2012年11月26日月曜日

私とPRS-T2

Clip to Evernote
先日、下記のエントリを書きました。

23-seconds blog: 「PRS-T2」概観

Sonyの電子書籍端末、「Reader PRS-T2」についての記事をまとめたエントリです。

その中で、eBookUSER でSony Reader用の電子書籍ストアのレビュー記事が、近いうちに公開されるらしい、とのことを書きました。

で、この度そのレビュー記事が公開されたわけです。
こちらです。

あなたに合った電子書店を見つけよう:これでもう迷わない、電子書店完全ガイド――Reader Store (1/5) - ITmedia eBook USER

非常に大がかりな、素晴らしい記事です。
本当に、こちらを読めばわからないことはまずありません。

そして、この記事の公開を待って、私もそのPRS-T2を購入しました。
何度か使用してみて、大変素晴らしいと感じています。

それから、ちょうど時期を同じくして、このような記事も読みました。

Evernote連携が決め手な「SONY Reader」を買ってよかった5つの理由 : ライフハッカー[日本版]

これらの記事をお読みいただければ、じゅうぶんにPRS-T2について知ることができます。

今回はそんな話です。


ハードウェア


PRS-T2のハードウェアとしての良さは、先に掲げた記事の二つめ、「Evernote連携が決め手な「SONY Reader」を買ってよかった5つの理由」がわかりやすいです。

いくつか見てみます。
第一に、記事タイトルにもあるように、PRS-T2ではEvernoteとの連携が可能になりました。本エントリでは詳細は割愛しますが、私のようなEvernoteユーザには嬉しい機能です。

第二に、PRS-T2には物理ボタンが搭載されています。同記事によれば、入浴中に操作する際にメリットがあるとのことです。確かに、入浴時にはタッチパネルのみのインタフェースだと不便なところもあるでしょう。

ですがこの物理ボタン、個人的には普段使いのときにも価値が感じられています。
PRS-T2ではタッチパネル越しにページを送ることもできますが、それは当然、スマートフォンなどのように画面が指にくっついてくる感覚にはなりません。私は普段スマートフォンなどを使用していますので、その気持ちで画面に触れるとやや違和感があるのです。
それと比べると、物理ボタンでページを送ることには、スマートフォンのときとは違う動作になるためか、違和感を覚えなくなります。

慣れの問題かもしれませんが、とても気分良くページ送りができており、私としては今のところわりと重要な話になっています。

ここまで、先にご紹介した記事から二点を見てみました。これら以外にも、同記事ではPRS-T2のメリットがいくつか挙げられていますので、ご確認いただくと良いかもしれません。

さて、ここから、少し話の方向が変わります。

上で掲げた「PRS-T2の良いところ」とは、要素であり、スペックです。
近頃なぜだかよく聞く「コモディティとスペシャリティ」の話に照らせば、これらのスペックにしか「PRS-T2の良いところ」が見いだせないのであれば、時間とともにその価値は薄れていくことになります。
平たく言えば、「同じようにEvernoteに連携できて、物理ボタンが付いている端末が現れれば、別にPRS-T2でなくても構わないのか」ということです。

この点については、最低限自分の中でだけでも、明確にしておく必要があると思っています。それはガジェット好きの責任と言ってしまっても構いません。

そして、私は今のところ「PRS-T2でなければならない」と考えています。今後、他のメーカからそれ以上のスペックを持った端末が登場したとしても、です。

一応、言葉になりそうな理由が二つほどありますので、つづっておきます。

一つは、私がこのPRS-T2を心底気に入ったことです。
どこがどう、などはありませんが、箱から出したとき、手に持ったとき、電源を入れたとき、使用したとき、いずれも非常に気分の良いものでした。
私には愛機ポメラDM100があるのですが、それとこのReader PRS-T2を併せて、何か「揃った」ような感覚がしたのです。

もう一つは、Sony Readerシリーズが私にとっての先駆者であることです。

今でこそ、電子書籍を読むための何かには、何やらいろいろと選択肢があるようですが、このSony Readerシリーズは、前から、モデルチェンジを繰り返しつつ存在しているわけです。
そして私は、そのモデルチェンジの様子を(すべてではないと思いますが)ウォッチし続けてきました。もちろん、購入の検討のためにです。

現状いろいろとある選択肢とこのSony Readerとを見比べてみると、もう圧倒的に「思い焦がれてきた時間」で後者に分があるのです。乱暴に言ってしまえば、最近現れてきた選択肢は、私の中ではまだ同じ土俵にすら上がれていません。

それは、ある意味で仕方のないことと言えますし、それだけ先駆者になるのは重大なことだとも言えます。
野茂英雄が、iPadが、LUNA SEAが、『アクロイド殺し』が、FastEverが、mini moogが、何年経ってもその分野ですごいように、Sony Readerは私にとって最強で、スペック競争に乗ることはないのです。

現在になってもiPad2が一番好き、という方が世の中にはいらっしゃるようですが、おそらくそれと同じ理屈です。


終わりに


こうなると、私はこのReader PRS-T2を長く使っていきそうな予感がします。

2012年11月19日月曜日

不安定な恋、綱渡り

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。

”イメージを膨らまそう”とするときのイメージ - なんかカラフルな生活

何かについて「イメージを膨らまそう」としたとき、それはどのようなイメージなのかについて書かれた記事です。

非常に興味深く感じました。
なにせ、イメージについてのイメージですので、それを文章にしようとする試みがどれほどチャレンジング(常々、「チャレンジング」に対応する日本語がないなと思っていました。「タフ」などもそうです)であるかは、容易に想像がつきます。

