2014年8月3日日曜日

青緑色ギャラクシー

道具という言葉は、なかなかに定義するのが難しいものです。

倉下忠憲さんの書籍『まるで未来からやってきたかのような』を読みました。

R-style » 『まるで未来からやってきたかのような』が発売されました。

その中に、「”道具に使われている”という言葉」との節がありました。
(ブログ記事で読んでいるはずなのですが、改めて)興味深く感じました。

ところで、先日、某所にて講演を聞きました。

そこで「技術は数年で陳腐化する」「理念は百年続く」とのお話がありました。

妙にアトラクティブな標語です。
少し考えてみます。

「技術は数年で陳腐化する」の方から始めます。

それほど、議論の余地はないだろうと思います。といいますか、技術は現実に存在しているものですので、議論ではなく、観測です。
技術が陳腐化するかどうかをよく把握できるのは、賢い人ではなく、落ち着いて観測する人です。

わりと、広く敷衍できる考え方かと思います。

私の観測によれば、数年で陳腐化してしまった技術を見つけるのは、なかなかに困難です。
基本的なところで私たちの生活を支えている様々な技術は、どれも、十年の単位で使われ続けています。陳腐どころか、ダイナミックに進展すらしています。

生存者バイアスでしょうか。
そうだとしたら、なおさら、あらゆる技術は陳腐化せずに使い続けられるように見えるものの、実際のところはどうだろうか、と考えていくのが自然です。

もちろん、時とともに新しい技術は生まれます。否定できないことです。だからといって、それは既存の技術を陳腐化させることにはなりません。

「理念は百年続く」というお話はどうでしょう。

書籍『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)に、興味深いエピソードがあります。

著者のドイッチュさんが、天文台で星空を写した写真から、銀河の位置を手作業でカタログ化する仕事を手伝っていたときのことです。昔の話です。現代なら、パターンマッチングのアルゴリズムでできる作業です。

写真では、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っているそうです。ご想像いただけますでしょうか。
モノクロのぼやけた写真を見て、ここに銀河、そこに恒星、と記録していくわけです。大変そうな作業です。

さて、ドイッチュさんが、一枚の特にわかりにくい写真を作業することになりました。写真を見せてくれた人に、「これは銀河? それとも恒星?」と尋ねます。

次のような回答でした。
「どちらでもない」というのが答えだった。「そこは写真乳剤がうまく反応しなかっただけだ」
銀河が恒星かと思っていたものは、ただのしみでした。
ドイッチュさんは続けます。
突如として、その写真には天文学者も、川も、地震も存在しなくなった。空想のかなたに消え去ってしまっていたのだ。私は、自分が見ているものの質量を一〇の五〇乗ばかり多く見積もりすぎていた。
描いていた壮大なドラマが、勘違いだったことに気づきます。
ところが、そこで、重要な知見に至ります。
しかしちょっと待てよ、と思った。私は一つでも銀河を見ていただろうか? 他の斑点もすべて、本当は非常に小さな感光剤のしみだったのである。
もっともです。銀河を観察するために、空を見上げていたわけではありません。
ずっと、写真に写ったしみを見ていただけです。

ここから、何かのデバイスを用いた観測が間接的であることについて、論じます。
間接的な観測には、理論と知識が要ります。それでいて、銀河の観測として、空を見上げるよりも正確です。
観測の間接性を増す層はそれぞれが、関連する理論を通じて、誤りや幻想、誤解を招くような観点や、ギャップを修正しているのである。もしかすると、本当に正確な観測はいつでも非常に間接的だという話が奇妙に思えるのは、理論を含まない「純粋な」観測という、誤った経験論的な理想があるためかもしれない。しかし、進歩とは、観測に先立って、非常に多くの知識が活用されていることを求めるものだ。
正確な観測は間接的です。そして、知識は観測よりも前にあります。

話が変わります。
human-based computing と呼ばれる、新しい思想があるそうです。

概要を述べます。
これまでの時代では、人間の仕事を、可能な範囲でコンピュータに委譲していくのが基本でした。人間の仕事という大きな領域があって、そこから上手に切り出したものをコンピュータに依頼していたわけです。ずっと、コンピュータとはそういったものでした。

新しい考え方とは、その反対のものです。
コンピュータにしかできない仕事があって、一部を人間が手助けします。目的を抱くのはコンピュータで、必要に応じて人間を使ったりします。

