2017年11月12日日曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2017

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語るべき思想と意図が少ない人に、私は好感を持ちます。私もそうあるように、日々を過ごしています。

私なら、ただのプログラマで、読書家です。

ヴィジュアル系ロックバンド、the GazettE のベース、REITAさんのインタビューを読みました。雑誌『ROCK AND READ 073号』からです。
(インタビュア) で、最初にサマーソニックに出るとき、RUKIさんがたしか、あくまでヴィジュアル系として挑むみたいなことを言っていたと思うんです。ヴィジュアル系っていうことについてはREITAさんはどう思っているんですか?
(REITA) ヴィジュアル系って、なんて言うんですかね、言ってしまえばイメージ悪いじゃないですか(笑)
RUKIさんというのは、同じ the GazettE のボーカルです。
イメージが悪いことに否定はできません、と返されて、続けます。
(REITA) でも、それっておそらく見た目の話だったりすると思うんですよ。(中略)ファンと一体となって、あんなわざわざ暑い服着て、もう汗だくになってやってる。俺はこれが何よりのロックじゃないかと思うわけですよ。
ヴィジュアル系だから、わざわざやっています。ヴィジュアル系だから、別に、当たり前のことです。
(インタビュア) つまり、ヴィジュアル系に強い誇りを持ってるわけですね。
(REITA) 持ってます。俺たちはもう、言ってしまえばただのヴィジュアル系だと思ってるんですよ。
語るべき意図はありません。ただのヴィジュアル系です。
異端と指さされる人には、不思議と、指さす人への理解と優しさがあるものです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
さっそく、始めます。

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くらしすたんと

ふつうに生活していれば、困ることも、苦労することもあります。
困ったことも、工夫したことも、書かれているブログです。

自分が困ったことについて、よくわかっているということでしょう。悪いことではありません。

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delaymania

食事に出かけたことについての記事が好きです。

おいしそうな食事の写真を見るのが、私は好きです。実際に食べるより、好きです。

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iPhoneと本と数学となんやかんやと

私も、情報カードは名刺サイズを使います。

カードを並べて操作することは、あまりありません。名刺サイズの情報カードが好きなだけなのかもしれません。私の話です。

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涯てお茶

個人的なことが書いてあります。私の好きな文章です。世界の涯てで、お茶を飲んでいるようです。

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R-style

ブログのデザインが大きく変わりました。
invisible hardship です。

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やよこぶろぐ

脇目も振らず、具体的なところが好きです。
言葉にしにくい感覚なのですが、私が劇団四季を好きであることと、似ています。

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Word Piece >>by Tak.

アウトライナーで扱うアウトラインは、構造を示している訳ではないと、私も思います。アウトライナーの偉いところです。

ここに「扱う」という表現を持ってこられるところに、筆舌に尽くしがたいものを感じます。
そういうブログです。

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鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか

毎日、少しだけ新しいことを考えて、新しい文章を書かれます。
1年まえも、おなじような11月でした。

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gofujita notes

文章を書くことが好き、なのかはわかりませんが、少なくとも、日常に取り込まれているようです。

書くことが日常に取り込まれている人の、書くブログです。


終わりに


異端と指さされる人は、非対称に優しいものです。
『喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr.Kishima』(森博嗣)からです。
「変だよね。そうやって、心みたいな言葉を持ち出さないといけないっていうのが、もう変だよね。みんなが変なんだよ。数式を一所懸命考えている人って、みんなのことを認めているのに、人間の心がどうこうって言う人は、数式を考えている人を認めないじゃない。他人を認めない人の方が、人間として、なにか欠けているじゃない?」
優しいのは、ただの数学者だからでしょう。

2017年10月27日金曜日

記憶の海岸、無人島

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風立ちぬ、今は秋です。今日から私は、心の旅人です。
性格は明るいはずですが、世界を観察するとは、どういうことなのでしょう。

書籍『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(山中伸弥、羽生善治、是枝裕和、山極壽一、永田和宏)に、興味深い話題がありました。映画監督の、是枝裕和さんが講演された内容からです。

是枝さんは、カメラを持ち、映画を撮るようになり、疑問に感じたことがあるといわれます。いわく、「映像を制作すること、映画をつくることは自己表現なのか」とのことです。

