2013年4月28日日曜日

街に依って作られる

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こちらの記事を読みました。

いかにファンタジーを創るかという私の創作の基点が”街”である理由 - なんかカラフルな生活

私は、記事内で触れられているような創作の方法論の類に関してあまり知識がなく、新しい情報として読ませていただきました。

その中で、こちらの一文に強く衝撃を受けました。
これも様々わかれるところで、創作の”初っ端”になにをするかなのですが、私の場合は”街”を創ります。
控えめに言って、鳥肌が立ちました。
創作において初めに作成されるのが、登場人物でもストーリーでもなく、街だと言われるのです。

記事は、その理由をめぐって進んでいきます。
街、街と言いましたがではなぜ街から作り始めるのかというと、「街こそネタの宝庫」だからです。
こちらの文章を目にして、はじめの私の衝撃は理解に変わりました。心底納得がいきました。今や、物事を理解するとはこういうことかと思えるほどです。
往々にして、このようなときには費やせる言葉があまりありません。このときに思ったのは「そうか、街こそネタの宝庫だからか」といったことです。明らかに何も言っていないのです。

しかし、理解したということとはまた異なるフェーズとして、それについて苦労して言葉を費やしておくことには意味があります。そうしておかないことがもったいない、とでも言うと私の直感に反さないでしょう。

そこで本エントリでは、街から初めに創作されることについて、私なりに考えてみようと思います。

今回はそんな話です。


街から作り出す


ファンタジーをはじめとして創作と呼ばれるものは、ふつう、それが面白いということが要求されます。これ自体は、ほとんど議論の余地のない命題であることでしょう。創作を受け取る方の人たちは、いつもそれが面白いことを期待しているはずなのです。
いま創作と呼んでいるものは、できるだけ広義にとらえてしまって構いません。ここでは話の都合上、小説を想定しておくことにします。

すると次に触れられるべきは、面白いとはどういうことかについてになります。かなり厄介な問題です。

ほんの少しだけ切り込んでみます。仮に、面白いということが様々な要素が寄せ集まってできあがるような事象であるとします。それほど不健全ではない仮説のはずです。
そうであるときそのいくつかの要素の一つには、創作が何らかの意味で想像を越えていること、が含まれていると思います。面白ければ、想像を越えた部分を何かしら含んでいるのです。
想像を越えている何かがあることは、面白いことの必要条件であると言い換えても良いかもしれません。もちろん、明らかに十分条件ではないわけで、それがこの話を難しくしている部分です。

わずかながら、先に進むことができました。面白いことの中身が少しだけ見えたわけです。
それでは、想像を越えるとはどういうことになるでしょう。面白さについて考えるより、とっつきやすいとは思います。とはいえ素朴に答えられるものではありません。想像を越えていることが想像できてしまったら、それは想像を越えていないためです。

ここに、創作が街から始まることの意味があります。

創作を街から始めるということは、すなわち、人間の想像力の限界を街に置くことになります。何もないところに何かを作り上げようとするわけですので、それは全面的に人間の想像力に依存するのです。
あるいは、人間の想像力の限界に依ってしまう部分を、街に定めると言っても構いません。創作のうちのどこかの部分は、残念ながら人間の想像力に規定されてしまうわけです。

重要なのは次です。
人間の想像力によって定められた街は、その世界のベースとなります。そこに、人物や世界観や物語が文字通り乗せられていくことになるのです。
そのため、これらが創作される場合には、何もないところから作り出されるわけではないことになります。少なくとも、そこには街があるわけです。

すると、人物や物語などは人間の想像力に依って作られるものではなくなります。街に依って作られるのです。
すなわち、人物や物語や、その他世界に必要なものは、街に従って自己生成的になります。
これは、その世界の外にいる人間(たいてい、作者です)にとっては、物語などが勝手に生み出されているように見えるでしょう。街をあたかも触媒のようにして、それらが自己生成的になっている様子がそう見えるのです。

これが、冒頭でご紹介した記事で「ネタの宝庫」と呼ばれているものの中身になるはずです。同時に、本エントリで想像を越えると呼んだことの論理的な説明でもあります。
人間の想像力と同等の位置にあるのが街で、それ以外のすべては街に従って自己生成的であるため、必然的に想像を越えるというわけです。

