好きな音楽の影響かもしれません。
堀江由衣さんの楽曲「on my way」に、次のような一節があります。
水のように流れ落ちたまた、My Little Lover の楽曲「NOW AND THEN~失われた時を求めて~」には、次のような一節があります。
涙は数え切れない
少し湿った足元に スタートライン描くよ
誰もいない 朝の街に立ち 構えてみるどちらにも、スタートラインを描く意志があります。
短距離走者のように スタートライン 心で描いてた
生きる意味のようなものに、思いを馳せることがあります。人も、ほ乳類の仲間であり、有機物が集まっています。
Acid Black Cherry の楽曲から言葉を借りるなら、「命を運ぶってことが運命なんだとしたら」、物質としては、命尽きれば終わりです。
歴史上の先人たちも、同じように考えたのでしょう。生きる意味のようなものを、精神的なところに求める意見が多いようです。
我思う故に、でもよいですし、考える葦でもよいです。
私も、そうした意見に賛同します。アイデアのミームの話題を持ち出さずとも、やはり、物質が尽きても、思想は残ります。物質を越えていく力を、思想は持ちます。
誰かは存じ上げませんが、我思う故に、などと言った人は、おそらく、考えることについて、鮮烈な印象を抱いていたことと思います。私には、鮮明なものは特にありません。
私がどれほど考えて回答を見出したとしても、すべてはまだ途中です。
思索的であることがどういうことか、模索していく課程のことを、すなわち、思索的に生きることと呼びましょう。今の私には、この理解がよさそうです。
生きている限り、更新されていきます。終わりのないものです。ネガティブな意味はありません。
誰もが、いつでも、考えて生きることについて、観測した時点には最高の定義を抱いているということです。
物質を越えていく力と書いたものの、思想が、物質と無関係にあるわけではないはずです。忘れてはいけないところです。考えることは、物質を無視することではありません。
これは科学の話題です。把握していなければ、考えて生きることのスタートラインすら、描けないはずです。
科学はどうか、哲学はどうか、名もなき人々の思想はどうか、といったことを基本的なところで操れるようになってはじめて、考えて生きることを選択できるようになります。
観測した時点での最高の定義とは、描きなおしたスタートラインのことに違いありません。
書籍『仕事は楽しいかね?』(デイル・ドーテン)をあたってみましょう。私たちの本です。
印象的で有名なフレーズが、いくつも出てきます。
ひとつ、ともすると、読み飛ばされていそうな一節をご紹介いたします。
「現実的に何かを達成するのは、宝くじに似ている」とマックスは続けた。
「まず、有能で勤勉であることによってくじを買う。
(後略)より華やかな言葉が、遮るのかもしれません。
「有能で勤勉であることによってくじを買う」とは、私の好きな言葉です。
日常を過ごすことについて、指針を受け取ったように感じました。《例示は理解の試金石》 と 《価値とは見出されるものである》 に並列する、私たちのスローガンです。
実体のない感傷に振り回される前に、まず、しっかりとくじを買おう、スタートラインを描こう、と思いました。
考えて生きることの定義は更新され続け、その課程こそが考えて生きることなのでした。定義という言葉は、不適切かもしれません。
考えて生きることのスタートラインも、更新され続けます。くじを買うための作業は、終わりなく続きます。それこそ、考えている暇もないほどです。
くじを買おうと努めることが、考えることと、見分けがつかなくなってきました。
こちらの記事を読みました。
階層を上がる思考:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ
思考の階層を上がることについて、語られています。とても大きな出会いでした。
次のようにあります。
とか書いておきながら、では「階層を上がる」というのが具体的にどんなことなのかと言われると、うまく言葉にすることができない。階層を上がることについて、うまく言葉にならないと言われます。
ジャンルや属性とは違う形で下位の項目を統合する何か。下位の項目を何らかの形で規定する上位の意志またはコンテクストを見つけること、というのがいちばん近い気がするけど、よくわかんないよね。「下位の項目を規定する上位の意志」とは、よい説明だと、私は感じます。
具体的にどんなことかを言葉にしてはいませんが、抽象的にどんなことかは言葉になっています。
そもそも、言葉にできるのは、抽象的なことだけです。
次の箇所も、ぜひ、ご紹介させていただきたいところです。