続く言葉が、心に残ります。
もし自分の中から出てくる表現であるならば、カメラはなぜ自分へ向かわないのだろうか、と。
もっともではあります。自分でカメラを持った人にしか、たどり着けない問いでもあります。是枝さんは、自分の言葉で、問いに答えます。
映画というのは、決してつくり手である自分を撮るのではありません。僕はカメラの脇にいて、カメラは世界を向いている。世界を撮るんです。表現されるべきものは世界の側にある。
同書は、進行役の永田和宏さんとの対談に続きます。永田さんが、別のエピソードを紹介してくれます。
永田 講演でもうひとつ印象的だったのは、「映画は自己表現じゃない」という言葉です。詩人の谷川俊太郎も、「詩というのは、自分の内側を表現するのではない。世界の側にある驚きが詩になる」というようなことを言っています。是枝さんも、自己表現だったら、なぜカメラが自分に向かないんだと、おっしゃったのが新鮮な驚きでした。
詩人の谷川俊太郎さんの言葉とのことです。世界の側にある驚きが、詩になります。なんと綺麗な言葉でしょう。世界の側にある驚き、そのものです。

素朴に読むと、観察することについてが語られています。自分のことではなく、世界の方を向いて、よく見ようとすることです。

季節が秋になります。気温の違いを体感します。景色が変わることもあります。言葉にならない、さまざまなことが変わります。目を凝らせば、世界にある驚きを、読み取ることができるのかもしれません。
季節が冬になります。私は冬が苦手なので、人より、冬の期間が長くなります。思うより前から、冬は始まっていて、思うより後まで、冬は続きます。季節が冬になっているかどうか、観察しに出かけたことはありません。

それでも、確かに、私は季節の変化を感じます。世界の側に、表現されるべき驚きがあることもわかります。
詩や映画ではなく、私はブログを書きます。表現されるべき驚きがあったからです。カメラは自分を向きません。

詩人や映画監督は、季節が変わるからと、世界を見に出かけたりするのでしょうか。なんとなく、違和感があります。
素朴な観察では、ずいぶんと限られた視点で、世界に目を凝らすことになりそうです。詩を書かせるほどの驚きは、もっと、遍くあるはずです。

世界とは、思いも寄らないものです。意図して観察できるものなのでしょうか。世界の側にある驚きとは、目を凝らせば見つかるものなのでしょうか。

観察するというのは、素朴な動作ではないのかもしれません。

大瀧詠一さんというミュージシャンがいました。詩人と映画監督に、似ているところがあるようです。見ること、情報を受け取ることに関して、語るべきところのある方でした。書籍『街場の読書論』(内田樹)からです。
(前略)そのあとに一音聴いただけで、オーケストラの楽器構成が「わかる」という話をされたときに、今朝ほど新幹線の中で考えていたscanとreadの違いの話との符号に驚嘆したのである。
著者の内田さんが「新幹線の中で考えていた」という、scanとreadの話とは、こうです。
一つは「文字を画像情報として入力する作業」、一つは「入力した画像を意味として解読する作業」である。私たちが因習的に「読書」と呼んでいるのは二番目の工程のことである。
一つめの作業のことをscan、二つめをreadと、内田さんは表現されました。因習的に、二つめのreadのことだけを、なるほど私たちは読書と呼ぶようです。
しかし、実際には、画像情報が脳内に入力されていなければ、私たちは文字を読むことができない。
かくして、内田さんは、scanもreadも、読書であると言われます。文脈からは、ややもすると、scanこそが読書であると言わんばかりです。

大瀧詠一さんも、scanに自覚的な人であったようです。先の「一音聴いただけで、オーケストラの楽器構成が「わかる」」というところからも読み取れます。
世界をscanする人は、scanの結果を、いかにして解読するのでしょうか。readがあるはずです。画像情報を取り込んだ後の話です。

大瀧さんのエピソードがもう一つあります。
かつて「無人島レコード」のアンケートで、大瀧さんは無人島にはレコードではなく「レコード年鑑」を持っていくと答えたことがある。
著者の内田さんは評されます。いわく、大瀧さんは、観察しているのではなく、思い出しているのです。

思い出すことが、readに相当するようです。
谷川俊太郎さんの言葉に、似ているような気もします。

観察することには、ましてや、詩になるほどの驚きを抱いて観察することには、少しだけ素朴でない、実態があるようです。
世界を観察するのではなく、その中に入り込んで、経験しています。世界を観察するのではなく、思い出しています。

