2015年10月29日木曜日

思いもよらない高い山

寒くなってくると、風邪をひきやすくなります。もう、すっかり冬です。寒いのです。
私は夏が好きですので、八月が終わったあたりから、次の七月が待ち遠しくなったりします。

思えば、私は、あまり夏風邪をひきません。馬鹿でなかったようです。ロックバンド「シド」の楽曲『夏恋』によれば、夏風邪は、見た目から入る恋と同じくらい、たちが悪いそうです。そんなものなのでしょうか。

あにはからんや、寒くなると、詮無いことを考えてしまいます。

どこかで書いたことがあったかと思います。
私が一番信用していないのは、自分が考えたことです。次に信用していないのは、自分が話したことです。一番信用していると思えるのが、自分が書いたことです。

ショーペンハウアーの意見を尊重すると、読書とは、他人にものを考えてもらう行為だということです。素晴らしい洞察でしょう。心から同意できます。
私は自分で考えたことを信用していませんので、他人に考えてもらうのは、大変によいことです。たくさんの本を読んで、たくさんの考えに触れたいと思っています。

かくして、私は読書が好きです。

こちらの記事を読みました。

「そういうもの」のうちのひとつについて - iPhoneと本と数学となんやかんやと

素晴らしい記事です。
私たちの好きな数学の話が、次のようにして、始まります。
長いこと、それこそ何年も何十年もずっと好きなことって、誰しもそんなに多くはないと思います。
何も感じずにはいられない、記事です。
いつから数学が好きなのか、と考えてみると、小学校のころにさかのぼります。
私はどうでしょうか。どのようにして、数学を好きになったのでしょうか。

私の経験を書きます。事実は、経験は、語られることによって、歴史となります。外史であり、世間話でもあります。正史ではないという意味です。
語られた言葉は、もとい、ありとあらゆる言葉は、不自然な抽象に他なりません。だからこそ、興味深い世間話を、伝説を、民話を、形づくることができます。宮沢賢治の意見を尊重するなら、私という存在は、現象なのです。

不自然な抽象は、現象を揺るがすことがあります。
本や、文章を読むことは、面白いものなのです。言葉だからです。

自分が数学を好きかどうか、自分で判定しなければならないことがあります。とても、稀なことです。大事なこととは思えません。こうして、私は、自己紹介のようなものを好まなくなります。
多くの人にとって、高校生の中ほどの時分がそうでしょう。得体の知れないことに、文系、理系というものの決定を迫られるときです。私もそうでした。

当時の私は、現国と、古典と、英語が好きでした。得意でもありました。数学は、そう、嫌いということはありません。
決定を迫られた私は、理系の方を選択することになります。理由は、今となっては定かではありません。何となく、現国より、数学の方が、底知れない感じがしたような気がします。

顧みても、始まりの地点には、確かな現象はなかったようです。
それでいて、二人の忘れられない数学の先生に、高校生の私は出会うことになります。

あるときのことです。数学の授業は、漸化式の単元にさしかかりました。
私たち生徒は、漸化式なる、妙に魅力的な熟語に初めて出会ったところです。

数学の先生は、黒板に次のような式を書きました。

A(n+1) = f(A(n))

今思えば、明らかに、漸化式の標準的な表現です。不思議なことなど何もありません。

いよいよ、先生が話されます。
いわく、「ここに書いた式は、これまで勉強してきた数式とはまるで違う。漸化式には、ストーリーがある」とのことです。

何ということでしょう。たかが学校の授業に、これほどの名場面があるものでしょうか。

学んでいってわかったことに、漸化式には、本当にストーリーがあるのです。単なる名言ではありませんでした。当時に出会ったことのあった、静止した数式とは、性質の異なるものでした。目を閉じると、まぶたの裏に漸化式の躍動が浮かぶようです。

数学を好きになったのは、それからです。
抽象の最たるものである数式に、私が、ドラマティックさを読みとるようになったのでしょう。ドラマティックさというのは、具象に備わることが多いはずのものです。

目に見えない劇的さに感激するような感性を、身につけたような気がします。

もう一人の先生についても書きます。先の話題より、少しだけ新しい時代のことです。高校生としては、もっとも難解な数学に取り組んでいた頃になります。
数学の授業や試験では、基本的な計算問題と、応用問題とがあります。原則としては、計算問題ができれば、応用問題も解けることになっています。実際にはそうでもないことも多く、応用問題には、独特の複雑さがあるものです。

あるときのことです。先生が、A4用紙の大きな山を抱えて、教室に入ってきました。
いわく、「プリントには十問の計算問題が載っている。完了にかかる時間は二分程度である。プリントの山を教室に置いておくから、授業前の待ち時間にでも、朝登校したときにでも、毎日一枚、二枚と、自由に使ってほしい」とのことです。
生徒たちは怪訝な雰囲気になります。私もそうでした。大学入試に向けた難しい応用問題ならまだしも、なぜ計算問題なのか、というものです。

