2013年2月28日木曜日

理解にいたる道半ば

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。

なんか、しんどくなったらインプットを減らしてみるといいかも。 | ライフハック | Cross Mode Life

記事タイトルにあるとおり、生活していて大変になったときのお話となっています。なるほどと思いながら読ませていただきました。

本エントリでは、私も同じテーマについて考えてみたいと思います。

今回はそんな話です。


つらくなったとき


最近生活が大変だなどと感じることは、私はそれほどありません。その反面、皆無でもありません。

個人的には、悪くないバランスであろうと思っています。
日々をつらく感じることがあまり頻繁にあるのも嬉しくありませんし、他方、そういったことは自分は一切ないのだと思い込んでしまうのも問題がありそうです。大変なら、それに気づける方が良いはずです。

さて、私はつい最近まで、いま話題にしているような大変だった時期を過ごしていました。それを私なりの意図をもって乗り切ってきました。
ここから、その私の意図とやらを書いてみようと思います。すなわち、冒頭でご紹介した記事に反応して私の場合はどうかということです。

妙な表現になりますが、私が心身ともに余裕があるときには、あまり何かをしないでいることができます。これは、家でじっと考えごとができたり、それを書き出してみたり、音楽を集中して聞くことができたり、といった意味です。
適当な時間を確保してゆっくり思索に耽ってみようなどということは、私の場合は精神的に余裕がないとできないことです。どんどんつらくなってしまうのです。余裕がないときは腰を据えて物事に当たることができない、と言うと伝わりやすいかもしれません。

ですので、私が精神的に余裕のないときは、上述したようなことをしてしまわないように注意します。どんどんつらくなってしまいますし、できないことですので、やらないようにするのです。

そのようなときに具体的に意識するのは、情報のインプットを過剰に増やすことです。期せずして、冒頭での記事と反対の話になってしまいました。
件の、余裕があるときにできることたちを、能動的に行動を起こす類のことであると私はラベル付けしています。時間を取って考えごとをしたりするのは、受け身と反対の姿勢だと思うのです。

その意味で、情報のインプットを過剰に増やすことでそれを妨げようとしているわけです。

いろいろ言いましたが、私は、大変だと感じる時期には貪るように本とRSSフィードを読みます。内容を理解できているかどうかも気にせず、ひたすらに量を求めるのです。ストレスがかかるとやけ食いする人と、発想は近いかもしれません。

ここで気づくことがあります。

余裕があるときにはゆっくり考えごとができると書きました。
しかし、考えごとも材料がなければできません。いえ、できる人もいるのかもしれませんが、私はできません。
その材料はどこからくるのかといえば、余裕がないときに大量に仕入れた情報になるわけです。

これについて、理屈は正しく見えますし、かつ私の実感にも即しています。
余裕があるときに何か考えようとして時間を確保しても、頭の中に明らかに材料が渦巻いていないのを感じることがあるのです。そういうときはすぐに考えるのを中止し、本を読むなどのインプットする方に移行することにしています。

ひょっとするとこのことは、私にとって物事を理解することや発想することのひとつの型なのかもしれません。

桶屋が儲かるように書くと、
  • 余裕がなくなる
  • 大量にインプットする(このときは何も思いつかないで、無意識下に置かれる)
  • 時間が経って余裕が出てくる
  • 思索できるようになり、無意識下の材料から何かが生まれる
ということです。

そうだとすると、私はずいぶんと自分に負荷をかけないと物事を理解できないことになります。一度「精神的に余裕がない! つらい!」という過程を経てからでないと、理解や発想の境地にいたらないことになるためです。苦笑するしかありません。
しかし、それがわかっているなら、つらいときでも、理解にいたる道半ばなのだと自分に言い聞かせて進んでいくことができます。それなら悪くないでしょう。

もう少し考えを進めてみます。

精神的につらくなったらインプットを多くすると述べました。
とはいえ、余裕がなくなったからインプットが増えたのか、逆にインプットが増えたから余裕がなくなったのかについては議論の余地があります。
私の意識の上では確かに前者ですが、無意識のうちにインプットが過剰になったために精神的につらくなったのかもしれないのです。

