2013年12月30日月曜日

three albums of the year (2013版)

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2013年も、残すところあとわずかとなりました。
私は日常が好きですので、ここまで日常を積み重ねてくることができ、嬉しく思います。

変わり映えのない日々だったわけではありません。バンド「GARNET CROW」の楽曲「世界はまわると言うけれど」から言葉を借りれば、日々をつないでいくにも、それなりに意志というものが必要なのです。

それでも、抽象的なところでは、日常を重ねてくることができたように思います。

日常を重ねていくこととは、私にとっては、音楽と読書によって生きるということです。ずっと昔に決めたことです。

音楽というと、私は、アルバムの単位でのみ聴きます。
CDやダウンロードを問わず、ひとつの楽曲を購入することはありません。プレイリストやシャッフル機能を使うこともありません。
CDのフォーマットに合わせて音楽アルバムが作られることは、私がこの時代に生まれてよかったと思うことのひとつです。

そういうわけで、私は年に一度、素晴らしかった音楽アルバムを三枚選び出すことにしています。私が音楽によって生きているなら、それは自分を振り返る作業になるはずです。

アルバム名 / アーティスト名
で書きます。

***

R.I.P. / Actress

一枚めはこちらです。
2012年4月の発表だそうですので、ご存じの方は不思議に思われるでしょうか。私が2013年になってから購入し、聴いたということです。

テクノのアルバムです。
EDMが全盛となった本年にあって、ミニマルテクノの面影を残した一枚でした。EDMに傾倒する予定のない私には、心の支えです。

***

At Grand Gallery / Hirohisa Horie

二枚めはこちらです。
各所のサポートやメンバで忙しいキーボーディスト、堀江博久さんのソロアルバムです。

ジャンルは、ちょっと私にはわかりません。何となく、ソウルかエレクトロニックか、といったところです。

本エントリを書くにあたって、調べてみました。
下記のページに「ユーモアある最新型ストリート・ダンス・ミュージック」とあって、なるほどと思いました。うまく表しているように感じます。

Product : Grand Gallery

キーボードとシンセサイザーを好きな人にとっては、たまらないアルバムでしょう。これほどに鍵盤楽器の良い音に包まれる機会は、そうありません。

***

TRANSIT / Blu-Swing

三枚めはこちらです。

「Blu-Swing」も、ジャンルを説明するのに手間のかかるバンドです。ニュージャズ、クラブジャズ、シティポップ、といったあたりでしょうか。

軽やかで洒落ていて、楽しいアルバムです。

私は、こちらの方面にはあまり造詣が深くありません。この「TRANSIT」との出会いは、ふとしたことからでした。
自分の知らない素晴らしい音楽が、まだまだたくさんあることを思い知った一枚でもあります。


終わりに


せっかくですので、2013年に関係する音楽のことを、もう少し書き残しておきます。

本エントリの冒頭でもご紹介したバンド「GARNET CROW」が解散してしまいました。
私にとっては、ポップスとか J-POP などといったものの定義を、一から考え直さなければならない出来事です。

音楽電子雑誌の「ERIS」が、順調に刊を重ねています。

音楽雑誌「エリス」 | 音楽は一生かけて楽しもう

毎回、大変に興味深い内容が展開されています。

音楽雑誌の「サウンド&レコーディング・マガジン」が、iPad 版の刊行をはじめました。

サウンド&レコーディング・マガジン | リットーミュージック

サウンド&レコーディング・マガジン iPad版 | リットーミュージック

私が、ずっと、ほんとうにずっと購読していて、部屋のスペースの都合で泣く泣くあきらめた雑誌です。iPad 版がはじまると聞いて、どんなに嬉しかったことでしょう。

iPad 版の様子たるや、筆舌に尽くしがたい素晴らしさです。

電子書籍やWebのコンテンツを研究している方などは、一度、買ってみると良いかもしれません。
なんといいますか、これが未来かと思いました。

音楽については、このあたりにしておきます。

さて、これをお読みの皆さまも、そうでない皆さまも、一年間、私の好きな日常をありがとうございました。

こちらの記事は、いつも私の心に留まっているものです。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

「それぞれこの日常を少しずつ支えてくださっていることに感謝」して、終わりといたします。

2013年12月23日月曜日

あらゆる計画と実行で

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抽象的な議論でも、具体的な反例をもとにすることで、発展していくことができるようです。着実に、考えを進めていくことができます。数少ない有力な方針といっていいでしょう。

私はいろいろと、抽象的なことに興味を抱きます。長い期間にわたって、頭から離れない主題があります。

そういったことは、たいてい、文章の形に直しておくと、取り扱いがしやすくなります。

文章とか言葉といったものは、わりと抽象的なものではあります。いま相手にしたいのは抽象的な主題たちですので、それらにとってみれば、文章とは近いレイヤにあるものです。
もともと、抽象的な主題というものの多くが、文章の形をしているためかもしれません。

文章の形をしている抽象的な主題にとって、文章は抽象的ではないのです。
もとの抽象的な主題が文章でないことも、やはり多くあるでしょう。こちらには十分に注意されたいものです。

つかみどころのない話でしょうか。

このところ、ずっと考えていることを書きます。
私たちの世界には、設計という言葉があります。プロットがあります。予定と実績という考え方があります。チェックリストというものもあります。

共通して流れる思想を、これらからうかがうことができます。
物事は計画と実行という異なるフェーズを内包すること、さらに、実行は計画の通りには決してなされないことです。

世界には、そういった思想がおびただしくあります。あらゆる分野にあります。あまりにも普遍であるために、立ち止まることすらない人もありましょうか。予定と実績が一致しないことを前提として、その差異を測定しようとしている人々のことです。

私には、それほど自明なことと思えませんでした。どうして、計画と実行には差異があるのでしょうか。それも、この世界のあらゆる局面においてです。
何か、差異についての一般的な、形而上学的な原理があるように思えてなりません。端的に言えば、計画と実行に必ず差異が起きることの説明です。

はじめに、次のようなことに思いいたりました。

計画と実行との差異が、ただ一度の例外もなく、必ず生まれることなのだとします。実際、かなりもっともらしいことでしょう。

必然に起こることであるなら、そこには理由などないと考えても良さそうです。

場合によって成立したりしなかったりするのであれば、それぞれをもたらした理由を考察してみることができます。
いつでも成立するのなら、一切の理由なく、ただ厳然と存在していると考えられるのです。計画と実行とは、この世界に創造された瞬間に必ず不一致となるわけです。

ここまでは問題なさそうです。
計画と実行とは、存在した瞬間に必ず差異があって、それには理由などないのです。

それでは、発生した瞬間に計画と実行とに差異が生まれるのはなぜか、すべからく考察されるべきです。

この世に現れた瞬間から差異が生まれてしまうなら、それらは、まるで似ていないものと考えるのが自然なように思えます。
これは重要な気づきです。計画と実行とは、少しも似ていないのです。

決して一致せず、少しも似ていないとは、どういった状況になるのでしょう。

計画は、ふつう、文字の形をしています。表や絵のこともあります。総じて、紙の上に情報として表現できるような、そのあたりのレイヤに属しています。
実行は、人やものの動きです。紙の上のレイヤにはいません。

計画と実行とでは、もともとの存在の枠組みがまるで異なっています。生まれ出て、立脚するレイヤが違います。そうして、不一致となるわけです。

ひとつ、結論になりそうなものが出ました。

ところが、ここには反例を作ることができてしまいます。

計画に似せるように、実行を紙の上のレイヤに変換することができるのです。
実際に人やものが動いたことを無視して、実行も、紙の上の情報として扱うことが可能になります。

そのように実行を書き直し、レイヤをそろえてみても、やはり、計画と実行は不一致となります。立脚するレイヤの違いでは、説明がつきません。

反例は他にも作れます。

対象としたい実行が、何かのまとまった文章を書くことだとします。あらゆる実行を含めて考えていますので、そういうこともあります。
該当する計画は、文章のプロットや筋書きのことになります。

すると、計画も実行も、はじめからずっと同じ紙の上のレイヤに存在しています。実行を変換する必要すらありません。
それでも、計画と実行は一致しないのです。文章を書いてみたら予定外の方向に進んでしまった、といった話を耳にしたことのある方も多いことでしょう。自身で体験した方もあるでしょう。

計画と実行で立脚するレイヤが異なるという結論は、大筋で棄却せざるをえないようです。
あらゆる計画と実行で共通して確認できる性質があるかどうか、探っていく必要があるのでしょう。

しかし、このような手続きのもとで、考えを進めていくことができます。

書籍『ブラック・スワン』(ナシーム・ニコラス・タレブ)に、スローガンになる言葉がありました。
反例を積み重ねることで、私たちは真理に近づける。裏づけを積み重ねてもダメだ!
反例は重要なもののようです。


終わりに


途中に出てきた、計画と実行とが少しも似ていないところは、可能性があるような気がします。

2013年12月1日日曜日

太陽を回ったのは

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太陽の周りを走る惑星のように、くるくると走り回る自由は、いつだってあるはずです。

LiSAさんの楽曲「traumerei」に、次のような一節があります。
本当の自由の意味を知った
ひとつになってく身体と心
自由と、身体と、心とが現れてきています。いずれも、興味のある話です。

自由の意味を知るのは、心のはたらきでしょう。もう少し言えば、心が活動するから、自由が存在するわけです。

書籍『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二)には、自由や心について、目を引く記述が多くあります。
次のようなものです。
「自由は、行動よりも前に存在するのではなく、行動の結果もたらされるもの」ということだ。
自由は、後から感じるものだといいます。もう少し説明が続きます。
普通の感覚だと、自由意志は、「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が思い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。
感じる心が、自由を作り上げるものだとのことです。

うなずけない人もあるかもしれません。引用した文中でも「普通の感覚だと」と断ってあります。
心が活動しなくても、自由はいつもどこかにありそうな気がします。

自由なるものが厳然とあって、それは、自分自身で自分の存在を証明できるということです。

書籍『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト)で、アリストテレスが「説明が有限回の段階で終わるもの」と語ったことについて紹介しています。

状況は次のとおりです。
A1が真なのはA2ゆえであり、A2が真なのはA3ゆえであり、と続いて、最終の真実Xに至る。では、Xはいったいどんな真実だろう?
説明の連鎖の果てに、説明を要さない真実に至るといいます。
可能性はふたつあって、ひとつめは、アリストテレスもあまり認められない様子です。
第一の可能性は、Xは是非もない事実で、それ自体のどんな説明もないというものだ。しかし、X自身を説明する裏づけがなければ、Xはほかの真実に対する裏づけをとても与えられないだろうと、アリストテレスは述べている。
私も、いまひとつ納得がいきません。アリストテレスと同じ意見です。

ふたつめの可能性は、アリストテレスが満足しているものだそうです。
次のとおりです。
第二の可能性は、Xが論理的に必然の真実であり、それ以外ではありえないというものだ。そして、アリストテレスにとっては、これが説明の連鎖を終わらせる方法として唯一、満足できるものだった。
本エントリの話題に合わせれば、自由なるものを、何か論理的に必然の真実Xによって説明できるということです。自由がXそのものでも構わないでしょう。

ここまで、二つ、採りえる立場が現れました。自由は人の心の作用によって構築されるものであるか、それ自身で存在できるものなのか、ということです。

短絡的には、選択肢が二つあって、さてどうしようか、といった話になるでしょうか。

短絡的でない方針を採用することにします。自由が、人の心ではない何かから生成されるという考え方があるためです。しかも、この中では、最もありそうな選択肢になります。

ありそうとは、もっともらしく感じるとか、可能性がどうとかの話ではありません。集合の大きさのことです。
人の心の集合は、そうでないものの集合よりも、おそらく小さいはずなのです。

人の心は、(一人の人が持つ心の数 × 人の数) 程度しかないはずです。人の数は定数ですので、全体で n のオーダです。

そうでないものの要素数はどうでしょう。仮に、それらをすべて日本語で記述できるとします。
すると、 "あ" から始まって "ん" まで行き、 "ああ"、 "あい"、 … と続く文字列を数えればよいわけです。

有理数を数え上げるときと同じ問題に帰着しますので、アレフゼロの無限大になります。

要素数が有限のものと無限のものを比べることになってしまいました。
やや不審ではあるものの、人の心以外の何かが自由を作っているとする方が、ありそうなのです。

さて、ここまで、自由という概念の周辺をくるくると走り回ってみました。

概念については、書籍『言語学の教室』(野矢茂樹、西村義樹)で、良い表現に出会いました。引用いたします。
テイラー(John R.Taylor)なんかは、「概念とは、要するに、カテゴリー化の原理のことだ」と言っていて、ぼくもそれがいいんじゃないかと思います。
自由という概念とは、これは自由である、これは自由でない、と様々な事柄のカテゴリを定めるための方針であるわけです。

私は、何かを描写する手法として、周辺をくるくると走ることはわりと良いものかもしれないと思っています。

こういったときには、とかく、自由とはいかなるものかについて、論理的に、具体的に説明する手法が採られます。

よく機能することがほとんどです。
他方で、気をつけていかないと、言葉の言い換えに終始してしまうこともあります。「概念とは、カテゴリー化の原理のこと」もそうでしょうか。
私にとってはうまく説明してくれた良い表現になりましたが、言葉の言い換えに過ぎないと言われれば、そうかもしれません。

説明することと言葉を言い換えることとは、分かちがたいものです。その中で、機能するように説明を作り上げていくのは、難しい作業でしょう。

すなわち、論理的に、具体的に説明することは、難易度が高そうなのです。
周辺をくるくると回ることが良さそうと書いたのは、そういう意味です。

本エントリの冒頭で、LiSAさんの楽曲「traumerei」をご紹介しました。そこで、「君」について具体的に説明せずに、周辺から描写しています。
引用いたします。
太陽に憧れたのは君みたいだから
太陽を遮ったのは君みたいだから
太陽の周りを走っています。


終わりに


ただ、周辺を走って手に入れた理解は、言葉に表せないことがあるかもしれません。

2013年11月6日水曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2013

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ブログを書き始める動機には、人それぞれ、様々なものがあります。ひとりの人が複数の動機を抱いていることもあるでしょう。そちらの方が自然でしょうか。
私にも、明確なものから不明確なものまで、多くの動機がありました。

ひとつには、数多のブログを読んでいくなかで、ブログというものを好きになったことがあります。ブログは良いものだと感じて、自分でも書こうとしたわけです。

その意味で、自分の好きなブログを明らかにするのは悪くありません。原点を見直すことになるためです。

この2013年に限っては、別の話もあります。
Google Reader がサービスを終えてしまったことです。

私の場合は、Feedly がいち早く後継に名乗り出てくれたこと、愛用する iOSアプリ「Byline」が Feedly に対応してくれたこと、二つの出来事のおかげで、ブログを読み続けることができています。

いずれかが欠けていたら、ブログを読む習慣が私から消えてしまっていたかもしれません。
今の私は、そうならなくてよかったと思っています。

二つの出来事をもたらしてくださった、開発者さんに感謝です。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。

さっそく、ご紹介いたします。

***

見て歩く者 by 鷹野凌

一番目はこちらです。

讃えたいところはたくさんあります。
徹底した調査と考える姿勢には、いつも憧れています。

それから、「今週気になったニュースまとめ」の記事が面白いというのは、ただごとではありません。

***

delaymania

二番目はこちらです。

更新の頻度が高いブログかと思いますが、私はすべての新着記事を欠かさず読んでいます。

明るく、熱く、わかりやすい語り口で、読むと元気になれるブログです。

***

iPhoneと本と数学となんやかんやと

三番目はこちらです。

思考と実践に溢れたブログで、いつも感嘆しながら読んでいます。
そのいずれからも、一歩ずつでも前に進んでいこうとする気概が感じられるようです。

私のブログ「23-seconds blog」では、ときどき数学の話題を持ち出すことがあります。
次の記事の影響です。

人前で話すのは、とても大きなチャンスだということ - iPhoneと本と数学となんやかんやと
そのとき同時に考えていたのが、数学について書いていくことで「楽しくなけりゃ数学じゃないじゃん」というぼくの数学に対する考え、思いに賛同してくれる方を増やしたい。
思いに賛同したのです。

同じ中の人のこちらのブログも、合わせて楽しみにしています。

あれやこれやの数学講義

私が本エントリを書いている時点では一つの記事しか読んで(視聴して)いませんが、大変に面白かったです。

***

R-style

四番目はこちらです。

同ブログの中の人は、「Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~」なるメールマガジンも発行なさっています。
そちらの「2013/03/11 第126号」に、次のような一節がありました。
おそらく、その文脈に即していえば、R-styleの父は「シゴタノ!」、母は「極東ブログ」と言えるかもしれません。
言及されている文脈について詳細は存じ上げないものの、「23-seconds blog」の母は「R-style」さんだろうと思っています。

***

ザリガニが見ていた...。

五番目はこちらです。

ずいぶんと昔から読ませていただいています。

一番目の「見て歩く者」さんにも通じる徹底した調査と、三番目の「iPhoneと本と数学となんやかんやと」さんにも通じるたくさんの試行錯誤が魅力です。

いきおい、ひとつひとつの記事は長くなっていきますが、それらの魅力によって、気づけば読み終えてしまうのです。


終わりに


ちなみに「23-seconds blog」の父は、書籍『「編集手帳」の文章術』(竹内 政明)でしょうか。

2013年10月31日木曜日

理想の放物線

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大海を知った蛙も、過去の自分に思うところがあるでしょう。

私たちは、何かの意図のもとで過度に調整された世界に対して、薄気味悪さを覚えます。同意できる人もあるはずです。
以前、小説の『一九八四年』(ジョージ・オーウェル)を読みました。調整された世界のお話でした。私は知りませんでしたが、多くの人に読まれている本だとのことです。読んだことのある方には、私が指示している雰囲気が伝わるかと思います。

同書に限りません。箱庭のような、不自然に理想化された環境を描いた物語を、いくつか思いつくことができます。洋の東西を問わず、形を変えて表現されてきたテーマでしょう。

過度な調整の世界を、私たちは薄気味悪いと、奇妙だと、感じます。大雑把に言って、ネガティブな感情を覚えるわけです。
人々のそういった感情が何に由来しているのか、また、人々にとってどれほど普遍の感情であるのか、いまのところ、私には意見がありません。

ここでは、多くの人はそのような感情を覚えるようである、という理解だけ共有させていただきます。もちろん、話を先に進めるためです。

書籍『パラレルな知性』(鷲田清一)に、気になる一節がありました。
空気を読むということについて述べられている中の文章です。引用いたします。
空気なんて読まなくていいのだ、と。それよりもむしろ、じぶんが「空気」と思っているものがいかに狭隘なものかを知ることのほうが大事だ、と。
空気を読もうとする人たちに対して、空気なんて読まなくていい、と助言を送っています。じぶんが「空気」と思っているものは、狭隘であるといいます。

私の目を引いたのは、後半の部分です。
自分が空気だと感じているものが狭隘だと気づくこととは、すなわち、自分が不自然に調整された、限定された世界にいたと気づくことでしょう。ほんとうはもっと複雑であるのに、人の手で単純にされた空間を、世界だと思いこんでいたわけです。
気づいたときにはきっと、薄気味悪さを感じるのです。

