2019年5月5日日曜日

まだラッキーなのにね

卒業文集に、将来の夢を書くことがあります。大人になる前には、不思議と、文章についての文章を書くような文化はないものです。文章を書くことについての文章が、書かれ、読まれます。

アイドルネッサンスの楽曲「前髪」に、次のような一節があります。
文集に載せた 将来の夢は
急いで作ったおもちゃみたい
将来の夢を書いてください、とアウトラインを押しつけられて、無理にでも文章を作り出します。経験された方もあるでしょう。空欄を埋めたような、空疎な言葉ばかりが浮かんできます。自分のことのはずなのに、書いてみると、納得いくような言葉になりません。

空欄を埋めたような言葉は、急いで作ったおもちゃのようです。

私たちはこの感覚を知っています。
書籍『アウトライン・プロセッシングLIFE』(Tak.)からです。
『7つの習慣』ではじめてミッション・ステートメントのことを知ったとき、さっそく書いてみようと思いました。しかし、いざペンを持ってみても、浮かんでくるのは『7つの習慣』に載っている見本を引き写したような、立派ではあるけれど空疎な言葉ばかりなのです。
立派ではあるけれど空疎な言葉ばかり、とは、真に迫ってくるものがあります。一度でも直面してみないと、なかなか想像がつきにくいことかもしれません。よく、あることではあります。

いえ、本当は、誰しもが直面しているはずです。私たちは卑怯にも、空欄を埋めたような空疎な言葉と真剣に向き合うことなく、大人になることができてしまいます。
似たようなことは「価値観」や「夢」を書こうとしても起こります。自分のことのはずなのに、書いてみると思うような力のある言葉が出てこないという点で、これらは共通しています。
文集に将来の夢を書いたときにも、同じことが起こりました。立派ではあるけれど空疎な言葉だと、自分の文章に対して感じてしまうのは、つらいものがあります。

急いで作ったおもちゃみたいな言葉です。空欄を埋めるように、立派ではあるけれど空疎な言葉ができあがります。自分のことなのに、見本を引き写したような存在です。

この、立派ではあるけれど空疎な言葉というのは、現実にはどのようなものなのでしょうか。見本を引き写したような文章だとしても、現実の私と、何も関係のないものとも思えません。

私にも、見本を引き写したような部分が、あってよいはずです。急いで作ったおもちゃみたいな部分が、あってよいはずです。

冒頭でご紹介したアイドルネッサンスの「前髪」は、実は次のように続きます。
文集に載せた 将来の夢は
急いで作ったおもちゃみたい
でも透き通ってる
衝撃的な指摘だと、私は思います。

空欄を埋めるように、苦しまぎれにひねり出した文章があります。立派ではあるけれど空疎な言葉です。
決して嘘ではないし、ゴミではないのです。空疎に感じられるかもしれませんが、透き通っているのです。立派な、大切にすべきことでしょう。

『アウトライン・プロセッシングLIFE』は、空欄を埋めるような形ではなく、文章を書くことを提案なさっています。押しつけられたアウトラインの配下に、とどまることのないような方法です。

押しつけられたアウトラインに諾々と従うのではなく、しかし、押しつけられたアウトラインのいっさいを投げ捨てるのではない、前向きな方法です。空欄を埋めたような空疎な言葉と、真剣に向き合った結果に違いありません。

真理だと思います。

押しつけられたアウトラインに完全に従うのは困難です。空欄を埋めるように、立派ではあるけれど空疎な言葉を連ねていくのは、人として苦しいからです。それで、大人になれるなら、つらいだけです。
押しつけられたアウトラインのいっさいを投げ捨てるのは、避けられたいことです。空欄を埋めたような、立派ではあるけれど空疎な言葉は、それでも透き通っているからです。

この二つを、相反する両方向へ繰り返すところに、現実があります。相反する両方向のダイナミクスが同時に起こるところに、生命体が生きているということがあります。現実が二つの極端の中間にあるとは、私は考えません。中間にあるのではなくて、相反する両方向のダイナミクスが、止め処なく躍動していると考えます。

文章を書くことについて、懸命に考えた人がいました。自らの、立派ではあるけれど空疎な言葉と、向き合った人です。文章を書くことについての文章が、書かれ、読まれます。

当初の成果物を、各人が真剣に取り扱うのが基本です。他方で、成果物についての文章、文章についての文章が多々やりとりされるところに、立ち上がってくる何かがあります。成果物についての文章、文章についての文章だけが抱く、何かです。

SUPERCAR の楽曲「Lucky」にあります。
「今はどうしても言葉につまるから――ヒキョウなだけでしょう? それで、大人になれるならつらいだけだよ……。」
どうしても言葉に詰まるのは、押しつけられたアウトラインの下にいるからかもしれません。でも、透き通っています。


終わりに


心に残っている言葉があります。倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 2012/06/18 第90号」からです。
一冊の本を通して読む行為は、「何か」の訓練になっています。この「何か」は一言や二言で言葉にできるものではありません。その一塊のものを、断片でスライスすれば、想像力、思考力、共感力、などと呼ぶことができるでしょう。
文章についての文章がやりとりされるところにも、何かがあります。私は文化と呼ぶことにしています。