そしてそれが、面白さにつながっていくことでしょう。

さて、ここまで私が述べてきた話は、はじめに作り上げるものがなにも街でなくても成り立ちます。与える引数を変えても、メソッドは同じ挙動を示すのです。
つまり、人物から先に作り出せば、街の方が自己生成的になるということです。こと小説に関してはそれだと扱いにくいでしょうが、他方、本エントリの話はひとつのメタファだったとすればどうでしょう。周囲を見回すとおそらく、街の方が自己生成的で良いような事柄もたくさん見つけられるはずです。

見つかったそれらが、もし何かしらの意味で想像を越えなければならないとしたら、本エントリでの話はきっと役に立ちます。


終わりに


苦労して言葉を費やしてみました。

この場合は、使わずにいるのはもったいないため、どんどん費やしてしまう方が良いようです。
こちらは何のメタファでもありません。言葉の話です。

2013年4月22日月曜日

ぶつかる経験、あつかう感覚

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こちらの記事を読みました。

R-style » 「先輩、なんかオススメの本ありますか?」と尋ねられたら

冒頭に、次のような一文があります。
新年度になり、新社会人向けのエントリーをちらほらと見かけるようになりました。
世相にはとんと不案内な私です。なるほど、新社会人向けの様々な発信が見られる時季を迎えていたようです。
私の視野には現れませんでしたので、想像になりますが、同記事のようにお勧めの本を紹介する内容のものもあったことでしょう。

本をお勧めするという行為は、大変難しいものです。ましてや、単なる娯楽のためだけではない本となればなおさらです。

先の記事も、次のように結ばれています。
やはり人に本を薦める上で、その人の背景や現在の関心領域、そして今後必要になりそうな分野、といった情報は加味したいところです。
かくいう私にも、とても良かったから多くの人に読んでもらいたい、といった本ならたくさんある一方で、面と向かってお勧めの本を尋ねられたときの回答は、あまり持ち合わせていません。どこまで考えても、難しい問題であり続けることと思います。

さて、本をお勧めするのは難しいものの、それに準ずる助言でしたら私にも多少あります。理解すること、情報、知的生産といった話にはもともと関心を持ちますし、それらはいずれも広義には役に立つと言えるものなのです。
お勧めの本を掲げる代わりに、本エントリではそのあたりについて書いてみようかと思います。必ずしも読書とは結びつかないような、軽い話になるはずです。

今回はそんな話です。


お勧めに代えて


書きたいことは二つあります。

一つめは、わからないことにぶつかることです。
やはり想像になってしまいますが、学校を卒業して日が浅いような若い方は、学生の時分とは比較にならないほど多くのわからないことに出会うはずです。それも、教科書を調べればわかりそうな類のものではなく、およそ手も足も出せないような事柄でありましょう。

このあたりには読書の出番があります。
読書でも、自身が専門としない分野の本を読んでいると、さっぱりわからない内容が出てきたりします。

手の打ちようはいくつかあります。辞書や他の本を当たったり、人に聞いてみたり、自分で一生懸命考えてみたり、あるいはいったん保留にしたりとできるわけです。
こういった取り得る手だてがある中で、どれを選択したら良いかを回答するのはやや困難です。いずれも身につけておき、それぞれの場面で、それぞれに最適なものを選び取れるのが理想でしょう。

しかし、そういった具体的な施策の前に、さっぱりわからないことにぶつかって何とかしようとする場面に出くわした経験を、多く持っておくことには意味があります。それは学生の頃にはそれほどないことです。同時に、学校を卒業すれば頻繁にぶつかることです。

読書によってそれに慣れておくことができるなら、とても結構なことです。
以前に本ブログで書いた「無感動な近道」とのエントリでも、抽象的な形で似たことを述べています。三か月越しの伏線回収となったようです。

二つめの話は、情報を取り扱うことです。もう少し言うと、情報を取り扱うことに全力を尽くすことです。

長らく、ここで私が抱いている感覚をうまく言葉にできずにいました。幸運にも下記の記事で言及があり、目にした折には大いにほっとしたのを覚えています。

Evernoteアンバサダー「ブログ・バッグ」に就任しました! #enjp3:[mi]みたいもん!