この薄気味悪さには、私も思い当たる節があります。ずっと昔のことです。

放物線のグラフです。

放物線のグラフは、一般に、このようなものです。


ここでは、a は正の数です。

学校の数学などで、放物線を取り扱います。a の値を様々に変えたりして、その性質を調べていくのが目標です。

放物線についての学習は、つつがなく終了しました。

放物線を学んでから少しだけ歳月を経たとき、二次関数と呼ばれるものに出会いました。
二次関数のグラフは、このようなものです。


ここでも、a は正の数です。b、c にも条件がつきますが、とりあえず実数ということにさせてください。

このグラフを初めて目にしたときの、私の衝撃といったらありませんでした。頭をがつんと殴られたようでした。

だって、放物線が動いているのです。なんということでしょうか。

今までの放物線では、山になっているところはいつも 0 にありました。
(x, y) = (0, 0) でした。
それが、どこか別のところに行ってしまったのです。

当時の私は悟りました。
それまで知っていた放物線は、一般の二次関数が、偶然にも、頂点が (0, 0) のところに動いた、特殊なものだったのです。
奇跡的に、動いた先が原点であるわけです。

私は、頂点が原点にある放物線がすべてだと思っていました。他には出会ったことがありませんでしたので、無理からぬことです。
それは、人の手によって、不自然に単純化して見せられた世界でした。過度に調整された、理想的な世界でした。

これが、私が感じた衝撃です。
おそらく、年若いうちは一般の二次関数は難しいと判断した誰かが、私に不自然で単純な世界を示していたわけです。
言いしれぬ動揺がありました。

ですが、思えば、数学を勉強することは、こういった手続きをひたすらに進めていくことです。ほとんど、それがすべてです。ある事柄を学んでから先に進んでみると、それまでが、特殊で単純であったことに気づくのです。

わりと、数学に独自のことではないかと思います。

私は、このようなところにも、数学を勉強する意味のようなものを見つけます。
先に、空気というものが狭隘であると知ることの話をご紹介しました。もし、その主張がどこまでも正しいのであれば、数学を学ぶことは、すばらしい訓練になります。
外には大きな海があることに気づき、過去の自分に思いを馳せることができます。

少なくとも、過度に調整された薄気味悪い世界が、フィクションに限らないことを体験できます。数学を勉強したら、小説をもっと楽しめるようになるかもしれません。悪くないことでしょう。


終わりに


数学まわりのところで、かなり不正確な言葉を使ってしまっています。ご注意ください。

放物線のグラフを手書きしてみました。くねくねとして、あまりきれいでないものになってしまいました。
理想とは程遠い放物線です。

掲載した二次関数のグラフでは、念のため、虚数解が出ないようにしました。私の性格によるもので、意味はありません。

同じグラフから、c も正の数であることはすぐにわかります。ただ、そこまで言うなら b の素性も明らかにした方が良いような気がしてしまいました。話が長くなりそうでしたので、c も実数というにとどめました。

途中、放物線の頂点を指して「山になっているところ」と言いました。この表現には苦労しました。
はじめ「とがっているところ」と書いたのですが、それだと、微分不可能になるような気がしてしまったのです。

ずいぶんと、細かいところを過度に調整したエントリだったようです。

2013年10月27日日曜日

すきなもの、しのびこむ

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近くのものには簡単に手が届きますが、遠くのものだとなかなかに大変です。どちらにしても、懸命に手をのばすものです。

茅原実里さんの楽曲「Prism in the name of hope」に、次のような歌詞があります。
もう次のページめくる嬉しさを
風に渡さずに
次のページ、とあります。本についての話でしょうか。
私も読書が好きですので、ページをめくる嬉しさを想像するのはたやすいことです。それを風に任せてしまうのは、実にもったいないことであるという気持ちもあります。

本が好きであれば、風に介入させずとも、問題なく読書を進めていくことができます。さしあたって、困ることはないわけです。

本が好きでないと、そうはいきません。
ページをめくることに嬉しさはないはずですので、今度は、風の力を借りることになるでしょう。

嬉しさを風に渡さないようにしよう、とのアドバイスがどこかにあったなら、それは本を好きな人へ向けたものです。本を好きでない人には当てはまりません。もともと嬉しさなどないはずだからです。

アドバイスをくれた人が、そして、自分が、その対象を好きかどうかということは、ことほどさように重要であります。同じ話題を扱っているようでいて、まるで会話が成り立たないことがあり得てしまうのです。

仕事について、などは典型になるでしょう。

会話する双方に関して、対象を好きかどうか、陽に判明しているのが理想です。ただ、他者の考えを明らかにするのは手間がかかります。ここは、自分のことだけでも考えておきたいものです。

そういった意味で、「仕事は楽しいかね?」との問いかけは有益ですし、「試してみることに失敗はない」のは正しいのです。

試してみれば、自分が好きかどうか、何かしらの回答が得られます。なにせ、選択肢はそれほどないのです。好きか、好きでないか、どちらでもないか、といったところでしょう。

小説『捩れ屋敷の利鈍』(森博嗣)に、次のようなやりとりがありました。
「ねえ、どうして、月は地球の周りを回っているの?」
「どうしてっていうのか、うーん、もし回っていなかったら、地球に落ちてきちゃうんだよ」
なるほどと思いました。
月が採りうる挙動は、ほとんど、落ちてくるか、回るかのいずれかしか考えられません。
(一応、彼方へ飛んでいくことの考慮もできます。)

どうして月が地球の周りを回っているか、が設問でした。対する、落ちてきていないからだという回答は、厳密に正しいのです。

また、『無限と有限のあいだ』(芳沢光雄)との書籍には、円の面積を求める公式 πr^2 が厳密に正しいことの証明が示されています。
詳細は私も追いきれていない部分があり、省略します。ですが、その方針だけで、十分に言及する価値があります。

背理法です。
半径 r の円の面積が πr^2 でないとすると、次のいずれかが成り立ちます。

① 円の面積 > πr^2
② 円の面積 < πr^2

そこで、①、②のいずれも成り立たないことを導き、矛盾を言うのです。

円の面積は、πr^2 より大きいか、小さいか、等しいかのいずれかしかありません。月は、地球に落ちてくるか、回っているかしかありません。

ある対象を好きかどうか調べてみれば、好きか、嫌いか、どちらでもないかくらいのものです。安全のためには、どちらでもないことの範囲を、十分に広くとっておく必要があるでしょうか。

ここに、大きな注意があります。
いままで、助言をやりとりするなど、人と関わるときのことを話題にしていました。対象を好きかどうかを容易に判別したいのは、そういった状況のもとに限ります。

とりもなおさず、それが明らかでないと、やりとりがまるで成り立たなくなる可能性があるためです。対話を無事に進めるために、必要に迫られておこなうのです。平たく言えば、他者の意見を聞くときには、自分の立場をよく把握しておくべきである、という話かもしれません。

おまけに、この話では、考えたい対象が先に掲げられています。あたかも、円の面積が πr^2 であるか否かだけの証明のようです。

ふつう、自分の好きなものを知りたいというとき、対象は明らかでないことでしょう。それは大変に素晴らしいことです。
解決には、その人の一生と同じくらいの時間がかかるかもしれません。同時に、そうするだけの価値のある問題です。

いつだって、目の前の明らかなものを見るのは難しくありません。
他方で、ほんとうに存在するかどうかもわからないものを追いかけるのは、大変です。

『脳のなかの天使』(V・S・ラマチャンドラン)に、次のような一節がありました。
バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。
ほんとうに存在するかどうかわからないものを追いかけるほうが、人間らしいと言えそうです。
しかし、私が本エントリで述べたのは、バナナに手をのばすこと、星に手をのばすこと、いずれも大切だということです。

そして、どちらであれ、手をのばすときは一生懸命でありたいのです。


終わりに


「どちらも大事である」や「一生懸命にやる」といったことは、私がどうしても好んでしまう考え方です。心奪われているのかもしれません。「魔女っ子メグちゃん」(前川陽子)でしょうか。

引用させていただいて、終わりにします。
魔女っ子メグは 魔女っ子メグは
あなたの心に しのびこむ しのびこむ

2013年10月19日土曜日

歯ブラシの普遍

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知的生産のことについて書きます。

本ブログでは、同種の話題を幾度か取り上げたことがあります。類似のトピックが繰り返し記述されることについては、様々な原因が考えられます。ややもすると、面白いテーマかもしれません。

今回の場合の回答は、知的生産というものが、非常に普遍であるためでしょうか。

こちらの記事を読みました。

シゴタノ! 未来をつくる言葉の紡ぎ方

引用いたします。
「知的生産」という言葉が、あまりにもアカデミック寄りに理解されすぎているのではないか。そして、現代では多くの人に必要なのにもかかわらず、それが十分に普及していないのではないか。そういう懸念を持っているのです。
上で私が書いた、知的生産は普遍のものである、との話に矛盾しません。
私は「懸念を持っている」ほどではないものの、知的生産の言葉からアカデミックな響きを感じることも、そのために何かが妨げられているかもしれないことも、なるほど同調できます。

何かが妨げられていることは、いかにして解決することができるのでしょうか。先の記事では、知的生産という名前付けを疑っているようです。
解決の糸口として、非常に良さそうな方向性です。おそらく、根本的に解決するためには、ほとんど唯一の施策でしょう。
知的生産の中身の方には不審なところが見あたりませんので、名前が怪しいわけです。

他方で、私も少しだけ思ったことがありました。
行為として見たときに、何をしたら知的生産と呼ばれるのか、いまひとつわかりにくく感じるのです。

知的生産の方から見たときに、こういうことが知的生産に属する、といった考え方はよく理解できます。
しかし、様々な日常の行為の方から見たときに、それは知的生産と呼ばれるものである、と言い切ることは、少し難しく思います。

そこで、これは知的生産と呼ばれる行為だ、と私が感じた場面について書いてみることとします。
『数学ガール』シリーズ(結城浩)にならえば、「例示は理解の試金石」なのです。現代を生きる私たちの、大切なスローガンです。

その例示は、『「知」のソフトウェア』(立花隆)に見つかりました。
「現実に即した分類」と題され、新聞記事の情報整理について語られているところです。

状況はこうです。
たとえば、自民党の幹事長とある野党の書記長が料亭で密談した事実を暴露したスクープ記事がある。
これが、知的生産のきっかけになります。
知的生産とは、基本的には、ある情報をもとにして新しい情報を生産することでしょう。ここにあるスクープ記事が、もとの情報であるわけです。

スクープ記事を手にした著者の立花さんは、次のように考えます。
これは、「自民党」と「野党」のどちらにも分類できる。あるいは、「政局」として分類すべきかもしれない。
スクープ記事の分類を吟味しています。
この時点で、純粋なスクープ記事の情報の他に、自民党、野党、政党、との新しい情報が生産されています。

立花さんの考察は続きます。
待てよ、ここで「密談」という分類項目を作ってみたら面白いのではないか。 
(中略) 
むしろ、「密談スクープ」という分類項目を作ってみたら面白いのではないか。あるいは、「料亭政治」ではどうか。「与野党なれあい政治」というのはどうか。「連合政権への胎動」というのはどうか。
新しい情報が次々に生産されている様子が確認できます。

行為としては、大層なことではありません。見つけた新聞記事を、どこに分類してしまっておこうかと考えているだけです。
しかし、明らかに、それに伴って新しい情報が生産されています。知的生産と呼ばれるものに間違いありません。

もう一つ、例示を続けます。
先日、私自身が考えていたことです。

洗面台に歯ブラシを置くとしましょう。それほど突飛な舞台ではないはずです。
歯ブラシが一本なら、何も問題ありません。そこにある歯ブラシを使えばよいのです。

いま、歯ブラシが二本ある状態を考えます。原因は何でも構いません。二人暮らしだからとか、一人暮らしでも歯ブラシを使い分けたいとか、何かあったのです。
しかも、二本の歯ブラシは同じ見かけのものだとします。間違って同じ歯ブラシを二本買ってしまったとか、何か理由があったのでしょう。そういうこともあります。

このとき、二本の歯ブラシを見分けるにはどうしたらよいのでしょうか。
ある日の私は、このようなことにずっと思いをめぐらせていたのです。

歯ブラシAを洗面台の左端に、歯ブラシBを右端に置くことを考えました。良さそうに思えます。
ただし、左端にあるのは歯ブラシBではなくAであることを、暗記しておく必要があります。そちらはどうしたらよいのでしょう。暗記することが無条件で可能なら、同じ見かけの歯ブラシを、はじめから判別できてもよいはずです。
問題になるところをずらしただけで、解決していないのです。

わりと、容易でない話です。私には回答が出せませんでした。

仮に、歯ブラシにマスキングテープを巻くのが最適な答えだったとしましょう。歯ブラシにテープが巻かれただけですので、物的な生産はごくわずかです。
一方で、状況は抜群に進展しています。歯ブラシが見分けられるようになったのです。

新しい情報が生産されています。まさに、知的生産と呼ばれるものです。
知的生産とは、ずいぶんと普遍の概念のようです。


終わりに


知的生産と絡めて書いてみたものの、歯ブラシ問題は相当に厄介です。

2013年9月30日月曜日

私と「Postach.io」

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こちらの記事を読みました。

R-style » Evernoteをアウトプットツールへと変身させる「Postach.io」

こちらの記事も読みました。

Evernoteがそのままブログになってしまう Postach.io というサービスがわりと面白そうな感じ | ごりゅご.com

こちらも読みました。

Postach.ioを始めました | ライフハック心理学

大変に興味深いサービスと感じましたので、私も、始めてみることにしました。
作成したのがこちらです。

23-seconds notes

今後は、こちらも更新していこうと思っています。
お時間ありましたら、見ていただけると嬉しいです。


終わりに


改めてエントリを書いてみましたが、始めたのは半月以上も前のことでした。

Postach.io でものを書く環境を整えたい、などと思っています。
こちらは、ポメラではなかなかにやりにくいものがあります。

未熟な私のイメージ

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いつからか、知的生産というもののある一面に対して、ひとつ、明確なイメージを抱いていました。
別に、大騒ぎするような話ではありません。何かの対象があって、それに対して思うことがあったのです。日常に、頻繁に体験することです。

ただ、問題もありました。
そのイメージについて、うまく描写する言葉が見つからなかったのです。

基本的に、不便というのはこのような状況を指します。

ですが、あるときふと、私の感覚とよく一致する表現に思い当たりました。
(ふと、というのは言葉の綾です。実際は、一生懸命に考えて思いつきました。言及される価値のある事実かと思います。)

その表現は、いつのことでしたか、本ブログで用いました。「強靱な知的生産」というものです。

大変に、気分の良い表現です。便利であるとは、このような状況を指すのでしょう。

そこで本エントリでは、その「強靱な知的生産」のもとになったイメージについて書いてみたいと思います。なぜなら、便利だからです。
とはいえ、イメージはすでに明確にあります。仰々しい書き出しと比較して、ここからはそれほど厄介な話にはならないはずです。

まずご紹介したいのは、『知的生活の方法』(渡部昇一)からのエピソードです。著者の渡部さんが、その昔に、ドイツ参謀本部についての本を著したときのことです。なお、渡部さんは英語学者であり、ドイツの参謀本部については、肩書きとしては素人であったそうです。

状況を示す一文を引かせていただきます。
素人でも本の買い方を工夫すれば、専門家の書いたものにやや近いものができるという実例である。
何かしらの方針で、本を一生懸命買った素人のお話だということです。

ドイツ参謀本部にひょんなことから興味をひかれた渡部さんは、関連する本を買い集めることを、長い期間かけて続けたそうです。
いつしか、次のような状況に至りました。
日本の古本屋で集めたものもあるし、外国の古書店の目録で注文したものもある。あるものは全部読み、あるものは部分的に読んだ。そして集った西洋の戦争関係の本がいつの間にか、書棚の中で何メートルかを占めるようになった。
専門外のことにも関わらず、たくさんの本が集まりました。
いよいよ、次のような気づきにぶつかります。
こんな本をときどき開いて二十年近くも経てば、だいたいの構想はまとまる。そしてそれを本とする自信も湧く。
二十年近く構想を寝かせておいたら、自然と本を書く自信がわき上がってきたわけです。

これが、私のイメージにある「強靱な知的生産」です。膨大な蔵書と時間の上に、どうしても立ち上ってしまうようなものです。
もし、強靱ではない指向で知的生産が成り立つことがあったとしても、それはやはり強靱でないものとなるのでしょう。そして私は、強靱である方を良しとするような思想を持っています。

同じ類の話は、『「知」のソフトウェア』(立花隆)にも見受けられました。
引用いたします。
私は毎月、山のような雑誌に目を通している。まず一般週刊誌はほとんど全誌に目を通しているし、月刊総合誌もしかりである。月刊誌では総合誌だけでなく、若者向けの雑誌もかなり読んでいるし、さまざまのジャンルの専門誌をいくつか購読している。それ以外にときどき書店に行って、専門雑誌の書棚をのぞいては、さまざまの雑誌を買い込んでくる。愛読しているPR誌も何誌かある。
著者の立花さんが、継続して、多くの雑誌に目を通していることが述べられています。こちらも、抜群に強靱な知的生産を実現できるであろうことが想像できます。

なお、引用した文章に続いては、「こんなに大量に読むのは、職業上の必要に迫られてのことで、人には勧められない」との断りがありました。念のため、それもご紹介しておきます。

さて、強靱な知的生産の名の下に、二つのエピソードを見てきました。明らかに、本を読むということが話の基礎になっています。
そうして、本エントリの関心は、知的生産から読書についてに移っていくわけです。

特に言及したいのは、ご紹介した二つのエピソードが、読書においてどのような本を読むのが良いか、との設問に答えるものではないことです。読書について語ろうとしたときに、おなじみの話題であるにも関わらず、です。

本エントリでは、たくさんの本を、長期間かけて読むことについて表現しました。
それは、どういった本を読もうかと心を砕くことよりも、私の好む考え方です。

私の好む考え方が、間違っていることもあるでしょう。他方で、間違っていないこともあろうかと思います。
いずれは、絶対の正解に至ることができるのかもしれません。あるいは、どこまで行っても、個人の好みの問題以上にはならないのかもしれません。

せめて、自分がどういった思想を信じていて、どういった方針で行動していくのかは、よく考えて、明らかにしておきたいものです。不便だからです。

私などは、少しだけ好みの方向性があるという程度です。それは上述した通りです。
自分の信じる思想も、自分の行動の方針も、まるで把握していません。

まだまだ、未熟なようです。


終わりに


なにしろ私は、不便であることが良いことなのか、あるいは悪いことなのか、それさえも承知できていないのです。

2013年9月16日月曜日

WIRE 13、アフター

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今年もまた、WIRE に行ってきました。

WIRE13 -15th ANNIVERSARY SPECIAL- (ワイアーサーティーン 15周年スペシャル)

各国から一流のDJやミュージシャンが集う、日本が世界に誇るテクノイベントです。毎年、夏の終わりに横浜アリーナで開催されています。
WIRE が終わると、いよいよ秋かな、という気がしてくるものです。

せっかくですので、関連するパブリックな話とプライベートな話を、いくつか書いておこうと思います。

ちなみに、話にはパブリックかプライベートかしかないと思われる向きがあるかもしれませんが、他にも、protected と、無印があります。いろいろある中で、今回は public と private にしようというわけです。

以上、ジョークでした。

WIRE の話に入ります。

今年の WIRE では、すべての公演が終了して観客が退場する時間帯、会場周辺は大雨でした。

ここ数年の WIRE で、帰ろうとしたときに雨が降っていた記憶はありませんでした。いつも、朝から暑かったように思います。そのためか、今年の雨にはずいぶんと驚きました。WIRE の帰りに雨が降っているなんて、想像したこともなかったのです。

WIRE ではいつも、手荷物の取り回しを試行錯誤しています。

クロークに預けたり、預けなかったり、預けないことを見越して鞄を小さくしてみたり、といったところです。いずれの方針にも、良いところと、悪いところとがありました。
そこで今回は趣向を変えて、手荷物を持たずに参戦してみました。

