2012年12月30日日曜日

three albums of the year (2012版)

Clip to Evernote
ふと気づけば、今年も残すところあとわずかになりました。
おそらく、全世界における「残すところ」という言葉の登場数を折れ線グラフに表すと、この十二月末あたりで跳ね上がっていることと思います。考えてみれば、「残すところ」とは普段の生活ではそれほど使わない言葉です。
その意味だと、同じ折れ線グラフで「良いお年を」などが似たような傾向になっていても、それほど興味深くはありません。「残すところ」が表面的には特別に年末らしい言葉ではないため、面白いわけです。

さて、私にとって年末といえば、その年に素晴らしかった音楽アルバムを三枚決定する時期です。
昨年も本ブログでそのようなエントリを書きましたし、ブログに関わりなくとも、何年も続けてきた習慣です。これをすると、私にとっては一年の振り返りになるのです。

本ブログの事情だけ見ると、音楽の話が続いてしまうのが気になりますが、ともあれ、さっそく「three albums of the year」をご紹介します。

アルバム名 / アーティスト名
で、敬称略でいきます。

***

12012 / 12012

一枚めに選ぶのは、ロックバンド「12012」が自身のバンド名を冠した4thアルバム、「12012」です。
バンドの中心人物だったギターの須賀勇介が脱退し、一人少ない四人編成に変わってから初めてのアルバムになります。

今作の「12012」では、音像、ヴィジュアルともこれまでの雰囲気から大きく変化しています。
言われてみれば、前作「SEVEN」からそういった気配は多少ありましたが、「12012」では、よりシャープに、激しくなっています。

聞きどころは、一気に攻撃的になった宮脇渉のヴォーカルはもちろんのこと、個人的には酒井洋明のギターを推します。
須賀勇介の脱退によってギターが一人になり、どうなるのかというところで、とても鋭くて強いプレイを聞かせてくれています。

これはギターパートに限らず、全体として、一人減ったことを逆手にとってと言いますか、プラスにとらえているような感覚を受けます。
個人的には今の12012が好きですし、またそういった、マイナスのことでも前に進む糧にする心意気は憧れます。

***

D-Formation / 茅原実里

二枚めは、茅原実里の「D-Formation」を選びます。

こちらのアルバムについては、本ブログの「新世界のように」とのエントリで書いていますので、ここでは簡単に書きます。

何と言っても特筆すべきなのは、前作までバンドサウンド寄りに進んでいた茅原実里が、デジタルなアレンジに大きく舵を切ったことです。
ちなみに厳密な話ではないものの、何となく「打ち込み」や「エレクトロ」より「デジタルサウンド」とする方が適切に感じます。伝わるかどうかは怪しいですが、そういうアルバムだということです。

その中で、「D-Formation」というデジタルな世界を提示する冒頭の三曲の流れが、インパクトもあり、大変秀逸です。

また、デジタルとばかり言っていますが、アルバム後半ではヒューマンなメッセージの曲も変わらずあり、こちらも良いです。

***

so_mania / SOUL'd OUT

三枚めはSOUL'd OUTの「so_mania」を選びます。

SOUL'd OUTのオリジナルアルバムとしては、2008年の「ATTITUDE」以来久しぶりの作品になります。
その間SOUL'd OUTの三人のメンバは個々の活動をしており、そこから再集結して新しいアルバムを発表したということで、ファンにとってはこれだけでメモリアルな一枚になります。

私も、それぞれのメンバの活動はすべてチェックしていました。
その上で言えるのは、今作「so_mania」は、それらの活動内容をすべて踏まえて、持ち寄って一つにした、これまでのSOUL'd OUTとは違う一枚に仕上がっているということです。
私の印象では、個々の活動がSOUL'd OUTに良い影響を与えたと間違いなく言えます。最高傑作、と言ってしまっても良いかもしれません。

すごく抽象的な表現になりますが、音がこれまでとまるで違うのです。


終わりに


2012年は、テクノのアルバムを聞く数が少なくなりました。
これは、私の生活の様子がやや変化して、少しずつ音楽アルバムをデータで購入するようになってきたためだと思います。

私の場合、テクノ以外の音楽では追いかけるアーティストがだいたい固定になっていますので、データで購入するのにもそれほど不都合は起きません。
一方のテクノは、CDショップを実際に歩いてみて情報収集することがよくありましたので、データではそれができなくなってしまうわけです。

もともと私には、CDショップにおもむく時間が確保しにくくなったために、音楽をデータで購入することを考え始めたとのいきさつがあります。
そのため、自然にテクノを聞く機会が減ってきてしまったわけです。これはなんとかしたいと思っています。

またこのことは、私が最近電子書籍も買い始めた影響で、読書についても似た状況が起こりそうな予感がします。

というわけで、私の来年の目標は「本屋さんとCDショップをたくさん歩く」になるかもしれません。

とはいえ、電子の本も音楽も、私が購入したいコンテンツがすべて揃うような状態はまだ達成されそうにない(と思う)ので、お店にまったく足を運ばなくなることは、しばらくなさそうです。

2012年12月27日木曜日

音楽と雑誌への思い

Clip to Evernote
先日、「FOOL'S MATE」という月刊誌が、刊行休止となりました。
(正確には、「月刊誌という形態を一時的に止める」とのことです。詳しくはリンク先をご確認いただきたいと思いますが、本エントリではとりあえず「休止」との言葉で統一します。)

FOOL'S MATE OFFICIAL WEB

本誌読者の皆さまへ

「FOOL'S MATE」は、主にヴィジュアル系のアーティストを取り上げる音楽雑誌です。
(少なくとも、私にとってはそうです。昔はそうではなかったことを、上記のリンク先で初めて知りました。)

私は長年この「FOOL'S MATE」を読んできましたので、休止を知った際には様々に考えることがありました。
本エントリでは、そんな私の「音楽と雑誌」への思いをつづっていきます。

今回はそんな話です。


「FOOL'S MATE」


いわゆるヴィジュアル系と呼ばれる文化は、基本的には日本にしか存在しないものです。
近年では、ヴィジュアル系アーティストが海外へ進出し、そこで喝采を持って迎えられることも多くなっています。ひとつ、ヴィジュアル系は日本人として世界に誇れるものなのです。

「日本のヴィジュアル系」は、その発展の歴史のうちかなりの割合を雑誌に依ってきました。
そして、日本でのヴィジュアル系雑誌の二大巨塔と呼ぶべき存在が、「SHOXX」と、件の「FOOL'S MATE」なのです。

それでは、なぜヴィジュアル系にとって雑誌は重要なのでしょう。
これを考えるところに、私の「音楽と雑誌への思い」があります。

雑誌には、例えば、近々アイテムのリリースがあるアーティストに、それについてのインタビュー記事が載ります。
そこで、アーティストはその作品にこめた気持ちやメッセージ、こだわりの部分などを大いに語ることができます。アーティストは普段は楽曲を作っているだけですので、それについて語ることができる場はとても重要です。

また、ヴィジュアル系の楽曲は、世界観やストーリーが想像を絶して壮大であることが往々にしてあります。「想像を絶して壮大」とはずいぶんと大仰な表現ですが、きっと、ヴィジュアル系界隈に詳しい方なら同意していただけると思います。そうでない方は、とにかくものすごく壮大だと思っていただければよいです。「これ音楽だよね?」というくらいです。
これに関しては、語れる場がないことにはもはやどうしようもありません。

