2014年5月24日土曜日

留まるドラマのカタチ

Clip to Evernote
長く、複雑なほうが、優しく感じます。どちらかといえば、その方が私は好きです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 5/5 〜 5/10 今週のまとめ

次のような言葉があります。
どうしても、長さが必要な表現もある。
間違いないような気がします。どうしてそうなのか、解説はいろいろとあることでしょう。
率直には、長い表現の方が手間がかかるものの、優しく感じます。

ブログ「あれやこれやの数学講義」さんで、「数学語り」と題されている企画があります。

あれやこれやの数学講義

いつも、大変に興味深く読ませていただいています。

いくつかの「語り」で、思考の持久力という言葉が使われています。
オリジナルの言葉なのでしょう。少なくとも、私は聞いたことがありませんでした。すなわち、素晴らしいことに、オリジナルの概念だということです。
きっと、数学と、数学を教えることについて長く考え続けてきた先でたどり着いたことと想像します。新しいことがらを、人にわかる形で提出されたわけです。

新しい概念ですので、受け取るほうも慎重に探っていきたいところです。

数学語り060では、二つの言葉が対比されています。習熟と、持久力です。もちろん、いずれも数学の問題を考えようとする場面のことです。

いわく、習熟は、よっこらしょとステップを登らなくてもよいようにすることで、持久力は、よっこらしょと登れる回数を増やすことです。
ステップをたくさん登っても疲れないような力のことを、思考の持久力だと解釈できそうです。

また、数学語り055は、なかなか答えにたどり着けない場面を示しています。
答えを得られないまま、辛いままで、踏ん張って思考を続ける力を、持久力と呼んでおられます。

思考の持久力について、徐々にわかってきました。
たくさんのステップを登っても、なかなかゴールに着かなくても、思考を続けられる力です。
大変に好ましく、身につけたいと思うものです。個人的には、上で少し出てきた習熟よりも好感を覚えます。

いま整理したとおり、思考の持久力を話題にするときの登場人物は二つです。ステップと、ゴールです。
ゴールを意識に留めておきながら、よっこらしょとステップを登ります。

ステップは経験できる実体であり、ゴールは知識のような概念です。

思考の持久力を、次のように呼ぶこともできそうです。すなわち、抽象を保留したまま、具体を根気強く追うことです。
数学を足場にしながら、他の領域にも手が届きそうになってきました。

私たちは、それなりに苦労して日々を生きています。私の好きな日常です。

日常のあらゆる場面で、さまざまなドラマをまっとうします。一方で、日常は変わり映えのないものでもあります。

この二つは相反しているように見えます。
日常のあらゆる場面はドラマの連続なのに、日常は変わり映えしないのです。

いずれにせよ、相反していそうな話題を同時に取り扱いながら考えを進展させていくことは、思考の持久力に該当するでしょう。

日常のあらゆる場面を抽象的に過ごすことは決してできませんが、それでいて、日常というものは抽象的です。
思考の持久力とは、変わり映えのしない日常を意識の片隅で保留したままで、日々直面するドラマを根気強くこなしていくことになります。

優しさについて、私が思っていることと似ています。

私は、優しいというのは、具体的であることを必ず内包していると思っています。優しくあることは具体的であることだ、と言ってもよいかもしれません。
優しさとは、他人の気持ちになれることだと言います。それは、他人のために、具体的なステップを踏む負荷をいとわないことです。自分ではない誰かの人生について、抽象的な単純さを意識の片隅で保留したまま、同時に、数多ある具体のドラマを認めることです。

その意味で、優しさというものは、絶対の正しさとして君臨したりはしないのだと思います。優しいことが具体的であることだからです。
抽象に終始する方が、つまり、優しくない方がよいような場面も、きっとあることでしょう。この気づきは忘れずにいたいものです。

個人的には、どちらかと言えば、優しくある時間を多く取りたいとは思います。

ここまで述べてきたことを受けると、私の表現は次の一行で済むように思えます。

思考の持久力がある人は、優しくいられます。

よく、わからない一行になりました。なるほど、どうしても長さが必要な表現に間違いなかったようです。あるいは、最後に短い表現をするために、長い話を準備しておく必要があったのかもしれません。

