2013年6月30日日曜日

時間で割らないストライド

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堀江由衣さんの、私の大好きな楽曲「Will」に、次のような一節があります。
まだ見ぬ景色は私が見つけだすものってわかった
おそれずに私らしいストライドで
自分らしくあることを示す表現のバリエーションは世に数あれど、「私らしいストライド」とはなかなか目にしません。本エントリでは、ひとつ、ここから連想したことを書いてみたいと思います。

私の話をします。
ストライド、との言葉から想起するのは、歩く速さのことです。

その前に、用語の確認をしておきましょう。はやさ、との言葉は、早さとも、速さとも書けます。同じ読みの言葉に異なる漢字を用いることの議論としては、もっとも有名なものと言って差し支えないと思います。

衆知のとおり、物理的な意味で物体が移動するときに、速さ、と表記するのが大きな方針となります。移動距離をそれにかかった時間で割り算して得られるもので、velocity のイニシャルから v で表すことが多いようです。

いきおい、 velocity と speed とでは何が違うのか、といった話になってしまいそうです。ここでは物理の話をするのが本意ではないため、深入りはしないことにします。

ともかく、そういったものを速さと書き表します。同時に、そうでないものが早さであると理解しても良いような気がします。
速さと早さの集合では、後者の方が大きいのでしょう。属する要素の数が多いという意味です。それから、二つは、大部分で重ならない集合であることもまた、間違いなさそうです。
しかし、排他な集合であるかといえば、そうでもないように思います。つまり、速いとも、早いとも書けそうな場面がまったくないわけではないような気がするのです。

そういったことを踏まえて本エントリでは、将来を見越して、歩く早さ、の表記を採用します。意味を広くとっておいた方が安全だからです。

話題を移します。
私は、歩く早さは人に固有の性質であるとする立場に与します。それによれば、私は歩くのがたいそう遅いです。ひとり歩いているときにはともかく、周囲に人がいたりでもすると、強烈に思い知らされます。

そうでない方には意外な話になるでしょうか。歩くのが遅いというのは、けっこう、つらいものです。

人と歩くときには、たいてい、気を張っていなければなりません。
集団であれば、いつも一番後ろになります。皆が談笑している中、ひとり、迷惑をかけないよう懸命に着いていきます。
周囲に人がいない場合にも問題はあります。歩いている姿をどこからか目撃されると、ずいぶん沈んでいるね、とか、疲れているの、などと声をかけられます。気遣ってもらえるのは大変ありがたいことです。しかし、私はただ歩くのが遅いだけですので、人に無用な心配をさせているのを申し訳なく感じてしまいます。

歩く早さを気にして日々を過ごすのは、素朴な評価として、悩み多き生き方なのです。

とはいえ、ここまで述べたのは過度に具体的で個人的な話です。感情のことを言葉に変換できていますので、いくぶんは良いのかもしれません。ただ、具体的すぎるという属性は残ったままでしょう。

傾向として、具体的すぎる問題は、解決とか、進展とか、折り合いをつけるといった、大まかに良い方向へ進んでいくことが難しいように思います。言葉を見ても、具体的と大まかとでは、なるほど似つかわしくありません。

上で述べた私の事例では、具体的な解決は早く歩くことになるでしょうか。意味があるような、ないような話です。

もう少し考えます。解決には至らずとも、大まかに良さそうな方針が見つかるかもしれません。

歩くのが遅いということは、移動に時間がかかる、目的地に至るまでに時間がかかる、とのことを意味します。移動する距離が変わらなければ、分母の時間が大きいために遅いわけです。

時間がかかると、それに対する重要度が増します。これもやはり傾向の話ではあるものの、おしなべてそうでしょう。つまり、移動の重要度が増すのです。

すると、もともと重要な目的地にたどり着く以前から、重要なことを体験できるわけです。

これは大変に便利です。早いうちから、しかも数多く、重要なことに出会えるのです。

冒頭でご紹介した堀江由衣さんの「Will」には、次のような一節があります。
けれど旅の途中 向かい風の中で
本当に大切なものが 輝きはじめる
本当に大切なものは、旅の途中にあるのかもしれません。とても勇気の出る話です。

