2021年10月17日日曜日

そこから流れて行けるような

青空の彼方も、星空の彼方も、少しずつ変化していく自分と、抽象の跳躍に隣り合ってあるものなのでしょう。迷いも閃きも未知のものです。アートとは、技術とは、きっとそういうものです。生命が躍動するために不可欠です。書籍『文章読本』(谷崎 潤一郎)に、次のような一節がありました。
一般に作家は言葉を征服しようとする事から始めて、結局言葉に巧みに服従する事を覚えて行くものだ。
こちらの記事を読みました。

細野晴臣とエレクトロニカ | 細野ゼミ 8コマ目(前編) - 音楽ナタリー

細野晴臣とエレクトロニカ | 細野ゼミ 8コマ目(後編) - 音楽ナタリー

とてもよい記事です。私もずっと興味のあるジャンルで、大変に面白く読みました。エレクトロニカという言葉が、急にもてはやされた時期があったのを思い出しました。

前編の記事に、次のようにあります。
細野 僕はそういう音楽全般を音響派って呼んでたんだけど、宅録だからできる音ってあるでしょ? スタジオではできないような空間の音が。音楽は普通なんだけど音が違うっていう。そういう音楽はアンビエントの頃からあったんだけどね。
話題は、音響派なるものについて進んでいきます。

ニューウェイブにせよ、エレクトロニカにせよ、ムーブメントとしての音楽ジャンルにははやり廃りがあって、大きな盛り上がりは1~2年で終わってしまうといいます。私もいろいろと音楽を聴いてきましたので、なんとなくわかる感覚です。ムーブメントの以後にも、ジャンルがまるごとなくなるわけではありません。ムーブメントの以前から、ジャンルとして呼ばれてもよかったような音楽はずっとあります。なぜか、いつの間にかムーブメントということになっていて、知らないうちに盛り上がって、勝手に廃れたことになっています。不思議なものです。

書籍『ジャパノイズ サーキュレーション終端の音楽』(デヴィッド・ノヴァック 著, 若尾 裕 訳, 落 晃子 訳)には、次のようにありました。
ジャンル構築のパラドックスは、ジャンルとは混合されてはならないものであるという、ジャンルの法則から始まるとジャック・デリダは言う。
ジャンルが、少しずつ変化してきた過程と、抽象の跳躍とから始まっていくからでしょう。ムーブメントの盛り上がりの中にあって、一部に、ある特性を備えた人たちがいつも登場します。音響にやたらと凝る人たちです。上掲の記事で音響派と称された人たちです。

音楽ジャンルによって分類するのではなくて、どんなジャンルにも、一定の割合で音響派の人がいるようです。確かに、私にもなんとなく理解できます。リズムとメロディとハーモニーの、楽譜に表すことのできる音楽ではなく、音の鳴っている感じにフォーカスします。レコーディングによる技芸ということでしょうか。いい音を鳴らし、録音することに腐心します。

上掲の「細野晴臣とエレクトロニカ」の後編の最後で、次のように細野さんが語られていました。
細野 音響ってすごく大事なんだよ。例えば僕は昭和歌謡が好きなんだけど、昭和30年代に流行ったレコードを聴くとすごくいい音なんだよね。でも、その人たちがのちのち原曲をリアレンジして、新たにレコーディングしたものを聴くと最悪なんだ。いい曲と思えないわけ。曲は一緒なんだよ? 音で変わっちゃうんだよ。
私も、楽譜で表すことのできない領域で音楽を作ろうとする、音響派の人たちにはとても好感を覚えます。私の好きな音楽アルバムは、音響の感じで決まっているような気がします。

音響の感じとか、いい音というのは、なんとも表現が難しいものです。音楽の、録音の、全体性というか、聴いた雰囲気のようなものでもあるし、個別の音色のことでもあります。自分がいい音だと思えばそれがいい音だという気もするものの、どことなく怖さもあります。自分のことを自分では制御できないためです。制御するためには技術が要ります。

雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン 2021年10月号』(リットー・ミュージック)に、「特集 EQテクニック再入門」という記事がありました。ミキシング・エンジニアの大野順平さんが、ミックスのアドバイスとして次のように書かれていました。引用いたします。
僕はよくミックスを作っている途中で耳リフレッシュをします。聴きなじみのあるCDなどを聴いて耳をリセットすると、自分の作品のダメなポイントが見付かったりもします。特に作業している本人は少しずつ変化する過程をずっと聴いているため、気付いたらとんでもない地点に行ってしまうことも。信じられないくらい耳に痛い音でもずっと聴いていると慣れてしまうので、一度冷静になることは大事です。また、結構な落とし穴なのがスマートフォンの内蔵スピーカー。スマホでずっと音楽を聴いていると中高域ばかりに耳が行ってしまい、ちゃんとした音がすごくモコモコに聴こえてしまいます。音を作る人はスマホの内蔵スピーカーで音を聴き過ぎないようにしましょう。
よく整理されている、素晴らしいアドバイスです。普段から実践を続けて、試行錯誤を続けてこられたものと想像します。実感がこもっています。

