2016年12月31日土曜日

three albums of the year (2016版)

Clip to Evernote
自分で自分のことを知るのは、難しいものです。自分もまた他人だからでしょう。

私は、自分が、音楽と読書を好きかどうか、定かではありません。
他方で、音楽好きと、読書好きとして、日々を生きることに決めています。

音楽も、読書も、大変に深い世界を湛えています。自分の本当に好きなものを探求するよりも、ずっと、興味深い世界です。

自分の本当に好きなもの、などというものが、私には、あまり興味深く思えないこともあります。

過去を顧みることも、未来を展望することも、自然と、少なくなります。音楽好きである、読書好きである、というのは、繰り返す日々の総称であるためです。
固定の性質を描写するものではないのです。

年末に感慨はありませんが、習慣があります。

2016年にも、たくさんの素晴らしい音楽に出会いました。経験上、一年に一度くらいで、良かった音楽アルバムを三枚ほど選ぶようにすると、ちょうど、よいコレクションができるようです。

二十枚、三十枚と、選ぶこともできます。
その中で、納得いく三枚だけを選ぶことには、知性の存在を感じます。人間が、何かに取って代わられることのない領域です。知性によるコレクションです。

何の話かといいますと、私は毎年、その年でよかった音楽アルバムを、三枚選ぶことにしているのです。

さっそく、始めます。



『Collapse』 / Seiho

2016年の、大きな出会いの一枚です。本当に、私が出会ったことのなかった音楽です。音楽も、私の感覚も、間違いなく変化していることを知らしめてくれました。きっと、よい変化です。

私の感覚はさておき、音楽も、変化しているのです。音楽好きであることを、止められないわけです。

Seihoさんの音楽を、才能と呼ぶのは容易でしょう。私は、思想と呼びたいと思います。



『The Odyssey』 / Aybee

私の好きな音楽です。好きだと思っているのに、近年、出会うことのなかった音楽です。
空間を占める雰囲気と、手の込んでいるところがよいです。

手が込んでいて、音符の順列組み合わせではできていない音楽に、私は惹かれます。



『ULTRA』 / SCHAFT

インダストリアルという表現を、最近、耳にしなくなったような気がします。気のせいでしょうか。

インダストリアルな一枚です。
格好良いハードロックであると、私が、呼びたいものです。

それでいて、ハードロックよりもインダストリアルなところが、格好良いところです。
私が、自分が好きだと知らなかった音楽です。


終わりに


2016年には、いくつか、印象に残る出来事がありました。冨田勲さん、川島道行さん(BOOM BOOM SATELLITES)、森岡賢さん(minus(-)、SOFT BALLET)、のことです。
過去を振り返らずにいては、もう、この方々の音楽を聴くことができないように、思います。

少し考えて、違ったことに気づきました。

この方々が作り上げた音楽があります。作品です。
作品は、私の手元にあります。私が、私の感覚で聴いて、構わないものです。

私の日常のためのものです。過去に閉じ込めることはないのです。作品を完成させて、残すというのは、すごいことです。
言葉にならないほどの、圧倒的な気づきでした。

私は日常が好きです。

こちらは、私が、何度も何度も紹介させていただいている記事です。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

この文章をお読みの方も、そうでない方も、それから、私と関わりのあった方も、そうでない方も、皆さま、私の好きな日常を少しずつ支えてくださり、ありがとうございました。

皆さまのおかげで、私の好きな日常があります。

これからも、よろしくお願いいたします。

2016年12月25日日曜日

2016年の<びっくら本> #mybooks2016

Clip to Evernote
本を紹介するというのは、よいものです。特に、リストになっていて、読んだ人の言葉が添えられていると、よりよいです。

本はたくさんあるからです。

読みたい本を、すべて読むことはできません。買うこともできません。自明なようで、しかし、この事実に、本当に直面したことがあるかどうかは、ひとつのターニング・ポイントといえます。
家にある本、実際に読む本とは別に、読みたい本の管理をするというのは、小さなことではありません。

何の憂いもなく、読みたい本のリストを眺めるのは、気分のよいものです。リストに載る読みたい本は、多ければ多いほどよいでしょう。行動に直結するものでなくてよいためです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 【企画】2016年の<びっくら本>を募集します #mybooks2016

本を紹介するというのは、よいものです。本はたくさんあるからです。
私も、十冊の本を選んでみます。



『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス)

生物にとって、利己的な遺伝子の支配が強いのだという気づきは、発想の素晴らしさによるものといえます。
一方で、よいものを、単なる発想の素晴らしさに還元したくない気持ちが、私には、いつもあります。

積み重ねた説明も、例示も、きっと大切です。説明や例示が、また、発想に影響を与えます。影響された発想は、また、新しい説明と例示を必要とします。

素晴らしい発想というのは、単なる素晴らしい発想として記述できるものはないはずです。私は信じています。

私が思う、『利己的な遺伝子』のことです。

人間の叡智が、想定よりも大したものではなかったと、明らかになるところには、いつも、感動があります。畏敬というべきでしょうか。



『数学ガール/ガロア理論』(結城 浩)

群、体、それからガロア理論には、新しい数学という雰囲気があり、どきどきします。独特の雰囲気です。
以前の時代にまるで存在しなかったもの、ではありません。似た考え方はありました。《二つの世界が接するときは、いつもうれしい》ものです。

彼の数学を真剣に追いかけていると、涙なしには読めない本です。



『知的トレーニングの技術』(花村 太郎)

たとえば、考えること、学ぶことを続ける人生であろうと、私たちは、志すことがあります。知的生産と呼んでもよいかもしれません。
考えること、学ぶこと、とは、ひとつの方針です。人間は、抽象的に行動することはできません。私はボトムアップを信じるので、はじめから抽象的に考えることもできません。

ボトムアップな私のための本です。
そして、私たちの大切な志のための本です。



『アウトライナー実践入門』(Tak.)