速く歩くなら、目的地に着いて、重要なことを体験します。
歩くのが遅ければ、移動の途中、目的地に至るより先に、大切なものに出会えるかもしれないのでしょう。

速く歩くより、早いのです。
移動距離を時間で割るのとはまた違う、早く歩くことになるなら、嬉しく思います。


終わりに


こうして物事を考えていくことは、いつも、私らしいストライド(進歩、発展)でありたいと思っています。

2013年6月23日日曜日

サービスエリアに入る

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こちらの記事を読みました。

R-style » 「遠出」のための地図

記事の中ほどに、興味深い一文があります。引用いたします。
私は「教養」という言葉を聞くと、この全国地図のイメージが浮かんできます。
「スタート地点では、全国地図は大きな力を発揮する」と銘打ってつづられた文脈での一節でした。ずっと地図について述べられていた文脈でしたので、不意に教養という言葉が現れてきたのは驚くべきことでしょう。
少なからず私は驚き、前後の文章を幾度か読み返すこととなりました。

ところが、前後の文章のみならず記事全体を読み直してみても、教養について、再び言及されることはありませんでした。地図に関する話題を取り扱った記事ですので、確かに不思議ではないことです。

そこで本エントリでは、私なりに全国地図と教養について考えてみようと思います。

まずは、全国地図の立場を明らかにしておきます。
この文脈において、全国地図は遠出のときに役に立つものです。進んでいる方向が想定通りであることに、あるいはそうでないことに気づかせてくれるという機能を持ちます。
全国地図があれば道に迷わなかったり、正しい方向に進めたりといったことではないのでしょう。想定通りであることと正しいことは、基本的に別の発想のもとにあるのです。

しかし、自分が想定と異なる方向に進んでいるとき、それに気づく可能性をもたらしてくれるわけです。

もうひとつ、共有したい前提があります。全国地図と教養が、同じスタンスを有していることです。
特に付け加えるところはありません。この話はもともとそこから出発しており、前提についての議論は実り多いものにならないのは世の常なのです。
(私が世間知らずである可能性もあります。)

強調したいのは、全国地図が遠出のためのものだということです。進んでいる方向が想定通りかどうかを判定するのは、それが遠出である場合のことです。

このことと、二つめに掲げた前提を重ねて考えてみます。全国地図と教養とが同じスタンスであることです。
すると、全国地図が遠出に役立つなら、教養が役立つのはいかなる場面になるのでしょうか。

本エントリの冒頭で、教養と全国地図について考えてみます、と書きました。それが、このような疑問に帰着するわけです。
すなわち、教養にとっての遠出とは何か、です。

ひとつ、思い当たる節があります。書籍『羽生善治と現代』にあったエピソードです。

中公文庫<br> 羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
『羽生善治と現代』(梅田望夫)

ここには、プロ棋士の羽生さんと行方さんが登場します。
次に引用するのは、ある対局で羽生さんが指した、☗5三歩という一手について羽生さん自身が語った言葉です。
「手駒に金銀桂を持ちながら先手に直接的な有効手段がないという不思議な状況なんです。それで発想を少し変え、こっちも有効な手はないけれど、そっちもないでしょうということで☗5三歩と打ったんです」
その意味するところを詳細に理解するのは、将棋の知識も必要になり大変です。さしあたって「こっちも有効な手はないけれど、そっちもないでしょう」の部分を押さえておいていただければと思います。

続いて、それを評した行方さんの言葉です。
この局面は先手が少し良いけれど、具体的にどう良くすればいいかがわからない局面です。しかも、実際に具体的に良くしていく手順がない。
まずは局面の認識についてです。どちらが良いとも悪いとも言い切れない局面であるようです。
行方さんは続けます。
でもそこで、こんなに激しい将棋を指しているさなかで、この局面がそういう両者が手を出しにくい「不思議な状況である」と判断できるところが凄いんです。そんな客観的な判断が、ここにきてできるなんて……。
かなり激しい将棋が続いた後の局面で、今は不思議な状況になった、などと客観的な判断が下せることが凄いと言われます。
そして、次のような指摘に至ります。
羽生さんの将棋観が出た手とも言えますね。激しい流れから一転、流れを変えるような意味のわからない手を指して、一手で局面をまったく違うところに持っていってしまう。
述べられている「羽生さんの将棋観」については、引用した範囲では正確に語られていませんので、できれば同書を当たっていただきたいと思います。
私が言及したいのは、激しくぶつかり合っている最中に、ふと意味のわからないような手を指すという感覚のことです。

