書籍『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川 達雄)にありました。
小回りがきくことと安定していることとは、相容れない性質だが、どちらを選んでも、ある程度は生きていけるもののようだ。地球の環境と言うものは、まったく変化がないわけでもなく、かといって天変地異の連続ばかりというわけでもなかった。現在、この地球上には、大きいものも小さいものも両方生きている。これは、どちらもそれなりの生き方でやっていけるということを意味するに違いない。こちらの動画を見ました。
fhána 劇場版『SHIROBAKO』主題歌「星をあつめて」リリース記念番組【ふぁなばこ#5〜クリエイターズトーク with 林英樹編 前半】 - YouTube
fhána 劇場版『SHIROBAKO』主題歌「星をあつめて」リリース記念番組【ふぁなばこ#5〜クリエイターズトーク with 林英樹編 後半】 - YouTube
「前半」と「後半」があります。
バンドfhánaの佐藤さん、towanaさんと、fhánaの楽曲の多くを作詞している林さんが、いろいろとお話しされている動画です。「前半」は、動画タイトルにもある通り、映画『SHIROBAKO』についての話題が多くあります。私は映画、あるいはTVアニメを目にしたことがないのですが、『SHIROBAKO』は創作する人たちを題材とした物語とのことで、大変に興味深く動画を視聴しました。
書籍『暗号解読(上)』(サイモン・シン 著, 青木 薫 訳)に、次のような一節がありました。
それでも彼らが成功できた理由の一つは、どの棟にも、数学者、科学者、言語学者、古典学者、チェスの名人、クロスワード・マニアといった奇抜な面々がそろっていたことである。創作の現場にも、いろいろな人がいらっしゃるそうです。
ちなみに、林さんという方がfhánaの楽曲の作詞をしているのは存じていましたが、私は姿をお見かけしたことがなく、動画を見て、実在するのかと驚きました。
「後半」は、話が発展して、お三方の創作の実作業についての話題となります。この「後半」が非常に面白い内容です。もの作りをする人、皆さんに見ていただきたい動画です。佐藤さんのとある言葉をお借りするなら「すべてのクリエイタと、その作品を愛するすべての人たちに」です。
創作の現場だからでしょうか、始めは格好良いお話です。創作のロマン、きらめきのようなものを感じられます。純粋に、もの作りに憧れるような話です。
途中、どうやって作詞しているか、何の道具で書いているか、という話になります。ここが秀逸です。
林さんは、スマートフォン一つで歌詞を完成させているそうです。これには私も驚きました。towanaさんは、紙とペンでないとできないとおっしゃいます。紙に書いて、詞の全体が見えている状態で、ここがBメロ、ここがサビ、と視覚的にわかる状態でないとできない、とのことです。
この対比は、人によって情報をどうとらえているかという点で、非常に興味深いものです。お二人のどちらの話とも、とてもよくわかります。私はどうだろうかと考えたくなりますが、今は先に進みます。
紙とペンでもよいかもしれないけれど、いつも懐にあって、すぐ取り出して書けることの方が、林さんは大事なのだそうです。
スマートフォンで書いているので、始めは姿勢もびしっとして書いていたはずが、だんだん崩れてきて、外が暗くなったのにも気づかずに部屋が真っ暗になって、コタツに潜って、横になって作業を続けます。横になっていても、必死で、目を血走らせて作業をしています。
なんというのか、とんでもない状態です。動画の始めの方で語られていた、創作のロマン、きらめきとは似つかない姿です。それを受けて、佐藤さんが、作曲でも同じだと話されます。姿勢もめちゃくちゃで、良い手法もなくて、ただああでもないこうでもないと悩み続けているだけです。
創作って、地味で泥臭いと、そんな格好良くないと、佐藤さんはおっしゃいます。
でも、地味で泥臭いながらも、その奥にきらめきみたいなものはやっぱりあって、追い求めています。地味で泥臭いがんばりの経験がある人でないと、語ることのできない言葉でしょう。
そんなに格好良くない話と、やっぱり格好良い話と、両方を同時にうかがうことができる、大変に面白い動画でした。
我が青春は淪落だ、と僕は言った。しかして、淪落とは、右のごときものである。すなわち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば――嗚呼、しかし、破滅以外の何物があり得るか!