具体的には、
・家の鍵
・チケット
・iPod touch
・フィーチャフォン
・財布(中に Suica)
・情報カード、ペン
だけをズボンのポケットに入れて、すべてのイベントを過ごしました。

いくつか説明が要りそうです。

私の場合では、フィーチャフォンは通話のみの契約で、かつ、普段はWiFiルータと iPhone を携帯しています。すなわち、WIRE の期間中は、移動も含め、オフライン生活でした。

フィーチャフォンは、緊急時の通話用に持参しました。
充電切れしにくく、端末が強いため、こういったときの選択としては非常に適当です。

iPod touch も、端末が薄くて軽いために選択しました。ほとんど、FastEver 専用機です。FastEver は、オフライン時の挙動が素晴らしいことも言及に値するアプリです。

情報カードは、持参しなければもっとはるかにポケットに余裕ができたはずでした。しかし、書くものが何もないのはどうしても不安だったのです。
実際には、メモは FastEver でまかなうことができましたので、活用の場面はありませんでした。それでも、持っていってよかったと思っています。

ずいぶんと持ち物の話が長くなってしまいました。
別の話題に変わります。

テクノは、その最先端の部分では、非常に移り変わりの激しい音楽です。テクノの最先端を描き出すところのイベントである WIRE は、変わらぬ外観に反して、中身はその年々で変化しています。
今年も、率直に、去年と全然違うなと感じました。

さて、WIRE に関しては、毎年、開催に先駆けて「WIRE コンピレーション」なるCDアルバムが発売されます。その年の WIRE に出演するアーティストが(おそらく)一曲ずつ持ち寄って、作られるアルバムです。
私などは、テクノにあまり詳しくありませんので、WIRE に出演するアーティストに、知らない人たちも含まれています。そのこともあり、大変に貴重な、ありがたいアイテムとなっています。

毎年 WIRE に参加していると、このコンピレーションアルバムも一枚ずつ増えていきます。それらには、各年ごとに、当時の最先端のテクノが収められているわけです。

『知的生活の方法』(渡部昇一)には、次のような箇所があります。
たとえば私は『文藝春秋』とか『週刊新潮』とかを全部そろえて持っていたいと思うことがある。もちろん書斎には置けない。すぐに山のようになるから。またアメリカのプレイ・ボーイのような雑誌も創刊号以来そろえたいと思う。こういうのは大学図書館にも入っていないが、ある意味では、現代史を微視的に見る最もよい資料なのである。
雑誌のような、現場の最先端を示すものが、その歴史を微視的に見る良い資料であると指摘されています。強く感銘を受ける話です。

誰かによって通観、総括され、史として語られるより前の段階の情報を、大事だと思っているわけです。この感覚は、忘れずにいたいものです。

この文脈で、私は「WIRE コンピレーション」のアルバムを、『文藝春秋』や『週刊新潮』と同じようなものととらえているのです。


終わりに


今年の WIRE は15周年記念とのことでした。おめでとうございます。

そのためか、公演終了時のいつものメッセージは「15th Anniversary. Thank you!」に変わっていました。
(確か、10周年のときも似たような雰囲気だったと思います。)

いつものメッセージは、この場で言っておくことにします。
See you next year!

2013年9月9日月曜日

予知に向かって進む

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こちらの記事を読みました。

#ブロガーサミット 2013の内容に沿って、自分にとって「ブログ」とは何かを改めて考えてみた : 見て歩く者 by 鷹野凌

幾度か表明している通り、私はこちらのブログ「見て歩く者」さんの熱心な読者です。
(近頃では、中の人が様々な媒体に書いていらっしゃるようで、追いかけるのが大変になってきています。今のところ、それらの情報もブログに掲載してくださっているので、とても助かります。)

熱心であると同時に古くからの読者でもあるのですが、それでも、「見て歩く者」さんで、上に掲載した記事のようなローカルな話題が展開されることは珍しいように思いました。
皆無ではなかったかもしれません。ですが、ここまで詳細な記述を読んだ記憶はなかったのです。

率直な感想として、最大級に面白い記事でした。

グローバルな意味で、どれほど価値ある情報なのかは私にはわかりません。しかし、個別の私に対しては、大変に素晴らしい記事でした。

何といいますか、ブログって良いなと思いました。

話は変わります。

ずいぶんと前のことになります。
こちらの記事を読みました。

非破壊・非接触型スキャナ「ScanSnap SV600」の登場が出版業界周辺にどのような影響をもたらすかを考えてみた : 見て歩く者 by 鷹野凌

先日の、ScanSnap SV600 の発表を受けての記事となっています。

大きな話題にもなりましたので、ScanSnap SV600 について詳しい説明は不要かと思います。上の記事のタイトルからも察せられるように、破壊もせず、接触もせず、対象を物的な意味でスキャンできるものです。

記事には次のような一文がありました。
さて、こういう時代がまもなくやってくるという話は過去に何度も書いてきていますが、これによってどういう変化が起こるのかを改めて予想してみたいと思います。
「こういう時代」とはすなわち、書籍を破壊せずにスキャンできる時代です。もちろん、書籍を破壊してスキャンするような時代がこれまでにあったことを受けています。
記事中の言葉を借りれば、スキャンした本と、普通に読んだ本との見分けがつかないということです。

引かせていただいた一文を起点として、記事は「こういう時代」の変化をめぐって進んでいきます。
そちらも大変に興味深いお話であるものの、私がここで言及したいのは、同じ文の前半についてです。

「こういう時代がまもなくやってくるという話は過去に何度も書いてきています」とあります。

非常に驚くべきことに、それは確かです。
ある本がスキャンされたかどうかを識別できない状態が何をもたらすのか、といった文章を、私は読んだことがあるのです。
(同ブログだったか、他の媒体だったかは定かでありません。)

平たく言えば、未来を予知していました。
穏やかに言えば、先見の明がありました。

これは、知的生産ですとか、情報発信ですとか、そういった視点からすると大変なアドバンテージになります。何と比較してのアドバンテージかは私にもわからないものの、とにかくそうなのです。

それは、ひとえに、その話題について考えている期間が長いためです。費やした時間ではなく、気にしてきた期間です。
『思考の整理学』で言うところの「発酵」や「見つめるナベは煮えない」の原則は、基本的にいつも正しいと、私は思っています。ですので、未来を予知する人の知的生産は、そうでない人よりずっと強靱なのです。

いま、ブログ「見て歩く者」さんに触れながら、未来を予知する人の知的生産が強靱であると述べることができました。
今度は、未来を予知することについて書きます。

まず、ここまで書いてきたような、技術的な面で未来を予知することは間違いなく重要です。新しい技術が現れたら、その活用や法整備に知恵を絞る必要があります。強い知的生産が求められるわけです。

一例を、『「中卒」でもわかる科学入門』(小飼弾)との書籍から引かせていただきます。
技術の発展とエネルギーについて触れられています。
太陽電池などの進歩、普及によって、太陽エネルギーを安価で効率的に取り出せるようになれば、エネルギー問題は解決します。私はこの過渡期を、短ければ10年、長くても25年くらいだと見ています。
文脈からきちんとご紹介できず恐縮です。引用箇所だけで何かを判定するのが、あまり安全でないという意味です。
ここでは、太陽電池などの技術について、未来が予知されています。件のエネルギーなるものは、私の生活にはなくてはならないものです。将来、その用法が大きく変遷するのであれば、未来を予知して、知的生産を強靱にしておきたいと思います。

建前では、そう思います。

本心では、少なくとも技術の発展に関連する話題のときには、私はややわだかまりを感じます。同じ指向から、ムーアの法則もあまり好きになれません。嫌いではありませんが、わだかまりです。

技術の発展は、その対象に何かを捧げた人たちが、血をにじませて試行錯誤を繰り返した果てに起こるものだと、私は思っています。
私にはどうしても、それらのにじんだ血を、存在しないかのように扱うことができないのです。
その思想のもとでは、技術の発展とは、苦心を伴って少しずつ進んでいくものです。五年経ったらこうなっているでしょう、といった類のものではないのです。

だからこそ、ブログ「見て歩く者」さんや書籍『「中卒」でもわかる科学入門』をはじめ、未来を予知して、それに向かって進む知的生産を目にすると、すごいな、なるほどな、と強く感銘を受けます。

以前もどこかで書いたとおり、私は基本的に周囲から影響を受けようと思って生きています。そういった、自分の中からは出てこないような感銘は、とても嬉しいのです。


終わりに


私にとってブログ「見て歩く者」さんとは何かを改めて考えてみた、という話だったのかもしれません。
そうだとしても、言うまでもなく、ある一面を代表させただけの話です。

2013年8月22日木曜日

身を削らない石

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ロックバンド「シド」の楽曲「V.I.P」に、次のような歌詞があります。
そんなものに流され続けて 角の取れた原石には
きっと 誰も用はない
川を流れる石が少しずつ丸くなっていくように、角ばっていた原石がなめらかになってしまうのは良いことではない、ということでしょう。引用部分のみだと主語がわかりにくくなっていますが、人として、といった雰囲気かと思います。

私はこれを目にして、少なからず驚きました。そうなのか、と思ったのです。
それは、私が日常を過ごすときにいつも考えていることが、直感的に、正反対のことであったためです。

日常を過ごすときに考えることは重要です。個人的な範囲では、ほとんど、生きることのすべてと言っても構わないでしょう。個人的というのは、the man ではなく、a man という意味です。
日常を過ごすことには、限りある時間をいかなる行動に割り当てていくか、といった具体的な話と、どういう方針で生活していこうか、といった抽象的な話とがあります。疑いようなく、どちらも切実に重要です。

「切実である」と「重要である」との言葉が指す事象は、かなり近いものがあります。切実であることはふつう重要であり、逆もまた真に見えるのです。

しかし、ここは立ち止まって考えてみる価値があります。

ある(含意の)命題について、命題自身とその逆とがいずれも真であることは、非常に大雑把には、次のように書くことができます。

(A → B) and (B → A) = true

このとき、AとBは同一のものになります。
上で「大雑把に」と書いたのは、A、B、→、and、=、true、といったものを、陽に定義していないためです。数学的に安全でないことを断っています。

切実であることは重要であり、逆もまた真であるのなら、切実と重要とは一致している必要があります。

ふつう、同じものを表すために別々のラベルを用いることはありません。少なくとも、論理的には意味がありません。
(たとえば、メタ的には意味があります。)

しかし、ご覧の通り、現実には別々のラベルが貼付されています。そうなる方向にダイナミズムが向いたのなら、別々になっている方が自然なのでしょう。経済学的に言えば、インセンティブがあったのです。

したがって、切実であることが重要なのは間違いないとすれば、その逆は成立しないことになります。すなわち、重要であることは必ずしも切実ではないのです。

このように、よく見られる「その逆も真である」といった文章は、それがどの程度で健全であるのか、検証する方が安全かもしれません。ちなみに、対偶はいつでも元の命題と一致しますので、「その対偶も真である」との文章は、検証の必要なく安全です。

ずいぶんと話題が逸れたように見えるでしょうか。
私としてはそのような意図はなく、日常を過ごすときに考えることの、具体的な側面を示したものでした。

別の側面は、冒頭にご紹介した、原石の角が取れていく話に呼応します。

私も、人が生まれながらに抱く原石は時とともに削られていく、といった発想には同調します。ただ少し、同調のしかたを断っておく必要があるのです。

確か、森博嗣さんのミステリで、登場人物の誰かが言っていたことだったと思います。様々なメタ情報を忘れてしまい恐縮ですが、そのコンテンツはしっかりと私に留まって、強く影響を与えています。

だいたいの趣旨として、それは次のような話でした。

人が元来持っていた原石は、広く社会と呼ばれるものの機能によって、必ず、削られていくことになっています。もともと社会とはそれを目指すものであり、避けられないことです。
しかし、削られてできた新しい形がとても美しいのなら、ひょっとして、原石よりも美しくなるのなら、それも悪くありません。

そのような話でした。いたく感銘を受けたのを覚えています。いま、こうして思い返してみても、感動は薄れていません。

原石は、どうしても削られていきます。それでも、万が一にでも現れてきた形が美しくなっているのなら、それほど悪くないのです。より美しい形を求めて削っていくことが、すなわち、生きていくことです。
原石のままを保存しようと、身を削ることはないのです。

すると、次には、どのように原石を削っていけばよいのか、といったことが気になってきます。

残念ながら、私は具体的な施策を持ち合わせていません。
個人的には、できるだけ原石を削る機会を増やそう、と思って生活することにしています。こちらの個人的は、the man の意味です。
これも万能ではありません。削る機会が多い方が、良い形に至りやすくなるかもしれない、と感じている程度です。確率は上がらないと思いますが、それなら、試行が多い方が良いのです。

私の場合だと、自分に合った削り方を探し出すために、ちょうど、人生と同じくらいの時間がかかりそうです。せめて、原石を削ってみる機会は多くしたいものです。
とはいえ、あまり意識が介入できる領域でもありませんので、気長にやろうと思います。
重要ではありますが、切実ではないのです。


終わりに


比喩のままで話が進んでしまいました。
私は、できるだけ周囲から影響を受けようと思って生活している、ということです。

2013年8月11日日曜日

考えること、野球、考えること

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いつの頃からか、考えることについて一定の興味があります。

このような用途で、「一定の」との言葉が使われているのを目にすることが度々あります。一定の評価を受ける、などです。
私としては、ある程度の、相応の、それなりの、といった感覚で読み書きしており、かなり広い意味の言葉ととらえています。

大まかな方針としては、程度がとても大きいわけではなく、また、とても小さいわけでもない、との状況を示そうとしているものです。決して、考えることに対しての興味や、与えられる評価が変化しないことを表してはいません。

よく、プロスポーツ選手への言及で、毎年コンスタントに結果を残す、などと言われることがあります。この「コンスタント」も、「一定の」との日本語と似た機能を有しているように感じます。
成績が不変であるわけでもなく、同時に、程度がとても大きくも小さくもないわけです。

そう考えていくと、「一定の」と書かれた文章は、ずいぶんと解釈の余地があるようです。もともと、程度が大きくも小さくもなくて、相応で、それなりである事象です。それを表現しようとする言葉があることに、まずは驚くべきなのでしょうか。
いつだって、これといった特徴のないことを描写するのは難しいものです。昔の人にとっても、その難しさは変わらないものだったということかもしれません。

これらのことを踏まえて、冒頭の一文は次のように改めることにします。

私はいつの頃からか、考えることについて興味があります。

先日、『経済学的思考のセンス』との書籍を読みました。

『経済学的思考のセンス』(大竹文雄)

同書は、経済学の世界に足を踏み入れている人たちが、様々な論点について、どのように指向して考えていくのかを説明しています。取り上げているのはいずれも具体的な事例で、素朴な意味でとても有益な本と言えます。

私は、経済学的思考のセンスと呼ばれるものについて、あまり造詣が深くありません。同書が示すいくつかの考え方は、私にとってとても新鮮なものでした。

表面的な理解を得るには、ここで何か適切なエピソードを引いて話を進めるのがよいのでしょう。

表面的な、というとネガティブな響きがしますが、決してそのような意図はありません。表面的なところから始めて徐々に理解を深めてゆくのも、あるいは、さしあたって表面的な理解に止めておくのも、悪くない試みです。

世の中にある物事を、何もかも深く理解しなければならないわけでもないはずです。それよりは、自分が何を理解しているか、理解していないかを把握している方がよいように思います。

同書では、プロ野球の球団運営についてのお話がありました。内容を追ってみます。

まず、始めにぶつかったのが、こちらの一文です。
球団の経営目的が利潤を最大にすることであり、ファンがどちらの球団が勝つかわからないというスポーツのスリルを楽しんでいるかぎり、球団間の戦力均衡は保たれる。
便宜上、一文をまるごと引かせていただきました。
私が言及したいのは、はじめの「球団の経営目的が利潤を最大にすることであり、」の部分です。
球団も、完全に正しい意味での経済主体であり、その活動はすべて利潤を最大化するためのものです。改めて記述してみれば、しごく当たり前のことのようでしょう。

しかし私は、この一文に感銘を受けました。「ああそうか、利潤を最大化しようとしているんだ」と思ったのです。

とても抽象的な感覚として、考え方が身についていないというのは、こういうことかと察しました。
利潤を最大にしようとする、との基本的な前提を、私は基本的なものとして持ち出すことができないのです。そして、外的な要因によって、初めてそれが基本的な前提であったことを知らされるのです。

新しい考え方を身につけるためには、すなわち、基本的な前提を自然と持ち出すことができるようになるためには、該当する、数多くの個別の事例に触れるのがよいでしょう。今回の例で言えば、何かの主体が利潤を最大化しようとして活動しているエピソードを、幾度も目の当たりにすることです。
少なくとも、私はそういった方針を好みます。

話を戻します。上で、球団は必ず利潤を最大化するように動くことを述べました。

いま、私たちは、球団の利潤が最大になるのが、各チームの実力が拮抗し、ファンが実力伯仲の試合を楽しめるときのことだと仮定した文脈にいます。

そこで、次のような指摘があります。
弱い球団への補助制度は、球団の利潤最大化のインセンティブを阻害することになり、かえって戦力均衡への到達スピードを遅くしてしまうのである。
経済主体である球団は、利潤を最大化する方向にインセンティブがあり、それとまったく同じ意味で、複数の球団の戦力は自然と均衡し、効率的になるように推移していくわけです。

ポイントになるのは、インセンティブと効率的、あたりでしょうか。これらの単語と私との距離が縮まって、親しみが持てるようになってくると、とりもなおさず、同書が一冊かけて示している「経済学的思考のセンス」なるものに近づけるように思います。

考え方というのは、様々な世界に多様にあって、追いかけるのは長い旅になりそうです。
すべて追いかけるのは苦労しそうですが、面白そうですので、いろいろと見てみたいものです。

これらのことも踏まえて、冒頭の一文は次のように改めることにします。

いつの頃からか、考えることについて大変に興味があります。


終わりに


今後も読み返したい本が、またひとつ増えました。

2013年7月28日日曜日

胸にとげさす極座標

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私が生きることについて明らかにしようとしたとき、具体的に大きく現れてくるものは、音楽と読書です。明らかにする、との表現に違和感があるなら、伝達可能にする、としても構いません。
生きることは、あまり具体的でない行為です。それを、具体的な何かをもって描写し尽くすことは、あるいは、過不足なく変換することは、決してできません。過程では多くの情報が失われます。

直感的には、標本化とか、デジタル化といった手続きに似ていると理解して良いでしょう。デジタルという言葉は、標本化しているとか、代表させているとか、そういった意味をしています。私などは、先にそれらの言葉を知識として得ていましたので、上述したような、変換すると情報が落ちてしまうような概念を、デジタル化との対比から把握するようになっています。

これは、言葉が先導して、思考のバリエーションを増やした事例と見ることができるでしょう。
言語が先行したり、またあるときは思考や感覚が言語を追い越したりしながら、それらは進展していくものです。言語と感覚の切磋琢磨です。

別の話をします。本ブログの昔のエントリで、地図のアプリケーションがどうこうという話をしたことがあります。
念のため繰り返しておくと、画面を拡大しても縮小しても、それは情景が異なっているだけで情報の総量としては変化がない、といったことを述べています。

少し見方を変えて言い直してみます。
いかなる視点を採用したとしても、その各々では目一杯のスカラ量を相手にしています。(2次元の)極座標表示 (r, θ) で考えれば、θを違えたとしても、r は基本的に同一なのです。

多くの方はここで、ロックバンド「PIERROT」の楽曲「HUMAN GATE」の一節を思い起こすことでしょう。
こちらのことです。
きっと誰もが同じだけの苦しみ背負いながら
それでも笑顔見せている
ここまでで述べたことは、私が日常を生活していく上で、基本的な思想の一つになっています。すなわち、視点が違ったとしても誰もが同じスカラ量の苦労を抱えていること、そして、それでも笑顔を見せていることです。

