2013年12月30日月曜日

three albums of the year (2013版)

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2013年も、残すところあとわずかとなりました。
私は日常が好きですので、ここまで日常を積み重ねてくることができ、嬉しく思います。

変わり映えのない日々だったわけではありません。バンド「GARNET CROW」の楽曲「世界はまわると言うけれど」から言葉を借りれば、日々をつないでいくにも、それなりに意志というものが必要なのです。

それでも、抽象的なところでは、日常を重ねてくることができたように思います。

日常を重ねていくこととは、私にとっては、音楽と読書によって生きるということです。ずっと昔に決めたことです。

音楽というと、私は、アルバムの単位でのみ聴きます。
CDやダウンロードを問わず、ひとつの楽曲を購入することはありません。プレイリストやシャッフル機能を使うこともありません。
CDのフォーマットに合わせて音楽アルバムが作られることは、私がこの時代に生まれてよかったと思うことのひとつです。

そういうわけで、私は年に一度、素晴らしかった音楽アルバムを三枚選び出すことにしています。私が音楽によって生きているなら、それは自分を振り返る作業になるはずです。

アルバム名 / アーティスト名
で書きます。

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R.I.P. / Actress

一枚めはこちらです。
2012年4月の発表だそうですので、ご存じの方は不思議に思われるでしょうか。私が2013年になってから購入し、聴いたということです。

テクノのアルバムです。
EDMが全盛となった本年にあって、ミニマルテクノの面影を残した一枚でした。EDMに傾倒する予定のない私には、心の支えです。

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At Grand Gallery / Hirohisa Horie

二枚めはこちらです。
各所のサポートやメンバで忙しいキーボーディスト、堀江博久さんのソロアルバムです。

ジャンルは、ちょっと私にはわかりません。何となく、ソウルかエレクトロニックか、といったところです。

本エントリを書くにあたって、調べてみました。
下記のページに「ユーモアある最新型ストリート・ダンス・ミュージック」とあって、なるほどと思いました。うまく表しているように感じます。

Product : Grand Gallery

キーボードとシンセサイザーを好きな人にとっては、たまらないアルバムでしょう。これほどに鍵盤楽器の良い音に包まれる機会は、そうありません。

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TRANSIT / Blu-Swing

三枚めはこちらです。

「Blu-Swing」も、ジャンルを説明するのに手間のかかるバンドです。ニュージャズ、クラブジャズ、シティポップ、といったあたりでしょうか。

軽やかで洒落ていて、楽しいアルバムです。

私は、こちらの方面にはあまり造詣が深くありません。この「TRANSIT」との出会いは、ふとしたことからでした。
自分の知らない素晴らしい音楽が、まだまだたくさんあることを思い知った一枚でもあります。


終わりに


せっかくですので、2013年に関係する音楽のことを、もう少し書き残しておきます。

本エントリの冒頭でもご紹介したバンド「GARNET CROW」が解散してしまいました。
私にとっては、ポップスとか J-POP などといったものの定義を、一から考え直さなければならない出来事です。

音楽電子雑誌の「ERIS」が、順調に刊を重ねています。

音楽雑誌「エリス」 | 音楽は一生かけて楽しもう

毎回、大変に興味深い内容が展開されています。

音楽雑誌の「サウンド&レコーディング・マガジン」が、iPad 版の刊行をはじめました。

サウンド&レコーディング・マガジン | リットーミュージック

サウンド&レコーディング・マガジン iPad版 | リットーミュージック

私が、ずっと、ほんとうにずっと購読していて、部屋のスペースの都合で泣く泣くあきらめた雑誌です。iPad 版がはじまると聞いて、どんなに嬉しかったことでしょう。

iPad 版の様子たるや、筆舌に尽くしがたい素晴らしさです。

電子書籍やWebのコンテンツを研究している方などは、一度、買ってみると良いかもしれません。
なんといいますか、これが未来かと思いました。

音楽については、このあたりにしておきます。

さて、これをお読みの皆さまも、そうでない皆さまも、一年間、私の好きな日常をありがとうございました。

こちらの記事は、いつも私の心に留まっているものです。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

「それぞれこの日常を少しずつ支えてくださっていることに感謝」して、終わりといたします。

2013年12月23日月曜日

あらゆる計画と実行で

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抽象的な議論でも、具体的な反例をもとにすることで、発展していくことができるようです。着実に、考えを進めていくことができます。数少ない有力な方針といっていいでしょう。

私はいろいろと、抽象的なことに興味を抱きます。長い期間にわたって、頭から離れない主題があります。

そういったことは、たいてい、文章の形に直しておくと、取り扱いがしやすくなります。

文章とか言葉といったものは、わりと抽象的なものではあります。いま相手にしたいのは抽象的な主題たちですので、それらにとってみれば、文章とは近いレイヤにあるものです。
もともと、抽象的な主題というものの多くが、文章の形をしているためかもしれません。

