは、どうやら私は冷めたコーヒーが好きらしい、ということです。
熱いコーヒーを入れて(「淹れて」は常用外のようです)、コーヒーをおいしく飲んでいるのですが、そのコーヒーが冷めてきたときに飲むと、おいしさとは違った何とも言えない満足感を覚えるのです。単純に比較すれば、間違いなくコーヒーは熱いほうがおいしいにも関わらず、です。

これについて細かく見てみると、私はコーヒーが冷めていく瞬間が好きなのかもしれないとの考えに至りました。清水愛さんの『記憶薔薇園』という曲に、「消えてく瞬間が好きでも 探さないで」との歌詞がありますが、たぶん、発想はこれと近いと思っています。
言い換えると、冷めたコーヒーはさほどおいしくなくても、コーヒーが冷めていること、コーヒーが冷めてきたこと自体に、私が満足する要素があるようなのです。

私は、コーヒーをまず間違いなく毎日飲んでいます。
それと、私はどちらかというと性格がのんびりしています。というか、のんびりしているようです。これは最近気づきました。

普段、時間に追われて生活していると、自宅でゆっくりコーヒーを飲む機会にはあまり恵まれません。熱いうちに、急いで飲み干して家を出る、といったこともままあるわけです。
一方で、時折は、ゆっくりコーヒーを飲む時間を確保できることもあります。休日などがわかりやすい例です。

これが、私が「コーヒーが冷めていること、コーヒーが冷めてきたこと」自体に満足を得る理由です。
冷めたコーヒーを飲めることはすなわち、自宅でゆっくりする時間がとれていることの象徴であるわけです。これは、自宅でゆっくりすることが好きでない方には自明でないのでしょうが、私にとっては、それはもう満足なのです。


幽霊


まったく別の話に移ります。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」との言葉があります。
私がこの言葉がとても好きです。「疑心暗鬼を生ず」よりも好きです。

これは、江戸時代の俳人、横井也有が「化物の正体見たり枯尾花」とつづったのが出自のようです。
横井也有については、こちらのページが詳しいです。

y横井也有

とても興味を引かれましたので、私も後ほどじっくり読んでみたいと思います。

さて、一つ気になるのは、この「幽霊(化物)の正体見たり枯れ尾花」、横井也有はどのような状況でこれを書いたのでしょうか、とのことです。
より詳しくは、「枯れ尾花だった!」と感じたのは誰だったのでしょうか、と言い換える方が良いかもしれません。
もちろん、きちんと調べればそのあたりのことはわかるのでしょうが、ここからはまったくの私の想像を書いてみます。

一つめに思いつくのは、横井也有が第三者だったパターンです。
その場合、横井也有の知り合いあたりから「それがさ、枯れ尾花だったんだよー」といった話を聞き、それを書き残したことになります。なるほど、ありそうな話です。

二つめは、横井也有が自分で「枯れ尾花だった!」との状況を経験したパターンです。
これは、横井也有ほどの人(といってもよく知りません)がそのような人間らしいエピソードを持っていることを意味しますので、それはそれで面白いです。

三つめは、これが幽霊(化物)目線で書かれているパターンです。
考えてみれば、幽霊は、「あれ、幽霊かも……」と思われた瞬間から、近づいていって「なんだ、枯れ尾花じゃないか」と確かめられた瞬間までの、ほんの少しの間にしか存在できない、うたかたの存在です。それはちょうど、熱いコーヒーが冷めてきたときにしか得られない満足感に似ているようにも思えます。
そう思ってこの「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を見てみると、何だか物悲しいものがあります。これは、幽霊がほんの少しだけこの世に生を受けて、すぐに消失していってしまう様子を表しているわけです。
私はそんな、「消えてく瞬間が好き」だったのかもしれません。