様々な場面で、生きる勇気をもらう、という表現に出会うことがあります。素晴らしいことです。私にも経験があったかもしれません。
勇気がなくても、自然に、平然と生きられるのも、またよいことです。様々な生き方があります。

私は、『アウトライナー実践入門』から、考える勇気をもらいました。生きる勇気に似ているものでしょうか。
考えながら書いても、書きながら考えても、よいのです。他人のために、伝わるように書いてみて、はじめて考えられることがあります。自分もまた他人だからです。

トップダウンとボトムアップの繰り返しで、生まれるものがあります。
まるで、何かのようです。



『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール)

2016年、私が新たに至った思想のひとつに、コレクションについてがあります。自分が本当に納得のいくものを、ひとまとめにして、集めるということです。

自分だけの基準で集められたコレクションです。
説明のつかないものです。時間をかけたものです。知性ある人類にしか、成しえないことです。

コレクションと知性について、思いを馳せることになった本です。



『物書きがコンピュータに出会うとき』(奥出 直人)

困惑するほどに壮大な世界が、文章を書くことには、内包されています。私が、読者として目にする文章の背後には、試行錯誤がありました。

文章を書くのは、どうして、かように大変なことなのでしょうか。

それでいて、『物書きがコンピュータに出会うとき』は、文章を書くことが大変でよかったと、感じられる本です。文章を簡単に書けてしまう人にはたどり着かないような、楽しさがあります。



『エリック・ホッファー自伝―構想された真実』(エリック・ホッファー)

エリック・ホッファーの言葉は、私に、妙に共鳴するところがあります。
人が、技術を身につけることについてです。言葉にならない深層に、機械では代替できない、大切なことがあります。

他人の仕事を総括するのではなく、自分で手を動かすことを指向する方には、私と同じ共鳴があると、想像します。



『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)

文学は、世界と、世界の終わりを描くことができます。言葉にならない感慨を描くことができます。
心とか、神秘ではなくて、単に、言葉にならないということです。不思議なもので、文学にしか果たすことのできない機能があります。

妙な文章になりました。当然のことながら、手記です。



『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン)

それまで気づかなかったことに、気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。発見することの感動は、いつも、非論理的で、綺麗なものです。数学は、気づくことの綺麗さを、シャープに見せてくれる例です。

数学のような世界でも、論理の最果てには、跳躍のドラマがあります。積み重ねた論理も、最果ての跳躍も、どちらも美しいものです。

跳躍のドラマに、人間が、感動するようになっているというのは、不思議なことです。
私は、不思議さを解き明かす、真に驚くべき説明を持っていますが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできません。



『幸福論』(アラン)

私が2016年に到達した、大切な思想が、もう一つありました。
人が考えることは、体調や、姿勢や、環境が、かなりの部分を決定しています。私にとって、素晴らしい気づきでした。人類の叡智は、思ったよりも、大したことはなかったのです。感動します。

人の心に、過剰な神秘を感じることはありません。肥大した意味に、押しつぶされることはありません。私の幸福論です。


終わりに


今年も、多くの素晴らしい本に出会うことができました。
十冊のリストに選ばれなかった本も、たくさんあります。

選ばなかった本の存在が、十冊のリストを、豊かにしているような気がします。豊かになっていれば、嬉しいです。

本はたくさんあるからです。

2016年12月4日日曜日

「かーそる」2016年11月号

Clip to Evernote
とても好きな言葉があります。シンプルな言葉です。

「青は藍より出でて藍より青し」

青のほうが優れているというのは、大変に素晴らしいことです。ひとえに、青の努力のたまものです。

ただ、優れていることが、何を示しているのか、少し気になるところです。明示されてはいません。藍が劣っていることもないはずです。

藍の青さと、青の青さは、違った種類のものなのでしょう。青が藍より青いことは、巨人の肩に乗ることと、似ているように思います。

違った種類のものであろうとしたところが、青の努力です。
階層を上がろうとすることです。すなわち、考えるということです。

藍の努力は、青に、考えることのバトンを手渡したことでしょう。さもなければ、青は、青くならなかったはずです。

新しい雑誌が創刊されました。「かーそる」です。

「かーそる」2016年11月号 [創刊号] – Project:かーそる

素晴らしい雑誌が完成したと思います。
私は、ひとつだけ、ずっと続く雑誌になることを、願いました。

私たちが手渡されてきた、幾億のバトンから、新しい青を作り上げようとする雑誌です。
藍の努力に敬意を表します。

藍より出でて、藍より青い雑誌を。
そして、手にとっていただいた方々の、次の藍になる雑誌を。

目指して進んでいきたい、というのは、私の勝手な想像でした。

本当のところは、ずっと続く雑誌であってほしいということが、私の唯一の願いです。


終わりに


こちらの文章がオリジナルです。

創刊にあたって – Project:かーそる

2016年11月3日木曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2016

Clip to Evernote
書籍『アウトライナー実践入門』(Tak.)に、心に残る話題がありました。「思考を強制する「流動的なツリー」」と名付けられた節です。

アウトライナーの中では、とある記述は、一つの分類の下にしか、存在できません。いわゆる「こうもり問題」です。
分類「A」と「B」を想定します。
確かにアウトライン上では、ある記述は「A」と「B」にしか分類できません。
続く一節で、著者のTak.さんは、単なる「こうもり問題」の先を行く概念を提示されます。
しかしアウトライナーに入っている限り、それはある記述が「A」と「B」のどちらに含まれるべきかという思考プロセスの、最新のスナップショットにすぎません。
最新のスナップショットにすぎない、とは、大変に胸を打つ一節です。

