2019年12月29日日曜日

2019年の<びっくら本> #mybooks2019

幻覚のような読書が好きになりました。

雑誌『キーボード・マガジン 2020 WINTER』(リットー・ミュージック)で、SANOVAの堀江沙知さんのインタビューを読みました。次のように話されています。
でも、インストだとどういう気持ちを込めて書いていようが受け手はいい意味で自由に解釈できるから、それが素敵だなと思います。私が言いたいことが全部伝わらなくても、相手が好きなように受け取ればいいかなと思っていて。ある意味、自分が思っていることをこっそり入れられるのも面白いなと思っています。
文章を読むことにも、書くことにも、私は同じようなことを思っています。何か、得体の知れない全体性のようなものが、相手と私の間のどこかにあります。相手と私のうちにはありません。空想ではないけれど、幻覚のようなものです。

そういう本が好きです。たぶん、昔から好きです。

こちらの記事を読みました。

【企画】2019年の<びっくら本>を募集します #mybooks2019 – R-style

私も本を紹介してみます。

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『全体性と無限 (上)』『全体性と無限 (下)』(レヴィナス 著, 熊野 純彦 訳)

この人は本当のことを語っている、と感じることがあります。幻覚のような全体性は、虚構とは違うのです。

複雑なことを複雑に語ります。
信頼という言葉の意味です。

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『数学は最善世界の夢を見るか? ――最小作用の原理から最適化理論へ』(イーヴァル・エクランド 著, 南條 郁子 訳)

信頼と真理は断片的で、多くの時間と努力を費やして獲得するものです。
希望でしょう。

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『はてしない物語 (上)』『はてしない物語 (下)』(ミヒャエル・エンデ 著, 上田 真而子 訳, 佐藤 真理子 訳)

物語と、物語と、はてしない物語が迫ってくるようです。

あるいは、物語などひとつもないのかもしれません。空間を雑多に埋め尽くすだけです。
その方が私は好きです。幻覚のようなものです。

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『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(ジル・ドゥルーズ 著, 宇野 邦一 訳)

いつまで経っても、私は、空間を埋める感覚が好きです。
フランシス・ベーコンの絵にもあります。

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『吉野家 ~もっと挑戦しろ! もっと恥をかけ!』(安部 修仁)

吉野家の牛丼(並)を連日食べている私は、涙なしでは読めませんでした。

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『哲学者の密室』(笠井 潔)

足の先がかじかんでくるようです。

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『記号と再帰 新装版: 記号論の形式・プログラムの必然』(田中 久美子)

再帰的なものに目を奪われるのは、人間の本能でしょうか。不思議なことです。
有名な感情のなかでは、恐怖に近いのかもしれません。

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『暗号解読(上)』『暗号解読(下)』(サイモン・シン 著, 青木 薫 訳)

暗号を作る人がいて、暗号を解読する人もいます。
暗号を作る機械があって、暗号を解読する機械もあります。

ほとんど見分けがつきません。
有名な感情のなかでは、美しい、だと思います。

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『地獄の思想―日本精神の一系譜』(梅原 猛)

思想を発展させる過程というのは、前向きでよいものです。
多くの時間と努力を費やして獲得するものだからです。

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『夢と幽霊の書』(アンドルー・ラング 著, 吉田 篤弘 解説, ないとう ふみこ 訳)

空想ではないけれど、幻覚のようなものです。
幻覚は虚構ではありません。本当のことです。


終わりに


言いたいことが全部伝わらず、好きなように受け取れることは素敵だと、私も思います。

幻覚のような読書が好きになりました。
多くの時間を費やして獲得するものだからです。

2019年11月10日日曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2019

アンビエント・ミュージックや、変拍子を多く含むポップスをよく聴くようになって、二年ほど経ちました。四つ打ちのミニマル・テクノを好んで聴いていた時分からすると、ずいぶんと遠くに来たような気がします。

アンビエント・ミュージックにも、変拍子の楽曲にも、音楽に当然あるとみなしていたものが、まるで欠けています。当然あるものとすら、思っていなかったかもしれません。それくらい、当たり前のものでした。