でも、「探さないで」とのことですので、そっとしておこうと思います。


終わりに


そんなことを考えているうちに、コーヒーが冷めてしまいました。

2012年10月13日土曜日

知っていることの話

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私は会ったことがありませんが、昔の人で、「無知の知」などということを考えた人がいるそうです。
言われてみれば確かに、知らないことを知っているかどうかは非常に重要なことでしょう。かくいう私も、知らないことをきちんと知ることができているか、あまり自信はありません。

一方で、知っていることを知っているかどうかも、また重要なことだろうと思います。やはりこちらも、私は自分が知っていることを知っているかどうか知るにはどうしたらよいか、自信がないものです。

本エントリでは、知っていることを知ったときについて知りたいと思っています。
そろそろ知るがゲシュタルト崩壊してきそうですが、つまるところ、知っていることを知っておくことには価値があるのです。

ちなみに、この書き出しはこちらの記事に影響され、最大級の敬意を込めて、このようになっています。

自分のことを考えるエネルギー効率が非情に悪い ( #ブログ合宿 での記事) - なんかカラフルな生活

とても好きな記事で、そしてとても好きなブログです。ぜひ、お読みいただきたいと思います。

さて、本エントリでは「知っていることを知ったとき」、きちんと言えば「すでに持っている知識についての情報を、再度目にしたとき」について考えます。
決して、「無知の知」などとは関係しませんし、複雑な話でもありません。

今回はそんな話です。


すでに知っている


こちらの記事を読みました。素晴らしい記事です。

「delaymania」に後付けで意味を持たせることにしました | delaymania.com

こちらでは、「それ知ってるよっていうことを敢えて書く」と題されて、下記のような文章が続いています。
TwitterやらFacebookやらを見てると「それ知ってるよ」とか「基本中の基本でしょ」というご意見が目についたりすると思います。
でもあなたの周りにはそのことを知らない人がわんさかいるんです。
まさにその通りだと思います。
ある情報について、自分が「それはもう知ってる」と思ったとしても、一方では、「それは知らなかった!」と、その情報が大いに役立つような人がたくさんいます。
私などは、直接「基本中の基本でしょ」といった意見を目にしたことはないのですが(おそらく「TwitterやらFacebookやらを見て」いないためでしょう)、いつだって、その情報に価値を感じる人はいるわけです。


知っている人


上記は、すでに知っている情報を目にすることの価値を、他人に求めたものでした。つまり、自分には役立たないけど、どこかに役立つ人はいる、との発想です。

他方、同じ状況で、自分にとっても価値のあることを考えましたので、それについても書いてみます。
要は、すでに知っている情報を目にすることが、目にした当人に対してもたらす価値についてです。

それは、自分の中で理解できていることでも、それを(文章をはじめとした)形ある表現として一度目にしないと、それを踏まえた行動をとることができないことです。
言い換えると、情報を目にして「基本中の基本でしょ」と思ったとしても、それを目にする以前では、「基本中の基本」の先にある行動はできていなかったことになります。

何か具体例を出すことにします。
『武器としての交渉思考』に、下記のような文章があります。


『武器としての交渉思考』(瀧本哲史) 
だからこそいま、若い世代の人間は、自分たちの頭で考え、自分たち自身の手で、合意に基づく「新しい仕組みやルール」を作っていかなければならない。
こちらは本書の出だしの部分でもありますし、内容や文脈についてはすべて脇によけておきます。
単純にこの文章だけを見たとき、多くの人にとって、特に目新しいことはないでしょう。「へえ、自分たちの頭で考えないといけないんだ!」と思うような人は、少数のはずです。

しかし、「今の時代は、自分の頭で考えないといけないんだろうな」と何となく思っているような状況では、実際に自分の頭で考えて、その上で行動をすることは難しいです。
当然わかっているとしても、一度「頭で考えないといけないんだよ」との情報を目にすることで初めて、それを踏まえた行動を検討できるのです。

すなわち、すでに知っている情報を目にしたときの心の動きとして、
  • それは知ってるな
  • 「基本中の基本でしょ」
ではなく、
  • それは知ってるな
  • だから、どうしようか
とすることで、既知の情報を改めて目にすることに価値が生まれますし、本来、「それは知ってるな」を抜きにして「だから、どうしようか」は発想し得ないことなのです。