私が聞き及んだ具体例をご紹介することとしましょう。
登場するインスタンスは二つです。

一つめです。
この世界のどこかに、OCR技術で古い文書の電子化を進めているプロジェクトがあるそうです。たぶん、こうしている間にも、次々に電子のデータが生成されているものと思います。

二つめです。
ウェブサイトのアカウント登録で、パスワードを入力した後などに、不自然に歪んだ文字の画像を目にしたことがあるかと思います。
画像を見て、描かれている文字をテキストボックスに入力し、submit すると、無事にアカウントを作ることができたりします。

さて、不自然に歪んだ文字を入力するというこの行為は、一つめの、古い文書をOCRにかける際のサンプルとして蓄積されていることがあるそうです。
人手で入力しているわけですので、これほどの標本は望むべくもありません。

コンピュータの仕事を人間が手伝うことについて、雰囲気が感じられましたでしょうか。

強調したい点があります。
コンピュータの仕事を人間が手伝うのですから、仕事への主導権はコンピュータが持ちます。仕事に関して理念や実作業といった分類が存在するとしても、それを判定するのはコンピュータです。
human-based computing における人間の作業は、目的や手段からかけ離れたところにあるのです。

human-based computing がどれほどの将来の話なのかはわかりません。すでに、現代はそのような時代なのかもしれません。
いずれにせよ、その時代に人間の作業を遂行するためには、直感に反する心構えが必要になるはずです。作業が目的や手段とかけ離れているなら、それらを礎に進んでいくことができないためです。

理念とか目的のような空想を持ち出ことはできません。コンピュータが決めるものだからです。

仮説と、知識と、観測を、いずれもたくさん抱いておくというのが、健全な姿だろうと思います。
そして、コンピュータの演算結果に合わせて、それらを少しずつ更新したり、棄却したりしていくわけです。続けていくと、理念とも呼べるものができあがっていくのかもしれません。

ある意味で、道具に使われる未来です。
コンピュータの演算結果を通して世界を観測するというのは、大変に間接的です。人間が自分で世界を見て、コンピュータに適当な仕事を渡すのとは違います。
つまり、観測に先立つ知識が良いものであるなら、人間が自分で見るよりも正確なのです。

それから、上で、既存の技術が陳腐化していないのに、次々に新しい技術が生まれていると書きました。人間の数と能力はそれほど増えていませんので、道具に使われる部分がどんどん増えているはずです。

同時に、いかにして道具に使われる部分を増やしていくか、思案していく必要があります。
道具という言葉の意味を拡張するか、新しい言葉を用意するのがよいのかもしれません。


終わりに


話の都合上、コンピュータを過大に神聖なものとして書いてしまっています。
不本意なところもありますことを、ここに表明しておきます。

2014年6月25日水曜日

本と私の相互作用

好きなものの種類を尋ねられると、不思議に答えにくいものがあります。

私は本を読みますので、どんな本が好きなのか、といった質問に直面することが多々あります。
はたと立ち止まってしまうのです。

好きなものも、私も、変化し続けているということが、答えにくさをもたらしているような気がします。

私なりに、ちょっとした回答がないわけではありません。ただ、おそらく質問した人はそれを求めていませんので、回答と呼ぶのはおこがましいところです。思い、とでもしましょうか。

どんな本が好きなのか、についてです。
いろいろな本が好きなわけです。

画一させた思いを述べるなら、私は、人類の知識やアイデアが進展するところに興味があります。そんな本が好きです。
あまり厳密ではないものの、何かの問題があったとして、その回答に関心があるわけではないということと、だいたい同じ意味のように思っています。

ドラッカーが、『マネジメント』で述べたことを思い出します。
大事なのは、問題への答えではなく、問題についての理解である。
問題への答えを得るより、何か基本的な人類のアイデアが進展する方が、リーチが大きくなります。私たちに強く寄与します。

フレームワークという言葉があります。
私が基本的な人類のアイデアと呼んだものと、フレームワークとは、似ているように感じるかもしれません。

どうも、フレームワークなるものは広い意味を採りすぎているきらいがあり、話がややこしくなります。フレームワークとは、ある特定の事象を示す言葉ですので、それほど便利に使うことはできません。

フレームワークには、配下に、実装する個別の要素が必ずあります。配下の要素は、フレームワークのすべてをことごとく実装します。
一部を採用して、ある一部は採用しないようなことがあってはなりません。個別の要素どうしで、共通のフレームワークを持つことが保証できなくなってしまうためです。

