2013年1月30日水曜日

メモの上にも下にも

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『知的生産の技術』(梅棹忠夫)などを読むとよく感じられることに、「メモを取って、それを保存し、活用すること」の難しさがあります。特に、今より少し前の時代における難しさのことです。
それは、主に労力の問題に見えます。あらゆる時間をメモの管理に費やすなら、たぶん、それほど困難でなく可能になるのでしょう。そういった類の難しさなのです。

一方、現代でそれを達成するのは、当時ほどは難しくなくなっているはずです。もっともこれは程度の話ですので、「とても容易になった」というつもりはありません。

これについては、『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』に記載があります。

『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』(倉下忠憲)
引用いたします。
注意したいのは、二つ目の要素である環境作りだけは簡単にできてしまうことです。見た目の形が整うので、それだけでシステムを作った気分になりがちです。
ここで「二つ目の要素」と言っているのは、「どんな状況でもメモが取れ、それを一ヵ所に保存しておけるメモ環境を作る」とのことです。
そのような環境を作るだけなら簡単にできて、そして満足してしまいやすいという話です。

現代の方も、なんだかんだで難しいわけです。

今回は、そんな話です。


長くない文章


少し前に、こちらの記事を読みました。

どうやって会社を知る?就活の情報ソースについてまとめてみた【就活”非公式”マニュアル 第2回】

就活についての話題のようです。
この記事を読んで、ひとつ思い当たったことがあります。

就活のときには、履歴書やエントリシートなど、ちょっとした文章を書く機会がままあります。たいてい、自分の将来のことなどでしょう。

こういった文章を書くのは、わりと大変です。文字数にして、400~1200文字程度でしょうか。そう長いものではありませんが、自分で考えて自分の文章を書くのは、大変なのです。

私が「思い当たった」と言ったのは、このことと、メモとの関連についてです。

そのような文章を書く際に、直接本文を書き始めることをせずに、メモを取るとします。
ここで言うメモは、本エントリ冒頭で述べたものとは少し性質が違い、溜めておいて、いつかの将来に使おうとするようなものではありません。考えを整理するとか、頭の中の作業領域を拡張するとか、そんな雰囲気です。

そのような、すなわち
  • それほど長くない文章を、自分で考えて書かないといけない
  • そこで、頭を整理するために、メモを書く
というときのメモほど、いわゆる「メモ初心者」にとって、劇的に「メモの効用」を享受できる場面はなかなかないのではと、私は思ったのです。
言い換えると、この状況でのメモには付随してくる難しいことがあまりなく、しかしメリットは大きいので、積極的にやってみるのが良いのです。

具体的には、今書きたい文章が長くないため、メモの量が増えすぎてしまって整理が大変になることがありません。また、書いたメモはまさに今使われますので、悩ましい保存の問題もないわけです。

したがって、メモの効用がさっぱりわからないとか、メモと情報のことなどまるで考えたことがないとか、そういった人にお勧めするのにはとても適していると思います。
そうして効用が感じられたところから、メモが習慣になっていければ良いのです。

いつだって、新しい習慣を身につけるためには、小さく始めて、小さな成功を積み重ねていくのが良いはずです。メモのときだけ「すぐに効果は出ない」のでは大変でしょう。


情報の配置


このようにメモを書くとき、ひとつだけ、付言しておきたいことがあります。
これを知っていると、その効用をさらに感じられると思いますが、それゆえ、話は少しわかりにくくなります。

一言で言うなら、このようなメモはアウトラインと完全に等価ではない、とでもなるでしょうか。

例を挙げます。
エントリシートを書こうとして、本エントリで述べてきたようなメモを取ってみようと思ったとします。

その人は、例えば次のようなメモを書きます。
  • 導入
  • 志望動機
  • まとめ
これはつまり、アウトラインです。
ですが、このメモでは、本文を書くのにそれほど役に立ちません。

これに効用を持たせるには、例えば
  • 導入
    • 私は読書が好きだ
  • 志望動機
    • 自分から新しい知識を得られそうだ
  • まとめ
のようにしていくと良いわけです。もちろん、「私は読書が好きだ」の下に、さらに階層を深くしていっても良いです。
この意味で、「単なるアウトライン」では終わらないことになります。

あるいは、始めに
  • 読書が好き
  • 新しい知識を得るのが好き
  • サークル活動をがんばった
などと書いて、後から
  • 導入
    • 読書が好き
  • 志望動機
    • 新しい知識を得るのが好き
    • サークル活動をがんばった
というように、上に階層を追加することもできます。

本エントリ後半で私が言いたかったのはまさにこれで、すなわち、「自分で書いたメモの、上にも下にも、階層を追加して良い」のです(もちろん、「同階層」も増やして良いです。)
そして、上下とも、これ以上階層は増やせないと感じたようなら、きっとそれは本文を書き始める合図です。

それは「あ、上にも下にも情報を追加していいんだ」という、ちょっとした気づきではありますが、他方、それを意識できるようになることは、考え方の枠組みが大きく変わることになるのです。


終わりに


そして現代は、本エントリのような類のメモでさえ、容易に保存しておくことができます。
すると、目の前の文章を仕上げるためにも、いつかの将来のためにも、一つのメモを活かしていけるわけです。

2013年1月27日日曜日

無感動な近道

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以前にも本ブログで紹介したことがあったと思いますが、少し前に、こちらの記事を読みました。

UI(ユーザーインターフェイス)としてのギャラリー|大山顕|ケイクスカルチャー|cakes(ケイクス)