そして、そういった長くて複雑な話が、おそらく、プロのインタビュアーさんやライターさんの手で文章にされ、編集の方が校正するのでしょう。詳しくは私も知りませんが、文章や紙面作りのプロの方が、アーティストの思いがきちんと伝わるようにしておられるのは間違いありません。
重要なのはこの、「文章や紙面作りのプロの方」がやっているというところです。自分でブログ等を書くアーティストもたくさんいますが、情報として、それとはまったく別のものなのです。

文章だけではありません。ヴィジュアル系のアーティストにとって、アー写と呼ばれる写真は、音楽に負けないくらい大事なものです。
こちらにも、プロのスタジオやカメラマンさんが登場してくるわけです。
さらには、アーティストは、アー写の雰囲気についてなどは自分たちからもアイデアを出したりするようです。自分たちが掲載される数ページを、全力で、共に作るということです。

彼らにとって、雑誌に掲載されるインタビューは立派なひとつの「表現」なのです。
そして、雑誌の人は、プロとしてそれを伝えてくれます。

これが、私の「音楽と雑誌への思い」です。

(ヴィジュアル系ほどではないかもしれませんが、)他のジャンルであっても、
  • 「音楽の情報」の姿をした「アーティストの表現」を、
  • 「アーティストの表現」の姿をした「音楽の情報」を、
伝える媒体として雑誌は最強です。これは、何かと比較したら雑誌の方が良かった、といったことではなく、絶対的に雑誌しかありえないのです。


電子版


そうは言っても、「FOOL'S MATE」は休止となってしまいました。
やはりと言いますか、何と言いますか、次に期待をかけるのはウェブサイトだったり、電子版の雑誌だったりするわけです。

現状、(紙の)雑誌ほどのポテンシャルを持ったウェブサイトは、私には見つけられていません。
先述したように、「FOOL'S MATE」などはアーティストからも信頼を置かれ、掲載される側もこだわりを持つような雑誌です。
(「FOOL'S MATEだから言いますが、」というインタビューを何度も読んだことがあります。)

数多ある(だろう)「音楽情報サイト」たちの中で、それほどの存在になっているものがどれだけあるのか私にはわかりませんが、少なくとも、私が紙の雑誌程度の満足を得られるようなところには、いまだ出会えていません。

あるいは、ウェブサイトは基本的に無料で読めるのが問題なのかもしれません。
その意味では、「cakes(ケイクス)」のような仕組みで音楽情報を発信できるような場所があると、良さそうな気がします。

それから、雑誌の電子版についてです。
アプローチには、
  • 紙で刊行されている雑誌を電子化
  • 電子版オリジナルの雑誌
の二つがあるでしょう。

前者に関しては、ぜひ電子化が進んでほしい、としか私には言えません。残念ながら、私が読みたい雑誌で電子版が販売されているものは見つかりませんでした。今後に期待です。

後者については、最近「ERIS」という電子の雑誌を知り、購読を申し込みました。

音楽雑誌「エリス」 | 音楽は一生かけて楽しもう

無料で購読できますので、音楽好きの方はチェックしてみると良いかもしれません。私もこれから読みます。楽しみです。

とはいえ、無料ではなかなか続けるのも大変な気がしますし、ここはひとつ、有料で良質な電子版雑誌が登場してくるのに期待したいと思います。


終わりに


こうして見ると、まだまだ情報が足りていない部分はたくさんあるのだなと、改めて思います。

2012年12月24日月曜日

気持ちは負けているのに

Clip to Evernote
ことわざで、「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」というものがありますが、常々、これほど言いにくいことわざが他にあるだろうかと思っています。私の抱く、ことわざとは語呂が良くて言いやすいものである、とのイメージに適合しないのです。
もし対抗馬を挙げるとするなら、「青は藍より出でて藍より青し」で間違いないでしょう。私の中では、この二つが非常に強いです。
もちろん、「色即是空、空即是色」などが言いにくいのは明らかではあるものの、私の感覚では、なんとなくそれは対象外になっていたりします。

ところで、ことわざで思い出しましたが、「花いちもんめ」という遊びがあります。

はないちもんめ - Wikipedia

おそらく、多くの方がご存じのものと思います。
すごく大雑把に言うと、二つのチームの間を人が動いていき、どちらかのチームの人がいなくなると終了になる遊びです。上記のリンク先によると、地域によってかなりバリエーションがあるようですが、基本的なルールには差はないはずだとして、話を進めます。

私は幼い頃、この「花いちもんめ」の遊びが苦手でしかたありませんでした。小学校の低学年、あるいは小学校に入学する以前のことだったでしょうか。休み時間に「花いちもんめ」を始める流れになると、とても憂鬱だったことを思い出します。いえ、当時は「憂鬱」などという字は書けませんでしたので、「とても憂鬱だった」は嘘になります。だいたいそのような感情、くらいにしておきます。

私が「花いちもんめ」を苦手に感じていた理由は明らかです。
この遊びは、両チームの人がいろいろと入れ替わることで進行していき、最後の一人がいなくなった時点で終了となります。直感的に、誰もいなくなった方のチームが負けになるわけです。
ですが、「誰もいなくなったチームが負け」なのですから、「負けて、残念だ」と思う人は結局誰もいなくなります。勝ち負けを決めたはずなのに、負けた人がいないのです。

とはいえ、負ける人がいないだけでしたら、そういうものだと思えばさほど気になりません。

問題なのは、後ほど負ける側のチームにしばらくいて、終盤に、勝つ方のチームに移動してきた人の気持ちです。
極端に言えば、負けチームの最後の一人になって、自分がじゃんけんで負けたためにゲームが終了となった人のことです。

最後の一人であろうと、初めからずっと負け側のチームにいようと、さらにはその負け側チームにどれほど思い入れがあろうと、その彼(彼女)は最終的には勝ちチームのメンバとしてゲーム終了を迎えるわけです。

つまり、彼(彼女)は勝者であり、喜ぶべき立場になります。

私が苦手だったのは、この部分です。
私は、負けたのだから素直に悔しがりたいと感じていました。心情としてはどう考えても「負け」なのに、「勝った」ような顔をして周囲の人と喜びを分かち合わなくてはいけないのです。

要するに、負け側のチームにいた人はどこかで一度は所属を変えていますので、自分がどちらのチームにいるのかはっきりしなくなってくるのです。

これがもし、例えば「ずっとチームを移動しなかったら勝ち」などといった、もう少し「チームへの所属感」があるようなルールになっていたら、私の苦手意識もなかったはずです。
(この例だと別の問題が発生しそうですが、あくまで例です。)

この例のような構図なら、いくつかの場所で見かけることがあります。
「経済の奇跡」の頃の西ドイツがトルコなどから労働者を呼んでいた様子などが、ちょうどこれに重なるでしょうか。

しかし、「花いちもんめ」はそれよりさらに複雑になるのです。
勝った方のチームにずっといたように見えても、実はゲーム序盤で移動していたのかもしれません。二度、三度と移動していることも考えられるでしょう。
私には今のところ、この状況を見いだせそうな他の場所が思いつきません。

無理矢理やろうとすれば、例えば、本当は負けているのに、勝ったような顔をして喜ばなくてはいけないというところから、自分の気持ちにそぐわなくても周囲に合わせなければいけないこともあると、ここで学ぶのかもしれません。

