2013年5月25日土曜日

心が豊かになるから

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私は、情報カードはコレクトとライフを併用しています。コレクトのものは無地で、ライフは方眼です。コレクトの方が紙質、書き味ともにやわらかく、日常向けとしてある意味乱暴に使っています。一方で、できれば長い期間保存しておきたいと思うような情報を書きつけるためには、ライフの方眼を使用します。
それから私の場合、大きさは名刺サイズ一辺倒です。

以上、挨拶でした。
こちらの記事に影響されたものです。

R-style » なぜなに”知的生産” 〜情報カードの使い方〜

さて、下記の記事を読みました。

R-style » Evernoteフリーク的アウトライナー論(1)

記事の冒頭に、次のような一節があります。引用いたします。
しかし、この疑問は危険である。表現をかえれば「考えるとは何かを考える」ということだ。自己言及は慎重に扱わなければいけない。
非常に興味深く、また納得いく指摘です。自己言及を慎重に扱う必要があるのは、世界中の様々な思索の歴史に照らせば、まず間違いのないことです。クレタ島人しかり、ラッセルのパラドックスしかりです。

ここで、いま述べた自己言及を慎重に扱うことの重要さは、理性を持ち出して落ち着いて考えたときに行き着いていることに着目します。すぐ上の段落のふたつめの文は、理性によって落ち着いて書かれているわけです。
一方で、ひとつめの文はそうではありません。私が興味を覚え、納得いくと感じたことは、よく考えてたどり着いたものではないのです。

話が込み入ってしまいました。自己言及したためかもしれません。

要は、自己言及を慎重に扱うことについて、理性を介さずともそれに同意できるような下地が、私にあったということです。多くの場合で、それは感性などと呼ばれるものです。

私には、自己言及に不安を覚えるような感性がありました。
この感性は、どこで形成されたものなのでしょうか。まさか、生まれながらに持っていたわけではないはずです。

そのあたりを考えてみます。

情報工学には、再帰という物事の考え方があります。redirect のことだと理解される場合もあるのかもしれませんが、ふつう、再帰といったら recursive のことでしょう。私が語ろうとしているのも後者の方です。
(動詞と形容詞が並列するのは妙なことでした。言葉の綾というやつです。)

再帰とは、自身を定義するために、自身が必要であることです。
典型的な例で恐縮ですが、フィボナッチ数列を取り上げてみます。

フィボナッチ数列上のある位置にいる数は、そのひとつ前の数とふたつ前の数との足し算になっています。とても長い数列の、どこの位置の数に注目してもそうなっています。

すると、適当な数までのフィボナッチ数列を定義するためには、ひとつ前の数までのフィボナッチ数列を定義できなくてはなりません。ひとつ前までのフィボナッチ数列を定義するためには、さらにひとつ前までのフィボナッチ数列を定義できなくてはなりません。

これが、自身を定義するために自身が必要な状態であり、すなわち再帰です。
再帰のおかげで、フィボナッチ数列の様子を、わかりやすくきれいに理解できるようになります。使い方を誤らなければ、とても強力な考え方なのです。

使い方を誤らない、とは他でもありません。フィボナッチ数列の、一番めと二番めの数は1だということです。
これを定めておかないと、ひとつ前までのフィボナッチ数列をどこまでも探しに出かけてしまって、二度と戻ってこなくなってしまいます。世に言う無限ループです。これは恐ろしいことです。筆舌に尽くし難い恐ろしさです。

このあたりで、本エントリの上の方に掲げた疑問への回答が見えてきたように思います。すなわち、自己言及に対する私の感性の出自のことです。

明らかに、ここで述べたフィボナッチ数列は自己言及的です。再帰的であることと自己言及的であることは、よく似ているわけです。
同時に、私には数学や情報工学の背景があります。私に限らずこのあたりに足を踏み入れている人は、再帰の考え方を通して自己言及の扱いの難しさをよく知っています。それはもう、身にしみて理解しています。

これが、冒頭の「考えるとは何かを考える」危険さの指摘について、私が一目で納得できたような感性の出自です。数学や情報工学の知識に由来していたということです。

いま、ある特定の感性について書きました。数学への理解がなければ、私はそれを抱くことがなかったわけです。

数学を知らない私というものがあったとしましょう。
すると、そのような仮の私より、現実の私の方が豊かな感性を抱いていることになります。非常に論理的な意味で、間違いないことです。

私は、数学のように、素朴な日本語ではないものを学ぶことのひとつの有益さを、ここに見いだしています。端的に言えば、数学を学ぶと心が豊かになるのです。視野を広げてみるのなら、そこには英語などの外国語を、あるいは日本語でも自分が詳しくない世界の話などを、含めてもよいかもしれません。

それは、言葉が感情を規定するという立場を前提としてしまってはいます。
しかし、その前提に抵抗がないのなら、数学を勉強しておくことは大いにおすすめです。心が豊かになるからです。