ですが、この「イメージが広がるイメージ」がそれなりに明確にある人は、それがない人より「イメージが広がりやすい」ような気がします。少なくとも、「広げよう」と意識しないといけない状況では、多少有利になるように思います。

そう思ったこともあり、あるいは単に興味深いと思ったこともあり、私も、本エントリではそれに挑戦してみようと考えました。

今回はそんな話です。


躊躇


さっそく、私の「イメージが広がるイメージ」を書いてみます。
私の中では、その映像はわりと明確に見えているのですが、どうもそれが現実世界にある「モノ」の姿をしておらず、説明するのが難しいです。しかしその難しいことをするのが本エントリの趣旨ですので、めげずにやってみます。

いろいろ考えましたが、私の「イメージが広がるイメージ」はビーズです。真ん中に穴があいていて、銀の紐をとおしてアクセサリなどを作ったりする、あのビーズです。
まずは、それが大量にある状況を思い描いていただければと思います。

それから、ビーズには、大きさ、色の種類が様々にあることでしょう。
ここには、そのありとあらゆる種類のビーズがすべてあります。なんなら、丸くなくても、真ん中に穴があいていなくても構いません。それなりに小さめで、ビーズの質感をしていれば、私の描く映像からはかけ離れません。

次に、ものすごく急な角度をしたすべり台を考えます。
このすべり台には坂の部分しかなく、しかもその坂は無限に長くなっています。幅の方は、それほど広くありません。人が二人ほど、並んで滑ることのできる程度です。
もちろん、その坂は完全な平面で、つるつるとしています。

そして、そのすべり台の上から、大量のビーズを放ちます。
物理的にはあり得ませんが、放たれたビーズは目にも止まらぬ速さで流れていきます。ざーっ、という音も立てているでしょう。

ここで、坂の途中ところどころにボンドが塗ってある状況を考えます。

ちなみに、私の中の映像には別にボンドは出てきませんが、そうとしか説明ができないのです。

ボンドは、本当にわずかな箇所にしか塗られていません。
また、塗られている各々の面積も、ごくわずかです。
小さな点が、ぽつぽつとある感じです。

すると、やはりごくわずかですが、いくつかのビーズがそこにぴたっと貼りつきます。ものすごい速さで流れていたビーズが一粒二粒ほど、急にぴたっと止まるわけです。
それが、数は多くないにしろ、いくつかの場所で起きています。

あるビーズがボンドに貼りつくと、そのすぐ後ろを流れていたビーズは、そのボンドにさらに貼りつくか、あるいは、貼りついたビーズにぶつかって少しだけ進路を変えて流れていきます。

以上の
  • ビーズがボンドに貼りつく
  • その後ろのビーズも同じボンドに貼りつく
  • または、貼りついたビーズにぶつかって少しだけ進路が変わるが、すぐに流れていく
が、私の「イメージが広がるイメージ」です。


決心


たぶん、大量のビーズは情報のインプットを表しています。
それから、ボンドは「その中で気になった情報」を示していることでしょう。

すなわち、私にとってイメージを広げることとは、大量のインプットを流し込んで、ほとんどは無駄になるものの、たまに引っかかることがある、という感覚になります。
引っかかる場所は外からはうかがいしれませんので、とにかく大量にビーズを流してみるほかはありませんし、引っかかった場所どうしが近くにあることもあまりありません。

今よりもっとイメージを広げようと思ったら、もっと大量のビーズを流すのです。

大変効率が悪い気がします。
しかしそうは言っても、これが私のイメージですので、しかたありません。


終わりに


これ 夢?

2012年11月18日日曜日

冬とモレスキン

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モレスキン好きにはおなじみの「モレスキナリー」さんで、こちらの記事を読みました。

Keiの寒くなってきたのでモレスキンを振り返ってみる・・・ | Moleskinerie

そこで、下記の記事が紹介されています。

モレスキンが使いたい 手帳と私の生活ブログ

こちらに、大変興味深い一文がありました。引用いたします。
なぜだかわかりませんが、寒くなるとモレスキンが使いたくなります(笑)
こちらの方は、寒くなると、または冬になるとモレスキンが使いたくなるそうなのです。
(本エントリでは「冬になると」で統一することにします。)

私はなぜだか、こういった話を見るといろいろ考えずにはいられなくなります。
何と言いますか、
  「冬になる」 → 「モレスキンが使いたくなる」
のような、一見論理的でない論理に興味を引かれるのかもしれません。

この文章は論理的でないから良くない、といった話ではまったくなく、「この論理が成り立つこの人は、どんな人なんだろう」とか、「この論理が成り立っていると感じる感覚は、どんなものなんだろう」といった、ずっとずっと夢見がちな空想です。

ひとつ例を挙げておきます。
『それでも、読書をやめない理由』という本には、以下のような文章があります。少し長くて申し訳ありませんが、引用いたします。


『それでも、読書をやめない理由』(デヴィッド・L. ユーリン) 
たとえば、ロワー・マンハッタンのスプリング・ストリート書店のような、お気に入りの本屋へ入っていくとしよう。店内の様子、におい、壁を覆っていたり、新刊案内のテーブルに積まれたりしている書物の量。それらが、たちまちわたしの下腹を打つ。とたん、腹がごろごろいい出し、括約筋がきゅっと締まる。