先生は続けます。「二か月も続けていれば、難しい応用問題も自然に解けるようになってくるはずである」と言われます。そんなものなのだろうか、と、私などは思いました。

教室の前方に、計算プリントの山がある生活が始まりました。目に入るところにプリントがあって、解いている間はそれなりに熱中できて、終わってもそれなりに達成感があります。特に意識はありませんでしたが、何となく、計算問題を解く日々でした。
級友と、完了までの時間を競うこともありました。そうした相手に困ることのない集団だったのです。

さて、二か月もすると、本当に応用問題も解けるようになりました。驚くこともあるものです。特に、応用問題に関する準備をしていたつもりはありません。

応用問題を解こうとするときには、いくつかの道筋を、うまくいくまで試していきます。
基本的な計算問題を、それこそ、呼吸をするように対応できると、ある方向がうまくいかないと判断するまでの時間や労力が、比較にならないほど少なく済みます。結果として、多くの道筋を、素早く、集中したまま検討することができます。応用問題をよく解くことができるようになるわけです。
無理に分析してみました。

それからというもの、私は、あらゆる学びや経験を、同じ方針で進めることにしています。計算問題を繰り返し解くような方針です。

分析はどうでもよいのですが、この経験は、私の思想に決定的な影響を与えました。
すなわち、ボトムアップです。

もっとも底にある要素を繰り返して、積み上げていくと、いつの間にか、思いもよらない高さに至っています。当初には想像することもなかった感動があります。
私が生きてきたあらゆる場面において、この気づきは、ただの一度も私を裏切ったことがありません。

今でこそ、トップダウンとボトムアップの繰り返しでできるものがあると、私は知っています。
他方で、年若い時分にボトムアップの思想を感じることができたのは、大変に意義深いものでした。

二つのエピソードをご紹介してきました。漸化式が示すストーリーと、計算問題のボトムアップです。歴史は形づくられたでしょうか。
どちらも、表面にない劇的さを見出すことであったと、評価できるような気がします。

そうして、私は数学を好きでいます。

目に見えない、語られていないドラマティックさは遍く在って、それらは、私が自由に読みとって構わないものなのです。私が自分で読みとった感動は、いかなるものにも制約されない、本当に自由なものです。どんなところからでも、勝手に何かを見出して、自分なりに感動してよいのです。

チェバの定理や、ヘロンの公式にひとりで感動していても、誰からもとがめれる筋合いはないわけです。

私が読書を好きであることにも、似たような話題があるのかもしれません。
他人に考えてもらったことを、丁寧にテキストを追いかけることで、感じ取ります。いつしかたどり着く高みで、思いもよらぬストーリーを勝手に読みとることがあるでしょう。私は、自由に感動していてよいのです。

経験は、記述されることで、歴史になります。
記述は、すなわち、不自然な抽象は、現象を揺るがすことがあります。

微笑ましいことです。

ロックバンド「シド」の楽曲『夏恋』から、引用いたします。
初めての食事の誘いや
バースデイ 返事のありがと
喧嘩の後のごめんなも
鍵つけたの 二度見どころじゃない
現象が揺らいでいます。
勝手に感動していて、構わないのです。


終わりに


勝手に何かを読み取って感動するというのは、論理的ではないので、あまり振りかざすことはしません。
ただ、論理的であることより、真面目だとは思っています。

寒いので、詮無いことを書いてしまいました。馬鹿なのかもしれません。

あと、A4プリントの山は、相当な高さの山でした。

2015年9月14日月曜日

くじとくじを買って

スタートラインを描く、という感覚が好きです。立つのではなく、描くことです。何か、好ましい意志を読みとります。

好きな音楽の影響かもしれません。

堀江由衣さんの楽曲「on my way」に、次のような一節があります。
水のように流れ落ちた
涙は数え切れない
少し湿った足元に スタートライン描くよ
また、My Little Lover の楽曲「NOW AND THEN~失われた時を求めて~」には、次のような一節があります。
誰もいない 朝の街に立ち 構えてみる
短距離走者のように スタートライン 心で描いてた
どちらにも、スタートラインを描く意志があります。

生きる意味のようなものに、思いを馳せることがあります。人も、ほ乳類の仲間であり、有機物が集まっています。
Acid Black Cherry の楽曲から言葉を借りるなら、「命を運ぶってことが運命なんだとしたら」、物質としては、命尽きれば終わりです。

歴史上の先人たちも、同じように考えたのでしょう。生きる意味のようなものを、精神的なところに求める意見が多いようです。

我思う故に、でもよいですし、考える葦でもよいです。
私も、そうした意見に賛同します。アイデアのミームの話題を持ち出さずとも、やはり、物質が尽きても、思想は残ります。物質を越えていく力を、思想は持ちます。