終わりに


なかなかによい結論にたどり着けました。ライフの情報カードに記録しておこうかと思います。

ここで情報カードの話を持ち出すのは大変に自己言及的です。
扱いは慎重にする必要があるわけですが、本エントリは1行めと2行めを1にしていますので、無限ループに陥る心配はありません。

2013年5月19日日曜日

役に立つアート

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『ウェブはグループで進化する』という書籍があります。

『ウェブはグループで進化する』(ポール・アダムス)
発売当初にはかなりの話題になりましたので、ご存じのかたも多いことと思います。私もわりと早いうちに読んでいました。

当時の潮流からは、ウェブでの情報の伝わり方やマーケティングを指向する人にとって、同書が興味深いものとなっているように読みとれました。同書内にもマーケティングやソーシャルウェブといった単語は頻繁に現れており、なるほど納得いく話です。

他方で、私はこれといってマーケティングを指向しても、ソーシャルウェブの様相に関心を抱いてもいません。同書がもしそういった読まれ方しか許さないのであれば、私には楽しめないことになってしまいます。

しかし、私は同書を大いに楽しむことができました。マーケティングやソーシャルウェブの動向とは、直接には重ならない方針で読み進めることができたというわけです。
マーケティングなどの具体的な言葉で見通されているものの、その背景で語られているのは情報の伝わり方についてです。情報の伝わり方についての議論をもとにして、マーケティングの理解に繋げていると言ってもよいでしょう。

いま、情報の伝わり方と書きました。仮に、この表現に違和感を覚えることがないとして話を進めます。
違和感と言ったのは他でもありません。情報は、少なくともソーシャルウェブでの情報は、伝えるものだからです。情報が勝手に伝わるのではなく、人が情報を伝えるのです。
論理的な意味では、これは間違いないことです。発生している事象としては、人が情報を伝えていることのはずです。

しかし、情報の伝わり方という表現からは、特に不審を覚えることはありませんでした。現実の事象に反しているにも関わらず、です。

現実の事象そのままではない、別の視点を持つ必要があるのでしょう。必ずしも、目に見える現実の様子だけを記述していればよいわけではないのかもしれません。

情報が伝わるとの表現に違和感がないとするなら、本来ここに登場するはずの人間をほのめかすことは、必須でないことになります。とりたてて人間がどうのという話をしなくても、人間が情報を伝えていく様子を取り扱うことができるわけです。

上で、『ウェブはグループで進化する』が情報の伝わり方についてを議論していると言ったことには、そのような含みがあります。

すると次には、人間が情報を伝えることに関しているのに、人間の描写が必須でなくなるのはなぜなのか、という疑問が浮かんできます。

それは例えば、同書の章タイトルからヒントを得られることでしょう。内容にまで踏み込まずとも、おそらくは想像できます。

いくつか掲げてみると、
第3章 ソーシャルネットワークの構造が与える影響
第7章 脳が与える影響
第8章 先入観が与える影響
となっています。

ソーシャルネットワークの構造、脳、先入観が、人が情報を伝えることに何かしらの影響をもたらしており、その詳細が本文で述べられているわけです。

さて、これらはいずれも人の意識によって関与できないものです。意識してソーシャルネットワークの構造に手を加えることはできませんし、後の二つも然りです。言い換えれば、いずれも人の無意識に作用して、ふつう意識的に変化させることのできないものです。

すると、人が情報を伝えることを論じたいとき、それは人の無意識について論じようとしていることに似ていると言えます。主要な登場人物が無意識であるために、人の存在をほのめかさない、情報の伝わり方という表現を用いても違和感がなかったのです。

少しだけ論点をずらします。
私は、人の無意識の挙動について学ぶことを大変に重要視しています。自由な市民として生活していくための知識、技芸の一つとして、数えられてもよいのではないかとすら思います。

ただ、自由市民の技芸に数えるにしては、無意識の挙動を学ぶことはあまりに役に立ちすぎるきらいがあります。それの先客である幾何や音楽に比べると、無意識の挙動には、学ぶことの伸びやかさとでも言いましょうか、そんな雰囲気に劣るような気がするのです。

そうなると私の場合、無意識の挙動を学ぶことはライフハックの一つに分類されます。あまりに役に立つためです。別に、ライフハックをすなわち役に立つものと定義するつもりはないのですが、なんとなく、そうなのです。他にこれといって思いつかないだけかもしれません。

細かい話はさておき、無意識の挙動を学ぶことには伸びやかさもありつつ、大いに役にも立つわけです。学ぶことにとって役に立つことはあまり興味のないことであるものの、役に立ってくれるに越したことはないかと思います。

これでようやく、冒頭の伏線を回収できます。
これといってマーケティングなどを指向しない私が『ウェブはグループで進化する』を楽しめたのは、それを無意識の挙動を学ぶことの文脈で読んだためだと推測できるのです。