これはあまり楽しくない解釈です。

前向きに考えるなら、例えば、どこに属するかはさほど重要なことではないこと、属する場所は変わっても構わないことが学べるでしょうか。
こちらは(「前向き」の定義にもよりますが)、どちらかと言えば前向きな見方と呼べなくもありません。

ただもちろん、「花いちもんめ」から無理に何かを読みとる必要はまったくありません。多くの方にとっては、別に放っておけば良いことです。
ですが、私の場合は幼い頃にそれで苦労をしていますので、せめてそこから何かを学んだことにでもしないと、納得がいかないわけです。

今のところはこれといった解釈が思いつきませんが、何とかこじつけてでも、学べたことを見つけてみます。

ことわざで言うと、「鰯の頭も信心から」です。
私の好きなことわざの一つです。


終わりに


そして、大変言いやすいことわざです。

2012年12月23日日曜日

紙のような書籍

Clip to Evernote
先日、ソニーの電子書籍端末「Reader PRS-T2」を購入したとのエントリを書きました。それからしばらく経っていますが、これまでのところ非常に気分良く使えています。
私にとって、俗に言う「電子インク」で文字を読むのは初めての経験になりますが、ひょっとすると紙よりも紙らしいのではないかと思うほど、違和感なく読書することができています。

こちらの記事で、次のような言及がありました。

紙書籍・電子書籍関連の気になるニュースまとめ(12月10日~12月16日) - 見て歩く者 by 鷹野凌 -
汎用端末だと、例えばメールのお知らせやらなんやらで、本への没入を妨げられてしまうという感じがします。専用端末だとめっちゃ読書が捗る。だからやっぱり、専用端末は「本読みのための端末」なんだと思います。
読書に集中できるため、本を読む人ほど、(タブレット等ではなく)電子書籍専用端末を買うのが良いだろう、との意見になっています。
本エントリでは、私もその意見について考えてみたいと思います。

もう少し正確に言うと、私も同様に「本好きの人ほどそれを利用するのが良い」と思っているのですが、その私なりの根拠を明らかにするつもりです。

今回はそんな話です。


専用端末


今より少し前の時代には、電子書籍について、ある主張を目にすることがよくありました。
それは、電子書籍では「そこにモノがある」との実感が得られない、ひいては読書の楽しみを感じられない、といった趣旨のものです。
さすがに、近頃はそのような話を聞くこともなくなりましたが、ある短い期間には、私もそのように考えていたこともありました。

私の場合、その考えはいつの間にかなくなって、電子書籍を支持するようになりました。つまり、別に「モノがある実感」がなくても、読書は楽しめたというわけです。

しかし、この度はそれに加えて、また違う感情を持つようになりました。
私は、電子書籍専用端末を使い始めてから、電子書籍に対しても「モノがある実感」を覚えてきているのです。

これについては、ある重要な指摘があります。

『街場の文体論』との書籍に、次のような文章があります。
引用いたします。

街場の文体論(内田樹)
電子書籍は「買い置き」をしておく必要がない。読みたいと思えば、いつでも買える。電子書籍では「積ん読」ということが起こらない。そんな必要ないから。
電子書籍と紙の書籍を比較した箇所からの一文です。
電子書籍の制度からして、そこでは、買った本が読まれずに置いておかれるということが発生しないと述べられています。

私が言及したいのはこの部分です。
というのも、引用のような納得のいく主張があるにも関わらず、私は現状、電子書籍での積ん読が発生しているのです。

このことを考えたときに、少し上で述べた考えに至りました。つまり、私は電子書籍に対しても(紙に対してのそれと類似の)「モノとのしての実感」を感じていることに、です。
すなわちこのことは、私が電子書籍での「積ん読」を発生させていることが、『街場の文体論』で展開されている論を否定する類のものではないことが言えます。『街場の文体論』で「電子は、紙は、」との分類をはっきりさせて話が進んでいる一方、私にとってはその境界が少なくなって、「紙」の話が「電子」にも当てはまってしまっているのです。

これによれば、電子書籍の「積ん読」が起こる理由は、基本的には紙でのそれと同じものが使いまわせるわけです。
それは、本を買うときの私と読むときの私が別人だからかもしれません。あるいは、数字的に絶対に読み切れないほどの本を買っているためかもしれません。きっと他にもいろいろあることでしょう。

話は逸れますが、「別人」に関して、下記のような記事を読みました。引用いたします。

ライフハック心理学 » 別人問題は同一人物問題
たとえば早朝になると決まって同じ「やつ」が現れて、一昨日と昨日と同じく今日も「二度寝したい!」といって聞かないわけです。しかもこの「二度寝したいやつ」はいつも決まって早朝だけに現れるのかもしれません。
大変興味深く感じました。
こちらのお話に則れば、「本を選ぶときに決まって登場してくる私」と「本を読むときに決まって登場してくる私」がいるわけです。

私の場合は、この二人はわりと仲が良く、考え方もだいたい同じ方角を向いているように思います。多少「本を選ぶ私」の方が自分の使える時間を多く見積もってしまうきらいがありますが、それも許容範囲と言える程度です。
結果として、私の「積ん読」はそれほどの量には至らずに済んでいるのかもしれません。

話を戻します。
私が電子書籍にも「モノとしての実感」を感じ、紙の書籍との境界が小さくなってきたために、電子書籍でも「積ん読」が発生しているとの話でした。

ですが、ここにはある重要な条件があります。

私が電子書籍に対して「モノとしての実感」を感じるのは、今のところ電子書籍専用端末に格納されているものだけなのです。
ソニーのReaderを使用し始める以前にも、私はiOSのアプリから電子書籍を購入して読むことが幾度かあり、またそれらはいまだに私のiOS端末に保存されていますが、そこではそういった実感を得ることはありません。
ここでの差異をもたらしているものは自分でもわかりませんし、その感覚は時とともに変わっていくようにも思います。とりあえず、現状ではこのとおりです。

そして、冒頭の話に戻ります。
私にとって、「本好きの人ほど電子書籍専用端末を買うのが良い」のは、購入した書籍に対して「モノとしての実感」が得られるためなのです。


終わりに


それにしても、「紙の書籍」とは味わい深い日本語です。

2012年12月18日火曜日

「デザインするメモ帳」概観

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。

「超」文具HACKS!: DIME×abrAsus デザインするメモ帳開封の儀

「デザインするメモ帳」という製品のレビューがされています。
商品ページはこちらになります。

[DIME×abrAsus]デザインするメモ帳|小学館PALSHOP

こちらの記事も参考になります。

「超」文具HACKS!: 2012年12月の #筆箱定点観測

私は、一つめの記事を読んだ瞬間から、この「デザインするメモ帳」が欲しくてたまらなくなりました。
寝ても覚めても「デザインするメモ帳」のことが頭から離れず、少しでも情報を集めようと、暇さえあればキーワード検索を試みていました。

ところが、関連する情報がさっぱり見つからないのです。
まだ発売して間もないからなのか、私の探し方が悪いのか、原因ははっきりしませんが、とにかく見つかりませんでした。

ここで思い出したのは、こちらの記事です。

シゴタノ! ネットにはまだまだ情報が足りないと思うからもっといっぱい情報が溢れると嬉しいって話

引用いたします。
ちょいと考えてみると、まだまだ「ネットで見つからない」ことなんて世の中にいくらでも存在しています。 
インターネット上にはもはや既に「無限」の情報があるんだけど、それでもまだまだ「足りない」と思ってます。
今回、このことを身をもって知りました。