本エントリの上の方で、教養にとっての遠出とは何か、との疑問を掲げました。
私はここに、その回答を見ます。

ふと意味のわからない手を指す感覚、との言葉で代表できるような独特の思想があります。私の中では、即物的でないとか、直接的でないとか、そういった意味をしています。

先に引用した羽生さんの☗5三歩は、振り返ってみれば、対局のゆくえを大きく分けた重要な一手だったそうです。それと同じように、ふと意味のわからない手を指す感覚が必要になることが、棋士でない人にも様々な場面であろうかと思います。

そんなときに、教養が役に立つはずです。

教養も、その性質からしてあまり直接的でないと言えるでしょう。何に役立つかと問われても、答えにくい類のものです。
だからこそなのでしょうか、意味のわからない手が必要な場面で役に立つわけです。

本エントリ冒頭の言葉でまとめ直すなら、次のようになります。
すなわち、全国地図が役に立つのは遠出の場面であり、教養が役に立つのは直接的でない場面だというわけです。

思えば、遠出にも、直接的でない感覚を持ち出すことはあります。
それは、次に踏み出す一歩が、必ずしも目的地の方角を向いていないためです。サービスエリアに入ったり、おみやげ屋さんに立ち寄ったりする一歩があるわけです。

そんな直接的でない一歩も含めて、遠出です。一歩が大事なのは、どこの世界も一緒なのでしょう。一歩千金です。


終わりに


「☗」という記号があることを、初めて知りました。
どの環境でも正しく表示されるのか、不安です。

2013年6月18日火曜日

未研究とバサロ

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書籍『本を読む本』に、次のような文章があります。

『本を読む本』(J・モーティマー・アドラー、V・チャールズ・ドーレン)
このように、一般に読書の手順は、ちょうど商取引の逆になる。
読書において期待される手順と商取引とを比較し、それらが逆だと言います。非常に興味を引かれる文章です。

細かく見てみましょう。同書は続けます。
商取引では、条件がわかったうえで折り合いをつけるのがふつうだが、
話の都合上、引用を途中で切らせていただきます。

折り合いをつけることについては、同書で多くの紙幅を割いて扱われていますので、この場で厳密な解説に至ることは難しいのでしょう。本文中の言葉を借りるなら、「使われている言葉の意味について、著者と読者のあいだに、ある了解を成立させること」となります。

同書にとっては大変に重要な概念ですが、本エントリではこの程度にとどめておきます。

すると、ここで述べられていることは次のように読みとれます。
すなわち、商取引においては先に何かの条件が存在し、その後で折り合いをつける手続きがなされるわけです。より具体的には、ものを買う際に、買い手は商品やその値段、品質の情報をまずは手に入れ、その上で売り物や売り手の様々な立場を了解できるということになるでしょうか。

ここまで、商取引についての理解です。
先ほど途中で切られた引用文は、このように続けられます。
本を読む場合には、読者はまず著者と折り合いをつけ、そのうえで条件、すなわち著者の命題や判断をさがす。
商取引のときとは反対に、読者は先に著者の言葉遣いを了解します。
その後で、著者の命題や主張を見つけだして理解し、読者当人にとって有益だとか、興味深いとか、実際的な評価を下すにいたるのです。

以上が、商取引と読書とを対比させた見方です。
どちらも、無理に特殊なケースを出さない限り、間違いのないことでしょう。商品の様子を見ずに様々なものの立場を了解できることはありませんし、著者の言葉遣いを了解せずにその主張を把握することはできないわけです。

そして、引用してきたような指摘がわざわざなされるのですから、素朴な日常生活においては、商取引の手順の方がより自然であると言えるはずです。
読書の手順では、その主張の内容も判断できないうちから、つまり、具体的なところはさっぱりわからないうちから、えいっと著者を受け入れるわけですので、なるほど確からしいことです。

この、読書の手順のような物事のとらえ方は、私が大切にしたいと思う発想のひとつです。
表現を変えて繰り返すと、中身が曖昧で不明瞭でも、いったん信じて受け入れてみようとする態度のことです。

『羽生善治と現代』との書籍に、関連する内容がありました。

中公文庫<br> 羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
『羽生善治と現代』(梅田望夫)
※画像は私が購入した紀伊國屋書店ウェブストアのものです