それを私は、先で触れた極座標表示の話としてだいたい把握することにしています。普段の生活では度々引き出す必要のある思想ですので、そうしておくと取り扱いに便利だからです。
こういった部分にも、数学を勉強しておくことの有益さがあります。端的に言えば、便利なのです。

話が逸れました。

私がそのような思想を抱くにいたったことには、明確なきっかけがあります。取り扱いのしやすい形に固めたのは「HUMAN GATE」や極座標表示であるものの、その原型が生成されたシーンは別にあるわけです。

ずっと、ずっと昔の話です。それも、ある音楽でした。
「青春時代」(森田公一とトップギャラン)です。
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は
胸にとげさすことばかり
正解は存じませんが、私は次のように理解しています。

青春の時分を、それが過ぎてしまってから、夢のようだった、素晴らしかったと振り返ることがあるかもしれません。ひょっとしたら、現状はそれほど素晴らしくはない、との前提があるのでしょうか。
しかし、まさにそのただ中にいるときには、今が夢のような日々だと思ってはいません。青春の当事者たちは、それが過去の自身であれ、別の世代の誰かであれ、誰もがある量の苦労を背負いながら日々を過ごしているわけです。

以上が、私の極座標思想のきっかけです。
そのような思想を持たないうちに、私はそのきっかけに出会いました。言うなれば、言葉だけを先行して得たのです。

いきおい、言葉と感覚の不調和が起きます。なんとかして解決したいと、私の無意識は考えたことでしょう。
ところが、青春時代についてあとからほのぼの思うためには、青春時代を体験し、それが過ぎ去る程度の時間が必要になります。さらには、青春時代の真ん中で胸にとげさされている、という条件も満たしていなければなりません。

言葉と感覚の不調和をなんとかしたいだけなのに、ずいぶんと制約が厳しいようです。
そこで、私の無意識は思い至りました。これはつまり、視点や立場が変わっても、その各々では同じだけの苦労に直面しているということだろう、ということにです。
また、派生として、誰も彼もはそれでも笑顔を見せているのだろうとか、余所の視点での苦労は往々にして小さく見えてしまうのかもしれない、といったことにも考えが及びました。

言葉に引っ張られて、私の感覚が進展した瞬間です。

さて、ここまで、いろいろと述べてきました。
私はこれらの話をほとんどすべてを、極座標表示という言葉に含ませて取り扱っています。あるいは、取り扱っているようです。
極座標表示という言葉に、籠めているとも、代表させているとも言ってよいのかもしれません。

すると、私はこのような考え方について表現しようとするとき、「ああ、極座標表示のようなものだね」と言うことになります。
実際に言ったことはありませんが、ずいぶんと情報が失われてしまうものです。


終わりに


とはいえ、苦労に関して量という概念があり得るのかどうかは、議論の余地がありそうです。

2013年7月20日土曜日

流れてきた感情に

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クロッカスが咲きました。

といっても、クロッカスは春に咲く花です。
私はこの文章を、暑い夏の七月に書いています。目に見える事象をありのままに描写する方針を採るなら、冒頭の一文は正しいものになり得ません。

そうだとすると、それは何かのメタファであると発想することができましょう。
メタファとは、広い意味で比喩と呼ばれるものととらえられることが多いように思います。基本的に指向する方向としては、それで決して悪くありません。
他方で、私個人としては、やや趣を変えて次のように理解しています。すなわち、メタファとは暗喩、隠喩のことであるというものです。比喩のことだと考えるより、話が細かくなっているわけです。

したがって、言明として、冒頭の一文はメタファである、と、冒頭の一文は隠喩である、とが等価であることがわかりました。

隠喩は、ふつう、文脈の理解を基礎として解釈されるものです。文脈が示されないところでの隠喩には、あまり意味がありません。または、あまり意味を与えることができません。

ですので、ここではクロッカスの話に移ります。
クロッカスについて、特にその物的でない部分について調べてみると、そこには様々な世界があることがわかります。

例えば、花言葉を見ましょう。

こちらの記事を参考にさせていただき、いくつか印象的なものを拾ってみます。

クロッカス | 花言葉しらべ
  • 焦燥
  • 裏切らないで
  • 愛しすぎる心配
  • 不幸な恋
  • 愛して後悔する
何やら、不穏な言葉が並びます。

そのためなのか、因果関係ははっきりしないものの、クロッカスの名がつく事柄に関しては、様々なエピソードがあるそうです。

こちらのページには、いくつかの興味深いお話が紹介されています。それはギリシア神話だったり、西欧の伝説だったりしています。

クロッカス (Crocus) 花々のよもやま話/ウェブリブログ

ソリと、羊飼いの娘と、狼のお話があります。

物語の詳細にまでは立ち入らないことにしますが、それらはいずれも悲しいお話だという点が共通しています。悲しく、主要の登場人物たちに祝福のない物語です。
そこで、クロッカスの花は、登場人物たちの強い感情の象徴として現れてきます。話の流れから言っても、不自然なところはありません。

日本語には独特の言葉があるもので、それは、激情とでも言いましょうか。日本人の感性に照らせば、椎名林檎のような、俵万智のような感情です。

俵万智さんというと、次のような歌のことです。
ガーベラの首を両手で持ち上げておまえ一番好きなのは誰
名状し難いとはまさにこのことでしょう。何かしら、察せられる感情があります。

それでいて、先に話題としたクロッカスの逸話たちでは、クロッカスの花は慰めとしても機能しています。ストーリーに祝福はないものの、慰めだけはあるのです。

クロッカスの花は、激情と慰めとを同時に象徴しています。クロッカスについての理解は、なるほどそのようなものなのでしょう。向かう方向は異なりますが、いずれもドラマティックであると言えるかもしれません。

この、クロッカスの花が示唆するような、激情と慰めが共存するような感覚は、結構、ユニークなものだと思います。余所の場面ではそういった感情を覚えることがない、という意味です。
ユニークであり、また他方では普遍のことであると想像できます。普遍に人々が承認できる感情であったからこそ、逸話は語り継がれるのかもしれません。

すると私も、時代とセットで、洋の東西も問わずに流れてきた感情に、このたび、やっと出会えたのです。
事象としては、私の感情のバリエーションが一つ増えました。理解としては、私の心が一つ豊かになりました。

豊かであるという言葉は、とても良いものです。暖かい心地のする形容動詞です。

それから、心が豊かになるというのも良いものです。
心が豊かになることと、生きるということとはだいたい同じような意味だと、私は感得しています。何度か書いたことがあったでしょうか。日々を生活しようと思うことは、心豊かになろうと思うことなのです。

それはきっと、生きる意味とか、目的とかいったものではありません。何のために心豊かであろうとするのかは、考えてみてもあまりわかりません。ただ、その二つがだいたい同じ意味であるのです。

ここまで、文脈を示してきました。
その理解を元にすると、本エントリ冒頭の一文は次のように解釈できます。

すなわち、冒頭の一文は、ある花への理解を通して私の心が豊かになりました、あるいは、無事に日々を生活しています、といったことの隠喩でした。そして、私はそのような書きだしでふいにエントリを書きたくなったというわけです。


終わりに


俵万智さんも、似たような事象について歌にしていたようです。
「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ
さて、こちらは何の隠喩なのでしょう。

2013年6月30日日曜日

時間で割らないストライド

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堀江由衣さんの、私の大好きな楽曲「Will」に、次のような一節があります。
まだ見ぬ景色は私が見つけだすものってわかった
おそれずに私らしいストライドで
自分らしくあることを示す表現のバリエーションは世に数あれど、「私らしいストライド」とはなかなか目にしません。本エントリでは、ひとつ、ここから連想したことを書いてみたいと思います。

私の話をします。
ストライド、との言葉から想起するのは、歩く速さのことです。

その前に、用語の確認をしておきましょう。はやさ、との言葉は、早さとも、速さとも書けます。同じ読みの言葉に異なる漢字を用いることの議論としては、もっとも有名なものと言って差し支えないと思います。

衆知のとおり、物理的な意味で物体が移動するときに、速さ、と表記するのが大きな方針となります。移動距離をそれにかかった時間で割り算して得られるもので、velocity のイニシャルから v で表すことが多いようです。

いきおい、 velocity と speed とでは何が違うのか、といった話になってしまいそうです。ここでは物理の話をするのが本意ではないため、深入りはしないことにします。

ともかく、そういったものを速さと書き表します。同時に、そうでないものが早さであると理解しても良いような気がします。
速さと早さの集合では、後者の方が大きいのでしょう。属する要素の数が多いという意味です。それから、二つは、大部分で重ならない集合であることもまた、間違いなさそうです。
しかし、排他な集合であるかといえば、そうでもないように思います。つまり、速いとも、早いとも書けそうな場面がまったくないわけではないような気がするのです。

そういったことを踏まえて本エントリでは、将来を見越して、歩く早さ、の表記を採用します。意味を広くとっておいた方が安全だからです。

話題を移します。
私は、歩く早さは人に固有の性質であるとする立場に与します。それによれば、私は歩くのがたいそう遅いです。ひとり歩いているときにはともかく、周囲に人がいたりでもすると、強烈に思い知らされます。

そうでない方には意外な話になるでしょうか。歩くのが遅いというのは、けっこう、つらいものです。

人と歩くときには、たいてい、気を張っていなければなりません。
集団であれば、いつも一番後ろになります。皆が談笑している中、ひとり、迷惑をかけないよう懸命に着いていきます。
周囲に人がいない場合にも問題はあります。歩いている姿をどこからか目撃されると、ずいぶん沈んでいるね、とか、疲れているの、などと声をかけられます。気遣ってもらえるのは大変ありがたいことです。しかし、私はただ歩くのが遅いだけですので、人に無用な心配をさせているのを申し訳なく感じてしまいます。

歩く早さを気にして日々を過ごすのは、素朴な評価として、悩み多き生き方なのです。

とはいえ、ここまで述べたのは過度に具体的で個人的な話です。感情のことを言葉に変換できていますので、いくぶんは良いのかもしれません。ただ、具体的すぎるという属性は残ったままでしょう。

傾向として、具体的すぎる問題は、解決とか、進展とか、折り合いをつけるといった、大まかに良い方向へ進んでいくことが難しいように思います。言葉を見ても、具体的と大まかとでは、なるほど似つかわしくありません。

上で述べた私の事例では、具体的な解決は早く歩くことになるでしょうか。意味があるような、ないような話です。

もう少し考えます。解決には至らずとも、大まかに良さそうな方針が見つかるかもしれません。

歩くのが遅いということは、移動に時間がかかる、目的地に至るまでに時間がかかる、とのことを意味します。移動する距離が変わらなければ、分母の時間が大きいために遅いわけです。

時間がかかると、それに対する重要度が増します。これもやはり傾向の話ではあるものの、おしなべてそうでしょう。つまり、移動の重要度が増すのです。

すると、もともと重要な目的地にたどり着く以前から、重要なことを体験できるわけです。

これは大変に便利です。早いうちから、しかも数多く、重要なことに出会えるのです。

冒頭でご紹介した堀江由衣さんの「Will」には、次のような一節があります。
けれど旅の途中 向かい風の中で
本当に大切なものが 輝きはじめる
本当に大切なものは、旅の途中にあるのかもしれません。とても勇気の出る話です。

速く歩くなら、目的地に着いて、重要なことを体験します。
歩くのが遅ければ、移動の途中、目的地に至るより先に、大切なものに出会えるかもしれないのでしょう。

速く歩くより、早いのです。
移動距離を時間で割るのとはまた違う、早く歩くことになるなら、嬉しく思います。


終わりに


こうして物事を考えていくことは、いつも、私らしいストライド(進歩、発展)でありたいと思っています。

2013年6月23日日曜日

サービスエリアに入る

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こちらの記事を読みました。

R-style » 「遠出」のための地図

記事の中ほどに、興味深い一文があります。引用いたします。
私は「教養」という言葉を聞くと、この全国地図のイメージが浮かんできます。
「スタート地点では、全国地図は大きな力を発揮する」と銘打ってつづられた文脈での一節でした。ずっと地図について述べられていた文脈でしたので、不意に教養という言葉が現れてきたのは驚くべきことでしょう。
少なからず私は驚き、前後の文章を幾度か読み返すこととなりました。

ところが、前後の文章のみならず記事全体を読み直してみても、教養について、再び言及されることはありませんでした。地図に関する話題を取り扱った記事ですので、確かに不思議ではないことです。

そこで本エントリでは、私なりに全国地図と教養について考えてみようと思います。

まずは、全国地図の立場を明らかにしておきます。
この文脈において、全国地図は遠出のときに役に立つものです。進んでいる方向が想定通りであることに、あるいはそうでないことに気づかせてくれるという機能を持ちます。
全国地図があれば道に迷わなかったり、正しい方向に進めたりといったことではないのでしょう。想定通りであることと正しいことは、基本的に別の発想のもとにあるのです。

しかし、自分が想定と異なる方向に進んでいるとき、それに気づく可能性をもたらしてくれるわけです。

もうひとつ、共有したい前提があります。全国地図と教養が、同じスタンスを有していることです。
特に付け加えるところはありません。この話はもともとそこから出発しており、前提についての議論は実り多いものにならないのは世の常なのです。
(私が世間知らずである可能性もあります。)

強調したいのは、全国地図が遠出のためのものだということです。進んでいる方向が想定通りかどうかを判定するのは、それが遠出である場合のことです。

このことと、二つめに掲げた前提を重ねて考えてみます。全国地図と教養とが同じスタンスであることです。
すると、全国地図が遠出に役立つなら、教養が役立つのはいかなる場面になるのでしょうか。

本エントリの冒頭で、教養と全国地図について考えてみます、と書きました。それが、このような疑問に帰着するわけです。
すなわち、教養にとっての遠出とは何か、です。

ひとつ、思い当たる節があります。書籍『羽生善治と現代』にあったエピソードです。

中公文庫<br> 羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
『羽生善治と現代』(梅田望夫)

ここには、プロ棋士の羽生さんと行方さんが登場します。
次に引用するのは、ある対局で羽生さんが指した、☗5三歩という一手について羽生さん自身が語った言葉です。
「手駒に金銀桂を持ちながら先手に直接的な有効手段がないという不思議な状況なんです。それで発想を少し変え、こっちも有効な手はないけれど、そっちもないでしょうということで☗5三歩と打ったんです」
その意味するところを詳細に理解するのは、将棋の知識も必要になり大変です。さしあたって「こっちも有効な手はないけれど、そっちもないでしょう」の部分を押さえておいていただければと思います。

続いて、それを評した行方さんの言葉です。
この局面は先手が少し良いけれど、具体的にどう良くすればいいかがわからない局面です。しかも、実際に具体的に良くしていく手順がない。
まずは局面の認識についてです。どちらが良いとも悪いとも言い切れない局面であるようです。
行方さんは続けます。
でもそこで、こんなに激しい将棋を指しているさなかで、この局面がそういう両者が手を出しにくい「不思議な状況である」と判断できるところが凄いんです。そんな客観的な判断が、ここにきてできるなんて……。
かなり激しい将棋が続いた後の局面で、今は不思議な状況になった、などと客観的な判断が下せることが凄いと言われます。
そして、次のような指摘に至ります。
羽生さんの将棋観が出た手とも言えますね。激しい流れから一転、流れを変えるような意味のわからない手を指して、一手で局面をまったく違うところに持っていってしまう。
述べられている「羽生さんの将棋観」については、引用した範囲では正確に語られていませんので、できれば同書を当たっていただきたいと思います。
私が言及したいのは、激しくぶつかり合っている最中に、ふと意味のわからないような手を指すという感覚のことです。

本エントリの上の方で、教養にとっての遠出とは何か、との疑問を掲げました。
私はここに、その回答を見ます。

ふと意味のわからない手を指す感覚、との言葉で代表できるような独特の思想があります。私の中では、即物的でないとか、直接的でないとか、そういった意味をしています。

先に引用した羽生さんの☗5三歩は、振り返ってみれば、対局のゆくえを大きく分けた重要な一手だったそうです。それと同じように、ふと意味のわからない手を指す感覚が必要になることが、棋士でない人にも様々な場面であろうかと思います。

そんなときに、教養が役に立つはずです。

教養も、その性質からしてあまり直接的でないと言えるでしょう。何に役立つかと問われても、答えにくい類のものです。
だからこそなのでしょうか、意味のわからない手が必要な場面で役に立つわけです。

本エントリ冒頭の言葉でまとめ直すなら、次のようになります。
すなわち、全国地図が役に立つのは遠出の場面であり、教養が役に立つのは直接的でない場面だというわけです。

思えば、遠出にも、直接的でない感覚を持ち出すことはあります。
それは、次に踏み出す一歩が、必ずしも目的地の方角を向いていないためです。サービスエリアに入ったり、おみやげ屋さんに立ち寄ったりする一歩があるわけです。

そんな直接的でない一歩も含めて、遠出です。一歩が大事なのは、どこの世界も一緒なのでしょう。一歩千金です。


終わりに


「☗」という記号があることを、初めて知りました。
どの環境でも正しく表示されるのか、不安です。

2013年6月18日火曜日

未研究とバサロ

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書籍『本を読む本』に、次のような文章があります。

『本を読む本』(J・モーティマー・アドラー、V・チャールズ・ドーレン)
このように、一般に読書の手順は、ちょうど商取引の逆になる。
読書において期待される手順と商取引とを比較し、それらが逆だと言います。非常に興味を引かれる文章です。

細かく見てみましょう。同書は続けます。
商取引では、条件がわかったうえで折り合いをつけるのがふつうだが、
話の都合上、引用を途中で切らせていただきます。

折り合いをつけることについては、同書で多くの紙幅を割いて扱われていますので、この場で厳密な解説に至ることは難しいのでしょう。本文中の言葉を借りるなら、「使われている言葉の意味について、著者と読者のあいだに、ある了解を成立させること」となります。

同書にとっては大変に重要な概念ですが、本エントリではこの程度にとどめておきます。

すると、ここで述べられていることは次のように読みとれます。
すなわち、商取引においては先に何かの条件が存在し、その後で折り合いをつける手続きがなされるわけです。より具体的には、ものを買う際に、買い手は商品やその値段、品質の情報をまずは手に入れ、その上で売り物や売り手の様々な立場を了解できるということになるでしょうか。

ここまで、商取引についての理解です。
先ほど途中で切られた引用文は、このように続けられます。
本を読む場合には、読者はまず著者と折り合いをつけ、そのうえで条件、すなわち著者の命題や判断をさがす。
商取引のときとは反対に、読者は先に著者の言葉遣いを了解します。
その後で、著者の命題や主張を見つけだして理解し、読者当人にとって有益だとか、興味深いとか、実際的な評価を下すにいたるのです。

以上が、商取引と読書とを対比させた見方です。
どちらも、無理に特殊なケースを出さない限り、間違いのないことでしょう。商品の様子を見ずに様々なものの立場を了解できることはありませんし、著者の言葉遣いを了解せずにその主張を把握することはできないわけです。

そして、引用してきたような指摘がわざわざなされるのですから、素朴な日常生活においては、商取引の手順の方がより自然であると言えるはずです。
読書の手順では、その主張の内容も判断できないうちから、つまり、具体的なところはさっぱりわからないうちから、えいっと著者を受け入れるわけですので、なるほど確からしいことです。

この、読書の手順のような物事のとらえ方は、私が大切にしたいと思う発想のひとつです。
表現を変えて繰り返すと、中身が曖昧で不明瞭でも、いったん信じて受け入れてみようとする態度のことです。

