2013年10月31日木曜日

理想の放物線

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大海を知った蛙も、過去の自分に思うところがあるでしょう。

私たちは、何かの意図のもとで過度に調整された世界に対して、薄気味悪さを覚えます。同意できる人もあるはずです。
以前、小説の『一九八四年』(ジョージ・オーウェル)を読みました。調整された世界のお話でした。私は知りませんでしたが、多くの人に読まれている本だとのことです。読んだことのある方には、私が指示している雰囲気が伝わるかと思います。

同書に限りません。箱庭のような、不自然に理想化された環境を描いた物語を、いくつか思いつくことができます。洋の東西を問わず、形を変えて表現されてきたテーマでしょう。

過度な調整の世界を、私たちは薄気味悪いと、奇妙だと、感じます。大雑把に言って、ネガティブな感情を覚えるわけです。
人々のそういった感情が何に由来しているのか、また、人々にとってどれほど普遍の感情であるのか、いまのところ、私には意見がありません。

ここでは、多くの人はそのような感情を覚えるようである、という理解だけ共有させていただきます。もちろん、話を先に進めるためです。

書籍『パラレルな知性』(鷲田清一)に、気になる一節がありました。
空気を読むということについて述べられている中の文章です。引用いたします。
空気なんて読まなくていいのだ、と。それよりもむしろ、じぶんが「空気」と思っているものがいかに狭隘なものかを知ることのほうが大事だ、と。
空気を読もうとする人たちに対して、空気なんて読まなくていい、と助言を送っています。じぶんが「空気」と思っているものは、狭隘であるといいます。

私の目を引いたのは、後半の部分です。
自分が空気だと感じているものが狭隘だと気づくこととは、すなわち、自分が不自然に調整された、限定された世界にいたと気づくことでしょう。ほんとうはもっと複雑であるのに、人の手で単純にされた空間を、世界だと思いこんでいたわけです。
気づいたときにはきっと、薄気味悪さを感じるのです。

この薄気味悪さには、私も思い当たる節があります。ずっと昔のことです。

放物線のグラフです。

放物線のグラフは、一般に、このようなものです。


ここでは、a は正の数です。

学校の数学などで、放物線を取り扱います。a の値を様々に変えたりして、その性質を調べていくのが目標です。

放物線についての学習は、つつがなく終了しました。

放物線を学んでから少しだけ歳月を経たとき、二次関数と呼ばれるものに出会いました。
二次関数のグラフは、このようなものです。


ここでも、a は正の数です。b、c にも条件がつきますが、とりあえず実数ということにさせてください。

このグラフを初めて目にしたときの、私の衝撃といったらありませんでした。頭をがつんと殴られたようでした。

だって、放物線が動いているのです。なんということでしょうか。

今までの放物線では、山になっているところはいつも 0 にありました。
(x, y) = (0, 0) でした。
それが、どこか別のところに行ってしまったのです。

当時の私は悟りました。
それまで知っていた放物線は、一般の二次関数が、偶然にも、頂点が (0, 0) のところに動いた、特殊なものだったのです。
奇跡的に、動いた先が原点であるわけです。

私は、頂点が原点にある放物線がすべてだと思っていました。他には出会ったことがありませんでしたので、無理からぬことです。
それは、人の手によって、不自然に単純化して見せられた世界でした。過度に調整された、理想的な世界でした。

これが、私が感じた衝撃です。
おそらく、年若いうちは一般の二次関数は難しいと判断した誰かが、私に不自然で単純な世界を示していたわけです。
言いしれぬ動揺がありました。

ですが、思えば、数学を勉強することは、こういった手続きをひたすらに進めていくことです。ほとんど、それがすべてです。ある事柄を学んでから先に進んでみると、それまでが、特殊で単純であったことに気づくのです。

わりと、数学に独自のことではないかと思います。

私は、このようなところにも、数学を勉強する意味のようなものを見つけます。
先に、空気というものが狭隘であると知ることの話をご紹介しました。もし、その主張がどこまでも正しいのであれば、数学を学ぶことは、すばらしい訓練になります。
外には大きな海があることに気づき、過去の自分に思いを馳せることができます。

少なくとも、過度に調整された薄気味悪い世界が、フィクションに限らないことを体験できます。数学を勉強したら、小説をもっと楽しめるようになるかもしれません。悪くないことでしょう。


終わりに


数学まわりのところで、かなり不正確な言葉を使ってしまっています。ご注意ください。

放物線のグラフを手書きしてみました。くねくねとして、あまりきれいでないものになってしまいました。
理想とは程遠い放物線です。

掲載した二次関数のグラフでは、念のため、虚数解が出ないようにしました。私の性格によるもので、意味はありません。

同じグラフから、c も正の数であることはすぐにわかります。ただ、そこまで言うなら b の素性も明らかにした方が良いような気がしてしまいました。話が長くなりそうでしたので、c も実数というにとどめました。

途中、放物線の頂点を指して「山になっているところ」と言いました。この表現には苦労しました。
はじめ「とがっているところ」と書いたのですが、それだと、微分不可能になるような気がしてしまったのです。