とても素晴らしい記事でした。

この、記事タイトルにかかるような主張が、本文中で展開されるわけです。それ自体はここでは取り上げませんが、「写真」というものに長く関わってきて、様々なことを考えてきた筆者だからこそたどり着けた話なのだろうと思います。

本エントリでは、ひとつ、この「様々なことを考えてきたからこそ」との部分について取り上げてみようと思っています。
先の記事で出ていた主張そのものは、「写真」に興味のない人にとっては直接は有意味でないかもしれませんが、一方で、こういった「すごい人の話」は、こうして方々で形を変えて検証される価値があるわけです。
きっと、よくある話でしょう。

今回はそんな話です。


様々なことを


いま紹介したように、冒頭の記事では膝を打つような結論にたどり着いていました。そしてそれは、その事柄に長年関わってきた筆者ならではのものだと想像します。

一方で、その文章を読んだ私は「その事柄に長年関わって」いたりはしません。筆者のような結論に自力でたどり着くことは、決してあり得ないわけです。
にも関わらず、その画期的な結論を、私は同記事から知ることとなってしまいました。単なる知識として、手に入れてしまったのです。

ここには、間違いなく差異があります。
それは温度差とか、理解度とか、その他様々な呼称によって表されることでしょう。いずれにしても、それらは等価でないと言えます。

要は、近道をしてしまったのです。言うなれば、知識の近道です。
私が先ほどから「~してしまった」との文章を続けているように、直感的に言って、それはあまり良いことではないのでしょう。
この、「あまり良いことではない」ということにも様々な呼称があると思いますが、私はこれを「感動がない」と理解しています。

ここで言う感動とは、私の中では、日常で使用するそれとは少し趣を異にしたものです。
「気づき」「納得感」「腑に落ちる」「同意する」など、それから文字通りの「感動」も含む、できるだけ広い意味だと、私はとらえています。平たく言えば、心が動くこと全般、とでもなるかもしれません。

ともかく、上述したような「知識の近道」を使ってしまうと、そこには感動が起こらなくなって(あるいは少なくなって)しまいます。

今回の例では、感動がないことで何か大変なことになったりはしないでしょう。感動がないのは残念ですが、とりあえずは、それだけです。

しかし他方では、大きな問題が起きてしまうこともあります。
最もわかりやすい例は、人にものを教えるときのことです。

複数の人がいて、それがものを教える人と教わる人に分かれていた場合、教わる側で「知識の近道」が起きていることになります。
教える側はその知識に長いこと関わってきたのでしょうが、教わる側はそうではありませんので、知識だけ受け取っても感動がないのです。

教える、教わるで言えば、『思考の整理学』に、面白い話があります。
その昔、塾や道場に入門してくるような熱心な若者に、何かを教えるときの話です。

『思考の整理学』(外山滋比古)
じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。
同書におけるこの話は、本エントリの「知識の近道」に関するものではないと思いますが、そうだとして読み返してみると、また新たな発見があります。

さて、そこに感動がないことが大きな問題を引き起こすなら、何かしらの対策を考えたいところです。
ここには、教える側と教わる側の、引いて見るなら情報を発する側と受ける側の、二つの立場がありそうです。私は現状、情報を受ける側にいる方が多いものですから、とりあえずそちらに絞ることにします。

すぐに思いついて、そして私も実践しているのが、「そこに感動がないことに自覚的になること」です。だいぶ抽象的な物言いになりました。
つまり、単純に知識を仕入れたようなときに、「いま、知識としてはこれだけを得たけど、でも……」などと、余計なことを考え始めることです。
このとき何を考えるのがよいのかに対しては、今のところ(明確には)答えられません。それもあって、「余計なこと」との表現になっています。

それに追加する形で、もう一つあります。
それは、「知識の近道」が起きそうで、かつ大きな問題が起きない状況に、数多く身を置くことです。やはり抽象的な物言いになりました。
これは、例えば本エントリ冒頭に掲げたような記事や、書籍などを読むことなどが該当します。
要は、ここまでずっと述べてきたような、感動がない形で知識を得て、そしてそれを何とかしようとする経験を、普段からたくさんしておくわけです。経験もなく、いきなり「うまくいかなかったら大変なことになる」場面に放り出されれば、苦労するのは明らかなのです。

乱暴に言えば、「よく読み、よく考えよう」ということです。
きっと、よくある話でしょう。


終わりに


「余計なことを考え始める」とは、個人的になかなかしっくりくる表現ができたように思います。
今まで気づいていませんでしたが、私はわりと余計なことを考えているかもしれません。

文章!に価値がある

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無料の電子雑誌「ERIS」を読みました。

音楽雑誌「エリス」 | 音楽は一生かけて楽しもう

とても読み応えがあり、大満足の一冊でした。
音楽が好きで、音楽についての文章を読むのが好きな方には、ぜひおすすめします。次号以降も楽しみです。
それから、「ERIS」は(たぶん)話題の電子書籍サービス「BCCKS」で作成されていますので、そのあたりが気になる方もチェックしておくと良いかもしれません。

「ERIS」は無料の雑誌ですが、寄付も受け付けているようです。

サポート&支援のお願い | 音楽雑誌「エリス」

書籍のあとがきにも、「この内容ならこれくらいのお金を払ってもいい、という読者には、『エリス』のウェブサイトで寄付も受け付けている」との一文があります。個人的には、お金を払いたいと思えるような内容だと感じましたので、何かしらの方法で貢献したいと思っています。

ところが、このことは、まったく別の興味深い話をもたらします。

近頃、このような「もしお金を払うだけの価値がある内容だと感じたら……」といった話を目にすることが多くなりました。おなじみの、レディオヘッドの話のようにです。

コンテンツの発信側としては、新しいビジネスの方法を試しているということで、特に問題はありません。私にはよくわかりませんが、うまくいくことも、いかないこともあるのだと思います。

