R-style » ジョブチェンジの心境 オッズとチップ あるいはささやかなエール
こちらにある言葉が置かれていますので、引用させていただきます。
<価値とは、「見出される」ものだ>価値とは「見出されるもの」、ということです。
これは、目にして以来私がそれなりに大変な毎日を送る中で、ずっと心に留め置かれる言葉となっています。私が、今日まで無事に生きてこられた原動力の一端は、この言葉が担ってくれていたと言っても、まったく過言ではありません。
ぜひ、先の記事と合わせて、多くの人に知っていてもらえたらと思っています。
さて、ここでこの話を出したのは、本エントリで書きたいことがそれの反対側にあるものだからです。もちろん、「反対側にある」とは対称軸をうまく設定したときの話ですが、その設定のしかたについては省略します。予めうまく設定されているものとして、話を進めていきます。
その対称軸に従う場合、先の話は「価値とは、動的で、変化するものである」との解釈になります。
つまり、本エントリは、静的で、変化しないものの話です。
美しさ
『100の思考実験』という本に、「芸術のための芸術 - 見る人のいない芸術作品は芸術か?」との項目があります。
| 『100の思考実験』(ジュリアン バジーニ) |
詳しい内容は同書を参照していただければと思いますが、私はこの項目から、美しさの所在について思いを馳せることとなりました。
先ほど、「価値」は動的なものであると書きましたが、一方、「美しさ」はそれ自体が携えているものだと、私は考えています。人の目に触れるとか、どう思われるとかは関係なく、静的で、変化しないものです。
この発想は、『史上最大の発明アルゴリズム』の巻末解説に、おそらくその足場があります。引用いたします。
| 『史上最大の発明アルゴリズム』(デイヴィッド バーリンスキ) |
本書の原題は The advent of the Algorithm 、直訳すると「アルゴリズム降臨」とでもなるだろうか。確かに原題には「発明」という言葉は入っていない。なぜ「発明」に引っかかるかといえば、数学者たちはそれを「発見」と呼んでも「発明」とは呼ばないからだ。数学者たちは、新しいアルゴリズムを生み出すことを「発明」ではなく「発見」と呼ぶらしいのです。
大変興味深く感じました。
アルゴリズムは人の手によって作り出されるものではなく、はじめからそこにあるものなのです。私たちが知る数多のアルゴリズムは、そこにあったものが発見された結果、人類に届いてきたというわけです。
このことが、私の「美しさは、そのものが内包している、静的なものである」との発想をもたらしています。
アルゴリズムは「美しい」ことがとても頻繁にありますが、それは誰に見つけられなくてもはじめから備わっているためです。
動的なもの
再度、動的なものの話に戻ります。少し方向が変わっていますが、大きく「動きのあるもの」として見ます。
『街場の文体論』という本に、これに関係しそうな文章がありますので、引用いたします。
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| 『街場の文体論』(内田樹) |
大学の講義をしている場面を思い浮かべていただけるとよいです。
僕が九十分の授業のためにきっちり九十分ぶんの原稿を作ってきて、それをすらすらと読み上げても、たぶん五分もしないうちに、教室にいる皆さんの半数はばたばたと寝てしまうでしょう。必ずそうなる。ここまでが前置きです。状況はこれでつかんでいただけるかと思います。
重要なのは、それに続く箇所です。
それは起きて話を聴いているのは、コンテンツが面白いからではなく、今ここで言語が生成しているという状況そのものに君たちが感応しているからなんです。なるほどと思いました。
目の前で、ライブに言語が生成している状況に対して、私たちは感応するわけです。これを動的であると呼んでもさしつかえないでしょう。
さて、ここまでで、動的であるものと静的であるものとを明らかにしてきました。
振り返ると、動的なものとは、ライブに言語が生成している状況であったり、人から見出される価値だったりします。一方の静的なものとは、美しさのような、観測者の有無に依存せずに、そのものが内包しているようなことです。
これらを踏まえた上で、私は、その「モノ」が有形か無形かを問わず、静的な美しさを大事にしていきたいと思っています。というのは、「美しさ」はきっと、そのモノが内包しているため、ともすると動的なものより見過ごしやすくなっているような気がしてしまうわけです。
だから、立ち止まって、その何かが持っている美しさを感じたいのです。
もちろん、なにも動的なものをおろそかにする、と言うつもりはありません。ただ、静的なものの方が「わかりにくい」気がするので、大事に思っておきたいという話です。
美しさは観測者に関係のないものであるなら、わざわざ立ち止まってそれを感じることには、何の意味もないでしょう。平たく言えば、無駄な労力です。
でも、と言いますか、だからこそ、と言いますか、そんな感じです。
ここでふと、近頃の音楽業界でよく聞かれた、「ライブ偏重」の話を思い出しました。
私から詳しく語るつもりはありませんが、これなどはもしかすると、顕著な例かもしれません。確かに私は、よく考えられた録音物を繰り返し聴く方が好きなような気がします。
終わりに
本文中で、『街場の文体論』から引用させていただきました。
ただ、この引用箇所だけ読むと、同書が少し別の話のように見えてしまうような気がします。
できれば、その引用箇所だけで何か判断を下す前に、ぜひ同書の方にあたっていただきたいと思います。