ここで言っているのは、そのような状況でも工夫すれば価値を見出すことができる、といった妥協案ではなく、ここでの価値(「だから、どうしようか」を考えられること)はそのような状況(「それは知ってるな」が必ず一度先に来ること)でしか絶対に得ることができない、との原理の話です。

この「それは知ってるな」は、何も他者が発信した情報に限りません。自分で何となく理解していることを文章に起こしてみることなどでも、同様です。
そもそも、自分の力で書いた文章は、ある面では究極の「それは知ってるな」情報なのです。


終わりに


すぐ上で、「究極の」の前に「ある面では」と注釈が入っているのは、自分で書く文章でも、書いているうちに自分の手を離れていって、終わってみたら思わぬ場所に着地していた、ということがあるためです。
すると、自分で書いた文章を読み返してみても、「それは知ってるな」とならないのです。

2012年10月11日木曜日

蓄積にかかる手間

Clip to Evernote
仕事の進める上での考え方の一つに、自分なりのチェックリストを少しずつ作成していく、というものがあります。
これはつまり、日々作業を行っていく上で、気になったことや誤ってしまったことなどを逐一リストにしておき、成果物を検証するときにそれを持ち出してくることを指しています。
具体例で言うなら、あるとき句読点の付け方が良くない資料を作ってしまったとして、リストに
  • 句読点の付け方を確認する
との項目を記述しておくわけです。すると次に資料を作る機会には、このリストを用いてそれを点検することで、少なくとも句読点が適切でない資料が出来上がることは免れることができ、嬉しいのです。

さて、このようなチェックリストは、基本的には自分が将来の自分のために作成するものです。もちろん、そうでないものも世の中にはたくさんあるでしょうが、そうでなければないほどその効果は低くなると予想できます。

ですので、本エントリでは、自分で使うために、自分で少しずつ作るチェックリストに限定して、考えを進めていきたいと思います。

今回はそんな話です。


チェックリスト


それにしても、気にすべき事項が目に見えるようになっていることには大変な効果があります。何もこれは「チェックリスト」などという仰々しい容姿をしている必要はなく、とにかく今気にしたいことが目の前に明らかになってさえいれば、十分に効果的です。
と言いますか、逆に、今気にしたいこと(先の例なら「私は句読点を適切に使っているだろうか?」)が頭の中にしかない状態で成果物を点検する苦しさといったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。
この場合、いてもたってもいられず、私は目の前にある紙に「句読点は適切に使えているか」と書き出すのです。

この意味では、「チェックリスト」との名称は少し派手過ぎるのかもしれません。
重要なのは、気にしたいことが目の前にある状態の方です。名づけるなら「蓄積しないチェックリスト」となるでしょうか。

気になることを書き出して、その紙をきちんと保管しておき、次に気になることがあったらそこに追記する形式を採っていれば、それは普通のチェックリストです。
すぐ上で述べたのはそれとは異なり、苦しくて書き出さずにはいられないからそうしただけで、それをとっておいたり追記したりするかどうかは二の次になっているわけです。「蓄積しないチェックリスト」とは、そのような意味です。


蓄積する


別に、チェックリストが蓄積しようがしまいがどちらでも良いことではあります。それに、両者にはそれぞれに違ったメリットがありますので、そこは踏まえておくのが良いと思います。

ただ、蓄積する方、つまり普通のチェックリストを活用しようとする際に、一つ注意すべき点があります。蓄積しないチェックリストの方では、原理的に起こらないことです。

それは、チェックリストは、ほんの少しでも「これは飛ばしてもいいかな」「省略してもいいかな」と思ってしまうと、かなりの程度で価値が下がることです。

上で、チェックリストの項目は気になることがある度に追加していくことを述べました。しかし、それを繰り返していると、じきにそのリストを用いて成果物を点検するのに多大な時間がかかるようになってきます。
単に時間がかかるだけならまだしも、例えば、ずっと前に追加した項目が今や用を成していなかったり、項目が多くて点検自体を面倒に感じるようになってきたりすると、もはやそのリストは使い物にならなくなってきます。