誰かは存じ上げませんが、我思う故に、などと言った人は、おそらく、考えることについて、鮮烈な印象を抱いていたことと思います。私には、鮮明なものは特にありません。

私がどれほど考えて回答を見出したとしても、すべてはまだ途中です。
思索的であることがどういうことか、模索していく課程のことを、すなわち、思索的に生きることと呼びましょう。今の私には、この理解がよさそうです。

生きている限り、更新されていきます。終わりのないものです。ネガティブな意味はありません。
誰もが、いつでも、考えて生きることについて、観測した時点には最高の定義を抱いているということです。

物質を越えていく力と書いたものの、思想が、物質と無関係にあるわけではないはずです。忘れてはいけないところです。考えることは、物質を無視することではありません。

これは科学の話題です。把握していなければ、考えて生きることのスタートラインすら、描けないはずです。
科学はどうか、哲学はどうか、名もなき人々の思想はどうか、といったことを基本的なところで操れるようになってはじめて、考えて生きることを選択できるようになります。

観測した時点での最高の定義とは、描きなおしたスタートラインのことに違いありません。

書籍『仕事は楽しいかね?』(デイル・ドーテン)をあたってみましょう。私たちの本です。
印象的で有名なフレーズが、いくつも出てきます。

ひとつ、ともすると、読み飛ばされていそうな一節をご紹介いたします。
「現実的に何かを達成するのは、宝くじに似ている」とマックスは続けた。
「まず、有能で勤勉であることによってくじを買う。
(後略)
より華やかな言葉が、遮るのかもしれません。
「有能で勤勉であることによってくじを買う」とは、私の好きな言葉です。

日常を過ごすことについて、指針を受け取ったように感じました。《例示は理解の試金石》 と 《価値とは見出されるものである》 に並列する、私たちのスローガンです。
実体のない感傷に振り回される前に、まず、しっかりとくじを買おう、スタートラインを描こう、と思いました。

考えて生きることの定義は更新され続け、その課程こそが考えて生きることなのでした。定義という言葉は、不適切かもしれません。
考えて生きることのスタートラインも、更新され続けます。くじを買うための作業は、終わりなく続きます。それこそ、考えている暇もないほどです。

くじを買おうと努めることが、考えることと、見分けがつかなくなってきました。

こちらの記事を読みました。

階層を上がる思考:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

思考の階層を上がることについて、語られています。とても大きな出会いでした。

次のようにあります。
とか書いておきながら、では「階層を上がる」というのが具体的にどんなことなのかと言われると、うまく言葉にすることができない。
階層を上がることについて、うまく言葉にならないと言われます。
ジャンルや属性とは違う形で下位の項目を統合する何か。下位の項目を何らかの形で規定する上位の意志またはコンテクストを見つけること、というのがいちばん近い気がするけど、よくわかんないよね。
「下位の項目を規定する上位の意志」とは、よい説明だと、私は感じます。
具体的にどんなことかを言葉にしてはいませんが、抽象的にどんなことかは言葉になっています。

そもそも、言葉にできるのは、抽象的なことだけです。

次の箇所も、ぜひ、ご紹介させていただきたいところです。
「階層を上がる」思考は、別にアウトライナーを使わなくてもおそらく自然に行われてきたことだ。「結論を出す」とか「選択する」とか「決意する」というのは、まさにそういうことだからだ。
記事の著者さんの、階層を上がることについての理解がよくうかがえる文章です。
日常を過ごすことに、階層を上がろうと試みることが含まれていると、大変によいものです。

ちょうど、スタートラインを描きなおすことに似ています。

こちらの記事を読みました。

R-style » 井戸の中のカエル

重要なことが書いてある記事です。
次のようにあります(誤字と思われたところは修正させていただきました)。
しかし、幸いなことに「認識には上限がある」という認識は、飛躍できる可能性を秘めています。
ある種の認識は、飛躍できる可能性があります。
続く文章はこうです。
たとえそれが大海であろうが、火星であろうが、「ここは井戸の中なのかもしれない」と想像することさえできれば、そしてその想像を信じることさえできれば、井の中のカエルは「井の中」を知ることができます。
井戸の中のカエルが、井戸の中を知るということです。大海などというちっぽけなものではありません。
想像が、思考が、飛躍することは、これほどに素晴らしいものです。

物質を越えていることだからです。

長い地球の歴史に比べて、人間の寿命などちっぽけなものだ、ということがあります。
広い宇宙に比べて、人間の存在などちっぽけなものだ、ということがあります。
そこまででなくとも、人の一生は短く、儚いということがあります。