さて、ふと考えをめぐらせると、情報を探すことに費やしている時間が、そろそろ無視できない程度になってきていることに気づきました。

これに気づいてしまうと、購入を思いとどまるのが難しくなってきます。

いろいろ言いましたが、先日「デザインするメモ帳」を購入しましたので、本エントリではそれをご紹介いたします。

外観は上の写真のようになっています。
外観そのものは、冒頭でご紹介した商品ページでも確認できますが、手で持ったサイズ感が伝わればと思い、写真を撮ってみました。いわゆる、手帳サイズになるかと思います。

そして、実際に、中に文房具類を配置した様子が次の写真になります。


モレスキンのポケットサイズをメインに据え、必要なものを周辺に配置した形になりました。

左上に見える丸いものはマスキングテープです。マスキングテープはゴムバンドで固定しないようにしました(次の写真も参照していただけるとわかりやすいと思います)。
同じく左上に見える白くて四角いものは、名刺サイズの情報カードです。こちらはゴムバンドで留めています。
モレスキンの左手には、ジェットストリーム4+1(0.7mm)と、ジェットストリーム黒(0.5mm)をセットしています。
モレスキンに隠れて見えるのは、『日経ビジネスアソシエ』(2012年11月号)の付録である、付箋ケースです。
そしてモレスキンの右手には、No11.とNo.10のロディアをそれぞれ配置しています。上部にあるNo.11のロディアは、メモ帳をはさむ箇所に差し込んでいます。
一方のNo.10のロディアは(一応「メモ用スリット」なる箇所に挟んではいますが、)マスキングテープで固定しています。上の写真からは読み取れませんが、「デザインするメモ帳」自体にNo.10のロディアをきちんと固定できるようなものはありませんので、そこはご注意いただきたいです。

モレスキンは、次の写真のように、表紙部分をゴムバンドで固定しています。


ゴムバンドに固定したままだと下がでこぼこしますが、ハードカバーのモレスキンですので、まったく問題なく書くことができます。
もちろん、モレスキンを横に引き抜いて使うこともできます。
また、マスキングテープはこのように自由に動かせるようにしています。

私の使い方については以上です。ちなみに、ゴムバンド等は私は何本も余っています。


使ってみて


一週間ほど、この「デザインするメモ帳」を使用しています。

多くの方と同様に、私も、一冊のノートだけでは様々な作業を進めることができません。そのため、こまごまとしたものをたくさん持ち運ぶ必要が出てしまうわけですが、その際に「デザインするメモ帳」は非常に都合が良いです。

これ一つ持ち歩いて、ぱっと開けば自分の作業空間が一瞬で構築でき、ぱたんと閉じれば片付ける手間もかかりません。
今のところ、とても気に入って使っています。

以前のエントリで、ポメラとSony Readerで何か「揃った」気がする、といったことを書きましたが、「デザインするメモ帳」を手に入れてみて、そこには手書きのノート類がなかったことに気づきました。

これで、完全に揃ったと思います。


終わりに


「作業空間が持ち運べること」にときめくのは、どういった感情なのでしょう。
まったくの想像ですが、これはわりと普遍的なものなのではと思っています。

2012年12月17日月曜日

Yはロジカルでない

Clip to Evernote
有名だと思っていたのですが、あまり目にすることがないのでひょっとするとそうでもないのかもしれない、という話があります。
せっかくですので、それが有名でないものとして、本エントリで説明を試みてみます。さしあたって、この話が私のオリジナルでないことを表明しておきます。

選択と、世界の分岐についての話です。

話には、背理法が用いられます。

前提はこうです。
「世界がはじめ一本線で進んでいたとき、ある選択を境に世界は分岐する」、さらには「仮にA、Bという選択があったとするなら、Aを選んだ世界とBを選んだ世界に分岐する」です。

もう少し細かくすると、A、Bの選択肢はどちらか一方しか選べませんので、(ここでAを選んだなら)「Aを選んだ世界」と「Bを選んだとしたら発生していたはずの世界」の二つに分岐して、Bの方は想像するしかない、との話になります。

平たく言うなら、何かしらの選択をしたとして、「あのときあっちを選んでいれば、ああだったのになあ」と嘆いているような状況です。

だいたい、状況はつかんでいただけたかと思います。ここまでが前提です。
そして、背理法ですので、この前提に従って話を進めると妙なことになるわけです。

一本線で進んでいた世界が分岐するわけですので、アルファベットの "Y" の字を使って説明するのが良いでしょう。 "Y" の下から上に向かって時間が進んでいき、二股に線が分かれるあたりで何かの選択があって、そこから世界が分岐するわけです。
「コーヒーを飲もうか、紅茶を飲もうか」との選択を迫られたとすれば、「コーヒーを飲んだ世界」と「紅茶を飲んだ世界」に分岐するはずだということです。なお、以降はコーヒーを飲むことを選択したとして進めます。

ここで、 "Y" の字のちょうど分岐点上では、まだ世界は分岐していないことを確認しておきます。分岐するのは、分岐点を過ぎてからであり、この分岐点上で何かが起こったわけです。
当たり前のようですが、重要な確認です。

問題なのは、その点で起こったことは何か、です。

分岐点の上で、「コーヒーを飲むという選択」が起こっているはずはありません。点の上ではまだ世界は分岐していないのですから、その時点ではコーヒーも紅茶も選んでいないはずです。
「コーヒーを飲むという選択」は、 "Y" の線が分かれた後のどちらかの線上にあるわけです。言うなればコーヒールート上です。

であるなら、分岐をもたらしているのは、まさに分岐点で起こっているのは、何でしょうか。
「コーヒーを飲むという選択をするという決断」でしょうか。しかし、それもすでにコーヒールートに入ってしまっています。
以降、選択に至る過程をどんなに細かくしていっても、ちょうど分岐点の上で起こっていることは明らかになりません。

あと取り得る可能性としては、「コーヒーを飲むという選択」が分岐点よりも前にあるパターンだけです。
ですが、これが良くないのは明らかです。分岐点より前はまだ世界が分岐していませんので、コーヒーも紅茶も選択されないのです。

ここまでで、場合はほぼ尽くしたかと思います。

これを満たすような解釈は、現状二つしかありません。

一つは、はじめから書いていますとおり、背理法を用いるパターンです。つまり、すべての場合で矛盾が生じたため、前提である「ある選択によって世界が分岐する」が誤りであったとするわけです。
これはすなわち、世界はずっと分岐などしなくて、別の選択をしていればあり得たかもしれない世界など、決して存在しないことになります。

もう一つは、少し上に書いた「分岐点上で起こったことは何か」に着目するパターンです。先ほどは「分岐点上」で発生したことが判然としないために、論理が破綻に至っていました。
これを成立させる解釈は、世界を分岐させる点の上では何も起こっていない、というものです。
ここでは、分岐した別の世界が存在することは否定しませんが、そちらのルートに入らなかったのは「自分が紅茶を選ばなかった」ためではまったくなく、単なる偶然であることになります。
自分の選択は、自分の未来を決定していないわけです。

まとめると、論理的な結論として、二つの言明に行き当たりました。
  • はじめからおわりまで、世界は一本線しかない
  • 分岐したとしても、それを分けたのは偶然であって選択ではない
直感には反しますが、論理的にはこう言わざるを得ないわけです。

とはいえ、それはそれとして、私たちはこの言明をどう受け止めるかを考えることができます。

個人的には、上の二つの言明はわりと悪くないと感じます。
この話があるから、何か決断しなければならないときに、(もちろん良い選択のために努力はしますが、)過度に悩まずにいられるのです。

