2014年1月31日金曜日

何かの形の論の弾丸

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何か具体のものを手に入れようとして、それ以外のものも一緒に得られたら、とても便利です。話題を情報のやりとりに限れば、読書などはそうでしょう。
細かいところでは、例示やたとえ話を用いて物事を説明するような状況もそうです。興味深いものがあります。

書籍『強い力と弱い力』(大栗博司)の導入部分に、気になる話題がありました。
たとえば、ヒッグス粒子が発見された直後には、それが素粒子に与える仕組みを水飴にたとえる説明が見られました。
ヒッグス粒子を、水飴にたとえたそうです。それが、こう続きます。
しかし実のところ、素粒子の研究者の中にヒッグス粒子に水飴のイメージを持っている人はいません。
ヒッグス粒子を水飴にたとえるのは、的外れだということなのです。
ヒッグス粒子によって電子やクォークに質量が生じる仕組みは「水飴がまとわりつく」のとはまったく違います。わかったつもりにさせる上では手っ取り早い説明ですが、残念ながらヒッグス粒子の仕組みを正しく伝えるものではないのです。
明確に、否定を口にされています。それでいて、続く言葉には次のようにあります。
しかし、たとえ話がすべて間違っているわけではありません。
たぶん、たとえ話と説明との関係について、原理のようなものはないのでしょう。良いものも、良くないものもあるわけです。

話題の分かれ目には、聞き手が理解できるかどうかの問題があります。たとえ話と説明についての議論は、理解することに関する考察に帰着していきます。

いつのことでしたか、私は、理解することについて興味を持ちました。理解する、と簡単に口にすることが多いなかで、立ち止まらず、もう少し前進できないものかと思ったのです。

どうも、私には、そういった抽象的な話題をずっと考える性質があります。理解することについても、例外ではなかったようです。
興味を持った刹那など、思い出せないほどに昔のことです。
私の2013年の目標は、理解することとは何なのかを明らかにすることでした。忘れたことはありません。

一年かけて、関連するエントリを書き続けてきました。伏線を張り続けてきたと言ってもよいでしょうか。

以前に、説明と言葉の言い換えについて書きました。
大きな方針として、説明とは、言葉を言い換えていくことです。言い換え続けて、聞き手にちょうど当てはまる表現にどこかでぶつかるように、試していくことです。

論理と呼んでも構いません。

他方で、そうでない領域にも説明は存在します。たとえ話によるものや、代表の事例を掲げるものです。

こちらは、エピソードと呼びましょうか。論理ではないはずです。

私が、一年間にわたって考えてきて、たどり着いたのがここです。
エピソードによる説明と、エピソードによる理解です。

書籍『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト)で、その命題「世界はなぜあるのか」に回答するために、素晴らしい知を持つと紹介される人々が出てきました。あらゆるたとえ話と例示、すなわちエピソードをもとに、自説を説明してくれています。目まぐるしいほどです。
いずれもが異なる思想を表しており、それでいて、いずれも筋が通っています。

いきおい、疑問に行き着くわけです。
エピソードによって何かを示すのは無茶なのではないか、ということです。
取っかかりの説明として良いのは間違いありません。深い理解のためには、エピソードでは力不足になってきます。

おそらく、エピソードは、理解の試金石であっても、説明の銀の弾丸ではないのです。

言葉の送り手は、当人の理解のためと、受け手への説明のためにエピソードを使えます。受け手は、取っかかりの理解のために使えます。
受け手の深い理解のところに、エピソードを容易には使えない領域があるという意味です。

こうして、エピソードで何かを理解することへの不安が、私に生まれてきました。

そして、場面を同じくして、私の2013年の目標に関して、自分なりの進展を見ることができました。

理解することとは、自分がエピソードに依存していないかどうか、問い続けることです。

受け取った説明は、エピソードによるものだったかもしれません。自分が説明しようと言葉を探しても、エピソードしか出てこないかもしれません。
言葉の位相に見つかるものがなくても、エピソードでない何かを探し続けることが、理解することです。

とりとめのない答えに見えるでしょうか。そうだとしたら、私は、読書をお勧めします。
一冊の書籍としての回答を、エピソードでないもので示している本を、私はいくつか読んだことがあります。そういった本から、論がエピソードでない何かの形をとり得ると感じ取ることができます。

そんな論がこの世に存在できると気づけるのは、ひとつ、読書の価値と言ってもいいだろうと思います。
具体の回答を手に入れようとしていて、他の何かを一緒に得られます。回答ではなく、回答というものがどういった様相を呈しているか、学べるわけです。

少なくとも、私は学んだことがあります。そういうエピソードの話です。
本エントリをお読みになった方に、エピソードではない何かの形で深い理解が生まれるのなら、私は大変に嬉しく思います。


終わりに


私の2013年の目標は、理解するとはどういうことか考えることでした。つかみどころがなさそうでも、一年かけて考えると、それなりに納得いく進展が見られるようです。

はじめに書くべきでした。
本年も、どうぞよろしくお願いします。