2013年3月31日日曜日

日常のあらゆる場面

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私は基本的に夏が好きなので、春夏秋冬が 1:9:1:1 に近いくらいでも問題ありません。ただ、季節の移り変わりの点は捨てがたいので、いずれかをゼロにすることにも積極的にはなれないように感じます。
こちらの記事を読んで、そんなことを考えました。

ライフハッキンラブホリック - なんかカラフルな生活

話は変わります。
物事を理解するということはいつだって、つかみどころのないものです。

森博嗣の小説には、「わかったと思う直前の感覚こそ、わかったということの本質かもしれない」といった趣旨の言葉があったと記憶しています。この発想は私にとって同意できる話です。直感に反しません。
「わかった」と言葉になってしまったときには、それはもう「わかった」との言葉でしかありません。わかることそのものではないのです。
さらには、わかることそのものと、それを順序立てて他者に日本語で説明できることもまるで別の話です。一部では重なっているかもしれませんが、しかし一部に過ぎません。まったくもって日本語にできなくて、それでいてわかっているということは、特に珍しくもなく起こるのです。

ここまでの話と同じ意味で、他人を理解することもまた厄介な話です。物事を理解するときとは異なり、理解すること自体に分岐が生まれてしまいます。
他人を理解するとは、その人となりを飲み込むことかもしれませんし、言動を解釈することかもしれません。あるいは他の何かだったり、そのすべてだったりするでしょう。これがその分岐です。

ところで、他人を理解するときには共感するという方法もあります。これなら、例えば同種の体験や考え方を互いに持っていれば、わりと容易に達成できるように思います。その体験が強烈であれば、深い共感に転じるはずなのです。

以上の話を前置きにして、ここから私の話をします。

私は、ある種の強烈な体験を持つ人に対して共感を覚えることがあります。表面的な趣味や興味が一致しなくても、深いところでの指向する態度とでも言いますか、そういったところがなんとなく理解できるのです。

何やら難しい言い方になってしまいました。誤解を恐れずに平たく言えば、こういう人とは仲良くできる、という基本的なものが私にはあるのです。
もちろんこれは、そうでない人とは仲良くできないことを意味してはいません。それは断っておきますが、つまり、仲良くなりやすい立場の人がいるのです。

その立場の人とは、非常に単純に示すなら、本を読むのがとても好きな人です。さしあたって、本の種別は問いません。小説でも、漫画でも、その他の一般書籍でも良いのです。

いま、本を読むのがとても好きな人と言いました。それでいて本の種別は問わないわけですから、すなわちその表現は、本の趣味が合う人とはまったく別のものを指していることになります。
本の趣味が合う人とは、なるほど共感は覚えやすく、仲良くなれそうな気がします。しかし、私がここで述べたいこととは異なるのです。

本を読むのがとても好きな人が、共通してたどり着く強烈な体験は何になるでしょうか。本エントリの話の核心はここにあり、これを明確にしようとすると先ほどの言葉が言い換えられることになります。

私が仲良くできる人とは、本を読むのがとても好きで、あるとき「あ、自分は生きている間に読みたい本をすべて読み終えることはできないんだ」という深い直観に至ったことのある人です。

理屈としては当然のことでしょう。
そうではなく、直観として、知ってしまった人のことです。
そこに至ってしまった人のことです。

私にはこの体験があります。何年前のことだったでしょうか。あるとき突然、頭を殴られたような衝撃があって、わかってしまったのです。

先述した、本を好きな人が共通してたどり着くであろう強烈な体験の正体が、これです。
このことは、いろいろな思想に影響を与えます。

本を好きな人は、時間に限りがあることを知ります。時間の壁の強大さを、理屈でなく知ってしまうのです。
本を好きな人は、知識に限りがあることを知ります。本は知識の象徴ですし、知識は力になるかもしれません。しかし、そこには限界があるのです。
本を好きな人は、体験に限りがあることを知ります。多くの体験をすることは、人間を豊かにするのかもしれません。しかし、そこには限界があるのです。
本を好きな人は、諦めることを知ります。諦めないことは、素晴らしいことかもしれません。しかし、それにも限界があるのです。

これらはいずれも、日々を生きる中で出会う、様々な普遍のものに関係してくる話です。
ここは重要な点です。時間や知識がどうのということは、本を好きか否かなど関係なく、誰しも日常で直面することです。そう頻繁でなくとも、様々な場面でそれについて考え、決定していかなければならないのです。

