2014年12月30日火曜日

three albums of the year (2014版)

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もう、十年ほども続けている習慣があります。

私はずっと昔から、音楽好き、読書好きとして生きていくことに決めています。

自分が音楽を好きかどうかは、自分ではわかりません。さほど興味もありません。音楽好きとして生きると決めたことの前では、あまり重要ではないことです。

音楽好きとして生きるということは、多少苦しくても新しい音楽を買って、一生懸命に聞くことだと、私は定義しています。

苦しくても、と書きました。いくつかの意味を含んでいます。

一つめは、時間とお金のことです。
食事や睡眠、その他にかける時間やお金を削ってでも、新しい音楽を買って、聞こうと思っています。

二つめは、聞く対象の音楽のことです。
長年聞き慣れた、自分が好きだとわかっている音楽ばかりを聞かないようにしています。知らないアーティスト、知らないジャンルの音楽を買うわけです。

同じ音楽を繰り返してばかりいることを、私が、音楽好きであると考えないためです。
(そのアーティストや楽曲を好きだということでしょう。私にもそうした対象はたくさんあり、とても良いことと思います。)

音楽について書きました。読書もまったく同じ思想です。

それから、私は、音楽をアルバム単位で聞きます。
ちょうど、本の単位と同じような位置づけになると思うからです。私が、本を節の単位でシャッフルして読まないことと一致します。

ある程度の長さによって伝えられる何かを、私が信じているということです。

音楽アルバムの長さは、45~65分くらいでしょう。
CDの収録時間が74分である(細かい話をすべて省略して言っています)ことから、おそらく、自然に定まったものだと思います。

この45~65分とは、フォーマットが成果物を規定したということを考えたときに、最も成功した実例だと思っています。
本はどうでしょうか。

長くなりました。
何の話かと言いますと、私は毎年、その年に聞いた中で良かった音楽アルバムを三枚選ぶことにしているのです。

今年も、本当に良いアルバムをたくさん聞くことができました。筆舌に尽くしがたいものがあります。
私が、素晴らしいアルバムを紹介したいと思う熱意だけは、決して間違いありません。言葉がつたないだけです。

以下、
アルバムタイトル / アーティスト名
で表現します。

***

Seeing Tokyo / Marat Shibaev

こちらのアーティスト名に聞き覚えがなくても、Martin Schulte の名前を耳にしたことがある方は多いでしょう。同一人物で、Marat Shibaev が本名とのことです。

私の好きなミニマルテクノです。胸を打つ音楽です。
個人的な指標とでも言いましょうか、こうしたアルバムが素晴らしいことは、私が変わらず音楽を好きでいられることと等価です。

***

MOA / Neat's

2014年の、私の出会いです。
幸せな音楽を作られる方です。何か、嬉しい気持ちをたくさん受け取りました。

ずっと応援したいと思いますし、そうできたら私も嬉しいです。
そんな、嬉しい出会いです。

***

Whorl / Simian Mobile Disco

Simian Mobile Disco の Attack Decay Sustain Release に衝撃を受けた方は多いでしょう。私もその一人です。

振り返ると、ずいぶん遠くに来たものです。

ミニマルな音楽を考え始めた彼らが、それでいて、過去を否定しなかった作品だと、私は考えています。
熱く、感動的なアルバムです。

***

せっかくですので、2014年の音楽のことをもう少し書きます。

2014年は、つらい別れが重なる年でした。SOUL'd OUT、D、12012です。いずれも、私の人生に多大な影響を与え、ずっと着いていこうと決めていた方々です。

今までお世話になりました。ありがとうございました。

思えば、私もそれなりに音楽を聞いてきました。そうしたイベントが起こりはじめる時期なのかもしれません。

同時に、同じ文脈から、嬉しいこともありました。PIERROTの復活です。
諦めずに長く生きていると、良いこともあるものです。


終わりに


本エントリの前半のようなことはいつも考えており、個人的には、改めて文章にするようなことではありません。
なんとなく思い立って、書いてみました。

書くことで考えが整理されるとは、よく聞く話です。
今回の場合は、どうも、書いたことで何かが抜け落ちたような気がします。読み返してみても誤りはないのですが、違和感もあります。

書くことで考えが整理されるという感覚は、何か大切なものを削ぎ落として無視した結果、得られるものかもしれません。

これは素晴らしいことです。
だからこそ、文章を書く人には常に、試行錯誤する、という選択肢が存在するのです。

そんな一年でした。

さて、こちらの記事は、私が幾度となくご紹介させていただいているものです。

日常を支えるという非凡な能力 | notebookers.jp

私は日常が好きです。

これをお読みの方も、そうでない方も、一年間、私の好きな日常を少しずつ支えてくださり、ありがとうございました。
非凡な能力に思いを馳せつつ、終わりといたします。

2014年12月24日水曜日

ありがたがられたが

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経済学や統計学で、何かの研究結果や理論に対して、直感に反する、という評価がされているのをよく見ます。文脈によって、肯定、否定とあるようです。いずれにせよ、直感に反するかどうかを重要視しているようです。

基本的に、直感に反する事柄の方が、無批判にありがたがられてしまう傾向があるかと思います。

ところで、基本的という言葉を、私はよく使っているような気がします。
日常生活として基本的に問題ない、などです。ややもすると、トリッキーな用法でしょうか。

何といいますか、土台や基礎のようなものは意図していません。様々に複雑な要素をすべて織り込んで、結果として観測できる部分のことを、示そうとしています。

複雑さを頭の片隅に保留しながら、観測できたシンプルな側面を評価しようとしているわけです。

ドラッカーに学ぶブログ・マネジメント』(倉下忠憲)という書籍を読みました。

次のような一節があります。
それは、さほど完璧とは言えない市場メカニズムの、唯一信頼できる要素です。
経済市場においての、自然淘汰を評して述べられています。
いま、自然淘汰とは長期的な動学のことです。市場メカニズムを評価することは、遠い将来にわたる挙動を、直近に判断することです。

物事の長期的な振る舞いを、どれほどリアルに想像できるかということです。非常に独特の心構えで把握されることでしょう。
あまりに独特であるがゆえ、個人の性質が、市場メカニズムをどの程度信じているか、との問いで判明するのではないかとすら思ってしまいます。

書籍『ケインズかハイエクか』(ニコラス ワプショット)を読んだときにも、感じたことです。
同書では二人の経済学者、ケインズとハイエクの考え方が、対照的なものであるとして描かれています。

ケインズは、経済に強い力が干渉し、調整することを考えました。
ハイエクは、経済を調整するためには複雑な情報を扱う必要があり、市場メカニズム以外の主体には不可能であると考えました。

ハイエクの方が、市場メカニズムというものを信じていたことになります。

歴史的に見ると、いずれの主張とも、正解だったタイミング、誤りだったタイミングがあるようです。同書では、きちんとこのあたりも検証されています。実例を調べる限り、なるほどどちらが正しいとも言えません。
本エントリを続けるために、ここは確実に押さえておきたい前提です。極端にケインズ的、あるいはハイエク的な主張は、経済の実例を検証したところ、どちらとも言えないのです。
それから、ケインズも、ハイエクも、ケインズ的、ハイエク的な考え方にとりつかれていたわけではないはずです。シンプルに見える言葉がどれほどの思慮を抱えているのか、シンプルには判定できません。私の、言葉の綾のようなものです。

あくまで先の前提を押さえた上で、経済学の話題を離れてみるとどうでしょう。個人の性質を推し量るような、日常的な思想のことです。個人の思想ですので、さしあたってはどんなものでも構いません。

性格でしょうか、私などは、ハイエク的な考え方のほうに好感を持ちます。
観測できる世界には、複雑な物事がすでに織り込まれていること、複雑な物事は互いに作用しあい、長期的には自然に問題のない形になること、などを想像します。

何か問題があったときに、強い力で対策を当てて解決しようと試みるよりは、穏やかです。対策をしないわけですので、どちらかというと、直感に反する考えでしょう。
直感的な考え方は、字義通り、受け入れることが容易です。すると、直感的でない考え方を好んでおく方が、手持ちの選択肢を増やすことになりますので、何かと便利ではあります。

長期的というと、x → ∞ のときの f(x) の振る舞いのことに思いが至ります。
このあたりで、選択肢が二つしかないことの不備に気づくわけです。

やはりといいますか、考え方がケインズ的か、ハイエク的か、二種類のみだと、想定しきれない事態が起こってしまいます。

率直なところで、私が好むはずのハイエク的な考え方を見ます。
複雑なことが価格に織り込まれ、互いに作用しあった結果、市場メカニズムによってどんどん事態が悪くなっていく可能性が、当然あるはずです。x → ∞ で f(x) が発散するわけです。

発散する可能性もあるはずなのに、市場メカニズムによって長期的には問題ないはず、収束するはず、と思うことは、危険から目を逸らすことです。私は、ハイエク的な考えを好むと言いながら、思考を停止させていたのかもしれません。

ましてや、f(x) の振る舞いには、漸近する、振動する、超平衡する、カオティックになる、などもあります。
直感に反するからと、過度にありがたがるのも問題だということでしょう。

こうして、ケインズも、ハイエクも、もちろん私も、正しいのかどうかわからなくなりました。
いずれにしても、それらの複雑な物事を頭の片隅に保留しておくことができれば、日常生活として基本的に問題ないように感じます。


終わりに


本文中で、物事の長期的な振る舞いを想像することは、非常に独特な心構えによると書きました。
私は、x → ∞ のときの f(x) の振る舞いを調べることで身につけたことです。

2014年12月14日日曜日

2014年の<びっくら本> #mybooks2014

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こちらの記事を読みました。

R-style » 【企画】2014年の<びっくら本>を募集します #mybooks2014

今年も様々な面白い本に出会うことができました。

書籍に限らず、何かのコンテンツをひとつ紹介して、それについてのコメントを書くことが、私は得意ではありません。これは、私がブログを書く動機でもあります。

いきおい、各々の書籍に対してのコメントは簡素なものになってしまうものの、私が、この書籍を紹介したいと思う熱意には関係ないものです。

いずれの書籍も、熱意を込めてご紹介いたします。

以下、
『書籍タイトル』 / 著者名
で表現します。

訳者名、出版社、サブタイトル(のようなもの)は省略とさせてください。

***

『無限の始まり』 / デイヴィッド・ドイッチュ

間違いなく、2014年で一番の本です。一番というのが何を意味しているのかは、自分でもわかりません。
読み始めたのは2013年の終わりごろで、読了まで半年くらいかかりました。

