2013年2月28日木曜日

理解にいたる道半ば

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こちらの記事を読みました。

なんか、しんどくなったらインプットを減らしてみるといいかも。 | ライフハック | Cross Mode Life

記事タイトルにあるとおり、生活していて大変になったときのお話となっています。なるほどと思いながら読ませていただきました。

本エントリでは、私も同じテーマについて考えてみたいと思います。

今回はそんな話です。


つらくなったとき


最近生活が大変だなどと感じることは、私はそれほどありません。その反面、皆無でもありません。

個人的には、悪くないバランスであろうと思っています。
日々をつらく感じることがあまり頻繁にあるのも嬉しくありませんし、他方、そういったことは自分は一切ないのだと思い込んでしまうのも問題がありそうです。大変なら、それに気づける方が良いはずです。

さて、私はつい最近まで、いま話題にしているような大変だった時期を過ごしていました。それを私なりの意図をもって乗り切ってきました。
ここから、その私の意図とやらを書いてみようと思います。すなわち、冒頭でご紹介した記事に反応して私の場合はどうかということです。

妙な表現になりますが、私が心身ともに余裕があるときには、あまり何かをしないでいることができます。これは、家でじっと考えごとができたり、それを書き出してみたり、音楽を集中して聞くことができたり、といった意味です。
適当な時間を確保してゆっくり思索に耽ってみようなどということは、私の場合は精神的に余裕がないとできないことです。どんどんつらくなってしまうのです。余裕がないときは腰を据えて物事に当たることができない、と言うと伝わりやすいかもしれません。

ですので、私が精神的に余裕のないときは、上述したようなことをしてしまわないように注意します。どんどんつらくなってしまいますし、できないことですので、やらないようにするのです。

そのようなときに具体的に意識するのは、情報のインプットを過剰に増やすことです。期せずして、冒頭での記事と反対の話になってしまいました。
件の、余裕があるときにできることたちを、能動的に行動を起こす類のことであると私はラベル付けしています。時間を取って考えごとをしたりするのは、受け身と反対の姿勢だと思うのです。

その意味で、情報のインプットを過剰に増やすことでそれを妨げようとしているわけです。

いろいろ言いましたが、私は、大変だと感じる時期には貪るように本とRSSフィードを読みます。内容を理解できているかどうかも気にせず、ひたすらに量を求めるのです。ストレスがかかるとやけ食いする人と、発想は近いかもしれません。

ここで気づくことがあります。

余裕があるときにはゆっくり考えごとができると書きました。
しかし、考えごとも材料がなければできません。いえ、できる人もいるのかもしれませんが、私はできません。
その材料はどこからくるのかといえば、余裕がないときに大量に仕入れた情報になるわけです。

これについて、理屈は正しく見えますし、かつ私の実感にも即しています。
余裕があるときに何か考えようとして時間を確保しても、頭の中に明らかに材料が渦巻いていないのを感じることがあるのです。そういうときはすぐに考えるのを中止し、本を読むなどのインプットする方に移行することにしています。

ひょっとするとこのことは、私にとって物事を理解することや発想することのひとつの型なのかもしれません。

桶屋が儲かるように書くと、
  • 余裕がなくなる
  • 大量にインプットする(このときは何も思いつかないで、無意識下に置かれる)
  • 時間が経って余裕が出てくる
  • 思索できるようになり、無意識下の材料から何かが生まれる
ということです。

そうだとすると、私はずいぶんと自分に負荷をかけないと物事を理解できないことになります。一度「精神的に余裕がない! つらい!」という過程を経てからでないと、理解や発想の境地にいたらないことになるためです。苦笑するしかありません。
しかし、それがわかっているなら、つらいときでも、理解にいたる道半ばなのだと自分に言い聞かせて進んでいくことができます。それなら悪くないでしょう。

もう少し考えを進めてみます。

精神的につらくなったらインプットを多くすると述べました。
とはいえ、余裕がなくなったからインプットが増えたのか、逆にインプットが増えたから余裕がなくなったのかについては議論の余地があります。
私の意識の上では確かに前者ですが、無意識のうちにインプットが過剰になったために精神的につらくなったのかもしれないのです。

同じ話は、余裕が出てきたところにも成り立ちそうです。
意識の上では、余裕が出てきたから思索を始めることができ、その結果理解にいたっているように思えます。しかし無意識ではすでに理解にいたっていて、その結果として余裕が出てきているのかもしれないのです。

すると、ひとつ難しい疑問に行き当たります。

余裕があることや余裕がないことというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
こうして連ねていくと、理解や発想と無関係とは思えないのです。

余裕があるときに、腰を据えて考えてみたいと思います。


終わりに


説明が足りない箇所がありました。
私にとって、集中して音楽を聞くことは能動的に行動を起こしていることなのです。