読書と同じです。思うより前から、読書は始まっていて、思うより後まで、読書は続きます。scanとreadです。思い出した記憶が、詩になります。

世界が思いも寄らないとは、そういうことなのでしょう。

そう、今しがた思い出しました。ずいぶんと寒くなりました。思うより早く、秋は終わってしまいます。
冬のリヴィエラ、男ってやつは、港を出てゆく船のようです。


終わりに


二曲とも、日本語が慎ましいところがよいと思います。いつの間にか、松本隆さんの話になっていました。

2017年9月3日日曜日

「かーそる」2017年7月号

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個人的には、これで、文章を書くことについて、よくわかったと思っています。しばらく、検討の必要がなくなり、便利になりました。

『サウンド&レコーディング・マガジン 2005年7月号』で、音楽家のレイ・ハラカミさんが、インタビューに答えています。レイ・ハラカミさんの作る音楽には、主旋律、主役がいないようである、という話からです。
(インタビュアー) 自分自身の作品としては、今後も真ん中に主体の無いものを作り続けるのですか?
(ハラカミ) そうですね、基本的にそういう音楽が好きなんだろうなと思います。主旋律そのものを想像させる楽しみが自分の音楽にはあると思うので。
主旋律がいないように感じられるのは、主旋律を、想像させる楽しみがあるからだと言われます。心に残る言葉です。
(インタビュアー) 確かにハラカミさんの音楽を聴いていると、聴いていることを忘れてしまう感じがあるといいますが、押しつけがましい感じがないですね。
(ハラカミ) 僕が自分の音楽の第一リスナーとして、そんな気分で聴いているからですよ。真ん中に何も定位させていないからこそできることですね。でも、真ん中に人はいないけれど、このジャケット写真で言えば、撮ってる側として居るんです。そこに僕は居ないけどその前には居る。その関係性で作っているんです。
主旋律を想像させるような作品であっても、他方で、主体や意思が、何もないわけではありません。撮っている側として、確かに存在しています。

この二つの言葉は、私の思想に、強く影響を与えています。
主旋律を想像させる楽しみと、撮っている側としての意思です。

もとより、主旋律というものが、あまりシンプルに存在するのは、困難ではないでしょうか。
私はどうも、シンプルさは指向しないほうです。さまざまな要素がひしめき合った結果、平衡している、という論理が好きです。

素晴らしい雑誌ができあがりました。『かーそる 2017年7月号』です。

「かーそる」2017年7月号 [第二号] – Project:かーそる

本号、全体を読み通してみて、気づきました。私は、雑誌が好きなのだと思います。

主旋律がいないようでも、主旋律を想像する楽しみがあるため、かもしれません。さまざまな要素がひしめき合っていても、撮る側の意思が確かにあるため、かもしれません。

難しすぎず、簡単すぎず。
身近すぎず、高尚すぎず。
読み物として面白く、
それでいて、ノウハウとして役立つものが含まれている、そんな雑誌に、本号も、なっているかと思います。


終わりに


私は二つの原稿を書きました。文章を書くことについて、よくわかったと思っています。

私の原稿はさておき、未来にわたって続く場所に、レイ・ハラカミさんの言葉を残すことができ、本当に嬉しく思っています。「かーそる」は、そんな場所だと信じています。

時が経っても、薄れずにいてほしい言葉があります。

2017年5月21日日曜日

険しく遠い千里のホテル

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すっかり、暖かくなりました。五月です。四月にはまだ、寒い日が多く、私は、素直に春を感じることができません。私は寒さが苦手で、暑さが好きです。私の場合だと、気温に比例して、快適さが変動するようなのです。

他方で、寒くても、暑くても、私は、外の風に当たるのが嫌いです。本当に真夏の盛りになるまで、手袋が手放せません。肌に風が当たるからです。風というのは、どうしてこう、次から次へと吹いてくるのでしょうか。まるで、無限に部屋数のあるホテルに、次から次へとお客さんが来るかのようです。

冬に使っていた手袋では暑くなりますので、五月は、薄い手袋に買い換える季節です。

それでも、五月は、冬よりは気を抜いて過ごすことができます。寒さに耐えようとしなくてよいというのは、嬉しいものです。穏やかな気持ちになります。春の風は、千里も先まで届いていくのです。

