2012年10月21日日曜日

私が他所のクラス

こちらの記事を読みました(ありがとうございます)。

R-style » 「仕事術のiPhoneアプリっぽさ」について

記事の内容についてはぜひリンク先をチェックしていただきたいと思います。
本エントリで取り上げたいのは、上の記事の内容とはあまり関係なく、そこで現れていたある一文についてです。
引用いたします。
仕事術をiPhoneアプリに類推する(※)と、次のようなことが思い浮かびます。
※関数っぽく表記すると、類推(“仕事術”,”iPhoneアプリ”);
なるほど、String二つを引数にとるような、「類推」メソッドを呼んでいるわけです。返り値(リターン)については、とりあえずここでは明示されていません。

いま、私は「類推」メソッドが定義されているものとは別のクラス(モジュール)だとします。
つまり、「類推」を使うには、定義されたクラスをimportしてくるなどする必要があるわけです。

今回はそんな話です。


別のモジュール


現実の行動としての「類推する」に上で述べたような様子を当てはめてみると、非常に興味深い話が思いつきます。
こればかりは、実際に「類推する」ことの経験がないと説明しにくいのですが、たぶん、そのような方はあまりいらっしゃらないでしょうから、そんな説明でいきます。

私が「類推」メソッドが定義されているのとは別のクラスだった場合、「類推」が実際に内部で何をしているかは見えません。わかるのは、String二つを渡すと何かを返してくれることだけです。
オブジェクト指向プログラミングの言葉では、これを「カプセル化」などと表したりします。これはあちこちで出てくる重要な概念ですので、「カプセル化」以外にも似た単語を目にするかもしれませんし、あるいは「カプセル化」の定義はそんなものではない、といった話もあるかもしれませんが、とりあえず本エントリでは「カプセル化」で統一することにします。

ちなみに、私は社会の発展の歴史はカプセル化の歴史だと思っているのですが、この主張は極論過ぎてあまり面白くないので、いまのところ、それについて深く考えたりどうこうしたりする予定はありません。

話が逸れました。「カプセル化」、つまり他所からは中身が見えないことの話です。

そして、私たちが実際に「類推」と呼ばれる行為をするときも同様、その中で何が行われているかを見ることはできません。「何かを何かに(先の例では仕事術をiPhoneアプリに)類推しよう」と思ったとき、どこがどうなって類推結果が得られているのかは、普通はわからないのです。
ここでわかるのは、「何かを何かに」の「何か」を決めると、ある類推結果が得られることだけです。


化学反応


それから、こちらの記事を読みました。

外向的な人優位の中で、内向的な人が渡り合っていくための、小さな工夫と考え方 #tokyohack010 | Find the meaning of my life.

こちらも、本エントリでその内容まで踏み込むことはしませんが、ぜひお読みいただきたい素晴らしい記事です。

私が取り上げたいのは、記事内の以下の文章についてです。
引用いたします。
フラスコに同じ薬品をいくら入れても化学反応は起きません。熱を加えたり、異なる薬品を入れて初めて化学反応というのは起こるものです。
なるほどと思いました。もちろん、同じ薬品であっても、それを過剰に入れることで別の反応が起きることは多々ありますが、そういった話は置いておきます。

ここで、化学反応と呼ばれるものについてもう少し見てみます。
上の引用文のように、日常生活における比喩として化学反応の言葉が使われる場合には、「別のものを複数持ってきて混ぜると、何か思いもよらないものが出てくる」といった雰囲気があるように思います。音楽CDのディスクレビュー記事などを思い出してみるとわかりやすいでしょう。

ですが、実際の化学反応では、なにもそういった不思議なことが起きているわけではありません。
反応の前後では、全体の質量も電荷もその他諸々も大抵が一定に保存されますし、変化する部分も、元の化学式から「これは弱酸の遊離だな」などといってきちんと計算できます。
その計算が複雑で大変であるような状況はあるにせよ、得体の知れないことが起きているわけではないのです。