いずれも、物質を見ての制約です。
人間が思考できることから、そして、思考は飛躍できることから、人間にとってそうした問題は存在しないと、私は思っています。

私が、考えて生きたいと思うのはこのためです。
考えて生きることは、生命を超越するのです。克服する、といっても構いません。

生きとし生けるものにとって、これほどの革新、発明はないでしょう。

それでいて、飛躍というのは、一足飛びには発生しないものです。思考の階層を、一歩ずつ上がっていくことに他なりません。

こちらの記事を読みました。

時間よとまれ. August 15 2015 | gofujita notes

次のようにあります。
夏真っ盛りだけど、空気の中に秋がまぎれこみはじめる季節。太陽の日差しは相変わらず頑張っているけれど、時間はとまらない。
九月になりました。すっかり、秋です。時間はとまりません。
私は夏が好きですので、また一年、夏が来るのを待ちわびる日々が始まりました。

早く夏が来てほしいものです。
そういう時には、自分が1mmくらい (ロシアの友人はたまに、非常に微量あるいはめっちゃ少しだけの気持ちを強調するためにこう言う) 元気になった瞬間を、思い出すのもいい。
私も、こうした時には、自分が1mmほど元気になった瞬間を思い出したくなります。

あまり混んでいないコーヒー屋さんで、大きいサイズのコーヒーを注文して、本を読んだり、文章を書いたり、考えごとをしたり、何もしなかったり、することがあります。

とてもよい時間です。滅多にあるものではありません。
そうした時間を得られたことに、まずは、元気になります。

また、そのような場面では、なぜだか内省的な音楽を聞きたくなります。起伏や展開の少ない音楽です。
そんな派手さのない音楽を、自分が、ちゃんと聞きたくなるということに、また嬉しくなります。

他にもあります。

深夜に帰ってきて、晩ごはんを近所のコンビニで買おうともくろむことがあります。
コンビニで食事を選ぶことには、なかなかの難しさがあります。ご飯も、パンも、麺類も、パスタも、揃っているためです。

食べられる量には限りがあるのに、食べたいものはたくさんあるのです。

食べたいものが多いというのは、何も、コンビニに限ったことではありません。日常のあらゆる場面に、同じ逡巡があります。

一軒のコンビニですら、食べたいものを、すべて食べることができないのです。自宅から歩いて、ほんのわずかのコンビニです。
食べたいものを列挙して、毎日少しずつ食べ進めていったとしても、一生かかって、リストの末尾までたどり着けないような気がします。

そんなときに、ふと思います。

ああ、なんと人生は短いものなのでしょうか。

幸せな呟きです。
人生は短いものだという想像は、人生の短さに制約されないのです。

ひょっとすると、思考の階層を上がった瞬間なのかもしれません。
食事とくじを買って、スタートラインを描きます。


終わりに


元気さというのが、長さのことだったとは、気づきませんでした。
時間の項を持たないのは、わりとポジティブな解釈に思えます。

あと、パスタは、麺類に含めなくてよかったのでしょうか。

2015年7月28日火曜日

nカロリーの熱量で

私が書く文章は、どうも、説明不足なところがあるようです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 長文記事(Longform)とライターの力

長文の記事について、いくつか考察されています。Longform と呼ぶようです。

Longform な記事の様子を確認しておきます。
引用いたします。
H1に「01/13」とあるが、これは1月13日ではなく、13ページ中の1ページ目、ということだ。いや、その表現は間違っている。なんといっても、この記事は1ページしかない。1ページにすべてが詰め込まれている。すると、13コンテンツ中の1コンテンツと表現した方が良いだろう。
ページ、コンテンツ、との表現を試行されています。いずれにせよ、13の部分に分けられるほどの記事です。
とにかくボリューミーな記事なのだ。テキストだけでなく、画像もグラフも動画も入っている。いかにも「読み物」という感触の記事だ。
ボリューミー、とは、たまに耳にすることのある言葉です。個人的に、あまり意味がとれない言葉のひとつです。
日常会話でも現れることがあり、いつも、どういう意味かと考えているうちに、会話が先に進んでしまっています。

volume のことでしょうか。volume とは、容積、体積のことで、普段は大文字Vで略称されます。
面積Sの次元が2であることに対し、体積Vは次元が3です。
たて × よこ × 高さ、と言われるものです。かけ算の順序は関係ないはずです。

この、次元が違うあたりが特徴になってくるでしょう。

先に引かせていただいた一文から見ると、テキストだけならSで、グラフや動画が入ると volume になるというのは、悪くなさそうな理解です。

SとVの話題を続けるなら、私は普段から、できるだけ次元が広がらないように指向しています。
記事の話題に限りません。

書籍『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄)をご紹介します。
さまざまな生物の、サイズと生態との関連を調べています。

いたく感銘を受けた話題がありました。





生物の、標準代謝と体重との関係についてです。

標準代謝は、生物の酸素消費量を元にして測ることが多いようです。酸素消費量(リットル)から、エネルギー消費量(ジュール)を一対一で算出でき、かつ、酸素消費量は測定するのが容易であるため、とのことです。