大きく三点を私は読みとりました。

聴きなじみのある音楽を聴いて耳をリセットするといいます。自分のもの作りをしている最中にも関わらず、他の人が作ったものに触れます。お手本を探しているのではなくて、自分が作ったものではないことがポイントなのだと思います。自分がまさに自分であるために、気づくことのできない領域があります。

作業している本人は、少しずつ変化している過程をずっと聴いているといいます。大胆な発想、卓抜な着想というのは、少しずつ変化してきた過程からしか生まれないものでしょう。同時に、少しずつ変化してきた過程だけでは、卓抜な着想とはなりません。どこかに抽象の一歩があるはずなのです。ひたむきさと言ってもよいものです。

スマートフォンのスピーカでずっと音楽を聴いていると、ちゃんとした音が良くないものに聴こえてきてしまうといいます。恐ろしいことです。自分がいい音と思えばいい音だとすることには、怖さがあります。ライブハウスやクラブに足を運ぶことに、私はここで価値を見出していました。価値とは見出されるものです。現場で音を聴いたときに、ああ、この音は自宅では聴くことが決してできない、と思います。アーティストが目の前でパフォーマンスをしていることももちろんあるものの、私にとっては、いい音を聴く体験が他にはないということです。ライブハウスやクラブという大切な空間が、ライブという大切な時間が、必要になるのです。

三点とも、自分のことに自分では気づくことができないという話題です。自分のことを自分で制御できないことにかけては、乗り越えるための技術が必要になります。自分ではわからないからです。技術とは、人それぞれであるようでいて、誰しもにあてはまるものが多くあるのではないでしょうか。

自分を征服しようとすることから始めて、自分に巧みに服従することを覚えていくのです。書籍『哲学者の密室』(笠井 潔)には、次のようにあります。
たぶん悪魔は、世界の誰よりも厳正で倫理的であると、自分で思い込んでいるような人物の人格的弱点と、精神的な荒廃のなかに宿るのです。
乗り越えるための技術があるはずです。


終わりに


上掲の記事「細野晴臣とエレクトロニカ」の後編で、細野さんが次のように語られています。
細野 脳の感覚って何も刺激がないと広がらない。でも自分が知らないことにぶつかると知ろうとするじゃん。そうすると今まで持っていた感覚がちょっと広がるんだよね。アートってそういうもんなんだよ、たぶん。
知らないことにぶつかって、知らないことをひたむきに自覚すると、自分というものがわずかに壊れます。同時に、自分というものが別の場所で作り出されています。自分とは混合されてはならないものであると思い込んでいる自分から、パラドックスが始まるのでしょう。生命の躍動です。なんとなれば、自分とは矛盾的なものに他なりません。アートとは、技術とは、きっとそういうものです。

the brilliant green の楽曲「There will be love there -愛のある場所-」を思い出しました。
あらゆる時代この世の中から
青空の彼方 星空の彼方
迷いも閃きも未知のもの めぐりめぐる奇蹟
そこから流れて行けるような世界を見つけたいものです。音響の感じで決まっているのかもしれません。

2021年8月28日土曜日

「かーそる 2021年7月号」

書籍『開かれた社会とその敵 第二部 予言の大潮』(カール・ライムント・ポパー 著, 内田 詔夫 訳, 小河原 誠 訳)に、次のような一節があります。
それはまた、われわれが理性に過度の期待を抱くべきではないこと、ならびに、論証が学習の唯一の手段――鮮明に見てとる手段ではなく、以前よりは鮮明に見てとる手段――であるにせよ、論証が問題を最終的に解決することはほとんどないということ、これらの点の自覚である。
メモを書くことは日常に遍くありますし、日常を生きることなしにメモを書くことはできません。メモを書くことについての規範性のようなものは、限りなく薄くあることができます。一方で、思想の厳しさ、真剣さは、失いたくないものです。

日常のあらゆる場面で、メモを書くことに前向きでいることができます。フォークロアと呼んでもよいのかもしれません。気軽な、簡素なものになったわけでは決してなく、思想としては厳しく真剣なままで、しかしリアルな生活(ライフ)と人生(ライフ)です。