著者の梅田さんと、羽生さんが対談をしている場面です。最近の十年ほど、中盤以降でゴチャゴチャした将棋になることが多い、との話題になったところからです。
引用いたします。
梅田 この十年では特に、本当に未知の局面で、最善手、またはそれに近い手を思いつける能力のある人が有利になったということなんでしょうか?
ゴチャゴチャした将棋に関する問いかけです。
将棋が、指すたびに未知の局面に至ってしまうなら、それぞれで個別に思考を回転させて良い手を思いつける人が強いのか、と尋ねています。
基本的な将棋の力が重要になってきたのか、という質問だと解釈してよいかと思います。

羽生さんから戻ってきたのは、問いより一つ大きな枠組みでの回答でした。
羽生 いや……やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。
毎回の曖昧な局面で何か思いつくとかの前に、その局面を受け入れて、普通にしていられるかどうかが大事だと言われるのです。
なるほどと思いました。これが現場の第一線で戦っている人の実感なんだ、とも思いました。

同書からは、もう一つご紹介したいお話があります。

先の引用とはまた別の機会で、梅田さんと羽生さんが対談している場面のことです。
そこで、「ひたすらバサロ泳法の練習をしている」との表現が出てきました。バサロ泳法とは、競泳で、スタートしたときに潜ったまますいすいと進むときの泳ぎのことだそうです。

言及の内容を見てみます。
つまり、バサロスタートで潜行して一気に進むと、浮き上がったときには目指すゴールまでの残り距離が縮まっているから、そこからでは追いつけない。
これはすなわち、競泳であるにも関わらず、主眼のはずの泳ぎが始まるときにはもう勝負がついてしまっている、とのことを言われています。
羽生さんはそれを、将棋の序盤の研究ばかりが進められることと重ね合わせます。
序盤の研究を進めるというのは、ひたすらこのバサロ泳法の練習をしているようなものです。
同書はここから、別のトピックに話が及んでいきます。
他方で私はそれを、曖昧さに耐えることという文脈で理解しました。

ひたすらバサロ泳法の練習をすることは、確かに良いのかもしれません。たぶん、すぐに結果につながってくるのだと想像できますし、ある程度までなら最強と言えそうな戦略です。

ですが、そこでは泳ぐ力が身につくことはないはずです。

ふとした拍子に研究したことのない局面に至ってしまったら、問われるのは泳ぐ力の方です。
曖昧さに直面してしまったら、必要なのはそれでも普通でいられることです。

泳ぐ力を訓練する方が、バサロ泳法の練習よりもメリットが見えにくいのでしょう。
しかし、いったんえいっと曖昧さを受け入れてしまって、泳ぐ力を高めることに注力するほうが嬉しい体験ができるような気がします。少なくとも、私はそうありたいと思っています。


終わりに


『羽生善治と現代』、大変良い本でした。大いにお勧めです。

あと、本エントリのタイトルは、ロックバンド「Phantasmagoria」の「未完成とギルド」という楽曲に影響されています。
内容とは関係ありません。

2013年6月2日日曜日

アブストラクト・アーリー・サマー

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六月の声も聞こえ、いわゆる初夏と表現される時季になってきたかと思います。初夏、それから梅雨も含めて、春とも夏とも違う独特の趣を携えた季節でありましょう。それを良しとする感性は、忘れずにいたいものです。

初夏といいますと、象徴的なイメージを私は二つほど持っています。
少し、触れてみることにします。

一つめは、百人一首にあるこちらの歌のことです。
春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
ここでいう春と夏は、現代のそれとは多少時季がずれているのかもしれません。そのあたりのことは置いておくとしても、ここで示されているような、初夏の良い天気の日に白い衣を干している風景は、私に強いイメージを与えます。それが天の香具山であることも、連想に一役買っているかもしれません。街ではなく、山だということです。

以上が、初夏に対する私のイメージの一つめです。キーワードで言えば、良い天気、山、白い衣、といったところです。

二つめは、ロックバンド「ムック」の楽曲、「雨のオーケストラ」からの一節に拠ります。
こちらです。
葉桜を濡らす初夏の雨、
いない君を探してる僕
先ほどの清々しさと対照的な、アンニュイさが見てとれます。すべからく、初夏の有様として雨模様は触れられるべきでしょう。
やはりキーワードを掲げておくなら、こちらは雨と葉桜になるかと思います。

いま、良い天気、白い衣、雨、葉桜、といった名詞たちが現れてきました。名詞ですので、いずれもこの上なく具体的な存在です。
しかし、それらが基本的に意味することは、前半のものと後半のものとで大きく異なります。率直に言うなら、前半の言葉はポジティブで、後半はネガティブなわけです。かなり乱暴なくくりではあるものの、直感には反しません。