何かしらの方法で測定した酸素消費量を、時間でわり算したものが標準代謝になります。ジュールを時間で割ったものと同じですので、単位はワットになります。仕事率のことです。

人間に関する場合は、基礎代謝と呼ぶ人もあるようです。
すると、ジュールのところは、カロリーとするのがわかりやすいかもしれません。

私たちの多くがカロリーでなくジュールを使うのは、後者がSI単位系だからに他なりません。
カロリーほど、科学者はあまり使わないのに、人口に膾炙した科学用語も珍しいものです。

体重の方は、説明は不要かと思います。単位はキログラムです。

いま、生物の標準代謝と体重との関係を見てみます。引用いたします。
重い方はゾウから、軽い方ではネズミまで、いろいろなサイズの恒温動物の標準代謝量を調べ、横軸に体重、縦軸に標準代謝量をとって、グラフに書き表してみよう。
いろいろなサイズの恒温動物が対象です。
このグラフが、興味深い特徴を示します。
つまり標準代謝量は体重の〇.七五一乗に比例する。〇.七五一は〇.七五、つまり3/4と統計的に差はないので、「標準代謝量は体重の3/4乗に比例する」と簡潔に言いならわしている。
あらゆるサイズの生物について、標準代謝量は体重の3/4乗に比例すると言います。しかも、同書の続きで言及される通り、恒温動物に限らずとも、当てはまるそうです。ミミズや昆虫のような無脊椎動物や、魚やカエルや爬虫類です。

特筆すべき性質に違いありません。
他方で、生物学にさほど造詣の深くない私にとっては、続く記述に興味を引かれます。





続く記述はこうです。
その割には、あまり教科書に出てこないのは、なぜ3/4乗に比例するかの、よい説明がないからだろう。
これほどに広範な経験則ならば、教科書などで頻繁に取り上げられても、なるほどよさそうなものです。私は聞いたことがありませんでした。

どうやら、3/4という数字によい説明がないようなのです。
事実を積み上げて見えた、経験則です。

いよいよ、次の意見に至ります。
説明できなければ学問ではない、という考えは、ごもっともだと思うけれど、理屈をこねない学問も、もう少し幅をきかせてもいいのではないかと、私は感じている。
よい説明が偉いということは、ままあることです。
同時に、説明がなくても、落ち着いて事実を認識することも、また重要なことでしょう。

理屈をこねない学問、とは、心に残る言葉です。

あらゆる領域に、説明を偏重した系が息づいているものと思います。
説明というのは、しかし、事実とは違う次元に広がっているものです。私は普段から、できるだけ次元が広がらないように指向しているのでした。

自分が考えたということを、私が、信用していないためかもしれません。

私が、自分について一番信用していないのは、自分が考えたことです。
ちなみに、次に信用していないのが、自分が話したことです。
一番信用しているのが、自分が書いたことです。
自分が感じたことが、どこに位置づけられるのか、目下、検討中です。





自分が考えたことと、話したこととは、内実たちをつなぐ鎖が、連想とか、解釈になるような気がします。説明も、ここに属するはずです。
書いたことだけは、論理だと思うのです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 特権が変えるもの

一風変わったモノポリーが登場します。
最初に登場するのは特別ルールのモノポリーを使った実験。
被験者はペアとなってゲームをプレイします。ただし、片方は通常のルールでプレイ、もう片方は恵まれた人ルールでのプレイです。コイントスで選ばれたその幸運なプレイヤーは、サラリーが二倍もらえ、さらにサイコロも二個。これでは負けるはずがありません。
まったくの偶然により、一方のプレイヤのみが特権を得ます。
負けるはずのない状況です。
幸運なプレイヤーは、そのゲームに勝った理由を、自身の行動によって説明したそうです。資産をどのような意図を持って購入したか、勝つためにどんな戦略を練ったのか、どんな点に注意したのか。
負けるはずのないプレイヤは、自身の戦略について語ったそうです。説得力のない語りです。
記事の続きでは、絵空事、という指摘も出てきます。戦略が機能したのはまったくの偶然なのですから、絵空事に違いありません。
そうした存在がとる行動がすごくないはずがありません。
かくして絵空事ができあがります。
話題の流れは同じであるものの、少し立ち止まってみたいところがありました。

同記事中では、戦略と、絵空事とが、近い意味の言葉として機能しているようなのです。
記事の著者の方が意図されたかどうかはわかりません。読み返してみても、どうも間違いはないようです。

戦略というのは、その語感より、ネガティブな言葉なのでしょうか。

戦略とは、まだ起こっていない、未来に関する説明です。過去についての戦略はありませんので、間違いないでしょう。
どれほど理に適っていても、現実的であっても、変わりません。

