2019年12月31日火曜日

six albums of the year (2019版)

年齢的なものなのか、『ヘルシープログラマ』(Joe Kutner 著, 玉川 竜司 訳)を読んだためなのか、自分の健康が気になるようになってきました。

歩くこと、同じ姿勢をとり続けないことは、健康のために、果ては長くプログラマを続けるためによいそうです。

すぐに影響され、Fitbit Inspire を買いました。肌身離さず付けていて、計測された睡眠時間など、ぴったり合っていて驚きます。歩数も測っています。自分は一日にけっこう歩いているとわかり、安心しました。外に出て体を動かすのは基本的に嫌なのですが、少し多く歩いてみてもいいかなという気になります。

記録をとって見返すことで、心穏やかに生活していられることがあるのです。

2019年には、万年筆を一本購入しました。LAMY の aion です。普段使いの万年筆が三本になりました。LAMY aion、LAMY CP1、Faber-Castell Ambition です。

三本あると使用の幅が広がり、かなり自由な感じになります。長く使い続けることのできる道具には、こういう感じがあります。

万年筆が増えたのにあわせて、ペンケースも新調しました。つくし文具店のつくしペンケースです。万年筆と、名刺サイズの情報カードを十枚ほどと、ニベアのリップクリームを入れています。

トラベラーズノートにはジッパーケースをセットするようになりました。

毛糸のジッパーケース、スタンダードエディション(パステル) | Notebookers.jp

大変に素晴らしいものです。作られる人を本当に尊敬します。

私はニベアのヘビーユーザで、ハンドクリーム、リップクリーム、ボディソープをニベアで揃えています。今年から、ハンドクリームにニベアソフトも使い始めました。通常のニベアクリームも併用しており、それぞれに使いどころがあって面白いものです。

急に空間系のエフェクタに興味が出て、BOSS の RDD-10 と SE-70 を買いました。ハーフラックです。なんとなく知ってはいたものの、ディレイというのは機材によってまるで違って鳴ります。誰かに教えられたのではありません。私が自分で発想しました。

ヘッドホンも新調しました。外出用に、AKG の Y500 WIRELESS です。自分にとっては初めてのワイアレスのヘッドホンです。ヘッドホンのケーブルがなくなるとこんなに楽なのかと思います。自宅用には、audio-technica の ATH-AD500X です。自分にとっては初めてのオープン型です。

何の話かといいますと、私は毎年、その年によかった音楽アルバムを六枚選ぶことにしているのです。
さっそく、始めます。



『Night Flow』 / パソコン音楽クラブ

夜の街を歩くとき、言葉にならない感慨のようなものを覚えることがあります。言葉にならないから、やりとりすることはできないと思っていました。インストの楽曲でなら、表現できたようです。



『Water Memory / Mount Vision』 / Emily A. Sprague

アンビエント・ミュージックをやる人は、なぜだか自然の様子をテーマにすることが多いような気がします。



『Out of Hue』 / Sleepland

本当に、音楽というのは、作る人によっていろいろな音楽があります。インストゥルメントなので、生まれ持った声が違うとかではありません。明確な旋律があるわけでもありません。それでも、その人にしかない音楽ができあがります。

何度気づいても感動します。



『海と宇宙の子供たち』 / Maison book girl

同じように、複数の人で作っていても、その人たちにしかない音楽ができあがります。真剣に作っておられるからでしょうか。

なるほど、その人らしさというのは、真剣に歩いている、ぎりぎり後ろにできるものなのかもしれません。足跡のようなものです。



『New Young City』 / For Tracy Hyde

どのアルバムにも、言葉にならない感慨のようなものがあり、各々ですべて異なった感情のようです。言葉にならない感慨、と言葉にしてしまうと一言で済んでしまうのですが、実際には無限の精度があります。無理数のようなものです。