そのようにばらばらのものから何か共通な要素を見いだして活用することは、抽象化とか一般化とかいうものの機能のひとつになります。今回の例なら、初夏を連想させるもの、とでもなるはずです。

視点の高度、といった表現でよく語られていることと似たような話です。

抽象的であることと言うと、思い出す話があります。

先日、『「やりがいのある仕事」という幻想』との書籍を読みました。そこで、非常に興味深い指摘がされているのを目にしました。

『「やりがいのある仕事」という幻想』(森博嗣)
著者の森氏が、問題を抱えた人たちのお悩み相談を受けた経験を思い返して、書籍内でそれに対して改めて回答しようという趣向です。

件の興味深い指摘は、実際に回答を始める前、前置きの部分にありました。
長くなってしまい恐縮ですが、少しずつ引用しながら進めていきます。

それは、次の衝撃的な一文から始まります。
まず、全体にいえるのは、問題は具体的なもののはずなのに、相談のとき言葉になるものは非常に抽象的だ、ということである。
うなりました。
確かに、個々の人たちがそれぞれに抱いている問題、悩みは、考え得る限り最大級に具体的です。
具体的であることに程度の概念が存在するかどうかは議論の余地があるとはいえ、ともかく、個人的な悩みは具体的なものです。

しかし、それがお悩み相談の形式をまとったとたん、抽象的な言葉に変わります。
お悩み相談の様子をご想像いただければ、同意できることでしょう。そこではなぜだか、質問の内容が抽象的に、一般的になっているのです。

同書は続きます。
これは、具体的な部分が「恥ずかしい」からぼかされている結果だが、しかし、相談をするだけで、自分が抱えている問題を抽象化できるという点は見逃せない。
相談するだけで悩みが抽象化されて、客観的になれるのです。
そして、いよいよ至る指摘が次です。
これが、たぶん相談をすることの唯一の具体的なメリットといえる。すなわち、相談者というのは、回答を聞く以前に、問題を自ら抽象化したことで見えてくる答を、自分の中に既に持っているのである。
相談をすることの機能は、抱え込んだ悩みを抽象的に見直させてくれることだというのです。
なるほどと思いました。

このことは何も、お悩み相談に限ることではないのでしょう。
日常のあらゆる場面で、一人で考えてもらちが明かないことが、他者に助けを求めた途端になんとかなるような状況に出くわします。それがうまくいく仕組みのひとつが、自然と問題が抽象化されることなのだろうと想像できるわけです。

さて、ここまで、物事を抽象化して見ることの例を二つ説明してきました。
初夏の話と、お悩み相談の話です。

それらを踏まえて、ひとつ、触れておきたいことがあります。

抽象化することは、捨象とか要約とか、簡略化することなどとは基本的に異なる思想だと思うのです。
後者の方は、大まかには話を簡単にするというもので、扱う情報量を減らすことになります。一方で、抽象化はまず間違いなく情報量を増やす手続きです。

今回の例で見てみると、もともとは、山、白い衣、葉桜、雨、しか扱っていなかったのに、そこに初夏が追加されています。
二つめの例なら、当初は自分が抱えていた悩みしかなかったのに、途中からは他者に相談するための言葉も管理しなければなりません。
話は複雑になっているわけです。

ちょうど、地図のアプリケーションのようなものです。
拡大させると、お店や交差点の名前まで細かく表示されます。航空写真のビューであるなら、道路のコンクリートまでも確認できるでしょう。
縮小させると細かい情報は見えなくなりますが、その分だけ広範囲を表示させることができますので、別に情報量が減っているわけではありません。
ディスプレイの大きさが変わりでもしない限り、ふつう、情報量の増減はないのです。

そして、必要に応じて縮小と拡大を繰り返しながら、すなわち様々な高度の情報を複雑に取り扱いながら、目的地にたどり着くわけです。

目的地が遠ければ、縮小した表示が良いでしょう。
近いなら、コンクリートのありさまも見える方が良いはずです。


終わりに


念のため、解説しておきます。

本エントリの中ほどに「うなりました。」とあります。
これは、自分の抱えている問題と、言葉にした問題との二種類があって、それらが似ているけど少しだけ違うため、「うなり」ましたとなっています。
振動数が少しだけ違う二つの音が、干渉していたというわけです。