2016年8月27日土曜日

コレクションなら私に任せて

Clip to Evernote
自分で統制した情報の中で生活していると、劇的な体験をパッケージにして、手渡されることが少なくなります。何かをコレクションするのが楽しい、という感覚と似ています。
安心して、考えることに体力を費やしてよいと、認識できるようになります。錯覚できる、ということかもしれません。認識も、錯覚も、人間が行う価値のあることです。

森博嗣さんの小説『風は青海を渡るのか?』で出会った言葉です。
認識も、錯覚も、機能としては本来、同じものだよ。
人間らしい、と呼ばれる機能なのだと思います。

こちらの記事を読みました。

考えることの質が上がらないことの苦悩 - ならずものになろう

教育について、考え続けておられる方のようです。国語の先生とのことです。子供たちの考える力について、よい授業のありかたについて、たくさんのことを書かれています。

なんと言いますか、胸を打たれる記事だと、私は感じました。
世の中には、こんなに大切な問題を考えている人がいるのです。

目指しているのは、それでいて、考えることにとどまらず、実践することです。
実践というのは、考えが完成するのを待ってはくれません。記事でも、まだまだ、わからないことだらけであると、述べられています。解決しないままで、悩みを抱いたままで、日々の実践に挑んでいかなければなりません。

私は、私が考えていることが世界で一番大切であると、普段は、思っています。当然のことでしょう。
実際には、こんなに大切な問題を考えている人が、世の中にいました。本当は、もっと数え切れないくらいの人が、大切な問題を考えていることでしょう。実践のための、大切な問いです。

あまつさえ、問いには答えが出ないままに、日々の実践にもぶつかります。大変で、大切な実践です。考えていても、いなくても、日常は困難です。

おそらく、教えるということの関連だと思うのですが、別の記事を読むこととなりました。

R-style » バトンが渡るということ

授業を行う、教師の方のお話です。
ポイントは、現在は教師である人にも、いつかの過去に、自分が生徒だった時期があることです。
彼は、自分が授業を行う姿を映像で見たとき、そこに恩師の先生方の姿を認めたそうです。
自分が教える姿は、教わった人たちを彷彿とさせるものでした。

教師からは、勉強の内容に加えて、教えるということ、そのものも学んでいるという話に、記事はつながっていきます。納得のいく話です。
教えるということの全体の姿について、人が教えている様子から、まるごと学びとるわけです。

記事ではそれを、バトンが渡る、と呼んでいます。
そして、その生徒は、自分を教える教師から__授業の内容に加えて__誰かに「教える」ということを学びます。それも体験的に学びます。
バトンが渡る、とは、とてもよい表現です。
すなわち、体験的に学ぶことです。すぐ上で、私は、まるごと学ぶ、と表現してみました。

はじめにご紹介した記事「考えることの質が上がらないことの苦悩」に戻りましょう。

次のように述べられています。
長くなり、恐縮ですが、引用いたします。
しかし、一方で感じることとして、責任転嫁にならないように十分に注意して考えなければならなことだけど、子どもたちのほうに「考えること」に対する欲求の弱さ……というか、考え続けることがしんどいと感じている生徒が少なからずいることは感じる。
生徒が悪いといいたいのではなく、「考えるために必要な体力」というものが、どうやって身につけたらいいのだろう、考えるための体力とは何なんだろうということが、疑問として浮かんでくる。
考えることに対する欲求の弱さ、とあります。考えるために必要な体力、とあります。

考える体力というものについて、伝えることが難しいのは、教育の立場にない私にも、想像がつきます。

自分で、体力を費やして何かを考えて、素晴らしい結論にいたるということを、子供たちは、経験しにくいものでしょう。人から教わって到達する結論の方が、間違いなく、はるかに劇的に感じられるためです。
先生にも、クラスメイトにも、様々な人がいます。様々なことを教わります。外界は刺激に満ちています。

学校というのは、なるほど、劇的な体験をパッケージにして、効率よく、渡してもらえる場所なのかもしれません。何かを学ぶための場所として、正しい姿であろうと、私は感じます。

