2013年に電子書籍関連でどんな動きがあるか予想してみる - 見て歩く者 by 鷹野凌 -
記事タイトルのとおり、2013年の電子書籍関連の動きについて予想したものとなっています。非常に面白く読ませていただきました。
興味深い箇所がたくさんあったのですが、それ以上に、全体としてとにかく面白いと感じました。
そこで、本エントリではこの面白さについて少し考えてみたいと思います。
今回はそんな話です。
面白さについて
私はブログ「見て歩く者」さんの熱心な読者です。そんな私の個人的な印象として、同ブログでは、事実や統計に基づいて、論理的に、精確な話が展開されていると感じます。統計の取り方や示された数字の解釈についての言及も多く、いつも感嘆しながら読んでいます。
一方で、冒頭にご紹介した記事はその名のとおり「予想」ですので、そのように精確な話だということはありません。何かを基にして間違いなく言えることではなく、普段から考えていることや印象などから、この予想が組み立てられていることと思います。
このように、ここでは二つの立場があることがわかります。
「論理的で精確」と「印象や予想」です。
前者の「論理的で精確」であるとは、科学的であると言い換えることができるでしょう。
書籍『科学的とはどういう意味か』では、科学的であることを次のように説明しています。
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| 『科学的とはどういう意味か』(森博嗣) |
答をごく簡単にいえば、科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。なお、「答をごく簡単にいえば」とあるように、この数行の引用だけで「科学的であること」を過不足なく説明してはいないことは、ここに明記しておきます。これで完全であるとしてしまうのは、科学的な態度ではないのです。
とはいえ、これで、文章で表すある意見が科学的であるということについて考えることができます。
意見のためには、先に情報のインプットが必須になるでしょう。
ですので、そのインプットの姿が明らかとなっている上で、論を一歩ずつ展開していき、ある結論にたどり着くことになります。
その、論の展開の様子と結論が、多くの人の賛同を得られるようなら、それらは「確からしい」と評されることになります。科学的な手続きと言えます。
いま、何となく「賛同」との言葉を使ってしまいましたが、これは、その意見に賛成する、反対するといった話ではありません。あくまで、科学的な手続きに不審なところがない、健全である、といった意味です。
このようにすれば、同一条件下なら誰であっても同じ結論に至ることが可能になります。ある主張は、このようにして「共通認識」とでも呼べるものになっていくことができるわけです。
他者を納得させようと何かの主張をする上では、科学的であることは必須の姿勢になるのでしょう。
それに対して、もう一方の「印象や予想」を見てみます。ここまでの話を踏まえれば、こちらは科学的でない文章、意見だと言うことができます。
それでは、文章や意見にとって、非科学的であるとはどういうことなのでしょうか。
まず言えるのは、そのような文章や意見は、科学的な手続きを踏んだものと比べて確からしくないことです。
これは、これ以上の説明を入れなくとも間違いありません。
しかし、非科学的であることが、そういったネガティブな意味しか持っていないわけでもないはずです。このあたりに、本エントリ初めに書いた「面白さについて考える」ことの結論がありそうです。
私には、非科学的な「印象」とは、科学的で論理的なステップからこぼれ落ちていった何かが、どうしても表れてきてしまうもののように感じられます。あるいは、大量の情報のインプットが自分の中でかきまぜられて、何となくにじみ出てきてしまうものだとしても構いません。
いずれにせよ、その「印象」については誰にでも当てはまるものではありません。他の人には言えない、その人独自のものです。
この意味で、冒頭に掲げた記事は面白いのでしょう。
非科学的な予想は、その人独自のインプットと相まって、オリジナルなものになるわけです。
しかも、(逆説的になりますが、)すぐ上の話に照らせば、
- 何かがにじみ出てくるほどの大量のインプット
- 何かがこぼれ落ちるほどの厳密な論理的ステップ
ものすごく大雑把な言い方をすれば、きちんと非科学的なことが言えるほど、その人はその分野に精通している、とでもなるかもしれません。
終わりに
もし本エントリでここまで述べてきたことが確からしいなら、情報を受け取る側にも科学的な姿勢が必要になります。
と言いますか、科学的とは民主的な仕組みですので、情報を発する側、受ける側の双方が科学的な姿勢を持って初めて、それが科学的かどうかを検討できるようになるのかもしれません。