悩ましいのは、私のような「受け手」の側です。
「お金を払うだけの価値がある」とは、いったい何のことなのでしょうか。あるいは、「もしお金を払うだけの価値があると感じたら」とは、いったい何を問われているのでしょうか。

大変難しい問題です。これまで、受け手は考慮することがなかった事柄です。
しかし、時代が変わったためなのか、それについて受け手の方で考える必要が出てきてしまいました。

問いの様子からして、いくら考えたところで、明快な回答を導くことができないのは間違いないでしょう。
しかし、考え方の姿勢ですとか、方針のようなものくらいは、何とか明らかにしたいところです。

今回はそんな話です。


考える


私は、いわゆる「思考実験」と同じアプローチを採ることにします。
これはすなわち、できるだけいろんな要素を取り除いていって、それでも導けるような何かを探そうとするものです。

次の記事に、参考になる文章があります。

R-style » 【書評】『100の思考実験』(ジュリアン・バジーニ)

引用いたします。
では、そもそも「思考実験」とはなんだろうか。本書によれば「想像力を駆使したたとえ話」である。 
(中略) 
複雑な要因を取り除き、できるだけ本質的な事柄に迫るアプローチと言えるだろう。
私が考えることが本質的かどうかはわかりませんが、ともかく、要素を取り除いていこうと試みるわけです。

さて、いま考えたいのは、「お金を払う価値があるとはどういうことか」です。

まずは、対象のコンテンツが文章であると想定します。これは、音楽や映画などのように関わる人が多いと、それだけでお金を払う価値があるように思えてしまうためです。
似たような理由から、それは書籍の形をしていないとします。Webページとして閲覧できるものということにしましょう。

その文章は、それほど長くないことにもします。
「それほど長くない」の程度は人それぞれになってしまいますが、少なくとも、「情報量が多い」ことの価値は感じられないくらいです。

その情報の内容は、いわゆる業界情報のような、特定の人にしか知り得ない類のものでもないとします。やはりこれも、「情報が希少だから」との理由で価値が生まれないようにするためです。

それから、その文章を書いた人は明らかでないとします。「あの人が書いた文章だから、価値がある」といった回答を防ぐためです。

ここまで、いろいろと条件を付けてきました。
これ自体はそれほど重要な話ではないと思います。それら以外に条件があっても構いません。
念のためまとめておくと、
  • 文章で、
  • 書籍にはなっていなくて、
  • それほど情報量が多くなくて、
  • 業界情報の類ではなくて、
  • 書いた人は明らかでない
ようなコンテンツを考えたわけです。

このように妙な制限を持ち出したのも、「この文章に価値があると感じた方は、お金を払ってほしいです」との問いかけに、誠実に、正面から答えたいがためです。

このようにしていくと、少しずつ、今考えなければならない相手がはっきりしてくるように感じられるでしょうか。
もし、これをお読みの方にそれが感じられたなら、ひとつ、本エントリの目的は果たせています。

とはいえ、一応、私なりの「価値があること」についても何か明言したいところです。

今回に限っては、「価値とは絶対的なものじゃないから……」とか「価値とは一言で言い切れるような単純なものじゃないから……」といった回答では良くありません。それでは、「価値があったら、お金を払ってください」の問いに対して誠実ではないのです。

もちろん、一つ容易に思いつくのは、上にまとめてあるいくつかの制限をすべて付けたとき、その文章には価値がないとする回答です。言い換えれば、情報の価値は上記の条件のどれか(あるいは複数)に必ず当てはまっているということです。
これには、まったく問題がありません。誠実に、価値があることについて回答しています。

ですが、私はそうは思いませんでした。

私の回答は「感嘆があること」です。


終わりに


すぐ上の一文を、タイプする直前まで私は思いついていませんでした。
ここにはまったく別の文章を持ってこようと考えていたのです。

本エントリを通じて、いろいろと考えてたどり着いた答えなのかなと思っています。

2013年1月20日日曜日

しおりとかんしょう

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私は読書が好きです。
そのためかどうかはわかりませんが、本ブログでは、読書することについて幾度か取り上げ、考えてきています。いまや、読書に対して様々な意味が与えられていることでしょう。たぶん、私はいろいろ考えるのは好きな質のはずですので、悪くないと思っています。

他方、「読書すること」についてはいろいろと考えてきたものの、「読書しないこと」についてはそうでもありません。不覚でした。
読書することについて考えたのなら、そうでない方も考えておくのが筋のはずです。

読書にとって、本を読まないというのはどういうことでしょうか。
「読書にとって」と言っている以上、まったくもって本と縁のない生活を送る、といったことではありません。あくまで、本を読んでいく上で、本を読まないことについて問いを立てています。

私がこれを考えたとき、まっさきに連想したのが「本にしおりを挟むこと」でした。それが、何か特別な意味を持つことのように思えたのです。本にしおりを挟むことは、なるほど「読書にとって、本を読まないこと」に違いありません。

すると、本エントリの命題は「読書にとって、本にしおりを挟むこととは何か」と掲げることができます。

今回は、そんな話です。


しおりを挟む


その命題について見ていくために、ここでは「本」というものについて二通りの見方を持ち出してくることにします。
ここで言うのは、複数ある本をそのどちらかに分類できることではなく、一冊の本をどちらともとらえられる、といったことになります。これ自体は、さほど重要な話ではないはずです。