スナップショットを撮る行為は、毎回、変化のないものです。変化のないことを、繰り返そうとしています。一方で、スナップショットされた中身は、毎回、変わっていきます。スナップショットがなければ、気づくことがなかったのかもしれません。

変わらないことを繰り返していると、変わっていることに気づくわけです。

例えば、雑誌という媒体の価値は、このようなところにあると、私は考えています。
継続して雑誌を買っていると、過去に発売された号が、それぞれの世相のいちばん先端にカーソルを当てて、スナップショットを撮っていることに、気づきます。誰かによって総括され、史として語られる前の情報です。

継続してブログを書くことも、ひょっとすると、同じかもしれません。スナップショットです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
今年も、たくさんの変化があることに気づきます。

さっそく、始めます。

***

yayoko314 | ShortNote(ショートノート)

私はよく存じ上げませんが、ShortNoteというプラットフォームがあるようです。

言葉にならないほど、具象で、楽しいブログです。
主観が乗り移るような体験が、私は、あまりない方だと思うのですが、このブログを読むと、何となく、感じたりします。

***

Honkure – 本を読めば日が暮れる、本を書けば日が昇る。

独特の趣向で、本を並べようとしています。興味深い試みです。
本が増えていくのを、楽しみにしています。私も本が好きだからです。

***

Kyri*ate

長く、ブログで文章を書き続けていらっしゃる方のようです。私は、近年に読み始めました。
ディスプレイとキーボードでも、ノートブックとペンでも、書くことが好きな方であると、見受けられます。

書くことが好きな方が、書くことには、不思議な感動があります。

***

gofujita notes

ブログに変更はないようですが、URLが、以前と変わっています。

身の回りの、近くにある大切なことを、教えてもらっています。
できることなら、私が、文学的であると表現したいブログです。

***

iPhoneと本と数学となんやかんやと – あなたになんやかんやな、なんやかんやを

こちらはブログが新しくなっています。移転の作業は、楽ではなかったと推察します。おめでとうございます。

考えたことと、やってみたことで満ちているブログです。
どちらかなら、よくあります。両方は、なかなかありません。

***

Notebookers.jp | How many miles to Notebookers.jp? | by せら

ブログ、そのもののご紹介ではありません。Notebookers.jp というwebサイトのライタ、せらさんの記事です。

繰り返すスナップショットで変化に気づく、ようなことが、せらさんもお好きだと、勝手に想像しています。

***

Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

私にとっては、考えごとをするための手順というのが、結構、重要なニーズでした。

***

R-style

真ん中の歩き方を学んでいます。

***

delaymania

読むと、元気になるブログです。

私はあまり、元気をもらうことや、気分転換といったものを、信じていません。
それでも、読むと、元気になるブログです。

どのカテゴリの記事も、欠かさず読んでいます。
バンドのライブレポートと、食べたもののレポートが、特に好きです。


終わりに


以上、スナップショットでした。

とはいえ、一生懸命に書いている最中には、スナップショットであることを意識しないものです。
それもまた、大切な要素かもしれません。

2016年8月27日土曜日

コレクションなら私に任せて

Clip to Evernote
自分で統制した情報の中で生活していると、劇的な体験をパッケージにして、手渡されることが少なくなります。何かをコレクションするのが楽しい、という感覚と似ています。
安心して、考えることに体力を費やしてよいと、認識できるようになります。錯覚できる、ということかもしれません。認識も、錯覚も、人間が行う価値のあることです。

森博嗣さんの小説『風は青海を渡るのか?』で出会った言葉です。
認識も、錯覚も、機能としては本来、同じものだよ。
人間らしい、と呼ばれる機能なのだと思います。

こちらの記事を読みました。

考えることの質が上がらないことの苦悩 - ならずものになろう

教育について、考え続けておられる方のようです。国語の先生とのことです。子供たちの考える力について、よい授業のありかたについて、たくさんのことを書かれています。

なんと言いますか、胸を打たれる記事だと、私は感じました。
世の中には、こんなに大切な問題を考えている人がいるのです。

目指しているのは、それでいて、考えることにとどまらず、実践することです。
実践というのは、考えが完成するのを待ってはくれません。記事でも、まだまだ、わからないことだらけであると、述べられています。解決しないままで、悩みを抱いたままで、日々の実践に挑んでいかなければなりません。

私は、私が考えていることが世界で一番大切であると、普段は、思っています。当然のことでしょう。
実際には、こんなに大切な問題を考えている人が、世の中にいました。本当は、もっと数え切れないくらいの人が、大切な問題を考えていることでしょう。実践のための、大切な問いです。

あまつさえ、問いには答えが出ないままに、日々の実践にもぶつかります。大変で、大切な実践です。考えていても、いなくても、日常は困難です。

おそらく、教えるということの関連だと思うのですが、別の記事を読むこととなりました。

R-style » バトンが渡るということ

授業を行う、教師の方のお話です。
ポイントは、現在は教師である人にも、いつかの過去に、自分が生徒だった時期があることです。
彼は、自分が授業を行う姿を映像で見たとき、そこに恩師の先生方の姿を認めたそうです。
自分が教える姿は、教わった人たちを彷彿とさせるものでした。

教師からは、勉強の内容に加えて、教えるということ、そのものも学んでいるという話に、記事はつながっていきます。納得のいく話です。
教えるということの全体の姿について、人が教えている様子から、まるごと学びとるわけです。