春の穏やかさを思うとき、よく、思い出すことがあります。
こちらの記事です。

ゆっくりと動きながら高速でこなす、一流の研究者の Doing リスト | Lifehacking.jp

黄色いリーガルパッドを手に、ゆっくりと高速に仕事を進める、一流の研究者のお話です。
しかしその作業にはまったく無駄がなく、黄色いリーガルパッドに書かれたリストの一番上から一つずつ確実に作業を行っていきます。
いろいろなことを感じるエピソードです。
手になじむ道具を使うことの、良さといいますか、感動を、私は覚えました。
黄色いノートパッドはそんな彼を脱線させないための「いま、何をしているか」のリストなのだということが見て取れました。
ゆえあって、私はこのところ、道具について考えることが多くなっています。

ゆっくりと動きながら、高速でこなすといいます。人間と道具の関係として、目指したい姿です。使い込まれた道具とは、使い手がゆっくりと動けるように、機能するものなのでしょう。

先日、ゆっくりと動くための道具を、私も導入しました。ニーモシネのノートです。無地で、横長のA5サイズです。作業机に備え付けています。
私の用途も、先に掲げた記事の、黄色いリーガルパッドと似たものになっているようでした。

何かを考えるときに、考えることを書きます。何かの作業をするときに、作業することを書きます。ニーモシネに文字を書くことと、仕事を進めることとが、セットになっているような感覚です。
ノートの使われ方にもいろいろとあります。私のニーモシネは、現在進行形な使われ方です。未来形でも、過去形でもないということです。ゆっくりと動くためのノートです。

考えてみると、ノートには、現在と、過去と、未来と、それぞれを指向した使われ方があるようです。原則に忠実にあるなら、過去は、日記帳のことで、未来は、スケジュール帳のことです。きわめて原則に忠実にある場合のことです。

それでいて、現在と、過去と、未来のノートは、原則に忠実に分類することも、難しいようです。現在と、過去と、未来は、それぞれ、影響を及ぼし合います。一面では、日記帳やスケジュール帳に、使いにくいことがあるのは、このためかもしれません。たがいに影響しあい、渾然となった何かを、特に意識せず、自在に扱うことのできる点で、紙のノートは優れています。

千里の仕事を成し遂げたいときに、千里先のことも、一歩のことも、足跡のことも、表現できるということです。不思議と、一歩のことを書くためのノートには、はっきりした名前がついていません。

私の場合、最近まで、別のノートが、この役割を担っていました。あるとき、思うところあって、ニーモシネのノートに変更してみたわけです。今のところ、よい感じです。
どうも、横長で、あまり大きくない紙に書くのが、私には合っているようです。少なくとも、現在進行形のためのノートは、そうです。似た用途で名刺サイズの情報カードをよく使うのですが、この情報カードが、横長で、書きやすかったことから、気づきました。他の誰かではなく、自分にとって大切なことに、気づいた瞬間です。

ゆっくりと動くことというと、『知的生活の方法』(渡部昇一)を思い出します。

ゆっくりと動いていると、人間が、道具を使うことだけを考えていられるようになります。道具を使うことを、意識せずにいることすらあります。全体として、考えることが少なくなります。

考えることが少ないというのは、気分のよいものです。のびのびとした気持ちになります。人間があまり賢くないためでしょう。例えば、いつ中断されるかもしれない、いつまでに終えなければいけない、といったことが、頭をよぎるほど、のびのびとした気持ちは薄れていくものです。

渡部昇一さんは、次のように表現されました。
中断されるおそれがなく、時間はほとんど無限に自分の目の前に広がっていると感ずるとき、知はまことにのびのびと働く。
時間と、心持ちが、一望千里に広がっていると、知はのびのびと働きます。
好きな道具を使うことに熱中していて、他のことが意識にのぼらないような状態を、私は想像します。

頭の中に情報を留めているうちは、無限の可能性を展望したままでいます。紙に書くと、可能性を少なく抑えることができます。人間はあまり賢くないため、無限に可能性があると、平静を保つことができません。無限に部屋数のあるホテルが、なぜかお客さんを受け入れ続けることができるのと同じです。

無限の部屋数があるホテルがあるとしましょう。いま、ホテルの部屋は満室です。無限の人数のお客さんが泊まっています。

一人のお客さんが来ました。予約をしていないのですが、ホテルに泊まりたいそうです。きっと、会いたい人がいたのでしょう。ここまで、険しく遠い道のりでした。

支配人は慌てません。すぐに部屋を用意するといいます。ちなみに、おそらく、支配人の名前はヒルベルトといいます。
支配人は、ホテルに宿泊しているすべてのお客さんに依頼します。いわく、全員、部屋番号がひとつだけ大きい部屋に、移っていただけませんか。