文章の形をしている抽象的な主題にとって、文章は抽象的ではないのです。
もとの抽象的な主題が文章でないことも、やはり多くあるでしょう。こちらには十分に注意されたいものです。

つかみどころのない話でしょうか。

このところ、ずっと考えていることを書きます。
私たちの世界には、設計という言葉があります。プロットがあります。予定と実績という考え方があります。チェックリストというものもあります。

共通して流れる思想を、これらからうかがうことができます。
物事は計画と実行という異なるフェーズを内包すること、さらに、実行は計画の通りには決してなされないことです。

世界には、そういった思想がおびただしくあります。あらゆる分野にあります。あまりにも普遍であるために、立ち止まることすらない人もありましょうか。予定と実績が一致しないことを前提として、その差異を測定しようとしている人々のことです。

私には、それほど自明なことと思えませんでした。どうして、計画と実行には差異があるのでしょうか。それも、この世界のあらゆる局面においてです。
何か、差異についての一般的な、形而上学的な原理があるように思えてなりません。端的に言えば、計画と実行に必ず差異が起きることの説明です。

はじめに、次のようなことに思いいたりました。

計画と実行との差異が、ただ一度の例外もなく、必ず生まれることなのだとします。実際、かなりもっともらしいことでしょう。

必然に起こることであるなら、そこには理由などないと考えても良さそうです。

場合によって成立したりしなかったりするのであれば、それぞれをもたらした理由を考察してみることができます。
いつでも成立するのなら、一切の理由なく、ただ厳然と存在していると考えられるのです。計画と実行とは、この世界に創造された瞬間に必ず不一致となるわけです。

ここまでは問題なさそうです。
計画と実行とは、存在した瞬間に必ず差異があって、それには理由などないのです。

それでは、発生した瞬間に計画と実行とに差異が生まれるのはなぜか、すべからく考察されるべきです。

この世に現れた瞬間から差異が生まれてしまうなら、それらは、まるで似ていないものと考えるのが自然なように思えます。
これは重要な気づきです。計画と実行とは、少しも似ていないのです。

決して一致せず、少しも似ていないとは、どういった状況になるのでしょう。

計画は、ふつう、文字の形をしています。表や絵のこともあります。総じて、紙の上に情報として表現できるような、そのあたりのレイヤに属しています。
実行は、人やものの動きです。紙の上のレイヤにはいません。

計画と実行とでは、もともとの存在の枠組みがまるで異なっています。生まれ出て、立脚するレイヤが違います。そうして、不一致となるわけです。

ひとつ、結論になりそうなものが出ました。

ところが、ここには反例を作ることができてしまいます。

計画に似せるように、実行を紙の上のレイヤに変換することができるのです。
実際に人やものが動いたことを無視して、実行も、紙の上の情報として扱うことが可能になります。

そのように実行を書き直し、レイヤをそろえてみても、やはり、計画と実行は不一致となります。立脚するレイヤの違いでは、説明がつきません。

反例は他にも作れます。

対象としたい実行が、何かのまとまった文章を書くことだとします。あらゆる実行を含めて考えていますので、そういうこともあります。
該当する計画は、文章のプロットや筋書きのことになります。

すると、計画も実行も、はじめからずっと同じ紙の上のレイヤに存在しています。実行を変換する必要すらありません。
それでも、計画と実行は一致しないのです。文章を書いてみたら予定外の方向に進んでしまった、といった話を耳にしたことのある方も多いことでしょう。自身で体験した方もあるでしょう。

計画と実行で立脚するレイヤが異なるという結論は、大筋で棄却せざるをえないようです。
あらゆる計画と実行で共通して確認できる性質があるかどうか、探っていく必要があるのでしょう。

しかし、このような手続きのもとで、考えを進めていくことができます。

書籍『ブラック・スワン』(ナシーム・ニコラス・タレブ)に、スローガンになる言葉がありました。
反例を積み重ねることで、私たちは真理に近づける。裏づけを積み重ねてもダメだ!
反例は重要なもののようです。


終わりに


途中に出てきた、計画と実行とが少しも似ていないところは、可能性があるような気がします。

2013年12月1日日曜日

太陽を回ったのは

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太陽の周りを走る惑星のように、くるくると走り回る自由は、いつだってあるはずです。

LiSAさんの楽曲「traumerei」に、次のような一節があります。
本当の自由の意味を知った
ひとつになってく身体と心
自由と、身体と、心とが現れてきています。いずれも、興味のある話です。