逆に、これらの言明を悲観的にとらえる方もいらっしゃることでしょう。

ただ、生きていく上で、論理がどんなに違うと言っても、直感の方に従ってしまって構わないことはたくさんあります。たぶん、論理的であることがすごく偉いわけではないだろうと、私は思うのです。

論理的でも、そうでなくても良くて、そこには選択の余地があるわけです。


終わりに


せっかくですので、今日は紅茶を飲む選択をしようと思います。

2012年12月16日日曜日

十年も続くこと

Clip to Evernote
今から十年ほど前に、当時から音楽が好きだった私は、ある主張をどこかで目にしました。
それは「ボーカリストがどんなに感情をこめて歌っても、それが作詞家などの本人以外による作詞であるなら、説得力という意味では、自分で作詞して歌うボーカリストには絶対に及ばない」といった趣旨のものです。

こと「歌とその歌詞」の関係に限れば、私の気持ちは十年前から一貫して「そんなことはないだろう」です。
つまり、他の人が作った歌詞を歌う人が、負けないくらいの説得力を備えていることはそう珍しくなくあると思うわけです。もう少し言うなら、歌の説得力の有無は、歌う人が作詞したかどうかには特に依存していないような気もするのです。
(音楽に説得力が必要かどうかは、また別の話であるとしておきます。)

歌に関しては、私の中ではここまでの話で納得いっています。
他方で、冒頭の説得力に関する主張は、さらに大きな問いかけを私に与えることになりました。
すなわちそれが、「当事者」と「説得力」の関係についてです。

今回はそんな話です。


当事者と説得力


この、「当事者と説得力」との言葉が指しそうな範囲はかなり広くなりそうですので、上述の歌と歌詞の話のように、例を挙げることにします。その場合、まずは「説得力」との言葉を定義する必要があるのでしょうが、今回は気にせず始めてしまいます。

ビジネス書を読むときのことです。
以前、「作家ではなく、成功した社長などが自身の体験をもとにして書いたビジネス書を読むことにしている。その方が説得力があるからだ」との主張を目にしたことがあります。
これを見たとき、私にはそのような視点で本を選ぶ発想がまったくありませんでしたので、とても驚いたことを思い出します。そして、確かに筋は通っており、なるほどとも思いました。

しかし、ここで疑問がわいてきました。
「成功した社長が書いた文章の方が説得力がある」との主張を、どうして私は「筋が通っている」と思ったのでしょうか。

その主張を受けてここで真に考えるべきは、文章により説得力があるのは社長と作家のどちらなのだろうか、になることでしょう。「その方が説得力があるからだ」と言われているわけですので、本当にそうなのかを考えるのが自然な流れになるわけです。
(例によって、そもそも本の文章に説得力が必要かどうかはまた別の話です。)

ですが私は、そこにたどり着く前に、別のところで立ち止まってしまいました。
私が何をもってそれを「筋が通っている」と感じたのか、疑問なのです。これはもう、完全に個人的な話ですが、これを明らかにしないと本題に入れませんし、とても大事な疑問である気もします。

この疑問はつまり、「説得力の所在が、どこであるように思えるのか」と言い換えることができます。「説得力の所在はどこか」ではなく、「どこにあるように思えるのか」、あるいは「どこにあることにするのが直感に反さないか」です。
これはちょうど、冒頭の歌と歌詞の話に対応するかもしれません。

ここでの答えとしては「自身の体験をもとにして、自分の言葉で語っていること」で間違いないと思います。語ることが自身の体験に基づいているとき、その言葉は説得力があることにすると、直感に反しません。

しかしながら、もう少しよく見てみると、これは妙な話に思えます。

一つ考えてみたいのが、社長が書いたことが明らかになっていない状態で文章だけを見たとき、説得力に変化はあるかということです。誰が書いたのかわからない文章を、ぱっと見せられたような状況を想像していただければよいでしょう。その状態であっても、その文章は社長が自身の体験に基づいて書いたものであることに変わりはありません。

こう言うからには、私の意見は「説得力の有無に変化がある」で、しかもそれは小さくなる方に変化すると思うのです。この話は、歌と歌詞の話にも同じように当てはまることでしょう。

ここまでで、自身の体験をもとにした文章だからといって、必ずしも説得力があるわけではないことが明らかにできたでしょうか。少なくとも、私がそう思っていることだけは言えたと思います。

これは裏を返せば、説得力を持つために自身の体験は必須ではないとも言えます。
残念ながら、結局、説得力を持つために必要なものについてまで、すなわちビジネス書作家の説得力についてまでは行き着きませんでしたが、個人的には悪くない結論になりました。

当事者でないことだからといって、説得力が生まれないわけではないのです。

さて、はじめの方で述べたとおり、この「当事者と説得力」が指す物事の範囲は大変に広くあります。ここまで述べてきたビジネス書の話も、ほんの一例です。
そのため、すぐ上の一文は、私の中で非常にたくさんの意味を含んでいたりします。

それから、私は説得力とはまったく別の理由から、社長が書いたような本を読むことがほぼありませんので、ものの見方が偏っている可能性は否定できません。

大雑把なことを言うなら、私は作家さんが書く本の方が好きです。


終わりに


本エントリを一歩引いて見ると、実は何も言っていなかったりします。
ですが、これをお読みいただいた方が、説得力の所在について少しでも思いを馳せることになるなら、私は嬉しく思います。

私にとってはもう十年来の疑問ですので、簡単に結論が出ない、難しい話なのです。

2012年12月14日金曜日

熱くなる心の冷静

Clip to Evernote
少し前になってしまいましたが、こちらの記事を読みました。

僕の憧れのギターヒーロー5人紹介します #mycoolGuitarist | delaymania

記事タイトルのとおり、「憧れのギターヒーロー」が紹介されています。

さて、本ブログの右上部分には「シンセサイザー」や「テクノ」との言葉が掲げてあるものの、ギターヒーローに熱くなる心なら私も持ち合わせています。

ですので、本エントリでは私の憧れのギタリストをご紹介させていただこうと思います。

今回はそんな話です。


ギタリスト


早速紹介していきます。ちなみに敬称略です。
また、各人のすごさがよく伝わるような楽曲も一つ選んでいくことにします。

***

Ruiza (D)

一人めは、DのRuizaです。
「メタル寄りのソロ」とはこのRuizaを評してよく言われることで、実際、ヴィジュアル系らしいハードロックな曲調からメタルなソロに繋ぐ様は圧巻です。
それに加え、Dは楽曲の触れ幅がかなり広くなっており、そのすべてを当然のように牽引しているのは、本当に驚きです。

一曲は、「闇の国のアリス」を選びます。

D - 闇の国のアリス (Yami no Kuni no Alice) PV - YouTube

リフの重さと、ソロへの展開が素晴らしいです。

***

招鬼、狩姦 (陰陽座)

いきなり二人同時紹介になってしまいました。しかし、どんなに悩んでも一人ずつの紹介ができなかったのです。陰陽座はメタルバンドということもあり、ユニゾンやソロの受け渡しが多いこともその理由でしょうか。