ホテルには無限の部屋数がありますので、すべてのお客さんが、無事に部屋を移動することができます。私の感覚だと、ここで、全員が部屋を移動するのに無限の時間がかかったりしないかと、不安にならないこともありません。部屋を移っていただけませんか、という連絡が、時間ゼロで伝わるわけではないと思うからです。気にしないことにします。

ともあれ、すべてのお客さんは、無事に部屋を移動することができます。移動が済むと、なんということでしょう、部屋番号1の部屋が、空室になっています。予約を忘れてしまった不運なお客さんも、ホテルに宿泊することができるようになりました。

茅原実里さんの楽曲「春風千里」に、心に残る一節があります。
何千里でもかまわないって 険しく遠い恋路を進む
春の風は、千里も先まで届いていくのです。


終わりに


他方で、寒くても、暑くても、私は、外の風に当たるのが嫌いです。
ここ数年は、5月になると、300円ショップのUVカットの手袋を買うことにしています。現在進行形な使われ方です。

2017年3月11日土曜日

優しい記憶

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消費する時間への空想が大きいほど、人は前向きになります。周囲を巻き込む強い力です。

経過した時間への感動が大きいほど、人は優しくなれるような気がします。自分の記憶を、今の自分が、ひとり、思うということです。

ひとりで、自分の記憶を読み返すことは、優しくありたいと願う意思です。

「みなを」の楽曲「やさしい午後」に、次のような一節があります。
ささやかな時間は
静かに流れゆく
気づかなかったけれど
春はそこに来ていた
時間は止まりません。過ぎ去っていきます。
人は、優しくなっていきます。今年もまた、あの季節が来ます。

2017年1月29日日曜日

実験や、解釈や、魅惑の憧れや

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数学と哲学の魅力は、素朴でないところ、抽象的なところにあります。奇妙に魅惑的な説得力から、私たちの身を守ります。

経験というものには、役に立つところと、役に立たないところがあるようです。

書籍『数学者の哲学+哲学者の数学』(砂田 利一、長岡 亮介、野家 啓一)に、興味深い話題がありました。
引用いたします。
私は、数学の哲学っていうのは、何故に大切かっていうと、やはり素朴経験論と素朴唯物論を打ち破るのに、数学ほど良いものはないって思うからなんですね。
素朴経験論と素朴唯物論を打ち破る、という指摘です。
われわれは常にその素朴唯物論と素朴経験論の、いわば攻撃にさらされてるわけですね。ちょっと油断すると、そこに攻め込まれる。
私たちは、素朴唯物論と素朴経験論の、攻撃にさらされているそうです。攻撃を打ち破る手段として、数学があると、発言者の長岡さんは言われます。

素朴唯物論と素朴経験論なるものについて、同書では、陽に定義はなかったかと思います。どうも、このあたりには似た言葉が多く、また、話の流れに依るところも大きくあり、私にはややこしく感じます。
文脈から、実在論、特に素朴実在論などと呼ばれるものの話題であると、私は理解しました。非常に素直に言うなら、世界が、自分の目で見えた通りに実在している、とする考え方のことでしょうか。

素朴唯物論と素朴経験論は、戦わなくてはならない、悪いものであることが、基本的な前提です。端的に言えば、間違っているためです。

反例を挙げるまでもないでしょうか。
目に映るものは、世界の正しい様相とは異なっています。自分の目で見たということは、何かの説得力を示しません。
経験したことは、世界の正しい理解とは異なっています。自分で経験したということは、何かの説得力を示しません。

人間の認知的な偏りから説明するのもよいでしょう。人間の目の、構造の問題でも構いません。どれほど慎重に考察しても、素朴唯物論と素朴経験論は、間違っています。

それでいて、自分の目で見たから間違いない、自分で経験しなければ物事は理解できない、といった言葉には、魅惑的な説得力があります。間違っているにも関わらずです。攻撃にさらされているわけです。

誘惑に打ち勝つための力は、広く言えば、考えることになりそうです。人間の経験より、論理を信頼しようとすることです。

考えることについて定めようとすると、いちばん無理のないテーマが、哲学と数学を学ぶこと、実践することになるように、感じています。
数学は、個人の物理的な経験が入る余地のない、数少ないテーマです。同書『数学者の哲学+哲学者の数学』のタイトルから察せられる通り、哲学も、同様でしょう。経験が当てにならない以上、経験が入る余地がないというのは、大変に安全です。経験や、実験や、解釈や、判断などと関係するものでは、不安なのです。

こちらの記事を読みました。

メモすることに馴染むための「ミニマム・メモ術」 | シゴタノ!