こちらは、
  「好きな本屋に入る」 → 「腹がごろごろいい出す」
との論理なわけです。
これはどういうことなのだろうと、やはり興味を思えます。

今回はそんな話です。


冬になると


「冬になると、モレスキンが使いたくなる」にある名詞は、「冬」と「モレスキン」です。これらを見ていくことで、何かわかるかもしれません。

まずは「モレスキン」を見ます。
個人的に、確かにモレスキンには冬のイメージを感じます。特に、年月が経って使い込まれたものではなく、薄いビニールを開封したばかりの、ゴムバンドをきれいにつけた様子がとても冬らしいです。張りつめたといいますか、凛としたといいますか、そんなところです。
(「凛とした」との言葉が存在する日本語は素晴らしいと思います。)

「冬」はどうでしょう。
私がこの「冬になるとモレスキンが使いたくなる」を目にしたとき、ぱっと頭に浮かんだ言葉があります。

「冬って、自分と世界の境目がはっきりするから良いよね」といった趣旨の言葉です。うろ覚えで申し訳ありませんが、昔読んだ小説(確か、『半分の月がのぼる空』)にあったものです。

私はそれに強く影響を受けました。とても好きな言葉です。
それまで夏が好きで冬が嫌いだった私が、冬も悪くないな、と思うようになったほどです。

この言葉が示すとおり、「自分」は「世界」ではありません。少なくとも、「世界」そのものではないはずです。
ですが、こういったことが日常で意識にのぼることはあまりありませんので、ともすると忘れてしまいがちです。意識にのぼらないと、何やら、「自分」が「世界」に溶けこんでしまって、「自分」の実体が見えなくなってしまうようにも思えます。

それでも、「自分」と「世界」の間には、確かに境目があります。張りつめた冬の空気は、それを鮮明にしてくれるものなのでしょう。

このあたりで、一つ結論が出たでしょうか。

モレスキン好きにとってのモレスキンは(あるいはノートブック好きにとってのノートブックは)「自分」に非常に近い存在です。これはまず疑いようのないことです。
しかし一方で、モレスキンとは単なる物質である以上、どちらかといえば「世界」の方に属するものになります。

もちろん「自分」と「世界」の定義にもよりますが、モレスキンは「世界」にあるものであり、かつ「自分」そのものではありません。残念ながら、これは間違いないことです。

ですが、この畏怖すべき「世界」の中で、モレスキンはものすごく「自分」に近い場所にいてくれるものであることも、また正しい実感です。
言い換えれば、「自分」と「世界」の境目にいるのがモレスキンです。

そして、冬は、自分と世界の境目に思いを馳せる季節です。冬は、自分が世界ではないことに意識を傾けることのできる季節です。
そのために、まさにその接点にいるモレスキンを使いたくなるのかもしれません。

そんな結論でした。
私は今、モレスキンに出会えて心から良かったと、再認識しているところです。


終わりに


個人的に、本エントリのタイトルは非常に気に入っています。
新谷良子さんに「月とオルゴール」という楽曲があるのですが、それのオマージュになっています。

その「月とオルゴール」を初めて見たときに、すごく良いタイトルだな、と感じ入ったことを思い出しました。

2012年11月15日木曜日

どちらでもある部分

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「(前略)ということは――決定、a0 の値は0!」
「正解。でも、怒鳴っちゃ駄目だよ」
「あっと……すみません。求められているのは静寂――でしたね」
「そうじゃなくって、0! って怒鳴ると1になっちゃうからね」
「…………」
以上の引用文は『数学ガール』(結城浩)という本の一節で、私が世界で一番面白いと思っているジョークです。

さて、先日『経済ってそういうことだったのか会議』という本を読了しました。
(「さて」と「ところで」ほど便利な言葉はなかなかありません。)

『経済ってそういうことだったのか会議』(佐藤雅彦、竹中平蔵)

そちらが本当に良い書籍でしたので、本エントリでは同書についてご紹介いたします。

今回はそんな話です。


出会い


私はこの『経済ってそういうことだったのか会議』を、書店で偶然見かけて購入しました。購入に至った直接のきっかけは、当然「書店をうろうろしていたこと」なわけです。
しかし、たくさんの本の中から同書が目に留まったのは、間違いなくcakesの連載「文章ってそういうことだったのか講義」のおかげです。こちらの連載では、同書にあやかって連載タイトルを決定したことが書かれており、私はそれが頭に残っていたのです。

第一講 あなたはなぜ文章を書くのか?|古賀史健|文章ってそういうことだったのか講義|cakes(ケイクス)

奥付を調べると、私が購入したのは2012年6月22日の第35刷のようです。第1刷は2002年9月1日となっており、さらには、私が手に取ったこの本は、もともと2000年4月に刊行された同名書を文庫化したものだということです。
ここからも、同書がいかにすごい本なのかが読み取れます。

ここで、思い馳せるは電子書籍です。

上に書いた、どこかで聞いたような本を偶然本屋さんで見つけて購入することは、本好きにとってはたまらない経験です。
電子書籍ストアではこのような体験ができない、といった話は各所で語られていますので、私からは特に何もありません。人によってはそうかもしれませんし、別の人にとってはそうでないかもしれないでしょう。