また、ひとつの要素が複数のフレームワークを使用する際には、多大な注意を要します。
フレームワークと配下の要素の間には関連がありますが、フレームワークどうしにはありません。それぞれは勝手に作られたものですので、競合しないか、重複しないか、大変に神経を使うのです。

私が基本的な人類のアイデアと呼んだものは、フレームワークではありません。アイデアと回答の関係は、フレームワークと配下の実装のそれではありません。

アイデアや知識は、推論とか、飛躍から生まれるものです。行動できるような回答とは、直接には関係しないのです。
回答と関係しないからこそ、アイデアは、様々な回答へのリーチが大きいのでしょう。

フレームワークといえば、関連して、素晴らしい言及を目にしました。

choiyakiさんの書籍『Evernote×情報カード知的生産』からです。
Evernoteには、「ノート」という形で、情報は保管されます。ノートには、必ず「タイトル」をつけなくてはなりません。作成・更新日時が付加され、ノートブックに割り振らなければいけません。位置情報やタグがつく場合もありますが、最低でも「タイトル」「作成・更新日時」「ノートブック」という3つのメタ情報が「ノート」には付加されます。どのノートにも必ず、です。
Evernoteに保存される情報は、「タイトル」「作成・更新日時」「ノートブック」の3つが必ず付加される点で、規格が統一されているといいます。
このことを、梅棹忠夫さんが『知的生産の技術』で述べた、知的生産における規格の統一の重要さと対比して、Evernoteと知的生産について論じておられます。

Evernoteにある情報が規格を統一されることをもって、知的生産への有用さをこれほど明確に唱えた意見を、私は見たことがありませんでした。
人類のアイデアが進展した瞬間です。

規格が統一されていることは、一列に並べられることを意味します。
Evernoteにある情報は、ノートブック、タグ、そして検索を用いて整理されます。このあたりは妙にアトラクティブなのですが、それとは別に、すべての情報を作成日順に並べられる点も見逃せません。情報が規格化されていることに着目するなら、むしろこちらの方が重要です。

規格化されていない情報は、人の手で、何らかの分類と整理が必要です。
情報を、ましてや個人に関する情報を、整理するのは難しいことです。

こちらの記事を読みました。

R-style » Evernoteのユーザー数が一億人を突破、そして高度情報化社会市民としての知的生産

次のようにあります。
以前どこかで書いたが、私はEvernoteが「あたりまえ」に使われるツールになると考えている。「Word,Excel,Evernote」ってな具合に。
Evernoteが「あたりまえ」のツールになるということの意味は、情報の規格が統一されること、そうでない情報は整理が難しいこと、の周辺あたりにあるのではないかと思っています。

これも、『Evernote×情報カード知的生産』で触れられていました。
考えたことや思いついたことを書きとめた、"自分発"のものを「自分資料」、ネットや本など、"自分以外の誰か"が書いたことがらを、「他者資料」と名づけました。他には、時間のログや日記など、過去の「記録」も、知的生産をおこなう上での、立派な「資料」となり得ます。
「自分資料」と「他者資料」、そして「記録」の3種類の分類を掲げた上で、資料はいつもいずれかに整理できるといいます。

大変に興味深いことが述べられています。ここには、分類と整理の難しさが発生しないといわれるのです。
この分類が、誰かの個人的な事情や、時と場合などに依存しないためでしょうか。

分類とは、自分なりに使いやすいものを模索するのが望ましいのでしょうが、なるほど、外から押しつけて作ると曖昧にならないようです。思えば、すべてのノートを作成日順に並べることも、外から押し付けた基準です。
分類する難しさを回避するためには、考慮に入れておきたい方針です。

さて、誰かの個人的な事情に託さずに、客観の基準で情報を判定すると、分類が難しくならないということでした。
裏返せば、客観ではない知覚によって情報のインプットを測定したときには、その結果がいつも取り扱いにくいものになるわけです。

不思議に思えます。

ドラッカーは、この点にも気づいていました。『マネジメント』からです。
組織においてわれわれが扱う人間社会、すなわち複雑な知覚の世界においては、測定という行為は客観的でも中立的でもありえない。
知覚すること、測定すること、といったことが、客観的ではありえないといいます。

ここに、情報のインプットとアウトプットという考え方の重大な欠陥があります。
インプットを人間に与えると、アウトプットが返されると言われます。プログラミングからのメタファなのでしょう。
(あるいはチューリングマシンか、オートマトンか、λ計算でしょうか。どれも同じでした。)

このメタファが、致命的に不適切です。

インプットを人間に渡そうとしている限り、インプット情報と人間と、いずれも客観の存在ではいられません。
人間はインプットに、インプットは人間に、いつまでも影響を与え続けます。アウトプットと人間の関係も同様です。