長さが必要な表現と、最後に短い表現をするための長い準備とが、まったく等価のものを指しているのかどうかは、難しいところです。

本エントリのはじめに、長さが必要な表現もある、という言葉との出会いを書きました。私はそれを、間違いなさそうだと感じています。そのときの印象からしても、短い表現のための準備とは、違うもののような気がします。

長さが必要な表現は、思考の持久力と、意図を同じくしているように感じます。対して、最後に短い表現をするための長い準備は、習熟でしょうか。
いずれにせよ、長く、複雑です。思考の持久力が活躍しそうなところです。

CooRieさんの楽曲「センチメンタル」に、私の大好きな言葉があります。ご紹介します。
複雑は「好き」のカタチね
長いほうが、優しいです。
優しいと、複雑です。
複雑は、好きのカタチです。


終わりに


日常というものは変わり映えしないけれど、同時に日常のあらゆる場面はドラマの連続であるという着想は、次の記事によったものです。ご紹介しておきます。

長期の仕事は薄氷を踏むようにして進んでいく | ライフハック心理学

大変に衝撃を受けた記事です。

2014年5月3日土曜日

詮の無い、近未来

Clip to Evernote
複雑なこの世界の様子に思いを馳せるためには、教養が要ります。基本的に、教養は身につけるようにしたいと思っています。

自由な市民でありたいからです。

複雑な世界と書きました。
この世界は複雑である、といった言説を目にすることがあります。複雑だから、答えがいくつもありえたり、どちらとも言えなかったりするようです。

最近、気になっていることです。
本当に、世界は複雑なのでしょうか。どのあたりが複雑なのでしょうか。

私としては、世界は複雑であると、そんなに単純に断言してしまいたくありません。世界の複雑さにかまけて、思考を止めてしまっています。
いろいろと考察したうえで、注意深く、複雑さを了解したいのです。

世界なるものについて決めましょう。
ここでは、ある主体が、見たり、聞いたり、考えたり、といった個人的な認識を世界とさせてください。
空間にある物理的な事柄のすべて、などとしても構いませんが、それだと、私たちが普通には認識できない、あまり切実でない話題も含まれてしまいます。時空が膨張したり、水星の軌道が正しく観測できたりすることは、それほど切実ではないのです。GPSの精度が良くなるくらいのものです。

主体が世界を認識する経路は、ほんのいくつかあるだけです。視覚、味覚、触覚などです。この意味では、世界は複雑ではありません。

生物学の知識から、各々の感覚がそれほど多様でないこともわかっています。
視覚なら、色は赤と緑と青の三種類しかありません。味覚は五種類です。触覚は、皮膚感覚の仲間のひとつで、他には痛覚、温覚、冷覚、痒覚くらいしかありません。ちなみに嗅覚は四百種類くらいですが、それでも数え上げられる程度です。
もう少し他の例を挙げれば、DNAを特徴づける塩基はたった四種類しかありませんし、考えることは電気信号が発火するかしないかだけの問題です。

ここまでのところに、世界が複雑であると言い切れるようなものはありませんでした。それぞれを観察する限り、単純なのです。

とはいえ、私たちはいろいろな経路について、ひとつだけを選んだりはしません。赤色だけ、苦味だけを採用して、世界を認識することは決してないはずです。

したがって、世界が複雑になるのは、いくつかの経路の組み合わせのバリエーションを考えたときです。
基本的な要素が限られていながらも、それらの順列の状態数が多くなるのが複雑なのです。

すると、世界を複雑だと思う人は、少なくとも次の問いに答える必要が出てきます。
すなわち、基本の要素は限られていて、ただバリエーションが多いだけのものを、複雑と呼んでいいのでしょうか、という問いです。

私が学んだことのある情報工学という学問には、計算論という分野があります。
実は、計算論の知識がある人にとって、先の問いへの答えは明らかです。

要素が単純でただ組み合わせの数が多いだけのものは、少しのわだかまりもなく複雑です。
計算論を見れば、バリエーションが多いことがどれほど手に負えないか、実感できます。オーダとか多項式時間といった言葉は、そのために存在しているのです。