ただし、これは「化学反応」が定義されたクラスの内部にアクセスできる場合での話です。
もし、私が「化学反応」をimportして使う立場のクラスだった場合、やはりそこでは得体の知れないことが起きています。適当な薬品を複数渡すと、全く別の薬品が返されてくるわけです。そこで保証されているのは、返されてくるものは自分が渡したものに依存して決まる、ということだけなのです。

翻って、この「化学反応」が日常生活の比喩である状況に再度目を向けてみます。

私はやはり「化学反応」の内部で起きていることはわかりません。化学反応はカプセル化されているわけです。わかるのは、自分が渡したものによって、返されるものが決まることだけです。

しかし、このことは、一つ悪くない発想に私を行き当たらせます。

「化学反応」メソッドが有用であることは先人たちの様子から明らかなわけですので、もしそれによって良いリターンが得られなくても、それは単に渡すものが良くなかっただけになります。
与えられたメソッド内部の出来が悪いとか、そういったことは考える必要はありません。そもそも「化学反応」も「類推」も他所のクラスのものですので、どうしようもないのです。
(継承してくることはできるかもしれません。)

ですので、自分の使っている「類推」や「化学反応」は駄目だ、と嘆く必要はありません。渡すものの選択に、工夫する余地が十分あるわけです。
きっと、良いリターンを得られるインプットは、どこかで見つかるはずなのです。


終わりに


本文中に、「極論過ぎて面白くない」とのことを書きました。

書いてから気づきましたが、私は、極論過ぎるものを面白くないと感じるようです。
これはどのような現象なのでしょうか。不思議です。

そうすると、「面白い」も他所のクラスで定義されたメソッドということになります。

2012年10月17日水曜日

これはテクノですか

こちらの記事を読みました。

10月14日(日)、東京ライフハック研究会Vol.10でプレゼンします!15分間で恥ずかしげもなく夢を語ってきます! | jMatsuzaki

記事自体は、「東京ライフハック研究会」なる場所でプレゼン大会が行われることについてのものですが、本エントリで取り上げたいのは、それとは別の点です。
引用いたします。
私はこの貴重な15分で恥ずかしげもなく存分に夢について語ってくるつもりです。
私はこの「恥ずかしげもなく」という言葉が好きです。
こちらのブログ「jMatsuzaki」を私はとても好きであり、その理由の一つはその「恥ずかしげもなく」な部分なのかもしれないと思っています。

それから、上でライフハックとの単語が出現していますが、本ブログでたびたび言及しているとおり、私はそれが好きです。

近頃は声高にライフハックを叫んでいる記事などもあまり見なくなってきていますし、同時にライフハックについていろいろと言われることも少なくなってきているような気がします。
いろいろとは、例えば以下の記事でそれについて触れられています。

若葉ブロガーさんへの手紙其の3−あなたの「言葉」と「声」を聞かせて欲しい | Hacks for Creative Life!
いわゆる信念の部分さえしっかりしていれば、2chやはてなブックマークのコメントで「ライフハック(笑)」とか「手段と目的が逆転している」と書かれたとしてもさほど気にはならないわけです。
実際、私自身はこのような意見を自分で目にしたことはありません。それはもう、一度たりともありません。おそらく、それはひとえに私の観測範囲が好きなブログのRSS購読と読書でほぼ尽きているためなのでしょう(最近は「cakes」が増えました)。ですので、「ライフハックについていろいろと言われている」かどうかは、知らない、というのが本当のところです。

それはそれとして、ともかく、最近はライフハックの声を聞くことが減ってきているように感じています。統計などはなく、なんとなくです。

ですが、私は当分ライフハックの看板を下ろすつもりはありません。今も変わらず私はライフハックを信じていますし、これからもそうなのです。

私がライフハックを好きなのは、一言で言えば、ライフハックは手段にこだわるからです。
とはいえ、本ブログを読んでくださる方ならおそらくご察しの通り、この「ライフハックは手段にこだわるからです。」にはたくさんの意味と背景と、その他諸々のものが含まれています。

これに関係するかもしれないものがあります。
最近、『それでも、読書をやめない理由』との本を読みました。大変素晴らしい本で、強く影響を受けたのですが、その中に下記のような文章がありました。