終わりに


無意識の挙動、とはなかなかに当を得た表現かもしれません。

2013年5月12日日曜日

2013年、4月のこと

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こちらの記事を読みました。

しぐさを丁寧にしてみる

私の大好きな連載で、いつも楽しく読ませていただいています。
その中でも、同記事にはいたく感動しました。

記事の内容としては、そのタイトルでじゅうぶん示されていると思います。一文だけ引用いたします。
通常は、苛立ち・焦りが原因、しぐさが雑になることが結果になりますが、しぐさを丁寧にしていると心もそれに合わせて不思議と落ち着いてきます。
深く共感する話です。私などは、焦ってきたときにはメモを多くとることにしています。きっと、同じ態度をもとにしていることだろうと想像します。

態度がどうとかいう遠回しな話をせずとも、単純に、しぐさを丁寧にすることには心を落ち着ける効果があります。それはもう、劇的にあります。
もう少し言うと、しぐさを丁寧にすると心を落ち着けられると全面的に信じている人で、私はいつもありたいと思っています。

そんな、穏やかで、どこか知的であるようなことが良いのです。

穏やかで知的であることと言うと、もう一つ別の話があります。
先日、「Webラジオ Pl@net Sphere」というネットラジオを聞いていたときのことです。

Webラジオ Pl@net Sphere

二十歳になったときの思い出、といったテーマでお話がされていたことがありました。その中で、出演者の一人、豊崎愛生さんが言われていたことがとても印象に残っています。

いわく、二十歳になったときに嬉しかったことは、周囲の人におめでとうと言われたことだったとのことです。そこで、二十歳になることはおめでたいことなんだ、という感動があったそうなのです。

物事のこのような部分に感動できるような感性に対して、私の心は静かに打たれます。素直にうらやましいと思う感性です。

ふつう二十歳の思い出と言えば、大人の仲間入りをしたとか、成人式で古い知り合いに会ったとか、そういった話になりましょう。いずれも、二十歳になった折にしか直面することのない、大事なことです。忘れたくないことです。
きっとそこには、多くの人による、多様なエピソードがあるものと思います。

他方、周囲の人におめでとうと言われることはどうでしょう。それはエピソードとしては、多様と反対側にあるとおぼしきものです。きっと多くの人が同じように体験していて、改めて語られなければならないようには見えません。

しかし、エピソードは陳腐でも、感動は独自です。
そして、そういった独自の感動を覚えられる人のことを、私は、素晴らしい感性を携えた人であると評します。本エントリの例で言えば、豊崎愛生さんや、冒頭に掲げた記事「しぐさを丁寧にしてみる」を書かれた方のことです。

穏やかで、知的です。いつも、私もそうありたいと思っています。

同じ文脈で、『知的生活の方法』という本からひとつ触れたいことがあります。

『知的生活の方法』(渡部昇一)
「静かなる持続」と題された節で、イギリスのスキートという学者の知的生活のお話が紹介されています。
引用いたします。
このスキートは、自分の編纂した古い文献の索引を作るとき、とにかくその本に出てきた単語をすべて一語一枚の割合で出てきた順序にカードに書き写し、それをあとでもう一度チェックして、アルファベット順に並べなおしたのである。
エピソードだけ追うなら、スキートという学者が京大式カードのさきがけのような手法で情報を整理していた、といったものになります。
しかし、ここで語られようとしている感動はそれではありません。至るためには、節タイトルとなっている「静かなる持続」を読み解く必要があります。

同書から答えを探すなら、「急ぐことなく、心の平静を失うことなく、充実した知的生活を楽しむ」こと、それをずっと長いこと続けることになるでしょう。
続けることは、カード作りに限られるものではありません。まったくもって、何でも構いません。
何でも構わないのに、その姿勢や態度は至高のライフハックなのです。

同書の同節は、スキートの逸話がもう一つ紹介されて締められています。こちらも、どうしても触れておきたいものです。
引用いたします。
彼はこの膨大なカードを整理するとき、炉辺で談話しながら、静かにやっていた。それはあたかも、婦人が編みものをしながら会話するかの如くであったという。
やはり、独自の感動があって、穏やかで、知的です。
こういった生活を良しとする感性に、私は憧れます。

さて、本エントリでは、トピックを3つご紹介しました。いずれも、私が憧れるような感性に関係する話です。

翻って考えてみると、私にも該当するエピソードはありました。
私の場合は、ポメラで文章を書くことがそれです。私が指向する、穏やかで知的な生活の象徴なのです。

そんなことを思ったのが、2013年、4月終わりのことでした。


終わりに


少し上に「その姿勢や態度は至高のライフハック」と書きました。
「姿勢や態度」と二つ並列させていますが、英語ならどちらも「attitude」です。個人的には、「attitude」と一つ書くほうが文脈をよく表せているように感じます。

すると、日本語には「attitude」に対するうまい訳がないことになります。興味深い話です。