2016年12月4日日曜日

「かーそる」2016年11月号

とても好きな言葉があります。シンプルな言葉です。

「青は藍より出でて藍より青し」

青のほうが優れているというのは、大変に素晴らしいことです。ひとえに、青の努力のたまものです。

ただ、優れていることが、何を示しているのか、少し気になるところです。明示されてはいません。藍が劣っていることもないはずです。

藍の青さと、青の青さは、違った種類のものなのでしょう。青が藍より青いことは、巨人の肩に乗ることと、似ているように思います。

違った種類のものであろうとしたところが、青の努力です。
階層を上がろうとすることです。すなわち、考えるということです。

藍の努力は、青に、考えることのバトンを手渡したことでしょう。さもなければ、青は、青くならなかったはずです。

新しい雑誌が創刊されました。「かーそる」です。

「かーそる」2016年11月号 [創刊号] – Project:かーそる

素晴らしい雑誌が完成したと思います。
私は、ひとつだけ、ずっと続く雑誌になることを、願いました。

私たちが手渡されてきた、幾億のバトンから、新しい青を作り上げようとする雑誌です。
藍の努力に敬意を表します。

藍より出でて、藍より青い雑誌を。
そして、手にとっていただいた方々の、次の藍になる雑誌を。

目指して進んでいきたい、というのは、私の勝手な想像でした。

本当のところは、ずっと続く雑誌であってほしいということが、私の唯一の願いです。


終わりに


こちらの文章がオリジナルです。

創刊にあたって – Project:かーそる

2016年11月3日木曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2016

書籍『アウトライナー実践入門』(Tak.)に、心に残る話題がありました。「思考を強制する「流動的なツリー」」と名付けられた節です。

アウトライナーの中では、とある記述は、一つの分類の下にしか、存在できません。いわゆる「こうもり問題」です。
分類「A」と「B」を想定します。
確かにアウトライン上では、ある記述は「A」と「B」にしか分類できません。
続く一節で、著者のTak.さんは、単なる「こうもり問題」の先を行く概念を提示されます。
しかしアウトライナーに入っている限り、それはある記述が「A」と「B」のどちらに含まれるべきかという思考プロセスの、最新のスナップショットにすぎません。
最新のスナップショットにすぎない、とは、大変に胸を打つ一節です。

スナップショットを撮る行為は、毎回、変化のないものです。変化のないことを、繰り返そうとしています。一方で、スナップショットされた中身は、毎回、変わっていきます。スナップショットがなければ、気づくことがなかったのかもしれません。

変わらないことを繰り返していると、変わっていることに気づくわけです。

例えば、雑誌という媒体の価値は、このようなところにあると、私は考えています。
継続して雑誌を買っていると、過去に発売された号が、それぞれの世相のいちばん先端にカーソルを当てて、スナップショットを撮っていることに、気づきます。誰かによって総括され、史として語られる前の情報です。

継続してブログを書くことも、ひょっとすると、同じかもしれません。スナップショットです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
今年も、たくさんの変化があることに気づきます。

さっそく、始めます。

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yayoko314 | ShortNote(ショートノート)

私はよく存じ上げませんが、ShortNoteというプラットフォームがあるようです。

言葉にならないほど、具象で、楽しいブログです。
主観が乗り移るような体験が、私は、あまりない方だと思うのですが、このブログを読むと、何となく、感じたりします。

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Honkure – 本を読めば日が暮れる、本を書けば日が昇る。

独特の趣向で、本を並べようとしています。興味深い試みです。
本が増えていくのを、楽しみにしています。私も本が好きだからです。

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Kyri*ate

長く、ブログで文章を書き続けていらっしゃる方のようです。私は、近年に読み始めました。
ディスプレイとキーボードでも、ノートブックとペンでも、書くことが好きな方であると、見受けられます。

書くことが好きな方が、書くことには、不思議な感動があります。

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gofujita notes

ブログに変更はないようですが、URLが、以前と変わっています。

身の回りの、近くにある大切なことを、教えてもらっています。
できることなら、私が、文学的であると表現したいブログです。

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iPhoneと本と数学となんやかんやと – あなたになんやかんやな、なんやかんやを

こちらはブログが新しくなっています。移転の作業は、楽ではなかったと推察します。おめでとうございます。

考えたことと、やってみたことで満ちているブログです。
どちらかなら、よくあります。両方は、なかなかありません。

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Notebookers.jp | How many miles to Notebookers.jp? | by せら

ブログ、そのもののご紹介ではありません。Notebookers.jp というwebサイトのライタ、せらさんの記事です。

繰り返すスナップショットで変化に気づく、ようなことが、せらさんもお好きだと、勝手に想像しています。

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Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