ずいぶんと、細かいところを過度に調整したエントリだったようです。

2013年10月27日日曜日

すきなもの、しのびこむ

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近くのものには簡単に手が届きますが、遠くのものだとなかなかに大変です。どちらにしても、懸命に手をのばすものです。

茅原実里さんの楽曲「Prism in the name of hope」に、次のような歌詞があります。
もう次のページめくる嬉しさを
風に渡さずに
次のページ、とあります。本についての話でしょうか。
私も読書が好きですので、ページをめくる嬉しさを想像するのはたやすいことです。それを風に任せてしまうのは、実にもったいないことであるという気持ちもあります。

本が好きであれば、風に介入させずとも、問題なく読書を進めていくことができます。さしあたって、困ることはないわけです。

本が好きでないと、そうはいきません。
ページをめくることに嬉しさはないはずですので、今度は、風の力を借りることになるでしょう。

嬉しさを風に渡さないようにしよう、とのアドバイスがどこかにあったなら、それは本を好きな人へ向けたものです。本を好きでない人には当てはまりません。もともと嬉しさなどないはずだからです。

アドバイスをくれた人が、そして、自分が、その対象を好きかどうかということは、ことほどさように重要であります。同じ話題を扱っているようでいて、まるで会話が成り立たないことがあり得てしまうのです。

仕事について、などは典型になるでしょう。

会話する双方に関して、対象を好きかどうか、陽に判明しているのが理想です。ただ、他者の考えを明らかにするのは手間がかかります。ここは、自分のことだけでも考えておきたいものです。

そういった意味で、「仕事は楽しいかね?」との問いかけは有益ですし、「試してみることに失敗はない」のは正しいのです。

試してみれば、自分が好きかどうか、何かしらの回答が得られます。なにせ、選択肢はそれほどないのです。好きか、好きでないか、どちらでもないか、といったところでしょう。

小説『捩れ屋敷の利鈍』(森博嗣)に、次のようなやりとりがありました。
「ねえ、どうして、月は地球の周りを回っているの?」
「どうしてっていうのか、うーん、もし回っていなかったら、地球に落ちてきちゃうんだよ」
なるほどと思いました。
月が採りうる挙動は、ほとんど、落ちてくるか、回るかのいずれかしか考えられません。
(一応、彼方へ飛んでいくことの考慮もできます。)

どうして月が地球の周りを回っているか、が設問でした。対する、落ちてきていないからだという回答は、厳密に正しいのです。

また、『無限と有限のあいだ』(芳沢光雄)との書籍には、円の面積を求める公式 πr^2 が厳密に正しいことの証明が示されています。
詳細は私も追いきれていない部分があり、省略します。ですが、その方針だけで、十分に言及する価値があります。

背理法です。
半径 r の円の面積が πr^2 でないとすると、次のいずれかが成り立ちます。

① 円の面積 > πr^2
② 円の面積 < πr^2

そこで、①、②のいずれも成り立たないことを導き、矛盾を言うのです。

円の面積は、πr^2 より大きいか、小さいか、等しいかのいずれかしかありません。月は、地球に落ちてくるか、回っているかしかありません。

ある対象を好きかどうか調べてみれば、好きか、嫌いか、どちらでもないかくらいのものです。安全のためには、どちらでもないことの範囲を、十分に広くとっておく必要があるでしょうか。

ここに、大きな注意があります。
いままで、助言をやりとりするなど、人と関わるときのことを話題にしていました。対象を好きかどうかを容易に判別したいのは、そういった状況のもとに限ります。

とりもなおさず、それが明らかでないと、やりとりがまるで成り立たなくなる可能性があるためです。対話を無事に進めるために、必要に迫られておこなうのです。平たく言えば、他者の意見を聞くときには、自分の立場をよく把握しておくべきである、という話かもしれません。

おまけに、この話では、考えたい対象が先に掲げられています。あたかも、円の面積が πr^2 であるか否かだけの証明のようです。

ふつう、自分の好きなものを知りたいというとき、対象は明らかでないことでしょう。それは大変に素晴らしいことです。
解決には、その人の一生と同じくらいの時間がかかるかもしれません。同時に、そうするだけの価値のある問題です。

いつだって、目の前の明らかなものを見るのは難しくありません。
他方で、ほんとうに存在するかどうかもわからないものを追いかけるのは、大変です。

『脳のなかの天使』(V・S・ラマチャンドラン)に、次のような一節がありました。
バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。
ほんとうに存在するかどうかわからないものを追いかけるほうが、人間らしいと言えそうです。
しかし、私が本エントリで述べたのは、バナナに手をのばすこと、星に手をのばすこと、いずれも大切だということです。

そして、どちらであれ、手をのばすときは一生懸命でありたいのです。


終わりに


「どちらも大事である」や「一生懸命にやる」といったことは、私がどうしても好んでしまう考え方です。心奪われているのかもしれません。「魔女っ子メグちゃん」(前川陽子)でしょうか。