たとえ表面的な趣味や興味が異なっても、日常のあらゆる場面に対して同様の思想を持つ人に対して、私は共感します。
そしてそれが、私は本を読むことが好きな人と仲良くできる、との言葉に集約されるのです。

とはいえ、本エントリで触れてきたような、頭を殴られたような衝撃や、体験の限界を知るといったことは、それほど意識に上ってくるものではありません。無意識下にあることがほとんどです。

1:9 くらいでしょうか。しかし、ゼロにはできないのです。
むしろ、ほとんどが無意識下にあるからこそ、それが共感という形で意識に上ってくるのかもしれません。


終わりに


私は音楽もたくさん聞きます。ところが、音楽ではここまで述べたような直観に至ったことはありません。
理由はわかりませんが、そのために本エントリの話は読書に限ったものになっています。

2013年3月24日日曜日

北極星のまたたきが

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幕張で開催された堀江由衣さんのライブに、先日、参加してきました。
何やら、海賊をテーマにした物語形式のライブであったようで、その時々でシチュエーションに合致した楽曲が歌われていました。

ライブ自体は、それはもう、言葉もないほど素晴らしいものでした。私などは涙もろい質ですので、感極まってしまうことが幾度かあったほどです。

さて、本エントリではそのような素晴らしいライブのさなかに考えたことについて書きます。

今回はそんな話です。


見上げるもの


世の中、様々な生き方がありましょう。
私が把握するのはただ一つの、いまだ進行中の生き方のみですので、あまり知った風なことは言えません。それを承知で言います。私が大変そうだと想像する生き方のひとつに、憧れの対象として立つというものがあります。スポットライトを浴びるものです。

次の記事に、私の心に留まり続ける言葉があります。

R-style » 9/3 ~ 9/8 今週のまとめ

引用いたします。
外から見ると明るいだけだが、スポットライトの下は暑い。
スポットライトを浴びる人はいつも、そこの暑さに耐えているということです。

スポットライトにも、きっといくつか種類があることでしょう。人々の憧れを意味する光を浴び続けることは、その中でも特に大変なことと想像します。その暑さを私は少しも知ってはおらず、その想像に現実感はありません。思いを馳せるだけです。
しかし、そう思うのです。

他方で、いつからのことでしたか、親近感とか、等身大とか、フラットなとか、そういった単語がもてはやされる風潮を感じるようになってきています。例は何でも構いません。音楽だったり、本だったり、SNSだったりするでしょうか。少なくとも、何かしらの発信であることは間違いありません。
それらの単語が示す性質も、物事を発信する立場として採用し得ますし、そして容易ではないものだと理解しています。それもまた、スポットライトを浴びる生き方の一つです。

ただ、そこには含まれる憧れの度合いが少ないように思います。もっとも、スポットライトと憧れがまったくの等価ではないことは、先にも触れたとおりです。必ずしも憧れであることはないわけです。

翻って、ここからは私の話です。

私はあまり、親近感とか、等身大とか、フラットなとか、そういった単語を求めていません。
それより、見上げるといつもそこで輝いて目指す先を示してくれるような、遠い存在を欲します。手が届いてしまったり、同じ目線に降りてきたりということが、あまり起きてほしくないのです。
足下の一歩は自分で悩んで何とか踏み出していきますので、遠い行き先を照らす、拠り所となる何かがあってほしいのです。

それを、人は憧れと呼ぶのでしょう。私も呼ぶことにします。
このスポットライトの下は、作り物でも、虚飾でも、私は構いません。ただ、憧れであってほしいのです。

ただそれは同時に、ある種の人たちにスポットライトの下の暑さを強いることになります。とても、心が痛みます。
そういった人たちが見上げたところにはどのような光が輝いていて、何が目指す先を示してくれているのでしょうか。私にはにわかに考えが及ばない部分です。
無理なこととわかっていても、何か力になれたらと思わずにはいられません。できることとすれば、その人たちがスポットライトの下の暑さに耐えきれなくなったときに、私はそれをそっと受け入れることかもしれません。

心が痛むものの、たくさんの人々の、少なくとも私の憧れとして、日々を生きていくための光になってくださっていることは事実です。
それは、スポットライトの光というより、海を行く海賊たちが方角を見失わずにいられるような瞬きです。