該当の箇所を引用いたします。
この共通点は、「情報をどう扱うか?ということに投資をする人たち」ということなんだと思っています。
情報を扱うことに投資すること、です。心から納得のいく表現です。

投資すると言いますと、なにやらお金を使うことに考えが向いてしまいそうです。もちろん、それに限定することはないのでしょう。情報を取り扱うことに対して全力を尽くす、真剣になる、といったことを含んでよいと思います。

そういった感覚になじみのない方には、少しわかりにくい表現になってしまったかもしれません。
いま、自分の部屋を考えるとします。きっと誰しも、本棚はここで、ベッドはここで、といったことについて趣向を凝らすはずです。キッチンでも、食器を置く場所は、調味料をしまう場所は、と試行錯誤があるでしょう。

そういった必死さを持って情報を取り扱おうという姿勢のことを、ここでは言っています。
その姿勢を感じるためには、たとえば次の記事が参考になります。

下か?上か?右か?左か?Windowsタスクバーの最適な位置を真剣に考える | jMatsuzaki

記事タイトルで、内容はじゅうぶん説明されているかと思います。
タスクバーをどこに配置するのであれ、それを真剣に考えようとする姿勢は特筆に値します。

一つめの話と同じく、では具体的にどうしたらよいか、については特に語れることがありません。京大式カードが良いかもしれませんし、一冊のノートにまとめるのが良いかもしれません。はたまた、EvernoteやKJ法などですらここには含まれてくると考えられます。

しかし、こういった具体的な施策の前に、情報を真剣に取り扱う心構えを持っておくことには意味があります。ふつう、それは生まれながらに携えられてはいないため、学生の時分には至ることのない感覚でしょう。それが、学校を卒業すると大変意義深い感覚になるのです。

ここまで、二つのことを述べました。
具体的な施策の以前に、経験しておく、感覚を知っておく、といった内容だったかと思います。

まとめとして、『プログラミングの心理学』から引用いたします。

『プログラミングの心理学』(ジェラルド・M.ワインバーグ、伊豆原弓)
※画像は私が購入した紀伊國屋書店ウェブストアのものです
言い換えれば、知的であるということは、あらゆる問題に適用できる魔法の処方をもつことではない。むしろ、数多くの「処方」をもつことであり、どれか1つの方法にこだわって、ほかの方法に切り替えられないという事態におちいらないことである。
知的というと大げさに聞こえますが、良く仕事を進めることと言い換えても構わないでしょう。
そして、ここで「数多くの処方」と呼ばれているものを俯瞰して束ねる役割を、本エントリで述べてきた経験や感覚は果たすのです。


終わりに


本エントリで挙げた話は、特定のお勧めの本によってというより、読書の習慣によって身につくことかもしれません。
それらは処方を俯瞰して束ねるものですので、考えてみればそちらの方が自然です。

2013年4月17日水曜日

総称のカレー

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本ブログで度々話題にしていることに、生活する中で私が大事にしていることについてがあります。生活していく中でとまで銘打っていることもあり、ふつう、そこで言及される内容はそれほど多岐に渡ったりはしません。

一方で日々にあるいくつかの場面に目を向ければ、それが該当するところは多くあります。総称してしまえばそうでもなくとも、細かく見ればたくさんあるということです。

本エントリでは後者、すなわち日常の場面を細かく見たときに、私が大事にしたいと感じたことについて書きます。総称してしまえばあまり珍しいことは言っていないと思いますが、別に私は総称しながら日々を過ごしているわけではないのです。

今回はそんな話です。


ある場面


前書きはずいぶんと回りくどい言い方になってしまいました。具体的に言います。
私の物事の考え方の基本方針のひとつに、複雑なものをなかったことにしない、というものがあります。総称した、との表現で先に述べたのはこのことです。

それを踏まえて本エントリで触れたいと思っているのは、食べ物のことです。最近、大いに考えることがあります。
歴史的に見れば、食べ物が有する様々な背景や込められた思想は相当なものがあります。常に人類とともにあったものですので、なるほどそれはそうでしょう。食べ物について考えようとする立場は、それなりに意味あるものになるのです。

実例をもって話を進めようかと思います。繰り返しておくと、複雑なものをなかったことにしないことに関しての、食べ物の話です。

いろいろと例示できそうなものはありますが、カレーについて書きます。現代の日本で言うところのカレーを思い浮かべていただければ問題ありません。強いて言えば、ライスではなく、カレーの方です。

カレーの細かい定義に触れるつもりはありません。実際、発祥とされるインドには素朴な意味でカレーという食べ物は存在しないそうで、それはそれで面白そうな話ではあります。
ですが、今はそういった正しそうな部分ではなく、もっとイメージに寄ったところに興味があります。

