2017年1月29日日曜日

実験や、解釈や、魅惑の憧れや

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数学と哲学の魅力は、素朴でないところ、抽象的なところにあります。奇妙に魅惑的な説得力から、私たちの身を守ります。

経験というものには、役に立つところと、役に立たないところがあるようです。

書籍『数学者の哲学+哲学者の数学』(砂田 利一、長岡 亮介、野家 啓一)に、興味深い話題がありました。
引用いたします。
私は、数学の哲学っていうのは、何故に大切かっていうと、やはり素朴経験論と素朴唯物論を打ち破るのに、数学ほど良いものはないって思うからなんですね。
素朴経験論と素朴唯物論を打ち破る、という指摘です。
われわれは常にその素朴唯物論と素朴経験論の、いわば攻撃にさらされてるわけですね。ちょっと油断すると、そこに攻め込まれる。
私たちは、素朴唯物論と素朴経験論の、攻撃にさらされているそうです。攻撃を打ち破る手段として、数学があると、発言者の長岡さんは言われます。

素朴唯物論と素朴経験論なるものについて、同書では、陽に定義はなかったかと思います。どうも、このあたりには似た言葉が多く、また、話の流れに依るところも大きくあり、私にはややこしく感じます。
文脈から、実在論、特に素朴実在論などと呼ばれるものの話題であると、私は理解しました。非常に素直に言うなら、世界が、自分の目で見えた通りに実在している、とする考え方のことでしょうか。

素朴唯物論と素朴経験論は、戦わなくてはならない、悪いものであることが、基本的な前提です。端的に言えば、間違っているためです。

反例を挙げるまでもないでしょうか。
目に映るものは、世界の正しい様相とは異なっています。自分の目で見たということは、何かの説得力を示しません。
経験したことは、世界の正しい理解とは異なっています。自分で経験したということは、何かの説得力を示しません。

人間の認知的な偏りから説明するのもよいでしょう。人間の目の、構造の問題でも構いません。どれほど慎重に考察しても、素朴唯物論と素朴経験論は、間違っています。

それでいて、自分の目で見たから間違いない、自分で経験しなければ物事は理解できない、といった言葉には、魅惑的な説得力があります。間違っているにも関わらずです。攻撃にさらされているわけです。

誘惑に打ち勝つための力は、広く言えば、考えることになりそうです。人間の経験より、論理を信頼しようとすることです。

考えることについて定めようとすると、いちばん無理のないテーマが、哲学と数学を学ぶこと、実践することになるように、感じています。
数学は、個人の物理的な経験が入る余地のない、数少ないテーマです。同書『数学者の哲学+哲学者の数学』のタイトルから察せられる通り、哲学も、同様でしょう。経験が当てにならない以上、経験が入る余地がないというのは、大変に安全です。経験や、実験や、解釈や、判断などと関係するものでは、不安なのです。

こちらの記事を読みました。

メモすることに馴染むための「ミニマム・メモ術」 | シゴタノ!

素晴らしい記事です。日常的にメモをとることを、新しい習慣を身につけることととらえ、難しさを説きます。

メモすることに限らず、新しい習慣は、身につく前には価値を体感することができません。次のように言われます。
理性において理解することはできても、その効果を体感することは不可能なのです。
新しい習慣を身につけることには、名状しがたい、独特の難しさがあります。それなのに、悲しいかな、習慣に意義を感じられないのなら、実現は困難です。
この意味で、習慣を身につけてしまった人、いわゆる達人からのアドバイスは、役に立ちません。達人は、習慣の意義をじゅうぶんに体感しているためです。

よくある話ではあります。先生と生徒、などの構図があったときには、避けて通れない話題です。

記事は、ここに解決策をもたらしたところが、慧眼です。
メモすること、ノートを書くことに直接的な意義を感じなくても、それをすることで「あのメモ術をマスターできる」「あのノート術を使いこなせる」という代替的な意義を作り出してくれるのです。
メモすること、そのものの意義は体感できなくても、メモ術なるものを習得できるのだと思えることが、意義になるということです。

憧れと呼ばれるもののことだと、私は理解しました。

新しいことを学ぶときに、達人の助言は参考になりにくいものです。意義を感じられないためです。一方で、達人の技術といいますか、達人が技術を使う姿が、参考になります。憧れという形です。

具体的な手順と、それをなす意義は、自身で組み上げることも、不可能ではないような気がします。助言がなくても、一人でなんとかなるかもしれない、ということです。憧れの方は、一人で立ち上げるのは、かなり難しいものがあります。

憧れが、新しい何かを学ぶことを牽引してくれるのなら、やはり、達人の存在は不可欠です。助言が役に立たなくても、達人は何かを伝えているのです。

後に続く者に何かを伝えるということには、なるほどいろいろな形があるようです。

憧れによって、学ぶことと、試行錯誤を牽引されると、気づけば、具体的な手順や、それをなす意義を身につけていることでしょう。学び始める以前には、すなわち、達人の助言とは、かけ離れた内容になるはずです。

達人は他人だからです。憧れに牽引される以前の自分も、やはり他人だからです。
意義とか、目的を感じる、私というものが変化していきます。意義も変わっていくのが自然です。

意義と目的が、定められるものではなく、感じられるものであるというのは、なかなかによい結論です。

さて、ここまで、二つの話題を見てきました。

一つめは、自分で経験したということが、何かの説得力を示さないことです。
二つめは、達人の助言からは、それをなす意義を体験できないということです。

経験は間違っているのに、体験しないと意義を感じられません。
経験と、体験とで、言葉は違えど、対照的な用法となりました。前者は否定で、後者は肯定です。

前者は、個人的でないものについて、言及しています。説得力とは、個人の感覚とは関係のないところにあるものです。個人的な経験は、何かの説得力に寄与しません。
後者は、個人的なものに言及しています。憧れを感じて、学ぼうと思えるのは、個人の感覚に閉じることです。

経験というものには、役に立つところと、役に立たないところがあるようです。
個人の感覚に閉じている間にだけ、経験が役に立ちます。

憧れによって、学ぶことを推し進めると、当初には思いもよらなかった意義に至ります。意義とは、個人の経験よりも抽象的で、説得力のあるものです。素朴唯物論の攻撃から身を守る、健全な説得力です。

数学と哲学とが、素朴唯物論から身を守る楯になるのは、個人の経験よりも抽象的なものだからに違いありません。

当初に思いもよらなかった、抽象的な意義は、また、新しい形で、学ぶことと、試行錯誤を牽引するのでしょう。素晴らしいことです。意義を感じる、私というものが、変化しているためです。
新しい形とは、きっと、個人の素朴な経験でありながら、素朴唯物論の攻撃に負けないものになるはずです。

こうして、数学と哲学を学ぶことでさえ、個人の素朴な経験に戻ってきました。やはり、思いもよらないことです。

数学と哲学の魅力は、素朴なところ、具体的なところにあります。奇妙に魅惑的な説得力に、私たちの身を晒します。


終わりに


習慣に意義を感じられないなら、身につけるのは難しい、と書いたところがありました。書いておいて何ですが、本当なのでしょうか。

そもそも、習慣とは身につけるものなのでしょうか。
自分で経験した疑問です。