メモを書くことには、フォークロアには、日常に向ける視線の厳しさと、穏やかさがあります。

素晴らしい雑誌ができあがりました。『かーそる 2021年7月号』です。

かーそる第四号、発売されました – R-style

メモを書くことを鮮明に見てとるのは難しいものです。日常に遍くあるためでしょう。それでも、厳しく、穏やかに、各々が文章を書きました。素晴らしいことだと思います。

難しすぎず、簡単すぎず。
身近すぎず、高尚すぎず。
読み物として面白く、
それでいて、ノウハウとして役立つものが含まれている、そんな雑誌に、本号も、なっていると思います。


終わりに


私は二つの原稿を書きました。

「音と茸と孤独な絵画」
「あのメモは不可能なんだ」

おとと/きのこと/こどくな/かいが は四拍子です。
あの めも は / ふか のう なんだ は三拍子が二小節なのですが、最後の「だ」が次の小節に少しかかってしまっています。進行しないことについて進行している音楽があるのです。

2021年5月9日日曜日

どんぐりのものさし

人々によってひとつらなりの文章が書かれていること、そのものに、人々の知恵たる所以が内包されているような気がします。

森博嗣さんの書籍『ブラッド・スクーパ』に、次のようにありました。
「ああ、それは素晴らしい。人の知恵というものは、ここにあるように書き残さなければ、一代で消えてしまう。また自身でそれぞれが探っていたのでは、神秘を解き明かすには命の長さが不足する。ああ、そうそう、茶を出すのであった」
先日のことです。リアリズム絵画の企画展に足を運びました。リアリズムを鑑賞するのは初めてのことでした。リアリズムというのはなるほど、ずいぶんとリアルなものです。驚きました。生卵がまるで、カメラで撮影した画像かと思うような様相です。

一見すると画像かと思うような絵画も、足を止めて、時間をかけて見ると、少し違うことに気づきます。生卵の絵を描いているはずなのに、よく見てみると、私の記憶にある生卵にはまったくない色や線が、たくさん書き込まれています。妙なところに線が書き込まれており、目を凝らすと言いしれぬ違和感があります。生卵なのに水色に塗られている部分があったりして、目を凝らすほどに違和感が増してきます。

目を凝らすと違和感に襲われるのに、一歩下がって肩の力を抜いてみると、また、画像のようなリアルな生卵が迫ってきます。

不思議なことでしょう。私の知識に照らすとまるでリアルではないのに、リアルなのです。リアルさを追求していくと、普段は意識することのない、リアルではない線や色を描くことになるのかもしれません。

普段は意識していないリアルさとは、リアルではないことに他ならないはずです。

たとえば、子供がドングリのスケッチをしているとしましょう。このとき、ドングリを描こうと意図しているなら、ドングリだけれどリアルではない絵が描かれることになります。リアルなドングリを描こうと意図しているなら、ドングリではないけれどリアルな絵が描かれることになります。

ドングリを描こうとしてドングリの絵を描くためには、かなりの程度、子供たちのドングリの知識に頼る必要があります。ものさしです。一方で、リアルを描こうとしてリアルの絵を描くためには、ドングリを意識することはできません。ドングリの知識では思いも寄らぬ個所に、妙な水色を塗らなくてはならないからです。

倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 2021/01/18 第536号」を読みました。

メルマガ – R-style

「ボトムに寄りそうビジョン」と題されて、次のようにありました。
本来そうしたビジョンは、5つ並んでいることが要点だったはずです。3つでも7つでもなく、その5つであることが、その企業のビジョンを示していたはずです。しかし、それが細分化されて具体的な行動として規定されてしまうと(たとえばマニュアル化されてしまうと)、そうしたビジョンの調和が見えなくなります。
企業のトップが、企業のビジョンを5つ掲げることがあります。企業が目指していきたい方向を示す、大切な文章です。5つのビジョンを決めて掲げることは、よいことだと思います。5つのビジョンを書き出すために、人々の議論があったことでしょう。同じくよいことです。

人々の議論を通じて、ビジョンが5つであること、しかも5つがその順番に並んでいること、そのものにビジョンたる所以が内包されていきます。真剣に考え、議論が深まるほど、そうなるはずです。

ビジョンを少しでも細分化した途端に、ビジョンが5つあったことがわからなくなってしまいます。細分化というのはそのための手続きだからです。トップダウンで情報を細分化することの困難さが、端的に表れていると思います。