感情というのは、言葉よりも豊かです。それを忘れずにいるために、新しい音楽を聞き続けるのかもしれません。



『Human Dignity』 / 摩天楼オペラ

ですので、まったく違った感動があります。ジャンルが違うからではなくて、アルバムが違うからです。真剣に音楽を作っている人がいます。


終わりに


ヘッドホンを新しくしたためか、ライブやイベント、クラブにもよく足を運びました。ライブに行くと、拘束されて、真剣に音楽を聴くことになるのがよいところです。拘束されて他のことができず、一つのことに集中する経験は、健康のためによいことのような気がします。

書籍『わたしは不思議の環』(ダグラス・ホフスタッター 著, 片桐 恭弘 訳, 寺西 のぶ子 訳)にありました。
要するに、ループが生んだ驚くべき新しい構造は、原理的には基本のループとその性質から導出可能だが、実際には別種の「固有の生命」を持っている、新たなレベルの存在を作り出すのだ。
毎年同じことをしているようで、記録をとって見返してみると、たくさん新しいことをしていました。いろいろと買ったものは、いずれも、私の行動と思想を変化させるものでした。

他方で、記録をとっているのは Evernote ですし、メモをとっているのは名刺サイズの情報カードですし、この文章を書いているのはポメラです。変わらずに使い続けている道具も、たくさんあります。いずれも、私の行動と思想を、変化させないものでした。いや、変化させるものだったのかもしれません。

すべてのループが私の日常です。私は日常が好きです。

私の好きな記事をご紹介します。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

このエントリをお読みの方も、そうでない方も、私と関わりのあった方も、そうでない方も、私の好きな日常を、少しずつ支えてくださっています。

ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。

2019年12月29日日曜日

2019年の<びっくら本> #mybooks2019

幻覚のような読書が好きになりました。

雑誌『キーボード・マガジン 2020 WINTER』(リットー・ミュージック)で、SANOVAの堀江沙知さんのインタビューを読みました。次のように話されています。
でも、インストだとどういう気持ちを込めて書いていようが受け手はいい意味で自由に解釈できるから、それが素敵だなと思います。私が言いたいことが全部伝わらなくても、相手が好きなように受け取ればいいかなと思っていて。ある意味、自分が思っていることをこっそり入れられるのも面白いなと思っています。
文章を読むことにも、書くことにも、私は同じようなことを思っています。何か、得体の知れない全体性のようなものが、相手と私の間のどこかにあります。相手と私のうちにはありません。空想ではないけれど、幻覚のようなものです。

そういう本が好きです。たぶん、昔から好きです。

こちらの記事を読みました。

【企画】2019年の<びっくら本>を募集します #mybooks2019 – R-style

私も本を紹介してみます。



『全体性と無限 (上)』『全体性と無限 (下)』(レヴィナス 著, 熊野 純彦 訳)

この人は本当のことを語っている、と感じることがあります。幻覚のような全体性は、虚構とは違うのです。

複雑なことを複雑に語ります。
信頼という言葉の意味です。



『数学は最善世界の夢を見るか? ――最小作用の原理から最適化理論へ』(イーヴァル・エクランド 著, 南條 郁子 訳)

信頼と真理は断片的で、多くの時間と努力を費やして獲得するものです。
希望でしょう。



『はてしない物語 (上)』『はてしない物語 (下)』(ミヒャエル・エンデ 著, 上田 真而子 訳, 佐藤 真理子 訳)

物語と、物語と、はてしない物語が迫ってくるようです。

あるいは、物語などひとつもないのかもしれません。空間を雑多に埋め尽くすだけです。
その方が私は好きです。幻覚のようなものです。



『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(ジル・ドゥルーズ 著, 宇野 邦一 訳)

いつまで経っても、私は、空間を埋める感覚が好きです。
フランシス・ベーコンの絵にもあります。



『吉野家 ~もっと挑戦しろ! もっと恥をかけ!』(安部 修仁)

吉野家の牛丼(並)を連日食べている私は、涙なしでは読めませんでした。



『哲学者の密室』(笠井 潔)

