2013年8月22日木曜日

身を削らない石

ロックバンド「シド」の楽曲「V.I.P」に、次のような歌詞があります。
そんなものに流され続けて 角の取れた原石には
きっと 誰も用はない
川を流れる石が少しずつ丸くなっていくように、角ばっていた原石がなめらかになってしまうのは良いことではない、ということでしょう。引用部分のみだと主語がわかりにくくなっていますが、人として、といった雰囲気かと思います。

私はこれを目にして、少なからず驚きました。そうなのか、と思ったのです。
それは、私が日常を過ごすときにいつも考えていることが、直感的に、正反対のことであったためです。

日常を過ごすときに考えることは重要です。個人的な範囲では、ほとんど、生きることのすべてと言っても構わないでしょう。個人的というのは、the man ではなく、a man という意味です。
日常を過ごすことには、限りある時間をいかなる行動に割り当てていくか、といった具体的な話と、どういう方針で生活していこうか、といった抽象的な話とがあります。疑いようなく、どちらも切実に重要です。

「切実である」と「重要である」との言葉が指す事象は、かなり近いものがあります。切実であることはふつう重要であり、逆もまた真に見えるのです。

しかし、ここは立ち止まって考えてみる価値があります。

ある(含意の)命題について、命題自身とその逆とがいずれも真であることは、非常に大雑把には、次のように書くことができます。

(A → B) and (B → A) = true

このとき、AとBは同一のものになります。
上で「大雑把に」と書いたのは、A、B、→、and、=、true、といったものを、陽に定義していないためです。数学的に安全でないことを断っています。

切実であることは重要であり、逆もまた真であるのなら、切実と重要とは一致している必要があります。

ふつう、同じものを表すために別々のラベルを用いることはありません。少なくとも、論理的には意味がありません。
(たとえば、メタ的には意味があります。)

しかし、ご覧の通り、現実には別々のラベルが貼付されています。そうなる方向にダイナミズムが向いたのなら、別々になっている方が自然なのでしょう。経済学的に言えば、インセンティブがあったのです。

したがって、切実であることが重要なのは間違いないとすれば、その逆は成立しないことになります。すなわち、重要であることは必ずしも切実ではないのです。

このように、よく見られる「その逆も真である」といった文章は、それがどの程度で健全であるのか、検証する方が安全かもしれません。ちなみに、対偶はいつでも元の命題と一致しますので、「その対偶も真である」との文章は、検証の必要なく安全です。

ずいぶんと話題が逸れたように見えるでしょうか。
私としてはそのような意図はなく、日常を過ごすときに考えることの、具体的な側面を示したものでした。

別の側面は、冒頭にご紹介した、原石の角が取れていく話に呼応します。

私も、人が生まれながらに抱く原石は時とともに削られていく、といった発想には同調します。ただ少し、同調のしかたを断っておく必要があるのです。

確か、森博嗣さんのミステリで、登場人物の誰かが言っていたことだったと思います。様々なメタ情報を忘れてしまい恐縮ですが、そのコンテンツはしっかりと私に留まって、強く影響を与えています。

だいたいの趣旨として、それは次のような話でした。

人が元来持っていた原石は、広く社会と呼ばれるものの機能によって、必ず、削られていくことになっています。もともと社会とはそれを目指すものであり、避けられないことです。
しかし、削られてできた新しい形がとても美しいのなら、ひょっとして、原石よりも美しくなるのなら、それも悪くありません。

そのような話でした。いたく感銘を受けたのを覚えています。いま、こうして思い返してみても、感動は薄れていません。

原石は、どうしても削られていきます。それでも、万が一にでも現れてきた形が美しくなっているのなら、それほど悪くないのです。より美しい形を求めて削っていくことが、すなわち、生きていくことです。
原石のままを保存しようと、身を削ることはないのです。

すると、次には、どのように原石を削っていけばよいのか、といったことが気になってきます。

残念ながら、私は具体的な施策を持ち合わせていません。
個人的には、できるだけ原石を削る機会を増やそう、と思って生活することにしています。こちらの個人的は、the man の意味です。
これも万能ではありません。削る機会が多い方が、良い形に至りやすくなるかもしれない、と感じている程度です。確率は上がらないと思いますが、それなら、試行が多い方が良いのです。

私の場合だと、自分に合った削り方を探し出すために、ちょうど、人生と同じくらいの時間がかかりそうです。せめて、原石を削ってみる機会は多くしたいものです。
とはいえ、あまり意識が介入できる領域でもありませんので、気長にやろうと思います。
重要ではありますが、切実ではないのです。