冒頭で、他人が作ったチェックリストは効果があまり高くない、といったことを述べたのは、このことを理由にしています。
(もちろん、他人が使うことを念頭に、検討に検討を重ねたチェックリストはその限りではありません。それは、『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?』(アトゥール ガワンデ)などで明らかです。)

使いどきがぴったりで、省略できる項目は一つもないと心底思っていて、その効果を信じて疑わないようなものでないと、本当に効果のあるチェックリストとは言えないわけです。
状況に完全には合致していないようなチェックリストを持ち出してきて、「この項目は今回はチェック対象外だ」などというものがあったりすると、「あれ、これも、これも対象外なんじゃ……」と思ってきてしまい、身の入ったチェックは望めないのです。
(ちなみに、これは「まったく考慮していなかった事柄を教える」ような目的には効果があるかもしれません。このあたりはまた別の機会に考えてみます。)

このように考えていくと、究極に効果の高いチェックリストは、蓄積しないものであると言うこともできます。

一方で、蓄積するようなチェックリストを活用しようとするなら、それなりの手間と工夫をかける必要があることを、心にとどめておく必要があるのでしょう。


終わりに


自分で言うのも何ですが、句読点が良くない資料を作ってしまった、との状況がいまひとつぴんときません。

2012年10月9日火曜日

私と「カキモリ」さん

Clip to Evernote
文房具が好きです。その理由やきっかけは定かではありませんが、好きです。
しかし、好きとはいえ、世の中に数多ある様々な世界と同様に文房具のそれもなかなかに奥深いもので、軽く見渡してみるだけでも、私にとっては知らないことの方がはるかに多いようです。

それから、文房具が好きと一口に言っても、その楽しみ方はまた多様にあることでしょう。
「筆記用具を収集するのが好き」「紙類が好き」「手書きするのが好き」あたりが、ぱっと思いつくところです。
ちなみに私の場合は、一つには「たくさんある文房具を眺めるのが好き」ということがあるように感じます。とりもなおさず、それは「文房具屋さんが好き」なのかもしれませんが、とにかくそうなのです。

そしてこのたび、その「文房具がたくさんある場所」であるところの文房具屋さん、東京、蔵前の「カキモリ」さんに行ってきました。

たのしく書く人。カキモリ

こちらで大変素晴らしい時間を過ごさせていただきましたので、本エントリではそれについてご紹介します。

今回はそんな話です。


オーダーノート


今回私は、「カキモリ」さんで「オーダーノート」を作成していただきました。これは、表紙や中紙、留め具などを選んで、自分なりのリングノートを作ってもらえるというものです。
詳しくは、こちらのページをご覧いただくのが良いです。

中紙などは、罫線の引き方のバリエーションはもちろんのこと、紙自体の種類からたくさんの選択肢があり、私はだいぶ悩んで決めました。楽しかったです。

というわけで、今私の手元には、未使用のうちからすでに思い入れたっぷりのノートが一冊あります。
使い道は特に決まっていませんが、かたわらに置いておくだけで、非常に気分が良いです。


その他の文房具


オーダーノート以外にも、いくつか買い物をしました。そちらについてもご紹介します。

まずは、ステッドラーの「テキストサーファーゲル」です。
通販サイト「kaerumonCLUB」の商品ページが詳しい説明を掲載していましたので、リンクをご紹介しておきます。

ステッドラー クレヨンみたいな蛍光ペン テキストサーファーゲル 3色セット: 筆記具- 個人向け文具・日用品通販サイト カエルモンクラブ kaerumonCLUB カエクラ