正しいのかはわかりませんが、何となく、招鬼はダブルネックギター、狩姦はライトハンド奏法のイメージがあります。あくまでイメージです。

一曲は、「組曲「九尾」~玉藻前」を選びます。

陰陽座 - 組曲「九尾」~玉藻前(Audio Only) HQ Sound - YouTube

もっと派手なツインギターが炸裂する曲は他にたくさんありますが、私はこの曲のギターが大好きです。
特に、リフ(おそらく招鬼)と、ラストのサビの後ろで暴れるギター(おそらく狩姦)と、そこから再度リフに受け渡される箇所が、個人的には聞きどころです。

***

ユアナ (boogieman、蜉蝣)

元蜉蝣で、現在はboogiemanのユアナです。
私は長いこと蜉蝣のファンですので、「蜉蝣のユアナ」のイメージが強いです。もちろんboogiemanも大好きなバンドですので、単に期間の問題でしょう。

ユアナは、ここまでに挙げたギタリストとは系統が異なり、あまり派手なソロを弾いたりはしません。そのため、「ギターヒーロー」の語感からは離れるようにも思います。

一歩下がるところは下がる、といった感じです。
蜉蝣はギター一本編成のバンドですので、そうして、少ない音で全体を聞かせています。ヴォーカルを立たせる意図もあることでしょう。
boogiemanはギター二本編成ですが、やはり爆音のリフを重ねたりせず、二本で絡みながら全体を形作ります。
どちらにせよ、随所に「凄いなあ」とため息の出るようなプレイを挟み込んできます。

一曲は、蜉蝣から「黒髪のアイツ」を選びます。

Kagerou - Kurokami no aitsu - YouTube

ヴォーカルとの兼ね合いが見事です。

余談ですが、久しぶりに動いている大佑を見たら泣きそうになりました。

***

ナオ (heidi.)

最後は、heidi.のナオです。
heidi.もギター一本編成であり、しかも、音使いや曲調でわかりやすくバリエーションをつけることが少ないバンドです。
それらが「似たような曲」になっていないのは、ナオの力が大きいと思います。
音色や編成に制限される中で、様々なリフやフレーズのアイデアが飛び出してくるのです。

昔どこかのインタビューで、ナオは音作りをエフェクターに頼らず、ギターとアンプの調整でやっている、との話を目にしました。
昔の記憶ですので真偽のほどは定かではありませんが、しかし、ナオのプレイの様子がよく伝わる話だと思います。そういうギタリストだ、ということです。

一曲は、「シンクロ」を選びます。

[PV] heidi. - Synchro - YouTube

超絶テクニックではないかもしれませんが、珠玉のリフとフレーズです。


終わりに


「ギターヒーローに熱くなる心」と言って本エントリを始めましたが、後半は、冷静に一歩引いて全体をデザインできるギタリストの話になってしまいました。
どちらも好きです。

2012年12月9日日曜日

千年も後のこと

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。

7年使える「セブンイヤーボールペン」なら"ありがとう"が43435回書ける : ライフハッカー[日本版]

43435回も、「ありがとう」と書けるようです。

まず、私はこの記事のタイトルを見たとき、「43435だと…5で割ったらおしまいかな」と思いました。おしまい、というのはつまり、5以外の数では割れない、あるいは5で割った後は他の数で割れない、との意味です。
もちろん、前者はそのまま約数の話ですから、5と対になる数でも割れることになります。今回で言うと8687です。ですが、記事タイトルを見たときに「おお、43435は8687で割れるな」とは思いませんでしたので、先の「5以外の数では割れない」との表現になっています。

3で割れないことはすぐにわかりますので、5以外は厳しいのかな、と思うわけです。

そして、記事を読んでいくと、次のようなことが書いてありました。
文字の長さを定規で測ってみると約10cm。つまり1日17回、7年間で43435回くらいの「ありがとう」になります(曲線も含むので、あくまでだいたいですけれど)。
驚きました。
これはつまり、43435は7でも17でも、さらには365でも割れたということです。
自分の考えの至らなさに気づかされましたが、それと同時に、素因数分解の難しさも感じました。

ここでの「難しい」は、日常で使うそれとは少し趣が違い、「構造的に困難である」といった意味です。平たく言えば、「どうしようもない」「がんばってもどうにもならない」とでもなるでしょう。
(正確には「がんばるしかない」かもしれません。)

数学、広く言えば理系にはこういった、日常の言葉なのに、その意味しているところが少し異なっているようなことがたまにあります。この世界に興味のない人でも、その「言葉の意味が違って面白い」くらいは感じてもらえると良いなと、常々思っています。
別に面白くなくても、ある人がある言葉で伝えようとしたことが、受け取る側で違ってとらえられることはよくある話ですので、注意は要るかもしれません。

さて、日常といえば、私たちの日々の生活は素因数分解が難しいおかげで成り立っています。
それが何のことかをここで述べるのはとても大変ですので省略しますが(私も調査の必要があります)、ここでは、暗号の話です、とだけ言っておきます。

素因数分解ですとか、その周辺のことを研究する分野は、整数論(数論)と呼ばれます。その名の通り、数の様々な関係についてが研究され、かなり歴史のある分野です。

他方、暗号を研究する分野も、整数論とは別にあります。
こちらも歴史のある分野ですが、少なくとも、整数論の知識が絡んできそうなときには、すでに整数論はありました。
要するに、暗号論では整数論の知識を流用できる状況にあったわけです。

この部分に、一つ有名な話があります。

整数論は長い間、何の役にも立たない分野として有名でした。ただ面白いからやっているだけ、な研究の代表だったのです。

ですが、整数論の研究がたくさん進んだ頃、その知識が暗号論で活かせることがわかりました。上でも述べたとおり、それは現在の私たちの生活を強く支える知識です。
つまり、役に立たない研究の筆頭だった整数論が、なくてはならない研究に突如変身したのです。

非常に興味深い話です。
何より一番気になるのは、自分たちの研究に実用性があると知ったとき、整数論の人たちは嬉しかったのだろうか、とのことです。
直感的に言えば、嬉しくないはずはありません。自分たちの研究が、世界のためになるのが判明したわけです。私には想像しがたい衝撃があったと思います。

しかし、整数論の研究とは、ともすると紀元前からあるような代物です。一方の暗号論はというと、整数論が明確に関係しだしたのはせいぜい1970年代頃でしょうか(暗号論自体はもっと昔からあります)。
当然「自分の研究が世界の役に立った」ことを知らないまま亡くなってしまった研究者も数多くいるわけです。

ここに、私は語る言葉を持ちません。
具体的に学べることもありません。

例えば、「一生懸命やっていれば、今はわからなくても、いつかは何かの役に立つ」ことが学べるかもしれません。
ですが今回の話では、「一生懸命やる」も「いつかは」も「何かの」も、想像を絶するレベルのものです。
研究者は人生を賭けて整数論を研究していますし、役に立ったのは1000年も後ですし、役に立った対象は世界の人々なわけです。

そんな研究者たちは、自分たちの研究が役に立つと知って、どれほど嬉しかったのでしょう。あるいは、嬉しくなかったのでしょうか。知らずに亡くなっていった研究者は、それを知ったらやはり嬉しかったのでしょうか。

私には、思いを馳せることしかできません。

ただ、一つ言えることがあります。
本エントリは、理系のある狭い分野のお話でした。興味のない方も多いことでしょう。
しかし、ここで私が感じた言葉にならない感覚や、馳せる思いだけは、どんな人にも伝わってほしい、抱いてほしいと思いますし、そうであると嬉しいです。

とはいえ、人がそれをどのように感じるかを私が操作することはできませんので、(その努力は可能ではあるものの)「伝わってほしい」というのは単なるわがままではあります。