一つめの見方は、一冊の本は一つの「作品」だとするものです。もう少し言うなら、「完成された芸術作品」です。

この発想は、例えば次の記事で「限られた空間でパッケージするということの創造性」との言葉で触れられています。
素晴らしい記事です。

UI(ユーザーインターフェイス)としてのギャラリー|大山顕|ケイクスカルチャー|cakes(ケイクス)

このとき、本の読者は作品の鑑賞者に相当します。
美術館やギャラリーで、芸術作品を鑑賞している状態なわけです。

一冊の本は一つの作品であるなら、すなわち、そのものはそれ一つで完成していることになります。アーティストのメッセージが一つの作品に込められているように、著者の言いたいことが一冊の本に結実してきているわけです。

そこにしおりを挟むことは、取りも直さず、読者が完成された作品に干渉していることに他なりません。
アーティストとしての著者のメッセージはすでに本という形で完成しているのに、読者が手を加えて、多少なりともそれを改変しているのです。

すると、読者は本にしおりを挟んだ時点で、著者のメッセージを完全に正確には受信できないことになります。

これは、直感的にはネガティブな解釈をもたらします。
途中で本にしおりも挟んだりせず、著者が想定したとおりの読み方を忠実になぞることができない限り、著者のメッセージを正確に受け取ることができないのです。
これはかなりの困難に見えますが、私はこのこと自体は真だと思っています。要は、著者のメッセージを完全に正確に受け取ることは難しいのです。

一方で、その行為には自由があるとも言えます。
つまり、一冊の本という芸術作品は、読者が手を加えて改変してしまっても構わないような、インタラクティブな前衛芸術なのです。
著者のメッセージは、その意図したとおりには伝わらないかもしれませんが、予期せぬページにしおりが挟まれることで、そこにまた新しい意味が立ち上がってくることもあるわけです。

ここまで、本を「作品」とする見方での話でした。

二つめの見方は、本とは「世界」であるとするものです。
よく、読書に没頭することを「世界に入り込む」などと表現する人がいますが、それがこの見方に相当しています。その意味では、「作品」より自然だと言えるかもしれません。

「作品」との差異は、本と読者の位置関係にあります。
「作品」のときは、本と読者はどちらもこの現の世に存在していました。対等だったわけです。
本が「世界」になると、読者は文字通り本の世界の中に入り込みます。本を読んでいる間、読者は本の世界にいるのです。

そうすると、本にしおりを挟むこととは何かが自ずと見えてきます。
それは、読者が本の世界を探求することを止めて、こちらの世界に戻ってくることです。直感的に言って、本を読み進めなければその世界は回っていきませんので、しおりを挟むことで世界を停止させているとも取れるでしょう。

ですが一方で、この話に則るなら、しおりを挟むことなしに「世界」について思いを馳せたり、考えを深めたり、感傷に浸ったりすることは困難でしょう。「世界」の中にいるときは、それが進むことに遅れないようにするのが精一杯で、じっくり考えている暇がないのです。
そうでなくとも、世界の中にいるときにその世界に対して意識を向けるのは、わりと難しいことです。

さて、ここまで、「本」について二つの見方を提起することで「本にしおりを挟むこと」をいろいろ考えてきました。このあたりで良さそうな結論が出たような気がします。

本が「作品」であろうと「世界」であろうと、もし本をより良く、豊かに感じたいと思うなら、しおりを挟むという行為は悪くない選択肢になるかもしれません。


終わりに


「本にしおりを挟むこと」と「読書を中断すること」とは完全に等価ではないように思えますので、この話はまだ考える余地がありそうです。

とりあえず、本エントリでは完全に等価との立場になっています。

2013年1月14日月曜日

サラダ油の容器

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こちらの記事を読みました。

R-style » 仕事術のカテゴリを類推してみる

非常に面白い記事です。
私がこちらを面白いと感じた部分は、記事内の次の一文がよく表しています。引用いたします。
つまり、iPhoneアプリのカテゴリから仕事術のカテゴリを想像してみる、ということです。
初めに見たときは、まさに開いた口が塞がらないと言いますか、「その発想はなかった!」と衝撃を受けました。

そして、記事ではさらに興味深い言及に至っています。
引用いたします。
その点、別の分野の類推を使うと、「あってしかるべき」なものが朧気にでも見えてきたりします。
記事の最終版にさらっと書かれている一文ですが、読み飛ばしてしまうわけにはいかない、とんでもないことが表されています。

「あってしかるべき」、すなわち、今のところは「存在しない」ものが見えてくるのです。「ないものがある」ことがわかるのです。
これは、言ってしまえば「悪魔の証明」を覆してしまっているわけです。
(ちなみに、私は「悪魔の証明」の話があまり好きではありません。)

「ないものがある」ことがわかること、つまり「足りないものがある」ことがわかる力は、日常生活においてはそうでもないかもしれませんが、一方でビジネスの現場では非常に重要になります。前者は未確認ですが、後者は言い切ってしまって構わないでしょう。個人レベルから集団全体まで、いたるところでそれが問われる場面があるはずです。
さらには、「それが問われる」ならまだ良いのですが、なにせ「足りないもの」に気づく力なわけですので、「それが問われている」ことにも気づけない可能性すらあります。

やや、抽象的な話になっています。
もう少し、抽象的に続けてみます。

さて、そうすると「足りないものがある」ことに気づくためにはどうしたら良いか、考えていく必要が出てきます。
これは、細かい部分ではいろいろとやり方はあると思いますが、大筋では「枠を作る」ことで間違いないでしょう。