この先何年も読み返す本だと想像します。

***

『ケインズかハイエクか』 / ニコラス ワプショット

経済学の本ですが、人間ドラマの本でも、現代社会の本でもあるようです。

ケインズと、ハイエクと、ケインズ的な考えと、ハイエク的な考えが描かれています。

***

『あなたは今、この文章を読んでいる。』 / 佐々木 敦

文学の本、というのがよいでしょうか。歴史的な意味はありません。
メタフィクションの技法に着目し、それを進めた表現として、パラフィクションという概念を現代に提案しています。

***

『哲学入門』 / 戸田山 和久

哲学の本です。間違ってはいませんが、誤解を生みそうな表現です。
哲学についての本ではなく、哲学の本だということです。

***

『生物と無生物のあいだ』 / 福岡 伸一

当エントリにある本の中で、人にお勧めするとしたらこちらでしょうか。
ひとつの理由は読みやすいためですが、もちろん、多いに示唆に富む本です。

著者の福岡さんの「動的平衡」の考え方には、強く感銘を受けています。

***

『文明崩壊』 / ジャレド ダイアモンド

古今東西の文明の興りと、崩壊について調べた本です。
多くの分野の知識を、ひとつのテーマに向かわせているという意味で、抽象的にも興味深い本です。

***

『数覚とは何か?』 / スタニスラス ドゥアンヌ

視覚、聴覚などと同じ位相に、数覚の存在を提案した本です。
数学と、認知科学の知識が織り込まれています。認知科学の本で、扱っているテーマが数学、といった感じでしょうか。高度な数学の知識には指向していません。

数学的、といったときに想起される独特の感覚について、手ごたえをもって考えられるようになります。

***

『コンテナ物語』 / マルク・レビンソン

コンテナ輸送にまつわる話です。
広く言えば、世界が変わった場面が描かれています。狭く言えば、人間ドラマが描かれています。

世界が変わるところと人間ドラマとが、似ているということです。

***

『タテ社会の人間関係』 / 中根 千枝

お勧めしたい本の二冊目です。

誰しも毎年一冊くらいは、もっと早く読んでおくべきだった、と思う本があるものです。
私はこの本でした。


終わりに


タイトルに #mybooks2014 を入れるというのは、いったい何のことなのでしょうか。
#で始まる行はコメントアウトであることが多いはずです。

それから、「ビッくらポン!」には、私は当たったことがありません。
周囲の人が当たっているのはよく目にします。機械がない席に通されることも多いです。

2014年11月25日火曜日

組み立て勝手ビュッフェ

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読書することにそれなりの技術があるように、グラフィカルな広告やウェブページ、あるいはテレビを見ることにも、独特の技術はあります。
いずれも情報を受け取る対象ですので、考えてみれば不思議なことではありません。

こちらの記事を読みました。

日常に埋まる知的生産とその技術 ~あたらしい知的生産試論(5)~ | シゴタノ!

記事では、今後の社会で、知的生産の技術が意識されなくなるだろうと述べられています。現代で、グラフィカルな広告やテレビを見る技術が意識されないことに呼応するかもしれません。

知的生産や読書に関する技術の話題は、私も耳にしたことがあります。
テレビを見る技術とは、何のことでしょうか。

ホテルの朝食などで、ビュッフェ形式の食事に直面することがあります。自分で、任意の食べ物を取り分けてくる方式です。
座っていれば料理が運ばれてくるような形式と違います。面倒ではあるものの、食事と同時に、自分で組み立てる楽しさのようなものも味わうことができます。

ホテルの朝食では、食事が済んだ後にお会計をすることがありません。食事が完了したと判断すれば、勝手に席を立って部屋に戻ります。

難しい問題が一つ発生することになります。
すなわち、フロアで給仕されている方々が空席にある使用済み食器を見たときに、そこにいた人が一時的に席を立って別の料理を取りにいっているのか、それとも食事が完了して部屋に戻ったのか、区別がつかないことです。

非常に厄介です。ビュッフェが必ず内包してしまう困難です。

有名な解決策があります。
食事スペースへの入場時に、カードを受け取ります。食事中はそのカードをテーブルの上に置いておくことで、空席であっても、それは一時的に別の料理を取りにいっているだけであることを表明します。
カードは、食事を完了したときに返却します。カードのない空席は、食事の完了を示します。

大変に優れた施策です。
見分けたい状態は二通りで、カードで示すことのできる状態も二通りです。もれなく、だぶりなく、網羅しています。mutually exclusive and collectively exhaustive です。

ところが、問題は続きます。カードが、新たな問題を運んできてしまうのです。

カードには、目的に従い、次のような文言が書かれています。

食事中です
お食事後は、フロントまでご返却ください

一行目の、食事中です、の方が大きめのフォントで書かれることが多いでしょうか。
目的を果たすための、簡潔な文言です。

一行目は、テーブルの周囲を通りかかる人たちに向けられています。
二行目は、そのテーブルで食事をしている人に向けられています。

一行目は食事をしている人には向けられておらず、また、二行目は通りかかる人には向けられていないはずです。

見過ごせないところです。

一行目と二行目の間には、決して埋められない差異があります。向いている相手が突然変わるのです。
何のことわりも、前触れもありません。急に変わります。素直にカードを読んでいては、決して読みとることができない事実です。

私などは、一行目の後に断崖絶壁があって、大きな音を立てて世界が回転して、二行目に至っているように錯覚します。くらくらと目眩がしてきます。
二行の真ん中で何が起こっているんだと、思わずにはいられません。

どうも私は、こうしたことに過敏です。
数式や、プログラムのソースコードを読むことが多いためかもしれません。

ソースコードは、間違いなくコンパイラのために書かれます。ある一文はコンパイラのためにあって、次の一文が急に人間へ向けられることはありません。
他方で、ソースコードはコメントを含みます。そちらは間違いなく、処理を読解しようとする人間に向けて書かれます。
いずれにせよ、視点が前触れなく変わることはないのです。ソースコードとコメントは、絶対に混同されない形式になっています。

数式も同じです。
数学の話をするとき、数式の部分は、間違いなく数学のために書かれます。周囲の日本語は、数式を読解しようとする人間に向けて書かれます。ここが混ざり合うことはありません。

先に挙げたビュッフェのカードのように、混ざり合うようなことがあると、読むときに非常に疲れます。一文ごとに激しい目眩を伴うわけですので、当然です。

こうした、言葉が飛び交うような環境で疲れずにいるためには、独特な技術が要るのでしょう。

前触れなく視点が変わる、グラフィカルな言葉たちです。
惑わされないような技術を、たぶん、多くの人は身につけていることと想像します。意識されなくなった、名もなき技術です。

数式やソースコードを読むことに抵抗を持たれることがあるのは、このあたりの事情もあるかもしれません。

数式は、数学のために書かれます。ソースコードはコンパイラのためです。人間を向いていない言葉に乱入して、人間が理解しようとするわけです。
人間を向いたグラフィカルな言葉を理解するときとは、ずいぶん勝手が違うのだろうと思います。

両方の技術を身につけるのがよいでしょうか。
それなりに時間もかかります。どちらも独特の技術です。

いずれにせよ、一般的に言って、限られた資源をどのように使って、どういった技術を身につけていこうか決めることは、それなりに楽しいことです。
面倒ではあるものの、自分で組み立てる楽しさのようなものも味わうことができます。


終わりに


ことわりもない文章になってしまいました。

2014年11月2日日曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2014

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ブログについて、あまり考えることなく生活しています。不思議なもので、新しいエントリを更新しようとする姿勢だけは失われません。私のことです。
期間が空いているようでも、私は常に次のエントリを書き進めています。

なんといいますか、いろいろありながらも、新しいエントリを作り上げようとする姿勢が自然と保たれていれば、人として、基本的に問題ないように感じています。

11月のこの季節だけは、ブログというものに思いを向けます。いよいよ寒くなってきたと思う気持ちと、ブログとは何かという思索は、私にとっての共感覚です。私は寒さが苦手ですので、ブログについて考えることが日常的でないのは、そのためかもしれません。

早く夏が来てほしいものです。

そう考えると、新しいエントリを書こうとすることは、すっかり私の日常であるわけです。思えば、よい習慣を持ったものです。
ブログを更新していてよかった、と思うことはあまりありませんが、ブログを更新するのをやめたくない、と思う程度には、ブログを更新していてよかったと思っています。

何の話かといいますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月です。
こういうことは、一生懸命やるのがよいです。

さっそく、はじめます。

***

見て歩く者 by 鷹野凌

一つめはこちらです。

ずっと読んでいます。
すごく誠実な人が書いているのだろうな、と想像しています。

誠実さというのは、伝えるのが難しい部類の性質でありましょう。
伝えられたほうも、嬉しいものです。

***

ザリガニが見ていた...。

二つめはこちらです。

あまり、中の人の感情が見えないように書かれています。
それでいて、コーディングを様々に挑戦していく流れは、非常にドラマティックです。

知的興奮というやつです。

***

Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

三つめはこちらです。

日常のことが書かれています。アウトライナーのことも書かれています。
アウトライナーに出会ったことは衝撃でした。それから、日常に出会ったことも衝撃でした。

日常とはけっこう衝撃なものだと教えてくれるブログです。

***

R-style

四つめはこちらです。

R-style読者は誰しも、各々にとって聖典的な記事を抱いています。
私は、<価値とは、「見出される」ものだ>のあの記事は、そろそろ暗唱できるかもしれません。

***

delaymania

五つめはこちらです。

毎日更新が嬉しいです。
何かつらいことがあっても、一日の終わりにこちらのブログを読むと、元気になれます。

CSSの説明ですら、そうです。
私も、このような雰囲気で技術の話をできるようになれたら、などと憧れます。

***

iPhoneと本と数学となんやかんやと

六つめはこちらです。

考えることと、やってみることで満ちているブログです。

人生の目標と言うのがよいでしょうか。
心から尊敬しています。


終わりに


「聖典的」という言葉は、たぶん、ありません。
お気をつけください。

2014年9月30日火曜日

極端よりも少なめに

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書籍『エピゲノムと生命』(太田邦史)に、人間の男女の出生比率についてのお話がありました。
人間の男女の出生比率は、人種や時代によらず、大体女児一〇〇に対して、男児が一〇四~一〇七ぐらいの割合になっています。
男児の割合が半分よりやや多くなるそうです。

結果はともあれ、統計として興味深いところがあります。前半の部分です。
人種や時代によらず、とまで言い切れるような統計を目にすることは、なかなかありません。多くのサンプルを調べていることが想像できます。信頼できそうな結果です。