本エントリの冒頭で、件のライブではシチュエーションに応じた楽曲が歌われていたことを書きました。その一つに「Puzzle」という楽曲がありました。
それには、次のような歌詞があります。
Polar star 見失わなければ
私にとっての Polar star が、いつまでもそこにありますように、願っています。


終わりに


やはり本エントリの冒頭に、幾度か感極まってしまったとのことを書きました。
その内の一度は、ここまで述べてきたようなことをずっと考えていたら、「Puzzle」が歌われたときのことです。

2013年3月18日月曜日

数字がもたらす現象

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先日、私のタスクリスト好きを知る人と会話をしました。

詳細は省きます。ただ、何日も経った今でも頭から離れない、その人が発した問いがあります。
それは「タスクリストって、何行が良いの?」というものです。
あまりに深遠なテーマと感じられたため、その場では宿題にさせてほしいと回答して事なきを得ました。本エントリではそれについて考えてみます。

もう少し舞台設定が必要です。

「何行が良いか」との質問から自明なように、そのタスクリストは紙とペンで作成されるものです。つまり、何らかのソフトウェアアプリケーションを通して書き込まれるものではありません。普通、そのときには行数に際限がないためです。

当時私たちが話題にしていたのは、タスクリストにおなじみの行頭の四角と下線がはじめから印字されている形式のものです。切り取れるメモとか、ふせんとか、手帳のページの隅にとか、いろいろな場所で目にすることでしょう。
その、印字されている四角と下線とは何行が良いのかが、今回の話だというわけです。

さっそく考えていきます。

そういったタスクリストの用途を見ていくことがとっかかりとなるはずです。

話題にしているようなタスクリストは、長期間にわたって参照され、編集され続けるような目的には使いにくかろうと思います。そちらはソフトウェアで実現するのが良いのでしょう。

自然と、作成されてから短期間でその寿命を終えるような使途になってきます。これなら、あまり状況に依存せずに参照や記入を行える点で、ソフトウェアよりありえると思います。

ここで言う短期間は、一日程度か、あるいは数時間以内と考えられます。それによって場合分けができそうです。
手帳の隅に印刷されたタスクリストなら、参照されるのは一日中と想定されます。切り取れるメモやふせんの形式なら、一日中でも、また数時間でも構いません。

ここが、タスクリストの行数を考える上で一つめのマイルストーンになります。すなわち、それが参照されるのは一日中か数時間以内かのいずれかだということです。

順に見ていきます。まずはそのタスクリストを一日中参照する場合です。いわゆるデイリータスクリストの扱いになることでしょう。

ここから、行数の議論に入るにはどのようなアプローチがあるでしょうか。

ぱっと思いつくのは、時間から考える方法です。一日の作業時間が8時間であるなら、タスクを一時間に一つ掲げることにして、タスクリストは8行が良いとするわけです。

思いついてはみたものの、これはあまり現実的ではありません。もともと、頭の四角と下線で形作られたタスクリストには時間の概念が存在しないためです。
タスクどうしに、相対的な意味での順序はあります。しかし、一つ一つのタスクがどれほどの時間を要求するかは、普通、タスクリストでは扱うことができないのです。

なにやら、タスクリストと時間に関する話はかなり深くなりそうな気がしてきましたので、別の機会に回すことにします。

他方、デイリータスクリストの作成時間に着目することはできるでしょう。紙とペンで作成するわけですから、ここには限界値があるはずです。
一日の始めにリスト作りに充てられる時間はそう多くなく、せいぜい5~8分程度でしょうか。

項目を1つ挙げるのにかかるのは30秒くらいでしょうが、それはコンスタントに8分も続かないような気がします。均せば1.3[項目/分]あたりに落ち着くように思います。
すると、ここでは6.5~10.4の項目が挙げられることになります。平均値は8.45ですので、印刷されたリストの行数は9~10行が妥当ということになるでしょう。

それから、ここでのタスクリストはやるべきことがどこかに消えていかないために作られるものです。というと、有名な7プラスマイナス2の話があります。この数字は使えそうです。
人が覚えていられない部分をタスクリストに頼るわけですから、その上限かやや多いくらいの項目が書き出せると具合が良さそうです。
然様なら、タスクリストの印刷は9か10行あるとちょうど良いことになるわけです。