学ぶということは、自分の概念を増やして、心を豊かにすることです。それまでになかった直感を身につけることです。

以上のような紆余曲折を経て、世界は複雑であると、私は直感します。
(この意味では、計算論を学んだことのない人が、世界の複雑さをどのようにとらえているのか興味があります。)

情報工学といえば、よく、ソフトウェアを作るということが人類にとって困難だと言われます。述べてきたような複雑さを前提にしていることが多いようで、私も同意するところであります。
このあたりを誤解のないように書くのは大変です。さしあたって、ハードウェアよりソフトウェアの方が複雑だから、とさせてください。
ハードウェアは発展していくのにひきかえ、ソフトウェアはいつまでもある程度のところにとどまってしまいます。

いま、近未来のAIのようなものを考えます。何でも構いません。近未来らしいものをご想像ください。ドラえもんでよいです。
近未来というのは、なぜなのか、ずっと近未来のままのようです。少し、実現していく様子に思いを馳せてみましょう。

ハードウェアに関しては、まず間違いなく実現できると思います。実現という言葉があやふやであるものの、これまでのハードウェアの発展の歴史を考えると、実現できないと考える方に不自然さがあります。
他方で、おそらく、ソフトウェアの方は実現できません。人類には難しすぎるためです。
ネコ型ロボットのハードウェアが作れるようになっても、ソフトウェアの方がボトルネックになって、ドラえもんは誕生できないと、私は思うのです。

ただし、ここでは、ソフトウェアという言葉に制約をつけて用いています。
ソフトウェアなるものが、現代の私たちが想像するような、間違いなく動作するものを指しているというものです。

ATMでお金をおろせること、車に乗れること、病院にかかれることなど、あらゆるところで、ソフトウェアは何事もなく動くことを期待されます。

それは、何かあったら、直せる人と責任をとれる人がいるということです。
そしてこのとき、近未来のAIを作ることはできません。

そうでないときなら、もしかすると、作れるかもしれません。
単純な要素から複雑なものを作り出す考え方なら、すでに存在しているためです。近未来のAIに応用できることもあるはずです。
たとえば、一からすべて作るのが人類には難しすぎるなら、単純な要素から勝手にできあがっていくようにすればよいのです。

何か、直感に反する手続きを使おうということです。
そうして、近未来のAIが無事に完成したとします。もう、人類の手には負えなくなりました。誰も複雑な構造を理解できないままに、出来上がってしまっているわけです。何かあっても直せませんし、誰にも責任がとれません。

次の課題が浮かんできたようです。

人類の手に負えないものを、私たちは作ってもよいのでしょうか。または、人類の手に負えなくても構わないような用途があるでしょうか。

私の抱く教養が、限界を迎えるときです。

誰にも責任をとれないものについて議論するには、民法と判例の知識が要ります。今までにない製品の用途を提案するのは、マーケティングや経営学の知識です。

本エントリの冒頭で、ある主体が認識するものを世界と決めました。この主体に、近未来のAIは含まれるのでしょうか。答えによっては、世界の様相が変わってしまいます。
哲学と生物学の知識です。

さらにいうなら、様々なややこしい事情を乗り越えてまで、人間は、近未来のAIなど作ろうとするものでしょうか。
心理学の知識です。

私の語りえない領域に、話が進展してしまいました。無理に語ろうとしても詮の無いことです。

自分に教養がないことを、大変に悲しく思います。輝かしい近未来に、思いを馳せることができないのです。

私は存じ上げませんが、きっと、このあたりのことを議論している方はどこかにおられるでしょう。機械工学、情報工学、ソフトウェア工学、民法、マーケティング、経営学、哲学、生物学、心理学の知識を合わせ持った方と想像します。

私はまだまだ修行が足りませんでした。

こうした教養をもって議論するというのは、自由な市民として生きることなのかもしれません。


終わりに


本文中では大したことでないように書きましたが、水星の軌道が正しく観測できたり、GPSの精度が良くなるのは、大変に素晴らしいことです。
言葉の綾でした。

それから、すぐ上で、修行が足りないとも書きました。これも言葉の綾です。
教養を身につけようとすることが修行なのかどうか、議論の余地があるためです。