『それでも、読書をやめない理由』(デヴィッド・L. ユーリン)
本の場合、あるいはある程度の長さにわたる文章の場合、状況は違ってくる。もっと緩やかで、深く、静かだ。
私が、本を読みたい、文章を書きたいと思う理由の一つはここにあるのかもしれないと、この一文を目にしたときに感じました。
長い文章は、緩やかで、静かなのです。

他方で、短い文章が唯一静けさを湛えているのは、そこにたくさんの何かが含まれているときだと言えるかもしれません。つまり、見た目は短くても、長い話があるわけです。有名な例で恐縮ですが、「サラダ記念日」などがそれでしょう。

したがって、私が言う「ライフハックは手段にこだわる」は、静かであってほしいと思うわけです。

さて、それもあって私はライフハックが好きです。
ここで、この「ライフハックが好き」にはある種独特の響きがあると、私は感じています。
これは、先の「手段にこだわる」とはやや趣を異にしており、「ライフハックが好き」との表現自体がその独特さをまとっているのです。

その独特さは、それゆえに言葉で表現するのがとても困難なのですが、私にとっては「テクノが好き」と似ているように思えます。

世間から見れば私などはまったくの無知の部類に入るため、説明するのは気恥ずかしいものがありますが、書きます。
現代で、テクノという音楽ジャンルについて答えるのは、とても難しくなっています。それは、テクノは常に変化を続けていて、ジャンルが次々に細分化されていったり、その細分化された先が別のジャンルと融合したり、といったことが起きているためです。これは、テクノの性質からして仕方のないこととも言えます。
その結果として、例えば、ある楽曲を聞かされて「これはテクノですか?」と問われても、明確に回答するのが難しくなってきます。あるいは、「テクノってどんな音楽ですか?」との問いも、とても答えにくいはずです。

それでも、私はテクノが好きです。
「テクノが好きです」
「テクノってどんな音楽ですか?」
「それは……」
となってしまうにも関わらず、好きなのです。
そして、少し上で言及した「独特の響き」とは、たぶん、このあたりのことを指しています。

つまり、ライフハックもこれと同様なわけです。
ライフハックとはいったい何なのか、何の役に立つのか、といったことに即答できないものの、やはりそれが好きなわけです。

ライフハックもテクノも、私は「恥ずかしげもなく」好きだと言うのです。


終わりに


前置きを書いていたつもりだったのですが、終わってしまいました。
今回は、そんな話でした。

2012年10月14日日曜日

幽霊を探さないで

本エントリでは、私が好きなものについて書きます。
と思いましたが、今私が書こうとしていることが、好きなものについてではないような気もしてきました。
とはいえ、私は基本的には「これは何についての文章か」「何を伝えたいのか」といったところは、読む人に自由に解釈してもらってよいものだと思っていますので、「私が何について書こうとしているか」はそれほど重要ではありません。
(よくわかりませんが、このあたりの感覚はフィクションを書く人のそれに近いのかもしれません。)

一応、テーマとしては「瞬間」とか「一時的」といったものを想定しています。

今回はそんな話です。


コーヒー


私はコーヒーをよく飲みます。それは自宅、外出先を問わずのことですが、ここでは自宅でコーヒーを飲むときの話をします。

私は、自宅では必ずコーヒーをホットで飲みます。ここにはそう深い意味はなくて、私がコーヒーはホットの方がおいしいと思っているために過ぎません。

そのとき感じることがあります。
それは、どうやら私は冷めたコーヒーが好きらしい、ということです。
熱いコーヒーを入れて(「淹れて」は常用外のようです)、コーヒーをおいしく飲んでいるのですが、そのコーヒーが冷めてきたときに飲むと、おいしさとは違った何とも言えない満足感を覚えるのです。単純に比較すれば、間違いなくコーヒーは熱いほうがおいしいにも関わらず、です。

これについて細かく見てみると、私はコーヒーが冷めていく瞬間が好きなのかもしれないとの考えに至りました。清水愛さんの『記憶薔薇園』という曲に、「消えてく瞬間が好きでも 探さないで」との歌詞がありますが、たぶん、発想はこれと近いと思っています。
言い換えると、冷めたコーヒーはさほどおいしくなくても、コーヒーが冷めていること、コーヒーが冷めてきたこと自体に、私が満足する要素があるようなのです。