話の都合から、二つ前提としたいことがあります。
一つは、カレーの発祥の地ではとても昔から、庶民的にそれが食べられていたことです。調査したわけではありませんので、本当にそうかどうかは私にはわかりません。一応、直感に反さないことでしょう。
もう一つは、カレーの発祥地では材料となる香辛料の類が豊富にあったことです。これもやはり調べてはいませんので、実際の様子はいったん脇に避けておきます。あくまで、話の都合上の前提です。

ちなみに、カレーの発祥の地はインドのような気がしますが、ここではそれも無視します。

さて、今でこそ私たちは、カレーという言葉から一つの料理を共通して連想します。すでに完成されたカレーの概念があって、それを知識として得ているためです。

しかし、発祥地でのカレーの歴史を見てみると、おそらくそのようにはなっていないでしょう。
たぶん、香辛料が身の回りにたくさんあったことからスタートしています。たくさんあるからそれで何か食べられるものを作ろうと、そこに住むいろんな人がめいめい思ったはずです。
するとその地域では、香辛料を使ったちょっとした食べ物が、いろんな人の手によって作られたことでしょう。それらは一つ一つが少しずつ、あるいはまったく異なります。現代日本のカレーのように本格的でもありません。香辛料がたくさんあったから、なんとなく、作ってみたものなのです。

それから、香辛料を使った料理を作ったことのある人たちの交流が進むなどして、それは徐々に本格的になり、統一されていったと想像できます。

それらをすべて総称したのが、カレーです。
きっと、カレーが統一されてからも、人々はカレーを作っている認識はなかったのだと思います。あくまで、身の回りの香辛料でできる食べ物に過ぎないためです。概念の方が後に来ているためです。
その意味では、例えば、カレーの作り方という言葉は成り立ちません。何か一つの食べ物によってこれがカレーだと示すことはできないのです。

カレーは、ここまで述べてきたような一面を持つと同時に、現代の日本でふつう連想されるような面もあります。後者については特に語ることはありませんので省略しますが、どちらか一方だけということはないのです。

本エントリのカレーのような話は、他にも様々な料理に当てはまります。
パスタやピザ、お味噌汁、そしてパンなどがそれでしょう。
どれも、個々の素朴な発想が集まって、総称を手に入れるに至ったものだと思います。

『考える生き方』という書籍に、次のような言葉がありました。

『考える生き方』(finalvent)
もともと、一人暮らしを始めたころから、よくパンを作っていた。誰かにパン作りを教わったことはない。パンの作り方の書籍を読んだこともない。 
(中略) 
パンなんていうものは、人類がずっと食べてきたものだから、原型はそんなに難しくないはずだ。
パンという食べ物があって、その作り方を勉強して、といったものではないわけです。
この感覚、スタンスは、まさに私が本エントリでずっと書いてきたことです。これを目にしたとき、とても感動したのを覚えています。

パンやカレーについて考えることは、私にとって、ひとつの考える生き方です。
パンも、カレーも、総称してしまえばそうでもないのに、細かく見ればたくさんあるものなのです。


終わりに


昔どこかで書いた、私が悪魔の証明の話をあまり好きでないことは、ある部分を本エントリのことに依っています。

それから、食べ物について考えることに関しては、ウェブメディア「cakes(ケイクス)」のこちらの連載にも影響されています。

晩酌歳時記|佐藤和歌子|cakes(ケイクス)

このところ、大好きな連載です。大いにおすすめです。

2013年4月13日土曜日

いずれかが欠けても

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学生のときに勉強した数学が、学校以外の生活で役に立つ場面はたくさんあります。
ここでの役に立つことの意味を、俯瞰した見方にまで広げてしまうとそれこそ数え切れないほどあるでしょうが、具体的に、直接に役に立っている場面だけを取り出したとしても、それなりの数になるはずです。

将来の役に立たなくても、数学を勉強する価値は大いにあります。他方、数学を勉強しておけば以後の人生のあちこちで役に立ちますので、手間が省けて効率のよいこと請け合いです。学生のときに数学を勉強しないという選択は、苦労は買ってでもしたいという立場を貫くときには有効となるかもしれません。