統計というのは、サンプルが少ない方が、特殊で極端な結果になります。

統計の基本ではありますが、『ブラック・スワン』(ナシーム・ニコラス・タレブ)から引用させていただいて、確認しておきます。
あなたが住んでいる街には病院が二つあるとする。一つは大きく、もう一つは小さい。二つの病院のうち一方を選んで、ある日に生まれた子どもを調べてみると、六〇%男の子だった。選んだのはどちらの病院だった可能性が高いか?
長期的に見れば、男児がやや多いくらいになるはずです。
六〇%とは、想定しない結果といえるでしょう。そうした極端な事実は、サンプルの少ないときに起きやすくなります。
これは統計学のほんの基本だ。小さいサンプルよりも大きいサンプルのほうが安定していて、長期的な平均値からの乖離は小さい。
基本であり、大変に重要なことです。統計のようなものを読むときには、いつも注意されたいことです。

ところで、Google+ のポストで、次のような呼びかけがありました。

https://plus.google.com/104476632404018889675/posts/QdjwrBZSiLm
【もう一度、知的生産の技術を読み返す】という企画はどうでしょうか。今再読してみての感想を交換する的な。
書籍『知的生産の技術』(梅棹忠夫)を再読し、改めて感想を述べよう、とのことです。

同書には複数の、多重な話題があります。時と場合によって、さまざまに読むことができるはずです。
できれば、著者の梅棹さんの基本的な方針を反映するところを、よく読みたいものです。

意識してみると、梅棹さんは、情報の形式や規格化についてをよく気にしておられるように思えました。「きりぬきと規格化」と掲げられた章すらあります。

なぜ、形式なのでしょうか。思えば、形式は生産とは関係ないはずです。

反射的な回答はあります。
形式がそろっている方が、そのものを取り扱いやすいためでしょう。敷き詰めることも、積み上げることも、並べ替えることもたやすくなります。

しかし、取り扱いのしやすさに関しては、反射的で抽象の説明に終始しておきます。

それとは別の点で、確認しておきたいことがあります。

同書が、あくまで個人に向けて書かれていることを前提とします。「はじめに」から引かせていただき、確認しておきましょう。
知的生産の技術の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性という原則を、この本の全体をつらぬいてたもっていきたい。知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである。
梅棹さんは、個人の知的生産に対する視点を持っておられるわけです。

先に確認しました通り、個人に関することだとサンプルが少なくなりますので、極端な現象が起きやすくなります。

個人を向いた知的生産は、この上なくサンプルの少ない状態です。常に、極端な事実を相手にしなければなりません。
このあたりに、形式を重視する理由があるような気がします。

私が取り上げたいのは、『知的生産の技術』の「日記と記録」の章です。
日記の形式を作ることについて、次のように述べられています。
日記は、人にみせるものではなく、自分のためにかくものだ。自分のためのものに技法も形式もあるものか。こういうかんがえ方もあろうが、そのかんがえは、二つの点でまちがっているとおもう。
二つの点とあります。ここでは、その一つめだけ取り上げることとさせてください。
自分のための日記に形式を決めることには、どのような意味があるのでしょうか。梅棹さんは続けます。
第一に、技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、「自分」というものは、えらくないのがふつうである。
自分が偉くないから、形式を研究しておくのだといいます。

驚くべき指摘だろうと思います。
概要を想像しているだけでは決してたどり着かない、個人を向いた意見です。日記を書こうとしているのに、日記とはまるで関係のない、自分が偉いかどうかが問題になっているのです。
サンプルが少ないからこそ起きる、非常に極端な事実でしょう。

続きます。
いろんなくふうをかさねて、「自分」をなだめすかしつつ、あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられるのである。
形式から離れていくということは、私たちに、より偉い個人であることを課します。
同じような構図を持つものは、世の中にたくさんあるようです。

そして、個人を相手にしている限り、極端な事実も取り扱わなければなりません。
事実が極端に流れていってしまうのを、形式を決めることでなんとか押しとどめようとするわけです。私が感じ取った、『知的生産の技術』の基本的な方針です。

とはいえ、どこまで極端に形式を押し付けてよいのかどうかは、議論の余地があります。梅棹さんが繰り返し述べられていることですので、かなりの程度はよいのだろうと思いますが、いかがでしょう。

極端よりも少なめに、半分よりやや多いくらいの割合がよいのかもしれません。


終わりに


本エントリ前半で、『ブラック・スワン』からのお話をご紹介しました。統計を読むときの、基本知識のひとつです。

ただし、同書の文脈は、教室ではそうした知識を身につけているのに、実践の場面で使えないことについてのものです。
当エントリからは読み取れませんでした。念のため、明示しておきます。

2014年9月15日月曜日

確認は仮設説まで

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要素を分けることは、補助線を引くような感覚になるのかもしれません。現実の世界にはない線を仮設することです。

書籍『動的平衡ダイアローグ』(福岡伸一)には、要素を分けることと、科学の仕事についてのお話があります。
引用いたします。
科学は、対象を要素に分けるところからスタートします。科学では、それをしないと対象を理解したことにはならない。でも、現実の世界はもともと切れ目なくつながっているんです。
理解するために対象を分割するものの、それは現実とは違っているといいます。

科学には限らないことでしょう。

ここに何かの情報源があったとします。
人はそれを、観測して、解釈することができます。人が情報を確認するという手続きを考えたとき、観測と解釈とが、適当な割合ずつを占めているように思います。

情報を確認する手続きなるものについて、決めておきます。
それは値を持つもので、最大値は、情報を完全に正確に確認した状態だとします。
ふつう、私たちは最大値を得ることができません。いつも、物事を完全に正確に確認できるように努力しているのが、私たちであるわけです。

無理のない決め方かと思います。

情報の確認の量を観測と解釈とが決めることになりますので、次のような二変数関数を想定できます。

・引数1……観測の量
・引数2……解釈の量
・戻り値……情報の確認の量
・戻り値の最大値……完全に正確に情報を確認した状態

最大値は得られなくとも、戻り値をできるだけ大きくすることが目標です。

ちなみにこの戻り値は、状況によってさまざまな呼ばれ方をします。
理解している、確からしい、説得力がある、などです。

理論としては、観測と解釈には、任意の正の値を投入できます。解釈も、観測も、どれほど手間をかけても構わないわけです。

現実には、かけられる手間の制約があります。
観測と解釈の和をあまりに大きくすることはできません。また、観測する割合が大きければ、解釈のそれは小さくなるはずです。反対も同様です。

投入する観測と解釈の量について、採りたい方針を考えることとしましょう。
それぞれの特徴を探ります。

まずは解釈の方です。
解釈の便利な点は、伝達と蓄積ができるところです。

書籍『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)には、次のような話題があります。
著者のドイッチュさんが、大学院生だったころのお話です。
仲間の学生の何人かが研究の様子を見せてくれた。彼らは銀河団を、何と顕微鏡越しに観測していたのである。
星々を顕微鏡で見るといいます。
天文学者たちは当時、パロマ天文台掃天観測で撮影された写真を調べるのに、こうした方法を用いていたのだ。使っていた写真コレクションは、一八七四枚のガラス乾板のネガからなり、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っている。
空を写した写真を見ていたようです。

このとき、観測するのはレンズに映る白と黒です。
解釈は、それが顕微鏡で拡大されていること、元は天文台で撮影した写真であること、現像すると恒星が黒く見えること、そもそもある方角の夜空を写した写真であること、などです。

観測と解釈を共に使うことで、顕微鏡に星空を見ることができます。

さて、新しい写真を取り出すたびに、観測は一からやり直すことになるでしょうが、解釈は違います。一度でも解釈を得ていれば、使い回すことができます。
どこかで解釈に誤りがあれば修正できますし、人から教えてもらうこともできます。観測にはどちらも不可能です。

観測の特徴は何になるでしょうか。

書籍『脳の中の天使』(V・S・ラマチャンドラン)には、想像を絶する観測をする人たちのエピソードが多くあります。
脳梗塞になったイングランドのジョンさんは、目で見た対象物を、部分は見えているのに、全体としては認識できなくなってしまったそうです。

奥さんの顔も、鏡に映った自分の顔も、わからないといいます。
「それが自分だということはわかります」と彼は言った。「私がウインクすればウインクするし、動けば動くので。自分が鏡に映っているのはあきらかです。でも自分のようには見えないのです」
極端な例でしょうか。
しかし、これが観測です。当事者が観測したことが正解であるわけです。

もう一つ、観測と解釈とで、大きなトピックがあります。これらが、対称の変数でないことです。

投入できる観測の量には、物理法則とコストの点に、強い制約があります。遠すぎて見えないことも、小さすぎて聞こえないこともありますし、いつまでも見続けるわけにもいきません。
そのわりに、得られる戻り値はさほど大きくない量になります。これも物理法則のためです。人の視野や聞き分けられる音色には、限りがあるのです。

解釈はそうではありません。別に、解釈は光の速さで伝わっていくものではないわけですし、物理法則に制約を受けることもなく、自由に大きい量を扱うことができます。

ここまで、観測と解釈について考えてきました。どうやら、解釈の方が具合の良さそうな変数です。
解釈が多い状況の方を信用するのが安全そうですし、自分でも、解釈を多くするように心がけたいと思います。

直感に反する気づきかもしれません。

自分の目で見た、当事者である、といった観測を意味する言葉が、情報の正確さや説得力にとって、とりたててプラスにならないということだからです。マイナスの影響すらあり得ます。
解釈を多くとっていることの方が、ずっと効果があります。

当事者でなくとも、慎重に解釈を増やしている人であれば、説得力を感じるべきなのです。

とはいえ、情報を確認する手続きを、観測と解釈とに、簡単に分けてしまうことにも注意が要ります。現実にない線による、仮説かもしれません。

わかったことは、解釈が多い方が良さそうであることまでです。わからないことは、観測と解釈の間に引いた線のことです。

どちらも合わせて確認しておきます。


終わりに


要素を分割することと、線を引くということを、同じ意味の言葉として断りなく使ってしまいました。 少し、気になっています。

2014年9月10日水曜日

WIRED CLASH、アフター

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2014年9月6日から9月7日にかけて、WIRED CLASH というイベントが開催されました。

WIRED CLASH|2014年9月6日(土)@新木場ageHa

私も参加してきました。

2014年は、15年続いたWIREが装いを新たにしました。大きなトピックです。
CLASHというイベントとコラボレーションとしての開催です。

場所は、WIRE時代の横浜アリーナから、新木場にあるageHaになりました。会場の規模が小さくなったことになります。
そのためか、あるいはageHaの特性かもしれませんが、体感として低域の音圧が上がっていました。また、出演者までの距離も近くなりました。
いずれも、大変良かったと思います。