リンク先は「3色セット」となっていますが、私が今回購入したのはそのうちのオレンジです。
商品ページには「クレヨンみたいな蛍光ペン」との表現があります。何のことやらと思われるかもしれませんが、使用してみると、確かにそうとしか言えないものがあります。
様子は間違いなく蛍光ペンであるにも関わらず、書き心地がクレヨンなのです。

それから、ぺんてるの「トラディオ・プラマン」も購入しました。
こちらはオフィシャルページ(おそらく)がありましたので、リンクをご紹介します。

ぺんてるライブラリー

「トラディオ・プラマン」は、属性としては水性のサインペンです。ですが、書き心地や筆記線が独特で、さながら万年筆を使用しているようなのです。

上記のオフィシャルページ(おそらく)には、このような説明があります。
その結果、1979年に万年筆とサインペンの特性を兼ね備えた「プラマン」が発売されたのです。万年筆のしなやかなペン先の弾力と微妙な角度によって筆幅が異なる筆跡は、金属ならではのものでした。しかし、「プラマン」では、その万年筆に近い筆跡を実現させたのです。
万年筆が出てくるのが大仰過ぎるのであれば、単に「すごく書きやすい水性サインペン」ととらえても問題ないと思います。
すなわち、万年筆に興味のない方にも、試してみていただきたいペンなのです。

最後に、マスキングテープも二つ購入しました。
こちらです。



普段はカモ井の「mt」シリーズを目にすることが多いためか、はたまた別の理由なのかはわかりませんが、あまり見ることのないデザインでした。良い買い物ができました。


終わりに


たくさんの文房具をゆっくり眺められ、楽しかったです。
ちなみに、私は本に対しても似たような感覚があります。要するに「本屋さんが好き」なのかもしれない、という話です。

2012年10月7日日曜日

よくあるコンソメ

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よくある話、という表現があります。直感的に言って、それはつまり、その話があまり珍しくない様子を指しています。
本エントリでは、そんなよくある話を二つほどしようかと思います。

二つともよくある話には違いありませんが、しかし二つありますので、誰にとってよくある話になるのかはそれぞれで少し異なります。それと、数あるよくある話の中からその二つの話を選んできた理由は、よくある話ではないかもしれません。こう考えていくと、まともによくある話をするのはとても難しいことのようにも思えてきます。

そんな話がしたいわけではありませんでした。

今回そんな話です。


コンソメ


私は家で自炊(スキャンじゃない方)をします。特に料理上手だといったことはありませんが、少なくとも自分が不満でない程度にはこなせています。

(まったく関係ありませんが、この「特筆すべきことはないが、自分が困らない程度には問題ない」という感覚がわりと好きです。ただ、それを日常会話の中で人に伝えるのが非常に困難で、いつも苦労しています。適当なたとえなどを思いつく方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいです。)

あるとき、必要があって固形のコンソメを買ってきました。
この固形のコンソメなるものがどの程度一般的で、そしてどの程度詳しい説明を必要とするものなのか、私にはよくわかりません。一辺が1センチくらいの立方体の形をしたコンソメのかたまりで、お湯などに溶かして使用するものです、あたりの説明で良いでしょうか。

さて、そのような固形のコンソメは、たいてい、一パックに相当な量が入っています。「相当」の感じ方は人それぞれでしょうが、とりあえず私にとっては相当で、容易には使い切れない量です。
加えて、固形のコンソメを使う機会は、私にはそれほど多くありません。つまり、必要があって買ってきたものの、そんなに使わないのです。

その結果、我が家には使われずに量が減らないコンソメが、長いこと置かれたままになることになりました。
幸い、コンソメの消費期限はそこそこありますし、収納スペースは十分にあります。よって、急いで廃棄する必要はありませんが、しかしいつかは何とかしなければなりません。

ところが、きちんと観察すれば、問題解決は可能でした。すなわち、我が家でコンソメが使われないのには、理由があったのです。

単刀直入に述べると、我が家にはスープ用のお皿(カップでしょうか)がなかったためです。
このあたりを説明するためには「固形のコンソメは何に使うものか」などの話が必要になってきてしまいますので、省略します。とにかく、我が家にはスープ用のお皿がなくて、固形コンソメの使いどころが少なくなってしまっていたのです。

それに気づいたのは、まったく別のきっかけから、スープ用のお皿を買ってきたときでした。

平たく言えば、スープ用のお皿を買ってきたときに、「あれ、これでコンソメ使えるじゃん」と思ったのです。

以来、我が家の固形コンソメは着々と減ってきています。
And I lived happily ever after.