『羽生善治と現代』との書籍に、関連する内容がありました。

中公文庫<br> 羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
『羽生善治と現代』(梅田望夫)
※画像は私が購入した紀伊國屋書店ウェブストアのものです

著者の梅田さんと、羽生さんが対談をしている場面です。最近の十年ほど、中盤以降でゴチャゴチャした将棋になることが多い、との話題になったところからです。
引用いたします。
梅田 この十年では特に、本当に未知の局面で、最善手、またはそれに近い手を思いつける能力のある人が有利になったということなんでしょうか?
ゴチャゴチャした将棋に関する問いかけです。
将棋が、指すたびに未知の局面に至ってしまうなら、それぞれで個別に思考を回転させて良い手を思いつける人が強いのか、と尋ねています。
基本的な将棋の力が重要になってきたのか、という質問だと解釈してよいかと思います。

羽生さんから戻ってきたのは、問いより一つ大きな枠組みでの回答でした。
羽生 いや……やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。
毎回の曖昧な局面で何か思いつくとかの前に、その局面を受け入れて、普通にしていられるかどうかが大事だと言われるのです。
なるほどと思いました。これが現場の第一線で戦っている人の実感なんだ、とも思いました。

同書からは、もう一つご紹介したいお話があります。

先の引用とはまた別の機会で、梅田さんと羽生さんが対談している場面のことです。
そこで、「ひたすらバサロ泳法の練習をしている」との表現が出てきました。バサロ泳法とは、競泳で、スタートしたときに潜ったまますいすいと進むときの泳ぎのことだそうです。

言及の内容を見てみます。
つまり、バサロスタートで潜行して一気に進むと、浮き上がったときには目指すゴールまでの残り距離が縮まっているから、そこからでは追いつけない。
これはすなわち、競泳であるにも関わらず、主眼のはずの泳ぎが始まるときにはもう勝負がついてしまっている、とのことを言われています。
羽生さんはそれを、将棋の序盤の研究ばかりが進められることと重ね合わせます。
序盤の研究を進めるというのは、ひたすらこのバサロ泳法の練習をしているようなものです。
同書はここから、別のトピックに話が及んでいきます。
他方で私はそれを、曖昧さに耐えることという文脈で理解しました。

ひたすらバサロ泳法の練習をすることは、確かに良いのかもしれません。たぶん、すぐに結果につながってくるのだと想像できますし、ある程度までなら最強と言えそうな戦略です。

ですが、そこでは泳ぐ力が身につくことはないはずです。

ふとした拍子に研究したことのない局面に至ってしまったら、問われるのは泳ぐ力の方です。
曖昧さに直面してしまったら、必要なのはそれでも普通でいられることです。

泳ぐ力を訓練する方が、バサロ泳法の練習よりもメリットが見えにくいのでしょう。
しかし、いったんえいっと曖昧さを受け入れてしまって、泳ぐ力を高めることに注力するほうが嬉しい体験ができるような気がします。少なくとも、私はそうありたいと思っています。


終わりに


『羽生善治と現代』、大変良い本でした。大いにお勧めです。

あと、本エントリのタイトルは、ロックバンド「Phantasmagoria」の「未完成とギルド」という楽曲に影響されています。
内容とは関係ありません。

2013年6月2日日曜日

アブストラクト・アーリー・サマー

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六月の声も聞こえ、いわゆる初夏と表現される時季になってきたかと思います。初夏、それから梅雨も含めて、春とも夏とも違う独特の趣を携えた季節でありましょう。それを良しとする感性は、忘れずにいたいものです。

初夏といいますと、象徴的なイメージを私は二つほど持っています。
少し、触れてみることにします。

一つめは、百人一首にあるこちらの歌のことです。
春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
ここでいう春と夏は、現代のそれとは多少時季がずれているのかもしれません。そのあたりのことは置いておくとしても、ここで示されているような、初夏の良い天気の日に白い衣を干している風景は、私に強いイメージを与えます。それが天の香具山であることも、連想に一役買っているかもしれません。街ではなく、山だということです。

以上が、初夏に対する私のイメージの一つめです。キーワードで言えば、良い天気、山、白い衣、といったところです。

二つめは、ロックバンド「ムック」の楽曲、「雨のオーケストラ」からの一節に拠ります。
こちらです。
葉桜を濡らす初夏の雨、
いない君を探してる僕
先ほどの清々しさと対照的な、アンニュイさが見てとれます。すべからく、初夏の有様として雨模様は触れられるべきでしょう。
やはりキーワードを掲げておくなら、こちらは雨と葉桜になるかと思います。

いま、良い天気、白い衣、雨、葉桜、といった名詞たちが現れてきました。名詞ですので、いずれもこの上なく具体的な存在です。
しかし、それらが基本的に意味することは、前半のものと後半のものとで大きく異なります。率直に言うなら、前半の言葉はポジティブで、後半はネガティブなわけです。かなり乱暴なくくりではあるものの、直感には反しません。

そのようにばらばらのものから何か共通な要素を見いだして活用することは、抽象化とか一般化とかいうものの機能のひとつになります。今回の例なら、初夏を連想させるもの、とでもなるはずです。

視点の高度、といった表現でよく語られていることと似たような話です。

抽象的であることと言うと、思い出す話があります。

先日、『「やりがいのある仕事」という幻想』との書籍を読みました。そこで、非常に興味深い指摘がされているのを目にしました。

『「やりがいのある仕事」という幻想』(森博嗣)
著者の森氏が、問題を抱えた人たちのお悩み相談を受けた経験を思い返して、書籍内でそれに対して改めて回答しようという趣向です。

件の興味深い指摘は、実際に回答を始める前、前置きの部分にありました。
長くなってしまい恐縮ですが、少しずつ引用しながら進めていきます。

それは、次の衝撃的な一文から始まります。
まず、全体にいえるのは、問題は具体的なもののはずなのに、相談のとき言葉になるものは非常に抽象的だ、ということである。
うなりました。
確かに、個々の人たちがそれぞれに抱いている問題、悩みは、考え得る限り最大級に具体的です。
具体的であることに程度の概念が存在するかどうかは議論の余地があるとはいえ、ともかく、個人的な悩みは具体的なものです。

しかし、それがお悩み相談の形式をまとったとたん、抽象的な言葉に変わります。
お悩み相談の様子をご想像いただければ、同意できることでしょう。そこではなぜだか、質問の内容が抽象的に、一般的になっているのです。

同書は続きます。
これは、具体的な部分が「恥ずかしい」からぼかされている結果だが、しかし、相談をするだけで、自分が抱えている問題を抽象化できるという点は見逃せない。
相談するだけで悩みが抽象化されて、客観的になれるのです。
そして、いよいよ至る指摘が次です。
これが、たぶん相談をすることの唯一の具体的なメリットといえる。すなわち、相談者というのは、回答を聞く以前に、問題を自ら抽象化したことで見えてくる答を、自分の中に既に持っているのである。
相談をすることの機能は、抱え込んだ悩みを抽象的に見直させてくれることだというのです。
なるほどと思いました。

このことは何も、お悩み相談に限ることではないのでしょう。
日常のあらゆる場面で、一人で考えてもらちが明かないことが、他者に助けを求めた途端になんとかなるような状況に出くわします。それがうまくいく仕組みのひとつが、自然と問題が抽象化されることなのだろうと想像できるわけです。

さて、ここまで、物事を抽象化して見ることの例を二つ説明してきました。
初夏の話と、お悩み相談の話です。

それらを踏まえて、ひとつ、触れておきたいことがあります。

抽象化することは、捨象とか要約とか、簡略化することなどとは基本的に異なる思想だと思うのです。
後者の方は、大まかには話を簡単にするというもので、扱う情報量を減らすことになります。一方で、抽象化はまず間違いなく情報量を増やす手続きです。

今回の例で見てみると、もともとは、山、白い衣、葉桜、雨、しか扱っていなかったのに、そこに初夏が追加されています。
二つめの例なら、当初は自分が抱えていた悩みしかなかったのに、途中からは他者に相談するための言葉も管理しなければなりません。
話は複雑になっているわけです。

ちょうど、地図のアプリケーションのようなものです。
拡大させると、お店や交差点の名前まで細かく表示されます。航空写真のビューであるなら、道路のコンクリートまでも確認できるでしょう。
縮小させると細かい情報は見えなくなりますが、その分だけ広範囲を表示させることができますので、別に情報量が減っているわけではありません。
ディスプレイの大きさが変わりでもしない限り、ふつう、情報量の増減はないのです。

そして、必要に応じて縮小と拡大を繰り返しながら、すなわち様々な高度の情報を複雑に取り扱いながら、目的地にたどり着くわけです。

目的地が遠ければ、縮小した表示が良いでしょう。
近いなら、コンクリートのありさまも見える方が良いはずです。


終わりに


念のため、解説しておきます。

本エントリの中ほどに「うなりました。」とあります。
これは、自分の抱えている問題と、言葉にした問題との二種類があって、それらが似ているけど少しだけ違うため、「うなり」ましたとなっています。
振動数が少しだけ違う二つの音が、干渉していたというわけです。

2013年5月25日土曜日

心が豊かになるから

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私は、情報カードはコレクトとライフを併用しています。コレクトのものは無地で、ライフは方眼です。コレクトの方が紙質、書き味ともにやわらかく、日常向けとしてある意味乱暴に使っています。一方で、できれば長い期間保存しておきたいと思うような情報を書きつけるためには、ライフの方眼を使用します。
それから私の場合、大きさは名刺サイズ一辺倒です。

以上、挨拶でした。
こちらの記事に影響されたものです。

R-style » なぜなに”知的生産” 〜情報カードの使い方〜

さて、下記の記事を読みました。

R-style » Evernoteフリーク的アウトライナー論(1)

記事の冒頭に、次のような一節があります。引用いたします。
しかし、この疑問は危険である。表現をかえれば「考えるとは何かを考える」ということだ。自己言及は慎重に扱わなければいけない。
非常に興味深く、また納得いく指摘です。自己言及を慎重に扱う必要があるのは、世界中の様々な思索の歴史に照らせば、まず間違いのないことです。クレタ島人しかり、ラッセルのパラドックスしかりです。

ここで、いま述べた自己言及を慎重に扱うことの重要さは、理性を持ち出して落ち着いて考えたときに行き着いていることに着目します。すぐ上の段落のふたつめの文は、理性によって落ち着いて書かれているわけです。
一方で、ひとつめの文はそうではありません。私が興味を覚え、納得いくと感じたことは、よく考えてたどり着いたものではないのです。

話が込み入ってしまいました。自己言及したためかもしれません。

要は、自己言及を慎重に扱うことについて、理性を介さずともそれに同意できるような下地が、私にあったということです。多くの場合で、それは感性などと呼ばれるものです。

私には、自己言及に不安を覚えるような感性がありました。
この感性は、どこで形成されたものなのでしょうか。まさか、生まれながらに持っていたわけではないはずです。

そのあたりを考えてみます。

情報工学には、再帰という物事の考え方があります。redirect のことだと理解される場合もあるのかもしれませんが、ふつう、再帰といったら recursive のことでしょう。私が語ろうとしているのも後者の方です。
(動詞と形容詞が並列するのは妙なことでした。言葉の綾というやつです。)

再帰とは、自身を定義するために、自身が必要であることです。
典型的な例で恐縮ですが、フィボナッチ数列を取り上げてみます。

フィボナッチ数列上のある位置にいる数は、そのひとつ前の数とふたつ前の数との足し算になっています。とても長い数列の、どこの位置の数に注目してもそうなっています。

すると、適当な数までのフィボナッチ数列を定義するためには、ひとつ前の数までのフィボナッチ数列を定義できなくてはなりません。ひとつ前までのフィボナッチ数列を定義するためには、さらにひとつ前までのフィボナッチ数列を定義できなくてはなりません。

これが、自身を定義するために自身が必要な状態であり、すなわち再帰です。
再帰のおかげで、フィボナッチ数列の様子を、わかりやすくきれいに理解できるようになります。使い方を誤らなければ、とても強力な考え方なのです。

使い方を誤らない、とは他でもありません。フィボナッチ数列の、一番めと二番めの数は1だということです。
これを定めておかないと、ひとつ前までのフィボナッチ数列をどこまでも探しに出かけてしまって、二度と戻ってこなくなってしまいます。世に言う無限ループです。これは恐ろしいことです。筆舌に尽くし難い恐ろしさです。

このあたりで、本エントリの上の方に掲げた疑問への回答が見えてきたように思います。すなわち、自己言及に対する私の感性の出自のことです。

明らかに、ここで述べたフィボナッチ数列は自己言及的です。再帰的であることと自己言及的であることは、よく似ているわけです。
同時に、私には数学や情報工学の背景があります。私に限らずこのあたりに足を踏み入れている人は、再帰の考え方を通して自己言及の扱いの難しさをよく知っています。それはもう、身にしみて理解しています。

これが、冒頭の「考えるとは何かを考える」危険さの指摘について、私が一目で納得できたような感性の出自です。数学や情報工学の知識に由来していたということです。

いま、ある特定の感性について書きました。数学への理解がなければ、私はそれを抱くことがなかったわけです。

数学を知らない私というものがあったとしましょう。
すると、そのような仮の私より、現実の私の方が豊かな感性を抱いていることになります。非常に論理的な意味で、間違いないことです。

私は、数学のように、素朴な日本語ではないものを学ぶことのひとつの有益さを、ここに見いだしています。端的に言えば、数学を学ぶと心が豊かになるのです。視野を広げてみるのなら、そこには英語などの外国語を、あるいは日本語でも自分が詳しくない世界の話などを、含めてもよいかもしれません。

それは、言葉が感情を規定するという立場を前提としてしまってはいます。
しかし、その前提に抵抗がないのなら、数学を勉強しておくことは大いにおすすめです。心が豊かになるからです。


終わりに


なかなかによい結論にたどり着けました。ライフの情報カードに記録しておこうかと思います。

ここで情報カードの話を持ち出すのは大変に自己言及的です。
扱いは慎重にする必要があるわけですが、本エントリは1行めと2行めを1にしていますので、無限ループに陥る心配はありません。

2013年5月19日日曜日

役に立つアート

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『ウェブはグループで進化する』という書籍があります。

『ウェブはグループで進化する』(ポール・アダムス)
発売当初にはかなりの話題になりましたので、ご存じのかたも多いことと思います。私もわりと早いうちに読んでいました。

当時の潮流からは、ウェブでの情報の伝わり方やマーケティングを指向する人にとって、同書が興味深いものとなっているように読みとれました。同書内にもマーケティングやソーシャルウェブといった単語は頻繁に現れており、なるほど納得いく話です。

他方で、私はこれといってマーケティングを指向しても、ソーシャルウェブの様相に関心を抱いてもいません。同書がもしそういった読まれ方しか許さないのであれば、私には楽しめないことになってしまいます。

しかし、私は同書を大いに楽しむことができました。マーケティングやソーシャルウェブの動向とは、直接には重ならない方針で読み進めることができたというわけです。
マーケティングなどの具体的な言葉で見通されているものの、その背景で語られているのは情報の伝わり方についてです。情報の伝わり方についての議論をもとにして、マーケティングの理解に繋げていると言ってもよいでしょう。

いま、情報の伝わり方と書きました。仮に、この表現に違和感を覚えることがないとして話を進めます。
違和感と言ったのは他でもありません。情報は、少なくともソーシャルウェブでの情報は、伝えるものだからです。情報が勝手に伝わるのではなく、人が情報を伝えるのです。
論理的な意味では、これは間違いないことです。発生している事象としては、人が情報を伝えていることのはずです。

しかし、情報の伝わり方という表現からは、特に不審を覚えることはありませんでした。現実の事象に反しているにも関わらず、です。

現実の事象そのままではない、別の視点を持つ必要があるのでしょう。必ずしも、目に見える現実の様子だけを記述していればよいわけではないのかもしれません。

情報が伝わるとの表現に違和感がないとするなら、本来ここに登場するはずの人間をほのめかすことは、必須でないことになります。とりたてて人間がどうのという話をしなくても、人間が情報を伝えていく様子を取り扱うことができるわけです。

上で、『ウェブはグループで進化する』が情報の伝わり方についてを議論していると言ったことには、そのような含みがあります。

すると次には、人間が情報を伝えることに関しているのに、人間の描写が必須でなくなるのはなぜなのか、という疑問が浮かんできます。

それは例えば、同書の章タイトルからヒントを得られることでしょう。内容にまで踏み込まずとも、おそらくは想像できます。

いくつか掲げてみると、
第3章 ソーシャルネットワークの構造が与える影響
第7章 脳が与える影響
第8章 先入観が与える影響
となっています。

ソーシャルネットワークの構造、脳、先入観が、人が情報を伝えることに何かしらの影響をもたらしており、その詳細が本文で述べられているわけです。

さて、これらはいずれも人の意識によって関与できないものです。意識してソーシャルネットワークの構造に手を加えることはできませんし、後の二つも然りです。言い換えれば、いずれも人の無意識に作用して、ふつう意識的に変化させることのできないものです。

すると、人が情報を伝えることを論じたいとき、それは人の無意識について論じようとしていることに似ていると言えます。主要な登場人物が無意識であるために、人の存在をほのめかさない、情報の伝わり方という表現を用いても違和感がなかったのです。

少しだけ論点をずらします。
私は、人の無意識の挙動について学ぶことを大変に重要視しています。自由な市民として生活していくための知識、技芸の一つとして、数えられてもよいのではないかとすら思います。

ただ、自由市民の技芸に数えるにしては、無意識の挙動を学ぶことはあまりに役に立ちすぎるきらいがあります。それの先客である幾何や音楽に比べると、無意識の挙動には、学ぶことの伸びやかさとでも言いましょうか、そんな雰囲気に劣るような気がするのです。

そうなると私の場合、無意識の挙動を学ぶことはライフハックの一つに分類されます。あまりに役に立つためです。別に、ライフハックをすなわち役に立つものと定義するつもりはないのですが、なんとなく、そうなのです。他にこれといって思いつかないだけかもしれません。

細かい話はさておき、無意識の挙動を学ぶことには伸びやかさもありつつ、大いに役にも立つわけです。学ぶことにとって役に立つことはあまり興味のないことであるものの、役に立ってくれるに越したことはないかと思います。

これでようやく、冒頭の伏線を回収できます。
これといってマーケティングなどを指向しない私が『ウェブはグループで進化する』を楽しめたのは、それを無意識の挙動を学ぶことの文脈で読んだためだと推測できるのです。


終わりに


無意識の挙動、とはなかなかに当を得た表現かもしれません。

2013年5月12日日曜日

2013年、4月のこと

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こちらの記事を読みました。

しぐさを丁寧にしてみる

私の大好きな連載で、いつも楽しく読ませていただいています。
その中でも、同記事にはいたく感動しました。

記事の内容としては、そのタイトルでじゅうぶん示されていると思います。一文だけ引用いたします。
通常は、苛立ち・焦りが原因、しぐさが雑になることが結果になりますが、しぐさを丁寧にしていると心もそれに合わせて不思議と落ち着いてきます。
深く共感する話です。私などは、焦ってきたときにはメモを多くとることにしています。きっと、同じ態度をもとにしていることだろうと想像します。

態度がどうとかいう遠回しな話をせずとも、単純に、しぐさを丁寧にすることには心を落ち着ける効果があります。それはもう、劇的にあります。
もう少し言うと、しぐさを丁寧にすると心を落ち着けられると全面的に信じている人で、私はいつもありたいと思っています。