同じ話は、余裕が出てきたところにも成り立ちそうです。
意識の上では、余裕が出てきたから思索を始めることができ、その結果理解にいたっているように思えます。しかし無意識ではすでに理解にいたっていて、その結果として余裕が出てきているのかもしれないのです。

すると、ひとつ難しい疑問に行き当たります。

余裕があることや余裕がないことというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
こうして連ねていくと、理解や発想と無関係とは思えないのです。

余裕があるときに、腰を据えて考えてみたいと思います。


終わりに


説明が足りない箇所がありました。
私にとって、集中して音楽を聞くことは能動的に行動を起こしていることなのです。

2013年2月23日土曜日

スタティックに見直す

Clip to Evernote
いつのことでしたでしょうか、数学の授業で有理化というものを習いました。分母に根号のついた数があるときに、それを除去するための手続きのことです。
原理を飲み込むのはとても容易で、すなわちある数に1を乗じてもその値は変化しないことです。

例を挙げます。
という数があったとき、
(後のために、これを①と呼ぶことにします。)

値が1である数をそれにかけ算することで、
有理化された数を得ることができます。
(こちらを②と命名しましょう。)

ここまでに疑問はありません。

さて、もともとの数①を再度見てみます。有理化との言葉からもわかるように、こちらは無理数です。
ですが、①は明らかに②と等しい数ですので、②も無理数です。無理数に対して有理化をおこなうと、無理数がでてくるわけです。

これは別に不思議な話ではありません。ここで私が取り上げている手続きは、正しくは分母の有理化と呼ばれるものだからです。①の分母は無理数であり、なるほど②の分母は有理数です。有理化されているわけです。

いま、このように回りくどい論を進めたのは他でもありません。分母の有理化なるものが、その呼称ほどとんでもないものでないことを示したかったのです。
もっとも、1をかけ算しても値は変わらないことは理解しやすくある一方で、最初にそこに思い至った人に対する畏敬の念を、私は相当に抱いています。その部分に関しては、とんでもないことが起きてはいます。

話を戻します。分母の有理化なる手続きは、それほど大したことを行っていないとの話でした。
だとすると疑問が出てきます。そのような手続きは何のために行われるのでしょうか。なにせ、ある数に1をかけ算するだけの簡単な手続きなのです。

よく言われるように、数字を簡単にするためでしょうか。おおよその値を知るためでしょうか。あるいは、ひとつの値の表現は一意にしたいからかもしれません。無理数における除算を定義するためとも言われるようです。

深入りは避けます。しかし、私はこれらのいずれもが理由として納得がいかない部分を含んでいると感じています。
何のために分母の有理化を行うのかという問いに答えるのは、それほど容易でないことかもしれません。

ここからは私の感想の話です。

私は件の問いについて、分母に根号がある数字はでこぼこに感じるから、との考えを持っています。逆に、分母が有理化された数字は平坦に感じるから、でも構いません。

これ以上説明のしようがなかったりします。
ルートが分母にある数字は、でこぼこして、ごつごつして、自己主張が強く感じます。同じ値にも関わらず分母が有理化されていると、平らで、しゅっとしていて、坦々としているように感じます。

私は坦々としているのが好きです。だから、分母の有理化を行うのです。

思えば、私が坦々としているものを好むような状況は、分母の有理化のみならずあります。

本ブログの右上にもあるとおり、私はテクノが好きです。中でも、ミニマルテクノと呼ばれるジャンルとその派生が好きです。近頃はミニマルテクノという言葉もあまり聞かなくなってきたような気がしますので、いちいち「とその派生」との文言を付け加える必要があるのは手間なことです。余談でした。

ミニマルテクノは坦々とした音楽であり、私はそれを好きなわけです。ミニマルテクノに限らずボーカルがいるような音楽でも、私が好む中には坦々としたものがあります。詳しくは立ち入らないことにして、ダイナミックな表現に頼らずとも空間を保ち続けられる音楽である、との言葉だけ残しておきます。