中身のピースが足りないことに気づくためには、何かしら「枠がある」ことが必要です。どうしても、存在しないものをそのまま認識するのは困難なのです。

ここまで、二つのことを言いました。いったん足を止めて、見てみます。
  • 「足りないものがある」ことに気づく力は重要である
  • それには「枠を作る」必要がある
この二つです。気持ちとしては、一つめの「気づく力」の方に「その力は仕事のあらゆる場面で必要になる」とのことも付加したいのですが、まとめですので、この程度にしておきます。

それでは、「枠を作る」についてです。
私はこのことを、自宅で晩ご飯を作っていて、サラダ油の容器が空っぽになったときに思い当たりました。サラダ油が(そこにあるべきなのに)ないことに気づくためには、空になった容器が必要だったわけです。

しかしこのエピソードは、この問題の一端しか映していません。
別のたとえを持ってきましょう。

スーパーの店員さんになったとします。店員さんは、商品の動きを絶えず気にしている必要があります。
このとき、「商品がないこと」に気づくことについて考えてみます。

まず、先のサラダ油の話と同様のパターンが思いつきます。
これは、普段から仕入れている商品が品切れになっている状態です。
このときの「商品がないこと」に気づくのは容易で、つまり、空いてしまった商品棚を見ればいいわけです。空になった商品棚が「ある」おかげで、商品が「ない」ことがわかります。
もちろん、この「空になった商品棚」が「枠」に相当します。

ただ、「商品がない」パターンはもう一つあります。
もともと、そのお店で取り扱っていない商品のことです。「うちの店にはあれがない!」と気づくことができれば、利益を出すことに繋げられるわけです。
(かなり大雑把に言っていますが、あくまで例です。)

それに気づくための「枠」を作るのは、なかなかに難題と言えます。

直感的には、
  • 他のスーパーの真似をする
  • 標準化する
といったところがあるでしょうか。
「標準化する」にはいろいろと解釈の仕方がありますが、例えば「本部の人が全部決める」とでもなるでしょうか。「各店舗にはこれとこれの商品があるべきだから、そのようにしなさい」ということです。
これなら確かに、自分の店に足りないものに気づくことができるようになります。

とはいえ、当然「それでいいのか」(または「それだけでいいのか」)という疑問が残ります。
あるいは、ここでは「一つの店舗」を一単位として例に採りましたが、これが変わるとどうなるか、との疑問もあります。

きっと、このあたりは永遠のテーマのようになってくるのでしょう。
しかし、少なくとも問題を認識しておくだけでも価値があるはずです。何かしらの方針で「枠」をうまく作ることが必要だ、という問題のことです。

さて、話が長くなりましたが、ようやく結論にたどり着きます。

本エントリの冒頭で、「その発想はなかった!」と衝撃を受けた、と書きました。
これは、本エントリで述べてきた話をすべて踏まえた上での「その発想はなかった!」であり、その意味で、冒頭でご紹介した記事は衝撃的だったのです。


終わりに


書いてみたら、別に「悪魔の証明」の話ではありませんでした。

2013年1月13日日曜日

エデンのかがやきは

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こちらの記事を読みました。

”生き残った”習慣、”淘汰された”習慣、”新しくできた”習慣 - iPhoneと本と数学となんやかんやと

大好きなブログの記事です。
このところ、この「iPhoneと本と数学となんやかんやと」さんでは記事の更新が途絶えており、どうしたことかと思っていましたが、中の人にご事情があったようです。

どのような事情かはぜひリンク先でご確認いただければと思いますが、少なくとも、私には直接関係のある情報ではありません。にも関わらず、それを読んだときには、とても嬉しい気持ちでいっぱいになりました。陰ながら、応援しております。特にこの時季は手が荒れますので、留意いただくと良いかと思います。

確か以前にも本ブログで書いたことがあったと思いますが、私はどうも、こういった話に弱いのです。
それは、情報としては取るに足らないことであるものの、その当人にしてみれば重大なこと、とでも言うのが良いでしょうか。そして、この人はこのときどんな気持ちだったのだろう、などと考え出すと、胸が熱くなってきてしまうのです。

きっと、あれもこれも当人にとっては大変なことで、様々な経験をしながら、いろんな人が毎日を生きているのでしょう。

茅原実里のradio minorhythm」というネットラジオがあります。
その昔にずっと聞いていて、一時期離れてしまったものの、また最近聞き始めたラジオです。

こちらに、「YOUR BLOG(普通のお便り)」とのコーナーがあります。

ラジオをよく聞かれる方ならご存じと思いますが、「メールやハガキを番組内で読まれる」ことには、何と言いますか、独特の力学があります。私がこれをうまく言葉にする能力を持ち合わせていないのが残念なのですが、少なくとも、珍しくて、面白い内容のメールが読まれやすいことは言えるかもしれません。

ですが、この「茅原実里のradio minorhythm」の「YOUR BLOG」のコーナーでは、それが当てはまらないのです。情報としてはまったく重要でない普通の話が、きちんと取り上げられます。
「この前○○があって大変だったけど、頑張りました!」のようなことです。

そして、お察しのとおり、私はこのコーナーが大好きです。いろんな人が、いろんな日常を、頑張って生きているのが感じられ、泣けてきてしまうのです。
私が涙もろいのかもしれません。

今回はそんな話です。


涙もろい


「涙もろい」との日本語には、興味深いところがあります。
「もろい」とは、漢字で書けば「脆い」になるでしょう。この言葉は、有名なところではダイアモンドの化学的性質を表すときに使われます。

つまり、崩れやすいとか、壊れやすいとかいう意味です。
ちなみに、「硬い」とは別の概念で、ダイアモンドは「硬いけど、脆い」との性質を有していることになります。「硬い」とは、「他の物質とこすり合わせたときに傷が付かない方を、もう一方より硬いと表現する」といった雰囲気になります。