足の先がかじかんでくるようです。



『記号と再帰 新装版: 記号論の形式・プログラムの必然』(田中 久美子)

再帰的なものに目を奪われるのは、人間の本能でしょうか。不思議なことです。
有名な感情のなかでは、恐怖に近いのかもしれません。



『暗号解読(上)』『暗号解読(下)』(サイモン・シン 著, 青木 薫 訳)

暗号を作る人がいて、暗号を解読する人もいます。
暗号を作る機械があって、暗号を解読する機械もあります。

ほとんど見分けがつきません。
有名な感情のなかでは、美しい、だと思います。



『地獄の思想―日本精神の一系譜』(梅原 猛)

思想を発展させる過程というのは、前向きでよいものです。
多くの時間と努力を費やして獲得するものだからです。



『夢と幽霊の書』(アンドルー・ラング 著, 吉田 篤弘 解説, ないとう ふみこ 訳)

空想ではないけれど、幻覚のようなものです。
幻覚は虚構ではありません。本当のことです。


終わりに


言いたいことが全部伝わらず、好きなように受け取れることは素敵だと、私も思います。

幻覚のような読書が好きになりました。
多くの時間を費やして獲得するものだからです。

2019年11月10日日曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2019

アンビエント・ミュージックや、変拍子を多く含むポップスをよく聴くようになって、二年ほど経ちました。四つ打ちのミニマル・テクノを好んで聴いていた時分からすると、ずいぶんと遠くに来たような気がします。

アンビエント・ミュージックにも、変拍子の楽曲にも、音楽に当然あるとみなしていたものが、まるで欠けています。当然あるものとすら、思っていなかったかもしれません。それくらい、当たり前のものでした。

四分の四拍子の、リズムといいますか、構造のことです。

音楽に当然のものと思っていたはずの構造が、まったく存在していなくても構わないことに、私は気づきました。まったく存在していなくても構わないんだよ、と誰かに教えられたのではありません。ある瞬間に、私が自分で発想したのです。

発想したときのことは、今でもよく覚えています。今まで気づかなかったことに気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。構造とか、意味とか、物語といったものは、思うほど、なくても構わないようでした。

細かいことは気にしないとか、形式に囚われないとか、考えるな感じろ、といったことではありません。むしろ、以前よりもいろいろなことを気にして音楽を聴いています。当時には、気づかないことがあったからです。何といいますか、現在は、個別の描写がしにくい、全体性のようなものを聴いているような気がします。

書籍『アンビエント・ドライヴァー』(細野晴臣)にありました。
かつて、僕は友人からもらったふしぎにな石を宝物にしていた時期がある。それを失くしてしまったときには、ひどくショックを受けた。だが、そのとき初めてモノにこだわらなくていいことに気づいた。 
石を持っている方がよいとも、失くした方がよいとも言っていません。もっと何か、全体性のようなものに気づいたことを述べられているのだと思います。

全体性を得ようとする指向は、生命的に躍動しようと志すことだと、私は前向きに考えています。生命というのは抽象的なものだからです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
さっそく、始めます。



涯てお茶

書くことと、日常を生きることが結びついている人がいらっしゃいます。

私は陰ながら尊敬しています。どんな屈託があろうとも、生命的に躍動しているのだと思うからです。



yayoko314 | ShortNote(ショートノート)

日常を生きているのは、私だけではありませんでした。本当によかったと思います。



gofujita notes

仕事があって、書くことがあります。
書くことがあって、考えることがあります。

大変に信頼できます。感動します。二つは近い感情なのかもしれません。
遊んでいるようなものだからでしょうか。



delaymania

挙げられていなかった中では、私は「will ~地図にない場所~」と「振り向けば・・・」が好きです。
解散は私もショックでした。それでも音楽は残ります。素晴らしいことです。