坦々とした音楽を楽しんでいるときには、それがダイナミックであるときとは異なった心の動きがあるように思うのです。

そんなことを思いながら世界の方にふと目を向けてみると、興味深いことに気づきます。
坦々としたものを好む心を持っていると、世界を楽しむのが容易になることです。

今日は特別においしいものを食べたりも、特別にどこかに行ったりも、特別に何かを買ったりもせず、坦々と毎日を過ごしているだけで楽しいのです。
正確に言うなら、坦々と毎日を過ごしていることが好きなのです。

身の回りにある多くのものは、何とかして私たちの生活をダイナミックにさせようと策を巡らせてきます。スタティックなものが好きなら、それらに頼ることなく楽しさを作っていけるわけです。

楽しさを、外に探しに出なくてもよいのです。
でこぼこしていてダイナミックな世界をしゅっと平らに見直すだけで、それを楽しめるかもしれません。

この気づきは大きいです。そして、その手続きは分母の有理化に似ています。
大きな気づきなので、お風呂から飛び出して「有理化!」と叫びたくなります。


終わりに


ダイナミックな音楽も、もちろん好きです。

2013年2月18日月曜日

「モレスキンコラボレーション」概観

Clip to Evernote
本エントリは、いわゆるひとつの雑談です。

情報を追っている方ならご存じのことでしょう。このところ、モレスキンの限定コラボレーション仕様の発表が続いています。

思えば、最近は表明することがあまりなかったのかもしれません。
私はモレスキンのユーザです。モレスキンがなければそれなりに日常生活へ支障をきたす程度には、熱心に使用しています。

私は、普段使いと呼ばれるノートはモレスキンのみであり、ある一時点には必ず一冊を使用しています。途切れる瞬間はありませんし、重なる部分もないのです。車のガソリンのようなものととらえておくとちょうど良いかもしれません。あるときに入れたガソリンを燃焼し尽くす頃にはすでに補充分が待ちかまえていて、なめらかに次に移っていくわけです。すべての区間で微分可能でないかもしれませんが、連続ではあります。

私が日常をドライブさせるために不可欠なモレスキンは、それと同じ意味で、通常より多くのページを消費することもまた容易ではありません。ページは、坦々と日々とともに進んでいくものだからです。

一冊のモレスキンを使い終わるまでには二か月弱の期間がかかります。そのため、モレスキンの限定版が次々に発表される昨今では、なかなかレギュラーのそれに帰ってこられずにいます。

特に不満はありません。むしろ面白いと思っています。

そこで本エントリでは、ごく近い過去と未来に私のガソリンとなった限定版モレスキンを列挙していこうと考えました。

今回はそんな話です。


モレスキン


一つ前の世代として、こちらのモレスキンを使っていました。


Evernoteとのコラボレーション仕様になっています。

Evernote スマートノートブック by Moleskine

公式ページへのリンクです。

本エントリで限定版との呼称を幾度か用いていますが、こちらはおそらくそうではないと思います。そういった記述は見あたりませんので、私たちは恒常に入手が可能なのでしょう。はっきりしたことはわからないものの、私はそう思っています。

こちらのモレスキンの特徴はなんといっても、ゴムバンドとしおりひもが緑色をしていることです。実に目を引きます。

こちらが、現在使用しているモレスキンです。


カセットテープ仕様です。

MOLESKINE モレスキン 限定版オーディオカセットノートブック 登場

カセットテープ生誕50周年を記念しているようです。

個人的には、限定版モレスキンの中で最も気に入っているものの一つです。ちなみに、双璧を成すのは星の王子様仕様のものです。少し前に販売されたもので、ご記憶の方も多いことでしょう。