反対に気になったのは、短かったことです。
例年のWIREは18:00~7:00くらいでしたが、WIRED CLASHは22:00~6:00でした。かなり、あっと言う間に終わってしまったように感じました。

とはいえ、チケットは例年の半額程度だったこともあり、全体としては非常に満足しています。

イベント全体の時間が短くなったと書きました。見たところ、一出演者の持ち時間を短くして、実現していたようです。
すなわち、例年は一人あたり二時間くらいだったのが、WIRED CLASHでは一時間でまわしていました。

同じ人がプレイしていても、持ち時間が変わると、セットリストの作り方や全体の雰囲気などがずいぶんと変わります。
全体の雰囲気というのは、グルーヴとか、うねりなどと呼ばれるものでしょう。短くても、長くても、それに相応のうねりがあるようです。

音楽以外にも、いろいろと当てはまるところがあるような気がします。

思えば、クラブミュージックを好きな人は、個別の楽曲に対しての評価はあまりないように思います。全体の体験のほうを重視します。
その意味で、つかみどころのない、うねりというものを体感として理解しているのかもしれません。

毎年、WIREに行くと何かに気づいて帰ってきます。今年の気づきはこの点でした。


終わりに


寂しいもので、WIREが終わると、夏も終わりです。

恒例の "See You Next Year!" はありませんでしたが、何かの形で、来年もWIREが開催されることを願っています。

2014年8月19日火曜日

ラウンド・アバウト・ランドリー

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何かをやれることと、繰り返しやれることは違うようです。
例えば家事です。家事ができることと、家事を毎日できることは違います。

後者を指して、回すという表現が用いられます。対象をサイクルの内側に位置させているような、独特の語感があるように思います。

私が座右の銘としている言葉の一つに、次のものがあります。
Diggy-MO' の楽曲『STAY BEAUTIFUL』からの一節です。
懸命にやって 簡単だって言ってやれ
しばらく以前に出会った言葉ではありますが、私の座右の銘であり続けています。

一生懸命にやります。しかし、簡単であったかのように振る舞います。
達成できているとは思えません。だからこそ、座右の銘であり続けているとも言えるでしょう。

こちらの記事を読みました。

コインランドリーについてのあまり意味のない文章:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

次のようにあります。
突然大きな若い男が乱暴に扉を開けて入ってくる。乾燥機がまだ回っているのを目にして舌打ちし、また乱暴に扉を開けて出て行く。
コインランドリーの思い出のようです。

私にも、コインランドリーへの思い入れがあったりします。
乾燥機がまだ回っているのを目にすると、私などはほっとしたりもしました。

今となっては昔の話です。
私の人生にとって、重要な時期のことでした。重要といっても、外から見てキャッチーだというだけで、私自身がその時期を特に価値の高いものとしているわけではありません。
重要でない時期などというものが、それほどあるとは思えないためです。

当時の私は、毎週日曜日にコインランドリーに行くことが習慣でした。一週間分の洗濯物を背負っていくのです。

洗濯から乾燥までのサイクルには、一時間かかります。
多くの人は、洗濯機が回り始めたらその場を離れ、一時間後に戻ってきます。

私はいつもコインランドリーに留まって、回る洗濯槽を眺めたり、本を読んだり、あるいは何もしなかったりして、一時間を過ごしました。思えば、コインランドリーという場所が好きだったのかもしれません。
毎週日曜日の一時間は、何の意義もありませんでしたが、それなりに有意義でした。

長く続いた習慣です。当然のように、あるいは不思議と、さまざまなことが起きます。
帰ろうとしたら嵐だったこともありました。高熱でふらついていたこともありました。苦労はありましたが、日常を回すためと思えば安いものです。

日曜日であることも、また良かったように感じます。
人生に疲れていたとは思いませんが、衣服と心を洗濯して、また新しい週を迎えることができます。

心を洗濯するというのは、何かの比喩です。洗濯の他にも、似たような機能を持つ言葉は大変に多くあります。
私は、心を入れ換えるとか、心機一転などよりも、心を洗濯するという言葉の方に好感を持ちます。

人生に疲れると言うことがあります。仕事に疲れる、家事に疲れると言うこともあります。
私は、人生に疲れる方が、何か他のものに疲れるよりも、建設的で良いと思っています。

家事に疲れるなどと言うと、家事を忘れてぱーっとやる、といった解決策が不自然に説得力を持ってしまうようです。根拠はないはずです。思考の停止に属するものでしょう。
私の感覚では、家事を忘れてぱーっとやったところで、家事に疲れている状態は変わりません。家事を忘れてしまっているためです。

その点、人生に疲れるのは建設的です。人生を忘れてぱーっとやることはできないためです。どれほどぱーっとやっても、それは人生に含まれています。
人生に疲れたときには、曲がりなりにも人生を継続しながら、少しずつ、解決策を探っていくことになるはずです。劇的で、不自然に説得力のある方法はありません。

心を入れ替えるより、洗濯する方が好感を持てると書きました。似たような理由になります。
洗濯することは、買い換えることとは違います。劇的な解決策に頼らないということです。

そして、懸命にやって簡単だと言うことの意味が、ここにもう一つあります。

何かの困難を、懸命に解決しようとする場面をご想像ください。
その解決策が、大変に劇的なものであったとしましょう。

劇的な様子によって解決してしまえば、後になって、簡単だったとうそぶくことはできません。劇的なのですから、簡単には見えないはずです。

簡単だったと主張するためには、隠れてこそこそと、しかし懸命に、手を打っていくことになります。ずいぶんと地味な対策になることでしょう。

懸命にやって簡単だと言うことは、劇的な手法を求めないことです。可能な限り、劇的でなく、サイクルの内側にある方針を選ぶことです。

先にご紹介した記事中で、こちらの記事が紹介されています。

コインランドリーガール

次のようにあります。
そんな生活の中で一つの贅沢を覚えた。
それはコインランドリーに行くことだった。
よい贅沢です。洗濯機を回すためと思えば、安いものです。


終わりに


回ることの外側には、ドラマがあります。内側には、思索があると良いなと思います。
ずいぶんと回りくどい洗濯の話になりました。

2014年8月3日日曜日

青緑色ギャラクシー

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道具という言葉は、なかなかに定義するのが難しいものです。

倉下忠憲さんの書籍『まるで未来からやってきたかのような』を読みました。

R-style » 『まるで未来からやってきたかのような』が発売されました。

その中に、「”道具に使われている”という言葉」との節がありました。
(ブログ記事で読んでいるはずなのですが、改めて)興味深く感じました。

ところで、先日、某所にて講演を聞きました。

そこで「技術は数年で陳腐化する」「理念は百年続く」とのお話がありました。

妙にアトラクティブな標語です。
少し考えてみます。

「技術は数年で陳腐化する」の方から始めます。

それほど、議論の余地はないだろうと思います。といいますか、技術は現実に存在しているものですので、議論ではなく、観測です。
技術が陳腐化するかどうかをよく把握できるのは、賢い人ではなく、落ち着いて観測する人です。

わりと、広く敷衍できる考え方かと思います。

私の観測によれば、数年で陳腐化してしまった技術を見つけるのは、なかなかに困難です。
基本的なところで私たちの生活を支えている様々な技術は、どれも、十年の単位で使われ続けています。陳腐どころか、ダイナミックに進展すらしています。

生存者バイアスでしょうか。
そうだとしたら、なおさら、あらゆる技術は陳腐化せずに使い続けられるように見えるものの、実際のところはどうだろうか、と考えていくのが自然です。

もちろん、時とともに新しい技術は生まれます。否定できないことです。だからといって、それは既存の技術を陳腐化させることにはなりません。

「理念は百年続く」というお話はどうでしょう。

書籍『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)に、興味深いエピソードがあります。

著者のドイッチュさんが、天文台で星空を写した写真から、銀河の位置を手作業でカタログ化する仕事を手伝っていたときのことです。昔の話です。現代なら、パターンマッチングのアルゴリズムでできる作業です。

写真では、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っているそうです。ご想像いただけますでしょうか。
モノクロのぼやけた写真を見て、ここに銀河、そこに恒星、と記録していくわけです。大変そうな作業です。

さて、ドイッチュさんが、一枚の特にわかりにくい写真を作業することになりました。写真を見せてくれた人に、「これは銀河? それとも恒星?」と尋ねます。

次のような回答でした。
「どちらでもない」というのが答えだった。「そこは写真乳剤がうまく反応しなかっただけだ」
銀河が恒星かと思っていたものは、ただのしみでした。
ドイッチュさんは続けます。
突如として、その写真には天文学者も、川も、地震も存在しなくなった。空想のかなたに消え去ってしまっていたのだ。私は、自分が見ているものの質量を一〇の五〇乗ばかり多く見積もりすぎていた。
描いていた壮大なドラマが、勘違いだったことに気づきます。
ところが、そこで、重要な知見に至ります。
しかしちょっと待てよ、と思った。私は一つでも銀河を見ていただろうか? 他の斑点もすべて、本当は非常に小さな感光剤のしみだったのである。
もっともです。銀河を観察するために、空を見上げていたわけではありません。
ずっと、写真に写ったしみを見ていただけです。

ここから、何かのデバイスを用いた観測が間接的であることについて、論じます。
間接的な観測には、理論と知識が要ります。それでいて、銀河の観測として、空を見上げるよりも正確です。
観測の間接性を増す層はそれぞれが、関連する理論を通じて、誤りや幻想、誤解を招くような観点や、ギャップを修正しているのである。もしかすると、本当に正確な観測はいつでも非常に間接的だという話が奇妙に思えるのは、理論を含まない「純粋な」観測という、誤った経験論的な理想があるためかもしれない。しかし、進歩とは、観測に先立って、非常に多くの知識が活用されていることを求めるものだ。
正確な観測は間接的です。そして、知識は観測よりも前にあります。

話が変わります。
human-based computing と呼ばれる、新しい思想があるそうです。

概要を述べます。
これまでの時代では、人間の仕事を、可能な範囲でコンピュータに委譲していくのが基本でした。人間の仕事という大きな領域があって、そこから上手に切り出したものをコンピュータに依頼していたわけです。ずっと、コンピュータとはそういったものでした。

新しい考え方とは、その反対のものです。
コンピュータにしかできない仕事があって、一部を人間が手助けします。目的を抱くのはコンピュータで、必要に応じて人間を使ったりします。

