といっても、クロッカスは春に咲く花です。
私はこの文章を、暑い夏の七月に書いています。目に見える事象をありのままに描写する方針を採るなら、冒頭の一文は正しいものになり得ません。
そうだとすると、それは何かのメタファであると発想することができましょう。
メタファとは、広い意味で比喩と呼ばれるものととらえられることが多いように思います。基本的に指向する方向としては、それで決して悪くありません。
他方で、私個人としては、やや趣を変えて次のように理解しています。すなわち、メタファとは暗喩、隠喩のことであるというものです。比喩のことだと考えるより、話が細かくなっているわけです。
したがって、言明として、冒頭の一文はメタファである、と、冒頭の一文は隠喩である、とが等価であることがわかりました。
隠喩は、ふつう、文脈の理解を基礎として解釈されるものです。文脈が示されないところでの隠喩には、あまり意味がありません。または、あまり意味を与えることができません。
ですので、ここではクロッカスの話に移ります。
クロッカスについて、特にその物的でない部分について調べてみると、そこには様々な世界があることがわかります。
例えば、花言葉を見ましょう。
こちらの記事を参考にさせていただき、いくつか印象的なものを拾ってみます。
クロッカス | 花言葉しらべ
- 焦燥
- 裏切らないで
- 愛しすぎる心配
- 不幸な恋
- 愛して後悔する
そのためなのか、因果関係ははっきりしないものの、クロッカスの名がつく事柄に関しては、様々なエピソードがあるそうです。
こちらのページには、いくつかの興味深いお話が紹介されています。それはギリシア神話だったり、西欧の伝説だったりしています。
クロッカス (Crocus) 花々のよもやま話/ウェブリブログ
物語の詳細にまでは立ち入らないことにしますが、それらはいずれも悲しいお話だという点が共通しています。悲しく、主要の登場人物たちに祝福のない物語です。
そこで、クロッカスの花は、登場人物たちの強い感情の象徴として現れてきます。話の流れから言っても、不自然なところはありません。
日本語には独特の言葉があるもので、それは、激情とでも言いましょうか。日本人の感性に照らせば、椎名林檎のような、俵万智のような感情です。
俵万智さんというと、次のような歌のことです。
ガーベラの首を両手で持ち上げておまえ一番好きなのは誰名状し難いとはまさにこのことでしょう。何かしら、察せられる感情があります。
それでいて、先に話題としたクロッカスの逸話たちでは、クロッカスの花は慰めとしても機能しています。ストーリーに祝福はないものの、慰めだけはあるのです。
クロッカスの花は、激情と慰めとを同時に象徴しています。クロッカスについての理解は、なるほどそのようなものなのでしょう。向かう方向は異なりますが、いずれもドラマティックであると言えるかもしれません。
この、クロッカスの花が示唆するような、激情と慰めが共存するような感覚は、結構、ユニークなものだと思います。余所の場面ではそういった感情を覚えることがない、という意味です。
ユニークであり、また他方では普遍のことであると想像できます。普遍に人々が承認できる感情であったからこそ、逸話は語り継がれるのかもしれません。
すると私も、時代とセットで、洋の東西も問わずに流れてきた感情に、このたび、やっと出会えたのです。
事象としては、私の感情のバリエーションが一つ増えました。理解としては、私の心が一つ豊かになりました。
豊かであるという言葉は、とても良いものです。暖かい心地のする形容動詞です。
それから、心が豊かになるというのも良いものです。
心が豊かになることと、生きるということとはだいたい同じような意味だと、私は感得しています。何度か書いたことがあったでしょうか。日々を生活しようと思うことは、心豊かになろうと思うことなのです。
それはきっと、生きる意味とか、目的とかいったものではありません。何のために心豊かであろうとするのかは、考えてみてもあまりわかりません。ただ、その二つがだいたい同じ意味であるのです。
ここまで、文脈を示してきました。
その理解を元にすると、本エントリ冒頭の一文は次のように解釈できます。
すなわち、冒頭の一文は、ある花への理解を通して私の心が豊かになりました、あるいは、無事に日々を生活しています、といったことの隠喩でした。そして、私はそのような書きだしでふいにエントリを書きたくなったというわけです。
終わりに
俵万智さんも、似たような事象について歌にしていたようです。
「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬさて、こちらは何の隠喩なのでしょう。