そんな、穏やかで、どこか知的であるようなことが良いのです。

穏やかで知的であることと言うと、もう一つ別の話があります。
先日、「Webラジオ Pl@net Sphere」というネットラジオを聞いていたときのことです。

Webラジオ Pl@net Sphere

二十歳になったときの思い出、といったテーマでお話がされていたことがありました。その中で、出演者の一人、豊崎愛生さんが言われていたことがとても印象に残っています。

いわく、二十歳になったときに嬉しかったことは、周囲の人におめでとうと言われたことだったとのことです。そこで、二十歳になることはおめでたいことなんだ、という感動があったそうなのです。

物事のこのような部分に感動できるような感性に対して、私の心は静かに打たれます。素直にうらやましいと思う感性です。

ふつう二十歳の思い出と言えば、大人の仲間入りをしたとか、成人式で古い知り合いに会ったとか、そういった話になりましょう。いずれも、二十歳になった折にしか直面することのない、大事なことです。忘れたくないことです。
きっとそこには、多くの人による、多様なエピソードがあるものと思います。

他方、周囲の人におめでとうと言われることはどうでしょう。それはエピソードとしては、多様と反対側にあるとおぼしきものです。きっと多くの人が同じように体験していて、改めて語られなければならないようには見えません。

しかし、エピソードは陳腐でも、感動は独自です。
そして、そういった独自の感動を覚えられる人のことを、私は、素晴らしい感性を携えた人であると評します。本エントリの例で言えば、豊崎愛生さんや、冒頭に掲げた記事「しぐさを丁寧にしてみる」を書かれた方のことです。

穏やかで、知的です。いつも、私もそうありたいと思っています。

同じ文脈で、『知的生活の方法』という本からひとつ触れたいことがあります。

『知的生活の方法』(渡部昇一)
「静かなる持続」と題された節で、イギリスのスキートという学者の知的生活のお話が紹介されています。
引用いたします。
このスキートは、自分の編纂した古い文献の索引を作るとき、とにかくその本に出てきた単語をすべて一語一枚の割合で出てきた順序にカードに書き写し、それをあとでもう一度チェックして、アルファベット順に並べなおしたのである。
エピソードだけ追うなら、スキートという学者が京大式カードのさきがけのような手法で情報を整理していた、といったものになります。
しかし、ここで語られようとしている感動はそれではありません。至るためには、節タイトルとなっている「静かなる持続」を読み解く必要があります。

同書から答えを探すなら、「急ぐことなく、心の平静を失うことなく、充実した知的生活を楽しむ」こと、それをずっと長いこと続けることになるでしょう。
続けることは、カード作りに限られるものではありません。まったくもって、何でも構いません。
何でも構わないのに、その姿勢や態度は至高のライフハックなのです。

同書の同節は、スキートの逸話がもう一つ紹介されて締められています。こちらも、どうしても触れておきたいものです。
引用いたします。
彼はこの膨大なカードを整理するとき、炉辺で談話しながら、静かにやっていた。それはあたかも、婦人が編みものをしながら会話するかの如くであったという。
やはり、独自の感動があって、穏やかで、知的です。
こういった生活を良しとする感性に、私は憧れます。

さて、本エントリでは、トピックを3つご紹介しました。いずれも、私が憧れるような感性に関係する話です。

翻って考えてみると、私にも該当するエピソードはありました。
私の場合は、ポメラで文章を書くことがそれです。私が指向する、穏やかで知的な生活の象徴なのです。

そんなことを思ったのが、2013年、4月終わりのことでした。


終わりに


少し上に「その姿勢や態度は至高のライフハック」と書きました。
「姿勢や態度」と二つ並列させていますが、英語ならどちらも「attitude」です。個人的には、「attitude」と一つ書くほうが文脈をよく表せているように感じます。

すると、日本語には「attitude」に対するうまい訳がないことになります。興味深い話です。

2013年4月28日日曜日

街に依って作られる

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こちらの記事を読みました。

いかにファンタジーを創るかという私の創作の基点が”街”である理由 - なんかカラフルな生活

私は、記事内で触れられているような創作の方法論の類に関してあまり知識がなく、新しい情報として読ませていただきました。

その中で、こちらの一文に強く衝撃を受けました。
これも様々わかれるところで、創作の”初っ端”になにをするかなのですが、私の場合は”街”を創ります。
控えめに言って、鳥肌が立ちました。
創作において初めに作成されるのが、登場人物でもストーリーでもなく、街だと言われるのです。

記事は、その理由をめぐって進んでいきます。
街、街と言いましたがではなぜ街から作り始めるのかというと、「街こそネタの宝庫」だからです。
こちらの文章を目にして、はじめの私の衝撃は理解に変わりました。心底納得がいきました。今や、物事を理解するとはこういうことかと思えるほどです。
往々にして、このようなときには費やせる言葉があまりありません。このときに思ったのは「そうか、街こそネタの宝庫だからか」といったことです。明らかに何も言っていないのです。

しかし、理解したということとはまた異なるフェーズとして、それについて苦労して言葉を費やしておくことには意味があります。そうしておかないことがもったいない、とでも言うと私の直感に反さないでしょう。

そこで本エントリでは、街から初めに創作されることについて、私なりに考えてみようと思います。

今回はそんな話です。


街から作り出す


ファンタジーをはじめとして創作と呼ばれるものは、ふつう、それが面白いということが要求されます。これ自体は、ほとんど議論の余地のない命題であることでしょう。創作を受け取る方の人たちは、いつもそれが面白いことを期待しているはずなのです。
いま創作と呼んでいるものは、できるだけ広義にとらえてしまって構いません。ここでは話の都合上、小説を想定しておくことにします。

すると次に触れられるべきは、面白いとはどういうことかについてになります。かなり厄介な問題です。

ほんの少しだけ切り込んでみます。仮に、面白いということが様々な要素が寄せ集まってできあがるような事象であるとします。それほど不健全ではない仮説のはずです。
そうであるときそのいくつかの要素の一つには、創作が何らかの意味で想像を越えていること、が含まれていると思います。面白ければ、想像を越えた部分を何かしら含んでいるのです。
想像を越えている何かがあることは、面白いことの必要条件であると言い換えても良いかもしれません。もちろん、明らかに十分条件ではないわけで、それがこの話を難しくしている部分です。

わずかながら、先に進むことができました。面白いことの中身が少しだけ見えたわけです。
それでは、想像を越えるとはどういうことになるでしょう。面白さについて考えるより、とっつきやすいとは思います。とはいえ素朴に答えられるものではありません。想像を越えていることが想像できてしまったら、それは想像を越えていないためです。

ここに、創作が街から始まることの意味があります。

創作を街から始めるということは、すなわち、人間の想像力の限界を街に置くことになります。何もないところに何かを作り上げようとするわけですので、それは全面的に人間の想像力に依存するのです。
あるいは、人間の想像力の限界に依ってしまう部分を、街に定めると言っても構いません。創作のうちのどこかの部分は、残念ながら人間の想像力に規定されてしまうわけです。

重要なのは次です。
人間の想像力によって定められた街は、その世界のベースとなります。そこに、人物や世界観や物語が文字通り乗せられていくことになるのです。
そのため、これらが創作される場合には、何もないところから作り出されるわけではないことになります。少なくとも、そこには街があるわけです。

すると、人物や物語などは人間の想像力に依って作られるものではなくなります。街に依って作られるのです。
すなわち、人物や物語や、その他世界に必要なものは、街に従って自己生成的になります。
これは、その世界の外にいる人間(たいてい、作者です)にとっては、物語などが勝手に生み出されているように見えるでしょう。街をあたかも触媒のようにして、それらが自己生成的になっている様子がそう見えるのです。

これが、冒頭でご紹介した記事で「ネタの宝庫」と呼ばれているものの中身になるはずです。同時に、本エントリで想像を越えると呼んだことの論理的な説明でもあります。
人間の想像力と同等の位置にあるのが街で、それ以外のすべては街に従って自己生成的であるため、必然的に想像を越えるというわけです。

そしてそれが、面白さにつながっていくことでしょう。

さて、ここまで私が述べてきた話は、はじめに作り上げるものがなにも街でなくても成り立ちます。与える引数を変えても、メソッドは同じ挙動を示すのです。
つまり、人物から先に作り出せば、街の方が自己生成的になるということです。こと小説に関してはそれだと扱いにくいでしょうが、他方、本エントリの話はひとつのメタファだったとすればどうでしょう。周囲を見回すとおそらく、街の方が自己生成的で良いような事柄もたくさん見つけられるはずです。

見つかったそれらが、もし何かしらの意味で想像を越えなければならないとしたら、本エントリでの話はきっと役に立ちます。


終わりに


苦労して言葉を費やしてみました。

この場合は、使わずにいるのはもったいないため、どんどん費やしてしまう方が良いようです。
こちらは何のメタファでもありません。言葉の話です。

2013年4月22日月曜日

ぶつかる経験、あつかう感覚

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こちらの記事を読みました。

R-style » 「先輩、なんかオススメの本ありますか?」と尋ねられたら

冒頭に、次のような一文があります。
新年度になり、新社会人向けのエントリーをちらほらと見かけるようになりました。
世相にはとんと不案内な私です。なるほど、新社会人向けの様々な発信が見られる時季を迎えていたようです。
私の視野には現れませんでしたので、想像になりますが、同記事のようにお勧めの本を紹介する内容のものもあったことでしょう。

本をお勧めするという行為は、大変難しいものです。ましてや、単なる娯楽のためだけではない本となればなおさらです。

先の記事も、次のように結ばれています。
やはり人に本を薦める上で、その人の背景や現在の関心領域、そして今後必要になりそうな分野、といった情報は加味したいところです。
かくいう私にも、とても良かったから多くの人に読んでもらいたい、といった本ならたくさんある一方で、面と向かってお勧めの本を尋ねられたときの回答は、あまり持ち合わせていません。どこまで考えても、難しい問題であり続けることと思います。

さて、本をお勧めするのは難しいものの、それに準ずる助言でしたら私にも多少あります。理解すること、情報、知的生産といった話にはもともと関心を持ちますし、それらはいずれも広義には役に立つと言えるものなのです。
お勧めの本を掲げる代わりに、本エントリではそのあたりについて書いてみようかと思います。必ずしも読書とは結びつかないような、軽い話になるはずです。

今回はそんな話です。


お勧めに代えて


書きたいことは二つあります。

一つめは、わからないことにぶつかることです。
やはり想像になってしまいますが、学校を卒業して日が浅いような若い方は、学生の時分とは比較にならないほど多くのわからないことに出会うはずです。それも、教科書を調べればわかりそうな類のものではなく、およそ手も足も出せないような事柄でありましょう。

このあたりには読書の出番があります。
読書でも、自身が専門としない分野の本を読んでいると、さっぱりわからない内容が出てきたりします。

手の打ちようはいくつかあります。辞書や他の本を当たったり、人に聞いてみたり、自分で一生懸命考えてみたり、あるいはいったん保留にしたりとできるわけです。
こういった取り得る手だてがある中で、どれを選択したら良いかを回答するのはやや困難です。いずれも身につけておき、それぞれの場面で、それぞれに最適なものを選び取れるのが理想でしょう。

しかし、そういった具体的な施策の前に、さっぱりわからないことにぶつかって何とかしようとする場面に出くわした経験を、多く持っておくことには意味があります。それは学生の頃にはそれほどないことです。同時に、学校を卒業すれば頻繁にぶつかることです。

読書によってそれに慣れておくことができるなら、とても結構なことです。
以前に本ブログで書いた「無感動な近道」とのエントリでも、抽象的な形で似たことを述べています。三か月越しの伏線回収となったようです。

二つめの話は、情報を取り扱うことです。もう少し言うと、情報を取り扱うことに全力を尽くすことです。

長らく、ここで私が抱いている感覚をうまく言葉にできずにいました。幸運にも下記の記事で言及があり、目にした折には大いにほっとしたのを覚えています。

Evernoteアンバサダー「ブログ・バッグ」に就任しました! #enjp3:[mi]みたいもん!

該当の箇所を引用いたします。
この共通点は、「情報をどう扱うか?ということに投資をする人たち」ということなんだと思っています。
情報を扱うことに投資すること、です。心から納得のいく表現です。

投資すると言いますと、なにやらお金を使うことに考えが向いてしまいそうです。もちろん、それに限定することはないのでしょう。情報を取り扱うことに対して全力を尽くす、真剣になる、といったことを含んでよいと思います。

そういった感覚になじみのない方には、少しわかりにくい表現になってしまったかもしれません。
いま、自分の部屋を考えるとします。きっと誰しも、本棚はここで、ベッドはここで、といったことについて趣向を凝らすはずです。キッチンでも、食器を置く場所は、調味料をしまう場所は、と試行錯誤があるでしょう。

そういった必死さを持って情報を取り扱おうという姿勢のことを、ここでは言っています。
その姿勢を感じるためには、たとえば次の記事が参考になります。

下か?上か?右か?左か?Windowsタスクバーの最適な位置を真剣に考える | jMatsuzaki

記事タイトルで、内容はじゅうぶん説明されているかと思います。
タスクバーをどこに配置するのであれ、それを真剣に考えようとする姿勢は特筆に値します。

一つめの話と同じく、では具体的にどうしたらよいか、については特に語れることがありません。京大式カードが良いかもしれませんし、一冊のノートにまとめるのが良いかもしれません。はたまた、EvernoteやKJ法などですらここには含まれてくると考えられます。

しかし、こういった具体的な施策の前に、情報を真剣に取り扱う心構えを持っておくことには意味があります。ふつう、それは生まれながらに携えられてはいないため、学生の時分には至ることのない感覚でしょう。それが、学校を卒業すると大変意義深い感覚になるのです。

ここまで、二つのことを述べました。
具体的な施策の以前に、経験しておく、感覚を知っておく、といった内容だったかと思います。

まとめとして、『プログラミングの心理学』から引用いたします。

『プログラミングの心理学』(ジェラルド・M.ワインバーグ、伊豆原弓)
※画像は私が購入した紀伊國屋書店ウェブストアのものです
言い換えれば、知的であるということは、あらゆる問題に適用できる魔法の処方をもつことではない。むしろ、数多くの「処方」をもつことであり、どれか1つの方法にこだわって、ほかの方法に切り替えられないという事態におちいらないことである。
知的というと大げさに聞こえますが、良く仕事を進めることと言い換えても構わないでしょう。
そして、ここで「数多くの処方」と呼ばれているものを俯瞰して束ねる役割を、本エントリで述べてきた経験や感覚は果たすのです。


終わりに


本エントリで挙げた話は、特定のお勧めの本によってというより、読書の習慣によって身につくことかもしれません。
それらは処方を俯瞰して束ねるものですので、考えてみればそちらの方が自然です。

2013年4月17日水曜日

総称のカレー

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本ブログで度々話題にしていることに、生活する中で私が大事にしていることについてがあります。生活していく中でとまで銘打っていることもあり、ふつう、そこで言及される内容はそれほど多岐に渡ったりはしません。

一方で日々にあるいくつかの場面に目を向ければ、それが該当するところは多くあります。総称してしまえばそうでもなくとも、細かく見ればたくさんあるということです。

本エントリでは後者、すなわち日常の場面を細かく見たときに、私が大事にしたいと感じたことについて書きます。総称してしまえばあまり珍しいことは言っていないと思いますが、別に私は総称しながら日々を過ごしているわけではないのです。

今回はそんな話です。


ある場面


前書きはずいぶんと回りくどい言い方になってしまいました。具体的に言います。
私の物事の考え方の基本方針のひとつに、複雑なものをなかったことにしない、というものがあります。総称した、との表現で先に述べたのはこのことです。

それを踏まえて本エントリで触れたいと思っているのは、食べ物のことです。最近、大いに考えることがあります。
歴史的に見れば、食べ物が有する様々な背景や込められた思想は相当なものがあります。常に人類とともにあったものですので、なるほどそれはそうでしょう。食べ物について考えようとする立場は、それなりに意味あるものになるのです。

実例をもって話を進めようかと思います。繰り返しておくと、複雑なものをなかったことにしないことに関しての、食べ物の話です。

いろいろと例示できそうなものはありますが、カレーについて書きます。現代の日本で言うところのカレーを思い浮かべていただければ問題ありません。強いて言えば、ライスではなく、カレーの方です。

カレーの細かい定義に触れるつもりはありません。実際、発祥とされるインドには素朴な意味でカレーという食べ物は存在しないそうで、それはそれで面白そうな話ではあります。
ですが、今はそういった正しそうな部分ではなく、もっとイメージに寄ったところに興味があります。

話の都合から、二つ前提としたいことがあります。
一つは、カレーの発祥の地ではとても昔から、庶民的にそれが食べられていたことです。調査したわけではありませんので、本当にそうかどうかは私にはわかりません。一応、直感に反さないことでしょう。
もう一つは、カレーの発祥地では材料となる香辛料の類が豊富にあったことです。これもやはり調べてはいませんので、実際の様子はいったん脇に避けておきます。あくまで、話の都合上の前提です。

ちなみに、カレーの発祥の地はインドのような気がしますが、ここではそれも無視します。

さて、今でこそ私たちは、カレーという言葉から一つの料理を共通して連想します。すでに完成されたカレーの概念があって、それを知識として得ているためです。

しかし、発祥地でのカレーの歴史を見てみると、おそらくそのようにはなっていないでしょう。
たぶん、香辛料が身の回りにたくさんあったことからスタートしています。たくさんあるからそれで何か食べられるものを作ろうと、そこに住むいろんな人がめいめい思ったはずです。
するとその地域では、香辛料を使ったちょっとした食べ物が、いろんな人の手によって作られたことでしょう。それらは一つ一つが少しずつ、あるいはまったく異なります。現代日本のカレーのように本格的でもありません。香辛料がたくさんあったから、なんとなく、作ってみたものなのです。

それから、香辛料を使った料理を作ったことのある人たちの交流が進むなどして、それは徐々に本格的になり、統一されていったと想像できます。

それらをすべて総称したのが、カレーです。
きっと、カレーが統一されてからも、人々はカレーを作っている認識はなかったのだと思います。あくまで、身の回りの香辛料でできる食べ物に過ぎないためです。概念の方が後に来ているためです。
その意味では、例えば、カレーの作り方という言葉は成り立ちません。何か一つの食べ物によってこれがカレーだと示すことはできないのです。

カレーは、ここまで述べてきたような一面を持つと同時に、現代の日本でふつう連想されるような面もあります。後者については特に語ることはありませんので省略しますが、どちらか一方だけということはないのです。

本エントリのカレーのような話は、他にも様々な料理に当てはまります。
パスタやピザ、お味噌汁、そしてパンなどがそれでしょう。
どれも、個々の素朴な発想が集まって、総称を手に入れるに至ったものだと思います。

『考える生き方』という書籍に、次のような言葉がありました。

『考える生き方』(finalvent)
もともと、一人暮らしを始めたころから、よくパンを作っていた。誰かにパン作りを教わったことはない。パンの作り方の書籍を読んだこともない。 
(中略) 
パンなんていうものは、人類がずっと食べてきたものだから、原型はそんなに難しくないはずだ。
パンという食べ物があって、その作り方を勉強して、といったものではないわけです。
この感覚、スタンスは、まさに私が本エントリでずっと書いてきたことです。これを目にしたとき、とても感動したのを覚えています。

パンやカレーについて考えることは、私にとって、ひとつの考える生き方です。
パンも、カレーも、総称してしまえばそうでもないのに、細かく見ればたくさんあるものなのです。


終わりに


昔どこかで書いた、私が悪魔の証明の話をあまり好きでないことは、ある部分を本エントリのことに依っています。

それから、食べ物について考えることに関しては、ウェブメディア「cakes(ケイクス)」のこちらの連載にも影響されています。

晩酌歳時記|佐藤和歌子|cakes(ケイクス)