私が聞き及んだ具体例をご紹介することとしましょう。
登場するインスタンスは二つです。

一つめです。
この世界のどこかに、OCR技術で古い文書の電子化を進めているプロジェクトがあるそうです。たぶん、こうしている間にも、次々に電子のデータが生成されているものと思います。

二つめです。
ウェブサイトのアカウント登録で、パスワードを入力した後などに、不自然に歪んだ文字の画像を目にしたことがあるかと思います。
画像を見て、描かれている文字をテキストボックスに入力し、submit すると、無事にアカウントを作ることができたりします。

さて、不自然に歪んだ文字を入力するというこの行為は、一つめの、古い文書をOCRにかける際のサンプルとして蓄積されていることがあるそうです。
人手で入力しているわけですので、これほどの標本は望むべくもありません。

コンピュータの仕事を人間が手伝うことについて、雰囲気が感じられましたでしょうか。

強調したい点があります。
コンピュータの仕事を人間が手伝うのですから、仕事への主導権はコンピュータが持ちます。仕事に関して理念や実作業といった分類が存在するとしても、それを判定するのはコンピュータです。
human-based computing における人間の作業は、目的や手段からかけ離れたところにあるのです。

human-based computing がどれほどの将来の話なのかはわかりません。すでに、現代はそのような時代なのかもしれません。
いずれにせよ、その時代に人間の作業を遂行するためには、直感に反する心構えが必要になるはずです。作業が目的や手段とかけ離れているなら、それらを礎に進んでいくことができないためです。

理念とか目的のような空想を持ち出ことはできません。コンピュータが決めるものだからです。

仮説と、知識と、観測を、いずれもたくさん抱いておくというのが、健全な姿だろうと思います。
そして、コンピュータの演算結果に合わせて、それらを少しずつ更新したり、棄却したりしていくわけです。続けていくと、理念とも呼べるものができあがっていくのかもしれません。

ある意味で、道具に使われる未来です。
コンピュータの演算結果を通して世界を観測するというのは、大変に間接的です。人間が自分で世界を見て、コンピュータに適当な仕事を渡すのとは違います。
つまり、観測に先立つ知識が良いものであるなら、人間が自分で見るよりも正確なのです。

それから、上で、既存の技術が陳腐化していないのに、次々に新しい技術が生まれていると書きました。人間の数と能力はそれほど増えていませんので、道具に使われる部分がどんどん増えているはずです。

同時に、いかにして道具に使われる部分を増やしていくか、思案していく必要があります。
道具という言葉の意味を拡張するか、新しい言葉を用意するのがよいのかもしれません。


終わりに


話の都合上、コンピュータを過大に神聖なものとして書いてしまっています。
不本意なところもありますことを、ここに表明しておきます。

2014年6月25日水曜日

本と私の相互作用

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好きなものの種類を尋ねられると、不思議に答えにくいものがあります。

私は本を読みますので、どんな本が好きなのか、といった質問に直面することが多々あります。
はたと立ち止まってしまうのです。

好きなものも、私も、変化し続けているということが、答えにくさをもたらしているような気がします。

私なりに、ちょっとした回答がないわけではありません。ただ、おそらく質問した人はそれを求めていませんので、回答と呼ぶのはおこがましいところです。思い、とでもしましょうか。

どんな本が好きなのか、についてです。
いろいろな本が好きなわけです。

画一させた思いを述べるなら、私は、人類の知識やアイデアが進展するところに興味があります。そんな本が好きです。
あまり厳密ではないものの、何かの問題があったとして、その回答に関心があるわけではないということと、だいたい同じ意味のように思っています。

ドラッカーが、『マネジメント』で述べたことを思い出します。
大事なのは、問題への答えではなく、問題についての理解である。
問題への答えを得るより、何か基本的な人類のアイデアが進展する方が、リーチが大きくなります。私たちに強く寄与します。

フレームワークという言葉があります。
私が基本的な人類のアイデアと呼んだものと、フレームワークとは、似ているように感じるかもしれません。

どうも、フレームワークなるものは広い意味を採りすぎているきらいがあり、話がややこしくなります。フレームワークとは、ある特定の事象を示す言葉ですので、それほど便利に使うことはできません。

フレームワークには、配下に、実装する個別の要素が必ずあります。配下の要素は、フレームワークのすべてをことごとく実装します。
一部を採用して、ある一部は採用しないようなことがあってはなりません。個別の要素どうしで、共通のフレームワークを持つことが保証できなくなってしまうためです。

また、ひとつの要素が複数のフレームワークを使用する際には、多大な注意を要します。
フレームワークと配下の要素の間には関連がありますが、フレームワークどうしにはありません。それぞれは勝手に作られたものですので、競合しないか、重複しないか、大変に神経を使うのです。

私が基本的な人類のアイデアと呼んだものは、フレームワークではありません。アイデアと回答の関係は、フレームワークと配下の実装のそれではありません。

アイデアや知識は、推論とか、飛躍から生まれるものです。行動できるような回答とは、直接には関係しないのです。
回答と関係しないからこそ、アイデアは、様々な回答へのリーチが大きいのでしょう。

フレームワークといえば、関連して、素晴らしい言及を目にしました。

choiyakiさんの書籍『Evernote×情報カード知的生産』からです。
Evernoteには、「ノート」という形で、情報は保管されます。ノートには、必ず「タイトル」をつけなくてはなりません。作成・更新日時が付加され、ノートブックに割り振らなければいけません。位置情報やタグがつく場合もありますが、最低でも「タイトル」「作成・更新日時」「ノートブック」という3つのメタ情報が「ノート」には付加されます。どのノートにも必ず、です。
Evernoteに保存される情報は、「タイトル」「作成・更新日時」「ノートブック」の3つが必ず付加される点で、規格が統一されているといいます。
このことを、梅棹忠夫さんが『知的生産の技術』で述べた、知的生産における規格の統一の重要さと対比して、Evernoteと知的生産について論じておられます。

Evernoteにある情報が規格を統一されることをもって、知的生産への有用さをこれほど明確に唱えた意見を、私は見たことがありませんでした。
人類のアイデアが進展した瞬間です。

規格が統一されていることは、一列に並べられることを意味します。
Evernoteにある情報は、ノートブック、タグ、そして検索を用いて整理されます。このあたりは妙にアトラクティブなのですが、それとは別に、すべての情報を作成日順に並べられる点も見逃せません。情報が規格化されていることに着目するなら、むしろこちらの方が重要です。

規格化されていない情報は、人の手で、何らかの分類と整理が必要です。
情報を、ましてや個人に関する情報を、整理するのは難しいことです。

こちらの記事を読みました。

R-style » Evernoteのユーザー数が一億人を突破、そして高度情報化社会市民としての知的生産

次のようにあります。
以前どこかで書いたが、私はEvernoteが「あたりまえ」に使われるツールになると考えている。「Word,Excel,Evernote」ってな具合に。
Evernoteが「あたりまえ」のツールになるということの意味は、情報の規格が統一されること、そうでない情報は整理が難しいこと、の周辺あたりにあるのではないかと思っています。

これも、『Evernote×情報カード知的生産』で触れられていました。
考えたことや思いついたことを書きとめた、"自分発"のものを「自分資料」、ネットや本など、"自分以外の誰か"が書いたことがらを、「他者資料」と名づけました。他には、時間のログや日記など、過去の「記録」も、知的生産をおこなう上での、立派な「資料」となり得ます。
「自分資料」と「他者資料」、そして「記録」の3種類の分類を掲げた上で、資料はいつもいずれかに整理できるといいます。

大変に興味深いことが述べられています。ここには、分類と整理の難しさが発生しないといわれるのです。
この分類が、誰かの個人的な事情や、時と場合などに依存しないためでしょうか。

分類とは、自分なりに使いやすいものを模索するのが望ましいのでしょうが、なるほど、外から押しつけて作ると曖昧にならないようです。思えば、すべてのノートを作成日順に並べることも、外から押し付けた基準です。
分類する難しさを回避するためには、考慮に入れておきたい方針です。

さて、誰かの個人的な事情に託さずに、客観の基準で情報を判定すると、分類が難しくならないということでした。
裏返せば、客観ではない知覚によって情報のインプットを測定したときには、その結果がいつも取り扱いにくいものになるわけです。

不思議に思えます。

ドラッカーは、この点にも気づいていました。『マネジメント』からです。
組織においてわれわれが扱う人間社会、すなわち複雑な知覚の世界においては、測定という行為は客観的でも中立的でもありえない。
知覚すること、測定すること、といったことが、客観的ではありえないといいます。

ここに、情報のインプットとアウトプットという考え方の重大な欠陥があります。
インプットを人間に与えると、アウトプットが返されると言われます。プログラミングからのメタファなのでしょう。
(あるいはチューリングマシンか、オートマトンか、λ計算でしょうか。どれも同じでした。)

このメタファが、致命的に不適切です。

インプットを人間に渡そうとしている限り、インプット情報と人間と、いずれも客観の存在ではいられません。
人間はインプットに、インプットは人間に、いつまでも影響を与え続けます。アウトプットと人間の関係も同様です。

インプット情報も、人間も、時間の経過の中の相互作用でしか存在することができません。
入出力と演算するモジュールが完全に独立している、あるいは独立させられるプログラミングの世界とは、違うのです。

人の知覚による情報の分類が、いつも難しいのはこのためです。
人間と情報が時間とともに変わり続けているところを、適当なところで中断して、測定したことにして、何かの分類に押し込めようとするわけです。中断するタイミングがほんの少し違えば、人も、情報も、別のものになるはずなのです。

だからこそ、どんな本が好きなのかを回答するのが難しいのでしょう。質問された瞬間に、本と私の相互作用を停止させて、何かそれらしい測定結果を決めているのです。
利用できるフレームワークでもあれば、実装して、楽に回答できるのかもしれません。


終わりに


とはいえ、基本的な人類のアイデアが進展するところに興味があるというのは、悪くなさそうなアイデアです。
様々な回答へのリーチが大きそうです。

2014年5月24日土曜日

留まるドラマのカタチ

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長く、複雑なほうが、優しく感じます。どちらかといえば、その方が私は好きです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 5/5 〜 5/10 今週のまとめ

次のような言葉があります。
どうしても、長さが必要な表現もある。
間違いないような気がします。どうしてそうなのか、解説はいろいろとあることでしょう。
率直には、長い表現の方が手間がかかるものの、優しく感じます。

ブログ「あれやこれやの数学講義」さんで、「数学語り」と題されている企画があります。

あれやこれやの数学講義

いつも、大変に興味深く読ませていただいています。

いくつかの「語り」で、思考の持久力という言葉が使われています。
オリジナルの言葉なのでしょう。少なくとも、私は聞いたことがありませんでした。すなわち、素晴らしいことに、オリジナルの概念だということです。
きっと、数学と、数学を教えることについて長く考え続けてきた先でたどり着いたことと想像します。新しいことがらを、人にわかる形で提出されたわけです。