話が逸れました。
本エントリでは、その、数学が役に立っている場面のひとつを書いてみようと思います。

今回はそんな話です。


数学の問題


数学の問題が与えられて、それを解こうとするときのことを考えてみます。ふつう、数学の問題を解くといったときに思いつく場面で間違いありません。

このときの思考の動きに着目します。
ぱっと問題を見せられていざ解こうとしたときに起こるのは、まずはアイデアを考えることになるでしょう。目の前の問題が、以降解かれる中で姿を変えていく様子を想像しながら、取り得るいくつかの手だてを発想するのです。
言葉にすると複雑ですが、それほど突飛な話ではないかと思います。解答に至るために手を動かすなら、以降の流れを見据えて目の前の一歩を思いつくことから始めるわけです。言うなれば、展望を思い描くということです。

程度の差こそあれ、どのような数学の問題に対しても同様の話が当てはまります。公式を暗記して適用するだけの状況であってもそうです。複数あるだろう自分の手持ちの公式のうち、何を選択したら問題がどのように姿を変えるか、そして解答にたどり着きそうかの青写真は必ず描くはずです。
そして、問題が単純でなくなれば、ここで言う展望にかかる手間は大きくなります。問題が姿を変えていく様子を、多くのステップにまたがって想像していかなければなりません。ときには、青写真が不完全なままで問題に取りかかる勇気が必要になることもあるでしょう。

ここまでを第一段階とします。空想の中で、青写真を描く段階です。

第二段階は、いま描いた展望に沿って手を動かしていくことになります。ある手順でうまくいきそうだと思ったとしたら、実際にそのようにしていくわけです。

ここには、空想の中の青写真にあったような華やかさはありません。自分が描いた道筋に沿って、踏み外さないように、一歩一歩、進んでいくだけです。それほど工夫の余地があったりもしませんし、素晴らしいアイデアがもてはやされたりもしないのです。むしろ、道筋を踏み外さずに進むためには新しいアイデアは邪魔になるかもしれません。ただただ道を誤ることなく進むのは、あまり楽しくはないことと思います。

そうして一歩ずつ進んでいくと、楽しい空想のときには出会うことのなかった様々な障害にぶつかります。意外に式変形がややこしかったり、きれいに約分できなかったり、思ってもみない場所の線分の長さが必要だったりするのです。青写真に写っていないものが表出してくるわけです。

ここで再び、アイデアの出番が来ます。
予期しなかった障害を、どのように乗り越えていくのかを考えるのです。それは、変わらず地道に着実に進むことかもしれませんし、障害の越え方に工夫を凝らすことかもしれません。あるいは、道を変えてみることもある得るでしょう。
何であれ、現実にぶつかった障害を正しく認識して、青写真を描き直すということです。

以上で述べたのが、数学の勉強が実際に役に立つことの話です。

身の回りに存在するあらゆる出来事から、述べてきたような二つの段階を認めることができます。すなわち、展望をアイデアとして発想することと、それを愚直に実現させることです。

これらの二つの段階は、どちらも同じだけ重要なものです。
見事なアイデアを発想できる突飛さがなければ、進む道を定めることができません。愚直な一歩を少しも踏み外さない慎重さがなければ、定めた道を進むことができません。前者がなければ後者は無用ですし、逆も然りです。
そして、思いもよらぬ障害には必ず出会いますので、道筋を引き直す柔軟さも必要です。

数学からは、これらのことを一挙に学ぶことができます。数学の問題を解こうと一生懸命になることは、発想することと慎重であることの大いなる訓練になります。

さらに意義深いこともあります。
数学からは、これらのことがいずれも同じだけ重要であるということを知ることができます。いずれかが欠けても無事に問題を解き終えることができないということを、身をもって感じられるのです。
そしてそれは、何かを解決、達成、実現などしようとしたときに広く普遍的に役に立つというわけです。


終わりに


すぐ上に書いたように、あらゆる何かを達成しようと思ったときにはこの気づきが必要になります。
いつかは必ず気づく必要がありますので、数学でそれに至ることができると大変に手間が省けます。
残念ながら私は、数学ではなく「あらゆる何かを達成しようと思ったとき」に気づくことになってしまいました。これは数学だったな、と後から思ったのです。

私は別に苦労を買ってでもしたいと思うほうではありませんので、惜しいことをしました。

これだけ書いておいて何ですが、苦労を買ってでもする、とはいったいどういう意味なのでしょうか。
いまひとつ、わかっていません。

2013年4月6日土曜日

身近であろう

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とある方のメールマガジンを読んでいたときのことです。

(メルマガから、ブログなどの場で陽に引用してしまってよいものなのかわかりませんでした。ここではこの程度の触れ方にとどめることにします。)