「どうしようもない」ことです。
つまり、「難しい」話です。


終わりに


7でも割れることはすぐに気づきそうなものですが、なぜか思いつきませんでした。

2012年12月8日土曜日

損する選択

Clip to Evernote
どうも、私がお金を使っている対象が、周囲の人にとっては不思議であることが多いようです。これは具体的には、モレスキンだとか、各種ガジェットだとか、音楽CDのことを指します。
私が観測する世界ではこういったものにお金を使うのは珍しくないために忘れてしまいがちですが、なるほど、それを不自然に思う人は当然いるわけです。
これは、私もまた他者のお金の使い方を不思議に思うことがあるということを思い出せば、何も驚くことはありません。

ここで取り上げたいのはそれではなく、先述の、周囲の人に不思議がられる過程で、「よくそんなにお金があるねえ」と言われることが幾度かあることについてです。
周囲の人が私をどのように見るかは自由ですので、そう言われること自体は別に問題はありません。
(客観的に見てそんなはずがないことは、一応明記しておきます。)

ですが実際には、何か好きなものがあって、それについて詳しいおかげでお金がかからないような状況は、とても頻繁にあります。

ガジェットの類を例にとります。ノートPCの話がわかりやすいでしょうか。
私は、自分がPCをたくさん使うような生活をしていないとわかっていますし、マシンのケアの仕方などもいくつか知識があります。そのため、安いものを購入し、それを長く使うことができます。
この点で、「よくわからないから家電量販店に並んでいるものを買う」ような人よりお金がかかっていないわけです。

iPhoneなどもそうです。
好きな人にとっては、次の機種の噂はよく目にするものですし、新しい機種が発表されたときに、型落ちになってしまったものがかなり安く(正規で)販売されることも、いつも情報を追いかけていれば知っていることです。
そこで、「いつごろに新機種が出るから、そこで現行のものを買おう」とすれば、お金がかかりません。

モバイルWi-Fiルータを契約してスマートフォンのデータ通信をなくす、といった話も同様でしょう。

ともかく、ガジェットが好きで詳しいおかげで、お金がかからないような状況はよくあるわけです。
今回は私の実例に沿わせたために「ガジェットとお金」になりましたが、もちろん、ここに入れて成り立つ定数はいくらでもあります。

外食が好きでいろんなお店に詳しければ、(安いのに)満足のいく食事をとることができるでしょう。
様々な交通機関に詳しければ、目的地まで早く到達できるかもしれません。

いずれにしても、知識があることで、より多くのメリットを得られる状況の話です。

ところが、私が本エントリで書きたいのは、それの良さではありません。

ここまでの話を元にすると、どんなことに対しても多くの知識を持っている方が良い人生が送れるように思えますし、確かにそのような面があることも否定しません。
ですが、私たちの周囲を見回したとき、より多くのメリットが得られそうな情報は、それこそ数え切れないほどあります。それらのひとつひとつについて十分な知識を手に入れ、メリットが得られる選択をきちんと行うことは、不可能です。

ですので、実際には、どこかに線を引いて「知識がなく、メリットが得られない選択」をあえてしていく必要があります。
ここには、「お金を節約できる以上に時間がかかってしまう」など理屈はいろいろあると思いますが、私は単純に「きりがないから」だと思っています。

これは、自分が損をしていることを受け入れる必要があるため、多少勇気の要ることです。
そうは言っても、周囲には「得をしそう」な情報がありすぎますので、仕方ありません。きりがないのです。

だからかどうかはわかりませんが、私は、誰かが知識がないために損をしている場面を目にしたとき、(一応その知識くらいは伝えても)得をする選択をするように言ったりはしません。
もちろん、その人がそれを知りたいのなら全力で教えます。ですが、きっとその人は、私が損をしているような他の場面では、私より良い選択肢を持っていることでしょう。単に、「きりがない情報」に対する線の引き方が違っただけなのです。

結論めいたことを書くなら、自分の大切にしたいことを明らかにしておく必要がある、とでもなるでしょうか。

ちなみに、私はここで情報を発信することが悪いということを意図してはいません。誰かが発信した情報は、きっとどこかの誰かの役に立ちます。それに、この「周囲に、得をしそうな情報が際限なくある」状況は、きっといつの時代もそうだったのだろうと想像します。

さて、ここまでをすべて踏まえた上で私が考えるのは、たぶん、良くない情報に対してもこの話は当てはまるのかもしれない、ということです。

こちらは難しい問題になりますので、あまり具体的に物を言うつもりはありませんし、自分の中でも答えが出ていません。

しかし、こちらについては、「自分の大切にしたいこと」が明らかになっている人はきっと少ないでしょう。
それでいて、こちらの方が、「自分の大切にしたいこと」が強く効いてくるのかもしれません。


終わりに


最後はすいぶんあいまいな書き方になってしまいました。
もう少し悩んでみます。

2012年12月2日日曜日

決めつけられてそんな気も

Clip to Evernote
俵万智さんの歌に、次のものがあります。
一年は短いけれど一日は長いと思っている誕生日
有名な歌でしょうか。

すごく大雑把に見たとき、この「一日は長く、一年は短い」という感覚はわりと普遍のものでしょう。多くの方がうなずけるものと思います。

感覚自体は普遍でも、それを「思っている」のが「誕生日」であることについては、大層考えさせられるものがあります。何とも、言葉にならないものを感じるのです。きっとこれは、「一日は長く、一年は短い」感覚に同意しておしまいの歌ではないのでしょう。そのあたりについては、私も思うところはたくさんあれど、ここには書き記さずにおきます。

この歌については、もうひとつ、気になる点があります。
それを明らかにするために、Hysteric Blue の「カクテル」という楽曲から、歌詞を引用させていただきます。
一日をこんなに長く感じるのに
一年がこんなに早く過ぎてしまう
一年をこんなに早く感じるのに
一生をどんなにうまく生きれるでしょう
一見すると、先の歌と同じことを表しているように思えます。つまり、「一日の長さ」と「一年の短さ」との対比です。

ただ、私は、この「カクテル」の歌詞の方が、より自然な感覚に近いと思っています。というのは、「一日を長く感じる」ことの方が、「一年を早く感じる」ことよりも日常に頻繁にあるためです。

そのため、「一日が長いのに、一年が早い」と考えることになるわけです。
一方で、冒頭の俵万智さんの歌の方はそうなっていません。先に、「一年は短いけれど」と思っているのです。
このことと、先述した「誕生日」のこととを重ねて見ると、やはり書き記しはしませんが、いろいろと思うものがあります。

俵万智さんの歌について(とりとめなく)考えるのはこれくらいにしますが、後に掲げた「カクテル」の歌詞にも、無視できない部分があります。
歌詞を引用した最後の行、「一生をどんなにうまく生きれるでしょう」です。

先にも書いたとおり、一日と一年の長さについて比較した様子はあちこちで見かけます。対して、そこから一生について思いを馳せているのは、なかなか目にすることはありませんし、自分でも考えることはそうありません。

言われてみれば、当然考えるはずのことではあります。
つまり、一年が何が何だかわからないまま猛スピードで流れてしまうものであるなら、一生はどのようなものになるのだろうか、とのことです。
それを考えていくと、もし「一生を良く生きたい」と思うのであれば、一年が早く感じるのはあまり良い傾向ではないような気がします。