ただ、個人的なことを言うなら、書籍を検索するときに「人気のある順」だけでなく「人気がない順」「人気がまあまあある順」「人気がなさそうである順」「人気があるとないが交互の順」などがあると、面白いような気がします。あるいは、「関連書籍」だけでなく「無関連書籍」「微妙に関連のある書籍」「この本を読んだ人は、他にこんな本は読んでいません」なども面白そうです。

要は、普通の買い物などと違って、(本好きにとって)本を探すのは別に便利でなくても良いということです。

それからもう一つ、先述の「たくさん刷を重ねていてすごい」のような状況も、おそらく電子書籍では起こりにくいでしょう。すでに他の形で刊行されている書籍を文庫化することも、同様です。
関連して、本屋さんの棚には限りがあるため、昔の本であれば置かれているだけで何かしらの評価ができるはずであり、これも電子書籍にはない話です。

だからといって、どうするべきかは、私にも特に考えはありません。
そういった部分を電子書籍ストアでも反映するような仕組みがあれば、実際の本屋さんで本を選ぶのに近い体験ができるでしょう。逆に、そういった仕組みを排除するようにすれば、「電子書籍ストアらしい」体験を促進することになるはずです。


内容


ここまで、電子書籍に関する話でした。

『経済ってそういうことだったのか会議』の内容の話に移ります。

同書に、非常に感銘を受けた文章がありましたので、引用させていただきます。
(「非常に感銘を受けた文章」は他にもたくさんありました。実に良い本です。)
ですから、失業問題というのは経済学と人間の生活との大きな接点になってくるんです。
うなりました。
私としては、この箇所を同書の一つの到達点だと思っています。

ぜひ、同書を初めから読んだ上でこの文にたどり着いていただきたいです。
ここでは大雑把に説明することにします。

経済学では元来、人間とは労働力であると考えます。同書には「医学が人間を蛋白質のかたまりと見るように」との表現が出てきますが、つまりはそういうことです。
市場に価値をもたらすものとして、人間は労働力であり、カウンタブルであり、そしてそれ以上でも以下でもないわけです。

一方で、「人間の生活」はその反対側にあるものです。「生きがい」や「生きる喜び」、「お金に代えられないもの」などは、数値にできないものであり、(古典的な)経済学は相手にしない部分です。

そして、そのように対局にある二つのつなぎ目にあるのが、失業問題だということです。失業問題とは、経済学の問題でもあり、同時に人間の生活の話でもあるのです。

だからこそ、失業問題を考えるのは難しく、かつ、解決した暁には大きな効果と喜びがあるものなのでしょう。

ここでは言葉の綾で「解決した」と書きましたが、もちろん、完全な解決はなかなかないものでしょうし、さらに言えば解決するのが誰にとっても望ましいことなのかも判然としません。
そういったところまですべて含めて「難しい」のだと思います。


終わりに


ところで、『数学ガール』が面白いのは、ここで言う失業問題と同質の、難しいものを描いているからなのかもしれません。

2012年11月11日日曜日

動的でないもの

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公開されたのは少し前になりますが、以下のような記事があります。

R-style » ジョブチェンジの心境 オッズとチップ あるいはささやかなエール

こちらにある言葉が置かれていますので、引用させていただきます。
<価値とは、「見出される」ものだ>
価値とは「見出されるもの」、ということです。

これは、目にして以来私がそれなりに大変な毎日を送る中で、ずっと心に留め置かれる言葉となっています。私が、今日まで無事に生きてこられた原動力の一端は、この言葉が担ってくれていたと言っても、まったく過言ではありません。
ぜひ、先の記事と合わせて、多くの人に知っていてもらえたらと思っています。

さて、ここでこの話を出したのは、本エントリで書きたいことがそれの反対側にあるものだからです。もちろん、「反対側にある」とは対称軸をうまく設定したときの話ですが、その設定のしかたについては省略します。予めうまく設定されているものとして、話を進めていきます。

その対称軸に従う場合、先の話は「価値とは、動的で、変化するものである」との解釈になります。
つまり、本エントリは、静的で、変化しないものの話です。


美しさ


『100の思考実験』という本に、「芸術のための芸術 - 見る人のいない芸術作品は芸術か?」との項目があります。

『100の思考実験』(ジュリアン バジーニ)

詳しい内容は同書を参照していただければと思いますが、私はこの項目から、美しさの所在について思いを馳せることとなりました。

先ほど、「価値」は動的なものであると書きましたが、一方、「美しさ」はそれ自体が携えているものだと、私は考えています。人の目に触れるとか、どう思われるとかは関係なく、静的で、変化しないものです。

この発想は、『史上最大の発明アルゴリズム』の巻末解説に、おそらくその足場があります。引用いたします。

『史上最大の発明アルゴリズム』(デイヴィッド バーリンスキ)
本書の原題は The advent of the Algorithm 、直訳すると「アルゴリズム降臨」とでもなるだろうか。確かに原題には「発明」という言葉は入っていない。なぜ「発明」に引っかかるかといえば、数学者たちはそれを「発見」と呼んでも「発明」とは呼ばないからだ。
数学者たちは、新しいアルゴリズムを生み出すことを「発明」ではなく「発見」と呼ぶらしいのです。