素晴らしい記事です。日常的にメモをとることを、新しい習慣を身につけることととらえ、難しさを説きます。

メモすることに限らず、新しい習慣は、身につく前には価値を体感することができません。次のように言われます。
理性において理解することはできても、その効果を体感することは不可能なのです。
新しい習慣を身につけることには、名状しがたい、独特の難しさがあります。それなのに、悲しいかな、習慣に意義を感じられないのなら、実現は困難です。
この意味で、習慣を身につけてしまった人、いわゆる達人からのアドバイスは、役に立ちません。達人は、習慣の意義をじゅうぶんに体感しているためです。

よくある話ではあります。先生と生徒、などの構図があったときには、避けて通れない話題です。

記事は、ここに解決策をもたらしたところが、慧眼です。
メモすること、ノートを書くことに直接的な意義を感じなくても、それをすることで「あのメモ術をマスターできる」「あのノート術を使いこなせる」という代替的な意義を作り出してくれるのです。
メモすること、そのものの意義は体感できなくても、メモ術なるものを習得できるのだと思えることが、意義になるということです。

憧れと呼ばれるもののことだと、私は理解しました。

新しいことを学ぶときに、達人の助言は参考になりにくいものです。意義を感じられないためです。一方で、達人の技術といいますか、達人が技術を使う姿が、参考になります。憧れという形です。

具体的な手順と、それをなす意義は、自身で組み上げることも、不可能ではないような気がします。助言がなくても、一人でなんとかなるかもしれない、ということです。憧れの方は、一人で立ち上げるのは、かなり難しいものがあります。

憧れが、新しい何かを学ぶことを牽引してくれるのなら、やはり、達人の存在は不可欠です。助言が役に立たなくても、達人は何かを伝えているのです。

後に続く者に何かを伝えるということには、なるほどいろいろな形があるようです。

憧れによって、学ぶことと、試行錯誤を牽引されると、気づけば、具体的な手順や、それをなす意義を身につけていることでしょう。学び始める以前には、すなわち、達人の助言とは、かけ離れた内容になるはずです。

達人は他人だからです。憧れに牽引される以前の自分も、やはり他人だからです。
意義とか、目的を感じる、私というものが変化していきます。意義も変わっていくのが自然です。

意義と目的が、定められるものではなく、感じられるものであるというのは、なかなかによい結論です。

さて、ここまで、二つの話題を見てきました。

一つめは、自分で経験したということが、何かの説得力を示さないことです。
二つめは、達人の助言からは、それをなす意義を体験できないということです。

経験は間違っているのに、体験しないと意義を感じられません。
経験と、体験とで、言葉は違えど、対照的な用法となりました。前者は否定で、後者は肯定です。

前者は、個人的でないものについて、言及しています。説得力とは、個人の感覚とは関係のないところにあるものです。個人的な経験は、何かの説得力に寄与しません。
後者は、個人的なものに言及しています。憧れを感じて、学ぼうと思えるのは、個人の感覚に閉じることです。

経験というものには、役に立つところと、役に立たないところがあるようです。
個人の感覚に閉じている間にだけ、経験が役に立ちます。

憧れによって、学ぶことを推し進めると、当初には思いもよらなかった意義に至ります。意義とは、個人の経験よりも抽象的で、説得力のあるものです。素朴唯物論の攻撃から身を守る、健全な説得力です。

数学と哲学とが、素朴唯物論から身を守る楯になるのは、個人の経験よりも抽象的なものだからに違いありません。

当初に思いもよらなかった、抽象的な意義は、また、新しい形で、学ぶことと、試行錯誤を牽引するのでしょう。素晴らしいことです。意義を感じる、私というものが、変化しているためです。
新しい形とは、きっと、個人の素朴な経験でありながら、素朴唯物論の攻撃に負けないものになるはずです。

こうして、数学と哲学を学ぶことでさえ、個人の素朴な経験に戻ってきました。やはり、思いもよらないことです。

数学と哲学の魅力は、素朴なところ、具体的なところにあります。奇妙に魅惑的な説得力に、私たちの身を晒します。


終わりに


習慣に意義を感じられないなら、身につけるのは難しい、と書いたところがありました。書いておいて何ですが、本当なのでしょうか。

そもそも、習慣とは身につけるものなのでしょうか。
自分で経験した疑問です。