終わりに


比喩のままで話が進んでしまいました。
私は、できるだけ周囲から影響を受けようと思って生活している、ということです。

2013年8月11日日曜日

考えること、野球、考えること

いつの頃からか、考えることについて一定の興味があります。

このような用途で、「一定の」との言葉が使われているのを目にすることが度々あります。一定の評価を受ける、などです。
私としては、ある程度の、相応の、それなりの、といった感覚で読み書きしており、かなり広い意味の言葉ととらえています。

大まかな方針としては、程度がとても大きいわけではなく、また、とても小さいわけでもない、との状況を示そうとしているものです。決して、考えることに対しての興味や、与えられる評価が変化しないことを表してはいません。

よく、プロスポーツ選手への言及で、毎年コンスタントに結果を残す、などと言われることがあります。この「コンスタント」も、「一定の」との日本語と似た機能を有しているように感じます。
成績が不変であるわけでもなく、同時に、程度がとても大きくも小さくもないわけです。

そう考えていくと、「一定の」と書かれた文章は、ずいぶんと解釈の余地があるようです。もともと、程度が大きくも小さくもなくて、相応で、それなりである事象です。それを表現しようとする言葉があることに、まずは驚くべきなのでしょうか。
いつだって、これといった特徴のないことを描写するのは難しいものです。昔の人にとっても、その難しさは変わらないものだったということかもしれません。

これらのことを踏まえて、冒頭の一文は次のように改めることにします。

私はいつの頃からか、考えることについて興味があります。

先日、『経済学的思考のセンス』との書籍を読みました。

『経済学的思考のセンス』(大竹文雄)

同書は、経済学の世界に足を踏み入れている人たちが、様々な論点について、どのように指向して考えていくのかを説明しています。取り上げているのはいずれも具体的な事例で、素朴な意味でとても有益な本と言えます。

私は、経済学的思考のセンスと呼ばれるものについて、あまり造詣が深くありません。同書が示すいくつかの考え方は、私にとってとても新鮮なものでした。

表面的な理解を得るには、ここで何か適切なエピソードを引いて話を進めるのがよいのでしょう。

表面的な、というとネガティブな響きがしますが、決してそのような意図はありません。表面的なところから始めて徐々に理解を深めてゆくのも、あるいは、さしあたって表面的な理解に止めておくのも、悪くない試みです。

世の中にある物事を、何もかも深く理解しなければならないわけでもないはずです。それよりは、自分が何を理解しているか、理解していないかを把握している方がよいように思います。

同書では、プロ野球の球団運営についてのお話がありました。内容を追ってみます。

まず、始めにぶつかったのが、こちらの一文です。
球団の経営目的が利潤を最大にすることであり、ファンがどちらの球団が勝つかわからないというスポーツのスリルを楽しんでいるかぎり、球団間の戦力均衡は保たれる。
便宜上、一文をまるごと引かせていただきました。
私が言及したいのは、はじめの「球団の経営目的が利潤を最大にすることであり、」の部分です。
球団も、完全に正しい意味での経済主体であり、その活動はすべて利潤を最大化するためのものです。改めて記述してみれば、しごく当たり前のことのようでしょう。

しかし私は、この一文に感銘を受けました。「ああそうか、利潤を最大化しようとしているんだ」と思ったのです。

とても抽象的な感覚として、考え方が身についていないというのは、こういうことかと察しました。
利潤を最大にしようとする、との基本的な前提を、私は基本的なものとして持ち出すことができないのです。そして、外的な要因によって、初めてそれが基本的な前提であったことを知らされるのです。

新しい考え方を身につけるためには、すなわち、基本的な前提を自然と持ち出すことができるようになるためには、該当する、数多くの個別の事例に触れるのがよいでしょう。今回の例で言えば、何かの主体が利潤を最大化しようとして活動しているエピソードを、幾度も目の当たりにすることです。
少なくとも、私はそういった方針を好みます。

話を戻します。上で、球団は必ず利潤を最大化するように動くことを述べました。

いま、私たちは、球団の利潤が最大になるのが、各チームの実力が拮抗し、ファンが実力伯仲の試合を楽しめるときのことだと仮定した文脈にいます。

そこで、次のような指摘があります。
弱い球団への補助制度は、球団の利潤最大化のインセンティブを阻害することになり、かえって戦力均衡への到達スピードを遅くしてしまうのである。
経済主体である球団は、利潤を最大化する方向にインセンティブがあり、それとまったく同じ意味で、複数の球団の戦力は自然と均衡し、効率的になるように推移していくわけです。

ポイントになるのは、インセンティブと効率的、あたりでしょうか。これらの単語と私との距離が縮まって、親しみが持てるようになってくると、とりもなおさず、同書が一冊かけて示している「経済学的思考のセンス」なるものに近づけるように思います。

考え方というのは、様々な世界に多様にあって、追いかけるのは長い旅になりそうです。
すべて追いかけるのは苦労しそうですが、面白そうですので、いろいろと見てみたいものです。