こちらは、次に手を付けようともくろんでいるモレスキンです。


ホビットとのことです。未開封です。

MOLESKINE モレスキン 限定版ホビット ノートブック 登場

そして、そのまた次に使用するつもりのモレスキンです。


ディズニーとのコラボレーションだそうです。

Disney

こちらも未開封です。
計算上、この封が破られるのは七月になります。

モレスキンの紹介は以上です。

もう一つ、このように各種のモレスキンを使用して感じたことがあります。

私はずっと、モレスキンはルールドと呼ばれる種類のものを使用することにしていました。それがいちばん使いやすいと考えていたためです。思いこんでいたため、と言っても良いです。

本エントリでご紹介したようなイレギュラーなモレスキンを購入したいとき、様々な理由から思い通りの種類を選択できないことがあります。購入するのが遅れて品薄になっていたり、すべての種類が用意されていない限定版があったりするのです。

すると、その場では本意でない種類のモレスキンを購入することになります。しかし、いざ使用する段になると、それが予想を裏切って書きやすく感じたりするのです。
いまでは、私のお気に入りはスクエアードという種類のものに変わりました。

つまり、使ってみないとわからないことであったようです。
こだわっていた、という言葉の正しい用法を学ぶことができたのかもしれません。


終わりに


日常をドライブさせるのがモレスキンなら、ブレーキをかけるのは読書かもしれません。
これについてはまた後ほど考えてみます。

2013年2月11日月曜日

KJ法、煮えないか

Clip to Evernote
久しぶりにKJ法の話がしたくなりました。

本ブログでは、KJ法について幾度か取り上げています。

改めて私の立場を明らかにすると、私個人は他の何よりもKJ法が指向する姿勢と相性が良いと感じており、KJ法を陽には用いずとも、物事をどうにかするときにはいつも「KJ法らしい」態度で相対するようになっています。
ですので、冒頭に掲げた「明示的には述べていない」との文言は、表層ではない部分ではKJ法に関係していることも多い、ということとほとんど同じ意味になります。

KJ法には、いくつかのステップがあります。それは3とも5とも言われるかもしれませんが、私は一応4ステップであると理解しています。

その一つめに相当するのは、たくさんの要素を集めることになります。
いまは、KJ法についてをつまびらかにすることが本意ではないため、それが何のことやらと思われる方には申し訳ありません。ここでは、KJ法の初めの段階ではブレーンストーミングのようなものをする、と認識していただければよろしいかと思います。

二つめのステップは、そのブレーンストーミングで生成された要素たちを眺めて、親近感を覚えるものを近づけることです。こちらは、特にこれ以上の説明を入れなくともよいでしょう。だいたいイメージできるかと思います。

ここまでが下準備です。

常々私は、この、一つめのステップを完了して、二つめに向かう部分でいろいろやれないかと考えていました。そこのところを、言わば拡張したいと思っていたのです。

気になったのは、ブレーンストーミングです。ある問題に対して、関係することと関係しそうなことをできるだけたくさん出していくわけです。
ところが、これは少し難しいのです。関係しそうなことまで、すべて頭からひねり出して書くというのは、わりと難しいです。

難しさの由来ははっきりしています。
『発想法』(川喜田二郎)に当たると、このステップは、二時間ですとか、そういうオーダーの時間をかけて徹底的に行われる想定になっています。それだけの時間をかければ、なるほど相当な量の関係しそうなことを引っ張り出せることでしょう。逆に言えば、それほどの時間をかけないと、十分な量の要素は引き出されないことになります。
あまり、手軽にはできるとは言いがたいのです。

企業での問題解決ですとか、研究者の論文執筆のためなら、それで問題はないかもしれません。
一方で、それだけだとすれば、KJ法は私たちから縁遠いものになってしまいます。KJ法は、以降のステップに興味深い部分を多く有します。一つめのステップで引っかかって先に進めないのは、もったいない話です。

対策のヒントになったのは、『思考の整理学』(外山滋比古)の「見つめるナベは煮えない」でした。
早く煮えないか、早く煮えないか、とたえずナベのフタをとっていては、いつまでたっても煮えない。あまり注意しすぎては、かえって、結果がよろしくない。しばらくは放っておく時間が必要だということを教えたものである。
私はこのことに、自宅で食事を作ろうとして、ラーメンが煮えるのを見つめていたときに気づきました。
以前にも何かありました。食事を作っているといろいろなことが思いつくようです。

