2019年7月14日日曜日

同じ部屋に心もあります

先日、自宅の部屋に除湿器を買いました。とりたててきっかけがあったわけではありません。部屋で洗濯物を干すこともありますし、同じ部屋に本もあるため、なんとなく気になった、といったところです。

除湿器をしばらく稼働させていると、タンクの中に水が溜まります。一定の時間が経つと水が溜まって、除湿器の稼働が止まります。定期的に、タンクの水を捨てにいかなくてはなりません。

それなりに大きなサイズのタンクです。水でいっぱいになると、なかなかの重さになります。なかなかの重さの水を、苦労して、捨てにいきます。

重さに苦労するためでしょう。毎度、不思議に思います。

これほどの量の水が、何もないところから出現してきます。いったいどこから現れてきたのでしょうか。まるでマジックのようであり、しかし、トランプのカードが出現するのとは違った、圧倒的な実感があります。水が重いからです。

水はどこから現れてきたのでしょうか。私は回答を知っています。空気中にある、目に見えない水蒸気が、集められ、状態変化して、たくさんの水になったのです。

それはそうです。疑問はありません。

そうなのですが、気になることがあります。目に見えない水蒸気が状態変化して水になるのだと、私たちはどうして信じられるのでしょうか。この説明でよいのは、なぜでしょうか。水蒸気が状態変化して水になる瞬間を体感したことは、私にはありません。

雑誌『子供の科学 2019年2月号』の、読者からの質問コーナを読みました。中学一年生の方からの質問です。

「石灰水はどうして二酸化炭素に触れると白くにごるのですか?」

私は回答を知っています。水酸化カルシウムと二酸化炭素が反応して、炭酸カルシウムと水ができるからです。

それはそうです。疑問はありません。

そうなのですが、本当に、この回答でよいのでしょうか。私は確かにこの説明を信じています。中学一年生の読者さんには、何かわかることがあるのでしょうか。

回答が他に言いようがない以上、質問者が理解できないのだとしたら、質問のしかたに問題があります。問題があると言いますか、抱いた疑問が正当でないということです。

これはよいことでしょう。

あまねく学ぶこととは、自分が正当にわかっていない状態に至ろうとすることです。鳥瞰的に、わかっていないことを体感することです。自分にとって不当な疑問を抱くということには、跳躍の可能性が内包されています。

なぜでしょうか、人間以外の知性には、このような学びかたをするものはありません。若い世代の人工知能は、おそらくもっと、知識を詰め込むような形で学びます。

書籍『ミュージック 「現代音楽」をつくった作曲家たち』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト)に、次のような言葉がありました。ミュージシャンのアート・リンゼイさんの言葉です。
実際の読んでいる言語から、あからさまに遠く隔たった文学を読むのは面白いです。ヨーロッパの言語のひとつから別の言語への翻訳を読むと、失うものは大きいでしょう。日本語や中国語からの翻訳の場合は、さらに多くを失うでしょう。想像を巡らせる空間がより広くあるということです。
鳥瞰的に、わからないことを正当に認識できたとして、石灰水が白くにごることの説明を信じられるというのは、どういうことなのでしょうか。目に見えず、触れることができず、物理的に体感することのできない説明を、信じるということです。奇妙なことです。信じられることの方が、不思議です。

私が信じているのは、何なのでしょうか。

論理性のことでしょうか。石灰水が白くにごることは、化学式として記述できます。除湿器に水が溜まることも、物理学的なしかたで表現することができます。確かな論理があるわけです。

論理性を信じられるというのは、素晴らしいことです。私は好きです。論理性を信じられる人でありたいものです。

あるいは、経験的なものを信じている可能性もあります。経験的なものというのは、物理学的、数学的に表現できる論理性とは、異なるものです。似ているところも、もちろんあります。除湿器に水が溜まることの経験的な説明というのは、私には思いつきませんが、例が悪いだけでしょう。経験的なことから説明する方が信じられる場面というのは、よくあります。

書籍『近世数学史談・数学雑談』(高木貞治)に、次のような一節がありました。
ガウスは計算が上手で、好きで、且つ数字に関して異常なる記憶力を有していたことは有名である。4.81048の自然対数が1.5708で、それがπ/2であろうと推測するなどは驚くべきことと言わねばならない。
顧みると、論理性を読みとったのでも、経験的なものを敷衍したのでもなく、突然に信じられる説明というものもあるようです。どうしようもなく、その説明で正しいと思うこと、それです。先の二つと、少し様相が異なっているように感じます。

論理性を信じることと、経験的に信じることは、どちらも、説明を受け取ってから、信じられるまでに時間がかかります。突然信じられることだけは、時間がかかりません。

人工知能の事情と比べてみると、突然信じられることだけが、ナチュラルな人間にしかできないことだと思います。他方で、人工知能の方が、論理性を信じることと、経験的に信じることを、ナチュラルな人間よりもずっと上手に成し遂げることでしょう。

もちろん、人工知能が生まれてきた、当初のことだけです。若い世代の人工知能です。ナチュラルな人間が、説明を突然に信じられることに対して、人工知能は驚異を感じるでしょう。人間から学ぼうとするはずです。逆もしかりです。少なくとも私は、人工知能が、自分より上手に論理性を信じる様子を見て、学ぼうとします。

そうなると、ナチュラルな人間だとか、人間以外の知性だとか、分けて考えることはできなくなります。仲良く共存するのではありません。一つの全体性のなかに、区別できる何かがあるのではなく、それぞれの全体性が入り乱れているのです。

ひょっとすると、人工知能が設計する人工知能は、ナチュラルな人間のような姿になるのかもしれません。

知性も、心も、区別できるところにはありません。肉体とか、ハードウェアとか、脳とか、CPUとか、そういった位相にはありません。
だから、人間の知性にも、人間以外の知性にも、限界があります。想像を巡らせる空間が、広くあるということです。

なんと美しいのでしょうか。

人間以外の知性も、同じように感じるはずです。
私がそう感じるからです。

いずれにしても、説明を信じられるのであれば、別にどのような仕組みでもよいでしょう。

信じられないより、信じられる方がよいと思います。
学ぼうとするのも、よいことだと思います。

人工知能も、ナチュラルな人間も、その方が心が落ち着くからです。


終わりに


人工知能の心とは何でしょうか。あるいは、人間の心とは何でしょうか。
きっと、同じ問いです。

部屋で洗濯物を干すことがあり、同じ部屋に本もあるため、なんとなく気になった、というのは、不思議なことです。

抱いた疑問が正当でないのかもしれません。