私にとっては、考えごとをするための手順というのが、結構、重要なニーズでした。

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R-style

真ん中の歩き方を学んでいます。

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delaymania

読むと、元気になるブログです。

私はあまり、元気をもらうことや、気分転換といったものを、信じていません。
それでも、読むと、元気になるブログです。

どのカテゴリの記事も、欠かさず読んでいます。
バンドのライブレポートと、食べたもののレポートが、特に好きです。


終わりに


以上、スナップショットでした。

とはいえ、一生懸命に書いている最中には、スナップショットであることを意識しないものです。
それもまた、大切な要素かもしれません。

2016年8月27日土曜日

コレクションなら私に任せて

自分で統制した情報の中で生活していると、劇的な体験をパッケージにして、手渡されることが少なくなります。何かをコレクションするのが楽しい、という感覚と似ています。
安心して、考えることに体力を費やしてよいと、認識できるようになります。錯覚できる、ということかもしれません。認識も、錯覚も、人間が行う価値のあることです。

森博嗣さんの小説『風は青海を渡るのか?』で出会った言葉です。
認識も、錯覚も、機能としては本来、同じものだよ。
人間らしい、と呼ばれる機能なのだと思います。

こちらの記事を読みました。

考えることの質が上がらないことの苦悩 - ならずものになろう

教育について、考え続けておられる方のようです。国語の先生とのことです。子供たちの考える力について、よい授業のありかたについて、たくさんのことを書かれています。

なんと言いますか、胸を打たれる記事だと、私は感じました。
世の中には、こんなに大切な問題を考えている人がいるのです。

目指しているのは、それでいて、考えることにとどまらず、実践することです。
実践というのは、考えが完成するのを待ってはくれません。記事でも、まだまだ、わからないことだらけであると、述べられています。解決しないままで、悩みを抱いたままで、日々の実践に挑んでいかなければなりません。

私は、私が考えていることが世界で一番大切であると、普段は、思っています。当然のことでしょう。
実際には、こんなに大切な問題を考えている人が、世の中にいました。本当は、もっと数え切れないくらいの人が、大切な問題を考えていることでしょう。実践のための、大切な問いです。

あまつさえ、問いには答えが出ないままに、日々の実践にもぶつかります。大変で、大切な実践です。考えていても、いなくても、日常は困難です。

おそらく、教えるということの関連だと思うのですが、別の記事を読むこととなりました。

R-style » バトンが渡るということ

授業を行う、教師の方のお話です。
ポイントは、現在は教師である人にも、いつかの過去に、自分が生徒だった時期があることです。
彼は、自分が授業を行う姿を映像で見たとき、そこに恩師の先生方の姿を認めたそうです。
自分が教える姿は、教わった人たちを彷彿とさせるものでした。

教師からは、勉強の内容に加えて、教えるということ、そのものも学んでいるという話に、記事はつながっていきます。納得のいく話です。
教えるということの全体の姿について、人が教えている様子から、まるごと学びとるわけです。

記事ではそれを、バトンが渡る、と呼んでいます。
そして、その生徒は、自分を教える教師から__授業の内容に加えて__誰かに「教える」ということを学びます。それも体験的に学びます。
バトンが渡る、とは、とてもよい表現です。
すなわち、体験的に学ぶことです。すぐ上で、私は、まるごと学ぶ、と表現してみました。

はじめにご紹介した記事「考えることの質が上がらないことの苦悩」に戻りましょう。

次のように述べられています。
長くなり、恐縮ですが、引用いたします。
しかし、一方で感じることとして、責任転嫁にならないように十分に注意して考えなければならなことだけど、子どもたちのほうに「考えること」に対する欲求の弱さ……というか、考え続けることがしんどいと感じている生徒が少なからずいることは感じる。
生徒が悪いといいたいのではなく、「考えるために必要な体力」というものが、どうやって身につけたらいいのだろう、考えるための体力とは何なんだろうということが、疑問として浮かんでくる。
考えることに対する欲求の弱さ、とあります。考えるために必要な体力、とあります。

考える体力というものについて、伝えることが難しいのは、教育の立場にない私にも、想像がつきます。

自分で、体力を費やして何かを考えて、素晴らしい結論にいたるということを、子供たちは、経験しにくいものでしょう。人から教わって到達する結論の方が、間違いなく、はるかに劇的に感じられるためです。
先生にも、クラスメイトにも、様々な人がいます。様々なことを教わります。外界は刺激に満ちています。

学校というのは、なるほど、劇的な体験をパッケージにして、効率よく、渡してもらえる場所なのかもしれません。何かを学ぶための場所として、正しい姿であろうと、私は感じます。

もう一つあります。
考えることは、無意識のもとで挙動するところが、多分にあります。一方の教わることは、他人がいることですので、無意識に起こることはありません。
新たな知識を得たときに、無意識で考えた結果と、教わった結果とを比べれば、後者の方が、強烈な体験として記憶されるのは、無理からぬことです。思い出しやすい情報は、頻繁に発生している、重要なことだと、勘違いされます。