思いついてしまえば、これをKJ法に転用するのは容易です。
すなわち、KJ法の1から2のステップを、一息に終えようとせずに、何日もかけてやろうとするわけです。少しずつ、関係しそうな要素を集めていけば良いのです。

何度も繰り返してある問題について考えたり、あるいは考えない期間があったりすることで、たくさんの要素を集めていけるはずです。もちろん、何か思いついたらすぐに記録できる体制は欠かせません。

このとき、二つめのステップ(親近感を覚えるものを近づけること)を多少なりとも進展させた後に、一つめのステップに戻って要素を追加することもあるでしょう。
KJ法の精神から言って、新しい要素が入ったら、先に作ってあったグループにはこだわらずにどんどん並べ直す方が良いように思います。

さて、本エントリで、KJ法の前半のステップを少しだけ拡張しようと試みてみました。方針としては、ブレーンストーミングの言葉にとらわれすぎないように、と言えるかもしれません。

そうまでしてKJ法を持ち出したいのは、私がそれを好きだからです。
そして、その好きな理由として、やはり『発想法』に納得いく記述がありました。
KJ法の位置づけは、広くいえば、野外科学的方法であり、そのなかの、とくに発想法部分、そのなかのさらに中核的な技術として位置づけされよう。KJ法が発想法のすべてではないが、KJ法を抜きにしては発想法は成立しないであろう。
「野外科学的方法」や「発想法」が指すものについては、いったんここでは置いておきます。

ある種の順序をもって物事を考えようとしたとき、KJ法のどこかに似ていると感じられる部分は、かなり頻繁に出てきます。そのたび、KJ法の知見を持ち出してくることができるのです。
私がKJ法を好むのは、このためです。


終わりに


私が以前にKJ法を好む理由として挙げていたのは、もっと視点が近くに寄ったものでした。

今もそれは変わらずあります。加えて、時間が経つにつれ、引いた見方もできるようになったのかもしれません。

2013年2月9日土曜日

鍵括弧が付く新しさ

Clip to Evernote
「文章の話をします。
よく、文章中のある箇所に、鍵括弧が付けられているのを目にすることがあります。
状況は様々ですが、ひとつには、会話文や人の発言を文章中に織り込むときのものがあります。いわゆる直接話法と呼ばれるもので、ここに用いられる鍵括弧は、定義からして、正しい用法です。

私がいま話題にしたいのはそれではなく、別に誰かの発言でもない、「普通の文章」のさなかに突然現れてくる鍵括弧のことです。

こうして説明すると少しわかりにくいので、例を挙げます。
もとい、挙げました。そのようなものです。

直感的に、こうした鍵括弧はおそらく、言外の何かの意味を読み手に汲み取らせようとして、書き手が配置するものなのでしょう。言外の意味について述べるのは難しいことですが、きっとそうです。

そうだとすると、ここで言うような鍵括弧を持ち出して文章を連ねていくことには、書き手の怠慢と言いますか、読み手への甘えと言いますか、そういったものがあるように感じられます。何かを伝えようとしているにも関わらず、肝心なところは、語らずして察してもらおうとしていることになるためです。
その意味では、鍵括弧が入り交じる文章は避けられたいものになります。

私のこのような思想は、今となっては昔のことですが、森博嗣の小説の一節を読んだことに影響を受けています。
正確な文章やその存在箇所の行方が知れなくなってしまい申し訳ありませんが、甘えやわがままというのはすなわち、きちんと表明してもいないことを、伝わっていてほしいとする態度のことだ、といったような内容でした。