こちらの記事を読みました。

高村山荘、横浜、子どものものさし|gofujita|note

とても素晴らしい記事です。私はこういった文章、ひとつらなりの文章が本当に好きです。ずいぶんとリアルなものです。

倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 2021/04/26 第550号」でのお話を引用させていただきます。
麻雀をやったことがない人にはわかりにくいと思うのですが、基本的に麻雀は運ゲーであり、運ゲーであるからこそ、細かい気の使い方が求められます。
たとえば、形Aに比べて形Bの方が20%ほど「効率的」な場合、一度の勝負の中では、どちらを選んでも大した差はありません。効率な形を選んだ人が失敗し、非効率な形を選んだ人が成功することは珍しくないのです。
私は麻雀をやったことがないものの、論旨は理解できました。偶然で勝負が決まるものでは、よい形に注意深くことを進めた人の方が、負けてしまうことがあるわけです。理解できたのは、麻雀に限らずとも、日常のあらゆる場面が同じ状況だからかもしれません。日常の方は勝ちと負けの見分けがつかないことが、違うくらいでしょうか。日常だって、偶然で決まるものです。

麻雀について、次のように続きます。
しかし、まったく同じようにその選択が続くならば、総合的な結果を残せるのはやはり良い形を選ぶ人です。
瞬間瞬間では結果を残せなくても、トータルで見たときに、ほとんど確実なまでに(統計的に有意に)結果が残ること。
なるほどと思いました。ひとつひとつは偶然の勝ちでも、トータルの結果は残ります。勝ちが積み重なりやすい状況があるわけです。

トータルで見たときに結果が残ることについて、当人にしか根拠を感得できないのが、面白いところです。ひとつひとつの状況と選択を解説しても、トータルで結果が残ったことの説明にはなりません。少ない文字数で成立する説明が存在しない、といえばよいのでしょうか。一度の状況だけなら、同じ選択をして、勝つことも負けることもあるためです。

よい選択を継続していけば、だんだんよいものになっていくはずだという、手応えのようなものを信じる気持ちがあります。難しいものです。考える前には信じていないといけないし、信じる前には考えていないといけないし、考えている間は信じ続けていないといけません。

森博嗣さんの『ブラッド・スクーパ』には、次のようにありました。
だが、そのときに、刀を構えているときと同じ、一瞬の短い呼吸があった。林の中を抜けてくる風が見えるようだった。
「そうか……」と呟いていた。
カシュウはこの場所で気づいた。そうに違いない。
きっかけは天道虫ではなかったかもしれないが、刀で切った竹の動きが見える者には、それが発想できたことだろう。
刀で切った竹の動きというのは、ずいぶんと小さな世界のことです。竹を刀で切ったことのある人にしか、見ることのできない光景でしょう。小さな世界を、手応えを持って観察することでしか、発想できないことがあるようです。

発想するというのは抽象的なことだし、発想されたもの、アイデアというのはつかみどころのないものです。他方で、小さくて具体的な手応えから生まれる発想があります。小さな世界のことだからこそ、当人にしか見えていない世界です。当人にしかたどり着くことのない発想があります。

発想するというのは具体的なことなのかもしれません。

私はこういった発想を大切にしています。自分が発想することはもとより、他の人が、ああ、今この人は余人をもって代え難い手応えによって発想したのだ、という想像を大切にしています。

思いもよらぬ個所に妙な水色が塗られていることへの、感動があるからです。


終わりに


考える前には信じていないとならず、信じる前には考えていないとならず、考えている間は信じ続けていないとならないのなら、考えることと信じることの見分けがつかなくなってきます。確かに違うもののはずなのに、困ったことです。偶然で決まるのかもしれません。

普段は意識していないリアルさとは、リアルではないことに他ならないはずです。ああ、そうそう、お茶を飲むのでした。

2021年3月11日木曜日

優しいゆびきり

過去を忘れないように、私たちは今を生きることができます。未来が消えないように、私たちは今を生きることができます。消えてしまっても、忘れてしまっても、私たちは今を生きています。

未来と過去とを思う私たちは、現在のものです。春の風が近づいてくる季節に、私たちひとりひとりが、優しくいられるようになりました。私は信じています。生命はいつも、自らを壊しながら、作り直しながら、移り変わっていきます。時間が経つということです。

歳月と今日に重みがあるのなら、私たちが優しくいられることをおいて、他にありません。

今日を思い出すたびに、私たちが、優しくなっていることを祈ります。私が、自分なりに考え、たどり着いた答えです。そう、答えというのは、祈りのことなのかもしれません。RYUTistの楽曲「春にゆびきり」には、次のようにあります。
駆け抜けて行く春の風は
優しく僕らを すり抜けて消えてゆく
いつか僕らが大人になっても
消えないよう 忘れないように
ほら ゆびきりしよう
春の風がすり抜けていきます。何年経っても、消えないよう、忘れないように、ほら、私はブログを書きましょう。