他方で、万年筆と情報カードとは、読書に必須のアイテムでもありません。私は本を読むことが好きで、他に必要なシチュエーションはないためです。
ここ何年か、変わらないことです。人生にはいろいろあって、日常のあらゆる場面はそれなりに変化しているのに、本を好きな様子が変わらないのは、不思議なことです。
こちらの記事を読みました。
【企画】2018年の<びっくら本>を募集します #mybooks2018 – R-style
私も本を紹介してみます。
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『わたしは不思議の環』(ダグラス・ホフスタッター 著, 片桐 恭弘 訳, 寺西 のぶ子 訳)
階層と再帰のことを考え続ける人生があるものです。
きっと、自然な姿なのでしょう。"I am a strange loop." です。
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『科学的発見の論理 上』/『科学的発見の論理 下』(カール・ライムント・ポパー 著, 大内 義一 訳, 森 博 訳)
買って読み始めたのは、2014年のことでした。当時は、はじめの十数ページしか読み進めることができませんでした。こんなに難しい本があるのかと思ったものです。
意を決して、今年、2018年にまた読み始めてみました。驚くことに、すいすいと読み進めることができます。難なく、とまではいわないものの、読み終えました。
独特の思い入れができた本です。
人間、4年の間に変わることがあるようです。日常のあらゆる場面は変化しているわけです。
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『数学ガール/ポアンカレ予想』(結城 浩)
4年で大きく変わることがありました。100年かかってわかることもありました。
寒いときほど、春を思う心は強くなります。なるほど、微分方程式ができそうです。
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『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)
私もフランシス・ベーコンの絵が好きです。
本も、絵も、音楽も、ああいった感じのものが好きです。空間を埋める感覚、と呼ぶのが近いようであり、しかし、言葉にならない感覚です。
本も、絵も、音楽も、興味が尽きることがありません。言葉にならないことで、毎回、少しずつ新しいことを発見しているのかもしれません。
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『カッコウはコンピュータに卵を産む 上』『カッコウはコンピュータに卵を産む 下』(クリフォード・ストール 著、池 央耿 訳)
当時は当たり前だったのでしょうが、UNIX(CLI)の専用端末には、ぐっとくるものを感じます。WindowsのアプリケーションとしてUNIX OSに接続できるのでも、Windowsの内部でUNIXを立ち上げるのでもありません。
この類の道具にぐっとくる感じをずっと引きずったまま、私は生きているような気がします。
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『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(東 浩紀)
ジャック・デリダも、道具について考えたことがあったようです。タイプライタで書くことにも、何かを喚起するところがあるのかもしれません。なんとなく、気持ちはわかります。
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『南の島に雪が降る』(加東 大介)
人間の特徴なのか、何人かの人が関わると、得意なことが少しずつ違う人が集まるものです。
社会の基本的な仕組みなのかもしれませんが、社会がある前に、自然とそうなるのは不思議なことです。人間の方が、社会よりすごいということになります。
得意なことが少しずつ違う人が集まっている様子には、妙に胸を打つものがあります。
生物の特徴なのでしょうか。
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『活動的生』(ハンナ・アーレント 著, 森 一郎 訳)
例えば、自分で何か作業をしているとき、または、ソフトウェアを操作しているときであっても、手触りのようなものを、私はとても大切にしています。
自分を信じられるというのは、こういう感じだと思うからです。
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『ジャイロモノレール』(森 博嗣)
自分を信じられるのは、手触りのようなものですが、自分以外のものを信じられるというのは、論理が通っていることです。
いや、論理が通っていることは、信じることとは違うような感じもあります。
信じるとか信じないとかではなく、論理が通っているというのは、ああ、確かに論理が通っている、と感じることがすべてです。
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『西田幾多郎の実在論――AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか』(池田 善昭)
2018年は、西田幾多郎の哲学に出会った年でした。ああ、確かに論理が通っている、と感じます。
世界とは、個物的多と全体的一との矛盾的自己同一の世界から成ります。
確かに論理が通っている、と感じるしかないことなのかもしれません。"I am a strange loop." だからです。
終わりに
本を好きな様子が変わらないのは、毎回、新しいことを発見しているからでしょうか。