そこで、「考えるという行為が身近になる」との言葉に出会いました。

考えることが、身近になるのです。大変感銘を受けました。様々に、去来する思いがありました。
本エントリでは、その思いを文章に捕まえてみたいと思います。

今回はそんな話です。


考えることが身近に


先日「優しい生き方」とのエントリでも書いたとおり、私は考えることを生きていくうえでの大きな指針に掲げています。こういう風に生きよう、といったときの回答が考えることなのです。
私にとって重要で、大事にしていることです。きっと、多くの人にとっても同様でしょう。

その意味で、考えることが身近であることはほとんど、生きることのすべてと言ってしまっても構いません。
メタルバンド「陰陽座」には「生きることとみつけたり」というタイトルの楽曲があります。私は、考えることにそれを見つけたわけです。
考えることが身近であるために、日々を生きています。同時に、日々を生きるために考えることが身近でありたいとしています。
それがすべてなのです。目的も手段もなく、必要十分条件です。

とはいえ、考えて生きようと言っても、抽象的でつかみどころのない話ではあります。
何も考えなくても生きられるかもしれません。他方で、何も考えずに生きている人はいないとも言えます。

抽象的な話を理解することは、具体的なそれを理解することと完全に等しい値の重要度を持ちます。どちらも、同じだけ重要です。

私も、考えて生きることがすべてとまで言うからには、その実装にも思いは至っています。すなわちそれは、考えて生きるとはどういうことかという問いへの答えのことです。

具体的とか答えなどと言うものの、それほど大げさな話ではありません。

日々を生きていると、どちらとも言えないような、答えの出ない話にぶつかることが頻繁にあります。それはもう頻繁にあることでしょう。

私が考えたいのは、そんなときです。
一般的にAと言われているから、そうかもしれません。しかし、そうではなくBだとも言えそうです。ひょっとすると、どちらでもないCでも良いでしょうか。
こういったことを、いつも考えるのです。

これが、私が言うところの考えて生きることの中身です。
明らかなように、考えた先に何かをしようというものではありません。よく言われる、自分の頭で考えて決断しよう、といった類のものではないのです。
答えの出ない話を考えて、それで終わりです。答えは、やはり出ないのです。

だいたい、決断するためには考えることが枷になることだってあります。
こちらの記事で触れられています。

自己イメージというものの威力といいかげんさ | ライフハック心理学

考えることは、それほど万能ではないのです。

それでも、私はそうして生きようと決めました。
自然とひとつの疑問が浮かんできます。

なぜそうした手間をかけて、場合によってはたくさんの本などを読んで材料を集めてまで、考えなければならないのかということです。
本を読むには、お金も時間もかかります。考えるには、時間と労力がかかります。対して、頭の中で物事を考えているだけでは何も生み出されません。何も起こっていないに等しいわけです。
費やしたコストなどに比べれば、そんなことは無駄なので止めるべきとも言えます。

私はひとつ、それに対しての回答を抱いています。無駄に見えても、そんなことを続けたい理由です。

それは、そんなことで生きていけることもあるからです。

考えることに根ざしている、例えば哲学や人の内面のことなどは、無駄といって切り捨ててしまっても問題のないものです。なくても構わないものだと言われたら、それは打ち消し難いでしょう。

しかし、現実はもっといろいろなことがあります。

哲学者ウィトゲンシュタインは激しい自殺願望に苛まれていましたが、哲学の道から直観を得てそれを克服したようです。哲学によって、すなわち考えることによって命をつなぐことができたわけです。

第二次世界大戦中、収容所と呼ばれる施設に入れられた人々がいました。そこには想像を絶する厳しい生活がありました。
そのとき、より長く、さらには強く生き続けた人には、生来繊細で、内面の世界を求める人が多かったといいます。屈強で、粗野な人々ではなかったそうなのです。
やはり、考えることで生きることができた人々でしょう。

何も生み出さない無駄なことですが、私は考えて生きたいです。そんなことでも、生きられるかもしれないのです。

もちろん、そんなことでは生きられないかもしれません。
ですが、私はそう決めました。考えることが身近であることは、こんなにも尊いのです。


終わりに


そのため、考えることを身近にしようとする様々な趣向は、大変重要です。