新しい概念ですので、受け取るほうも慎重に探っていきたいところです。

数学語り060では、二つの言葉が対比されています。習熟と、持久力です。もちろん、いずれも数学の問題を考えようとする場面のことです。

いわく、習熟は、よっこらしょとステップを登らなくてもよいようにすることで、持久力は、よっこらしょと登れる回数を増やすことです。
ステップをたくさん登っても疲れないような力のことを、思考の持久力だと解釈できそうです。

また、数学語り055は、なかなか答えにたどり着けない場面を示しています。
答えを得られないまま、辛いままで、踏ん張って思考を続ける力を、持久力と呼んでおられます。

思考の持久力について、徐々にわかってきました。
たくさんのステップを登っても、なかなかゴールに着かなくても、思考を続けられる力です。
大変に好ましく、身につけたいと思うものです。個人的には、上で少し出てきた習熟よりも好感を覚えます。

いま整理したとおり、思考の持久力を話題にするときの登場人物は二つです。ステップと、ゴールです。
ゴールを意識に留めておきながら、よっこらしょとステップを登ります。

ステップは経験できる実体であり、ゴールは知識のような概念です。

思考の持久力を、次のように呼ぶこともできそうです。すなわち、抽象を保留したまま、具体を根気強く追うことです。
数学を足場にしながら、他の領域にも手が届きそうになってきました。

私たちは、それなりに苦労して日々を生きています。私の好きな日常です。

日常のあらゆる場面で、さまざまなドラマをまっとうします。一方で、日常は変わり映えのないものでもあります。

この二つは相反しているように見えます。
日常のあらゆる場面はドラマの連続なのに、日常は変わり映えしないのです。

いずれにせよ、相反していそうな話題を同時に取り扱いながら考えを進展させていくことは、思考の持久力に該当するでしょう。

日常のあらゆる場面を抽象的に過ごすことは決してできませんが、それでいて、日常というものは抽象的です。
思考の持久力とは、変わり映えのしない日常を意識の片隅で保留したままで、日々直面するドラマを根気強くこなしていくことになります。

優しさについて、私が思っていることと似ています。

私は、優しいというのは、具体的であることを必ず内包していると思っています。優しくあることは具体的であることだ、と言ってもよいかもしれません。
優しさとは、他人の気持ちになれることだと言います。それは、他人のために、具体的なステップを踏む負荷をいとわないことです。自分ではない誰かの人生について、抽象的な単純さを意識の片隅で保留したまま、同時に、数多ある具体のドラマを認めることです。

その意味で、優しさというものは、絶対の正しさとして君臨したりはしないのだと思います。優しいことが具体的であることだからです。
抽象に終始する方が、つまり、優しくない方がよいような場面も、きっとあることでしょう。この気づきは忘れずにいたいものです。

個人的には、どちらかと言えば、優しくある時間を多く取りたいとは思います。

ここまで述べてきたことを受けると、私の表現は次の一行で済むように思えます。

思考の持久力がある人は、優しくいられます。

よく、わからない一行になりました。なるほど、どうしても長さが必要な表現に間違いなかったようです。あるいは、最後に短い表現をするために、長い話を準備しておく必要があったのかもしれません。

長さが必要な表現と、最後に短い表現をするための長い準備とが、まったく等価のものを指しているのかどうかは、難しいところです。

本エントリのはじめに、長さが必要な表現もある、という言葉との出会いを書きました。私はそれを、間違いなさそうだと感じています。そのときの印象からしても、短い表現のための準備とは、違うもののような気がします。

長さが必要な表現は、思考の持久力と、意図を同じくしているように感じます。対して、最後に短い表現をするための長い準備は、習熟でしょうか。
いずれにせよ、長く、複雑です。思考の持久力が活躍しそうなところです。

CooRieさんの楽曲「センチメンタル」に、私の大好きな言葉があります。ご紹介します。
複雑は「好き」のカタチね
長いほうが、優しいです。
優しいと、複雑です。
複雑は、好きのカタチです。


終わりに


日常というものは変わり映えしないけれど、同時に日常のあらゆる場面はドラマの連続であるという着想は、次の記事によったものです。ご紹介しておきます。

長期の仕事は薄氷を踏むようにして進んでいく | ライフハック心理学

大変に衝撃を受けた記事です。

2014年5月3日土曜日

詮の無い、近未来

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複雑なこの世界の様子に思いを馳せるためには、教養が要ります。基本的に、教養は身につけるようにしたいと思っています。

自由な市民でありたいからです。

複雑な世界と書きました。
この世界は複雑である、といった言説を目にすることがあります。複雑だから、答えがいくつもありえたり、どちらとも言えなかったりするようです。

最近、気になっていることです。
本当に、世界は複雑なのでしょうか。どのあたりが複雑なのでしょうか。

私としては、世界は複雑であると、そんなに単純に断言してしまいたくありません。世界の複雑さにかまけて、思考を止めてしまっています。
いろいろと考察したうえで、注意深く、複雑さを了解したいのです。

世界なるものについて決めましょう。
ここでは、ある主体が、見たり、聞いたり、考えたり、といった個人的な認識を世界とさせてください。
空間にある物理的な事柄のすべて、などとしても構いませんが、それだと、私たちが普通には認識できない、あまり切実でない話題も含まれてしまいます。時空が膨張したり、水星の軌道が正しく観測できたりすることは、それほど切実ではないのです。GPSの精度が良くなるくらいのものです。

主体が世界を認識する経路は、ほんのいくつかあるだけです。視覚、味覚、触覚などです。この意味では、世界は複雑ではありません。

生物学の知識から、各々の感覚がそれほど多様でないこともわかっています。
視覚なら、色は赤と緑と青の三種類しかありません。味覚は五種類です。触覚は、皮膚感覚の仲間のひとつで、他には痛覚、温覚、冷覚、痒覚くらいしかありません。ちなみに嗅覚は四百種類くらいですが、それでも数え上げられる程度です。
もう少し他の例を挙げれば、DNAを特徴づける塩基はたった四種類しかありませんし、考えることは電気信号が発火するかしないかだけの問題です。

ここまでのところに、世界が複雑であると言い切れるようなものはありませんでした。それぞれを観察する限り、単純なのです。

とはいえ、私たちはいろいろな経路について、ひとつだけを選んだりはしません。赤色だけ、苦味だけを採用して、世界を認識することは決してないはずです。

したがって、世界が複雑になるのは、いくつかの経路の組み合わせのバリエーションを考えたときです。
基本的な要素が限られていながらも、それらの順列の状態数が多くなるのが複雑なのです。

すると、世界を複雑だと思う人は、少なくとも次の問いに答える必要が出てきます。
すなわち、基本の要素は限られていて、ただバリエーションが多いだけのものを、複雑と呼んでいいのでしょうか、という問いです。

私が学んだことのある情報工学という学問には、計算論という分野があります。
実は、計算論の知識がある人にとって、先の問いへの答えは明らかです。

要素が単純でただ組み合わせの数が多いだけのものは、少しのわだかまりもなく複雑です。
計算論を見れば、バリエーションが多いことがどれほど手に負えないか、実感できます。オーダとか多項式時間といった言葉は、そのために存在しているのです。

学ぶということは、自分の概念を増やして、心を豊かにすることです。それまでになかった直感を身につけることです。

以上のような紆余曲折を経て、世界は複雑であると、私は直感します。
(この意味では、計算論を学んだことのない人が、世界の複雑さをどのようにとらえているのか興味があります。)

情報工学といえば、よく、ソフトウェアを作るということが人類にとって困難だと言われます。述べてきたような複雑さを前提にしていることが多いようで、私も同意するところであります。
このあたりを誤解のないように書くのは大変です。さしあたって、ハードウェアよりソフトウェアの方が複雑だから、とさせてください。
ハードウェアは発展していくのにひきかえ、ソフトウェアはいつまでもある程度のところにとどまってしまいます。

いま、近未来のAIのようなものを考えます。何でも構いません。近未来らしいものをご想像ください。ドラえもんでよいです。
近未来というのは、なぜなのか、ずっと近未来のままのようです。少し、実現していく様子に思いを馳せてみましょう。

ハードウェアに関しては、まず間違いなく実現できると思います。実現という言葉があやふやであるものの、これまでのハードウェアの発展の歴史を考えると、実現できないと考える方に不自然さがあります。
他方で、おそらく、ソフトウェアの方は実現できません。人類には難しすぎるためです。
ネコ型ロボットのハードウェアが作れるようになっても、ソフトウェアの方がボトルネックになって、ドラえもんは誕生できないと、私は思うのです。

ただし、ここでは、ソフトウェアという言葉に制約をつけて用いています。
ソフトウェアなるものが、現代の私たちが想像するような、間違いなく動作するものを指しているというものです。

ATMでお金をおろせること、車に乗れること、病院にかかれることなど、あらゆるところで、ソフトウェアは何事もなく動くことを期待されます。

それは、何かあったら、直せる人と責任をとれる人がいるということです。
そしてこのとき、近未来のAIを作ることはできません。

そうでないときなら、もしかすると、作れるかもしれません。
単純な要素から複雑なものを作り出す考え方なら、すでに存在しているためです。近未来のAIに応用できることもあるはずです。
たとえば、一からすべて作るのが人類には難しすぎるなら、単純な要素から勝手にできあがっていくようにすればよいのです。

何か、直感に反する手続きを使おうということです。
そうして、近未来のAIが無事に完成したとします。もう、人類の手には負えなくなりました。誰も複雑な構造を理解できないままに、出来上がってしまっているわけです。何かあっても直せませんし、誰にも責任がとれません。

次の課題が浮かんできたようです。

人類の手に負えないものを、私たちは作ってもよいのでしょうか。または、人類の手に負えなくても構わないような用途があるでしょうか。

私の抱く教養が、限界を迎えるときです。

誰にも責任をとれないものについて議論するには、民法と判例の知識が要ります。今までにない製品の用途を提案するのは、マーケティングや経営学の知識です。

本エントリの冒頭で、ある主体が認識するものを世界と決めました。この主体に、近未来のAIは含まれるのでしょうか。答えによっては、世界の様相が変わってしまいます。
哲学と生物学の知識です。