記事ではそれを、バトンが渡る、と呼んでいます。
そして、その生徒は、自分を教える教師から__授業の内容に加えて__誰かに「教える」ということを学びます。それも体験的に学びます。
バトンが渡る、とは、とてもよい表現です。
すなわち、体験的に学ぶことです。すぐ上で、私は、まるごと学ぶ、と表現してみました。

はじめにご紹介した記事「考えることの質が上がらないことの苦悩」に戻りましょう。

次のように述べられています。
長くなり、恐縮ですが、引用いたします。
しかし、一方で感じることとして、責任転嫁にならないように十分に注意して考えなければならなことだけど、子どもたちのほうに「考えること」に対する欲求の弱さ……というか、考え続けることがしんどいと感じている生徒が少なからずいることは感じる。
生徒が悪いといいたいのではなく、「考えるために必要な体力」というものが、どうやって身につけたらいいのだろう、考えるための体力とは何なんだろうということが、疑問として浮かんでくる。
考えることに対する欲求の弱さ、とあります。考えるために必要な体力、とあります。

考える体力というものについて、伝えることが難しいのは、教育の立場にない私にも、想像がつきます。

自分で、体力を費やして何かを考えて、素晴らしい結論にいたるということを、子供たちは、経験しにくいものでしょう。人から教わって到達する結論の方が、間違いなく、はるかに劇的に感じられるためです。
先生にも、クラスメイトにも、様々な人がいます。様々なことを教わります。外界は刺激に満ちています。

学校というのは、なるほど、劇的な体験をパッケージにして、効率よく、渡してもらえる場所なのかもしれません。何かを学ぶための場所として、正しい姿であろうと、私は感じます。

もう一つあります。
考えることは、無意識のもとで挙動するところが、多分にあります。一方の教わることは、他人がいることですので、無意識に起こることはありません。
新たな知識を得たときに、無意識で考えた結果と、教わった結果とを比べれば、後者の方が、強烈な体験として記憶されるのは、無理からぬことです。思い出しやすい情報は、頻繁に発生している、重要なことだと、勘違いされます。

以上のように、考えることと、教わることとを比べると、教わることの方に、より親しみやすくなるわけです。各々の性質によるものであり、避けられません。
考えることの体力について、伝えるのは難しいようです。

それでいて、考えることは、体力のかかることであり、大切なことであると、自分で気づくのも、難しいものでしょう。外から教えられる必要があります。私も、本当に気づいたのは、つい最近のことかもしれません。

経験が要ります。意識的に考えて、自分なりの素晴らしい結論にいたる、経験です。

経験しなければならない、というのは、簡潔に記述できない、という意味です。
よい言葉に出会いました。森博嗣さんの小説『χの悲劇』からです。
変な感触だったら知らせて、と指示した。こういう指示はプログラムでは異様に難しくなってしまうので、人に任せる意味がある。
簡潔に記述できないことは、問題に、人の取り組む意味があることを示します。

考える体力について、伝えることの話でした。
有名な背反があります。

考えて、何かの結論に至ることは、体力を費やす必要のある、大変なことです。
その苦労がよいことである、という納得がないのに、納得するためには、苦労して、体力を費やして考える経験が要るのです。

論理が込み入っており、恐縮です。

少なくとも一度は、騙されなくてはいけないわけです。理由もわからず、苦労の道を歩くのです。私はこのことを、形式を通過する必要がある、と呼ぶことにしています。
楽しくもないことを、一度は、楽しいからと騙されて、我慢しなければなりません。

同じ図式は、日常のあらゆる場面に登場してくるように思います。いずれの場面でも、この困難さは厄介です。

解決策を考えます。

少なくとも、本を読むことでは、解決は難しいかと思います。
本というのは、一冊で、一つの文脈を成すことが求められます。一つの体系です。断片ではなく、体系を成立させることができるのが、本のよいところです。

いま、問題にしていることの場合、その、本の特徴があだとなります。本が、一つの文脈を成すということは、本の中に、通過しなければいけない形式があるということです。
読了が、文脈の完成するゴールだとするなら、そこに至るまでの読書は、いつか文脈が完成すると、騙されるか、信じるか、しなければなりません。

私は、何度も本を読んでいますので、ゴールを信じて、過程も楽しむことができます。そうでない人は、騙されて、苦労するしかありません。形式を通過する必要があるのです。

本、あるいは文脈の性質からして、どうしても避けられないことです。
本は文脈を届けることのできる素晴らしいメディアですが、同時に、形式を通過する苦労も強いるのです。

バトンを渡すことが、思い起こされます。

考えている姿をまるごと示すことが、考える体力を教える、有力な手段になるのかもしれません。バトンを渡すのです。
考える体力のことを、シンプルに記述して、コミュニケーションをとるのは困難です。体力を費やして考えている様子を、まるごと学びとってもらうわけです。

手段とは、もはや、言い難いものです。姿勢のようなものでしょう。考える姿を示すということに、これといった行動は思いつきません。

それでも、普段から、考えることを大切にしている人たちであれば、各々に、その回答を抱いているようにも思います。認識しています。錯覚もしています。
認識も錯覚も、機能としては本来、同じものです。きっと、人間に価値のある機能です。

こうした様子は、論理的に厳密に書こうとすると、異様に難しくなってしまいます。人間に任せる意味があるということです。


終わりに


本文中、「バトンが渡るということ」の記事をご紹介するところで、「おそらく、教えるということの関連だと思うのですが」と書きました。

含みのある書き方なのは、「考えることの質が上がらないことの苦悩」を読んでいたところ、Evernoteの「関連するノート」の機能によって、「バトンが渡るということ」が提示されたためです。

