2013年2月11日月曜日

KJ法、煮えないか

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久しぶりにKJ法の話がしたくなりました。

本ブログでは、KJ法について幾度か取り上げています。

改めて私の立場を明らかにすると、私個人は他の何よりもKJ法が指向する姿勢と相性が良いと感じており、KJ法を陽には用いずとも、物事をどうにかするときにはいつも「KJ法らしい」態度で相対するようになっています。
ですので、冒頭に掲げた「明示的には述べていない」との文言は、表層ではない部分ではKJ法に関係していることも多い、ということとほとんど同じ意味になります。

KJ法には、いくつかのステップがあります。それは3とも5とも言われるかもしれませんが、私は一応4ステップであると理解しています。

その一つめに相当するのは、たくさんの要素を集めることになります。
いまは、KJ法についてをつまびらかにすることが本意ではないため、それが何のことやらと思われる方には申し訳ありません。ここでは、KJ法の初めの段階ではブレーンストーミングのようなものをする、と認識していただければよろしいかと思います。

二つめのステップは、そのブレーンストーミングで生成された要素たちを眺めて、親近感を覚えるものを近づけることです。こちらは、特にこれ以上の説明を入れなくともよいでしょう。だいたいイメージできるかと思います。

ここまでが下準備です。

常々私は、この、一つめのステップを完了して、二つめに向かう部分でいろいろやれないかと考えていました。そこのところを、言わば拡張したいと思っていたのです。

気になったのは、ブレーンストーミングです。ある問題に対して、関係することと関係しそうなことをできるだけたくさん出していくわけです。
ところが、これは少し難しいのです。関係しそうなことまで、すべて頭からひねり出して書くというのは、わりと難しいです。

難しさの由来ははっきりしています。
『発想法』(川喜田二郎)に当たると、このステップは、二時間ですとか、そういうオーダーの時間をかけて徹底的に行われる想定になっています。それだけの時間をかければ、なるほど相当な量の関係しそうなことを引っ張り出せることでしょう。逆に言えば、それほどの時間をかけないと、十分な量の要素は引き出されないことになります。
あまり、手軽にはできるとは言いがたいのです。

企業での問題解決ですとか、研究者の論文執筆のためなら、それで問題はないかもしれません。
一方で、それだけだとすれば、KJ法は私たちから縁遠いものになってしまいます。KJ法は、以降のステップに興味深い部分を多く有します。一つめのステップで引っかかって先に進めないのは、もったいない話です。

対策のヒントになったのは、『思考の整理学』(外山滋比古)の「見つめるナベは煮えない」でした。
早く煮えないか、早く煮えないか、とたえずナベのフタをとっていては、いつまでたっても煮えない。あまり注意しすぎては、かえって、結果がよろしくない。しばらくは放っておく時間が必要だということを教えたものである。
私はこのことに、自宅で食事を作ろうとして、ラーメンが煮えるのを見つめていたときに気づきました。
以前にも何かありました。食事を作っているといろいろなことが思いつくようです。

思いついてしまえば、これをKJ法に転用するのは容易です。
すなわち、KJ法の1から2のステップを、一息に終えようとせずに、何日もかけてやろうとするわけです。少しずつ、関係しそうな要素を集めていけば良いのです。

何度も繰り返してある問題について考えたり、あるいは考えない期間があったりすることで、たくさんの要素を集めていけるはずです。もちろん、何か思いついたらすぐに記録できる体制は欠かせません。

このとき、二つめのステップ(親近感を覚えるものを近づけること)を多少なりとも進展させた後に、一つめのステップに戻って要素を追加することもあるでしょう。
KJ法の精神から言って、新しい要素が入ったら、先に作ってあったグループにはこだわらずにどんどん並べ直す方が良いように思います。

さて、本エントリで、KJ法の前半のステップを少しだけ拡張しようと試みてみました。方針としては、ブレーンストーミングの言葉にとらわれすぎないように、と言えるかもしれません。

そうまでしてKJ法を持ち出したいのは、私がそれを好きだからです。
そして、その好きな理由として、やはり『発想法』に納得いく記述がありました。
KJ法の位置づけは、広くいえば、野外科学的方法であり、そのなかの、とくに発想法部分、そのなかのさらに中核的な技術として位置づけされよう。KJ法が発想法のすべてではないが、KJ法を抜きにしては発想法は成立しないであろう。
「野外科学的方法」や「発想法」が指すものについては、いったんここでは置いておきます。

ある種の順序をもって物事を考えようとしたとき、KJ法のどこかに似ていると感じられる部分は、かなり頻繁に出てきます。そのたび、KJ法の知見を持ち出してくることができるのです。
私がKJ法を好むのは、このためです。


終わりに


私が以前にKJ法を好む理由として挙げていたのは、もっと視点が近くに寄ったものでした。

今もそれは変わらずあります。加えて、時間が経つにつれ、引いた見方もできるようになったのかもしれません。