もう一つあります。
考えることは、無意識のもとで挙動するところが、多分にあります。一方の教わることは、他人がいることですので、無意識に起こることはありません。
新たな知識を得たときに、無意識で考えた結果と、教わった結果とを比べれば、後者の方が、強烈な体験として記憶されるのは、無理からぬことです。思い出しやすい情報は、頻繁に発生している、重要なことだと、勘違いされます。

以上のように、考えることと、教わることとを比べると、教わることの方に、より親しみやすくなるわけです。各々の性質によるものであり、避けられません。
考えることの体力について、伝えるのは難しいようです。

それでいて、考えることは、体力のかかることであり、大切なことであると、自分で気づくのも、難しいものでしょう。外から教えられる必要があります。私も、本当に気づいたのは、つい最近のことかもしれません。

経験が要ります。意識的に考えて、自分なりの素晴らしい結論にいたる、経験です。

経験しなければならない、というのは、簡潔に記述できない、という意味です。
よい言葉に出会いました。森博嗣さんの小説『χの悲劇』からです。
変な感触だったら知らせて、と指示した。こういう指示はプログラムでは異様に難しくなってしまうので、人に任せる意味がある。
簡潔に記述できないことは、問題に、人の取り組む意味があることを示します。

考える体力について、伝えることの話でした。
有名な背反があります。

考えて、何かの結論に至ることは、体力を費やす必要のある、大変なことです。
その苦労がよいことである、という納得がないのに、納得するためには、苦労して、体力を費やして考える経験が要るのです。

論理が込み入っており、恐縮です。

少なくとも一度は、騙されなくてはいけないわけです。理由もわからず、苦労の道を歩くのです。私はこのことを、形式を通過する必要がある、と呼ぶことにしています。
楽しくもないことを、一度は、楽しいからと騙されて、我慢しなければなりません。

同じ図式は、日常のあらゆる場面に登場してくるように思います。いずれの場面でも、この困難さは厄介です。

解決策を考えます。

少なくとも、本を読むことでは、解決は難しいかと思います。
本というのは、一冊で、一つの文脈を成すことが求められます。一つの体系です。断片ではなく、体系を成立させることができるのが、本のよいところです。

いま、問題にしていることの場合、その、本の特徴があだとなります。本が、一つの文脈を成すということは、本の中に、通過しなければいけない形式があるということです。
読了が、文脈の完成するゴールだとするなら、そこに至るまでの読書は、いつか文脈が完成すると、騙されるか、信じるか、しなければなりません。

私は、何度も本を読んでいますので、ゴールを信じて、過程も楽しむことができます。そうでない人は、騙されて、苦労するしかありません。形式を通過する必要があるのです。

本、あるいは文脈の性質からして、どうしても避けられないことです。
本は文脈を届けることのできる素晴らしいメディアですが、同時に、形式を通過する苦労も強いるのです。

バトンを渡すことが、思い起こされます。

考えている姿をまるごと示すことが、考える体力を教える、有力な手段になるのかもしれません。バトンを渡すのです。
考える体力のことを、シンプルに記述して、コミュニケーションをとるのは困難です。体力を費やして考えている様子を、まるごと学びとってもらうわけです。

手段とは、もはや、言い難いものです。姿勢のようなものでしょう。考える姿を示すということに、これといった行動は思いつきません。

それでも、普段から、考えることを大切にしている人たちであれば、各々に、その回答を抱いているようにも思います。認識しています。錯覚もしています。
認識も錯覚も、機能としては本来、同じものです。きっと、人間に価値のある機能です。

こうした様子は、論理的に厳密に書こうとすると、異様に難しくなってしまいます。人間に任せる意味があるということです。


終わりに


本文中、「バトンが渡るということ」の記事をご紹介するところで、「おそらく、教えるということの関連だと思うのですが」と書きました。

含みのある書き方なのは、「考えることの質が上がらないことの苦悩」を読んでいたところ、Evernoteの「関連するノート」の機能によって、「バトンが渡るということ」が提示されたためです。

ちょっと、これはすごいことです。
繰り返しますが、「考えることの質が上がらないことの苦悩」を読んでいて、「バトンが渡るということ」が提示されたのです。

人間に任せる価値のないことなのかもしれません。
私は、何かをコレクションするのが楽しい、という感覚を、大切にしようと思います。