2017年9月3日日曜日

「かーそる」2017年7月号

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個人的には、これで、文章を書くことについて、よくわかったと思っています。しばらく、検討の必要がなくなり、便利になりました。

『サウンド&レコーディング・マガジン 2005年7月号』で、音楽家のレイ・ハラカミさんが、インタビューに答えています。レイ・ハラカミさんの作る音楽には、主旋律、主役がいないようである、という話からです。
(インタビュアー) 自分自身の作品としては、今後も真ん中に主体の無いものを作り続けるのですか?
(ハラカミ) そうですね、基本的にそういう音楽が好きなんだろうなと思います。主旋律そのものを想像させる楽しみが自分の音楽にはあると思うので。
主旋律がいないように感じられるのは、主旋律を、想像させる楽しみがあるからだと言われます。心に残る言葉です。
(インタビュアー) 確かにハラカミさんの音楽を聴いていると、聴いていることを忘れてしまう感じがあるといいますが、押しつけがましい感じがないですね。
(ハラカミ) 僕が自分の音楽の第一リスナーとして、そんな気分で聴いているからですよ。真ん中に何も定位させていないからこそできることですね。でも、真ん中に人はいないけれど、このジャケット写真で言えば、撮ってる側として居るんです。そこに僕は居ないけどその前には居る。その関係性で作っているんです。
主旋律を想像させるような作品であっても、他方で、主体や意思が、何もないわけではありません。撮っている側として、確かに存在しています。

この二つの言葉は、私の思想に、強く影響を与えています。
主旋律を想像させる楽しみと、撮っている側としての意思です。

もとより、主旋律というものが、あまりシンプルに存在するのは、困難ではないでしょうか。
私はどうも、シンプルさは指向しないほうです。さまざまな要素がひしめき合った結果、平衡している、という論理が好きです。

素晴らしい雑誌ができあがりました。『かーそる 2017年7月号』です。

「かーそる」2017年7月号 [第二号] – Project:かーそる

本号、全体を読み通してみて、気づきました。私は、雑誌が好きなのだと思います。

主旋律がいないようでも、主旋律を想像する楽しみがあるため、かもしれません。さまざまな要素がひしめき合っていても、撮る側の意思が確かにあるため、かもしれません。

難しすぎず、簡単すぎず。
身近すぎず、高尚すぎず。
読み物として面白く、
それでいて、ノウハウとして役立つものが含まれている、そんな雑誌に、本号も、なっているかと思います。


終わりに


私は二つの原稿を書きました。文章を書くことについて、よくわかったと思っています。

私の原稿はさておき、未来にわたって続く場所に、レイ・ハラカミさんの言葉を残すことができ、本当に嬉しく思っています。「かーそる」は、そんな場所だと信じています。

時が経っても、薄れずにいてほしい言葉があります。