大変興味深く感じました。
アルゴリズムは人の手によって作り出されるものではなく、はじめからそこにあるものなのです。私たちが知る数多のアルゴリズムは、そこにあったものが発見された結果、人類に届いてきたというわけです。

このことが、私の「美しさは、そのものが内包している、静的なものである」との発想をもたらしています。
アルゴリズムは「美しい」ことがとても頻繁にありますが、それは誰に見つけられなくてもはじめから備わっているためです。


動的なもの


再度、動的なものの話に戻ります。少し方向が変わっていますが、大きく「動きのあるもの」として見ます。

『街場の文体論』という本に、これに関係しそうな文章がありますので、引用いたします。

『街場の文体論』(内田樹)

大学の講義をしている場面を思い浮かべていただけるとよいです。
僕が九十分の授業のためにきっちり九十分ぶんの原稿を作ってきて、それをすらすらと読み上げても、たぶん五分もしないうちに、教室にいる皆さんの半数はばたばたと寝てしまうでしょう。必ずそうなる。
ここまでが前置きです。状況はこれでつかんでいただけるかと思います。
重要なのは、それに続く箇所です。
それは起きて話を聴いているのは、コンテンツが面白いからではなく、今ここで言語が生成しているという状況そのものに君たちが感応しているからなんです。
なるほどと思いました。
目の前で、ライブに言語が生成している状況に対して、私たちは感応するわけです。これを動的であると呼んでもさしつかえないでしょう。

さて、ここまでで、動的であるものと静的であるものとを明らかにしてきました。
振り返ると、動的なものとは、ライブに言語が生成している状況であったり、人から見出される価値だったりします。一方の静的なものとは、美しさのような、観測者の有無に依存せずに、そのものが内包しているようなことです。

これらを踏まえた上で、私は、その「モノ」が有形か無形かを問わず、静的な美しさを大事にしていきたいと思っています。というのは、「美しさ」はきっと、そのモノが内包しているため、ともすると動的なものより見過ごしやすくなっているような気がしてしまうわけです。
だから、立ち止まって、その何かが持っている美しさを感じたいのです。

もちろん、なにも動的なものをおろそかにする、と言うつもりはありません。ただ、静的なものの方が「わかりにくい」気がするので、大事に思っておきたいという話です。

美しさは観測者に関係のないものであるなら、わざわざ立ち止まってそれを感じることには、何の意味もないでしょう。平たく言えば、無駄な労力です。
でも、と言いますか、だからこそ、と言いますか、そんな感じです。

ここでふと、近頃の音楽業界でよく聞かれた、「ライブ偏重」の話を思い出しました。
私から詳しく語るつもりはありませんが、これなどはもしかすると、顕著な例かもしれません。確かに私は、よく考えられた録音物を繰り返し聴く方が好きなような気がします。


終わりに


本文中で、『街場の文体論』から引用させていただきました。
ただ、この引用箇所だけ読むと、同書が少し別の話のように見えてしまうような気がします。
できれば、その引用箇所だけで何か判断を下す前に、ぜひ同書の方にあたっていただきたいと思います。

2012年11月10日土曜日

思い出したと等価

Clip to Evernote
現在、巷の話題をすべて独占しているできごとがあります。
例えばそれは、下記の記事で紹介されています。

速度、操作性、未来につながる新機能。すべてが新しいEvernote 5 for Mac のベータ版 | Lifehacking.jp

Evernoteのクライアントソフトが、ベータ版ながら新しいバージョンとなったようなのです。
同記事ではMac版について取り上げられていますが、下記の記事ではiOS版についても書かれています。

Evernote 5 for iPhone iPad -Mac版に続き今度はiOS版が大幅リニューアル | ごりゅご.com

私はMacユーザではありませんので、この、世間を大いに賑わせている新しいMac版Evernoteクライアントを使うことはできませんが、それはいずれ可能になることでしょうから、あまり気にしてはいません。

そちらは気にしていませんが、一つ、気にせずに通り過ぎることがどうしてもできない事柄がありました。

各所で言及されてはいますが、例えば下記の記事にそれがあります。
引用いたします。

Evernote 5 for Mac ベータ版のレビュー 1日使っての感想やカスタム方法など | ごりゅご.com
今までは基本的に「検索」を使おうとする場合、自分でキーワードを入力して、目的のものが見つけられなくてもう一回検索して、みたいな手間がかかったりしてましたが、これがちょっと「Google的」になってきました。 
検索キーワードを入力すると、自分のノートの中身を元にキーワードの候補を出してくれる
検索ワードの先読みと言いますか、そのような機能が追加されたとのことです。機能そのものについては、携帯電話の文字入力やGoogle検索などで、多くの人にとっておなじみのものでしょう。特に説明なしで、想像がつくものと思います。
しかし、これが自分のEvernote内を検索する際に行われることからは、文字入力の例とは異なる性質を読みとることができます。

先の引用文の後半では、「先読みされるワードは、自身のEvernoteの中身によって変化する」とのことも書かれています。
すると、出てくるのは、ブラウザのテキストボックスでよくあるような「過去に入力したことのあるワード」ではないことになります。
もちろんそれも出てくるのでしょうが、Evernoteに保存しているノートに関連が深ければ、「過去に入力したことがなくても」先読みで出てくるわけです。

