一方で、私は、意味付けのようなものが高級になっていくことが苦手です。不自然に説得力があって、気味が悪いためです。
解釈の鎖を連結するものは、論理であってほしいと思いますし、そうありたいと思います。
可能な範囲で、意味付けが高級になっていくことを、避けるようにしています。
自分の日常の中で、可能な範囲というものはそれほど広くないのが普通でしょう。難しいものです。
広いのかもしれません。
意味付けを高級にしないようにする方が、労力がかからないことが多いものです。そこだけでも、悪い方針ではないはずです。
副産物があります。
高級な意味を避けて生活していても、自然に、いろいろなことに気づきます。はじめには想像もしなかったようなことが大半です。
日常のあらゆる場面が、意味を、なんとなく形作ります。あまり、説得力のない形をしています。
かようにあやふやな意味というものが、また、日常のあらゆる場面に影響したりします。
こちらの記事を読みました。
生きる覚悟の階層性. May 1 2015
とてもよい記事でした。次のようにあります。
この経験をとおして、ぼくはこう思うようになった。人はみんな、自分が生きようとする覚悟に階層性をもっている。私にとっての生きる覚悟は、どのような階層にあるのか、考えずにはいられません。
高級な意味付けのもとではなく、日常のあらゆる場面で、見えてくるものだとよいです。少なくとも、嬉しいです。
先の記事では、次のようなエピソードが続きます。
その捌いたばかりの新しい肉を薄めに刻んで入れ、塩と秘密の調味料(口ひげウラジミルさんご自慢)で味付けしたカーシャ(お粥)のおいしさときたら! みんな、お腹の底からやわらかくてとけるような味を満喫し、その喜びを分け合う仲間との時間を称えあった。生きる覚悟の階層性を理解した後の話題が、生活のためのただの食事であることに、何か、名状しがたい感動を覚えます。
こちらの記事を読みました。
変化と継続、集団と個人、トップダウンとボトムアップ:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ
次のようにあります。
たぶん、雑多なものが組み合わさってひとつになっているものに弱いのだ。何も感じずにはいられない一節です。
多少は趣が異なるものの、私の感じたことを書きます。印象であり、表現です。
私の、理由はわからないけど惹かれるもののひとつに、カレーがあります。食べ物のカレーです。どこかでご紹介したことがありました。
雑多なものが組み合わさっているために惹かれる、というのは、理由はわからないけど惹かれる、と、かなり近いところにあるように思います。
少なくとも、前者を、話し言葉や、忙しい人に伝えようとしたときなどには、後者の表現を借りることになりそうです。
前者の表現を忘れないようにありたいものです。私の思想のことです。
カレーという呼称は、元来より、何か特定の食べ物を指すものではなかったはずです。
私が、カレーの歴史について造詣があるわけではありませんので、ご注意ください。以前もどこかで書いたことがあったかもしれません。
香辛料の類が身の回りに豊富にあるような文化で、個別の人々が、めいめいに作り出した食事があったわけです。
あちらこちらで勝手に作られた、名もなき料理たちです。日々の生活とともにある食事です。
それらが、何かの拍子に、ひとまとまりにされたことがあったのでしょう。悲しい出来事を想像してしまいますが、実際のところはわかりません。
日々の生活とともに作られた名もなき料理たちは、それぞれが少しずつ異なるものでありながら、まとめて、カレーと呼ばれるようになりました。カレーを作ろうと思っていた人はいないのです。
カレーという食べ物がないというのは、そのような意味です。総称のカレーです。
意味づけが高級になったでしょうか。
私がカレーに惹かれるのは、きっと、その雑多さに触れる感覚があるためでしょう。
そして、雑多さに触れる感覚というものが、かようにあやふやであるために、理由もないけど惹かれる感覚に似るわけです。
名もなき料理たちがカレーという総称を得てしまったことは、ネガティブなことではありません。現在、私たちが出会うカレーにも、ずいぶんとバリエーションがあります。雑多さが均されたわけではありません。
名もなき料理のころと違うのは、カレーを作ろうとしていることくらいです。
カレーを作ろうとしたおかげで発生したような雑多さも、きっとあるはずです。雑多さが組み合わさっています。
雑多な食事が集まって、カレーという総称ができました。
カレーという総称が、また個別の食事に影響を与えます。
トップダウンとボトムアップの繰り返しで、生まれるものがあります。
まるで、何かのようです。
終わりに
本文中、「印象であり、表現です」と書いたところがありました。
なかなか気に入っています。