次に、タスクリストを参照するのが数時間であるパターンを見てみます。
ここまでの話がデイリータスクリストなら、ここからはタスクを分解することの話になります。
タスクを分解しようと書き付ける先として、行頭の四角と下線の印字されたリストを使用するわけです。ある意味、チェックリストのような使い方と言えるかもしれません。
いま、タスクリストの行数を決めようとするなら、とりもなおさずそれは一つのタスクがいくつに分解されるかを考えることに等しくなります。

これについては『スマホ時代のタスク管理「超」入門』(佐々木正悟、大橋悦夫)に明快な説明があります。すなわち、一つのタスクに含まれる「やること」が一つになるようにすることです。

同書の例では「上司に企画案をメール」というものが出てきます。これが次の四つのタスクに分解できるそうです。
□上司に提出する企画案をまとめる
□企画案をメールに添付する
□メールを作成する
□上司にメールを送る
上で、チェックリストのような使い方だと書きました。その視点から見るとこの分解は少し粗いような気がします。同書も、「これで少しは手がけられそうですがまだ不十分でしょう」と続いています。
私なら、大まかに着手するようなフェーズと、確認して完了とするようなフェーズを上記の4つの各々について掲げたいところです。都合、タスクは8つに分解されます。

さて、「上司に企画案をメール」は一つのタスクとしてはちょうど良い文字数でしょう。手書きのタスクリストに、これより長く複雑な文は書かれないと思うのです。
同じ理屈で、これより多くの「やること」を含むことも考えにくいです。

したがって、このときのタスクリストの印刷された行数は8くらいが良いことになります。

ゴールが見えてきました。
ここまでに現れてきた数字の平均を大雑把に求めると、9.2行となります。

以上より、ふせんや切り取れるメモ、手帳の隅などに印刷されたタスクリストの行数は9行が適当だと結論づけます。


終わりに


こういったことを考えるのはとても楽しいです。

本エントリでは結論を出すために無茶をしている箇所が多々あります。
数字が現れると何やらそれらしく見えてしまう現象には、いつも注意が要るのです。

2013年3月11日月曜日

優しい生き方

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Hysteric Blue の「Home Town」という曲に、次のような一節があります。
刻み続ける未来を愛することが出来たら
深い傷も優しさに生まれ変わる
わりと、私はこのことを信じています。深い傷は、人がもっと優しくなるための糧になります。
しかし、それをもって傷を負うことを是とすることも、私にはできません。

どちらも正しくあり、私にはどちらの立場も採れないのです。

確か、『美濃牛』(殊能将之)という本でしたでしょうか。「人が生きる上で必要なのは、考えることと、愛することだよ」といった趣旨の言葉に出会いました。

ずっと、私の心に留まっている言葉です。

思えば、「刻み続ける未来」は考えることの中にあります。目に見えるものではありません。頭を使って物事を考えた、その中でしか未来は刻まれていかないわけです。

それを、冒頭の歌では愛そうと言っています。
深く深く考えた先で、たどり着ける場所であることでしょう。

どちらの立場も採れないことも、刻み続ける未来も、私はずっと考えながら生きていきたいです。
考えることを止めない生き方でありたいです。
最近、そんなタイトルの本も読みました。

そうして考え、悩み続ける中で、優しくなれたらと思います。

2013年3月5日火曜日

瞬間、心、重ねる春

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近ごろ、暖かく感じる日が増えてきました。Hysteric Blue の「春~spring~」から表現を借りれば「雪がやんで寒さも消え、今年もあの季節が来る」のです。
喜ばしいことで、自然に心が弾みます。

春の季語に「十返りの花」というものがあります。「とかえりのはな」と読み、これは松の花のことを指しています。
頭の「十返り」は十回繰り返すという意味で、松の花が百年に一度、すなわち千年に十度花を咲かせることからその呼称が生まれたそうです。

松はお正月に玄関先に飾られることからもわかるように、日本では古来より祝賀を意味する木ではあります。しかしその祝賀に反して、春は別れの季節です。「春~spring~」でも「別れの季節も好きになれる」と歌われています。
人と比べればおそらく私はそれほどでもない方だとは思いますが、それでも、春は別れの季節と言われてうなずける部分はあります。春という言葉から、なんとなくのもの悲しさを感じることもできます。弾む心は、ここで少ししおらしくなるのです。