私は、コーヒーをまず間違いなく毎日飲んでいます。
それと、私はどちらかというと性格がのんびりしています。というか、のんびりしているようです。これは最近気づきました。

普段、時間に追われて生活していると、自宅でゆっくりコーヒーを飲む機会にはあまり恵まれません。熱いうちに、急いで飲み干して家を出る、といったこともままあるわけです。
一方で、時折は、ゆっくりコーヒーを飲む時間を確保できることもあります。休日などがわかりやすい例です。

これが、私が「コーヒーが冷めていること、コーヒーが冷めてきたこと」自体に満足を得る理由です。
冷めたコーヒーを飲めることはすなわち、自宅でゆっくりする時間がとれていることの象徴であるわけです。これは、自宅でゆっくりすることが好きでない方には自明でないのでしょうが、私にとっては、それはもう満足なのです。


幽霊


まったく別の話に移ります。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」との言葉があります。
私がこの言葉がとても好きです。「疑心暗鬼を生ず」よりも好きです。

これは、江戸時代の俳人、横井也有が「化物の正体見たり枯尾花」とつづったのが出自のようです。
横井也有については、こちらのページが詳しいです。

y横井也有

とても興味を引かれましたので、私も後ほどじっくり読んでみたいと思います。

さて、一つ気になるのは、この「幽霊(化物)の正体見たり枯れ尾花」、横井也有はどのような状況でこれを書いたのでしょうか、とのことです。
より詳しくは、「枯れ尾花だった!」と感じたのは誰だったのでしょうか、と言い換える方が良いかもしれません。
もちろん、きちんと調べればそのあたりのことはわかるのでしょうが、ここからはまったくの私の想像を書いてみます。

一つめに思いつくのは、横井也有が第三者だったパターンです。
その場合、横井也有の知り合いあたりから「それがさ、枯れ尾花だったんだよー」といった話を聞き、それを書き残したことになります。なるほど、ありそうな話です。

二つめは、横井也有が自分で「枯れ尾花だった!」との状況を経験したパターンです。
これは、横井也有ほどの人(といってもよく知りません)がそのような人間らしいエピソードを持っていることを意味しますので、それはそれで面白いです。

三つめは、これが幽霊(化物)目線で書かれているパターンです。
考えてみれば、幽霊は、「あれ、幽霊かも……」と思われた瞬間から、近づいていって「なんだ、枯れ尾花じゃないか」と確かめられた瞬間までの、ほんの少しの間にしか存在できない、うたかたの存在です。それはちょうど、熱いコーヒーが冷めてきたときにしか得られない満足感に似ているようにも思えます。
そう思ってこの「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を見てみると、何だか物悲しいものがあります。これは、幽霊がほんの少しだけこの世に生を受けて、すぐに消失していってしまう様子を表しているわけです。
私はそんな、「消えてく瞬間が好き」だったのかもしれません。

でも、「探さないで」とのことですので、そっとしておこうと思います。


終わりに


そんなことを考えているうちに、コーヒーが冷めてしまいました。

2012年10月13日土曜日

知っていることの話

私は会ったことがありませんが、昔の人で、「無知の知」などということを考えた人がいるそうです。
言われてみれば確かに、知らないことを知っているかどうかは非常に重要なことでしょう。かくいう私も、知らないことをきちんと知ることができているか、あまり自信はありません。

一方で、知っていることを知っているかどうかも、また重要なことだろうと思います。やはりこちらも、私は自分が知っていることを知っているかどうか知るにはどうしたらよいか、自信がないものです。

本エントリでは、知っていることを知ったときについて知りたいと思っています。
そろそろ知るがゲシュタルト崩壊してきそうですが、つまるところ、知っていることを知っておくことには価値があるのです。