『堕落論』(坂口 安吾)こちらの二つの記事を読みました。
「あつ森」博物館は恐竜の最新学説に則った展示をしている? かはくの研究員に聞いてみた - エキサイトニュース
かはく研究員も就職したい『あつ森』博物館の魅力 「絶対に恐竜好きが作ってる」 - エキサイトニュース
私は「あつまれ どうぶつの森」なるゲームを存じ上げないのですが、それでも、記事の面白さはわかります。ゲームに登場する博物館が、最新の学説を取り入れながら、現実の博物館さながらの展示をしているのだそうです。
ゲームで博物館を作った人もそうですが、その意味に気づいて面白がることのできる研究員の方々に、私は感動しました。
なんというのか、端的に、学ぶことの意味だと思うからです。
文章を読んだり、文章を書いたり、考えたりすることがあります。大まかにいって、いずれも自分の知識を増やすことにつながる行為です。学びです。そう、昔から、知識が増えるというのは何なのか、よく考えていました。がんばって本を読んだり、文章を書いたりして、がんばって知識を増やすことについてです。
本を読むのも、文章を書くのも、多少なりとも苦労する行為です。行為すること自体が楽しいということは、もちろんあるでしょう。他方で、それは苦労することとほとんど同じ意味、トートロジーのようにも思います。
研究員の方々を見て、感じました。知識がなければ、気づくことのできない楽しさがあります。知識が深まるほど、思いもよらない、先鋭の楽しさに気づくことができます。
楽しさというのは抽象的なものです。思いもよらないものです。先鋭化していけばいくほど、この楽しさには世界で自分しか気づくことができない、楽しさを他人と共有することが絶対にできない、という状況になります。
なんと美しいことでしょうか。
楽しさというのは、元来より抽象的で、個人的なものです。世界中で自分にしか気づくことのできない楽しさが、世界のどこかにあります。いや、自分の中にあるのかもしれません。きっと、たくさんあります。
書籍『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ 著, ジャン=クロード・カリエール 著, 工藤 妙子 訳)に、次のようにありました。
書物の一冊一冊には、時の流れのなかで、我々が加えた解釈がこびりついています。我々はシェイクスピアを、シェイクスピアが書いたようには読みません。したがって我々のシェイクスピアは、書かれた当時に読まれたシェイクスピアよりずっと豊かなんです。自分ががんばって学び、知識が先鋭になるほど、気づくことのできる楽しさが増えます。知識が先鋭にならなければ、気づくことのできない楽しさがあります。
他人に伝えることのできない楽しさです。先述の記事からは、楽しさの一端を私も感じることができましたが、研究員の皆さんが感じたそれと比べれば、相当に小さいものでしょう。もはや私には想像もできません。それに、研究員さんどうしでも、すでに興味深いと思われた個所が異なっているのです。美しいことです。
当エントリでは、大きく二つの話題について書きました。
がんばってもの作りをする話と、がんばって学ぶ話です。
似ているような気がします。
終わりに
書籍『ψの悲劇 The Tragedy of ψ』(森 博嗣)にありました。
警察はさ、上から見た映像を見ているつもりなんだけれど、それは、バーチャルなんだよ。処理されているだけ。そういうのに頼っているってことが、古い頭の奴らにはわかってない。ちょっと新しいものがあったらさ、便利だ、これからはこの技術だって、飛びつくだけ。失われたものに気づかない。そんなふうだから、あちこちで人災ばっか山のように勃発するわけだ。本当にデジタルを知っている者はね、この世界を過信しない。もっとさ、自分の腕を信じてる。他人に伝えることのできない、自分なりの楽しさがあるというのはよいものです。地味で泥臭い、学びの先にあります。現実のようなきらめきが、奇蹟の中にあります。どんな学びであっても、自分なりにやっていくことができるのに違いありません。
自分を信じているということの、具体的な様相だと思います。