以上が、一つめのよくある話です。


二つめ


二つめの話は非常に単純ですので、あっという間に終わります。

あらゆる場面において、物事にはいくつかの小さなものと、それを生かすような大きなものがあります。前者の「小さなもの」は「要素」などと呼ばれたりするでしょうし、後者の「大きなもの」は「文脈」あたりが表現としては良さそうです。とりあえず、以降はこの二つの単語を使って話を進めます。
(もちろん、二つだけなどということはありません。)

その物事を形成するためには、「要素」と「文脈」はどちらも必要です。そして、ある場合では、それら二つは必要なときに両方きちんとそろいます。
これは非常にスマートです。

一方で、別の場合では、そのうちのどちらかしかそろわないこともあります。
ですが、あるときに「要素」しか用意できなくても、またあるときに「文脈」が手に入れば、なんとか物事を形成することができます。
こちらの方が多少苦労しているものの、結果だけなら、先の例と同じようにスマートに見えます。

先のようにスマートにやれるならそれに越したことはありませんが、私は後の話もわりと好きです。

以上が二つめの話です。


要素の問題


「要素」と「文脈」が別のタイミングで手に入ることを考えるとすると、一つ気になる点があります。

それは、将来どんな「文脈」で必要になるかわからない「要素」を、どのようにとっておいて、どうやって取り出してくるか、ということです。

うまく「要素」を保管する場所を決めても、それには消費期限のようなものがあるかもしれません。あるいは、その保管場所が「要素」やその他のものでいっぱいになってしまい、何が何だかわからなくなってしまうかもしれません。

しかし、そのように見た目がスマートでないからといって、悪いことではないと思います。
スマートでない私でも、コンソメスープは食べられたわけです。


終わりに


すなわち、コンソメのように保存が楽ではないかもしれないのです。

2012年10月5日金曜日

イノベーターの魔法

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これを書いているのは2012年の10月5日ですが、少し前に、「Francfranc」にておしゃれなノートを買ってきました。
このようなものです。



モレスキンの感覚でいると、大抵のノートは安く思えるものですが、こちらは500円です。だいぶ安く感じます。

とはいえ、罫線の引き方などの様々な要素から、これをメインの普段使いにはできません。おそらく、ノートとして思い切り使うようには作られていないのでしょう。

それでは、このノートは何に使おうかという話になってきます。
ここで表紙を見ると、"Magic spell" の文字があります。なるほど、このノートは(見たことはありませんが)魔術書のようなものを模しているわけです。

というわけで、このノートには私にとっての "Magic spell" を集めていくことにします。

1ページめには、当然、これを書きます。


「In case of loss ~」です。間違いなく"Magic spell" です。

それから、このようなことも書きました。


有名な、「ずっと砂糖水を売っているつもりか」のくだりです。

それから、このような話もあります。


「ノーと言うこと」についてです。
次はこちらです。


「電話を再発明する」です。

それから、こちらです。


「Stay hungry, stay foolish」です。

これらどれもが "Magic spell" であることは間違いありませんが、やけに同じ人物の言葉が多いようにも思えます。
それもそのはず、早いもので、あれからもう1年が経ったのです。


終わりに


一年前には、このような素晴らしい記事が書かれました。

R-style » イノベーターのウィルス

この一年で、イノベーターのウィルスはどれほど広まったのでしょうか。

そして、世界はどうでしょうか。私は、それほど悪くないと思っています。