話を戻すと、「脆い」とはそういった意味です。
すると、「涙もろい」とは「涙が壊れやすい」との意味になります。普通、「涙もろい」と言ったら泣き出しやすいことを指しているでしょうから、すなわち、「泣き出す」ことを「壊れる」と表現しているわけです。

なぜ、「泣き出す」ことが「壊れる」ことになるのでしょう。ここではいったい何が壊れているのでしょう。
そういえば、「涙腺が決壊する」との表現もあります。やはりここでも「壊れて」いるわけです。
さらに言えば、英語にも「break into tears」で「わっと泣き出す」という言い回しがあります。驚くことに、英語でも「壊れる」が登場してくるのです。

壊れているのは、何でしょう。琴線でしょうか。
触れただけなら単に感動しているだけですが、それが壊れたとき、涙になってくるということです。
書いておいて何ですが、これはあまり納得がいきません。

あるいは、壊れたのは自我の壁だとするのはどうでしょう。
私たちは自分の周りに壁を作って、それで世界と自分とを隔てているのだとします。そうすることで、社会性ですとか、礼儀ですとか、そういったものを普段は保っているのです。
しかしその壁が、自分の感情が強く揺さぶられて壊れてしまうことがあります。そうして、普段は「社会性を持って」人前で泣かずにいるのに、そのときばかりは「人目はばからずに」泣いてしまったりするのかもしれません。

なかなか個人的にはしっくりくる話です。
「涙が出るときに壊れるのは、自我の壁である」のです。

すると、私がいろんな人の日常に触れたときに涙が出てしまうことも、合点がいきます。
本エントリの前半で述べたとおり、そういった他人の日常についての話は、情報としては重要ではありません。しかし、私がその人の生活に思いを馳せ、あたかも当事者であるようにそれを思い描いたとき、私はその人の日常に同調したようになるのでしょう。そしてその際に、私の周りにあった壁が壊れているのです。

同調するために他人の元へ行くには、壁を壊さないと進めないわけです。
だからこのときに、涙が出るのです。

きっと、私の自我の壁は、世界から自分を守るために硬く作られているのでしょうが、一方で脆く、壊れやすくもあるのでしょう。

ダイアモンドのようです。
言わば、ダイアモンドの涙です。


終わりに


ロックバンド「D」に、「EDEN」という楽曲があります。
本エントリの終わりとして、歌詞を引用いたします。
未来永劫変わらない EDENの輝きは
Diamondの涙

2013年1月6日日曜日

非科学的に言うと

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こちらの記事を読みました。

2013年に電子書籍関連でどんな動きがあるか予想してみる - 見て歩く者 by 鷹野凌 -

記事タイトルのとおり、2013年の電子書籍関連の動きについて予想したものとなっています。非常に面白く読ませていただきました。
興味深い箇所がたくさんあったのですが、それ以上に、全体としてとにかく面白いと感じました。

そこで、本エントリではこの面白さについて少し考えてみたいと思います。

今回はそんな話です。


面白さについて


私はブログ「見て歩く者」さんの熱心な読者です。そんな私の個人的な印象として、同ブログでは、事実や統計に基づいて、論理的に、精確な話が展開されていると感じます。統計の取り方や示された数字の解釈についての言及も多く、いつも感嘆しながら読んでいます。

一方で、冒頭にご紹介した記事はその名のとおり「予想」ですので、そのように精確な話だということはありません。何かを基にして間違いなく言えることではなく、普段から考えていることや印象などから、この予想が組み立てられていることと思います。

このように、ここでは二つの立場があることがわかります。
「論理的で精確」と「印象や予想」です。

前者の「論理的で精確」であるとは、科学的であると言い換えることができるでしょう。

書籍『科学的とはどういう意味か』では、科学的であることを次のように説明しています。

『科学的とはどういう意味か』(森博嗣
(画像は私が購入した紀伊國屋書店BookWebの商品ページのものです)

答をごく簡単にいえば、科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。
なお、「答をごく簡単にいえば」とあるように、この数行の引用だけで「科学的であること」を過不足なく説明してはいないことは、ここに明記しておきます。これで完全であるとしてしまうのは、科学的な態度ではないのです。

とはいえ、これで、文章で表すある意見が科学的であるということについて考えることができます。

意見のためには、先に情報のインプットが必須になるでしょう。
ですので、そのインプットの姿が明らかとなっている上で、論を一歩ずつ展開していき、ある結論にたどり着くことになります。
その、論の展開の様子と結論が、多くの人の賛同を得られるようなら、それらは「確からしい」と評されることになります。科学的な手続きと言えます。

いま、何となく「賛同」との言葉を使ってしまいましたが、これは、その意見に賛成する、反対するといった話ではありません。あくまで、科学的な手続きに不審なところがない、健全である、といった意味です。

このようにすれば、同一条件下なら誰であっても同じ結論に至ることが可能になります。ある主張は、このようにして「共通認識」とでも呼べるものになっていくことができるわけです。
他者を納得させようと何かの主張をする上では、科学的であることは必須の姿勢になるのでしょう。

それに対して、もう一方の「印象や予想」を見てみます。ここまでの話を踏まえれば、こちらは科学的でない文章、意見だと言うことができます。

それでは、文章や意見にとって、非科学的であるとはどういうことなのでしょうか。

まず言えるのは、そのような文章や意見は、科学的な手続きを踏んだものと比べて確からしくないことです。
これは、これ以上の説明を入れなくとも間違いありません。

しかし、非科学的であることが、そういったネガティブな意味しか持っていないわけでもないはずです。このあたりに、本エントリ初めに書いた「面白さについて考える」ことの結論がありそうです。