インプット情報も、人間も、時間の経過の中の相互作用でしか存在することができません。
入出力と演算するモジュールが完全に独立している、あるいは独立させられるプログラミングの世界とは、違うのです。

人の知覚による情報の分類が、いつも難しいのはこのためです。
人間と情報が時間とともに変わり続けているところを、適当なところで中断して、測定したことにして、何かの分類に押し込めようとするわけです。中断するタイミングがほんの少し違えば、人も、情報も、別のものになるはずなのです。

だからこそ、どんな本が好きなのかを回答するのが難しいのでしょう。質問された瞬間に、本と私の相互作用を停止させて、何かそれらしい測定結果を決めているのです。
利用できるフレームワークでもあれば、実装して、楽に回答できるのかもしれません。


終わりに


とはいえ、基本的な人類のアイデアが進展するところに興味があるというのは、悪くなさそうなアイデアです。
様々な回答へのリーチが大きそうです。

2014年5月24日土曜日

留まるドラマのカタチ

長く、複雑なほうが、優しく感じます。どちらかといえば、その方が私は好きです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 5/5 〜 5/10 今週のまとめ

次のような言葉があります。
どうしても、長さが必要な表現もある。
間違いないような気がします。どうしてそうなのか、解説はいろいろとあることでしょう。
率直には、長い表現の方が手間がかかるものの、優しく感じます。

ブログ「あれやこれやの数学講義」さんで、「数学語り」と題されている企画があります。

あれやこれやの数学講義

いつも、大変に興味深く読ませていただいています。

いくつかの「語り」で、思考の持久力という言葉が使われています。
オリジナルの言葉なのでしょう。少なくとも、私は聞いたことがありませんでした。すなわち、素晴らしいことに、オリジナルの概念だということです。
きっと、数学と、数学を教えることについて長く考え続けてきた先でたどり着いたことと想像します。新しいことがらを、人にわかる形で提出されたわけです。

新しい概念ですので、受け取るほうも慎重に探っていきたいところです。

数学語り060では、二つの言葉が対比されています。習熟と、持久力です。もちろん、いずれも数学の問題を考えようとする場面のことです。

いわく、習熟は、よっこらしょとステップを登らなくてもよいようにすることで、持久力は、よっこらしょと登れる回数を増やすことです。
ステップをたくさん登っても疲れないような力のことを、思考の持久力だと解釈できそうです。

また、数学語り055は、なかなか答えにたどり着けない場面を示しています。
答えを得られないまま、辛いままで、踏ん張って思考を続ける力を、持久力と呼んでおられます。

思考の持久力について、徐々にわかってきました。
たくさんのステップを登っても、なかなかゴールに着かなくても、思考を続けられる力です。
大変に好ましく、身につけたいと思うものです。個人的には、上で少し出てきた習熟よりも好感を覚えます。

いま整理したとおり、思考の持久力を話題にするときの登場人物は二つです。ステップと、ゴールです。
ゴールを意識に留めておきながら、よっこらしょとステップを登ります。

ステップは経験できる実体であり、ゴールは知識のような概念です。

思考の持久力を、次のように呼ぶこともできそうです。すなわち、抽象を保留したまま、具体を根気強く追うことです。
数学を足場にしながら、他の領域にも手が届きそうになってきました。

私たちは、それなりに苦労して日々を生きています。私の好きな日常です。

日常のあらゆる場面で、さまざまなドラマをまっとうします。一方で、日常は変わり映えのないものでもあります。

この二つは相反しているように見えます。
日常のあらゆる場面はドラマの連続なのに、日常は変わり映えしないのです。

いずれにせよ、相反していそうな話題を同時に取り扱いながら考えを進展させていくことは、思考の持久力に該当するでしょう。

日常のあらゆる場面を抽象的に過ごすことは決してできませんが、それでいて、日常というものは抽象的です。
思考の持久力とは、変わり映えのしない日常を意識の片隅で保留したままで、日々直面するドラマを根気強くこなしていくことになります。

優しさについて、私が思っていることと似ています。

私は、優しいというのは、具体的であることを必ず内包していると思っています。優しくあることは具体的であることだ、と言ってもよいかもしれません。
優しさとは、他人の気持ちになれることだと言います。それは、他人のために、具体的なステップを踏む負荷をいとわないことです。自分ではない誰かの人生について、抽象的な単純さを意識の片隅で保留したまま、同時に、数多ある具体のドラマを認めることです。

