そんなものに流され続けて 角の取れた原石には川を流れる石が少しずつ丸くなっていくように、角ばっていた原石がなめらかになってしまうのは良いことではない、ということでしょう。引用部分のみだと主語がわかりにくくなっていますが、人として、といった雰囲気かと思います。
きっと 誰も用はない
私はこれを目にして、少なからず驚きました。そうなのか、と思ったのです。
それは、私が日常を過ごすときにいつも考えていることが、直感的に、正反対のことであったためです。
日常を過ごすときに考えることは重要です。個人的な範囲では、ほとんど、生きることのすべてと言っても構わないでしょう。個人的というのは、the man ではなく、a man という意味です。
日常を過ごすことには、限りある時間をいかなる行動に割り当てていくか、といった具体的な話と、どういう方針で生活していこうか、といった抽象的な話とがあります。疑いようなく、どちらも切実に重要です。
「切実である」と「重要である」との言葉が指す事象は、かなり近いものがあります。切実であることはふつう重要であり、逆もまた真に見えるのです。
しかし、ここは立ち止まって考えてみる価値があります。
ある(含意の)命題について、命題自身とその逆とがいずれも真であることは、非常に大雑把には、次のように書くことができます。
(A → B) and (B → A) = true
このとき、AとBは同一のものになります。
上で「大雑把に」と書いたのは、A、B、→、and、=、true、といったものを、陽に定義していないためです。数学的に安全でないことを断っています。
切実であることは重要であり、逆もまた真であるのなら、切実と重要とは一致している必要があります。
ふつう、同じものを表すために別々のラベルを用いることはありません。少なくとも、論理的には意味がありません。
(たとえば、メタ的には意味があります。)
しかし、ご覧の通り、現実には別々のラベルが貼付されています。そうなる方向にダイナミズムが向いたのなら、別々になっている方が自然なのでしょう。経済学的に言えば、インセンティブがあったのです。
したがって、切実であることが重要なのは間違いないとすれば、その逆は成立しないことになります。すなわち、重要であることは必ずしも切実ではないのです。
このように、よく見られる「その逆も真である」といった文章は、それがどの程度で健全であるのか、検証する方が安全かもしれません。ちなみに、対偶はいつでも元の命題と一致しますので、「その対偶も真である」との文章は、検証の必要なく安全です。
ずいぶんと話題が逸れたように見えるでしょうか。
私としてはそのような意図はなく、日常を過ごすときに考えることの、具体的な側面を示したものでした。
別の側面は、冒頭にご紹介した、原石の角が取れていく話に呼応します。
私も、人が生まれながらに抱く原石は時とともに削られていく、といった発想には同調します。ただ少し、同調のしかたを断っておく必要があるのです。
確か、森博嗣さんのミステリで、登場人物の誰かが言っていたことだったと思います。様々なメタ情報を忘れてしまい恐縮ですが、そのコンテンツはしっかりと私に留まって、強く影響を与えています。
だいたいの趣旨として、それは次のような話でした。
人が元来持っていた原石は、広く社会と呼ばれるものの機能によって、必ず、削られていくことになっています。もともと社会とはそれを目指すものであり、避けられないことです。
しかし、削られてできた新しい形がとても美しいのなら、ひょっとして、原石よりも美しくなるのなら、それも悪くありません。
そのような話でした。いたく感銘を受けたのを覚えています。いま、こうして思い返してみても、感動は薄れていません。
原石は、どうしても削られていきます。それでも、万が一にでも現れてきた形が美しくなっているのなら、それほど悪くないのです。より美しい形を求めて削っていくことが、すなわち、生きていくことです。
原石のままを保存しようと、身を削ることはないのです。
すると、次には、どのように原石を削っていけばよいのか、といったことが気になってきます。
残念ながら、私は具体的な施策を持ち合わせていません。
個人的には、できるだけ原石を削る機会を増やそう、と思って生活することにしています。こちらの個人的は、the man の意味です。
これも万能ではありません。削る機会が多い方が、良い形に至りやすくなるかもしれない、と感じている程度です。確率は上がらないと思いますが、それなら、試行が多い方が良いのです。
私の場合だと、自分に合った削り方を探し出すために、ちょうど、人生と同じくらいの時間がかかりそうです。せめて、原石を削ってみる機会は多くしたいものです。
とはいえ、あまり意識が介入できる領域でもありませんので、気長にやろうと思います。
重要ではありますが、切実ではないのです。
終わりに
比喩のままで話が進んでしまいました。
私は、できるだけ周囲から影響を受けようと思って生活している、ということです。