2020年2月24日月曜日

ときめきトポロジー

昔から、シンセサイザーという楽器が好きです。人は変わるものだと聞きますが、なぜでしょうか、本当にずっと変わらずに好きです。

好きな度合いが減らないこともそうですし、シンセサイザーを好きな感じ、感情とか意図が、ずっと変わらずにいます。本当にグッとくるものがあります。

楽器ですから、音楽を演奏したり、作曲したりするためにあるものです。私は昔から、演奏や作曲は別に好きでないような気がしています。シンセサイザーが好きだから、しかたなく演奏をしているようです。

プラモデルを好きというのに近いかもしれません。でも、いざとなったら演奏もできるところも好きで、プラモデルとは違うかもしれません。

書籍『モモ』(ミヒャエル・エンデ 著, 大島 かおり 訳)に、次のような一節がありました。
もちろんわけのわからぬことばかりですが、よろこびに酔いしれた人というのはそういうものです。そしてふたりはなんどもだきあい、そばをとおりかかった人びとも立ちどまって、いっしょに泣き笑い、よろこびを分かちあいました。いまではだれにもじゅうぶんにその時間があるからです。
訳のわからぬことですが、好きなものに酔いしれた人というのはそういうものです。

すべて読み終えることができないのに、本をたくさん買ってくるのが好きだというのに似ているかもしれません。私はあまりしませんが、気持ちはわかります。

書きたい文字があるわけでもないのに、万年筆が好きだというのに似ているかもしれません。万年筆を使いたいために、しかたなく文字を書いているところがあります。

書きたい文章があるわけでもないのに、キングジムのポメラが好きだというのに似ているかもしれません。ポメラを使いたいために、しかたなく文章を書いているところがあります。

食事をしたいわけでもないのに、吉野家の牛丼が好きだというのに似ているかもしれません。吉野家の牛丼は本当にすごく好きで、具体的にいうと、牛丼よりも吉野家の牛丼が好きです。なんなら、三度の飯より吉野家の牛丼が好きです。

仕事から家に帰って「ご飯食べた?」と聞かれたとき、吉野家の牛丼を食べて帰ってきたときには「食べていない」または「吉野家の牛丼しか食べていない」と答えます。それで、家で晩ご飯を食べます。

各々が勝手に感じているはずなのに、普遍な、似た感情があります。

音楽とか、文房具とか、電子機器とか、食べ物とか、私にも好きなものはいろいろとあります。いろいろとあるようで、実際に好きな様子は似ているようです。他所から押しつけられたカテゴリの中にいると、気づかないことがあります。

本当は一つのことが好きなのでしょう。

一つのこととは何なのでしょうか。一つのことなら、一つの言葉で呼べないものなのでしょうか。

こちらの記事を読みました。

パソコン音楽クラブの部活感の秘密。作家性や主張より大事なこと - インタビュー : CINRA.NET

次のような一節があります。
柴田:アルバムの重要な要素として「ときめき」みたいなものがあって。大学生の頃、よくふたりで真夜中に自転車で郊外から大阪の中心部に行ってたんです。
そういうときに、日中は人がたくさんいる街もすごく閑散としていて、自分たちだけが取り残されたみたいな気持ちになって。なんでもない工事の立て看板とかガソリンスタンドの電光掲示とか、そういうものに急にときめいてしまうということがよくあったんです。
西山:ただ車がガラガラの道を通過していく様子とか、人がいないところでの信号の変化とか、ひと部屋だけ明かりが点いているマンションとか……そういう普通のことが非日常感のなかで特別に見えてくる瞬間というか。
夜、あてどなく道を歩いていて、ガラガラの道を車が走り抜けていく様子や、誰もいないのに歩行者用信号が点滅して赤に変わるところを見て、ときめきのようなものを感じることがあります。本当によくわかります。 それから、彼らの音楽アルバムを聴いて、同じく、ときめきのようなものを私は感じました。

雑誌『キーボード・マガジン 2019年 AUTUMN』(リットー・ミュージック)では、KREVAさんのインタビューを読みました。
このモデルはコンプが付いてるんですけど、楽器屋で "コンプが付いてるの(Prologue-16)と付いてないの(Prologue-8)何が違うんですか?" って店員の女の子に聞いたら、"コンプをかけると、ベースがグッとくるんですよね" って言われて、"買います!" ってすぐ買ってきたんです(笑)。それで、スタジオで思いっきりコンプをかけてベースを鳴らしたら、本当にグッときたんですよ。すげぇと思って。
グッとくることを、店員の女の子でも、一流のアーティストでも同じように感じたようです。都会の夜の街のときめきと、音楽アルバムに同じ感じがあることを、アーティストも、私も同じように感じました。

だから、個人の勝手な感覚ではないのだと思います。普遍のものです。人間にプリミティブにある感情で、ごく近い将来の人工的な知性も、同じく有しているはずです。

感じ方は人それぞれとよく言いますが、人それぞれではありません。みんなにあるのです。

みんなそうなのに、名前をうまくつけられません。ときめきのようなもので、共有できません。意味がなかったからでしょうか。みんなに同じものがあっても、各々が試行錯誤で感じられたことが、畢竟、すべてです。

みんなに普遍にあるものなのに、かように説明の手間がかかるのは、不思議なことです。

書籍『本はどう読むか』(清水 幾太郎)にありました。
しかし、現に存在する物体でないもの、眼に見えないもの、過去のこと、未来のこと、これらのものについては、テレビは映像を与えることはできない。
映像を与えることができないものを、一つの言葉で呼ぶのは困難です。ときめきのようなものとは、現に存在する物体でなく、眼に見えず、過去のことであり、未来のことであり、そのすべてなのでしょう。

でも、文章をたくさん書いた先に、表現することができます。音楽アルバム一枚を使って、表現することができます。

感情とか意図とは、もともとそういうものでした。位相幾何的で、統計熱力学的で、絶対矛盾的自己同一的です。一つの言葉で呼べなくても、ある程度の長さによって、表現することができます。

誰にも、十分にその時間があるはずだと、私は信じています。


終わりに


私は三度の飯より吉野家の牛丼が好きですが、電気グルーヴの石野卓球さんは、インタビューで次のように話されていました。『電気グルーヴのSound & Recording ~PRODUCTION INTERVIEWS 1992-2019』(サウンド&レコーディング・マガジン編集部)からです。
本物のテクノっていう言い方はおかしいけど、自分の思うテクノっていうのはポップ・ミュージックの1ジャンルとしてはくくれる感じじゃないんですよ。もっと汎用的だし、自分の中では音楽ですらない。
各々が勝手に感じているはずなのに、普遍な、似た感情があります。

表現するためにはある程度の長さがかかるのに、感情という、一つの言葉で呼べるのはすごいことです。きっと、一つの言葉で呼べているようで、呼べておらず、ある程度の長さが必要なようで、必要でないのでしょう。

訳のわからぬことばかりですが、好きなものに酔いしれた人というのはそういうものです。