さらにいうなら、様々なややこしい事情を乗り越えてまで、人間は、近未来のAIなど作ろうとするものでしょうか。
心理学の知識です。

私の語りえない領域に、話が進展してしまいました。無理に語ろうとしても詮の無いことです。

自分に教養がないことを、大変に悲しく思います。輝かしい近未来に、思いを馳せることができないのです。

私は存じ上げませんが、きっと、このあたりのことを議論している方はどこかにおられるでしょう。機械工学、情報工学、ソフトウェア工学、民法、マーケティング、経営学、哲学、生物学、心理学の知識を合わせ持った方と想像します。

私はまだまだ修行が足りませんでした。

こうした教養をもって議論するというのは、自由な市民として生きることなのかもしれません。


終わりに


本文中では大したことでないように書きましたが、水星の軌道が正しく観測できたり、GPSの精度が良くなるのは、大変に素晴らしいことです。
言葉の綾でした。

それから、すぐ上で、修行が足りないとも書きました。これも言葉の綾です。
教養を身につけようとすることが修行なのかどうか、議論の余地があるためです。

2014年4月5日土曜日

受け取り後の詐欺

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情報リテラシー、と耳にしたことのあるかたは多いと思います。
詳細のところはよくわからないものの、情報リテラシーの名のもとに、情報工学のまわりの知識が広まるのは悪くありません。

その関係で、専門的にでなくとも、クロスサイトスクリプティング(cross site scripting(以降は省略して XSS と書きます))をご存じのかたは多いでしょう。

非常に簡単にご紹介します。

XSS は、インターネットで悪いことをする人が採る手法のひとつです。悪いことというのは、不正なアクセスがあってパスワードが流出した、のような類のものです。詐欺などではありません。

ウェブページにあるテキストボックスやテキストエリアをご想像ください。ふつうは、文字や文章を入力するところです。XSS とは、そこにプログラムコードを入力して、ウェブページの管理者が予期しない何かを引き起こそうとするものです。

イメージが湧きますでしょうか。何となくで構いません。
テキストを入力するところが問題になるわけです。

当然ながら、テキストは入力しておしまいにはなりません。入力と、それを受け取って出力するところがあります。
ゆえに、XSS を防ぐ対策はこのいずれかに着目して施すことになります。

人類が積み重ねた経験からか、回答はすでに出ています。XSS とは何か、のように抽象的で無駄なことを必死に考えなくても大丈夫です。
XSS は、出口で防ぐのが基本と言われます。入力ではなく、出力のところで対策するのです。

あり得るすべての入力の組み合わせを想定して、対策するのは容易ではありません。ひとつのウェブページに、テキストボックスがいくつもあるかもしれません。あれもこれも気にしなければならず、入力チェックは大変なのです。

一方で、出力を気にするのはそれほどでもありません。
問題を起こしそうな文字を覚えておいて、発見したら、そこだけ少し書き換えてしまえばよいからです。

入力は許すけど、そのままでは出力させません、という思想です。
入力は許しません、とするよりは難しくないのです。

テキストボックスは、もともと入力させるための装置です。おいそれと入力を遮断するわけにはいきません。
この程度の説明で恐縮ですが、入力を許さないような方針が大変そうなのはご同意いただけるでしょうか。

リテラシーといえば、以前、『メディア・リテラシー』(菅谷明子)との書籍を読みました。
イギリス、カナダ、アメリカの三か国におけるメディア・リテラシーへの取り組みについて、実態をまとめている本です。同書の言葉をお借りすれば、「メディア・リテラシーの現場レポート」です。

いずれの国についての現場レポートにも、教育現場の話題が多く登場します。学校の授業の中で、メディア・リテラシーを取り扱う事例があるようです。
ここでいうメディアは、新聞、雑誌、映画、広告、ミュージックビデオなど、様々にあります。それぞれについて、造詣のある先生が中心となって、読み方、接し方を教えておられます。
授業の時間で映画を見て、たとえば、「勇敢なプリンスと助けを求めるプリンセス」というステレオタイプについて議論したりするそうです。

読み方、接し方については、随所に「批判的」という言葉が登場します。同書に解説がありますので、そのまま使わせていただきます。

「批判的」(クリティカル)とは、「否定的に批判する態度・立場にある様子」といったネガティブな意味合いではなく、「適切な基準や根拠に基づく、論理的で偏りのない思考」という建設的な思考を指している、とのことです。

大変に好ましく感じました。注意深く、建設的に、すなわち批判的に、私もありたいものです。

現場レポートである同書からは、メディア・リテラシー教育における問題点もうかがえます。
ひとつには、教えられる人が少ないという問題があります。映画や広告などに造詣のある学校の先生は、多くいるわけではないのです。また、映画に詳しい先生なら、映画を見ることについては教えられますが、広告についてはできません。メディアは多様にありますので、この点はどうしても難しくなります。

同種の問題もあります。メディア・リテラシー教育を整備している間にも、新しい種類のメディアが発生してくることです。現代で言えば、間違いなくウェブのメディアが該当するでしょう。
原理的には、新種のメディアが生まれるたびに、制度と先生を準備して授業を進めなければなりません。映画のリテラシー教育は必要で、他のメディアについては不要だとするのは妙なのです。

率直に考えれば、かなり困難なことです。個別のメディアを取り扱う限り、メディア・リテラシー教育はいつも不十分になってしまいます。

XSS が思い出されます。様々な入力についてではなく、受け取った後のところで対策するものでした。
多様なメディアを、人が個別に受け取るところではなく、受け取った後に理解して解釈するところで、なんとかできないものでしょうか。

幸いにも、対策の方針は明確になっています。「批判的」であることです。

このような意味で、XSS とは何か、のような抽象的で無駄なことを考えるのは、具体的で役に立つ対策であるわけです。

何やら、煙に巻いたような書き方になってしまいました。詐欺などではありません。


終わりに


クロスサイトスクリプティングの説明には苦労しました。
細かすぎず、大雑把すぎず、嘘にならず、妙な比喩をせず、書いてみたつもりです。

2014年3月21日金曜日

額縁になりそうです

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情報を生み出したり、編集したりといったことは、考えることとよく似ています。新しい知見を目指していく行為です。
情報がどうこう、といった次元に留まらないレベルで重要になります。

書籍『街場の文体論』(内田樹)に、大変に感銘を受けた一節があります。あまりにも感銘を受けましたので、どこかで書いたことがあったかもしれません。

「万人向け」のメッセージとして、「額縁」という概念が示されます。
つまり、「万人向け」のメッセージ、誰もが誤解しないメッセージというのは、メッセージの設定に関わるメッセージなんです。「額縁」と言ってもいい。
メッセージの設定に関わるメッセージは、「額縁」として、誤解のないものになるといいます。

「額縁」のたとえが続きます。
「額縁」は「この中に書かれているのは、絵ですよ、現実のものじゃありませんよ。壁の上にありますけど、壁の一部じゃありませんよ。間違えないでね」というメッセージを伝えます。
「額縁」は、しきられた空間が壁の模様ではなく、絵であることを伝えます。絵が発するメッセージの解釈は、人それぞれあるものです。この内側は絵であるというメッセージは、なるほど誤解がありません。
額縁を見落とした人は「絵」を見ることができません。
続く文章にもありますが、額縁に気づけないと、壁の模様のようなものとして絵を認識してしまいます。絵を見ることができないのです。

いよいよ至る指摘が、次のものです。
つまり、額縁を見落とした人は世界をまるごと見誤る可能性があるということです。だから、額縁と「額縁以外」を正しく見分けるというのは人間にとってきわめて緊急性の高い、生物的な課題なんです。
世界をまるごと見誤る可能性がある、といいます。納得できる話です。
万人向けのメッセージである額縁を、もしも見落とすようなことがあると、大変なことになってしまうわけです。

私は、大変なことに陥りたくありません。ましてや、世界をまるごと見誤りたくありません。この言葉は、出会った折りより、私が日々を生きる上でのキーワードになりました。

対策として、陥りそうなところを探したくなります。どんなときに世界を見誤ったりするのだろう、という問いです。率直な発想でしょう。
するとこれは、「世界」や「まるごと見誤る」といった言葉について、情報を編集する作業になるわけです。

情報を編集することです。
よく、何でもいいからアイデアをたくさん出して、後で削るようにしたほうがいいと言われます。私の経験も裏づけることです。

書籍『KDPではじめる セルフパブリッシング』(倉下忠憲)にも、次のような言及があります。
残念ながら、「消すくらいなら最初から書かなければいい」という効率的なやり方はあまりうまくいきません。
(中略)
広げておいてから、削る。一見すると二度手間なやり方が、案外まっすぐな道だったりするものです。
後から削る方が良いのです。間違いのないことでしょう。基本的な考え方として、持っておくと便利です。

それでうまくいく理由はあまり聞くことがないものの、人間の短期記憶が限られていることと関係しそうです。頭の中だけで情報を足したり減らしたりすることが、人間には難しいためです。

すると、人の短期記憶がもともと限られていたことが、情報の編集の良いやり方を規定したことになります。

「堀江由衣 with UNSCANDAL」の楽曲「スクランブル」には、次のような一節があります。
伝えたい 言葉 もう多すぎて
このまま 歌になりそうです
人の短期記憶が限られていることについて触れられています。伝えたいことが多すぎたために語られる言葉というのは、確かに、存在するように思います。
私たちの目に映る言葉たちの中で、ある部分は、人の短期記憶が限られているために発生したと考えられるのです。

書籍『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二)にも、興味深いエピソードがあります。
心についてです。
自分の心を考える自分がいる。でも、そんな自分を考える自分がさらにいて、それをまた考える自分がいて……とね。そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。そうなれば、精神的にはアップアップだ。だからこそ「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。
駆け足でのご紹介となってしまい、恐縮です。

私たちは、自分に心があることを自分で気づきます。心は、とても複雑に見えます。

自分の心を自分の心で考える、という再帰を繰り返すときに、人の短期記憶に限界がきてしまうことが述べられています。そのために、人の心が複雑に見えるのです。

人の短期記憶が限られていることは、心のありかたを生成するわけです。

ここまで、人の短期記憶について、事例をいくつかご紹介してきました。情報の編集、歌や言葉、複雑な心です。
世界と私たちとの関わりに、強く影響を与えているようです。

私の、最近のテーマになっています。
すなわち、人の短期記憶が限られていることは、私たちの世界を強く規定しているのではないか、という仮説です。世界の設定について説明してくれるメッセージかもしれないのです。