空想や絵空事に似たものであると理解して、不都合は少ないのかもしれません。





事実と、説明とを、対比して見てきました。
互いに、別々の次元に広がっているものです。

内実をつなぐ鎖として、論理というものを、私は考えます。事実でも、説明でもないものです。

私が心得るところの論理とは、すなわち、ユーモアのセンスであり、思考の持久力です。
客観的とか、冷たい感じというのが、ふつう、論理的であることのイメージでしょうか。私が抱く論理は、それとは感覚が大きく異なります。





論理というのは、考えることとは違います。感じることとも違います。

論理を進めていく手順は、大まかに言えば、数理論理学、集合論に帰着するものでしょう。長い歴史があるものです。特に異論はありません。

他方で、論理には出発点があります。数学の言葉を借りるなら、公理(axiom)です。
ユークリッド幾何学をご存じの方には、私の指示している雰囲気が伝わりやすいかと思います。

どれほど注意深く論理を進めても、その論理の系が、出発点を自身で決めることはできません。
論理を進めていくことと、出発点と、二つを考慮することになります。

ユークリッド幾何学は、ユークリッドの公理を元にして展開されます。
その昔、ユークリッドという人が、できるだけ少ない、誰にでも受け入れられる出発点だけを設定して、厳密な数学を積み上げていきたいと考えました。論理の出発点です。

ユークリッドが決めた公理は、次の五つです。

・任意の点から任意の点へ直線を引くことができる
・線分を延長して直線にすることができる
・任意の中心と半径で円を描くことができる
・すべての直角は互いに等しい
・二本の直線に別の一本の直線が交わるとき、同じ側にできる内角の和が等しければ、元の二本の直線は、限りなく延ばすと、二直角より小さい内角がある側で交わる

書籍『数学小説 確固たる曖昧さ』(ガウラヴ スリ、ハートシュ・シン バル)にまとめられているものを引用させていただきました。
直感に反することのない、受け入れられる公理です。

ちなみに、五番目の公理は、明らかに他と様子が異なっているのが感じられるでしょう。過去のたくさんの数学者も、同じ不審を覚えました。
五番目の公理を使わずに幾何学を進めていくと、すぐに明らかな矛盾にぶつかるものと思われましたが、やってみると、そうでもなかったのです。
現代では、非ユークリッド幾何学と呼ばれる分野に発展しています。





非ユークリッド幾何学しかり、公理を疑うと、良くも悪くも新しい地平に至ることになるわけですが、それはまた別の話です。
個人的には、公理を疑うのは、既存の公理をじゅうぶんに検討し尽くしてからにしたいと思っています。

この決意が、どのような失敗をもたらすことになるでしょうか。

できるだけ少ない、明らかな公理だけを出発点にしようと志すのが、論理的ということです。常識とか、記憶とか、その他の実体のない感傷に依拠しないということでもあります。

この、常識とか、記憶とか、その他の実体のない感傷に依拠しないことは、私が日々を過ごすうえで、数少ない指針のひとつです。周囲の人についても、そのような人が、私は好きです。会話が楽しくなるのです。

先に、思考の持久力であり、ユーモアのセンスでもあると書きました。

たとえば、会話です。常識とか記憶に依拠しないということは、会話は、いま発された前提によって、積み上がっていくことになります。
もともと抱いていた記憶によって発言することはできません。持ち出せるのは常に、たったいまの情報です。

ちょうど、ミステリのような形というと、わかりやすいでしょうか。
ミステリでは、誰かの記憶によって話が進むことはありません。基本的に、前提知識が不要の読み物です。結論は、同じ本のどこかに書かれていた情報から、演算して出せるものです。

たったいまの情報を頭に入れながら、また、少し前の情報を参照しながら、急いで演算して、発言します。
平素から抱いている記憶を使えない分、困難です。思考の持久力が試されるところです。





たったいまの情報を、急いで演算すると書きました。

論理の出発点や、つなぐ鎖について、記憶を元にした、論理の外側からの評価が入らないことでもあります。
論理に間違いがなければ、直感に反していても構いません。直感なるものがあてになるかどうかも、あまり、わかりません。

これが、常識にとらわれない、ということでしょう。私の中で、論理的である、と似た意味の言葉です。

常識にそぐわなくても、よい論理であれば受け入れるということは、ともすると、変なことになります。
変なことであると頭の片隅で思いつつも、変なままで進んでいくというのが、すなわち、ユーモアのセンスです。
平たく言えば、ノリツッコミです。

論理的というのは、変であるとわかっていても、便乗することです。

数学もそうです。

「0 < n < 1000 である n がある」などと言うことがありますが、記憶や常識に照らせば、n なんて、どこにもありません。
身の回りを探しても、私は n を見たことはありません。触れたこともありません。n がある、などというのは、絶対に変です。これが常識です。論理の外側からの視点です。