私には、非科学的な「印象」とは、科学的で論理的なステップからこぼれ落ちていった何かが、どうしても表れてきてしまうもののように感じられます。あるいは、大量の情報のインプットが自分の中でかきまぜられて、何となくにじみ出てきてしまうものだとしても構いません。
いずれにせよ、その「印象」については誰にでも当てはまるものではありません。他の人には言えない、その人独自のものです。

この意味で、冒頭に掲げた記事は面白いのでしょう。
非科学的な予想は、その人独自のインプットと相まって、オリジナルなものになるわけです。
しかも、(逆説的になりますが、)すぐ上の話に照らせば、
  • 何かがにじみ出てくるほどの大量のインプット
  • 何かがこぼれ落ちるほどの厳密な論理的ステップ
があってこそ、非科学的なことが言えるようになるわけです。

ものすごく大雑把な言い方をすれば、きちんと非科学的なことが言えるほど、その人はその分野に精通している、とでもなるかもしれません。


終わりに


もし本エントリでここまで述べてきたことが確からしいなら、情報を受け取る側にも科学的な姿勢が必要になります。
と言いますか、科学的とは民主的な仕組みですので、情報を発する側、受ける側の双方が科学的な姿勢を持って初めて、それが科学的かどうかを検討できるようになるのかもしれません。

示す世界と私の苦悩

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。

R-style » [ハングアウトオンエア]Rashitaの部屋 #004収録しました

Google+ の Hangouts on Air を利用した動画コンテンツが紹介されています。
引用いたします。
今回は、ゲストを3人お迎えして、「Blogで物語を語ること」についていろいろ聞いてみました。
テーマは、「ブログで物語を語ること」とのことです。
なるほど、動画に出演されている方々がブログに物語を書いているのを、私も幾度か拝見したことがあります。大変、面白そうなテーマです。

そして、動画の方も見させていただきました。
文章だけではなかなか到達しないような、興味深い知見がいくつも現れていたように思います。楽しませていただきました。

翻って、「ブログで物語を書くこと」というテーマです。
これについては、私も常々思っていることがあるのですが、これまで、それをこの場所で文章にしたりはしないつもりでいました。
しかし、せっかくの機会ですし、また本ブログの前回のエントリで似たようなことを書いてもいますので、今回はそれに挑戦してみようと思います。私としては「タブーを犯す」くらいの心持ちです。

今回はそんな話です。


ブログで物語


ひとつ前提として、私はこれまで、本ブログにて物語を記したエントリを公開したことはありません。
よって、ここからの文章は基本的にその理由を明らかにするものになるはずです。

さて、話は私が本ブログを開設する以前にさかのぼります。
多くの方にも同意いただけることと思いますが、自分から何かしらの活動をしない限り、「自分で考えて、自分の文章を書く」という経験は、学校での読書感想文くらいのものです。

私も例外ではありませんでした。長いこと、私にとって文章とはそのような意味のことであったわけです。

しかし、私もあるとき、自分から文章を書く機会に恵まれることとなりました。それは具体的には、ミステリ小説を書くことでした。
すなわち、今でこそ、こうして自分の言葉を書き連ねることができていますが、私にとって初めての「自分で考えて、自分の文章を書く」経験は、ミステリ小説を書くことだったのです。

これは私にとって、非常に重要な経験となっています。有り体に言えば、私の原点に相当することです。

それから時代が下って、この「23-seconds blog」を開設する運びとなりました。当初、Evernoteの話と、音楽の話と、オリジナルのミステリ小説をエントリとしていこうと考えていました。
予定は変わるもので、この中で実際に書かれているのはEvernoteの話のみとなっていますが、それはまた別の話です。

本ブログの初めの頃は、Evernoteの話などをしていました。
ひとしきりそれらのエントリを書いた後、そろそろ創作ミステリにも手を付けてみようかと思い立ったときに、私は一つ大きな壁にぶつかりました。

つまり、ここがこの話の本題になるわけです。
すぐ上に、「ひとしきりそれらのエントリを書いた後」と書きました。「それらの」とは、いわゆる普通のブログエントリのことになります。

そういったエントリでは、書いているのは私で、私は読者の方に対して文章を書きます。書かれた文章は、私から読者の方に向いているわけです。
ですので、「私はこう思います」と言ったら、本当にこの私がそう思っているわけです。

一方、ブログに物語を書いた場合、この図式ではなくなります。

私は物語を書きます。その物語は、形式的にはこの私とは別の世界のことであり、同時に、読者の方とも別の世界のことになります。
(私と読者の方は、同じこの世界にいるわけです。)

読者の方は物語を読みます。その物語は、形式的には書いた私とは関係のないものです。
物語を読んでも、「その世界の中からは」私が書いたかどうかは判別できませんし、私がそこに登場するわけでもないためです。
物語という世界にとって、誰がそれを創造したかは知る術がなく、それはその世界に入り込むところの読者の方にとっても同様です。

要するに、物語の世界は、私たちとは別の世界を示しているわけです。

このため、例えば通常のエントリで「私」と言ったときは、それは他ならぬこの私を指していますが、物語のエントリで言ったときはそうではありません。
示している世界が違うためです。