額縁と呼べそうなものです。
そうであれば、人の短期記憶を理解せずにいることは、世界をまるごと見誤る可能性をもたらします。

私は、世界をまるごと見誤りたくありません。


終わりに


今回は、このように情報を生み出したり編集したりしました。

2014年3月11日火曜日

優しさのポリシー

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石田よう子さんの楽曲「乙女のポリシー」に、次のような歌詞があります。
なりたいものになるよね
ガンバルひとがいいよね
涙もたまにあるよね
だけど ピッと凛々しく
なりたいものになるのかどうか、私にはよくわかりません。頑張る人が良いと思うものの、頑張らない人も、また良いと思います。

ただ、涙もたまにありながら、ピッと凛々しくありたいと思います。

私は、優しくありながら日々を生きたいと、いつも空想しています。
涙ぐみながらもピッと凛々しくあることは、優しさというもののひとつの形だと感じるのです。

優しくあるためには、具体的でなければなりません。つらいところではあります。
それでも、私の、可憐で優しいポリシーです。

2014年2月16日日曜日

はやり割りすたり

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少し前に、デジタル・ディバイドなる言葉がはやりました。デジタルなものを扱える人とそうでない人との間に、格差ができることのようです。デジタル、格差、といったあたりがいまひとつ私には把握できず、よくわからないものという印象でした。

気づけば、それを口にする人はいなくなりました。私としてはひと安心です。現状、特に困ることはありません。放っておくつもりです。

デジタル・ディバイドの言葉がはやって、ひとつ、良かったと思っていることがあります。
同じ時期のことです。情報は、デジタルなものがすべてなんとかしてくれるから、人が苦労して暗記しなくてもよいとする言説がありました。困ったときには調べればよいというわけです。私も、そうなのかもしれないと思ったこともありました。

近ごろは、それを唱える人もいなくなりました。

良かったこととは、その言説は誤りだったと、私たちが気づけたことです。そういう認識にいたったことです。
人類の発展にとって、有益なできごとだったと思います。

人類は、ひとときの気の迷いを振り切って、良さそうな方針を取り戻しました。少し、暗記することについて考えてみたくなります。

暗記することが指すものを、はっきりさせておく必要があるでしょうか。
長期記憶の一種には違いないと思います。

メールマガジン「Weekly R-style Magazine 20130204号」は、長期記憶に属する四つを紹介していました。
エピソード記憶、意味記憶、手続き記憶、プライミングです。

私が指すところの暗記することが、どこかに含まれてくるはずです。
ただ、前提を細分しておいて話を進めることを、私はあまり好みません。前提が違うためにスタート地点にも立てないような状況を、できれば、作り出したくないのです。

日々を生きる上での、私の方針のひとつでもあります。
暗記することが示す範囲を広くとりながら、進んでいきます。

暗記すると、物事をなすのが早くなります。間違いありません。非常に原始的な意味で、暗記する方が良いのです。

避けられたいのは記憶違いです。
暗記する対象を、記憶違いのフィードバックがすぐに得られ、かつ、それの被害の少ないものにしておくと、危険がありません。フィードバックが早いと、暗記が容易になることも期待できます。

フィードバックの重要さについては、すでに新たな論を待ちません。
ですが、関連する興味深い話題を目にしましたので、書いておきます。書籍『数覚とは何か?』(スタニスラス・ドゥアンヌ)からです。

社会科学の実験について、次のような状況をご想像ください。
被験者が、目にした集団の人数を見積もるように言われました。いつも正しく答えられるとか、多く見積もってしまうとか、結果はいろいろとあるでしょう。それによって、何かの結論を出そうとしているわけです。

同書は、次のように述べます。
ある集団の人数が一〇〇人か、二〇〇人か、五〇〇人かといったことについて、私たちは実際のところ、正確なフィードバックをこれまでに何回くらい得ていることだろうか?
あまり、なさそうなフィードバックです。

人が、なすことにおいて、上手でないことがあります。単にフィードバックを得たことがないためかもしれないのです。
しかし、ある実験室の実験によると、「ここには二〇〇個の黒点があります」といったふうに、たった一回でも正しい数の情報を教えられさえすれば、一〇から四〇〇の黒点の推定は十分に改善することがわかっている。
記憶が誤っていることのフィードバックがすぐに得られるのなら、暗記することもずいぶんと容易になるはずです。

少し上で、暗記すると、物事をなすのが早くなると書きました。早いというのは、何のことでしょうか。難しいところです。
私は、生活がうまく回るようになるとか、仕事ができるようになるとかと、似たものだと考えています。

いずれも、口にするのは容易い言葉たちです。

マニュアルやチェックリストのようなものには、陽に記されず、行間に現れてしまう項目がいつもあります。先の言葉たちは、それらの項目を、経験などによって自然にこなせることと同じ意味です。
仕事ができるようになるとは、チェックリストの行間で迷わなくなることです。

一生懸命に暗記することも、チェックリストを用いることも、工夫して何かを進めようとするための選択肢です。

チェックリストに比べると、暗記はやや不格好でしょうか。自然に覚えることではなく、がんばって暗記することです。考えたこともない方が、多くあるかもしれません。それでいて、確かに工夫です。

暗記することは、応用することにも良い影響があるような気がします。

ただ、ここには個人的な問題があり、話を進められません。応用するという言葉を、私がよく理解できないのです。
私は、できるだけ意味を狭くとって、知的生産とほとんど同じものだと考えることにしています。安全のためです。

今のところ、それほど生活に困ることはありません。放っておいています。出会ったら、無視しているのです。
デジタル・ディバイドのように、廃れ、口にする人がいずれいなくなると、助かります。

どうも、言葉にならない違和感を持ったまま、私は生活しているようです。良いような、悪いような気がします。
割り切れないところでも、切り捨てず、まるごと保存しているようなのです。
こちらは、アナログ・ディバイドとでも名付けておきます。


終わりに


フィードバックという言葉も、ずいぶんと広い意味で使うもののようです。

2014年1月31日金曜日

何かの形の論の弾丸

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何か具体のものを手に入れようとして、それ以外のものも一緒に得られたら、とても便利です。話題を情報のやりとりに限れば、読書などはそうでしょう。
細かいところでは、例示やたとえ話を用いて物事を説明するような状況もそうです。興味深いものがあります。

書籍『強い力と弱い力』(大栗博司)の導入部分に、気になる話題がありました。
たとえば、ヒッグス粒子が発見された直後には、それが素粒子に与える仕組みを水飴にたとえる説明が見られました。
ヒッグス粒子を、水飴にたとえたそうです。それが、こう続きます。
しかし実のところ、素粒子の研究者の中にヒッグス粒子に水飴のイメージを持っている人はいません。
ヒッグス粒子を水飴にたとえるのは、的外れだということなのです。
ヒッグス粒子によって電子やクォークに質量が生じる仕組みは「水飴がまとわりつく」のとはまったく違います。わかったつもりにさせる上では手っ取り早い説明ですが、残念ながらヒッグス粒子の仕組みを正しく伝えるものではないのです。
明確に、否定を口にされています。それでいて、続く言葉には次のようにあります。
しかし、たとえ話がすべて間違っているわけではありません。
たぶん、たとえ話と説明との関係について、原理のようなものはないのでしょう。良いものも、良くないものもあるわけです。

話題の分かれ目には、聞き手が理解できるかどうかの問題があります。たとえ話と説明についての議論は、理解することに関する考察に帰着していきます。

いつのことでしたか、私は、理解することについて興味を持ちました。理解する、と簡単に口にすることが多いなかで、立ち止まらず、もう少し前進できないものかと思ったのです。

どうも、私には、そういった抽象的な話題をずっと考える性質があります。理解することについても、例外ではなかったようです。
興味を持った刹那など、思い出せないほどに昔のことです。
私の2013年の目標は、理解することとは何なのかを明らかにすることでした。忘れたことはありません。

一年かけて、関連するエントリを書き続けてきました。伏線を張り続けてきたと言ってもよいでしょうか。

以前に、説明と言葉の言い換えについて書きました。
大きな方針として、説明とは、言葉を言い換えていくことです。言い換え続けて、聞き手にちょうど当てはまる表現にどこかでぶつかるように、試していくことです。

論理と呼んでも構いません。

他方で、そうでない領域にも説明は存在します。たとえ話によるものや、代表の事例を掲げるものです。

こちらは、エピソードと呼びましょうか。論理ではないはずです。

私が、一年間にわたって考えてきて、たどり着いたのがここです。
エピソードによる説明と、エピソードによる理解です。

書籍『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト)で、その命題「世界はなぜあるのか」に回答するために、素晴らしい知を持つと紹介される人々が出てきました。あらゆるたとえ話と例示、すなわちエピソードをもとに、自説を説明してくれています。目まぐるしいほどです。
いずれもが異なる思想を表しており、それでいて、いずれも筋が通っています。

いきおい、疑問に行き着くわけです。
エピソードによって何かを示すのは無茶なのではないか、ということです。
取っかかりの説明として良いのは間違いありません。深い理解のためには、エピソードでは力不足になってきます。

おそらく、エピソードは、理解の試金石であっても、説明の銀の弾丸ではないのです。

言葉の送り手は、当人の理解のためと、受け手への説明のためにエピソードを使えます。受け手は、取っかかりの理解のために使えます。
受け手の深い理解のところに、エピソードを容易には使えない領域があるという意味です。

こうして、エピソードで何かを理解することへの不安が、私に生まれてきました。

そして、場面を同じくして、私の2013年の目標に関して、自分なりの進展を見ることができました。

理解することとは、自分がエピソードに依存していないかどうか、問い続けることです。

受け取った説明は、エピソードによるものだったかもしれません。自分が説明しようと言葉を探しても、エピソードしか出てこないかもしれません。
言葉の位相に見つかるものがなくても、エピソードでない何かを探し続けることが、理解することです。

とりとめのない答えに見えるでしょうか。そうだとしたら、私は、読書をお勧めします。
一冊の書籍としての回答を、エピソードでないもので示している本を、私はいくつか読んだことがあります。そういった本から、論がエピソードでない何かの形をとり得ると感じ取ることができます。

そんな論がこの世に存在できると気づけるのは、ひとつ、読書の価値と言ってもいいだろうと思います。
具体の回答を手に入れようとしていて、他の何かを一緒に得られます。回答ではなく、回答というものがどういった様相を呈しているか、学べるわけです。

少なくとも、私は学んだことがあります。そういうエピソードの話です。
本エントリをお読みになった方に、エピソードではない何かの形で深い理解が生まれるのなら、私は大変に嬉しく思います。


終わりに


私の2013年の目標は、理解するとはどういうことか考えることでした。つかみどころがなさそうでも、一年かけて考えると、それなりに納得いく進展が見られるようです。

はじめに書くべきでした。
本年も、どうぞよろしくお願いします。