しかし、もの悲しい別れがあれば新しい物語を作る出会いもあります。
yozuca* さんの「サクラサクミライコイユメ」との曲には、次のような一節があります。
かけがえのない瞬間と 出会いが作る物語(ストーリー)
私はこの言葉が大好きです。この一言のために、春が待ち遠しいと言っても構いません。かけがえのない瞬間だけでも、出会いだけでもいけなくて、そのいずれもが物語を作るのです。

脱線します。以前「冬とモレスキン」とのエントリを書きました。その中で「冬って、自分と世界の境目がよくわかるからいいよね」との言葉をご紹介しました。
私はその一言のために、冬を待ち遠しく感じたりしていました。本エントリでの春の話と様子は同じです。ひょっとすると、春とか冬とかいうのは関係なく、私が過度に夢見がちなのかもしれません。
あれもこれも楽しみなのです。日常生活には今のところ支障が出ていませんので、とりあえず放っておこうかと思います。

話を戻します。
上でご紹介した楽曲のタイトルにもあるように、春といえば桜です。桜をモチーフにしてつづられた言葉はたくさんあり、思い当たる節がある方も多いことでしょう。

私が思い当たったのは百人一首です。次のような歌があります。

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな

これも、とても好きな歌です。
恥ずかしながら私はすべてを比較対象にできないのですが、私の中では

吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を 嵐といふらむ

と肩を並べて一番好きな歌のひとつです。

後者はここでは置いておきますが、前者の「いにしへの~」の歌については触れておきます。

解釈は、次のページを参考にしました。

小倉百人一首・伊勢大輔 - 学ぶ・教える.COM

だいたいの意味は「昔、奈良の都から献上された八重桜が、今日、京都の宮中でよりいっそう美しく咲いていることだなあ」といったところです。
意味をとらえる際に重要になってくるのは、「よりいっそう」の箇所でありましょう。

まず、上の句と下の句の始まりが「いにしへ」「けふ」と対になっているところがポイントです。ここで時間の流れが感じられます。
それを踏まえると、古の八重桜が今日の九重(宮中)で咲いていることに注目できます。八重から九重に数が増えており、ここに「よりいっそう」の気持ちがこもっているわけです。

先ほど春は別れの季節だとのことを言いましたが、嬉しくなるのはやはりこの歌のような話です。こういった話を目にして嬉しくなる気持ちは、いつまでも持ち続けていたいものだと思います。

とはいえ、別れに代表されるような嬉しくないことも嫌うつもりはありません。思えば件の歌で美しいとされている桜も、他方では儚さのようなものも湛えています。桜が春を象徴するなら、春が相反する二つの感情を呼び起こす存在であることも納得いく話です。

その二つが混ざり合い、溶け合った何かを私は春の色と呼びましょう。

「春の色」自体も春の季語で、春の景色、春らしいようす、といった意味を持っています。ですが、文字通りに春の色彩とする方が、混ざり合ったものという意味は見えやすくなるかもしれません。
春の色彩も景色も、すべて含んだ春の色です。

春の色が感じられるのは、それほど長い期間ではないはずです。
そんなかけがえのない瞬間に、祝賀の松の花に倣って十ほどの心を重ねれば、今年の春はよりいっそう美しいことでしょう。


終わりに


ちなみに、私はこの周辺(つまり、「エヴァンゲリオン」)のことについてあまり知識はありません。ふと思いついてしまい、調べて使ってみました。どこかで聞いたことがあったのかもしれません。

2013年3月3日日曜日

気づかないこととの差

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こちらの記事を読みました。

R-style » 1に満たないものを繰り返し足していく

大変素晴らしい記事です。私は5回ほど読みました。
(5回読んでもページビュー数は1しか加算されません。一方でとても重い1です。これもまた0.1に属するものなのでしょう。)

記事タイトルにある通り、とても小さい数(もの)を繰り返し足し算していくことについてのお話です。詳しい内容については、ぜひリンク先をご参照いただければと思います。

さて、数値解析と呼ばれる分野に関する知識を少しでもお持ちの方は、先の記事から同じものをかなり高い確率で連想することでしょう。
数値積分の計算のことです。

本エントリの話題に関係するところに順に触れていきます。
まずは積分の知識です。

ある関数 f(x) があったとき、x の区間 [a, b] での積分は

と表されます。なお、ここでの f(x) は具合の良い性質のものだとしておきます。

この式はすなわち、横が dx で縦が f(x) の長方形の面積を何度も足し算してください、とのことを訴えています。


数学的には、この理解でまったく間違いありません。

他方の数値解析という分野は、実際に数字を入れて計算するときの様子についてまで議論するものです。
計算そのものはコンピュータが行うことが想定されているでしょう。そこで、コンピュータにいかに計算させるのが良いかに興味があるのが数値解析なのです。

