2015年4月29日水曜日

領域、異界、怪奇言うより

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差異を認めないような姿勢を採ることが、私には多くあります。
奇怪な解釈と実体験が積み上がるのを恐れます。話がややこしくなるためです。

本の世界を見て生きることが多い私です。できれば、本の世界が外のそれに引けを取らない方が、嬉しいものです。
一冊の本が持つ世界が広いことは、読書を好む人にとっては明らかです。外の世界を歩き回らなくとも、本の世界は十分に豊かなのです。

視野が広いということがあります。
いくつかの領域を横断して物事を考えることを指示するようです。異界のものをつなぎ合わせます。

やや、釈然としないものを感じるところです。何かを考えるときに、視野が広かったり、狭かったりすることがあるのでしょうか。

領域の分け方は、いつも、さして自明ではないはずです。どこかで無理に作った領域を採用した時点で、視野の広さをうまく測ることはできません。いきおい、視野が広い人、狭い人というものも決められません。

視野が広いとは、そのように領域を決めたということです。恣意です。狭いというのも同じです。
議論としては、視野の広さとは、どのように領域を分割するかに終着します。

観測すること、考えること、読みとること、といったことを人が意識的に動作させられない以上、視野の広さなどというものに個人差があると考えるのは不自然です。

視野の広さや考えの深さといったものに、個人差はありません。私の基本的な思想の一つです。
少なくとも、ないと考えておく方が便利です。支障もないようです。無理に奇怪な姿勢を採ることはないはずです。

ドラッカーが『マネジメント』で述べたことを思い出します。
トップマネジメントが事業とその現実の姿、そこに働く人、経営環境、顧客、技術を自らの目で見、知り、理解することができなくなり、報告、数字、データなど抽象的なものに依存するようになったとき、組織は複雑になりすぎ、マネジメントできなくなったと考えてよい。
二種類の立場の人が登場しました。

私がここで主張したいのは、報告、数字、データを見るトップマネジメントの人と、現実の姿を見る働く人とでは、視野の広さや考えの深さに差異はないということです。誰もが同じだけの複雑さを、観測し、考え、読みとっています。

個人差が生まれるのは、考えが挙動する方向といいますか、そのようなものです。指向のことです。
環境からのフィードバックが基礎になるためでしょう。

挙動した方向が偏っていても、そうでなくても、観測と思考の尊さは変わりません。偏っていること自体には、善し悪しはないはずなのです。
それに、偏っていることは、実体験に近く、直接的だということでもあります。

『サウンド&レコーディング・マガジン』(2015年2月号)のコラム「THE CHOICE IS YOURS」(原雅明)に、次のような言葉がありました。
ジャンルを意識し、歴史を追いかけて、音楽を系統立てて聴くことよりも、同時代に全く違う場所で鳴り響いている音楽を勝手に見出してつなげて聴くことこそがリスナーの特権だと思って、僕は音楽を聴いてきた。
同時代の熱量を実体験して音楽を聴くことは、すなわち、音楽への偏った理解です。

一方で、書籍『昭和天皇』(古川隆久)には、次のようにあります。
幸いなことに、昭和天皇没後二十年が過ぎ、生誕百十年を迎えようという今、昭和天皇のさまざまな時期、さまざまな側面についての史料や研究がひと通り出揃い、昭和天皇の生涯全体について冷静に考えることができる状況になってきた。
時間をかけて通観、総括され、史として整理された結果を観測することは、なるほど、偏りのない理解への漸近であるようにも思えます。

偏っていても、いなくても、考えることの尊さは変わりません。直面する情報の複雑さにも、視野の広さにも違いはありません。

書籍『書評記事の書き方』(倉下忠憲)には、次のような一節がありました。
言い換えれば、「一冊の本」よりも大きい世界に触れる感覚が論評にはあるはずです。
一冊の本に向ける視点と、外の世界を含んだ視点とを比べています。論評なるものでは、外の広い世界を見ているとのことです。

前提がひとつ隠れているようです。
外の世界と一冊の本の世界とでは、前者の方が大きいことです。一冊の本から視点をはずして外を見ることは、より広い世界を見ることであるわけです。

気になるところです。
外の世界と一冊の本の世界とでは、外の世界の方が広いのでしょうか。

本の世界に広さがあるのなら、それは、情報の量によって測られるものに違いありません。情報の量とは、読者が読みとるものです。観測する者があって、はじめて立ち上がってくるものです。

外の世界についても同様でしょう。読みとることのできる情報の量が、すなわち、世界の広さになります。豊かさになります。
観測者が読みとる情報の量が、その世界の広さを決めるとします。そして、読みとる情報の量に個人差はないものと、私は思っているのでした。

本の世界と、外の世界とで、広さに違いはないということになります。領域の切り方があるだけです。
本を好きな方に偏っていると思しき私の思考にしては、偏りのない結論に至りました。ややこしくならずに済みました。

外の世界を歩き回る必要がないほど、本の世界は広いものでした。
同時に、本を読む必要がないほどに、外の世界は豊かなのです。

どちらも、めいっぱいの観測です。 大変に素晴らしいことでしょう。


終わりに


私が、解釈と実体験とを、あまり信じていないということです。
奇怪は言い過ぎたかもしれません。とはいえ、怪奇と言うよりは、奇怪の方がよいでしょう。

回文の話でした。
私がこれまでに最も感動した回文をご紹介して、本エントリを終わります。
森博嗣さんの小説『虚空の逆マトリクス』で出会ったものです。
白雪の 屋根やお屋根や 軒揺らし
綺麗です。