これらのことも踏まえて、冒頭の一文は次のように改めることにします。

いつの頃からか、考えることについて大変に興味があります。


終わりに


今後も読み返したい本が、またひとつ増えました。

2013年7月28日日曜日

胸にとげさす極座標

私が生きることについて明らかにしようとしたとき、具体的に大きく現れてくるものは、音楽と読書です。明らかにする、との表現に違和感があるなら、伝達可能にする、としても構いません。
生きることは、あまり具体的でない行為です。それを、具体的な何かをもって描写し尽くすことは、あるいは、過不足なく変換することは、決してできません。過程では多くの情報が失われます。

直感的には、標本化とか、デジタル化といった手続きに似ていると理解して良いでしょう。デジタルという言葉は、標本化しているとか、代表させているとか、そういった意味をしています。私などは、先にそれらの言葉を知識として得ていましたので、上述したような、変換すると情報が落ちてしまうような概念を、デジタル化との対比から把握するようになっています。

これは、言葉が先導して、思考のバリエーションを増やした事例と見ることができるでしょう。
言語が先行したり、またあるときは思考や感覚が言語を追い越したりしながら、それらは進展していくものです。言語と感覚の切磋琢磨です。

別の話をします。本ブログの昔のエントリで、地図のアプリケーションがどうこうという話をしたことがあります。
念のため繰り返しておくと、画面を拡大しても縮小しても、それは情景が異なっているだけで情報の総量としては変化がない、といったことを述べています。

少し見方を変えて言い直してみます。
いかなる視点を採用したとしても、その各々では目一杯のスカラ量を相手にしています。(2次元の)極座標表示 (r, θ) で考えれば、θを違えたとしても、r は基本的に同一なのです。

多くの方はここで、ロックバンド「PIERROT」の楽曲「HUMAN GATE」の一節を思い起こすことでしょう。
こちらのことです。
きっと誰もが同じだけの苦しみ背負いながら
それでも笑顔見せている
ここまでで述べたことは、私が日常を生活していく上で、基本的な思想の一つになっています。すなわち、視点が違ったとしても誰もが同じスカラ量の苦労を抱えていること、そして、それでも笑顔を見せていることです。

それを私は、先で触れた極座標表示の話としてだいたい把握することにしています。普段の生活では度々引き出す必要のある思想ですので、そうしておくと取り扱いに便利だからです。
こういった部分にも、数学を勉強しておくことの有益さがあります。端的に言えば、便利なのです。

話が逸れました。

私がそのような思想を抱くにいたったことには、明確なきっかけがあります。取り扱いのしやすい形に固めたのは「HUMAN GATE」や極座標表示であるものの、その原型が生成されたシーンは別にあるわけです。

ずっと、ずっと昔の話です。それも、ある音楽でした。
「青春時代」(森田公一とトップギャラン)です。
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は
胸にとげさすことばかり
正解は存じませんが、私は次のように理解しています。

青春の時分を、それが過ぎてしまってから、夢のようだった、素晴らしかったと振り返ることがあるかもしれません。ひょっとしたら、現状はそれほど素晴らしくはない、との前提があるのでしょうか。
しかし、まさにそのただ中にいるときには、今が夢のような日々だと思ってはいません。青春の当事者たちは、それが過去の自身であれ、別の世代の誰かであれ、誰もがある量の苦労を背負いながら日々を過ごしているわけです。

以上が、私の極座標思想のきっかけです。
そのような思想を持たないうちに、私はそのきっかけに出会いました。言うなれば、言葉だけを先行して得たのです。

いきおい、言葉と感覚の不調和が起きます。なんとかして解決したいと、私の無意識は考えたことでしょう。
ところが、青春時代についてあとからほのぼの思うためには、青春時代を体験し、それが過ぎ去る程度の時間が必要になります。さらには、青春時代の真ん中で胸にとげさされている、という条件も満たしていなければなりません。

言葉と感覚の不調和をなんとかしたいだけなのに、ずいぶんと制約が厳しいようです。
そこで、私の無意識は思い至りました。これはつまり、視点や立場が変わっても、その各々では同じだけの苦労に直面しているということだろう、ということにです。
また、派生として、誰も彼もはそれでも笑顔を見せているのだろうとか、余所の視点での苦労は往々にして小さく見えてしまうのかもしれない、といったことにも考えが及びました。

言葉に引っ張られて、私の感覚が進展した瞬間です。

さて、ここまで、いろいろと述べてきました。
私はこれらの話をほとんどすべてを、極座標表示という言葉に含ませて取り扱っています。あるいは、取り扱っているようです。
極座標表示という言葉に、籠めているとも、代表させているとも言ってよいのかもしれません。