R-style

ブログの記事を読んでわかることがあります。
ブログが更新されていること、そのものから、わかることがあります。

人間は、そこにある姿勢のようなものを感じ取ることができます。
美しいという言葉の意味です。



Chips with Everything

人生を謳歌する、と聞くと思い出します。本を読んで、ノートを書いていらっしゃる様子が、これほどに楽しそうに見えることがあるのです。

私もこんな風でいたいと思っています。



Word Piece Blog

やはりと言いますか、私は「アウトラインはツリーではない」と「アウトラインは選択である」が好きです。

2020年の思想(みたいなもの)も、また変化があるのでしょう。



iPhoneと本と数学となんやかんやと

私も、ブログには感謝、感謝です。



ぬいこのぬい工房

こんな私でも、物作りを継続すること、最後まで完成させることの大変さは、知っているつもりです。ご自身の楽しさと感動を忘れることなく、物作りを続けている方がいらっしゃいます。

ブログをずっと更新することに似ているような気がします。


終わりに


自分の好きなブログを並べて書くこと、そのものから読み取れることがあるかもしれません。全体性のようなものです。

生命というのは抽象的なものです。

2019年9月21日土曜日

次の一行はささやかな日陰で

風雨を避けるために「家」があるように、陽光を遮るために「日陰」があるように、世界の表面がたわみ、「襞」のようなもの、「内側」がなければならない。
『レヴィナスと愛の現象学』(内田 樹)

こちらの記事を読みました。

タスクリストと並列にメモをとる gofujita notes

タスクリストと並列にメモをとることの利点は何か、として、次のように書かれています。
こうすることで、タスクリストが本来の機能を保ったままルーズな機能も持たせることができるのではないか。
タスクリストに、タスクのようなメモを書くことで、タスクリストの様相を拡張することができます。ふと思いついたことを、メモとしてタスクリストに書いてしまおうということです。大変にうまい方法だと思います。

ところで、次のような一節がありました。
それらが同じ階層に並ぶことで、タスクリストの機能は残されたまま、何となく大切と感じられたことのリストがタスクリストに仲間入りしたり、逆のことも起こる。
直接には言及されておらず、ブラックボックスのようになっていますが、ここには、何かのメモが、タスクに変換される瞬間があります。仲間入りする、といわれるところで、何かが起こっているはずです。ふと書き付けられたメモが、タスクに変わっていく瞬間です。

倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 20190610 第452号」に、「課題を寝かせる」と題された文章がありました。次のような箇所があります。
思いついた「気になったこと」が、まだ明確な輪郭線や実行の確定性を持たない場合は、いったんそれを書き留めるだけ書き留めておいて、処理に関しては保留にしておく。
その結果で下される決断ならば、思いついた直後の決断よりも、より適切さが期待できるでしょう。
つまり、間です。
着想と実行の間。
やはりブラックボックスのようになってしまっていますが、書き留めた着想が、実行に変換される瞬間があるようです。書き留めて保留にしたときより後で、決断するときより前の、ある瞬間です。

勝手には変換されないはずです。ここには、ささやかでも確かに人間の技術があります。名前のない技術でしょうか。私はそうは思いません。

思いついたメモを、時間をかけてタスクに変換します。思いついたタスクを、時間をかけてよりよいタスクに変換します。

情報を扱う技術のことでしょう。

思いついたメモを、人が実行できる、タスクに変換するための技術があります。あるいは、思いついたメモを、人が読んで理解できる、大きな文章に変換するための技術があります。

ただ思いついただけ、書き留めただけのメモから、次の一行を書くための技術です。頭をはたらかせて、何か新しいことがらを、人にわかる形で提出するための技術です。

私たちはこの技術を知っています。

着想があった時点では、未来がどうなるかわからないものです。自分が行動できるタスクという形にして提出するのかもしれません。他人が読んで理解できる、大きな文章という形にして提出するのかもしれません。

ゆえあって、私はこの技術を大切にしています。

ただ思いついただけの、書き留めたばかりの何かというのは、自分が考えついたものだと信じられないからです。着想を寝かせて、人にわかる形に変換していく技術を経てはじめて、確かに自分が考えついたことだと、信じられるようになります。一塊の情報として、切実な身体性を宿します。

