2018年9月29日土曜日

高圧的ではふたが開かない

エジプトの壁画の、独特の筆致が気になります。全体的にくっきりとした、強めの筆圧です。当時の筆記用具のためでしょうか。くっきりとした雰囲気が、コミュニケーションに有利だったのでしょうか。筆致を工夫しても、あの図表でコミュニケーションを目指すのには、さぞかし気苦労があったことと思います。

一部の物好きな人は、書かれた文字、文章のことをエクリチュールと呼びます。何ともいえないもやもやとしたものを、この呼び方から、私は感じます。物好きなジャンルに触れる数が、少ないのかもしれません。

このもやもやがなくなっていくことを、大人になるとか、洗脳されるとか、呼ぶのかもしれません。

書籍『生物の世界』(今西錦司)には、次のようにあります。
変異ということそれ自身もまた主体の環境化であり、環境の主体化でなければならぬ。生きるということの一表現でなければならぬ。現状維持が死を意味するとき、生物はつねに何らかの意味でよりよく生きようとしているものであるということができる。
私も子供の頃は、返信用の封筒に「行」と書いてあるのをわざわざ取り消して「御中」と書き直す制度がまるで納得いかず、癇癪を起こしたことがありました。はじめから「御中」と印刷して渡せばよいのではありませんか。

自分の中でどうしても折り合いがつかず、疑問を持たなくなったら、大人になったのだと思うことにしました。

時は流れて、現在の私は、結局まだ納得がいっていません。大人になれませんでした。私の人生です。ライフです。
とはいえ、私もわりと物好きな方なので、エクリチュールは積極的に使っていきたいと思います。

ある程度のまとまりになった文章が好きです。情報をゆっくりと表現することにかけては、私の知るなかで最良の方法です。他の方法には、まとまった文章にはない早さがあります。時と場合による、といえばそれまでですが、早い表現は、私は苦手で、距離を置くようにしています。

厳密には、文章のうえに論理はありません。厳密な論理があるのは記号論理の表現のなかだけだと、私は考えます。このあたり、数式の展開は計算と呼ぶのに、記号論理式の展開は論理と呼ぶのは、いまひとつのような気もします。どちらも同じものだとおっしゃる方もあるかもしれません。年若いゲーデル青年です。
文章のうえに論理がないのは、自由なエクリチュールの宿命ですので、しかたのないことです。それでも、まとまった文章のうえでは、論理が流れていると少しでも感じられるところが好きです。

論理がないといいますか、自然な言語による文章と、記号論理の表現とでは、論理という言葉の指すものが違っているのかもしれません。

書籍『存在論的、郵便的』(東浩紀)に、次のようにあります。
私達は論理によってしか世界を思考できない。言い換えれば、世界と思考はともに論理に支えられている。とすれば必然的に、論理自体は世界=思考を超えることになる。
自然言語でも、記号論理でも、通底する論理は外から与えられるものです。閉じたエクリチュールの階層を飛び越えたところから、論理が叩きつけられます。

記号論理では、与えられた論理をもとに、静的に世界が表現されます。機械的であり、この意味で論理的です。

自然言語では、外から与えられた論理がエクリチュールを限定するのとまったく同時に、エクリチュールが論理を限定します。主体の環境化と、環境の主体化が、絶対矛盾的自己同一的に振る舞います。生命的なダイナミズムといっても構いません。ライフです。この意味でやはり論理的です。

ウィダーインゼリーのふたが固くて開けられません。

文章には文法があります。記号論理にはありませんし、他のどんな表現にもありません。開けられないことと、ふたが固いことを高度に関連付けて、微妙な陰影を含ませて表現することは、文法のあるエクリチュールの他には難しいことでしょう。

私の家には瓶入りのナンプラーがあります。やはりふたが固くて開けられません。私はナンプラーとか、パクチーの類がとても好きです。何というジャンルで呼べばよいのでしょうか。最近は、パクチーがあちこちで食べられるようになって、嬉しい限りです。

ナンプラーも好きで、家に瓶を買ってあります。残念ながら、チャーハンを食べるときくらいで、あまり使う機会がありません。卵かけご飯にも使えそうなのですが、私は卵かけご飯にはごま油をかけます。ナンプラーを使えるときは逃したくないものだと、常々思っています。ただ、ふたが固くて開きません。

そこへいくと、ウィダーインゼリーのふたは、固いというより、小さくてつかみづらいところがあります。ウィダーインゼリーは手軽に飲むことができるイメージですので、出鼻をくじかれた感じです。飲み口のことを考えると、単純にふたを大きくするわけにもいかないのが、難しいところです。