その意味で、優しさというものは、絶対の正しさとして君臨したりはしないのだと思います。優しいことが具体的であることだからです。
抽象に終始する方が、つまり、優しくない方がよいような場面も、きっとあることでしょう。この気づきは忘れずにいたいものです。

個人的には、どちらかと言えば、優しくある時間を多く取りたいとは思います。

ここまで述べてきたことを受けると、私の表現は次の一行で済むように思えます。

思考の持久力がある人は、優しくいられます。

よく、わからない一行になりました。なるほど、どうしても長さが必要な表現に間違いなかったようです。あるいは、最後に短い表現をするために、長い話を準備しておく必要があったのかもしれません。

長さが必要な表現と、最後に短い表現をするための長い準備とが、まったく等価のものを指しているのかどうかは、難しいところです。

本エントリのはじめに、長さが必要な表現もある、という言葉との出会いを書きました。私はそれを、間違いなさそうだと感じています。そのときの印象からしても、短い表現のための準備とは、違うもののような気がします。

長さが必要な表現は、思考の持久力と、意図を同じくしているように感じます。対して、最後に短い表現をするための長い準備は、習熟でしょうか。
いずれにせよ、長く、複雑です。思考の持久力が活躍しそうなところです。

CooRieさんの楽曲「センチメンタル」に、私の大好きな言葉があります。ご紹介します。
複雑は「好き」のカタチね
長いほうが、優しいです。
優しいと、複雑です。
複雑は、好きのカタチです。


終わりに


日常というものは変わり映えしないけれど、同時に日常のあらゆる場面はドラマの連続であるという着想は、次の記事によったものです。ご紹介しておきます。

長期の仕事は薄氷を踏むようにして進んでいく | ライフハック心理学

大変に衝撃を受けた記事です。

2014年5月3日土曜日

詮の無い、近未来

複雑なこの世界の様子に思いを馳せるためには、教養が要ります。基本的に、教養は身につけるようにしたいと思っています。

自由な市民でありたいからです。

複雑な世界と書きました。
この世界は複雑である、といった言説を目にすることがあります。複雑だから、答えがいくつもありえたり、どちらとも言えなかったりするようです。

最近、気になっていることです。
本当に、世界は複雑なのでしょうか。どのあたりが複雑なのでしょうか。

私としては、世界は複雑であると、そんなに単純に断言してしまいたくありません。世界の複雑さにかまけて、思考を止めてしまっています。
いろいろと考察したうえで、注意深く、複雑さを了解したいのです。

世界なるものについて決めましょう。
ここでは、ある主体が、見たり、聞いたり、考えたり、といった個人的な認識を世界とさせてください。
空間にある物理的な事柄のすべて、などとしても構いませんが、それだと、私たちが普通には認識できない、あまり切実でない話題も含まれてしまいます。時空が膨張したり、水星の軌道が正しく観測できたりすることは、それほど切実ではないのです。GPSの精度が良くなるくらいのものです。

主体が世界を認識する経路は、ほんのいくつかあるだけです。視覚、味覚、触覚などです。この意味では、世界は複雑ではありません。

生物学の知識から、各々の感覚がそれほど多様でないこともわかっています。
視覚なら、色は赤と緑と青の三種類しかありません。味覚は五種類です。触覚は、皮膚感覚の仲間のひとつで、他には痛覚、温覚、冷覚、痒覚くらいしかありません。ちなみに嗅覚は四百種類くらいですが、それでも数え上げられる程度です。
もう少し他の例を挙げれば、DNAを特徴づける塩基はたった四種類しかありませんし、考えることは電気信号が発火するかしないかだけの問題です。

ここまでのところに、世界が複雑であると言い切れるようなものはありませんでした。それぞれを観察する限り、単純なのです。

とはいえ、私たちはいろいろな経路について、ひとつだけを選んだりはしません。赤色だけ、苦味だけを採用して、世界を認識することは決してないはずです。

したがって、世界が複雑になるのは、いくつかの経路の組み合わせのバリエーションを考えたときです。
基本的な要素が限られていながらも、それらの順列の状態数が多くなるのが複雑なのです。

すると、世界を複雑だと思う人は、少なくとも次の問いに答える必要が出てきます。
すなわち、基本の要素は限られていて、ただバリエーションが多いだけのものを、複雑と呼んでいいのでしょうか、という問いです。