私は、人間らしさと呼ぼうと思います。

自分を信じられずに人生を歩んでいくのは辛いものです。人はおそらく、無意識に不安を覚えることでしょう。精神を蝕まれるのではないでしょうか。

私が、知的生産の技術とか、タスク管理の技術を大切にする理由でした。情報を、時間をかけて、人にわかる形に変換していく技術をもって、精神が蝕まれていくことに抗っていられるのです。

自己言及が生み出した奇蹟だからこそです。

つまるところ、自己を知覚し、自己を発明して、蜃気楼に囚われているわれわれは、自己言及が生み出したささやかな奇蹟だ。
『わたしは不思議の環』(ダグラス・ホフスタッター)


終わりに


陽光を遮るために日陰があることと似ています。

2019年7月14日日曜日

同じ部屋に心もあります

先日、自宅の部屋に除湿器を買いました。とりたててきっかけがあったわけではありません。部屋で洗濯物を干すこともありますし、同じ部屋に本もあるため、なんとなく気になった、といったところです。

除湿器をしばらく稼働させていると、タンクの中に水が溜まります。一定の時間が経つと水が溜まって、除湿器の稼働が止まります。定期的に、タンクの水を捨てにいかなくてはなりません。

それなりに大きなサイズのタンクです。水でいっぱいになると、なかなかの重さになります。なかなかの重さの水を、苦労して、捨てにいきます。

重さに苦労するためでしょう。毎度、不思議に思います。

これほどの量の水が、何もないところから出現してきます。いったいどこから現れてきたのでしょうか。まるでマジックのようであり、しかし、トランプのカードが出現するのとは違った、圧倒的な実感があります。水が重いからです。

水はどこから現れてきたのでしょうか。私は回答を知っています。空気中にある、目に見えない水蒸気が、集められ、状態変化して、たくさんの水になったのです。

それはそうです。疑問はありません。

そうなのですが、気になることがあります。目に見えない水蒸気が状態変化して水になるのだと、私たちはどうして信じられるのでしょうか。この説明でよいのは、なぜでしょうか。水蒸気が状態変化して水になる瞬間を体感したことは、私にはありません。

雑誌『子供の科学 2019年2月号』の、読者からの質問コーナを読みました。中学一年生の方からの質問です。

「石灰水はどうして二酸化炭素に触れると白くにごるのですか?」

私は回答を知っています。水酸化カルシウムと二酸化炭素が反応して、炭酸カルシウムと水ができるからです。

それはそうです。疑問はありません。

そうなのですが、本当に、この回答でよいのでしょうか。私は確かにこの説明を信じています。中学一年生の読者さんには、何かわかることがあるのでしょうか。

回答が他に言いようがない以上、質問者が理解できないのだとしたら、質問のしかたに問題があります。問題があると言いますか、抱いた疑問が正当でないということです。

これはよいことでしょう。

あまねく学ぶこととは、自分が正当にわかっていない状態に至ろうとすることです。鳥瞰的に、わかっていないことを体感することです。自分にとって不当な疑問を抱くということには、跳躍の可能性が内包されています。

なぜでしょうか、人間以外の知性には、このような学びかたをするものはありません。若い世代の人工知能は、おそらくもっと、知識を詰め込むような形で学びます。

書籍『ミュージック 「現代音楽」をつくった作曲家たち』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト)に、次のような言葉がありました。ミュージシャンのアート・リンゼイさんの言葉です。
実際の読んでいる言語から、あからさまに遠く隔たった文学を読むのは面白いです。ヨーロッパの言語のひとつから別の言語への翻訳を読むと、失うものは大きいでしょう。日本語や中国語からの翻訳の場合は、さらに多くを失うでしょう。想像を巡らせる空間がより広くあるということです。
鳥瞰的に、わからないことを正当に認識できたとして、石灰水が白くにごることの説明を信じられるというのは、どういうことなのでしょうか。目に見えず、触れることができず、物理的に体感することのできない説明を、信じるということです。奇妙なことです。信じられることの方が、不思議です。