ちなみに、この書き出しはこちらの記事に影響され、最大級の敬意を込めて、このようになっています。

自分のことを考えるエネルギー効率が非情に悪い ( #ブログ合宿 での記事) - なんかカラフルな生活

とても好きな記事で、そしてとても好きなブログです。ぜひ、お読みいただきたいと思います。

さて、本エントリでは「知っていることを知ったとき」、きちんと言えば「すでに持っている知識についての情報を、再度目にしたとき」について考えます。
決して、「無知の知」などとは関係しませんし、複雑な話でもありません。

今回はそんな話です。


すでに知っている


こちらの記事を読みました。素晴らしい記事です。

「delaymania」に後付けで意味を持たせることにしました | delaymania.com

こちらでは、「それ知ってるよっていうことを敢えて書く」と題されて、下記のような文章が続いています。
TwitterやらFacebookやらを見てると「それ知ってるよ」とか「基本中の基本でしょ」というご意見が目についたりすると思います。
でもあなたの周りにはそのことを知らない人がわんさかいるんです。
まさにその通りだと思います。
ある情報について、自分が「それはもう知ってる」と思ったとしても、一方では、「それは知らなかった!」と、その情報が大いに役立つような人がたくさんいます。
私などは、直接「基本中の基本でしょ」といった意見を目にしたことはないのですが(おそらく「TwitterやらFacebookやらを見て」いないためでしょう)、いつだって、その情報に価値を感じる人はいるわけです。


知っている人


上記は、すでに知っている情報を目にすることの価値を、他人に求めたものでした。つまり、自分には役立たないけど、どこかに役立つ人はいる、との発想です。

他方、同じ状況で、自分にとっても価値のあることを考えましたので、それについても書いてみます。
要は、すでに知っている情報を目にすることが、目にした当人に対してもたらす価値についてです。

それは、自分の中で理解できていることでも、それを(文章をはじめとした)形ある表現として一度目にしないと、それを踏まえた行動をとることができないことです。
言い換えると、情報を目にして「基本中の基本でしょ」と思ったとしても、それを目にする以前では、「基本中の基本」の先にある行動はできていなかったことになります。

何か具体例を出すことにします。
『武器としての交渉思考』に、下記のような文章があります。


『武器としての交渉思考』(瀧本哲史) 
だからこそいま、若い世代の人間は、自分たちの頭で考え、自分たち自身の手で、合意に基づく「新しい仕組みやルール」を作っていかなければならない。
こちらは本書の出だしの部分でもありますし、内容や文脈についてはすべて脇によけておきます。
単純にこの文章だけを見たとき、多くの人にとって、特に目新しいことはないでしょう。「へえ、自分たちの頭で考えないといけないんだ!」と思うような人は、少数のはずです。

しかし、「今の時代は、自分の頭で考えないといけないんだろうな」と何となく思っているような状況では、実際に自分の頭で考えて、その上で行動をすることは難しいです。
当然わかっているとしても、一度「頭で考えないといけないんだよ」との情報を目にすることで初めて、それを踏まえた行動を検討できるのです。

すなわち、すでに知っている情報を目にしたときの心の動きとして、
  • それは知ってるな
  • 「基本中の基本でしょ」
ではなく、
  • それは知ってるな
  • だから、どうしようか
とすることで、既知の情報を改めて目にすることに価値が生まれますし、本来、「それは知ってるな」を抜きにして「だから、どうしようか」は発想し得ないことなのです。

ここで言っているのは、そのような状況でも工夫すれば価値を見出すことができる、といった妥協案ではなく、ここでの価値(「だから、どうしようか」を考えられること)はそのような状況(「それは知ってるな」が必ず一度先に来ること)でしか絶対に得ることができない、との原理の話です。

この「それは知ってるな」は、何も他者が発信した情報に限りません。自分で何となく理解していることを文章に起こしてみることなどでも、同様です。
そもそも、自分の力で書いた文章は、ある面では究極の「それは知ってるな」情報なのです。


終わりに


すぐ上で、「究極の」の前に「ある面では」と注釈が入っているのは、自分で書く文章でも、書いているうちに自分の手を離れていって、終わってみたら思わぬ場所に着地していた、ということがあるためです。
すると、自分で書いた文章を読み返してみても、「それは知ってるな」とならないのです。