四分の四拍子の、リズムといいますか、構造のことです。

音楽に当然のものと思っていたはずの構造が、まったく存在していなくても構わないことに、私は気づきました。まったく存在していなくても構わないんだよ、と誰かに教えられたのではありません。ある瞬間に、私が自分で発想したのです。

発想したときのことは、今でもよく覚えています。今まで気づかなかったことに気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。構造とか、意味とか、物語といったものは、思うほど、なくても構わないようでした。

細かいことは気にしないとか、形式に囚われないとか、考えるな感じろ、といったことではありません。むしろ、以前よりもいろいろなことを気にして音楽を聴いています。当時には、気づかないことがあったからです。何といいますか、現在は、個別の描写がしにくい、全体性のようなものを聴いているような気がします。

書籍『アンビエント・ドライヴァー』(細野晴臣)にありました。
かつて、僕は友人からもらったふしぎにな石を宝物にしていた時期がある。それを失くしてしまったときには、ひどくショックを受けた。だが、そのとき初めてモノにこだわらなくていいことに気づいた。 
石を持っている方がよいとも、失くした方がよいとも言っていません。もっと何か、全体性のようなものに気づいたことを述べられているのだと思います。

全体性を得ようとする指向は、生命的に躍動しようと志すことだと、私は前向きに考えています。生命というのは抽象的なものだからです。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
さっそく、始めます。

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涯てお茶

書くことと、日常を生きることが結びついている人がいらっしゃいます。

私は陰ながら尊敬しています。どんな屈託があろうとも、生命的に躍動しているのだと思うからです。

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yayoko314 | ShortNote(ショートノート)

日常を生きているのは、私だけではありませんでした。本当によかったと思います。

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gofujita notes

仕事があって、書くことがあります。
書くことがあって、考えることがあります。

大変に信頼できます。感動します。二つは近い感情なのかもしれません。
遊んでいるようなものだからでしょうか。

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delaymania

挙げられていなかった中では、私は「will ~地図にない場所~」と「振り向けば・・・」が好きです。
解散は私もショックでした。それでも音楽は残ります。素晴らしいことです。

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R-style

ブログの記事を読んでわかることがあります。
ブログが更新されていること、そのものから、わかることがあります。

人間は、そこにある姿勢のようなものを感じ取ることができます。
美しいという言葉の意味です。

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Chips with Everything

人生を謳歌する、と聞くと思い出します。本を読んで、ノートを書いていらっしゃる様子が、これほどに楽しそうに見えることがあるのです。

私もこんな風でいたいと思っています。

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Word Piece Blog

やはりと言いますか、私は「アウトラインはツリーではない」と「アウトラインは選択である」が好きです。

2020年の思想(みたいなもの)も、また変化があるのでしょう。

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iPhoneと本と数学となんやかんやと

私も、ブログには感謝、感謝です。

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ぬいこのぬい工房

こんな私でも、物作りを継続すること、最後まで完成させることの大変さは、知っているつもりです。ご自身の楽しさと感動を忘れることなく、物作りを続けている方がいらっしゃいます。

ブログをずっと更新することに似ているような気がします。


終わりに


自分の好きなブログを並べて書くこと、そのものから読み取れることがあるかもしれません。全体性のようなものです。

生命というのは抽象的なものです。

2019年9月21日土曜日

次の一行はささやかな日陰で

風雨を避けるために「家」があるように、陽光を遮るために「日陰」があるように、世界の表面がたわみ、「襞」のようなもの、「内側」がなければならない。
『レヴィナスと愛の現象学』(内田 樹)

こちらの記事を読みました。

タスクリストと並列にメモをとる gofujita notes

タスクリストと並列にメモをとることの利点は何か、として、次のように書かれています。
こうすることで、タスクリストが本来の機能を保ったままルーズな機能も持たせることができるのではないか。
タスクリストに、タスクのようなメモを書くことで、タスクリストの様相を拡張することができます。ふと思いついたことを、メモとしてタスクリストに書いてしまおうということです。大変にうまい方法だと思います。