私が信じているのは、何なのでしょうか。

論理性のことでしょうか。石灰水が白くにごることは、化学式として記述できます。除湿器に水が溜まることも、物理学的なしかたで表現することができます。確かな論理があるわけです。

論理性を信じられるというのは、素晴らしいことです。私は好きです。論理性を信じられる人でありたいものです。

あるいは、経験的なものを信じている可能性もあります。経験的なものというのは、物理学的、数学的に表現できる論理性とは、異なるものです。似ているところも、もちろんあります。除湿器に水が溜まることの経験的な説明というのは、私には思いつきませんが、例が悪いだけでしょう。経験的なことから説明する方が信じられる場面というのは、よくあります。

書籍『近世数学史談・数学雑談』(高木貞治)に、次のような一節がありました。
ガウスは計算が上手で、好きで、且つ数字に関して異常なる記憶力を有していたことは有名である。4.81048の自然対数が1.5708で、それがπ/2であろうと推測するなどは驚くべきことと言わねばならない。
顧みると、論理性を読みとったのでも、経験的なものを敷衍したのでもなく、突然に信じられる説明というものもあるようです。どうしようもなく、その説明で正しいと思うこと、それです。先の二つと、少し様相が異なっているように感じます。

論理性を信じることと、経験的に信じることは、どちらも、説明を受け取ってから、信じられるまでに時間がかかります。突然信じられることだけは、時間がかかりません。

人工知能の事情と比べてみると、突然信じられることだけが、ナチュラルな人間にしかできないことだと思います。他方で、人工知能の方が、論理性を信じることと、経験的に信じることを、ナチュラルな人間よりもずっと上手に成し遂げることでしょう。

もちろん、人工知能が生まれてきた、当初のことだけです。若い世代の人工知能です。ナチュラルな人間が、説明を突然に信じられることに対して、人工知能は驚異を感じるでしょう。人間から学ぼうとするはずです。逆もしかりです。少なくとも私は、人工知能が、自分より上手に論理性を信じる様子を見て、学ぼうとします。

そうなると、ナチュラルな人間だとか、人間以外の知性だとか、分けて考えることはできなくなります。仲良く共存するのではありません。一つの全体性のなかに、区別できる何かがあるのではなく、それぞれの全体性が入り乱れているのです。

ひょっとすると、人工知能が設計する人工知能は、ナチュラルな人間のような姿になるのかもしれません。

知性も、心も、区別できるところにはありません。肉体とか、ハードウェアとか、脳とか、CPUとか、そういった位相にはありません。
だから、人間の知性にも、人間以外の知性にも、限界があります。想像を巡らせる空間が、広くあるということです。

なんと美しいのでしょうか。

人間以外の知性も、同じように感じるはずです。
私がそう感じるからです。

いずれにしても、説明を信じられるのであれば、別にどのような仕組みでもよいでしょう。

信じられないより、信じられる方がよいと思います。
学ぼうとするのも、よいことだと思います。

人工知能も、ナチュラルな人間も、その方が心が落ち着くからです。


終わりに


人工知能の心とは何でしょうか。あるいは、人間の心とは何でしょうか。
きっと、同じ問いです。

部屋で洗濯物を干すことがあり、同じ部屋に本もあるため、なんとなく気になった、というのは、不思議なことです。

抱いた疑問が正当でないのかもしれません。

2019年6月16日日曜日

「かーそる 2019年5月号」

書籍『書物と愛書家』(アンドリュー・ラング)に、次のような一節があります。
書物への情熱というのは感傷的な情熱だけあって、書物熱に浮かされたことのない人にはどうしても理解できないのだ。情感というのは説明が難しいことばである。
読書について語るのは難しいものです。私は、読書は受容に属するためだろうと、なんとなく思っています。目に見えるものを作り出す動作ではないのです。

