そんなとき、過去が、思い出が、私の心を強くしてくれるような気がします。過去ばかりくよくよと振り返っているところに、絶対の現在も、未来もあります。前向きに未来を見据えているようなところに、未来はありません。
松田聖子さんの「瞳はダイアモンド」には、次のようにあります。
ああ 揺れないで Memories私はもっと強いはずです。優しいはずです。過去があるからです。
時の流れが 傷つけても
傷つかない心は
小さなダイアモンド
ああ 揺れないで Memories私はもっと強いはずです。優しいはずです。過去があるからです。
時の流れが 傷つけても
傷つかない心は
小さなダイアモンド
パウル・クレーは、「絵の具箱にある絵の具に自分を合わせるのだ」と言った。彼によれば、絵の具箱にある絵の具に自分を合わせるのは、自然や自然の観察よりももっと重要だという。言い換えれば絵描きは、絵の具を世の中に合わせるのではない。さらに言ってみれば、世の中を彼に合わせようとはしない。自分を絵の具に合わせるのだ。彼自身は絵の具箱と、そこに入っている絵の具を携える召使である。クレーはこの理解を、まったく正しくも、「完全に革命的な新しい発見」と呼んでいる。
* * *
有名な作家が一人の学生に次のような質問で引き止められた。「私は作家になれると思いますか」
「そうですねえ」と作家は答えた。「わからない……。きみは文章が好きかね」
学生が驚いているのが、作家にはありありとわかった。文章? ぼくは文章が好きかって? ぼくは二十歳です、文章が好きですって、どういうこと?
もし彼が文章が好きなら、私が知っている陽気な絵描きのように、彼ももちろん始めることができる。私がどのようにして絵描きになったのかと尋ねると、その絵描きは「絵の具の匂いが好きなんだ」と言った。
テトラ「そ、そうですが……これって、ただの計算ですよね。まったく虚数っぽくありません!」
ミルカ「そう、ただの計算だ。i が "虚数単位" というドラマティックな名前を持っているために、そこに神秘を求めてしまう。2乗して負になるなんて不思議だと言いたくなる。しかし、実数のペアとして複素数を考えるなら、虚数単位は (0, 1) 以外の何者でもない。ただ、
(0, 1) × (1, 0) = (-1, 0)
というだけのこと。どこにも神秘や不思議はない。実数のペアを用意して、ただの計算、ただのルールがあるだけだ。しかしながら、それにもかかわらず複素数という豊かな世界が生み出されていく。そこにこそ数学の神秘と不思議があり――数学の魅力の一つがあるのだ」
春には春の 生き方があり四季には四季の、優しさがあります。移り変わっていくものの中だけに、とどまっているものがあります。儚さに佇むものがあります。今日は、私たちの頼りなく小さな心で、優しさを願う日です。
夏には夏の 風が吹きます
秋には秋の 実りがあって
冬には冬の 厳しさがある
もちろん、そうした生き方もひとつの選択ではあるのですが、問題はそうした選択を意識的に選んでいるのかどうかです。それこそじっくり腰を落ち着けて、「自分は仕事にすべての時間を使うのだ」と考えた結果なら、そのように仕事に邁進しても後々後悔はないでしょう。しかし、考えて選択することをせず、ただ巻き込まれ、流されているだけなら、後になって「自分の人生とは何だったのか」という気持ちが出てきたときにうまく対処できなくなります。何の話かといいますと、私は毎年、その年によかった音楽アルバムを六枚選ぶことにしているのです。
「五分五分だったら、勝てます」僕は答える。私は櫻井敦司のことを忘れません。何か悩むことがあったとき、不安なことがあったとき、迷うことがあったとき、私は、櫻井敦司と BUCK-TICK がいるから大丈夫だと思って、今までの日常を過ごしてきました。ありがとうございました。
「意味がわからない」彼女は首をふった。
「客観的なデータが五分五分の条件を、すべて勝ってきた、だからこそ、生き残っているんです」僕は言った。「五十パーセントも可能性があるならば、必ず勝てます」
「変な自信ね」
「自信ではありません」
「では……、何?」
「予感です」そう答えたけれど、それは二番めに思いついた言葉だった。本当のところは「諦め」だと思える。