「階層を上がる」思考は、別にアウトライナーを使わなくてもおそらく自然に行われてきたことだ。「結論を出す」とか「選択する」とか「決意する」というのは、まさにそういうことだからだ。記事の著者さんの、階層を上がることについての理解がよくうかがえる文章です。
日常を過ごすことに、階層を上がろうと試みることが含まれていると、大変によいものです。
ちょうど、スタートラインを描きなおすことに似ています。
こちらの記事を読みました。
R-style » 井戸の中のカエル
重要なことが書いてある記事です。
次のようにあります(誤字と思われたところは修正させていただきました)。
しかし、幸いなことに「認識には上限がある」という認識は、飛躍できる可能性を秘めています。ある種の認識は、飛躍できる可能性があります。
続く文章はこうです。
たとえそれが大海であろうが、火星であろうが、「ここは井戸の中なのかもしれない」と想像することさえできれば、そしてその想像を信じることさえできれば、井の中のカエルは「井の中」を知ることができます。井戸の中のカエルが、井戸の中を知るということです。大海などというちっぽけなものではありません。
想像が、思考が、飛躍することは、これほどに素晴らしいものです。
物質を越えていることだからです。
長い地球の歴史に比べて、人間の寿命などちっぽけなものだ、ということがあります。
広い宇宙に比べて、人間の存在などちっぽけなものだ、ということがあります。
そこまででなくとも、人の一生は短く、儚いということがあります。
いずれも、物質を見ての制約です。
人間が思考できることから、そして、思考は飛躍できることから、人間にとってそうした問題は存在しないと、私は思っています。
私が、考えて生きたいと思うのはこのためです。
考えて生きることは、生命を超越するのです。克服する、といっても構いません。
生きとし生けるものにとって、これほどの革新、発明はないでしょう。
それでいて、飛躍というのは、一足飛びには発生しないものです。思考の階層を、一歩ずつ上がっていくことに他なりません。
こちらの記事を読みました。
時間よとまれ. August 15 2015 | gofujita notes
次のようにあります。
夏真っ盛りだけど、空気の中に秋がまぎれこみはじめる季節。太陽の日差しは相変わらず頑張っているけれど、時間はとまらない。九月になりました。すっかり、秋です。時間はとまりません。
私は夏が好きですので、また一年、夏が来るのを待ちわびる日々が始まりました。
早く夏が来てほしいものです。
そういう時には、自分が1mmくらい (ロシアの友人はたまに、非常に微量あるいはめっちゃ少しだけの気持ちを強調するためにこう言う) 元気になった瞬間を、思い出すのもいい。私も、こうした時には、自分が1mmほど元気になった瞬間を思い出したくなります。
あまり混んでいないコーヒー屋さんで、大きいサイズのコーヒーを注文して、本を読んだり、文章を書いたり、考えごとをしたり、何もしなかったり、することがあります。
とてもよい時間です。滅多にあるものではありません。
そうした時間を得られたことに、まずは、元気になります。
また、そのような場面では、なぜだか内省的な音楽を聞きたくなります。起伏や展開の少ない音楽です。
そんな派手さのない音楽を、自分が、ちゃんと聞きたくなるということに、また嬉しくなります。
他にもあります。
深夜に帰ってきて、晩ごはんを近所のコンビニで買おうともくろむことがあります。
コンビニで食事を選ぶことには、なかなかの難しさがあります。ご飯も、パンも、麺類も、パスタも、揃っているためです。
食べられる量には限りがあるのに、食べたいものはたくさんあるのです。
食べたいものが多いというのは、何も、コンビニに限ったことではありません。日常のあらゆる場面に、同じ逡巡があります。
一軒のコンビニですら、食べたいものを、すべて食べることができないのです。自宅から歩いて、ほんのわずかのコンビニです。
食べたいものを列挙して、毎日少しずつ食べ進めていったとしても、一生かかって、リストの末尾までたどり着けないような気がします。
そんなときに、ふと思います。
ああ、なんと人生は短いものなのでしょうか。
幸せな呟きです。
人生は短いものだという想像は、人生の短さに制約されないのです。
ひょっとすると、思考の階層を上がった瞬間なのかもしれません。
食事とくじを買って、スタートラインを描きます。
終わりに
元気さというのが、長さのことだったとは、気づきませんでした。
時間の項を持たないのは、わりとポジティブな解釈に思えます。
あと、パスタは、麺類に含めなくてよかったのでしょうか。