引用させていただいて、終わりにします。
魔女っ子メグは 魔女っ子メグは
あなたの心に しのびこむ しのびこむ

2013年10月19日土曜日

歯ブラシの普遍

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知的生産のことについて書きます。

本ブログでは、同種の話題を幾度か取り上げたことがあります。類似のトピックが繰り返し記述されることについては、様々な原因が考えられます。ややもすると、面白いテーマかもしれません。

今回の場合の回答は、知的生産というものが、非常に普遍であるためでしょうか。

こちらの記事を読みました。

シゴタノ! 未来をつくる言葉の紡ぎ方

引用いたします。
「知的生産」という言葉が、あまりにもアカデミック寄りに理解されすぎているのではないか。そして、現代では多くの人に必要なのにもかかわらず、それが十分に普及していないのではないか。そういう懸念を持っているのです。
上で私が書いた、知的生産は普遍のものである、との話に矛盾しません。
私は「懸念を持っている」ほどではないものの、知的生産の言葉からアカデミックな響きを感じることも、そのために何かが妨げられているかもしれないことも、なるほど同調できます。

何かが妨げられていることは、いかにして解決することができるのでしょうか。先の記事では、知的生産という名前付けを疑っているようです。
解決の糸口として、非常に良さそうな方向性です。おそらく、根本的に解決するためには、ほとんど唯一の施策でしょう。
知的生産の中身の方には不審なところが見あたりませんので、名前が怪しいわけです。

他方で、私も少しだけ思ったことがありました。
行為として見たときに、何をしたら知的生産と呼ばれるのか、いまひとつわかりにくく感じるのです。

知的生産の方から見たときに、こういうことが知的生産に属する、といった考え方はよく理解できます。
しかし、様々な日常の行為の方から見たときに、それは知的生産と呼ばれるものである、と言い切ることは、少し難しく思います。

そこで、これは知的生産と呼ばれる行為だ、と私が感じた場面について書いてみることとします。
『数学ガール』シリーズ(結城浩)にならえば、「例示は理解の試金石」なのです。現代を生きる私たちの、大切なスローガンです。

その例示は、『「知」のソフトウェア』(立花隆)に見つかりました。
「現実に即した分類」と題され、新聞記事の情報整理について語られているところです。

状況はこうです。
たとえば、自民党の幹事長とある野党の書記長が料亭で密談した事実を暴露したスクープ記事がある。
これが、知的生産のきっかけになります。
知的生産とは、基本的には、ある情報をもとにして新しい情報を生産することでしょう。ここにあるスクープ記事が、もとの情報であるわけです。

スクープ記事を手にした著者の立花さんは、次のように考えます。
これは、「自民党」と「野党」のどちらにも分類できる。あるいは、「政局」として分類すべきかもしれない。
スクープ記事の分類を吟味しています。
この時点で、純粋なスクープ記事の情報の他に、自民党、野党、政党、との新しい情報が生産されています。

立花さんの考察は続きます。
待てよ、ここで「密談」という分類項目を作ってみたら面白いのではないか。 
(中略) 
むしろ、「密談スクープ」という分類項目を作ってみたら面白いのではないか。あるいは、「料亭政治」ではどうか。「与野党なれあい政治」というのはどうか。「連合政権への胎動」というのはどうか。
新しい情報が次々に生産されている様子が確認できます。

行為としては、大層なことではありません。見つけた新聞記事を、どこに分類してしまっておこうかと考えているだけです。
しかし、明らかに、それに伴って新しい情報が生産されています。知的生産と呼ばれるものに間違いありません。

もう一つ、例示を続けます。
先日、私自身が考えていたことです。

洗面台に歯ブラシを置くとしましょう。それほど突飛な舞台ではないはずです。
歯ブラシが一本なら、何も問題ありません。そこにある歯ブラシを使えばよいのです。

いま、歯ブラシが二本ある状態を考えます。原因は何でも構いません。二人暮らしだからとか、一人暮らしでも歯ブラシを使い分けたいとか、何かあったのです。
しかも、二本の歯ブラシは同じ見かけのものだとします。間違って同じ歯ブラシを二本買ってしまったとか、何か理由があったのでしょう。そういうこともあります。

このとき、二本の歯ブラシを見分けるにはどうしたらよいのでしょうか。
ある日の私は、このようなことにずっと思いをめぐらせていたのです。

歯ブラシAを洗面台の左端に、歯ブラシBを右端に置くことを考えました。良さそうに思えます。
ただし、左端にあるのは歯ブラシBではなくAであることを、暗記しておく必要があります。そちらはどうしたらよいのでしょう。暗記することが無条件で可能なら、同じ見かけの歯ブラシを、はじめから判別できてもよいはずです。
問題になるところをずらしただけで、解決していないのです。

わりと、容易でない話です。私には回答が出せませんでした。

仮に、歯ブラシにマスキングテープを巻くのが最適な答えだったとしましょう。歯ブラシにテープが巻かれただけですので、物的な生産はごくわずかです。
一方で、状況は抜群に進展しています。歯ブラシが見分けられるようになったのです。

新しい情報が生産されています。まさに、知的生産と呼ばれるものです。
知的生産とは、ずいぶんと普遍の概念のようです。


終わりに


知的生産と絡めて書いてみたものの、歯ブラシ問題は相当に厄介です。