2018年7月19日木曜日

ポメラを十年使って、僕が考えたこと

あたかも私の《無意識》が――私は便宜上それをそう呼ぶのですが――ある全く別の場所につながれており、私は非常に多くの中継を通ってあるエクリチュールの尖端というか、あるタイプライターの尖端に到達する、といったそんな観を呈するのです。こんなふうに言うのも、私はたいていタイプライターで書いているからですが……。いま私の念頭に浮かんでいるのは、ある種の記憶機械なのです。一本の針先なり、万年筆なり、ペンなりが、たいへん遠いところからそれにやってきたいろいろな命令から出発して、人の手なしで書くといったそういう種類の機械なのですよ……。
※『他者の言語』(ジャック・デリダ)より(『存在論的、郵便的』(東浩紀)に掲載)
文章を書くことに、長く、キングジム社のポメラを使ってきました。ポメラを使っている中で、できあがってくる文章があります。ポメラの方が、私より、少しだけ偉いのです。

2018年6月8日に、新しいポメラDM30が発売されました。

物理的な様相としては、文句のつけどころがありません。少なくとも、これまでに二つ折りのポメラを使ったことがある方は、ぜひ、触れていただきたいものです。どうして、はじめから三つ折りにしなかったのだろう、と思います。

DM30は電子ペーパのディスプレイになりました。

人類はこれまで、電子ペーパのディスプレイで文章を書いたことが、ほとんどありません。電子ペーパのディスプレイで文章を書くのが、どういうことか、意味のある次元で理解できている人はいません。私もその一人です。ポメラの開発者さんでも、そうでしょう。まとまった文章を、数年にわたって書き続けて、はじめてわかることがあるはずです。

意味のある理解だとは思いませんが、少しだけ文章を書いて、気づいたことがあります。

パワーオフ画面の設定で「編集画面」を選択できます。ポメラの電源をオフにしたときの、画面の状況を選択する設定値です。初期設定は「画面オフ」です。電源をオフにすると、画面は真っ白になります。ふつうの状況です。

「編集画面」を選択すると、電源をオフにしても、直前まで文章を書いていた画面がそのまま表示され続けます。電子ペーパのディスプレイは、同じ画面を表示し続けることに、なるほどエネルギーを使いません。

ポータブルな機械には、常にバッテリーの問題があります。文章を書く手を止めて、続きを考えているとき、何もしなくてもバッテリーを消費していきます。さらには、自動スリープのような機能で、ディスプレイの表示が見えなくなってしまいます。

書いてきた文章をながめて、続きを考えていたのに、困った事態でした。文章を書くための道具には、独特の要請があるものです。

電源がオフになったのに、自分が書いた文章をながめて、考え続けることができるのは、新鮮な気分です。

思えば、手書きのときには、まったく当たり前のことです。

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電子ペーパのディスプレイは、画面を切り替えたときに、残像のようなものが残ります。文章を続けて書いていると、簡単に言えば、画面が汚れてくるということです。自分が長い時間文章を書いてきたのだと突きつけてくるデジタルツールは、不思議なものがあります。

長く使ってきたノートのようでもあります。
なるほど、手書きのときには、まったく当たり前のことです。

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電子ペーパのディスプレイは、通常のディスプレイと異なり、タイプしてから、画面が反映するまでにラグがあります。タイプして、表示が遅れて追いかけてくるような感じです。素直に考えると、デメリットです。

それでいて、文章を書くための道具には、独特の要請があるものです。

『サウンド&レコーディング・マガジン 2007年12月号』(リットー・ミュージック)で、音楽家のレイ・ハラカミさんが、インタビューに応えています。

エフェクターのディレイを使うことについて、語ったものです。
遅れて聞こえるって言うのは何かいいですよね。ダブなんかのディレイで音像がぼやけていくのは、記憶がぼやけていく感じで好きなんです。
ディレイは、入力した音を遅らせて鳴らすためのエフェクターです。記憶がぼやけていく感じとは、心に残る表現です。

電子ペーパのディスプレイで文章を書くことにも、同じ感じがあります。

タイプしてから、画面に文字が反映されるまでに時間があると、強制的に、自分の書いた文章を読まされることになります。書き手としての記憶がぼやけて、書き手としての私と、読み手としての私が、少しだけ分離するようです。

機械が、文章を打ち出してくるような感じがあります。強制的にそれを読まされることで、目の前にある文章が、確かに自分が書いたものだと、再認識させられるようにも思います。自分で書いた文章くらい、流れていくことに抗うのも、悪くはありません。

機械の方が、私より、少しだけ偉いということです。

ハラカミさんの言葉があります。『サウンド&レコーディング・マガジン 2005年7月号』からです。
(インタビュアー) 実際の曲作りはどのように行っているのでしょうか?
(ハラカミ) 基本的にはやっぱり手を動かしていますね。作りながらでしかできない。でも、こういうのが作りたいなって頭の中に浮かんできても、それをうまく置き換えられたことはない。EZ Visionという設計図を書く機械を使って、SC-88Proでどういう音で鳴らすかということしかできない……限定されたものの中から作品を導き出す快楽性を追い求めているんです。
作りながらでしか、作ることができません。空想したものを、現実にうまく置き換えることはできないのです。人間の空想より、機械の方が、少し偉いということでしょう。

この言葉に勇気づけられるのは、私だけではないはずです。書きながらでしか考えられないことは、確かにあります。先に思い浮かんだ枠に従って無理に書いていくと、空欄を埋めたような貧弱な文章になるのです。
(インタビュアー) 頭の中に浮かんだものを置き換える精度は、経験を積むことで高まっていったりはしないのですか?
(ハラカミ) 調子がいいときはそうです。でもボーカリストが自分の声からは逃げられない、ピアノ弾きが10本の指からは逃げられないように、限界はあります。ピアニストがもう1本腕が欲しいと思っても仕方ないように、機械そのものを否定しちゃったら意味がない。
ポメラで文章を書いている以上、ポメラを否定しては意味がありません。ポメラの方が、私より偉いのです。機械を使っている中で、できあがってくるものがあります。

思い浮かべた言葉があります。書籍『竹内政明の「編集手帳」傑作選』(竹内政明)から知りました。
米大リーグで通算4256安打の大記録をもつピート・ローズ選手が野球賭博の疑いで永久追放処分を受けたとき、コミッショナーのジアマッティ氏は語った。「野球よりも大きな人間は一人もいない」と。
謙虚さを思い出します。

例えば、私はプログラマです。書かれたプログラムよりも立派で、大きなプログラマは、一人もいないのだろうなと思いました。

そして、書かれた文章よりも大きな物書きは、一人もいないのでしょう。
文章の方が、書き手より、少しだけ偉いのです。

手書きで文章を書くときには、タイプするときのように、流れるように文字が現れたりはしません。ここの線は二本だったか、にんべんでよかったか、といったことを考えながら、文字が出てきます。

書くことを思ってから、少し遅れて紙に反映されます。
思えば、手書きのときには、まったく当たり前のことです。


終わりに


『存在論的、郵便的』に次のようにあります。
そのため私たちはそこでは、ひとつの論文のなかにいかなる指示もなしに造語や新概念が登場し、かつその含意については他の論文やあれこれの哲学的テクストを参照しないと知りようもないといった事態に頻繁に出会うこととなるだろう。
こんな風に言うのも、私はたいていポメラで書いているからですが……。