常識を持ち出さず、n が存在するものであると、ユーモアで便乗して、論理を進展させていくことで、さまざまな、楽しい事柄に出会うことができます。





振り返ってみます。

事実と、説明と、論理と、大まかに三種類の言葉が出てきました。
事実には、あまり解説の余地はありません。事実があって、人が観測します。

説明と論理とは、どのように違うものなのでしょうか。
事実だけが厳然とあるので、考えのとっかかりになりそうです。

当エントリでは、説明は、「3/4 であるよい説明がない」という形で登場しました。3/4 であることが、事実です。

どうも、説明とは、事実より前にあって、事実をもたらすもののようです。理由とか、根拠と言い表してもよいでしょう。

他方で、論理は、「ユークリッドの公理を出発点に、積み上げていくもの」と描かれました。出発点のことを、ここでは事実と呼びなおしましょう。
すると、論理とは、事実よりも後にあって、事実を元に作り上げていくもののようです。

なかなかによい整理ができました。
事実よりも過去にあるのが説明で、未来にあるのが論理です。

事実を観測することを考えます。
観測が、間違っている可能性がある場合と、決して間違っていない場合と、二つの場合を想像できます。

決して間違っていない場合においては、説明というのは、まったくの無意味です。事実を観測すればこと足ります。

間違っている可能性がある場合には、説明の出番があります。よい説明を検討することで、観測そのものを検証することができます。説明の力が、誤った事実を取り入れることを防ぎます。

そして、現実の世界のほとんどで、観測は間違っている可能性があります。
どちらかというと、私には、論理の方を偏重する系が息づいているようです。論理ばかり、あるいは説明ばかり、振りかざすことのないように生きたいものです。





n は見たことがありませんが、ミカンならあります。

書籍『変わらないために変わり続ける』(福岡伸一)に、衝撃の話題がありました。
ご紹介します。

かけ算の順序についてです。
誰もが、一度は直面したことのある問いかと思います。

小学校などで、1人3個のミカンを6人に配ると、ミカンは何個必要でしょうか、という問題があります。6 × 3 = 18 と回答すると、式のところで減点されることになります。苦い思いをした方もあるでしょう。
かけ算の順序は、重要なものとして教えられます。

ご存じの通り、かけ算には交換法則があるので、数学的には、かけ算の順序は問題になりません。
算数が数学と違うかというと、確かに、違うような気がします。ここでは触れないこととしましょう。

話題は、著者の福岡さんがアメリカに滞在にしていたときのことです。
ふと、かけ算の順序のことを、ジェイソン君という同僚に聞いてみたそうです。
あ、全然関係ない話なんだけど、今さ、3つずつ6班に配るというかけ算の計算(ほんとはもう少し生物学的な話だったが、説明の都合上単純な例に)、6 × 3 と書いたでしょ。アメリカでは、そうやるの? 3 × 6 とは書かない? と。
ジェイソン君は、「3つずつ6班に配る」ことを「6 × 3 と書いた」そうです。私たちの教わってきたかけ算に即していません。
すると彼は怪訝な顔でこう言った。そんなこと考えたことなかったけど(そりゃそうだよね)、でも、アメリカでは小学校ではかけ算はみんなこう習うよ。3つずつ6班なら 6 × 3 、6つずつ3班なら 3 × 6 。なんとな。これじゃまったく日本と逆だ。
かけ算の順序が日本人のそれと逆なのは、ジェイソン君の気まぐれではありませんでした。アメリカの小学校で、習ったことのようです。
ジェイソン君いわく、だってごくごく自然じゃない。3つずつ6班は、six groups of three、6つずつ3班なら、three groups of six だもん。ここまで言われてようやくわかりました。
私も、はじめにここを読んだときには、思わず大きな声をあげてしまいました。
3つずつ6班は、six groups of three なのです。
そうなのである。かけ算の順序の論争とは、結局、言語の問題に過ぎなかったのだ。
日本人が、とても重要なものとして習ってきたかけ算の順序は、数学とは関係のない、言語の問題に過ぎなかったのです。





言いしれぬ衝撃がありました。

「数式に向かう時、僕たちは誰でも小さな数学者」(『数学ガール』シリーズ(結城浩)より)であるわけです。私だって、誇り高い、小さな数学者の一人です。

数学に、意味とか解釈を過剰に持ち込むことがないよう、あれほど注意していた私です。

数学は、私の好きな論理であってほしいと、ずっと、大きな熱量で思っていました。何ジュールでしょうか。
思いも寄らぬ、本当に根本の部分に、数学とは無関係な説明が潜んでいました。絵空事のようです。