この違いは重要です。
なぜなら、Evernoteは第二の脳だからです。

もう少し正確に言うと、Evernoteの検索語先読み機能は、人間の「思い出す」とか「類推する」という行為を鮮やかに切り取って見せているのです。
もちろん、それが「思い出す」「類推する」のすべてだと言うつもりはありませんが、確かにある一面を切り取っています。

私たちが何かを思い出す場合を考えてみます。
やはり一概には言えないものの、例えば、ある一つのものとその名前を思い出したとして、それをもとに別のことを思い出し、また別のことを思い出し、最終的にまったく関係のないことを思い出した、といったことがあります。

これがちょうど、Evernoteの検索語先読みと重なるわけです。
Evernoteには私たちのすべての記憶が入っていますので、一つ検索語を思いついて入力すると、自分としては思ってもみなかった、しかし自身の「記憶」に関連の深いワードが出現してきます。
それをたどっていくと、最終的にまったく関係のないノートに到達することになるでしょう。そして、思ってもいないノートに到達することは「思い出した」と等価です。

Evernoteの検索語先読みで、私たちは何かを思い出すことができるのです。
人間が物事を思い出す行為が変質している、あるいは拡張されている点で、これは革新です。

「類推する」の場合も、状況はだいたい同じです。

今書いてみて気づきましたが、「類推する」と「思い出す」では、思ってもいない方向に行こうとしているか、そうでないかの違いだけで、現象としては同じなのかもしれません。まったく関係のないことを思い出そうとする、意志の有無だけが違うということです。
(もちろん「必要なことを思い出す」パターンもたくさんありますが、先の例のとおり、今回は除外しています。「思ってもいなかったことを思い出す」ときの話です。)

しかし「類推する」と「思い出す」が同じものを指しているとは、やや直感に反します。
あるいは、「思い出す」が示す範囲がとても広く、「類推する」はそこに内包されているのかもしれません。その場合は、類推でたどり着いた先はものすごい発想などではなく、単に何かを思い出しただけにすぎないことになります。個人的には悪くない結論です。
このあたり、ひょっとすると詳しい人の間ではもう結論が出ているのかもしれませんので、後で調べてみることにします。

この話を踏まえると、Evernoteの検索語先読みでは、類推することと思い出すことが同時に行えることになります。
それは、人間の脳では昔から可能でしたが、ついに第二の脳でも実現したのです。

いろいろ言いましたが、話は複雑ではありません。
Evernote内のノートを元にして検索語が先読みされるのは、人間のふるまいを変質させるほどの、ものすごいことだということです。


終わりに


まだまだEvernoteの話は尽きません。

2012年11月5日月曜日

Evernote原体験

Clip to Evernote
Evernoteが私たちのもとにやってきてから、それなりの年月が経ちました。クラウドを通して自分だけのノートを作成することのできる「ツール」であるところのEvernoteではありますが、しかしその「ツール」が、私たちの生活を、考え方を変質させた部分は多くあります。
ありきたりの表現で恐縮ですが、「されどツール」であるわけです。

ですが、物事をもう少し丁寧に見ていくと、Evernote以前から存在はしており、Evernoteがそれを明確に切り出してみせたような概念もあるように思います。

Evernoteが変質させた、あるいは創造したのではなく、顕在させた概念です。
それを本エントリでは、エントリタイトルのように「Evernote原体験」と呼んだわけです。

余談ですが、上に書いた「Evernote以前(またはEvernote以降)」との表現には、私の心が強くこもっています。
Evernoteとは、それらの表現が成り立つほどのものなのです。
これは、新本格ミステリにとって「十角館以降」との表現が成り立つように、東西ドイツにとって「壁崩壊以降」との表現が成り立つように、重大なことです。
(どちらもそれほど詳しくありません。)

今回はそんな話です。


Gmail


確か発売して間もなかった頃、私はiPhone 3Gを購入しました。国内で発売された最初のiPhoneです。
当時は「iPhoneを買った」と言っても、「iPhone…って聞いたことあるけど、何だっけ」のような反応をされるような時代でしたし、私の記憶に間違いがなければ、まだ「スマートフォン」なる言葉すら耳にすることはありませんでした。私も私で、iPhoneを電車内で取り出すのに少しためらいを感じていたことを覚えています。

その頃から考えると、まさに世界が変わっていく様子をこの目で見てきたと感じられますが、それはまた別のお話とします。

さて、私を含めた当時のほとんどの人には、端末間でデータが同期する発想がありませんでした。これも、知ってしまった現在からするとかなり想像しにくい現象だと言えます。何しろ、確かに自分がPCで作成したデータがiPhoneにもある、との状況がさっぱり理解できないのです。現象として認識はできるのですが、「わからない」のです。データというのは、CD-RやUSBメモリに入れて、手で持ち運ぶものだったはずなのです。

それから、私はiPhoneを購入する以前から、Gmailのアカウントを持っていました。これも、私にとっての理解は「ブラウザから見られるPC用メール」でした。現在のそれとはだいぶ趣が違います。
当時の私からしたら、「携帯メール」と「PCメール」では、「メール」との言葉が同じだけで、全く別のものである認識でした。とても相容れるものではなかったのです。

