(メルマガから、ブログなどの場で陽に引用してしまってよいものなのかわかりませんでした。ここではこの程度の触れ方にとどめることにします。)
そこで、「考えるという行為が身近になる」との言葉に出会いました。
考えることが、身近になるのです。大変感銘を受けました。様々に、去来する思いがありました。
本エントリでは、その思いを文章に捕まえてみたいと思います。
今回はそんな話です。
考えることが身近に
先日「優しい生き方」とのエントリでも書いたとおり、私は考えることを生きていくうえでの大きな指針に掲げています。こういう風に生きよう、といったときの回答が考えることなのです。
私にとって重要で、大事にしていることです。きっと、多くの人にとっても同様でしょう。
その意味で、考えることが身近であることはほとんど、生きることのすべてと言ってしまっても構いません。
メタルバンド「陰陽座」には「生きることとみつけたり」というタイトルの楽曲があります。私は、考えることにそれを見つけたわけです。
考えることが身近であるために、日々を生きています。同時に、日々を生きるために考えることが身近でありたいとしています。
それがすべてなのです。目的も手段もなく、必要十分条件です。
とはいえ、考えて生きようと言っても、抽象的でつかみどころのない話ではあります。
何も考えなくても生きられるかもしれません。他方で、何も考えずに生きている人はいないとも言えます。
抽象的な話を理解することは、具体的なそれを理解することと完全に等しい値の重要度を持ちます。どちらも、同じだけ重要です。
私も、考えて生きることがすべてとまで言うからには、その実装にも思いは至っています。すなわちそれは、考えて生きるとはどういうことかという問いへの答えのことです。
具体的とか答えなどと言うものの、それほど大げさな話ではありません。
日々を生きていると、どちらとも言えないような、答えの出ない話にぶつかることが頻繁にあります。それはもう頻繁にあることでしょう。
私が考えたいのは、そんなときです。
一般的にAと言われているから、そうかもしれません。しかし、そうではなくBだとも言えそうです。ひょっとすると、どちらでもないCでも良いでしょうか。
こういったことを、いつも考えるのです。
これが、私が言うところの考えて生きることの中身です。
明らかなように、考えた先に何かをしようというものではありません。よく言われる、自分の頭で考えて決断しよう、といった類のものではないのです。
答えの出ない話を考えて、それで終わりです。答えは、やはり出ないのです。
だいたい、決断するためには考えることが枷になることだってあります。
こちらの記事で触れられています。
自己イメージというものの威力といいかげんさ | ライフハック心理学
考えることは、それほど万能ではないのです。
それでも、私はそうして生きようと決めました。
自然とひとつの疑問が浮かんできます。
なぜそうした手間をかけて、場合によってはたくさんの本などを読んで材料を集めてまで、考えなければならないのかということです。
本を読むには、お金も時間もかかります。考えるには、時間と労力がかかります。対して、頭の中で物事を考えているだけでは何も生み出されません。何も起こっていないに等しいわけです。
費やしたコストなどに比べれば、そんなことは無駄なので止めるべきとも言えます。
私はひとつ、それに対しての回答を抱いています。無駄に見えても、そんなことを続けたい理由です。
それは、そんなことで生きていけることもあるからです。
考えることに根ざしている、例えば哲学や人の内面のことなどは、無駄といって切り捨ててしまっても問題のないものです。なくても構わないものだと言われたら、それは打ち消し難いでしょう。
しかし、現実はもっといろいろなことがあります。
哲学者ウィトゲンシュタインは激しい自殺願望に苛まれていましたが、哲学の道から直観を得てそれを克服したようです。哲学によって、すなわち考えることによって命をつなぐことができたわけです。
第二次世界大戦中、収容所と呼ばれる施設に入れられた人々がいました。そこには想像を絶する厳しい生活がありました。
そのとき、より長く、さらには強く生き続けた人には、生来繊細で、内面の世界を求める人が多かったといいます。屈強で、粗野な人々ではなかったそうなのです。
やはり、考えることで生きることができた人々でしょう。
何も生み出さない無駄なことですが、私は考えて生きたいです。そんなことでも、生きられるかもしれないのです。
もちろん、そんなことでは生きられないかもしれません。
ですが、私はそう決めました。考えることが身近であることは、こんなにも尊いのです。
終わりに
そのため、考えることを身近にしようとする様々な趣向は、大変重要です。