ちょっと、これはすごいことです。
繰り返しますが、「考えることの質が上がらないことの苦悩」を読んでいて、「バトンが渡るということ」が提示されたのです。

人間に任せる価値のないことなのかもしれません。
私は、何かをコレクションするのが楽しい、という感覚を、大切にしようと思います。

2016年5月5日木曜日

懐古の海鮮和食定食

Clip to Evernote
どうも、私は、原則に忠実なきらいがあります。素材の味を活かした単純さよりも、何だかわからない複雑さに惹かれます。
昨今の賢い人は、単純さの方を、シンプルな、スマートな、などと、もてはやしたりするのかもしれません。

こちらの記事を読みました。

シャープソーンのマリオ | gofujita notes

素晴らしい記事に出会いました。生きるために時間を過ごしている人がいることには、何とも言えない感動があります。
その小さな町にある小さなカフェでは、地元の農家の人たちだけじゃなく、生きることを求めて何かをしたいイタリアやドイツで育った人たちが、生きるために時間を過ごしているのだ。
生きるために時間を過ごすことにかけては、誰にも負けていないと、私は思っていました。実際のところは、誰もが同じくらい、生きるために時間を過ごしているのでしょう。
そして、宿への帰り道、丸っこいチンクエチェントの窓から片手こぶし出して叫びたくなるくらい、嬉しくなった。
楽しさというのは、自分の中から見出される、個人的なものです。私は、楽しさが、抽象的なもので、本当によかったと思っています。

夢庵という、ファミリーレストランをご存じでしょうか。一般的な知識を持ち合わせていませんが、おそらく、広く日本にあるお店だろうと思います。

私は、夢庵が好きです。近所の、容易にたどり着ける距離にお店がないため、頻繁に通うことはできません。好き、よりも、よい印象を持っている、というほうがよいのでしょう。
近所にお店がないことから、夢庵に向かうときには、車を借りることになります。電車では行きにくい場所です。夢庵での食事は、我が家の一大イベントなのです。

電車といえば、こちらの記事を読みました。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

素晴らしい記事です。
お母さんと電車に乗っていた、5~6歳くらいの少年の話です。
子「この電車、はやくなるのがはやいね」
母「はやくなるのがはやい?」
子「うん、はやくなるのがはやい」
少年は、自分が乗っている電車が、はやくなるのがはやい、ことに気づきました。運動する座標系の中に観測者がいるとき、なるほど、体感できるのは加速度です。速度ではありません。厳密さに適った表現を採用できる少年です。

記事の著者さんによる説明が、簡潔で、大変に素晴らしいものでした。
次の通りです。
そのときの車両は東急の5050系というやつなのだが、この車両は、たとえば同じ横浜駅を発着するJR線、あるいは相鉄線の車両と比較するとかなり加速性能が良い(逆に京急の車両と比較すると劣る)。
電車の加速性能が違うことに、少年は、自分で気づきました。自分の言葉で表現することもできました。素晴らしいことです。
それまで気づいていなかったことに、気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてだろうと、私は思います。

夢庵の話でした。

駐車場でおなじみのタイムズが運営している、タイムズカーシェアというサービスがあります。大変に便利なサービスで、私も、会員のひとりです。大きな手間もなく、車を借りることができます。

近所のタイムズ駐車場にある車を、予約し、借りていく仕組みです。私の場合だと、ホンダのフィットと、日産のノートから、選ぶことができます。どちらも試してみたところ、私は、日産のノートの方が好みのようです。ただ、あの、信号で止まるたびにエンジンまで止まる機能には、いつも、驚かされます。

ある時のことです。夢庵で食事をしていたところ、近くの席に、二人連れのお客さんが着きました。老夫婦でした。おじいさんの方は、足が悪いようでしたが、仲の良さそうなお二人です。

もちろん、特に、注目していたわけではありません。お店が空いており、また、私はすでに注文を済ませ、食べ始めていたことから、自然に目に入ることとなりました。

当時、夢庵には、期間限定の、海鮮和食定食のようなメニューがありました。お店としても、力を入れて宣伝していたようです。確か、千円に満たないくらいの値段でした。
老夫婦は、その、海鮮和食定食のようなメニューを、二つ注文されました。

ややあって、お二人のところに料理が運ばれてきます。海鮮和食定食のようなメニューです。
まさに、運ばれてきた料理がテーブルに置かれたときのことです。お二人の反応を、今でもよく覚えています。

いわく、本当においしそう、ごちそうね、すごい、といったものでした。

筆舌に尽くしがたい感慨がありました。
何と言いますか、どんなものでも、おいしそうなら、おいしそうで、全然構わないのです。自分で気づいて、自分で表現します。生きることのすべてです。

ましてや、ファミリーレストランです。メニューは、たくさんの人と時間の試行錯誤を経ていることでしょう。ビジネスの仕組みとしては、たくさんのお客さんが同じものを食べてくれることで、成り立つものです。昨今の賢い人が、旧時代的だと評するものです。

私の懐古趣味は、無責任にも、旧時代的な複雑さが、消えてほしくないと感じています。
たくさんの人と時間が織り込んだ複雑さは、胸を打ちます。やはり、それはおいしいのです。

老夫婦の、おいしそう、という歓声から、私もさまざまなことに気づきました。はやくなるのがはやい、と気づいた少年に、私も、まだまだ負けていません。負けないくらい、生きることに時間を過ごします。
それまで気づいていなかったことに、気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。

帰り道、日産のノートの窓から片手こぶし出して叫びたくなるくらい、嬉しくなりました。

楽しさというのは、自分の中から見出される、個人的なものです。私は、楽しさが、抽象的なもので、本当によかったと思っています。


終わりに


楽しさは抽象的なものである、とは、森博嗣さんの書籍『自分探しと楽しさについて』から学んだことです。
抽象的に、楽しさとは抽象的なものだろう、と感じてはいましたが、同書で、具体的に理解することとなりました。