積分値を実際にコンピュータに計算させたいと思ったら、素朴なアイディアは積分の定義をそのまま持ってくることになります。
要は、横が dx で縦が f(x) の長方形の面積を何度も足し合わせるのです。ここで縦 f(x) は明確ですが横 dx はそうではないため、実際には適当な小さい値を決定して計算に用いることにします。逆に言えば、それだけ決定してしまえばすぐに計算を始めることができます。

ところが、計算を始めてみるとこの方法では問題が出てきてしまいます。積分の定義をそのまま流用してでは、数値積分をコンピュータに実施させることはできないのです。

その様子を見てみます。

話を単純にするために、いま用いるコンピュータが10進数で有効数字3桁だったとしましょう。これは、そのコンピュータには数字が3桁までしか見えないことを意味します。
10進数で有効数字3桁のコンピュータは聞いたことがありませんが、しかしいかなるコンピュータにもこの有効数字なるものは存在します。
やや説明が不足しています。おそらく続きを見ていただく方がわかりやすいと思いますので、いったん先に進みます。

次に、一回で足し算される細長い長方形の面積が0.1だったとします。f(x) の挙動によって本来は毎回異なる値を取りますが、とりあえずだいたい0.1くらいだとしてしまいます。

まとめると、数字が3桁までしか見えない世界で、0.1を何度も足し算しようとするわけです。

初めの足し算は

0.1 + 0.1

です。ここは数字が3桁まで見える世界で、いまは1桁しかありません。結果は問題なく0.2になります。
幾度か繰り返していくと、

0.9 + 0.1

という場面に出くわします。この計算も問題ありません。1.0になります。
さらに進むと

9.9 + 0.1

に出会うでしょう。これもやはり、10.0になります。
そのすぐ後に、

10.0 + 0.1

があり、結果は10.1になります。
ここは数字が3桁しか見えない世界でした。10.1は数字が3桁あります。これは問題ありません。
その先の

99.9 + 0.1

はどうなるでしょう。これは100.0になります。この世界では100.0は1桁の数字になりますので、ここまでは大丈夫なのです。
次は

100.0 + 0.1

です。この世界では3桁までの数字しか見えないため、この結果は100.0になります。100.1だと4桁になってしまうのです。
すると、次の計算は

100.0 + 0.1

です。やはりこの結果は100.0です。

目的に立ち返って確認してみましょう。
コンピュータに素朴な方法で数値積分をさせようとすると、あるところから計算が先に進まなくなってしまうのです。

これは、その方法で計算させようとしたのがまったく誤りだったことを意味します。
人類は大きな方向転換を余儀なくされます。コンピュータがあれば何でもできると思ったのは、幻想だったのです。

と思いきや、人類には賢い人がいました。ここでは例えば、ラグランジュさんやシンプソンさんです。

ラグランジュ補間を元にしたシンプソンの公式を用いることで(もちろん他にもたくさんあります)、先述した問題を回避して数値積分を求めることができます。
ここではそれらに立ち入りません。小さい数を何度も足し算する類の方法ではない、とのことだけ触れておきます。

とはいえ、初めの素朴なアイディアでいったん取り組んでみるのも良いと私は思います。直感に反しませんし、素直に正しそうだと思えるからです。

やってみたら、何かがおかしいと気づくわけです。

しかし、気づくということは不確実で難しいもので、気づかないこととの差はほとんどありません。
そうであるなら、自分が正しいと感じたことを信じてひたすらやってみることも、きっと悪くないと思います。

冒頭でご紹介した記事「1に満たないものを繰り返し足していく」から引用いたします。
何かを感じられるようになることは大切だが、その前に「信じる」というトンネルをくぐり抜けなければならないのだろう。
きっといつか、何かを感じられるようになるはずなのです。


終わりに


ちなみに、ラグランジュ補間やシンプソンの公式が考え出されたのは(おそらく)コンピュータが存在しないときのことです。
本エントリからはあたかもそうでないかのように読み取れてしまいます。言葉の綾というやつです。