シャンプーやボディーソープの、詰め替えパックの口が開けられないことがあります。詰め替えパックの口は、固くて開けられないわけではなく、ひとえに、お風呂の中では手が濡れているためです。思い返してみると、昔は、今よりもっと開けにくいものでした。偉大な創意工夫と、改善があったのでしょう。手が濡れているという巨大な制約がありますので、詰め替えパックの口の開けやすさを設計することは、非常な困難に違いありません。

日常のあらゆる場面で、ふたが開かないことがあります。私の生活です。ライフです。

書籍『完全言語の探求』(ウンベルト・エーコ)には、次のようにあります。
これまでにも指摘されてきたように、図表文字の真の限界は、像はものの形態や機能を表現することはできても、行為、動詞の時制、副詞、前置詞を表現するのには困難があるという点にある。
図表文字と呼ばれるものと、まとまった文章とを対比してみます。図表文字は、エジプトの壁画に出てくる、絵のような文字のことをご想像いただければよいと思います。

まとまった文章によらずに情報を表現しようとすると、いくつかの困難にぶつかります。なんとなく、コミュニケーションに気苦労がある、くらいに思っていましたが、列挙されてみると、なるほどそうだという気がしてきます。
行為、動詞の時制、副詞、前置詞です。情報を表現するためには、文法が重大に不足しています。

文法を伴った、まとまって書かれた文章の形式がいちばんよいものだと、長らく考えてきました。

他方で、まとまったエクリチュールにも達成できない点があります。
『存在論的、郵便的』からです。
「何の違いがある? What's the difference?」という疑問文を例に挙げている。
「何の違いがある?」と紙に書かれている状況です。
与えられた文を文字通りに理解すれば、それは「違い」の内容についての質問になるし、修辞疑問として受け取れば、それは「違い」の存在を否定する文章になる。
当たり前のようですが、改めて言われると、確かにそうです。

素直な疑問文だと思えば、違いの内容を聞かれている状況です。高圧的な口調で読めば、「違いなんてないだろう」と迫る状況です。必ずしも高圧的でなくてもよいとは思いますが、修辞疑問文というのは、なぜだか高圧的に見えるものです。無意識にやってしまわないよう、気をつけたいところです。

話が逸れました。エジプトの壁画のような情報伝達では、話が逸れることもできません。ものの形態や機能を表現することしかできないためです。話が逸れていくことができるのも、自由なエクリチュールの機能です。

話が逸れました。同書は次のように続きます。
そのどちらの読みが正当かは、原理的に判断できない。
素直な質問として読むか、高圧的な修辞疑問文として読むか、原理的に、いずれかの正当さを決定できません。エクリチュールの内側に通底する論理には、いずれの読解が正当か、表現されていないのです。論理とは、エクリチュールの世界を超えたところから叩きつけられるものです。
あらゆる記号にはエクリチュールとしての面がある。記号が記号であるかぎり、何らかのかたちで「書かれる」、つまり記録されることが必要だからだ。そしてエクリチュールは上述のように、たえずあるコンテクストから切断され漂流し、別のコンテクストへと接木されている。その結果あらゆる記号は原理的に、つねに同時に複数の言語(ラング)、複数のコンテクスト、複数の読解レヴェルに属しているだろう。
エクリチュールは常に複数の読解レベルに属していることにより、翻訳が不可能であるといわれます。

書籍『アウトライン・プロセッシングLIFE』(Tak.)は、次のようなスローガンを掲げています。
生活(ライフ)は、人生(ライフ)に規定されます。そして人生(ライフ)は、生活(ライフ)の積み重ねに影響を受け、変化していきます。
ライフという言葉が複数の読解レベルに属していることで、翻訳を拒んでいます。原理的には、あらゆるエクリチュールは翻訳を拒みますが、ここでのライフはそれが顕著です。

今度は、『生物の世界』を見ます。
英語ではライフという言葉一つであるが、日本語でいう場合には生命と生活といえば可成りな相違を感ずるからである。
ライフという言葉が、立て続けに翻訳不可能になります。

文法を伴ったエクリチュールには、生命的なダイナミズムがあります。ライフです。外側から叩きつけられる論理に限定されつつ、外側にある論理を限定します。主体の環境化であり、環境の主体化です。

生物は常に、何らかの意味でよりよく生きようとしているものです。
私などは、納得がいかなくても癇癪を起こさないようになりました。


終わりに


近年では、ウィダーインゼリーは飲まないことにしています。ふたが開かないからです。
何の違いがあるでしょうか。