良かったのでしょうか。

2016年4月5日火曜日

flip for my mind

Clip to Evernote
自分の心に正直に、とか、自分が心から欲する、などということがあります。何やら、人気のある表現のようです。キャッチーさのためか、延々とパラフレーズすることができます。

私はいつも、できるだけ周囲から影響を受けようと思って、日々を過ごしています。
自分の心に正直に、といった方針は、混沌として、不安定です。初期値に鋭敏に依存してしまいます。日々の私の姿勢と、少し、対立したりもします。

興味深い言葉に出会いました。
雑誌『キーボード・マガジン 2016年1月号 WINTER』からです。バンド「パスピエ」のキーボーディスト、成田ハネダさんのインタビューです。

使用されている、コルグのSV-1というキーボードについてのコメントです。
それから、SV-1はピアノタッチのシンセの中では鍵盤が重い方の部類なので、 "SV-1はハードなアタックで引き続けていると手が疲れるかもしれないよ" という話を聞いていたんですけど、自分的にはそれがライブの熱量に変わって逆に表現しやすいかなと思っています。
SV-1は、鍵盤が重く作られているそうです。
鍵盤が重いと、やむを得ず、力強く演奏する必要が出てきます。その、力強く演奏すること自体が、ライブ演奏の熱量になると言われます。

よく考えてみたいところです。

ライブの熱量とは、ある感情のことでしょう。素朴な順序としては、何かの要因により感情が高まって、その結果、演奏が力強くなるはずです。

上掲のインタビューは、違いました。
鍵盤が重いので、やむを得ず力強く演奏します。その結果、感情が高まるのです。

不思議な関連があります。素朴ではない、という意図です。
フィードバックが遅れて到来する、と表現してもよいかもしれません。

私が、大事にしている思想のひとつです。感情とは後者のような事柄であると、いつも、心得ていたいのです。
鍵盤が重くて力を入れたために、気持ちが盛り上がってしまうことです。

アランが『幸福論』で語ることに、全面的に賛同する、ということでもあります。
気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。
自分の本当に好きなこと、心から欲するもの、自分の心に正直に、などの言葉があります。当エントリの冒頭で書きました。
これらはすべて体調のことなのだろうと、私は理解します。感情や心を持ち出しても、話が劇的になるばかりで、当を得ません。
運動を伝える筋肉なら、多少は意のままになります。質量の大きいものに根拠を求めるほうが、何かと便利なはずです。むやみに困難な方針を採ることはありません。

他方で、感情や心が神聖に思えるのは、なぜなのでしょう。体調を重んじるにしても、整理しておきたい視点です。

書籍『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二)が参考になります。

著者の池谷さんは、二つの論理を語られます。
一つは、心が神聖に思われるのが、それを複雑なものと感じられるため、であることです。人の脳のワーキングメモリに、処理容量の限界があることによります。

もう一つは、心が複雑に思われるのが、それを判定するのが心であるため、であることです。
すなわち、再帰です。
自分の心を考える自分がいる。でも、そんな自分を考える自分がさらにいて……とね。そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。
心が神聖なものに思えるのは、それを思うのが心であるという、やむを得ない事情によるものでした。
だからこそ「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。
再帰がもたらす、不確かな事象です。
あるときは心は神聖で、またあるときは神聖でなかったりするのでしょう。体調が影響しそうです。
だから、自分の心を不思議に感じるという、その印象は、いわば自己陶酔に似た部分があって、それ自体は科学的にはさほど重要なことではない。単にリカージョンの罠にはまっただけだ。
体調の方が素直で、私には、心よりも受け入れやすく感じます。いずれにせよ、感情と心を、無垢に神聖視せずにいて、構わないようです。

心に作用するのが体調であると考えました。フィードバックと呼びたくなる事柄かもしれません。妙に、広い意味で使われるきらいのある言葉です。
畢竟、外向きの誠実さを装うことは、傲慢さと、同じ意味です。

フィードバックとは、電子回路の分野の言葉です。ある系が、外界とのインタフェースとして入力と出力を持つとき、出力が、入力に影響するような仕組みのことです。
決定的な特徴として、カオスを生成する可能性があることが挙げられます。

ただ、私は情報工学の人間ですので、flip-flop を強調したくなります。こちらは、系が時間の概念を獲得できることが、決定的な特徴です。

系が時間の概念を持つこととは、系が内部状態を記憶できることと、同じ意味です。あるステップ t での出力を、t+1 の入力に使うことで、記憶を実現します。

不自然なキャッチーさは偏在するものです。カオスのことです。単なる数学的な事象に、他なりません。
フィードバックがカオスをもたらさないことも、当然ながら、あります。単調増加、振動、超平衡、などです。

系が、次の四つの性質を満たすとき、カオスであるといいます。

・非線形性
・有界性
・初期値鋭敏依存性
・非周期性

決定性を持つことは、暗黙に期待されているようです。私も、決定性のない系を、カオスと呼びたくはありません。
ちなみに、決定性があるとは、系の振る舞いが、状態と入力によって一意に定まることをいいます。おなじみの例は、コインを投げた結果の系です。いつ、表が出るか、裏が出るか、振る舞いを前もって定めることができません。

カオスを生成する関数としては、ロジスティック写像で、a = 4 としたときの式が有名です。


式から、ある n での出力を、n+1 の入力にしていることが読み取れます。フィードバックです。

整理すると、次の二点の性質があるとき、系にフィードバックがあると、私は判断することにしています。

・カオスを生成する可能性があること
・系が時間の概念を持つこと

仮に、出力が入力に影響する仕組みがあっても、これらの性質がなさそうだと、フィードバックという言葉には、かなり違和感が出てきます。

力強く鍵盤を弾くと、時間的な遅れを伴って、フィードバックが感情に戻ってくるのでした。今や、独特の趣を感じるようになった文章です。
システムが時間の概念を扱えるようにと導入されたのが、そもそも、フィードバックであるためです。

雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン 2015年5・6月号』での、Seihoさんのインタビューをご紹介します。

コルグのSQ-1という、今日び珍しい、ハードウェアのステップシーケンサーについて語られたことです。
考えてみたら、手を動かすという行為のために買っているようなものなんです。言ってみればMaxのパッチで作って書き出しても同じようなものなのに、自分で作ったものだと信じられる過程……その過程なんですよね、曲作りって。
Max というのは、Cycling '74 社のソフトウェアで、音楽作りその他において、あらゆることをプログラミングできるものです。SQ-1よりもはるかに多機能で、自由度の高いものです。あえて、SQ-1を使う理由はないようにも思えます。今どき、PCからソフトウェアを操作して、いくらでも素晴らしい音楽を作ることができるのです。

Seihoさんは、そうではない部分に気づかれていました。

今の時代、なるほど、もっと容易に音楽を作ることはできます。手間がかかっていなくとも、自分が生み出した音楽に違いありません。私などは、よい音楽と製作の容易さとの間に、関連があるとは思っておらず、手間の少なさを否定する気持ちは、まるでありません。

それでいて、自分の手を動かすという無駄な時間の中で、作り出された音があります。つぎ込まれた時間は、音楽を、自分が作ったものだと信じられるようになる、過程のことでした。

自身で音楽を作ったという事実より、音楽を作った過程に目を向けます。過程には、手を動かすという運動と、時間の遅れがあります。
自分の心に正直になることよりも、心が神聖であることよりも、安定しているのでしょう。思えば、結果と過程とでは、後者だけに時間の項があるのです。
キャッチーさはありません。


終わりに


当エントリのはじめに、パラフレーズ、と書きました。
パラフレーズとは、敷衍という意味だと、私は理解しています。書いておいて何なのですが、誤用のような気がします。

つい、使ってしまいました。キャッチーだったためです。

私の感情が、非決定的だったのでしょうか。コイン投げで生成されたのかもしれません。

2016年3月11日金曜日

優しい深呼吸

Clip to Evernote
私は音楽と読書が好きです。
長く、音楽と読書を好きでいると、不思議と、いろいろと気づくことがあります。生きる意味などというものがあるとしたら、想像もしなかった何かに気づいていくことは、その一つなのかもしれません。

音楽を聞くことも、本を読むことも、一人で、静かになされるものです。
長く続けてきたためでしょうか。他の人による評価や意見を目にせずとも、よい音楽、本を、心から納得できるようになりました。

一人で静かになされることです。基本的に、よいことなのでしょう。

自分に向き合う、とか、自分だけの感性を、といった表現からは、薄気味の悪いものを感じます。過剰にロマンティックです。
情報のインプットを限定する、というと、今度は、奇妙な標語になってきます。

ぞっとしないものがあります。
一人でなされるものなら、ただ、一人でなされればよいはずです。

私たちが、ガレージと呼ぼうと決めたものです。

自分のガレージを持つと、優しくなれるような気がします。そう信じたいのでしょうか。
ゆるやかな共感に直面するためかもしれません。想像もしなかった共感です。

Aice5の楽曲「Re.MEMBER」から引用いたします。
さぁ 見つめてみよう 歩いてきた人生
ダメじゃないさ 振り返る事は
深呼吸をして 弱さも認めて
そして前を また向けるのなら
振り返ることも、深呼吸をすることも、一人で静かになされたいものです。
そして、前をまた向けるのなら、素晴らしいことです。

あるいは、前を向かなくても、いろいろと気づくことがあるだけで、不思議と、生きていくことができます。
素晴らしいことです。

2016年1月16日土曜日

繊細な情報、連帯の抽象

Clip to Evernote
クリームも、あんこも、チョコレートも、私は好きです。甘いものです。

こうしたものは、食べて、満腹になる度合いで割り算したときのカロリーが、大きい値になります。平たく言えば、高カロリーです。
大変に効率の良い食べ物といえます。高く評価できます。

『数学ガール』シリーズ(結城浩)の登場人物、ミルカさんは、昼食にキットカットを食べています。
私は、キットカットより、アルフォートをお勧めします。私の知る限り、価格で割り算したときのカロリーが最も高くなるチョコレートが、アルフォートだからです。効率の良い食べ物です。

それから、私は、イチゴショートケーキに乗っているイチゴが嫌いです。進んで、効率を悪くしているような気がします。私は、できるだけ無駄がない、効率の良い人生を歩んでいきたいと思っています。ショートケーキのイチゴは、空間的にも、価格的にも、認知的にも、マイナスのインパクトを感じるのです。
毎月二十二日はショートケーキの日ですが、上にイチゴが乗っていますので、私は賛同できません。
似た話題では、カレーに具がたくさん入っているのも、もんじゃ焼きに具がたくさん入っているのも、苦手です。

こちらの記事を読みました。

チーズケーキ、美味しかったよっておすすめしたいけど語彙がなくてつらい。[PR] | やよこぶろぐ

とても良い記事でした。何度も読み返しました。

記事では、読書感想文が苦手だったことが語られています。
でも、読書感想文は苦手で、点数が下がるのを承知で1度だけ出さなかったことがあります。
苦手であることの感覚を、独特の表現で続けられます。大変に秀逸です。
ずっと、それは本に没入するせいだと思っていましたが、今では、少し違う気がしています。うまく言えませんが、文章がぶつかり合うような感じがします。なぜか本当に語彙がなくなってしまうのです。
何となく、その秀逸さを語るのが、難しいように感じました。「うまく言えませんが、文章がぶつかり合うような感じが」、私も、するようです。思い当たる節があります。
不器用な私が、心込めて書きました。