一年をゆっくり進めることについては、例えばこちらの記事で言及されています。

加速し続ける毎日を劇的にスローダウンさせる方法 | Lifehacking.jp

こちらの記事ではいくつかの「時間をゆっくり進める方法」が述べられていますが、その一つとして「手帳と向かい合う」ということが登場しています。
象徴的な箇所を引用させていただきます。
忙しくても、記録する量に比例して時間は遅く感じられるようになり、過去を振り返っても毎年の出来事が豊かに感じられるようになります。つまり「思い出せることが多い」ほど、時間は遅く感じられるという原理にいきあたったのです。
記録の量が多くなると、時間をゆっくり進められるとのことです。
私も、これにはとても納得がいきます。
個人的な感覚ですが、目に見える記録が積み重なっていると、それがあたかも時間の流れそのもののように感じられてきます。そこから、「時間が過ぎ去ってしまっていない」と思えるようになるのです。

以上を踏まえて、自分の状況を振り返ってみます。

私は現状、「一年が早く過ぎてしまう」と感じません。これは実感としてもそうですし、積み重なった記録を確認してもそうです。
2012年の1月ははるか昔のことに思えます。そして、それからいろんな経験をしてきて、たくさんのことができるようになりました。

ほっとしました。
私は今のところ、一生を良く生きられそうです。少なくとも、そのスタートラインには立てているはずです。

さて、それはそれとして、一つ触れておきたいことがあります。

上で、記録の量が多いほど記憶が豊かになって、時間がゆっくり流れる、といった趣旨のことを言いましたが、まさに記録している瞬間のことを考えると、これは順番が逆です。
すなわち、先に物事が自分の頭を通過して、それを記録するはずなのです。決して「自分」がないところ(つまり、記憶がないところ)に記録があったりはしません。記録は自分がするものなのですから、当然です。

(だからこそ、「ライフスライス」といった概念は面白かったりします。)

とは言うものの、こういった順序の入れ替わりは、ライフハックあたりが好きな人にとってはよくあることであり、そして、触れておきたかったのはここです。
今は記憶がないのに、記録を見ることでそれが想起されてくるような状況はわりとよくあって、そこに考えが至ると、たぶんわずかながら毎日が楽しくなります。少なくとも、私はそうです。

もう少し広く言うなら、今の自分の中になくても、外から「こんなのあるよね?」と言われて出てくるようなことです。

それが記憶なら、きっと一生を良く生きることに繋がるはずです。


終わりに


いろいろ言いましたが、俵万智さんは、そこにも気づいておられたようです。
「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする

2012年12月1日土曜日

季節はずれのキショウブ

Clip to Evernote
このところ、とても寒くなってきました。
以前もどこかで書きましたが、私は寒いのが苦手です。
(冬は嫌いではありません。)

すると、毎日の生活の大変さとも相まって、この時期は一日一日を積み重ねていくことに苦労します。ちなみに、私の生活が人よりとても大変なわけではありません。誰もが、それなりに大変な毎日を送っていると思うのです。

特につらいのは朝です。
私の場合は、家を出て、歩いているときに最も寒さを感じます。寒さに耐えながら、そして今日の大変さを思いながら歩くのは、決して楽な作業ではありません。
きっと、多くの方にとっても同様でしょう。

しかし、私にはライフハックがあります。
さらに言うと、「私にはライフハックがある」と私は心から信じています。ですので、ライフハックを持ってくれば何とかなるはず、との想定のもとにものを考えられるのです。

このことは、良くもあれば、「すべてのものが釘に見える」のように悪くもあります。ここは忘れてはいけない部分ですが、それを言っていると話が先に進みませんので、ここでは良いものとしておきます。

話を戻すと、「憂鬱で寒くてメランコリックな朝をなんとかするライフハック」についてです。

そこで私が考えたのは、「斜め上を見て歩くこと」です。
そうすると、少し前向きな気持ちになって歩いていくことができます。

今回はそんな話です。


小さな


アシタノレシピ」とのブログメディアに、「小さく踏み出す!アシタノミニ処方箋」という連載があります。

小さく踏み出す!アシタノミニ処方箋

私はこちらの連載がとても好きです。

「簡単に試せるような小さな工夫を紹介」との言葉通り、確かに一つ一つは大したことのないものです。物事をうがって見るのが好きな人には(そんな人がいるかどうかはわかりませんが)、何の価値のないものに映ることでしょう。

少しだけ例示させていただくと、「入ったことのないお店に行ってみる」「席を離れる前にメモを書いてみる」といったものです。何か壮大な話が展開されるわけではありません。

しかし、それでいて、その一つ一つにまつわる話には納得させられますし、その上で実践してみるのも容易です。そして、納得して、信じて、実践してみると、たぶん毎日は良い方に変わっていきます。

ここで興味深いのは、たった今挙げた三つ、
  • 納得する
  • 信じる
  • 実践する
は順不同であることです。そして、気になるのは「信じる」の部分です。
どんな順番でも構わないので、どこかのタイミングで「信じる」が入ることで、きっと幸せがあると思うのです。

ちなみに、私は性格的に「信じやすい」ので、ライフハックの価値を大きく享受できるのかもしれません。逆に、私が先のように「毎日は良くなる!」と高らかに言えるのは、単に私が「信じやすい」だけなのかもしれません。

それでも、私は信じています。少し前向きになって、歩いていきます。

それから、同じ「アシタノレシピ」さんで、こちらの記事を読みました。

ある1つの仕事術を得た農夫の話。

とても感動しました。素晴らしかったです。

話としては、記事タイトルのとおり「ある一つの仕事術を得た農夫」にまつわる物語です。
もう少しだけご紹介させていただくと、
『これは、魔法のノートとペンなのです。このノートに、一日でやりたいことを書いてみてください。すると、紙に書いたことはその日のうちに終わるでしょう。』
という魔法にかかった農夫の物語です。

この物語も、一見すると「そんなにうまくいくはずがない」とも思えます。
記事の「あとがき」と題された節にも、
それだけで、君の今日は変わるからさ。
との言葉がありますが、そんなに簡単に「今日」が変わるはずがないようにも考えられます。

しかし、私が斜め上を見て歩いたら少し前向きになれて、今、それの価値を心から信じているように、先の記事の「ある一つの仕事術」で、本当に一日は良くなります。

ここには、少し前の話を伏線にして、重要なことが隠れています。

私が斜め上を見てみたのは、ほんの思いつきでした。
朝が寒くて、小さくなって歩いていたときに、もう少し上の方を見て歩いてみたらどうかと思ったのです。自分と世界の境目を、きちんと感じておこうと思ったこともあります。
そうしたら、思いのほか効果があって、それを信じるようになりました。

一方の「農夫の話」では、農夫が一つの仕事術を信じたのは、魔法の力によるものでした。つまり、効果を実感するより前に、信じていたのです。

これが伏線の回収に相当します。すなわち、順不同なのです。

そのため、私がここまで述べてきたことは決して、「信じれば、ライフハックには価値がある」といった話ではありません。乱暴に言ってしまえば、信じることは、ライフハックにとってそれほど重要ではありません。

とはいえ、せめてどこかのタイミングでは信じたいと私は思いますし、きっとその方が少し幸せになれると思うわけです。

これは、私が信じやすい性格であるため、それをなんとか正当化しようとしているとも解釈できます。
すると、私は物事をうがって見るのが好きな人なのかもしれません。


終わりに


キショウブは春の花ですので、季節はずれでした。

キショウブ 花言葉

私は信じる者です。