ところで、次のような一節がありました。
それらが同じ階層に並ぶことで、タスクリストの機能は残されたまま、何となく大切と感じられたことのリストがタスクリストに仲間入りしたり、逆のことも起こる。
直接には言及されておらず、ブラックボックスのようになっていますが、ここには、何かのメモが、タスクに変換される瞬間があります。仲間入りする、といわれるところで、何かが起こっているはずです。ふと書き付けられたメモが、タスクに変わっていく瞬間です。

倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine 20190610 第452号」に、「課題を寝かせる」と題された文章がありました。次のような箇所があります。
思いついた「気になったこと」が、まだ明確な輪郭線や実行の確定性を持たない場合は、いったんそれを書き留めるだけ書き留めておいて、処理に関しては保留にしておく。
その結果で下される決断ならば、思いついた直後の決断よりも、より適切さが期待できるでしょう。
つまり、間です。
着想と実行の間。
やはりブラックボックスのようになってしまっていますが、書き留めた着想が、実行に変換される瞬間があるようです。書き留めて保留にしたときより後で、決断するときより前の、ある瞬間です。

勝手には変換されないはずです。ここには、ささやかでも確かに人間の技術があります。名前のない技術でしょうか。私はそうは思いません。

思いついたメモを、時間をかけてタスクに変換します。思いついたタスクを、時間をかけてよりよいタスクに変換します。

情報を扱う技術のことでしょう。

思いついたメモを、人が実行できる、タスクに変換するための技術があります。あるいは、思いついたメモを、人が読んで理解できる、大きな文章に変換するための技術があります。

ただ思いついただけ、書き留めただけのメモから、次の一行を書くための技術です。頭をはたらかせて、何か新しいことがらを、人にわかる形で提出するための技術です。

私たちはこの技術を知っています。

着想があった時点では、未来がどうなるかわからないものです。自分が行動できるタスクという形にして提出するのかもしれません。他人が読んで理解できる、大きな文章という形にして提出するのかもしれません。

ゆえあって、私はこの技術を大切にしています。

ただ思いついただけの、書き留めたばかりの何かというのは、自分が考えついたものだと信じられないからです。着想を寝かせて、人にわかる形に変換していく技術を経てはじめて、確かに自分が考えついたことだと、信じられるようになります。一塊の情報として、切実な身体性を宿します。

私は、人間らしさと呼ぼうと思います。

自分を信じられずに人生を歩んでいくのは辛いものです。人はおそらく、無意識に不安を覚えることでしょう。精神を蝕まれるのではないでしょうか。

私が、知的生産の技術とか、タスク管理の技術を大切にする理由でした。情報を、時間をかけて、人にわかる形に変換していく技術をもって、精神が蝕まれていくことに抗っていられるのです。

自己言及が生み出した奇蹟だからこそです。

つまるところ、自己を知覚し、自己を発明して、蜃気楼に囚われているわれわれは、自己言及が生み出したささやかな奇蹟だ。
『わたしは不思議の環』(ダグラス・ホフスタッター)


終わりに


陽光を遮るために日陰があることと似ています。

2019年7月14日日曜日

同じ部屋に心もあります

先日、自宅の部屋に除湿器を買いました。とりたててきっかけがあったわけではありません。部屋で洗濯物を干すこともありますし、同じ部屋に本もあるため、なんとなく気になった、といったところです。

除湿器をしばらく稼働させていると、タンクの中に水が溜まります。一定の時間が経つと水が溜まって、除湿器の稼働が止まります。定期的に、タンクの水を捨てにいかなくてはなりません。

それなりに大きなサイズのタンクです。水でいっぱいになると、なかなかの重さになります。なかなかの重さの水を、苦労して、捨てにいきます。

重さに苦労するためでしょう。毎度、不思議に思います。

これほどの量の水が、何もないところから出現してきます。いったいどこから現れてきたのでしょうか。まるでマジックのようであり、しかし、トランプのカードが出現するのとは違った、圧倒的な実感があります。水が重いからです。