このところ、大好きな連載です。大いにおすすめです。

2013年4月13日土曜日

いずれかが欠けても

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学生のときに勉強した数学が、学校以外の生活で役に立つ場面はたくさんあります。
ここでの役に立つことの意味を、俯瞰した見方にまで広げてしまうとそれこそ数え切れないほどあるでしょうが、具体的に、直接に役に立っている場面だけを取り出したとしても、それなりの数になるはずです。

将来の役に立たなくても、数学を勉強する価値は大いにあります。他方、数学を勉強しておけば以後の人生のあちこちで役に立ちますので、手間が省けて効率のよいこと請け合いです。学生のときに数学を勉強しないという選択は、苦労は買ってでもしたいという立場を貫くときには有効となるかもしれません。

話が逸れました。
本エントリでは、その、数学が役に立っている場面のひとつを書いてみようと思います。

今回はそんな話です。


数学の問題


数学の問題が与えられて、それを解こうとするときのことを考えてみます。ふつう、数学の問題を解くといったときに思いつく場面で間違いありません。

このときの思考の動きに着目します。
ぱっと問題を見せられていざ解こうとしたときに起こるのは、まずはアイデアを考えることになるでしょう。目の前の問題が、以降解かれる中で姿を変えていく様子を想像しながら、取り得るいくつかの手だてを発想するのです。
言葉にすると複雑ですが、それほど突飛な話ではないかと思います。解答に至るために手を動かすなら、以降の流れを見据えて目の前の一歩を思いつくことから始めるわけです。言うなれば、展望を思い描くということです。

程度の差こそあれ、どのような数学の問題に対しても同様の話が当てはまります。公式を暗記して適用するだけの状況であってもそうです。複数あるだろう自分の手持ちの公式のうち、何を選択したら問題がどのように姿を変えるか、そして解答にたどり着きそうかの青写真は必ず描くはずです。
そして、問題が単純でなくなれば、ここで言う展望にかかる手間は大きくなります。問題が姿を変えていく様子を、多くのステップにまたがって想像していかなければなりません。ときには、青写真が不完全なままで問題に取りかかる勇気が必要になることもあるでしょう。

ここまでを第一段階とします。空想の中で、青写真を描く段階です。

第二段階は、いま描いた展望に沿って手を動かしていくことになります。ある手順でうまくいきそうだと思ったとしたら、実際にそのようにしていくわけです。

ここには、空想の中の青写真にあったような華やかさはありません。自分が描いた道筋に沿って、踏み外さないように、一歩一歩、進んでいくだけです。それほど工夫の余地があったりもしませんし、素晴らしいアイデアがもてはやされたりもしないのです。むしろ、道筋を踏み外さずに進むためには新しいアイデアは邪魔になるかもしれません。ただただ道を誤ることなく進むのは、あまり楽しくはないことと思います。

そうして一歩ずつ進んでいくと、楽しい空想のときには出会うことのなかった様々な障害にぶつかります。意外に式変形がややこしかったり、きれいに約分できなかったり、思ってもみない場所の線分の長さが必要だったりするのです。青写真に写っていないものが表出してくるわけです。

ここで再び、アイデアの出番が来ます。
予期しなかった障害を、どのように乗り越えていくのかを考えるのです。それは、変わらず地道に着実に進むことかもしれませんし、障害の越え方に工夫を凝らすことかもしれません。あるいは、道を変えてみることもある得るでしょう。
何であれ、現実にぶつかった障害を正しく認識して、青写真を描き直すということです。

以上で述べたのが、数学の勉強が実際に役に立つことの話です。

身の回りに存在するあらゆる出来事から、述べてきたような二つの段階を認めることができます。すなわち、展望をアイデアとして発想することと、それを愚直に実現させることです。

これらの二つの段階は、どちらも同じだけ重要なものです。
見事なアイデアを発想できる突飛さがなければ、進む道を定めることができません。愚直な一歩を少しも踏み外さない慎重さがなければ、定めた道を進むことができません。前者がなければ後者は無用ですし、逆も然りです。
そして、思いもよらぬ障害には必ず出会いますので、道筋を引き直す柔軟さも必要です。

数学からは、これらのことを一挙に学ぶことができます。数学の問題を解こうと一生懸命になることは、発想することと慎重であることの大いなる訓練になります。

さらに意義深いこともあります。
数学からは、これらのことがいずれも同じだけ重要であるということを知ることができます。いずれかが欠けても無事に問題を解き終えることができないということを、身をもって感じられるのです。
そしてそれは、何かを解決、達成、実現などしようとしたときに広く普遍的に役に立つというわけです。


終わりに


すぐ上に書いたように、あらゆる何かを達成しようと思ったときにはこの気づきが必要になります。
いつかは必ず気づく必要がありますので、数学でそれに至ることができると大変に手間が省けます。
残念ながら私は、数学ではなく「あらゆる何かを達成しようと思ったとき」に気づくことになってしまいました。これは数学だったな、と後から思ったのです。

私は別に苦労を買ってでもしたいと思うほうではありませんので、惜しいことをしました。

これだけ書いておいて何ですが、苦労を買ってでもする、とはいったいどういう意味なのでしょうか。
いまひとつ、わかっていません。

2013年4月6日土曜日

身近であろう

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とある方のメールマガジンを読んでいたときのことです。

(メルマガから、ブログなどの場で陽に引用してしまってよいものなのかわかりませんでした。ここではこの程度の触れ方にとどめることにします。)

そこで、「考えるという行為が身近になる」との言葉に出会いました。

考えることが、身近になるのです。大変感銘を受けました。様々に、去来する思いがありました。
本エントリでは、その思いを文章に捕まえてみたいと思います。

今回はそんな話です。


考えることが身近に


先日「優しい生き方」とのエントリでも書いたとおり、私は考えることを生きていくうえでの大きな指針に掲げています。こういう風に生きよう、といったときの回答が考えることなのです。
私にとって重要で、大事にしていることです。きっと、多くの人にとっても同様でしょう。

その意味で、考えることが身近であることはほとんど、生きることのすべてと言ってしまっても構いません。
メタルバンド「陰陽座」には「生きることとみつけたり」というタイトルの楽曲があります。私は、考えることにそれを見つけたわけです。
考えることが身近であるために、日々を生きています。同時に、日々を生きるために考えることが身近でありたいとしています。
それがすべてなのです。目的も手段もなく、必要十分条件です。

とはいえ、考えて生きようと言っても、抽象的でつかみどころのない話ではあります。
何も考えなくても生きられるかもしれません。他方で、何も考えずに生きている人はいないとも言えます。

抽象的な話を理解することは、具体的なそれを理解することと完全に等しい値の重要度を持ちます。どちらも、同じだけ重要です。

私も、考えて生きることがすべてとまで言うからには、その実装にも思いは至っています。すなわちそれは、考えて生きるとはどういうことかという問いへの答えのことです。

具体的とか答えなどと言うものの、それほど大げさな話ではありません。

日々を生きていると、どちらとも言えないような、答えの出ない話にぶつかることが頻繁にあります。それはもう頻繁にあることでしょう。

私が考えたいのは、そんなときです。
一般的にAと言われているから、そうかもしれません。しかし、そうではなくBだとも言えそうです。ひょっとすると、どちらでもないCでも良いでしょうか。
こういったことを、いつも考えるのです。

これが、私が言うところの考えて生きることの中身です。
明らかなように、考えた先に何かをしようというものではありません。よく言われる、自分の頭で考えて決断しよう、といった類のものではないのです。
答えの出ない話を考えて、それで終わりです。答えは、やはり出ないのです。

だいたい、決断するためには考えることが枷になることだってあります。
こちらの記事で触れられています。

自己イメージというものの威力といいかげんさ | ライフハック心理学

考えることは、それほど万能ではないのです。

それでも、私はそうして生きようと決めました。
自然とひとつの疑問が浮かんできます。

なぜそうした手間をかけて、場合によってはたくさんの本などを読んで材料を集めてまで、考えなければならないのかということです。
本を読むには、お金も時間もかかります。考えるには、時間と労力がかかります。対して、頭の中で物事を考えているだけでは何も生み出されません。何も起こっていないに等しいわけです。
費やしたコストなどに比べれば、そんなことは無駄なので止めるべきとも言えます。

私はひとつ、それに対しての回答を抱いています。無駄に見えても、そんなことを続けたい理由です。

それは、そんなことで生きていけることもあるからです。

考えることに根ざしている、例えば哲学や人の内面のことなどは、無駄といって切り捨ててしまっても問題のないものです。なくても構わないものだと言われたら、それは打ち消し難いでしょう。

しかし、現実はもっといろいろなことがあります。

哲学者ウィトゲンシュタインは激しい自殺願望に苛まれていましたが、哲学の道から直観を得てそれを克服したようです。哲学によって、すなわち考えることによって命をつなぐことができたわけです。

第二次世界大戦中、収容所と呼ばれる施設に入れられた人々がいました。そこには想像を絶する厳しい生活がありました。
そのとき、より長く、さらには強く生き続けた人には、生来繊細で、内面の世界を求める人が多かったといいます。屈強で、粗野な人々ではなかったそうなのです。
やはり、考えることで生きることができた人々でしょう。

何も生み出さない無駄なことですが、私は考えて生きたいです。そんなことでも、生きられるかもしれないのです。

もちろん、そんなことでは生きられないかもしれません。
ですが、私はそう決めました。考えることが身近であることは、こんなにも尊いのです。


終わりに


そのため、考えることを身近にしようとする様々な趣向は、大変重要です。

2013年3月31日日曜日

日常のあらゆる場面

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私は基本的に夏が好きなので、春夏秋冬が 1:9:1:1 に近いくらいでも問題ありません。ただ、季節の移り変わりの点は捨てがたいので、いずれかをゼロにすることにも積極的にはなれないように感じます。
こちらの記事を読んで、そんなことを考えました。

ライフハッキンラブホリック - なんかカラフルな生活

話は変わります。
物事を理解するということはいつだって、つかみどころのないものです。

森博嗣の小説には、「わかったと思う直前の感覚こそ、わかったということの本質かもしれない」といった趣旨の言葉があったと記憶しています。この発想は私にとって同意できる話です。直感に反しません。
「わかった」と言葉になってしまったときには、それはもう「わかった」との言葉でしかありません。わかることそのものではないのです。
さらには、わかることそのものと、それを順序立てて他者に日本語で説明できることもまるで別の話です。一部では重なっているかもしれませんが、しかし一部に過ぎません。まったくもって日本語にできなくて、それでいてわかっているということは、特に珍しくもなく起こるのです。

ここまでの話と同じ意味で、他人を理解することもまた厄介な話です。物事を理解するときとは異なり、理解すること自体に分岐が生まれてしまいます。
他人を理解するとは、その人となりを飲み込むことかもしれませんし、言動を解釈することかもしれません。あるいは他の何かだったり、そのすべてだったりするでしょう。これがその分岐です。

ところで、他人を理解するときには共感するという方法もあります。これなら、例えば同種の体験や考え方を互いに持っていれば、わりと容易に達成できるように思います。その体験が強烈であれば、深い共感に転じるはずなのです。

以上の話を前置きにして、ここから私の話をします。

私は、ある種の強烈な体験を持つ人に対して共感を覚えることがあります。表面的な趣味や興味が一致しなくても、深いところでの指向する態度とでも言いますか、そういったところがなんとなく理解できるのです。

何やら難しい言い方になってしまいました。誤解を恐れずに平たく言えば、こういう人とは仲良くできる、という基本的なものが私にはあるのです。
もちろんこれは、そうでない人とは仲良くできないことを意味してはいません。それは断っておきますが、つまり、仲良くなりやすい立場の人がいるのです。

その立場の人とは、非常に単純に示すなら、本を読むのがとても好きな人です。さしあたって、本の種別は問いません。小説でも、漫画でも、その他の一般書籍でも良いのです。

いま、本を読むのがとても好きな人と言いました。それでいて本の種別は問わないわけですから、すなわちその表現は、本の趣味が合う人とはまったく別のものを指していることになります。
本の趣味が合う人とは、なるほど共感は覚えやすく、仲良くなれそうな気がします。しかし、私がここで述べたいこととは異なるのです。

本を読むのがとても好きな人が、共通してたどり着く強烈な体験は何になるでしょうか。本エントリの話の核心はここにあり、これを明確にしようとすると先ほどの言葉が言い換えられることになります。

私が仲良くできる人とは、本を読むのがとても好きで、あるとき「あ、自分は生きている間に読みたい本をすべて読み終えることはできないんだ」という深い直観に至ったことのある人です。

理屈としては当然のことでしょう。
そうではなく、直観として、知ってしまった人のことです。
そこに至ってしまった人のことです。

私にはこの体験があります。何年前のことだったでしょうか。あるとき突然、頭を殴られたような衝撃があって、わかってしまったのです。

先述した、本を好きな人が共通してたどり着くであろう強烈な体験の正体が、これです。
このことは、いろいろな思想に影響を与えます。

本を好きな人は、時間に限りがあることを知ります。時間の壁の強大さを、理屈でなく知ってしまうのです。
本を好きな人は、知識に限りがあることを知ります。本は知識の象徴ですし、知識は力になるかもしれません。しかし、そこには限界があるのです。
本を好きな人は、体験に限りがあることを知ります。多くの体験をすることは、人間を豊かにするのかもしれません。しかし、そこには限界があるのです。
本を好きな人は、諦めることを知ります。諦めないことは、素晴らしいことかもしれません。しかし、それにも限界があるのです。

これらはいずれも、日々を生きる中で出会う、様々な普遍のものに関係してくる話です。
ここは重要な点です。時間や知識がどうのということは、本を好きか否かなど関係なく、誰しも日常で直面することです。そう頻繁でなくとも、様々な場面でそれについて考え、決定していかなければならないのです。

たとえ表面的な趣味や興味が異なっても、日常のあらゆる場面に対して同様の思想を持つ人に対して、私は共感します。
そしてそれが、私は本を読むことが好きな人と仲良くできる、との言葉に集約されるのです。

とはいえ、本エントリで触れてきたような、頭を殴られたような衝撃や、体験の限界を知るといったことは、それほど意識に上ってくるものではありません。無意識下にあることがほとんどです。

1:9 くらいでしょうか。しかし、ゼロにはできないのです。
むしろ、ほとんどが無意識下にあるからこそ、それが共感という形で意識に上ってくるのかもしれません。


終わりに


私は音楽もたくさん聞きます。ところが、音楽ではここまで述べたような直観に至ったことはありません。
理由はわかりませんが、そのために本エントリの話は読書に限ったものになっています。

2013年3月24日日曜日

北極星のまたたきが

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幕張で開催された堀江由衣さんのライブに、先日、参加してきました。
何やら、海賊をテーマにした物語形式のライブであったようで、その時々でシチュエーションに合致した楽曲が歌われていました。

ライブ自体は、それはもう、言葉もないほど素晴らしいものでした。私などは涙もろい質ですので、感極まってしまうことが幾度かあったほどです。

さて、本エントリではそのような素晴らしいライブのさなかに考えたことについて書きます。

今回はそんな話です。


見上げるもの


世の中、様々な生き方がありましょう。
私が把握するのはただ一つの、いまだ進行中の生き方のみですので、あまり知った風なことは言えません。それを承知で言います。私が大変そうだと想像する生き方のひとつに、憧れの対象として立つというものがあります。スポットライトを浴びるものです。

次の記事に、私の心に留まり続ける言葉があります。

R-style » 9/3 ~ 9/8 今週のまとめ

引用いたします。
外から見ると明るいだけだが、スポットライトの下は暑い。
スポットライトを浴びる人はいつも、そこの暑さに耐えているということです。

スポットライトにも、きっといくつか種類があることでしょう。人々の憧れを意味する光を浴び続けることは、その中でも特に大変なことと想像します。その暑さを私は少しも知ってはおらず、その想像に現実感はありません。思いを馳せるだけです。
しかし、そう思うのです。

他方で、いつからのことでしたか、親近感とか、等身大とか、フラットなとか、そういった単語がもてはやされる風潮を感じるようになってきています。例は何でも構いません。音楽だったり、本だったり、SNSだったりするでしょうか。少なくとも、何かしらの発信であることは間違いありません。
それらの単語が示す性質も、物事を発信する立場として採用し得ますし、そして容易ではないものだと理解しています。それもまた、スポットライトを浴びる生き方の一つです。

ただ、そこには含まれる憧れの度合いが少ないように思います。もっとも、スポットライトと憧れがまったくの等価ではないことは、先にも触れたとおりです。必ずしも憧れであることはないわけです。

翻って、ここからは私の話です。

私はあまり、親近感とか、等身大とか、フラットなとか、そういった単語を求めていません。
それより、見上げるといつもそこで輝いて目指す先を示してくれるような、遠い存在を欲します。手が届いてしまったり、同じ目線に降りてきたりということが、あまり起きてほしくないのです。
足下の一歩は自分で悩んで何とか踏み出していきますので、遠い行き先を照らす、拠り所となる何かがあってほしいのです。

それを、人は憧れと呼ぶのでしょう。私も呼ぶことにします。
このスポットライトの下は、作り物でも、虚飾でも、私は構いません。ただ、憧れであってほしいのです。

ただそれは同時に、ある種の人たちにスポットライトの下の暑さを強いることになります。とても、心が痛みます。
そういった人たちが見上げたところにはどのような光が輝いていて、何が目指す先を示してくれているのでしょうか。私にはにわかに考えが及ばない部分です。
無理なこととわかっていても、何か力になれたらと思わずにはいられません。できることとすれば、その人たちがスポットライトの下の暑さに耐えきれなくなったときに、私はそれをそっと受け入れることかもしれません。

心が痛むものの、たくさんの人々の、少なくとも私の憧れとして、日々を生きていくための光になってくださっていることは事実です。
それは、スポットライトの光というより、海を行く海賊たちが方角を見失わずにいられるような瞬きです。

本エントリの冒頭で、件のライブではシチュエーションに応じた楽曲が歌われていたことを書きました。その一つに「Puzzle」という楽曲がありました。
それには、次のような歌詞があります。
Polar star 見失わなければ
私にとっての Polar star が、いつまでもそこにありますように、願っています。


終わりに


やはり本エントリの冒頭に、幾度か感極まってしまったとのことを書きました。
その内の一度は、ここまで述べてきたようなことをずっと考えていたら、「Puzzle」が歌われたときのことです。

2013年3月18日月曜日

数字がもたらす現象

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先日、私のタスクリスト好きを知る人と会話をしました。

詳細は省きます。ただ、何日も経った今でも頭から離れない、その人が発した問いがあります。
それは「タスクリストって、何行が良いの?」というものです。
あまりに深遠なテーマと感じられたため、その場では宿題にさせてほしいと回答して事なきを得ました。本エントリではそれについて考えてみます。

もう少し舞台設定が必要です。

「何行が良いか」との質問から自明なように、そのタスクリストは紙とペンで作成されるものです。つまり、何らかのソフトウェアアプリケーションを通して書き込まれるものではありません。普通、そのときには行数に際限がないためです。

当時私たちが話題にしていたのは、タスクリストにおなじみの行頭の四角と下線がはじめから印字されている形式のものです。切り取れるメモとか、ふせんとか、手帳のページの隅にとか、いろいろな場所で目にすることでしょう。
その、印字されている四角と下線とは何行が良いのかが、今回の話だというわけです。

さっそく考えていきます。

そういったタスクリストの用途を見ていくことがとっかかりとなるはずです。

話題にしているようなタスクリストは、長期間にわたって参照され、編集され続けるような目的には使いにくかろうと思います。そちらはソフトウェアで実現するのが良いのでしょう。

自然と、作成されてから短期間でその寿命を終えるような使途になってきます。これなら、あまり状況に依存せずに参照や記入を行える点で、ソフトウェアよりありえると思います。

