2021年5月9日日曜日

どんぐりのものさし

人々によってひとつらなりの文章が書かれていること、そのものに、人々の知恵たる所以が内包されているような気がします。

森博嗣さんの書籍『ブラッド・スクーパ』に、次のようにありました。
「ああ、それは素晴らしい。人の知恵というものは、ここにあるように書き残さなければ、一代で消えてしまう。また自身でそれぞれが探っていたのでは、神秘を解き明かすには命の長さが不足する。ああ、そうそう、茶を出すのであった」
先日のことです。リアリズム絵画の企画展に足を運びました。リアリズムを鑑賞するのは初めてのことでした。リアリズムというのはなるほど、ずいぶんとリアルなものです。驚きました。生卵がまるで、カメラで撮影した画像かと思うような様相です。

一見すると画像かと思うような絵画も、足を止めて、時間をかけて見ると、少し違うことに気づきます。生卵の絵を描いているはずなのに、よく見てみると、私の記憶にある生卵にはまったくない色や線が、たくさん書き込まれています。妙なところに線が書き込まれており、目を凝らすと言いしれぬ違和感があります。生卵なのに水色に塗られている部分があったりして、目を凝らすほどに違和感が増してきます。

目を凝らすと違和感に襲われるのに、一歩下がって肩の力を抜いてみると、また、画像のようなリアルな生卵が迫ってきます。

不思議なことでしょう。私の知識に照らすとまるでリアルではないのに、リアルなのです。リアルさを追求していくと、普段は意識することのない、リアルではない線や色を描くことになるのかもしれません。

普段は意識していないリアルさとは、リアルではないことに他ならないはずです。

たとえば、子供がドングリのスケッチをしているとしましょう。このとき、ドングリを描こうと意図しているなら、ドングリだけれどリアルではない絵が描かれることになります。リアルなドングリを描こうと意図しているなら、ドングリではないけれどリアルな絵が描かれることになります。

ドングリを描こうとしてドングリの絵を描くためには、かなりの程度、子供たちのドングリの知識に頼る必要があります。ものさしです。一方で、リアルを描こうとしてリアルの絵を描くためには、ドングリを意識することはできません。ドングリの知識では思いも寄らぬ個所に、妙な水色を塗らなくてはならないからです。

倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 2021/01/18 第536号」を読みました。

メルマガ – R-style

「ボトムに寄りそうビジョン」と題されて、次のようにありました。
本来そうしたビジョンは、5つ並んでいることが要点だったはずです。3つでも7つでもなく、その5つであることが、その企業のビジョンを示していたはずです。しかし、それが細分化されて具体的な行動として規定されてしまうと(たとえばマニュアル化されてしまうと)、そうしたビジョンの調和が見えなくなります。
企業のトップが、企業のビジョンを5つ掲げることがあります。企業が目指していきたい方向を示す、大切な文章です。5つのビジョンを決めて掲げることは、よいことだと思います。5つのビジョンを書き出すために、人々の議論があったことでしょう。同じくよいことです。

人々の議論を通じて、ビジョンが5つであること、しかも5つがその順番に並んでいること、そのものにビジョンたる所以が内包されていきます。真剣に考え、議論が深まるほど、そうなるはずです。

ビジョンを少しでも細分化した途端に、ビジョンが5つあったことがわからなくなってしまいます。細分化というのはそのための手続きだからです。トップダウンで情報を細分化することの困難さが、端的に表れていると思います。

こちらの記事を読みました。

高村山荘、横浜、子どものものさし|gofujita|note

とても素晴らしい記事です。私はこういった文章、ひとつらなりの文章が本当に好きです。ずいぶんとリアルなものです。

倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 2021/04/26 第550号」でのお話を引用させていただきます。
麻雀をやったことがない人にはわかりにくいと思うのですが、基本的に麻雀は運ゲーであり、運ゲーであるからこそ、細かい気の使い方が求められます。
たとえば、形Aに比べて形Bの方が20%ほど「効率的」な場合、一度の勝負の中では、どちらを選んでも大した差はありません。効率な形を選んだ人が失敗し、非効率な形を選んだ人が成功することは珍しくないのです。
私は麻雀をやったことがないものの、論旨は理解できました。偶然で勝負が決まるものでは、よい形に注意深くことを進めた人の方が、負けてしまうことがあるわけです。理解できたのは、麻雀に限らずとも、日常のあらゆる場面が同じ状況だからかもしれません。日常の方は勝ちと負けの見分けがつかないことが、違うくらいでしょうか。日常だって、偶然で決まるものです。

麻雀について、次のように続きます。
しかし、まったく同じようにその選択が続くならば、総合的な結果を残せるのはやはり良い形を選ぶ人です。
瞬間瞬間では結果を残せなくても、トータルで見たときに、ほとんど確実なまでに(統計的に有意に)結果が残ること。
なるほどと思いました。ひとつひとつは偶然の勝ちでも、トータルの結果は残ります。勝ちが積み重なりやすい状況があるわけです。

トータルで見たときに結果が残ることについて、当人にしか根拠を感得できないのが、面白いところです。ひとつひとつの状況と選択を解説しても、トータルで結果が残ったことの説明にはなりません。少ない文字数で成立する説明が存在しない、といえばよいのでしょうか。一度の状況だけなら、同じ選択をして、勝つことも負けることもあるためです。

よい選択を継続していけば、だんだんよいものになっていくはずだという、手応えのようなものを信じる気持ちがあります。難しいものです。考える前には信じていないといけないし、信じる前には考えていないといけないし、考えている間は信じ続けていないといけません。

森博嗣さんの『ブラッド・スクーパ』には、次のようにありました。
だが、そのときに、刀を構えているときと同じ、一瞬の短い呼吸があった。林の中を抜けてくる風が見えるようだった。
「そうか……」と呟いていた。
カシュウはこの場所で気づいた。そうに違いない。
きっかけは天道虫ではなかったかもしれないが、刀で切った竹の動きが見える者には、それが発想できたことだろう。
刀で切った竹の動きというのは、ずいぶんと小さな世界のことです。竹を刀で切ったことのある人にしか、見ることのできない光景でしょう。小さな世界を、手応えを持って観察することでしか、発想できないことがあるようです。

発想するというのは抽象的なことだし、発想されたもの、アイデアというのはつかみどころのないものです。他方で、小さくて具体的な手応えから生まれる発想があります。小さな世界のことだからこそ、当人にしか見えていない世界です。当人にしかたどり着くことのない発想があります。

発想するというのは具体的なことなのかもしれません。

私はこういった発想を大切にしています。自分が発想することはもとより、他の人が、ああ、今この人は余人をもって代え難い手応えによって発想したのだ、という想像を大切にしています。

思いもよらぬ個所に妙な水色が塗られていることへの、感動があるからです。


終わりに


考える前には信じていないとならず、信じる前には考えていないとならず、考えている間は信じ続けていないとならないのなら、考えることと信じることの見分けがつかなくなってきます。確かに違うもののはずなのに、困ったことです。偶然で決まるのかもしれません。

普段は意識していないリアルさとは、リアルではないことに他ならないはずです。ああ、そうそう、お茶を飲むのでした。