すると、私はこのような考え方について表現しようとするとき、「ああ、極座標表示のようなものだね」と言うことになります。
実際に言ったことはありませんが、ずいぶんと情報が失われてしまうものです。


終わりに


とはいえ、苦労に関して量という概念があり得るのかどうかは、議論の余地がありそうです。

2013年7月20日土曜日

流れてきた感情に

クロッカスが咲きました。

といっても、クロッカスは春に咲く花です。
私はこの文章を、暑い夏の七月に書いています。目に見える事象をありのままに描写する方針を採るなら、冒頭の一文は正しいものになり得ません。

そうだとすると、それは何かのメタファであると発想することができましょう。
メタファとは、広い意味で比喩と呼ばれるものととらえられることが多いように思います。基本的に指向する方向としては、それで決して悪くありません。
他方で、私個人としては、やや趣を変えて次のように理解しています。すなわち、メタファとは暗喩、隠喩のことであるというものです。比喩のことだと考えるより、話が細かくなっているわけです。

したがって、言明として、冒頭の一文はメタファである、と、冒頭の一文は隠喩である、とが等価であることがわかりました。

隠喩は、ふつう、文脈の理解を基礎として解釈されるものです。文脈が示されないところでの隠喩には、あまり意味がありません。または、あまり意味を与えることができません。

ですので、ここではクロッカスの話に移ります。
クロッカスについて、特にその物的でない部分について調べてみると、そこには様々な世界があることがわかります。

例えば、花言葉を見ましょう。

こちらの記事を参考にさせていただき、いくつか印象的なものを拾ってみます。

クロッカス | 花言葉しらべ
  • 焦燥
  • 裏切らないで
  • 愛しすぎる心配
  • 不幸な恋
  • 愛して後悔する
何やら、不穏な言葉が並びます。

そのためなのか、因果関係ははっきりしないものの、クロッカスの名がつく事柄に関しては、様々なエピソードがあるそうです。

こちらのページには、いくつかの興味深いお話が紹介されています。それはギリシア神話だったり、西欧の伝説だったりしています。

クロッカス (Crocus) 花々のよもやま話/ウェブリブログ

ソリと、羊飼いの娘と、狼のお話があります。

物語の詳細にまでは立ち入らないことにしますが、それらはいずれも悲しいお話だという点が共通しています。悲しく、主要の登場人物たちに祝福のない物語です。
そこで、クロッカスの花は、登場人物たちの強い感情の象徴として現れてきます。話の流れから言っても、不自然なところはありません。

日本語には独特の言葉があるもので、それは、激情とでも言いましょうか。日本人の感性に照らせば、椎名林檎のような、俵万智のような感情です。

俵万智さんというと、次のような歌のことです。
ガーベラの首を両手で持ち上げておまえ一番好きなのは誰
名状し難いとはまさにこのことでしょう。何かしら、察せられる感情があります。

それでいて、先に話題としたクロッカスの逸話たちでは、クロッカスの花は慰めとしても機能しています。ストーリーに祝福はないものの、慰めだけはあるのです。

クロッカスの花は、激情と慰めとを同時に象徴しています。クロッカスについての理解は、なるほどそのようなものなのでしょう。向かう方向は異なりますが、いずれもドラマティックであると言えるかもしれません。

この、クロッカスの花が示唆するような、激情と慰めが共存するような感覚は、結構、ユニークなものだと思います。余所の場面ではそういった感情を覚えることがない、という意味です。
ユニークであり、また他方では普遍のことであると想像できます。普遍に人々が承認できる感情であったからこそ、逸話は語り継がれるのかもしれません。

すると私も、時代とセットで、洋の東西も問わずに流れてきた感情に、このたび、やっと出会えたのです。
事象としては、私の感情のバリエーションが一つ増えました。理解としては、私の心が一つ豊かになりました。

豊かであるという言葉は、とても良いものです。暖かい心地のする形容動詞です。

それから、心が豊かになるというのも良いものです。
心が豊かになることと、生きるということとはだいたい同じような意味だと、私は感得しています。何度か書いたことがあったでしょうか。日々を生活しようと思うことは、心豊かになろうと思うことなのです。

それはきっと、生きる意味とか、目的とかいったものではありません。何のために心豊かであろうとするのかは、考えてみてもあまりわかりません。ただ、その二つがだいたい同じ意味であるのです。

ここまで、文脈を示してきました。
その理解を元にすると、本エントリ冒頭の一文は次のように解釈できます。

すなわち、冒頭の一文は、ある花への理解を通して私の心が豊かになりました、あるいは、無事に日々を生活しています、といったことの隠喩でした。そして、私はそのような書きだしでふいにエントリを書きたくなったというわけです。


終わりに


俵万智さんも、似たような事象について歌にしていたようです。
「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ
さて、こちらは何の隠喩なのでしょう。