ここで言う短期間は、一日程度か、あるいは数時間以内と考えられます。それによって場合分けができそうです。
手帳の隅に印刷されたタスクリストなら、参照されるのは一日中と想定されます。切り取れるメモやふせんの形式なら、一日中でも、また数時間でも構いません。

ここが、タスクリストの行数を考える上で一つめのマイルストーンになります。すなわち、それが参照されるのは一日中か数時間以内かのいずれかだということです。

順に見ていきます。まずはそのタスクリストを一日中参照する場合です。いわゆるデイリータスクリストの扱いになることでしょう。

ここから、行数の議論に入るにはどのようなアプローチがあるでしょうか。

ぱっと思いつくのは、時間から考える方法です。一日の作業時間が8時間であるなら、タスクを一時間に一つ掲げることにして、タスクリストは8行が良いとするわけです。

思いついてはみたものの、これはあまり現実的ではありません。もともと、頭の四角と下線で形作られたタスクリストには時間の概念が存在しないためです。
タスクどうしに、相対的な意味での順序はあります。しかし、一つ一つのタスクがどれほどの時間を要求するかは、普通、タスクリストでは扱うことができないのです。

なにやら、タスクリストと時間に関する話はかなり深くなりそうな気がしてきましたので、別の機会に回すことにします。

他方、デイリータスクリストの作成時間に着目することはできるでしょう。紙とペンで作成するわけですから、ここには限界値があるはずです。
一日の始めにリスト作りに充てられる時間はそう多くなく、せいぜい5~8分程度でしょうか。

項目を1つ挙げるのにかかるのは30秒くらいでしょうが、それはコンスタントに8分も続かないような気がします。均せば1.3[項目/分]あたりに落ち着くように思います。
すると、ここでは6.5~10.4の項目が挙げられることになります。平均値は8.45ですので、印刷されたリストの行数は9~10行が妥当ということになるでしょう。

それから、ここでのタスクリストはやるべきことがどこかに消えていかないために作られるものです。というと、有名な7プラスマイナス2の話があります。この数字は使えそうです。
人が覚えていられない部分をタスクリストに頼るわけですから、その上限かやや多いくらいの項目が書き出せると具合が良さそうです。
然様なら、タスクリストの印刷は9か10行あるとちょうど良いことになるわけです。

次に、タスクリストを参照するのが数時間であるパターンを見てみます。
ここまでの話がデイリータスクリストなら、ここからはタスクを分解することの話になります。
タスクを分解しようと書き付ける先として、行頭の四角と下線の印字されたリストを使用するわけです。ある意味、チェックリストのような使い方と言えるかもしれません。
いま、タスクリストの行数を決めようとするなら、とりもなおさずそれは一つのタスクがいくつに分解されるかを考えることに等しくなります。

これについては『スマホ時代のタスク管理「超」入門』(佐々木正悟、大橋悦夫)に明快な説明があります。すなわち、一つのタスクに含まれる「やること」が一つになるようにすることです。

同書の例では「上司に企画案をメール」というものが出てきます。これが次の四つのタスクに分解できるそうです。
□上司に提出する企画案をまとめる
□企画案をメールに添付する
□メールを作成する
□上司にメールを送る
上で、チェックリストのような使い方だと書きました。その視点から見るとこの分解は少し粗いような気がします。同書も、「これで少しは手がけられそうですがまだ不十分でしょう」と続いています。
私なら、大まかに着手するようなフェーズと、確認して完了とするようなフェーズを上記の4つの各々について掲げたいところです。都合、タスクは8つに分解されます。

さて、「上司に企画案をメール」は一つのタスクとしてはちょうど良い文字数でしょう。手書きのタスクリストに、これより長く複雑な文は書かれないと思うのです。
同じ理屈で、これより多くの「やること」を含むことも考えにくいです。

したがって、このときのタスクリストの印刷された行数は8くらいが良いことになります。

ゴールが見えてきました。
ここまでに現れてきた数字の平均を大雑把に求めると、9.2行となります。

以上より、ふせんや切り取れるメモ、手帳の隅などに印刷されたタスクリストの行数は9行が適当だと結論づけます。


終わりに


こういったことを考えるのはとても楽しいです。

本エントリでは結論を出すために無茶をしている箇所が多々あります。
数字が現れると何やらそれらしく見えてしまう現象には、いつも注意が要るのです。

2013年3月11日月曜日

優しい生き方

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Hysteric Blue の「Home Town」という曲に、次のような一節があります。
刻み続ける未来を愛することが出来たら
深い傷も優しさに生まれ変わる
わりと、私はこのことを信じています。深い傷は、人がもっと優しくなるための糧になります。
しかし、それをもって傷を負うことを是とすることも、私にはできません。

どちらも正しくあり、私にはどちらの立場も採れないのです。

確か、『美濃牛』(殊能将之)という本でしたでしょうか。「人が生きる上で必要なのは、考えることと、愛することだよ」といった趣旨の言葉に出会いました。

ずっと、私の心に留まっている言葉です。

思えば、「刻み続ける未来」は考えることの中にあります。目に見えるものではありません。頭を使って物事を考えた、その中でしか未来は刻まれていかないわけです。

それを、冒頭の歌では愛そうと言っています。
深く深く考えた先で、たどり着ける場所であることでしょう。

どちらの立場も採れないことも、刻み続ける未来も、私はずっと考えながら生きていきたいです。
考えることを止めない生き方でありたいです。
最近、そんなタイトルの本も読みました。

そうして考え、悩み続ける中で、優しくなれたらと思います。

2013年3月5日火曜日

瞬間、心、重ねる春

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近ごろ、暖かく感じる日が増えてきました。Hysteric Blue の「春~spring~」から表現を借りれば「雪がやんで寒さも消え、今年もあの季節が来る」のです。
喜ばしいことで、自然に心が弾みます。

春の季語に「十返りの花」というものがあります。「とかえりのはな」と読み、これは松の花のことを指しています。
頭の「十返り」は十回繰り返すという意味で、松の花が百年に一度、すなわち千年に十度花を咲かせることからその呼称が生まれたそうです。

松はお正月に玄関先に飾られることからもわかるように、日本では古来より祝賀を意味する木ではあります。しかしその祝賀に反して、春は別れの季節です。「春~spring~」でも「別れの季節も好きになれる」と歌われています。
人と比べればおそらく私はそれほどでもない方だとは思いますが、それでも、春は別れの季節と言われてうなずける部分はあります。春という言葉から、なんとなくのもの悲しさを感じることもできます。弾む心は、ここで少ししおらしくなるのです。

しかし、もの悲しい別れがあれば新しい物語を作る出会いもあります。
yozuca* さんの「サクラサクミライコイユメ」との曲には、次のような一節があります。
かけがえのない瞬間と 出会いが作る物語(ストーリー)
私はこの言葉が大好きです。この一言のために、春が待ち遠しいと言っても構いません。かけがえのない瞬間だけでも、出会いだけでもいけなくて、そのいずれもが物語を作るのです。

脱線します。以前「冬とモレスキン」とのエントリを書きました。その中で「冬って、自分と世界の境目がよくわかるからいいよね」との言葉をご紹介しました。
私はその一言のために、冬を待ち遠しく感じたりしていました。本エントリでの春の話と様子は同じです。ひょっとすると、春とか冬とかいうのは関係なく、私が過度に夢見がちなのかもしれません。
あれもこれも楽しみなのです。日常生活には今のところ支障が出ていませんので、とりあえず放っておこうかと思います。

話を戻します。
上でご紹介した楽曲のタイトルにもあるように、春といえば桜です。桜をモチーフにしてつづられた言葉はたくさんあり、思い当たる節がある方も多いことでしょう。

私が思い当たったのは百人一首です。次のような歌があります。

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな

これも、とても好きな歌です。
恥ずかしながら私はすべてを比較対象にできないのですが、私の中では

吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を 嵐といふらむ

と肩を並べて一番好きな歌のひとつです。

後者はここでは置いておきますが、前者の「いにしへの~」の歌については触れておきます。

解釈は、次のページを参考にしました。

小倉百人一首・伊勢大輔 - 学ぶ・教える.COM

だいたいの意味は「昔、奈良の都から献上された八重桜が、今日、京都の宮中でよりいっそう美しく咲いていることだなあ」といったところです。
意味をとらえる際に重要になってくるのは、「よりいっそう」の箇所でありましょう。

まず、上の句と下の句の始まりが「いにしへ」「けふ」と対になっているところがポイントです。ここで時間の流れが感じられます。
それを踏まえると、古の八重桜が今日の九重(宮中)で咲いていることに注目できます。八重から九重に数が増えており、ここに「よりいっそう」の気持ちがこもっているわけです。

先ほど春は別れの季節だとのことを言いましたが、嬉しくなるのはやはりこの歌のような話です。こういった話を目にして嬉しくなる気持ちは、いつまでも持ち続けていたいものだと思います。

とはいえ、別れに代表されるような嬉しくないことも嫌うつもりはありません。思えば件の歌で美しいとされている桜も、他方では儚さのようなものも湛えています。桜が春を象徴するなら、春が相反する二つの感情を呼び起こす存在であることも納得いく話です。

その二つが混ざり合い、溶け合った何かを私は春の色と呼びましょう。

「春の色」自体も春の季語で、春の景色、春らしいようす、といった意味を持っています。ですが、文字通りに春の色彩とする方が、混ざり合ったものという意味は見えやすくなるかもしれません。
春の色彩も景色も、すべて含んだ春の色です。

春の色が感じられるのは、それほど長い期間ではないはずです。
そんなかけがえのない瞬間に、祝賀の松の花に倣って十ほどの心を重ねれば、今年の春はよりいっそう美しいことでしょう。


終わりに


ちなみに、私はこの周辺(つまり、「エヴァンゲリオン」)のことについてあまり知識はありません。ふと思いついてしまい、調べて使ってみました。どこかで聞いたことがあったのかもしれません。

2013年3月3日日曜日

気づかないこととの差

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こちらの記事を読みました。

R-style » 1に満たないものを繰り返し足していく

大変素晴らしい記事です。私は5回ほど読みました。
(5回読んでもページビュー数は1しか加算されません。一方でとても重い1です。これもまた0.1に属するものなのでしょう。)

記事タイトルにある通り、とても小さい数(もの)を繰り返し足し算していくことについてのお話です。詳しい内容については、ぜひリンク先をご参照いただければと思います。

さて、数値解析と呼ばれる分野に関する知識を少しでもお持ちの方は、先の記事から同じものをかなり高い確率で連想することでしょう。
数値積分の計算のことです。

本エントリの話題に関係するところに順に触れていきます。
まずは積分の知識です。

ある関数 f(x) があったとき、x の区間 [a, b] での積分は

と表されます。なお、ここでの f(x) は具合の良い性質のものだとしておきます。

この式はすなわち、横が dx で縦が f(x) の長方形の面積を何度も足し算してください、とのことを訴えています。


数学的には、この理解でまったく間違いありません。

他方の数値解析という分野は、実際に数字を入れて計算するときの様子についてまで議論するものです。
計算そのものはコンピュータが行うことが想定されているでしょう。そこで、コンピュータにいかに計算させるのが良いかに興味があるのが数値解析なのです。

積分値を実際にコンピュータに計算させたいと思ったら、素朴なアイディアは積分の定義をそのまま持ってくることになります。
要は、横が dx で縦が f(x) の長方形の面積を何度も足し合わせるのです。ここで縦 f(x) は明確ですが横 dx はそうではないため、実際には適当な小さい値を決定して計算に用いることにします。逆に言えば、それだけ決定してしまえばすぐに計算を始めることができます。

ところが、計算を始めてみるとこの方法では問題が出てきてしまいます。積分の定義をそのまま流用してでは、数値積分をコンピュータに実施させることはできないのです。

その様子を見てみます。

話を単純にするために、いま用いるコンピュータが10進数で有効数字3桁だったとしましょう。これは、そのコンピュータには数字が3桁までしか見えないことを意味します。
10進数で有効数字3桁のコンピュータは聞いたことがありませんが、しかしいかなるコンピュータにもこの有効数字なるものは存在します。
やや説明が不足しています。おそらく続きを見ていただく方がわかりやすいと思いますので、いったん先に進みます。

次に、一回で足し算される細長い長方形の面積が0.1だったとします。f(x) の挙動によって本来は毎回異なる値を取りますが、とりあえずだいたい0.1くらいだとしてしまいます。

まとめると、数字が3桁までしか見えない世界で、0.1を何度も足し算しようとするわけです。

初めの足し算は

0.1 + 0.1

です。ここは数字が3桁まで見える世界で、いまは1桁しかありません。結果は問題なく0.2になります。
幾度か繰り返していくと、

0.9 + 0.1

という場面に出くわします。この計算も問題ありません。1.0になります。
さらに進むと

9.9 + 0.1

に出会うでしょう。これもやはり、10.0になります。
そのすぐ後に、

10.0 + 0.1

があり、結果は10.1になります。
ここは数字が3桁しか見えない世界でした。10.1は数字が3桁あります。これは問題ありません。
その先の

99.9 + 0.1

はどうなるでしょう。これは100.0になります。この世界では100.0は1桁の数字になりますので、ここまでは大丈夫なのです。
次は

100.0 + 0.1

です。この世界では3桁までの数字しか見えないため、この結果は100.0になります。100.1だと4桁になってしまうのです。
すると、次の計算は

100.0 + 0.1

です。やはりこの結果は100.0です。

目的に立ち返って確認してみましょう。
コンピュータに素朴な方法で数値積分をさせようとすると、あるところから計算が先に進まなくなってしまうのです。

これは、その方法で計算させようとしたのがまったく誤りだったことを意味します。
人類は大きな方向転換を余儀なくされます。コンピュータがあれば何でもできると思ったのは、幻想だったのです。

と思いきや、人類には賢い人がいました。ここでは例えば、ラグランジュさんやシンプソンさんです。

ラグランジュ補間を元にしたシンプソンの公式を用いることで(もちろん他にもたくさんあります)、先述した問題を回避して数値積分を求めることができます。
ここではそれらに立ち入りません。小さい数を何度も足し算する類の方法ではない、とのことだけ触れておきます。

とはいえ、初めの素朴なアイディアでいったん取り組んでみるのも良いと私は思います。直感に反しませんし、素直に正しそうだと思えるからです。

やってみたら、何かがおかしいと気づくわけです。

しかし、気づくということは不確実で難しいもので、気づかないこととの差はほとんどありません。
そうであるなら、自分が正しいと感じたことを信じてひたすらやってみることも、きっと悪くないと思います。

冒頭でご紹介した記事「1に満たないものを繰り返し足していく」から引用いたします。
何かを感じられるようになることは大切だが、その前に「信じる」というトンネルをくぐり抜けなければならないのだろう。
きっといつか、何かを感じられるようになるはずなのです。


終わりに


ちなみに、ラグランジュ補間やシンプソンの公式が考え出されたのは(おそらく)コンピュータが存在しないときのことです。
本エントリからはあたかもそうでないかのように読み取れてしまいます。言葉の綾というやつです。

2013年2月28日木曜日

理解にいたる道半ば

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こちらの記事を読みました。

なんか、しんどくなったらインプットを減らしてみるといいかも。 | ライフハック | Cross Mode Life

記事タイトルにあるとおり、生活していて大変になったときのお話となっています。なるほどと思いながら読ませていただきました。

本エントリでは、私も同じテーマについて考えてみたいと思います。

今回はそんな話です。


つらくなったとき


最近生活が大変だなどと感じることは、私はそれほどありません。その反面、皆無でもありません。

個人的には、悪くないバランスであろうと思っています。
日々をつらく感じることがあまり頻繁にあるのも嬉しくありませんし、他方、そういったことは自分は一切ないのだと思い込んでしまうのも問題がありそうです。大変なら、それに気づける方が良いはずです。

さて、私はつい最近まで、いま話題にしているような大変だった時期を過ごしていました。それを私なりの意図をもって乗り切ってきました。
ここから、その私の意図とやらを書いてみようと思います。すなわち、冒頭でご紹介した記事に反応して私の場合はどうかということです。

妙な表現になりますが、私が心身ともに余裕があるときには、あまり何かをしないでいることができます。これは、家でじっと考えごとができたり、それを書き出してみたり、音楽を集中して聞くことができたり、といった意味です。
適当な時間を確保してゆっくり思索に耽ってみようなどということは、私の場合は精神的に余裕がないとできないことです。どんどんつらくなってしまうのです。余裕がないときは腰を据えて物事に当たることができない、と言うと伝わりやすいかもしれません。

ですので、私が精神的に余裕のないときは、上述したようなことをしてしまわないように注意します。どんどんつらくなってしまいますし、できないことですので、やらないようにするのです。

そのようなときに具体的に意識するのは、情報のインプットを過剰に増やすことです。期せずして、冒頭での記事と反対の話になってしまいました。
件の、余裕があるときにできることたちを、能動的に行動を起こす類のことであると私はラベル付けしています。時間を取って考えごとをしたりするのは、受け身と反対の姿勢だと思うのです。

その意味で、情報のインプットを過剰に増やすことでそれを妨げようとしているわけです。

いろいろ言いましたが、私は、大変だと感じる時期には貪るように本とRSSフィードを読みます。内容を理解できているかどうかも気にせず、ひたすらに量を求めるのです。ストレスがかかるとやけ食いする人と、発想は近いかもしれません。

ここで気づくことがあります。

余裕があるときにはゆっくり考えごとができると書きました。
しかし、考えごとも材料がなければできません。いえ、できる人もいるのかもしれませんが、私はできません。
その材料はどこからくるのかといえば、余裕がないときに大量に仕入れた情報になるわけです。

これについて、理屈は正しく見えますし、かつ私の実感にも即しています。
余裕があるときに何か考えようとして時間を確保しても、頭の中に明らかに材料が渦巻いていないのを感じることがあるのです。そういうときはすぐに考えるのを中止し、本を読むなどのインプットする方に移行することにしています。

ひょっとするとこのことは、私にとって物事を理解することや発想することのひとつの型なのかもしれません。

桶屋が儲かるように書くと、
  • 余裕がなくなる
  • 大量にインプットする(このときは何も思いつかないで、無意識下に置かれる)
  • 時間が経って余裕が出てくる
  • 思索できるようになり、無意識下の材料から何かが生まれる
ということです。

そうだとすると、私はずいぶんと自分に負荷をかけないと物事を理解できないことになります。一度「精神的に余裕がない! つらい!」という過程を経てからでないと、理解や発想の境地にいたらないことになるためです。苦笑するしかありません。
しかし、それがわかっているなら、つらいときでも、理解にいたる道半ばなのだと自分に言い聞かせて進んでいくことができます。それなら悪くないでしょう。

もう少し考えを進めてみます。

精神的につらくなったらインプットを多くすると述べました。
とはいえ、余裕がなくなったからインプットが増えたのか、逆にインプットが増えたから余裕がなくなったのかについては議論の余地があります。
私の意識の上では確かに前者ですが、無意識のうちにインプットが過剰になったために精神的につらくなったのかもしれないのです。

同じ話は、余裕が出てきたところにも成り立ちそうです。
意識の上では、余裕が出てきたから思索を始めることができ、その結果理解にいたっているように思えます。しかし無意識ではすでに理解にいたっていて、その結果として余裕が出てきているのかもしれないのです。

すると、ひとつ難しい疑問に行き当たります。

余裕があることや余裕がないことというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
こうして連ねていくと、理解や発想と無関係とは思えないのです。

余裕があるときに、腰を据えて考えてみたいと思います。


終わりに


説明が足りない箇所がありました。
私にとって、集中して音楽を聞くことは能動的に行動を起こしていることなのです。