目にして以来、このことは常に私の念頭にあります。
それほどに、強く心が動いたのです。

翻って私自身の文章を見てみると、残念ながらと言うべきなのか、件の鍵括弧が使われている部分は多々あります。

また、私がまさに文章を書いているときのことを思い返してみると、疲れてきたときに、それを多用したくなる自覚もあります。このことは、先にも述べたような、鍵括弧は言葉を費やさずに何かを察してもらおうとするものだろう、との考え方に反しません。

ところで、この、文章中に鍵括弧を使いたくなる気持ちは、どこから来るものなのでしょうか。
鍵括弧を使いたくなるということは、少なくとも、それは言外の何かを示す記号であるとの共通認識が、読み手と書き手にあることになります。語られないことなのに、語られないことがあるという認識だけはあるわけです。

その回答としては、普段読む文章がそのようになっているためだと言うことができます。
常に、自分の言葉は他者のそれから形作られるものでしょうから、私が鍵括弧を使いたいと思うのは、私が目にする数多の文章たちがそうなっているためなのです。

現状、私が目にする文章は、生まれて間もないものが多いでしょう。書籍やブログはもちろん、日常生活のあらゆる場面で出会う文章は、書かれてから、それほど時間の経っていないものがほとんどです。
つまり、それらの中で鍵括弧が用いられているために、私が文章を書くときにもそれを使いたくなるということです。

そう思って少し昔に書かれた書籍を見てみると、そこには、鍵括弧の付けられた文章は不思議とありませんでした。今よりほんの少し前の時代の人は、鍵括弧が散在する文章を読むこともなく、その結果として、そのような文章を書きたくなることもなかったのだろうと推測できるわけです。
もっとも、私は手近にあった数冊の書籍を確認しただけですし、加えて、現在のブログに相当するような昔の文章を目にするのは難しいと思いますので、はっきりとは言えないことは付記しておきます。

さて、ここまで、二つのことを言いました。
  • 鍵括弧は、言外の何かを汲み取らせようとするものである
  • 現代の文章にはそれが多く用いられており、おそらく、昔にはあまりなかった
ここから、鍵括弧に対する立場をいくつか考えることができます。

ひとつは、鍵括弧は読者への甘えであるから避けられたい、とする立場です。
間違いなく、それは忘れてはいけない考え方です。何かを伝えようと文章を書くなら、伝わってほしいことは陽に記述されるべきなのです。

しかし、同時に、必ずしも忌み嫌うべきものというわけでもないのかもしれません。

そうして文章に鍵括弧を使うことが、少し以前には本当になかったことであるなら、それは日本語が変化していることの表れになります。

誰にとっても、ずっと昔の日本語と、現代のそれの様相がまるで異なっていることは明らかです。時とともに、日本語は変化しているのです。
それはともすれば他人事のようですが、実は、鍵括弧という形で私たちにも観測できることになります。そこで、何かが変わっていく有様を感じ取ることができるわけです。

変わっていくことの是非に関する議論もあることでしょう。
他方、いつだって、新しさは興味を引くのです。」


終わりに


ここでの言外の意味は、日本語が変わっていくことを言葉の乱れと呼ぶなら、鍵括弧もその一つかもしれないな、ということです。
それから、私は日本語が変わっていくことについて、特に賛否の思想はありません。

言外のことまで書いてみました。

2013年2月2日土曜日

マンホールのダイナミズム

Clip to Evernote
物事が発生する理由を考えようとする場面が、日常では時折あります。
私が話題にしたいのは、ここで言う「物事」が、「誰かがそのようにしたこと」である場合についてです。人が、意図を持ってそのようにしたことです。

この方向から説明しようとしても埒が明きませんので、例を挙げましょう。

例えば、「マンホールのふたが丸いのはなぜか」のようなことです。たびたび、こういったことは「雑学」などと呼ばれて、人々の興味を引き寄せたりすることでしょう。
私はマンホールの歴史に詳しくありませんが、きっと、それのふたは丸く作ってあるから丸いのであって、(単純な意味での)自然現象ではないはずです。冒頭に書いた数行は、そういう意味です。