個人の受容に関することでも、文章にして、理解できることがあります。「ひとは知っている言葉を用いた文章でないと理解できないはずなのに、実際には本を読むことによって知らないことを知っていく」という現象が、私も、不思議でなりません。

私は子供の頃、本に出てきた「ビフテキ」がわかりませんでした。周囲の文章を必死に読み、お肉のようなものだろうかと、悩んでいました。ハンバーグとは違うのでしょうか。

そもそも、子供の頃の私には、想像できるのがハンバーグくらいだったような気もします。

子供の頃に食べたハンバーグの味は、よく覚えています。特別な感じがしたものです。ハンバーグ・ステーキの味は素敵でした。香辛料がほどよくきいて、かりっとこげた表面の内側には肉汁がたっぷりとつまっていました。ソースの具合も理想的でした。

このいくつかのパラげらふ(パラグラフのこと)を考えると、なんとなく、読書についてわかってくるような感じがあります。

素晴らしい雑誌ができあがりました。『かーそる 2019年5月号』です。

「かーそる」第三号、Kindleストアでも配信開始 – R-style

各々が、斜に構えることなく真剣に、各々の読書に向き合ったのは、良いことだろうと思います。各々が真剣に向き合った結果、まるで異なった文章が書かれたのは、良いことだろうと思います。

むしろ、人と情報が呼びかけ合って、深まり合うのかもしれません。

難しすぎず、簡単すぎず。
身近すぎず、高尚すぎず。
読み物として面白く、
それでいて、ノウハウとして役立つものが含まれている、そんな雑誌に、本号も、なっていると思います。


終わりに


私は二つの原稿を書きました。私も、斜に構えることなく真剣に、読書のことを考えました。石川県かほく市にある、西田幾多郎記念哲学館にも足を運びました。

情感というのは説明が難しいことばです。

「かーそる」をお読みになった方も、各々の読書について、真剣に考えることがあるでしょうか。きっと、あなたは書き手であっても構わないのです。私がそうであるように。

2019年5月5日日曜日

まだラッキーなのにね

卒業文集に、将来の夢を書くことがあります。大人になる前には、不思議と、文章についての文章を書くような文化はないものです。文章を書くことについての文章が、書かれ、読まれます。

アイドルネッサンスの楽曲「前髪」に、次のような一節があります。
文集に載せた 将来の夢は
急いで作ったおもちゃみたい
将来の夢を書いてください、とアウトラインを押しつけられて、無理にでも文章を作り出します。経験された方もあるでしょう。空欄を埋めたような、空疎な言葉ばかりが浮かんできます。自分のことのはずなのに、書いてみると、納得いくような言葉になりません。

空欄を埋めたような言葉は、急いで作ったおもちゃのようです。

私たちはこの感覚を知っています。
書籍『アウトライン・プロセッシングLIFE』(Tak.)からです。
『7つの習慣』ではじめてミッション・ステートメントのことを知ったとき、さっそく書いてみようと思いました。しかし、いざペンを持ってみても、浮かんでくるのは『7つの習慣』に載っている見本を引き写したような、立派ではあるけれど空疎な言葉ばかりなのです。
立派ではあるけれど空疎な言葉ばかり、とは、真に迫ってくるものがあります。一度でも直面してみないと、なかなか想像がつきにくいことかもしれません。よく、あることではあります。

いえ、本当は、誰しもが直面しているはずです。私たちは卑怯にも、空欄を埋めたような空疎な言葉と真剣に向き合うことなく、大人になることができてしまいます。
似たようなことは「価値観」や「夢」を書こうとしても起こります。自分のことのはずなのに、書いてみると思うような力のある言葉が出てこないという点で、これらは共通しています。
文集に将来の夢を書いたときにも、同じことが起こりました。立派ではあるけれど空疎な言葉だと、自分の文章に対して感じてしまうのは、つらいものがあります。