以上のように、考えることと、教わることとを比べると、教わることの方に、より親しみやすくなるわけです。各々の性質によるものであり、避けられません。
考えることの体力について、伝えるのは難しいようです。

それでいて、考えることは、体力のかかることであり、大切なことであると、自分で気づくのも、難しいものでしょう。外から教えられる必要があります。私も、本当に気づいたのは、つい最近のことかもしれません。

経験が要ります。意識的に考えて、自分なりの素晴らしい結論にいたる、経験です。

経験しなければならない、というのは、簡潔に記述できない、という意味です。
よい言葉に出会いました。森博嗣さんの小説『χの悲劇』からです。
変な感触だったら知らせて、と指示した。こういう指示はプログラムでは異様に難しくなってしまうので、人に任せる意味がある。
簡潔に記述できないことは、問題に、人の取り組む意味があることを示します。

考える体力について、伝えることの話でした。
有名な背反があります。

考えて、何かの結論に至ることは、体力を費やす必要のある、大変なことです。
その苦労がよいことである、という納得がないのに、納得するためには、苦労して、体力を費やして考える経験が要るのです。

論理が込み入っており、恐縮です。

少なくとも一度は、騙されなくてはいけないわけです。理由もわからず、苦労の道を歩くのです。私はこのことを、形式を通過する必要がある、と呼ぶことにしています。
楽しくもないことを、一度は、楽しいからと騙されて、我慢しなければなりません。

同じ図式は、日常のあらゆる場面に登場してくるように思います。いずれの場面でも、この困難さは厄介です。

解決策を考えます。

少なくとも、本を読むことでは、解決は難しいかと思います。
本というのは、一冊で、一つの文脈を成すことが求められます。一つの体系です。断片ではなく、体系を成立させることができるのが、本のよいところです。

いま、問題にしていることの場合、その、本の特徴があだとなります。本が、一つの文脈を成すということは、本の中に、通過しなければいけない形式があるということです。
読了が、文脈の完成するゴールだとするなら、そこに至るまでの読書は、いつか文脈が完成すると、騙されるか、信じるか、しなければなりません。

私は、何度も本を読んでいますので、ゴールを信じて、過程も楽しむことができます。そうでない人は、騙されて、苦労するしかありません。形式を通過する必要があるのです。

本、あるいは文脈の性質からして、どうしても避けられないことです。
本は文脈を届けることのできる素晴らしいメディアですが、同時に、形式を通過する苦労も強いるのです。

バトンを渡すことが、思い起こされます。

考えている姿をまるごと示すことが、考える体力を教える、有力な手段になるのかもしれません。バトンを渡すのです。
考える体力のことを、シンプルに記述して、コミュニケーションをとるのは困難です。体力を費やして考えている様子を、まるごと学びとってもらうわけです。

手段とは、もはや、言い難いものです。姿勢のようなものでしょう。考える姿を示すということに、これといった行動は思いつきません。

それでも、普段から、考えることを大切にしている人たちであれば、各々に、その回答を抱いているようにも思います。認識しています。錯覚もしています。
認識も錯覚も、機能としては本来、同じものです。きっと、人間に価値のある機能です。

こうした様子は、論理的に厳密に書こうとすると、異様に難しくなってしまいます。人間に任せる意味があるということです。


終わりに


本文中、「バトンが渡るということ」の記事をご紹介するところで、「おそらく、教えるということの関連だと思うのですが」と書きました。

含みのある書き方なのは、「考えることの質が上がらないことの苦悩」を読んでいたところ、Evernoteの「関連するノート」の機能によって、「バトンが渡るということ」が提示されたためです。

ちょっと、これはすごいことです。
繰り返しますが、「考えることの質が上がらないことの苦悩」を読んでいて、「バトンが渡るということ」が提示されたのです。

人間に任せる価値のないことなのかもしれません。
私は、何かをコレクションするのが楽しい、という感覚を、大切にしようと思います。

2016年5月5日木曜日

懐古の海鮮和食定食

どうも、私は、原則に忠実なきらいがあります。素材の味を活かした単純さよりも、何だかわからない複雑さに惹かれます。
昨今の賢い人は、単純さの方を、シンプルな、スマートな、などと、もてはやしたりするのかもしれません。

こちらの記事を読みました。

シャープソーンのマリオ | gofujita notes

素晴らしい記事に出会いました。生きるために時間を過ごしている人がいることには、何とも言えない感動があります。
その小さな町にある小さなカフェでは、地元の農家の人たちだけじゃなく、生きることを求めて何かをしたいイタリアやドイツで育った人たちが、生きるために時間を過ごしているのだ。
生きるために時間を過ごすことにかけては、誰にも負けていないと、私は思っていました。実際のところは、誰もが同じくらい、生きるために時間を過ごしているのでしょう。
そして、宿への帰り道、丸っこいチンクエチェントの窓から片手こぶし出して叫びたくなるくらい、嬉しくなった。
楽しさというのは、自分の中から見出される、個人的なものです。私は、楽しさが、抽象的なもので、本当によかったと思っています。