いま、括弧書きで「単純な意味で」との断りを入れましたが、これが後の伏線になる予定です。ここでは、いったん無視して進めます。

マンホールのふたが丸い話でした。
どうも私は、この手の話があまり好きではありません。ものすごく嫌い、といったことはないのですが、なんとなく腑に落ちないものを感じるのです。

繰り返すように、マンホールのふたは人間の意図があって作られているものです。そこには、より良いものを作ろうとする試行錯誤があったことでしょう。
ですので、マンホールのふたが丸いのは「丸いと落下しないため」では決してなく、「丸いのが良いと思って作ったら、いまのところ問題が起きていないため」です。

もちろん、ここで「良いと思って」にたどり着くためには多大な労力がかけられていると思います。「丸いと落下しないだろう」との予測も、科学的な計算もあったはずです。
しかし、もしも今後、マンホールのふたが丸いことに起因する問題が表出することがあれば、また試行錯誤と改良がなされることでしょう。

だからこそ、マンホールのふたが丸いのは、いまのところそれで問題がないからなのです。

少し脱線すると、「丸いと落下しないためだ」と言う人も、そこのところはきちんと踏まえた上での発言かもしれません。それなら、「発言する人」には何も問題はないでしょう。
一方で、「発言として」は良くありません。何かを踏まえての発言であるなら、その踏まえたところも表明しなければ、受け手には伝わらないのです。

話を戻します。
いずれにせよ、「丸いと落下しないためだ」と言い切ってしまうような、思想というか、態度というか、そういったものには気を配る必要はあります。

といったこと(だけ)を、これまでの私は考えていました。


ダイナミズム


別の話をします。
いま、『銃・病原菌・鉄』という本を読んでいます。草思社文庫では上下巻に分かれており、私はちょうど上巻を読み終えたところです。
(写真は上巻です。)
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド)
ジャンルとしては、人類史や文化史ということになるでしょうか。非常に面白い本です。

私はこの本を読んで、私の中の概念的な思考の枠組みが変化するような、強い衝撃を受けました。
(つまりは「パラダイムシフト」なのですが、「パラダイム」とはある集団の中で共有されている思考の枠組みのことであるはずですので、私個人の話には不適かと思い、妙な日本語になってしまっています。)

衝撃を受けたのは、物事のとらえ方、見方に関する部分です。

私はその、人類史や文化史に造詣が深くありませんので、それがこの分野では普通のことなのかはわかりませんが、同書では、物事を数十年とか数百年という単位で見ています。
そのように長い期間を元にして考えると、大きな流れとして、「こういう事柄が発生したのは、このような理由からである」と言い切れるようになります。

このあたり、私の理解がまだ足りていないためか、うまく説明できないのがもどかしいのですが、例えば「淘汰」や「ダイナミズム」といった単語によって、それは表現できているように思います。
細かいところを見れば違う部分は必ずあるが、大きな動きを観測してみるとそのようになる、といったイメージです。

そして、そのような「淘汰」や「ダイナミズム」を考えようとする発想が、これまでの私にはないものでした。少なくとも、意識できる範囲にはなかったわけです。

ここで、冒頭の伏線が回収できます。
現在、マンホールのふたが丸いのは、(細かいところを見ればいろんなことがあったかもしれないが、)大きな時の流れとして、そして人間という生物の営みとして、様々に淘汰されていった結果であり、つまり、それが丸に向かうのは必然であると言えるわけです。

その意味で、「マンホールのふたが丸いのはなぜか」の回答は、「自然現象」ともなり得るのです。

私はずっと、「よく考えること」とは「細を穿つこと」と等価であるように思っていたことになりますが、それは同時に「ダイナミズムをつかむ」ことでもあったのでしょう。


終わりに


ちなみに、私が書店で『銃・病原菌・鉄』を手に取るに至ったのは、次の記事が頭にあったためです。

【第2回】『銃・病原菌・鉄 — 1万3000年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド著・倉骨彰訳)|finalvent|新しい「古典」を読む|cakes(ケイクス)

同書を読み終えたところで、こちらの記事も再度読んでみます。
楽しみです。