自由の意味を知るのは、心のはたらきでしょう。もう少し言えば、心が活動するから、自由が存在するわけです。

書籍『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二)には、自由や心について、目を引く記述が多くあります。
次のようなものです。
「自由は、行動よりも前に存在するのではなく、行動の結果もたらされるもの」ということだ。
自由は、後から感じるものだといいます。もう少し説明が続きます。
普通の感覚だと、自由意志は、「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が思い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。
感じる心が、自由を作り上げるものだとのことです。

うなずけない人もあるかもしれません。引用した文中でも「普通の感覚だと」と断ってあります。
心が活動しなくても、自由はいつもどこかにありそうな気がします。

自由なるものが厳然とあって、それは、自分自身で自分の存在を証明できるということです。

書籍『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト)で、アリストテレスが「説明が有限回の段階で終わるもの」と語ったことについて紹介しています。

状況は次のとおりです。
A1が真なのはA2ゆえであり、A2が真なのはA3ゆえであり、と続いて、最終の真実Xに至る。では、Xはいったいどんな真実だろう?
説明の連鎖の果てに、説明を要さない真実に至るといいます。
可能性はふたつあって、ひとつめは、アリストテレスもあまり認められない様子です。
第一の可能性は、Xは是非もない事実で、それ自体のどんな説明もないというものだ。しかし、X自身を説明する裏づけがなければ、Xはほかの真実に対する裏づけをとても与えられないだろうと、アリストテレスは述べている。
私も、いまひとつ納得がいきません。アリストテレスと同じ意見です。

ふたつめの可能性は、アリストテレスが満足しているものだそうです。
次のとおりです。
第二の可能性は、Xが論理的に必然の真実であり、それ以外ではありえないというものだ。そして、アリストテレスにとっては、これが説明の連鎖を終わらせる方法として唯一、満足できるものだった。
本エントリの話題に合わせれば、自由なるものを、何か論理的に必然の真実Xによって説明できるということです。自由がXそのものでも構わないでしょう。

ここまで、二つ、採りえる立場が現れました。自由は人の心の作用によって構築されるものであるか、それ自身で存在できるものなのか、ということです。

短絡的には、選択肢が二つあって、さてどうしようか、といった話になるでしょうか。

短絡的でない方針を採用することにします。自由が、人の心ではない何かから生成されるという考え方があるためです。しかも、この中では、最もありそうな選択肢になります。

ありそうとは、もっともらしく感じるとか、可能性がどうとかの話ではありません。集合の大きさのことです。
人の心の集合は、そうでないものの集合よりも、おそらく小さいはずなのです。

人の心は、(一人の人が持つ心の数 × 人の数) 程度しかないはずです。人の数は定数ですので、全体で n のオーダです。

そうでないものの要素数はどうでしょう。仮に、それらをすべて日本語で記述できるとします。
すると、 "あ" から始まって "ん" まで行き、 "ああ"、 "あい"、 … と続く文字列を数えればよいわけです。

有理数を数え上げるときと同じ問題に帰着しますので、アレフゼロの無限大になります。

要素数が有限のものと無限のものを比べることになってしまいました。
やや不審ではあるものの、人の心以外の何かが自由を作っているとする方が、ありそうなのです。

さて、ここまで、自由という概念の周辺をくるくると走り回ってみました。

概念については、書籍『言語学の教室』(野矢茂樹、西村義樹)で、良い表現に出会いました。引用いたします。
テイラー(John R.Taylor)なんかは、「概念とは、要するに、カテゴリー化の原理のことだ」と言っていて、ぼくもそれがいいんじゃないかと思います。
自由という概念とは、これは自由である、これは自由でない、と様々な事柄のカテゴリを定めるための方針であるわけです。

私は、何かを描写する手法として、周辺をくるくると走ることはわりと良いものかもしれないと思っています。

こういったときには、とかく、自由とはいかなるものかについて、論理的に、具体的に説明する手法が採られます。

よく機能することがほとんどです。
他方で、気をつけていかないと、言葉の言い換えに終始してしまうこともあります。「概念とは、カテゴリー化の原理のこと」もそうでしょうか。
私にとってはうまく説明してくれた良い表現になりましたが、言葉の言い換えに過ぎないと言われれば、そうかもしれません。

説明することと言葉を言い換えることとは、分かちがたいものです。その中で、機能するように説明を作り上げていくのは、難しい作業でしょう。

すなわち、論理的に、具体的に説明することは、難易度が高そうなのです。
周辺をくるくると回ることが良さそうと書いたのは、そういう意味です。

本エントリの冒頭で、LiSAさんの楽曲「traumerei」をご紹介しました。そこで、「君」について具体的に説明せずに、周辺から描写しています。
引用いたします。
太陽に憧れたのは君みたいだから
太陽を遮ったのは君みたいだから
太陽の周りを走っています。


終わりに


ただ、周辺を走って手に入れた理解は、言葉に表せないことがあるかもしれません。