ところが、ブログのエントリとして物語を書いてしまうと、別々の世界を示す文章がすました顔をして同列に並んでしまうのです。

私が「壁にぶつかった」と言ったのは、この部分です。
私には、どうしてもその「世界が違っていること」と「それらが同列に並んでいること」が耐えられなかったのです。

実は、私が以前にミステリ小説を書いていたときも、似たようなことを思っていました。一例としては、ミステリ小説のタイトルと作者名についてがあります。
タイトルと作者名が何かしら掲げられていたとしても、単純に物語の世界を読んでいくだけでは、それらが掲げられていることは判別できません。その世界の外から付けられたものであるためです。

これも私は釈然としませんでした。
私がミステリを書いたときは、その部分が問題とならないよう工夫を凝らし、何とか自分の中で折り合いを付けていたものの、ブログエントリの方は、主に労力の面でなかなかそうもいかなくなってしまいます。
これが、私がいままでブログで物語を書くことができていない理由です。

さて、ここまでの説明で、私があえて使用しなかった単語があります。
「メタ」です。

明らかに、私が本エントリで述べてきたことは「メタ」の話です。

ミステリに限らず物語を好む多くの方々は、(物語において)「メタ」が意味するところはご存知かと思います。

そして、私はミステリの中で「メタ」ならびに「叙述トリック」と呼ばれるものを、心底好んでいます。

このあたりで、結論に移りましょう。
「メタ」を好む者にとって、「その世界が示している範囲」に関しては、どうしても無自覚ではいられないのです。
したがって、本エントリでは、それを好きすぎて逆に縛られてしまった私の苦悩の様子が描かれていると言えるわけです。


終わりに


ですので、私には書くことができないのですが、自分が読者に回った際には、大層テンションが上がります。
大好きだからです。

2013年1月2日水曜日

一年かけて

Clip to Evernote
気づかぬうちに、世間は新年を迎えていたようです。
この時期は、気づかぬうちに時間が経っていることがよくあります。それは本意でないのですが、しかしなぜだか、それでもいいかと思ってしまうようでもあります。
もっとも、「それ以外の日常」と比べて「この時期」を過ごした経験は誰にとっても少ないため、納得いくようにするのは難しいのかもしれません。

ともあれ、新年あけましておめでとうございます。
本年も、この「23-seconds blog」をごひいきいただけると幸いです。

(新年ですので先に書いておきますが、ここから余談です。)
ところで、このようにブログエントリ中に挨拶を書くことは、よく考えてみると興味深いことを含んでいます。

ブログエントリの文章は、私の場合、何かのトピックについて書かれるものです。Evernoteについて、ライフハックについて、といった具合です。
そのときは、文章として表現したいことが(その時点でははっきりしていないとしても)何かあって、それに向けて一文一文を書き進めていくわけです。そして、最後にはその表現したいことにたどり着いて、おしまいになることでしょう。

こう書くと、なんだか「まとめの一文が重要である」といった話のようですが、そういった意図はありません。

ここで述べたいのは、ある一文は、表現したいことに一歩近づくために書かれるということです。
言い換えれば、一文は、次の一文のために書かれるものなのです。
同時に、到達した最後の一文もまた、そこまでに積み重なってきた文章が結実したものであり、文章どうしの関連性の中に存在しているとの意味で、他の一文のバリエーションであると解釈できます。

一方で、文章中にある挨拶などは、その限りでなくなります。
少し上に書いた挨拶を含んだ一文は、「他の文章のために」書かれたものではありません。この一文のときにだけ、突然「これを読んでいる人」が登場してくるのです。
そして、その人に向けた文章になるわけです。

これは、「他の文章のために書かれた」文章の並びとは、明らかに別のレイヤに位置しています。

この状況が当てはまるのは、挨拶を含んだ文章だけではありません。
例えば、「下記の記事で紹介されています」と言って他記事へのリンクをご紹介することもそうです。これも、「下記」に「記事」がきちんとあるのは読む人にとってだけで、この一文にとっては必ずしもそうではありません。この一文自体は論理の展開とは無関係であり、他の文章にはかからないのです。

私が興味深いと思うのはここです。
このように別レイヤに属している文たちが、すました顔をして、同じ場所に並んでいるのです。役割は相容れないのに、装いに差異がないわけです。

ですので、いま、「挨拶を含んだ文章」についての文章を書いてしまうことにより、その構造を破壊することに挑戦してみました。

ちなみに、すぐ下に書くような括弧付きの文章は、その他の文とは装いを異にしていますので、ここで述べたようなことは起きません。それはそれで、また面白く感じます。
(ここまで、余談でした。)

さて、新年ですので、少し今後のことについて考えてみます。

今年、2013年は、本ブログのテーマとして「理解すること」を掲げたいと思っています。

私が個人的に、少し前から「理解することとはなんだろう」との疑問を抱いていました。考えて結論を出し、一つのエントリにまとめることも幾度となく検討しましたが、その度、手強いテーマだと感じていたのです。

そこで、それをブログのテーマとして、一年かけて少しずつ解き明かしていくことを思いついたわけです。

ブログの見た目としては、具体的に何かを変えるつもりはありません。これまでどおり、エントリを続けていきます。
ただ、その中で「理解すること」に関連する話を、いろいろと形を変えながら度々登場させようと考えています。

さしあたって、
  • 理解することとは何か
  • 理解しているとはどういう状況か
  • 理解していないとはどういう状況か
  • 「理解している」から「理解していない」に移行する際に、起こっていることは何か
といったことに触れていく予定です。
上記のうち、多くの方は四番目が気になることと思いますが、私の方は急ぐ旅路ではありませんので、少しずつ進んでいきます。
もしうまくいっていたら、一年後に結果をまとめられると面白いかもしれません。


終わりに


今書いたような、「こういう文章を書きます」という文章も、また妙な立ち位置にいるように思います。