あるときiPhoneの設定を見ていた私は、メールアカウントにGmailの項目を発見しました。
Gmailとは、私がアカウントを持っているあのGmailのことだろうかと思うわけです。現在のようにiPhoneについての情報が世の中に溢れていることもなく、周囲に質問できる人もいませんでしたので、試行錯誤しながら、なんとかアカウント情報の入力を終えることができました。

すると驚くことに、「PCメール」であるはずのGmailが、「携帯メール」と何も変わらずにiPhoneから使えるようになりました。「PCメール」と「携帯メール」は、相容れないものではなかったのです。
このときの衝撃といったら、おそらく生涯忘れることはないでしょう。いまでもそれをありありと思い出すことができます。

何と言っても、確かにPCで受信したメールが、iPhoneの受信フォルダにもあるわけです。
当初は不思議で不思議でなりませんでした。

それからしばらくは、感動を覚えながら、様々なことに「PCのメールが携帯で見られる、携帯のメール(Gmail)がPCで見られる」ことを活用していきました。

しかしあるとき、私にある思いつきが生まれました。
「Gmailあてにメールを送っておけば、ちょっと覚えておきたいメモとか、もう一度みたいWebページのURLとか、写真とかが、家のPCからでも、出先の携帯からでも自由に見られて、ずっと保存しておけるんじゃないか?」と。

お察しのとおり、これが私の「Evernote原体験」です。

当時の私は、このあたりに不便さを感じていました。
例えば、どこかに行くときに調べた電車の経路や、後で買いたいと思ったものなどは、紙にメモしていましたが、用が済んだら、捨てるかどこかにしまいこむかするしかありませんでした。すると、時間が経ってから再度同じ場所に行くことになったりすると、この前調べたのにまた調べないと、と残念な思いをするわけです。

Webページについては、当時はブラウザのブックマークを使用する以外に方法はありませんでしたが、その数がどんどん増えてしまいますし、他の端末と同期することもなかったのです。
写真についても事情はだいたい同じと言えるでしょう。

自分のGmailあてにメールを送っておけば、これらのことがすべて解決したのです。
つまり、
  • 別にすごく必要ではないけど一応とっておきたくて、
  • これといって行き場所はなくて、
  • もし必要なときはいつでも見られるようにする
方法ができたということです。

そして、私がEvernoteを導入すると同時に、Gmailがその役目を担わなくなったのは言うまでもありません。


終わりに


うまく本文中に含められなかったのですが、「これといった行き場所がないメモやURL」の管理は、結局自分の記憶に頼るしかなかったわけです。

2012年11月4日日曜日

クライマックスシリーズと長期戦

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こちらの記事を読みました。

ライフハック心理学 » クライマックスシリーズとモチベーション

かれこれ十五年来の広島カープファンである私として、これは反応せざるを得ません。

今回はそんな話です。


クライマックスシリーズ


クライマックスシリーズとは、大雑把に言えば「ペナントで三位までに入れば、日本一になれるかもしれない」という制度です。

制度自体についてここでいろいろと語るつもりはありませんが、確かに導入当初は議論になりました。しかし、それを賛成か反対かと問われれば、私としては反対しようもありません。
その理由も軽く触れるだけにとどめますが、要は私は広島カープファンなのです。
私が広島カープファンであることと、2012年ペナントのカープの様子を合わせて見れば、答えは自ずと明らかになります。近年で、今年ほど夢を見た年は記憶にありません。なんとか石井琢朗と一緒にクライマックスシリーズに行きたかったです。

さて、冒頭でご紹介した記事では、クライマックスシリーズからライフハックの教訓を得ています。これに関して、私も常々思っていることがありますので、書くことにします。

私の話の場合は、クライマックスシリーズよりも高校野球を例に出したほうがわかりやすそうです。
クライマックスシリーズも高校野球(特に、夏の甲子園とその県予選)も、いわゆる「短期決戦」と呼ばれるものです。もちろんこの言葉はプロ野球のペナント戦が長期にわたることを念頭に置いています。そちらは便宜上「長期戦」と呼ぶことにしましょう。あまり聞く言葉ではありませんが、便宜上、です。
高校野球の場合はクライマックスシリーズよりさらに状況の移り変わりが早く、「短期決戦」よりは単に「トーナメント」と言われることが多いのですが、ここでは同じ「短期決戦」のくくりとします。

野球というスポーツを考える上で、行っているのが「長期戦」か「短期決戦」かの違いは相当なものがあります。
攻撃の作戦の採り方や選手起用の方針、それからバッテリーの配球にいたるまで、あらゆる箇所に差異が出現してきます。ここにある差異は本当に大きなものですので、多少なりとも野球を見たことがある方なら、十分に感じ取れることと思います。

私などは、プロ野球と高校野球とでは、もはや別のスポーツであるとの認識を持っています。ほとんど同じような見かけをして、だいたい似たようなルールではあります(ルールも違うところは多々あります)が、その中身はまるで違うのです。
ですので、よく「プロ野球と高校野球の、どちらが好きか」といった話を聞くことがありますが、それは私にとっては「バスケットボールと卓球のどちらが好きか」くらいの質問になるわけです。そのため、その質問をされたときに私がまず疑問に思うのは、「なぜ数あるスポーツの中からその二つ(プロ野球と高校野球)が選ばれてきたのだろう」だったりするほどです。