料理といえば、こちらの記事を読みました。

趣味は料理です、携えるノートブックは冒険の書 | Notebookers.jp

大変に素晴らしい記事です。ぜひ、多くの方に読んでいただきたいと思っています。

記事の著者さんは、三冊のノートブックを日常に使われているそうです。三冊目が、雑記帳だと言われます。
引用させていただきます。
そして3冊目は雑記帳。なのですが、これ、元々は英語の勉強のために使っていたノートブックで、自分の頭の中をうまく整理する方法がないかと試行錯誤するうち、絵日記のような絵本のようなものになってきたものです。
なんということでしょう。大きな万感を覚えます。

英語の勉強のためのノートブックが、試行錯誤を経て、絵本になったのです。絵本です。余人のどんな理知をもってしても、決して予期できないことです。

ああ、ここには本当に試行錯誤があったのだ、と感じました。

賢い先見では、試行錯誤の行く末を見通すことはできないものです。どんな人間も、それほど賢くないためでしょう。

これは希望です。
私たちには、試行錯誤の後に、思いも寄らぬ高みにたどり着いて感動する可能性が、常に残されているのです。ボトムアップの感動です。

同じ記事には、もう一つ、どうしても言及したい箇所があります。

趣味は料理です、携えるノートブックは冒険の書 | Notebookers.jp

引用いたします。
家庭料理、がキーワードになるようです。
何年か前、伯母の遺品整理をしている時に、様々なものから切り抜いた料理記事と、それらを貼り付けてスクラップブックにした家庭雑誌が出てきたことがありました。
記事の著者さんの伯母さんは、料理上手だったそうです。
「伯母さん料理上手だったものね。でも(スクラップブックやノートブックじゃなくて)雑誌に貼り付けてるの、昔の人だからね」と皆で笑ったりしたのですが、
料理のレシピを、雑誌に貼り付けていました。
家庭料理のレシピです。作る人がいなくなれば、情報は失われていきます。賢い余人の理知ではたどり着けない類の、豊かさを備えているためです。

避けられないことではあります。悲しいことなのでしょうか。
半世紀前の家庭料理のレシピ、作り手がいなくなって作り方もわからず、二度と味わうことも出来ないだろうと思っていた料理のレシピが綴られたノートブックなんて、形式はどうであれとてもロマンチックなものだなあと思ったのです。
ロマンチックである、と評されます。羨ましい感性です。

ロマンティックさの一つは、完全に失われてしまったと思われていた情報が、人目から隠れて、残存していたことでしょう。
手触りの記録からは、記録を残すためにかけられた時間が偲ばれます。つぎ込まれた、かけがえのないコストへの共感が、胸を打つのかもしれません。

もう一つのロマンティックさは、懸命の記録にも関わらず、余人の理知では到達できない豊かな情報は、やはり、失われてしまうことです。伝達されることはかないません。繊細だからでしょう。
保存する手だてがなく、ただ、失われていくのを眺めるだけです。無常なロマンティックです。

共感といえば、こちらの、素晴らしい記事をご紹介いたします。

再確認、安心感、ゆるやかな共感と連帯:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

他人のアドバイスが直接的には役に立たない、ということについての思索です。
次のように書かれています。
そこには、物ごとのあり方はみんな違うしそこに正解などないという、当たり前すぎることについての再確認がある。
物ごとのあり方とは、具体的なものへの理解のことだと、私は解釈しました。
具体的な領域において、存在するのは人それぞれの差異で、存在しないのは正解です。私たちの共感と連帯は、きっと、そこではない場所にあります。
正解のないことを考え続けている人(たち)がいるという、安心感がある。
日々を続けていく中では、自分の他にも、正解のないことで悩んでいる人がいるとは、なかなか、思い至りません。
抽象の場面で、共感と連帯に出会うことは、思いも寄らないことで、不思議な感動があります。

さて、ここまで、三つのエピソードをご紹介してきました。

一つめは、試行錯誤の末に到達したところについてでした。
二つめは、繊細なために、失われてしまう情報についてでした。
三つめは、抽象の場面で、思わぬ共感に出会うことについてでした。

余人の理知では到達できないところにある感動について、一貫して、書いてきたつもりです。

人間はそれほど賢くなく、おかげで、感動はどこにでもあるようです。
自分なりの感動です。

冒頭でご紹介した記事には、次のようにあります。

チーズケーキ、美味しかったよっておすすめしたいけど語彙がなくてつらい。[PR] | やよこぶろぐ

引用いたします。
昔のわたしのように、クリームもあんこもチョコもダメで、チーズケーキだけは食べられる、小さい子どもさんに、雪の上にネームプレートを載せて、お誕生日ケーキにしたら素敵だと思います。
誰かの試行錯誤の末に、チーズケーキだけは食べられることを発見したのでしょう。
つぎ込まれたかけがえのないコストが、胸を打ちます。

Aice5 の楽曲、「ショートショートケーキ」を思い出します。
不器用な私が 心こめて焼きました
もんじゃ焼きでしょうか。もんじゃ焼きは好きです。具がたくさん入っていないものがよいです。
カレーなら、ゴーゴーカレーが好きです。
思わぬ共感があれば、幸いです。


終わりに


いろいろ書きましたが、やはり、ショートケーキにイチゴは乗せなくてよいように思います。
不必要につぎこんだコストではないでしょうか。