夢庵という、ファミリーレストランをご存じでしょうか。一般的な知識を持ち合わせていませんが、おそらく、広く日本にあるお店だろうと思います。

私は、夢庵が好きです。近所の、容易にたどり着ける距離にお店がないため、頻繁に通うことはできません。好き、よりも、よい印象を持っている、というほうがよいのでしょう。
近所にお店がないことから、夢庵に向かうときには、車を借りることになります。電車では行きにくい場所です。夢庵での食事は、我が家の一大イベントなのです。

電車といえば、こちらの記事を読みました。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

素晴らしい記事です。
お母さんと電車に乗っていた、5~6歳くらいの少年の話です。
子「この電車、はやくなるのがはやいね」
母「はやくなるのがはやい?」
子「うん、はやくなるのがはやい」
少年は、自分が乗っている電車が、はやくなるのがはやい、ことに気づきました。運動する座標系の中に観測者がいるとき、なるほど、体感できるのは加速度です。速度ではありません。厳密さに適った表現を採用できる少年です。

記事の著者さんによる説明が、簡潔で、大変に素晴らしいものでした。
次の通りです。
そのときの車両は東急の5050系というやつなのだが、この車両は、たとえば同じ横浜駅を発着するJR線、あるいは相鉄線の車両と比較するとかなり加速性能が良い(逆に京急の車両と比較すると劣る)。
電車の加速性能が違うことに、少年は、自分で気づきました。自分の言葉で表現することもできました。素晴らしいことです。
それまで気づいていなかったことに、気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてだろうと、私は思います。

夢庵の話でした。

駐車場でおなじみのタイムズが運営している、タイムズカーシェアというサービスがあります。大変に便利なサービスで、私も、会員のひとりです。大きな手間もなく、車を借りることができます。

近所のタイムズ駐車場にある車を、予約し、借りていく仕組みです。私の場合だと、ホンダのフィットと、日産のノートから、選ぶことができます。どちらも試してみたところ、私は、日産のノートの方が好みのようです。ただ、あの、信号で止まるたびにエンジンまで止まる機能には、いつも、驚かされます。

ある時のことです。夢庵で食事をしていたところ、近くの席に、二人連れのお客さんが着きました。老夫婦でした。おじいさんの方は、足が悪いようでしたが、仲の良さそうなお二人です。

もちろん、特に、注目していたわけではありません。お店が空いており、また、私はすでに注文を済ませ、食べ始めていたことから、自然に目に入ることとなりました。

当時、夢庵には、期間限定の、海鮮和食定食のようなメニューがありました。お店としても、力を入れて宣伝していたようです。確か、千円に満たないくらいの値段でした。
老夫婦は、その、海鮮和食定食のようなメニューを、二つ注文されました。

ややあって、お二人のところに料理が運ばれてきます。海鮮和食定食のようなメニューです。
まさに、運ばれてきた料理がテーブルに置かれたときのことです。お二人の反応を、今でもよく覚えています。

いわく、本当においしそう、ごちそうね、すごい、といったものでした。

筆舌に尽くしがたい感慨がありました。
何と言いますか、どんなものでも、おいしそうなら、おいしそうで、全然構わないのです。自分で気づいて、自分で表現します。生きることのすべてです。

ましてや、ファミリーレストランです。メニューは、たくさんの人と時間の試行錯誤を経ていることでしょう。ビジネスの仕組みとしては、たくさんのお客さんが同じものを食べてくれることで、成り立つものです。昨今の賢い人が、旧時代的だと評するものです。

私の懐古趣味は、無責任にも、旧時代的な複雑さが、消えてほしくないと感じています。
たくさんの人と時間が織り込んだ複雑さは、胸を打ちます。やはり、それはおいしいのです。

老夫婦の、おいしそう、という歓声から、私もさまざまなことに気づきました。はやくなるのがはやい、と気づいた少年に、私も、まだまだ負けていません。負けないくらい、生きることに時間を過ごします。
それまで気づいていなかったことに、気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。

帰り道、日産のノートの窓から片手こぶし出して叫びたくなるくらい、嬉しくなりました。

楽しさというのは、自分の中から見出される、個人的なものです。私は、楽しさが、抽象的なもので、本当によかったと思っています。


終わりに


楽しさは抽象的なものである、とは、森博嗣さんの書籍『自分探しと楽しさについて』から学んだことです。
抽象的に、楽しさとは抽象的なものだろう、と感じてはいましたが、同書で、具体的に理解することとなりました。

良かったのでしょうか。