このことは、ライフハックや仕事術にも示唆を与えます。

何かの仕事術を用いて仕事を進めようと思ったとき、対象の仕事が「長期戦」なのか「短期決戦」なのかを考えておくことには価値があるということです。なお、ここで言うところの「長期戦」が指すのが数時間なのか数年なのかといった解釈の仕方については、もちろんそれも重要ですが今回は踏み込みません。
言及したいのは、対象の仕事が想定する期間がどれほどなのかを考えてみること、のみです。

きっと、これを考えてみると、プロ野球と高校野球とが別のスポーツに見えるほど用いる戦術が異なるように、仕事の期間によっては役立つ仕事術が異なってくることがあるだろうと思うわけです。
これを戦術、つまり仕事術の方から見れば、同じ仕事術(やライフハック)でも、対象とする期間が変わると役に立たなくなることがあると言えます。

大雑把な例として、例えば「夜寝る前にEvernoteを見返して整理する」と決めたとします。きっと五日程度ならそう苦労せずうまくいくでしょうが、それを数年にわたって継続していくつもりなら、何か別の仕組みをどこかで考える必要があるかもしれないわけです。


終わりに


すぐ上の例は「長期戦だとうまくいかない」パターンでしたが、逆に、長期戦を想定しているからうまく回るものももちろんあると思います。

2012年11月1日木曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2012

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近ごろ、「現代は時代の移り変わりが早い」といった話をよく聞きます。その話によると、現代では様々なものが非常に早く変化しているそうです。
確かに、現代で様々なものがすごい早さで変化しているのであれば、それを「時代の移り変わりが早い」と評して間違いないでしょう。

すると、今より少し前の時代を生きていた人たちは、「今は時代の移り変わりが遅いねえ」との話をしていたことになります。「現代は時代の移り変わりが早い」のですから、きっとそうなのだと思います。

その「移り変わりが早い」との話は、「インターネットの普及によって」というよくわからない日本語とセットになっていることが多くあります。
日本語としての「インターネットの普及」への違和感は大変ありますが、それとは別の話として、インターネットが時代の移り変わりをもたらしているのであれば、そこで、そうでないことを試みるのも興味深いことです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月ということなのです。
記憶力の良い方は、おそらくこのあたりで一年前を懐かしむ気持ちになっていることと思います。そうでなくとも、第二の脳をひもといていただければ問題ありません。

さて、2012年も11月を迎えています。
11月には、
  • 冷たい空気
  • 文化の日
  • 勤労感謝の日
  • 霜月
あたりからか、なんとなく知的なイメージを私は持っているのですが、まさに好きなブログを告白するのにはぴったりです。

前置きが長くなりました。それでは私が好きなブログをご紹介させていただきます。

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はじめはこちらです。
文章は読みやすいですし、調査は徹底していますし、とにかく読んでいて楽しいブログです。
電子書籍をはじめとして、その周辺についてを知ろうとしたら、こちらのブログに行くのがベストの選択肢だと思います。

というのはあえて客観的にこの「見て歩く者」さんを見た場合の話で、私はそれ以前に大ファンだから読んでいます。

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二番目はこちらです。
本ブログでも度々こちらのブログの記事をご紹介させていただいています。

軽妙な語り口で、様々な試行錯誤と思考の過程を伝えておられます。
ブログタイトルには3つのキーワードが現れていますが、もちろんそれも含んだ上で、私は「試行錯誤と思考」のブログだと思っています。

そういった部分に面白さを感じられる方は、必ず楽しめます。

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三番目はこちらです。
こちらも、何度となく記事を引用させていただいているブログです。

改めて言いますが、大変影響を受けています。

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四番目はこちらです。

トピックが多様にわたるにも関わらず、一貫して、熱く、楽しく、わかりやすく書いておられます。
読んでいて、ディスプレイ越しに楽しさが伝わってきます。

その中に、熱いメッセージも込められていたりしており、気が抜けません。

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五番目はこちらです。

独特の、とはとても難しい言葉ですが、独特のブログです。
書かれているトピックはわりと明らかかと思いますが、それを言ってもこちらのブログについて何も説明しないような気がします。

少なくとも一つ言えるのは、最近、自分が書いた文章がこちらのブログのそれに似ていることに気づいて、はっとすることが頻繁にあるという事実です。
だいぶ影響を受けているようです。

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少し上で、「楽しさ」との言葉を使いましたが、それと対比させるなら、こちらのブログは「朗らか」です。もちろん私のイメージです。

読むと朗らかな気持ちになれて、元気が沸いてきます。
この感覚は、他のブログにはまったくないものです。

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七番目はこちらです。

なんといいますか、挙げざるを得ません。
好きなブログでないはずがないのです。

私も長いことこちらのブログを読ませていただいていますが、いまだに表現の面白さに吹きだすことがあります。

ちなみに、ロックバンド「D」に、「薔薇色の日々」という楽曲があります。
私はいつも、その曲とこの「jMatsuzaki」さんを重ねて見ています。

たとえば、同曲には下記のような歌詞があります。
明日になればきっと世界は変わる
信じているからこそ終わりにはしない

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八番目はこちらです。

面白いです。面白いブログです。

それだけで終わらせても構わないくらい面白いブログなのですが、何か物事を考える契機となるのもまたこちらであることが、よくあります。

それも含めて、面白いです。


終わりに


今年の11月も、多くの人の「好きなブログ」を見られると嬉しいです。