私が、公理を疑おうと考えることがなかったわけです。これだから、自分が考えることは信用なりません。

次元が広がらないよう、surface を指向する私ですので、やむを得ないのかもしれません。観測が誤っていることがあるわけです。

観測の誤りに気づくための方法があったはずです。
私の考えることは、どうも、説明不足なところがあるようです。


終わりに


以上、私のユーモアのセンスでした。

75%くらいのできばえです。説明はありません。

2015年5月31日日曜日

組み合わさってpression

解釈の鎖が長く続くことに、いつも、物怖じせずにいたいと思っています。思考の持久力ということでも、複雑なものを抱え込むということでもあります。

一方で、私は、意味付けのようなものが高級になっていくことが苦手です。不自然に説得力があって、気味が悪いためです。

解釈の鎖を連結するものは、論理であってほしいと思いますし、そうありたいと思います。

可能な範囲で、意味付けが高級になっていくことを、避けるようにしています。
自分の日常の中で、可能な範囲というものはそれほど広くないのが普通でしょう。難しいものです。

広いのかもしれません。

意味付けを高級にしないようにする方が、労力がかからないことが多いものです。そこだけでも、悪い方針ではないはずです。

副産物があります。
高級な意味を避けて生活していても、自然に、いろいろなことに気づきます。はじめには想像もしなかったようなことが大半です。

日常のあらゆる場面が、意味を、なんとなく形作ります。あまり、説得力のない形をしています。
かようにあやふやな意味というものが、また、日常のあらゆる場面に影響したりします。

こちらの記事を読みました。

生きる覚悟の階層性. May 1 2015

とてもよい記事でした。次のようにあります。
この経験をとおして、ぼくはこう思うようになった。人はみんな、自分が生きようとする覚悟に階層性をもっている。
私にとっての生きる覚悟は、どのような階層にあるのか、考えずにはいられません。
高級な意味付けのもとではなく、日常のあらゆる場面で、見えてくるものだとよいです。少なくとも、嬉しいです。

先の記事では、次のようなエピソードが続きます。
その捌いたばかりの新しい肉を薄めに刻んで入れ、塩と秘密の調味料(口ひげウラジミルさんご自慢)で味付けしたカーシャ(お粥)のおいしさときたら! みんな、お腹の底からやわらかくてとけるような味を満喫し、その喜びを分け合う仲間との時間を称えあった。
生きる覚悟の階層性を理解した後の話題が、生活のためのただの食事であることに、何か、名状しがたい感動を覚えます。

こちらの記事を読みました。

変化と継続、集団と個人、トップダウンとボトムアップ:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

次のようにあります。
たぶん、雑多なものが組み合わさってひとつになっているものに弱いのだ。
何も感じずにはいられない一節です。
多少は趣が異なるものの、私の感じたことを書きます。印象であり、表現です。

私の、理由はわからないけど惹かれるもののひとつに、カレーがあります。食べ物のカレーです。どこかでご紹介したことがありました。

雑多なものが組み合わさっているために惹かれる、というのは、理由はわからないけど惹かれる、と、かなり近いところにあるように思います。
少なくとも、前者を、話し言葉や、忙しい人に伝えようとしたときなどには、後者の表現を借りることになりそうです。

前者の表現を忘れないようにありたいものです。私の思想のことです。

カレーという呼称は、元来より、何か特定の食べ物を指すものではなかったはずです。
私が、カレーの歴史について造詣があるわけではありませんので、ご注意ください。以前もどこかで書いたことがあったかもしれません。

香辛料の類が身の回りに豊富にあるような文化で、個別の人々が、めいめいに作り出した食事があったわけです。
あちらこちらで勝手に作られた、名もなき料理たちです。日々の生活とともにある食事です。

それらが、何かの拍子に、ひとまとまりにされたことがあったのでしょう。悲しい出来事を想像してしまいますが、実際のところはわかりません。

日々の生活とともに作られた名もなき料理たちは、それぞれが少しずつ異なるものでありながら、まとめて、カレーと呼ばれるようになりました。カレーを作ろうと思っていた人はいないのです。
カレーという食べ物がないというのは、そのような意味です。総称のカレーです。

意味づけが高級になったでしょうか。

私がカレーに惹かれるのは、きっと、その雑多さに触れる感覚があるためでしょう。
そして、雑多さに触れる感覚というものが、かようにあやふやであるために、理由もないけど惹かれる感覚に似るわけです。

名もなき料理たちがカレーという総称を得てしまったことは、ネガティブなことではありません。現在、私たちが出会うカレーにも、ずいぶんとバリエーションがあります。雑多さが均されたわけではありません。
名もなき料理のころと違うのは、カレーを作ろうとしていることくらいです。

カレーを作ろうとしたおかげで発生したような雑多さも、きっとあるはずです。雑多さが組み合わさっています。

雑多な食事が集まって、カレーという総称ができました。
カレーという総称が、また個別の食事に影響を与えます。

トップダウンとボトムアップの繰り返しで、生まれるものがあります。

まるで、何かのようです。


終わりに


本文中、「印象であり、表現です」と書いたところがありました。
なかなか気に入っています。