私が学んだことのある情報工学という学問には、計算論という分野があります。
実は、計算論の知識がある人にとって、先の問いへの答えは明らかです。

要素が単純でただ組み合わせの数が多いだけのものは、少しのわだかまりもなく複雑です。
計算論を見れば、バリエーションが多いことがどれほど手に負えないか、実感できます。オーダとか多項式時間といった言葉は、そのために存在しているのです。

学ぶということは、自分の概念を増やして、心を豊かにすることです。それまでになかった直感を身につけることです。

以上のような紆余曲折を経て、世界は複雑であると、私は直感します。
(この意味では、計算論を学んだことのない人が、世界の複雑さをどのようにとらえているのか興味があります。)

情報工学といえば、よく、ソフトウェアを作るということが人類にとって困難だと言われます。述べてきたような複雑さを前提にしていることが多いようで、私も同意するところであります。
このあたりを誤解のないように書くのは大変です。さしあたって、ハードウェアよりソフトウェアの方が複雑だから、とさせてください。
ハードウェアは発展していくのにひきかえ、ソフトウェアはいつまでもある程度のところにとどまってしまいます。

いま、近未来のAIのようなものを考えます。何でも構いません。近未来らしいものをご想像ください。ドラえもんでよいです。
近未来というのは、なぜなのか、ずっと近未来のままのようです。少し、実現していく様子に思いを馳せてみましょう。

ハードウェアに関しては、まず間違いなく実現できると思います。実現という言葉があやふやであるものの、これまでのハードウェアの発展の歴史を考えると、実現できないと考える方に不自然さがあります。
他方で、おそらく、ソフトウェアの方は実現できません。人類には難しすぎるためです。
ネコ型ロボットのハードウェアが作れるようになっても、ソフトウェアの方がボトルネックになって、ドラえもんは誕生できないと、私は思うのです。

ただし、ここでは、ソフトウェアという言葉に制約をつけて用いています。
ソフトウェアなるものが、現代の私たちが想像するような、間違いなく動作するものを指しているというものです。

ATMでお金をおろせること、車に乗れること、病院にかかれることなど、あらゆるところで、ソフトウェアは何事もなく動くことを期待されます。

それは、何かあったら、直せる人と責任をとれる人がいるということです。
そしてこのとき、近未来のAIを作ることはできません。

そうでないときなら、もしかすると、作れるかもしれません。
単純な要素から複雑なものを作り出す考え方なら、すでに存在しているためです。近未来のAIに応用できることもあるはずです。
たとえば、一からすべて作るのが人類には難しすぎるなら、単純な要素から勝手にできあがっていくようにすればよいのです。

何か、直感に反する手続きを使おうということです。
そうして、近未来のAIが無事に完成したとします。もう、人類の手には負えなくなりました。誰も複雑な構造を理解できないままに、出来上がってしまっているわけです。何かあっても直せませんし、誰にも責任がとれません。

次の課題が浮かんできたようです。

人類の手に負えないものを、私たちは作ってもよいのでしょうか。または、人類の手に負えなくても構わないような用途があるでしょうか。

私の抱く教養が、限界を迎えるときです。

誰にも責任をとれないものについて議論するには、民法と判例の知識が要ります。今までにない製品の用途を提案するのは、マーケティングや経営学の知識です。

本エントリの冒頭で、ある主体が認識するものを世界と決めました。この主体に、近未来のAIは含まれるのでしょうか。答えによっては、世界の様相が変わってしまいます。
哲学と生物学の知識です。

さらにいうなら、様々なややこしい事情を乗り越えてまで、人間は、近未来のAIなど作ろうとするものでしょうか。
心理学の知識です。

私の語りえない領域に、話が進展してしまいました。無理に語ろうとしても詮の無いことです。

自分に教養がないことを、大変に悲しく思います。輝かしい近未来に、思いを馳せることができないのです。

私は存じ上げませんが、きっと、このあたりのことを議論している方はどこかにおられるでしょう。機械工学、情報工学、ソフトウェア工学、民法、マーケティング、経営学、哲学、生物学、心理学の知識を合わせ持った方と想像します。

私はまだまだ修行が足りませんでした。

こうした教養をもって議論するというのは、自由な市民として生きることなのかもしれません。


終わりに


本文中では大したことでないように書きましたが、水星の軌道が正しく観測できたり、GPSの精度が良くなるのは、大変に素晴らしいことです。
言葉の綾でした。

それから、すぐ上で、修行が足りないとも書きました。これも言葉の綾です。
教養を身につけようとすることが修行なのかどうか、議論の余地があるためです。