急いで作ったおもちゃみたいな言葉です。空欄を埋めるように、立派ではあるけれど空疎な言葉ができあがります。自分のことなのに、見本を引き写したような存在です。

この、立派ではあるけれど空疎な言葉というのは、現実にはどのようなものなのでしょうか。見本を引き写したような文章だとしても、現実の私と、何も関係のないものとも思えません。

私にも、見本を引き写したような部分が、あってよいはずです。急いで作ったおもちゃみたいな部分が、あってよいはずです。

冒頭でご紹介したアイドルネッサンスの「前髪」は、実は次のように続きます。
文集に載せた 将来の夢は
急いで作ったおもちゃみたい
でも透き通ってる
衝撃的な指摘だと、私は思います。

空欄を埋めるように、苦しまぎれにひねり出した文章があります。立派ではあるけれど空疎な言葉です。
決して嘘ではないし、ゴミではないのです。空疎に感じられるかもしれませんが、透き通っているのです。立派な、大切にすべきことでしょう。

『アウトライン・プロセッシングLIFE』は、空欄を埋めるような形ではなく、文章を書くことを提案なさっています。押しつけられたアウトラインの配下に、とどまることのないような方法です。

押しつけられたアウトラインに諾々と従うのではなく、しかし、押しつけられたアウトラインのいっさいを投げ捨てるのではない、前向きな方法です。空欄を埋めたような空疎な言葉と、真剣に向き合った結果に違いありません。

真理だと思います。

押しつけられたアウトラインに完全に従うのは困難です。空欄を埋めるように、立派ではあるけれど空疎な言葉を連ねていくのは、人として苦しいからです。それで、大人になれるなら、つらいだけです。
押しつけられたアウトラインのいっさいを投げ捨てるのは、避けられたいことです。空欄を埋めたような、立派ではあるけれど空疎な言葉は、それでも透き通っているからです。

この二つを、相反する両方向へ繰り返すところに、現実があります。相反する両方向のダイナミクスが同時に起こるところに、生命体が生きているということがあります。現実が二つの極端の中間にあるとは、私は考えません。中間にあるのではなくて、相反する両方向のダイナミクスが、止め処なく躍動していると考えます。

文章を書くことについて、懸命に考えた人がいました。自らの、立派ではあるけれど空疎な言葉と、向き合った人です。文章を書くことについての文章が、書かれ、読まれます。

当初の成果物を、各人が真剣に取り扱うのが基本です。他方で、成果物についての文章、文章についての文章が多々やりとりされるところに、立ち上がってくる何かがあります。成果物についての文章、文章についての文章だけが抱く、何かです。

SUPERCAR の楽曲「Lucky」にあります。
「今はどうしても言葉につまるから――ヒキョウなだけでしょう? それで、大人になれるならつらいだけだよ……。」
どうしても言葉に詰まるのは、押しつけられたアウトラインの下にいるからかもしれません。でも、透き通っています。


終わりに


心に残っている言葉があります。倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 2012/06/18 第90号」からです。
一冊の本を通して読む行為は、「何か」の訓練になっています。この「何か」は一言や二言で言葉にできるものではありません。その一塊のものを、断片でスライスすれば、想像力、思考力、共感力、などと呼ぶことができるでしょう。
文章についての文章がやりとりされるところにも、何かがあります。私は文化と呼ぶことにしています。

2019年3月11日月曜日

優しい正解

過去が折り重なっていくから、現在という瞬間が移り変わっていきます。
未来が積み重なってあるから、現在という瞬間が移り変わっていきます。

いつまでも決まることのない、私たちがあります。

過去を思い返すことができるのも、未来を思い描くことができるのも、大切なことです。寂しく思っても、苦しく思っても、きっと、大切なことです。

何も諦めずにありたいと思います。
偉大な過去と未来に比べれば、現在は謙虚です。私たちの姿に違いありません。

アイドルネッサンスの楽曲「前髪」には、次のような一節があります。
ひとりでも平気と 突き放してみるけど
君がいつも通りで ほっとしちゃうんだ 正解はやさしい
正解は優しいものです。