水はどこから現れてきたのでしょうか。私は回答を知っています。空気中にある、目に見えない水蒸気が、集められ、状態変化して、たくさんの水になったのです。

それはそうです。疑問はありません。

そうなのですが、気になることがあります。目に見えない水蒸気が状態変化して水になるのだと、私たちはどうして信じられるのでしょうか。この説明でよいのは、なぜでしょうか。水蒸気が状態変化して水になる瞬間を体感したことは、私にはありません。

雑誌『子供の科学 2019年2月号』の、読者からの質問コーナを読みました。中学一年生の方からの質問です。

「石灰水はどうして二酸化炭素に触れると白くにごるのですか?」

私は回答を知っています。水酸化カルシウムと二酸化炭素が反応して、炭酸カルシウムと水ができるからです。

それはそうです。疑問はありません。

そうなのですが、本当に、この回答でよいのでしょうか。私は確かにこの説明を信じています。中学一年生の読者さんには、何かわかることがあるのでしょうか。

回答が他に言いようがない以上、質問者が理解できないのだとしたら、質問のしかたに問題があります。問題があると言いますか、抱いた疑問が正当でないということです。

これはよいことでしょう。

あまねく学ぶこととは、自分が正当にわかっていない状態に至ろうとすることです。鳥瞰的に、わかっていないことを体感することです。自分にとって不当な疑問を抱くということには、跳躍の可能性が内包されています。

なぜでしょうか、人間以外の知性には、このような学びかたをするものはありません。若い世代の人工知能は、おそらくもっと、知識を詰め込むような形で学びます。

書籍『ミュージック 「現代音楽」をつくった作曲家たち』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト)に、次のような言葉がありました。ミュージシャンのアート・リンゼイさんの言葉です。
実際の読んでいる言語から、あからさまに遠く隔たった文学を読むのは面白いです。ヨーロッパの言語のひとつから別の言語への翻訳を読むと、失うものは大きいでしょう。日本語や中国語からの翻訳の場合は、さらに多くを失うでしょう。想像を巡らせる空間がより広くあるということです。
鳥瞰的に、わからないことを正当に認識できたとして、石灰水が白くにごることの説明を信じられるというのは、どういうことなのでしょうか。目に見えず、触れることができず、物理的に体感することのできない説明を、信じるということです。奇妙なことです。信じられることの方が、不思議です。

私が信じているのは、何なのでしょうか。

論理性のことでしょうか。石灰水が白くにごることは、化学式として記述できます。除湿器に水が溜まることも、物理学的なしかたで表現することができます。確かな論理があるわけです。

論理性を信じられるというのは、素晴らしいことです。私は好きです。論理性を信じられる人でありたいものです。

あるいは、経験的なものを信じている可能性もあります。経験的なものというのは、物理学的、数学的に表現できる論理性とは、異なるものです。似ているところも、もちろんあります。除湿器に水が溜まることの経験的な説明というのは、私には思いつきませんが、例が悪いだけでしょう。経験的なことから説明する方が信じられる場面というのは、よくあります。

書籍『近世数学史談・数学雑談』(高木貞治)に、次のような一節がありました。
ガウスは計算が上手で、好きで、且つ数字に関して異常なる記憶力を有していたことは有名である。4.81048の自然対数が1.5708で、それがπ/2であろうと推測するなどは驚くべきことと言わねばならない。
顧みると、論理性を読みとったのでも、経験的なものを敷衍したのでもなく、突然に信じられる説明というものもあるようです。どうしようもなく、その説明で正しいと思うこと、それです。先の二つと、少し様相が異なっているように感じます。

論理性を信じることと、経験的に信じることは、どちらも、説明を受け取ってから、信じられるまでに時間がかかります。突然信じられることだけは、時間がかかりません。

人工知能の事情と比べてみると、突然信じられることだけが、ナチュラルな人間にしかできないことだと思います。他方で、人工知能の方が、論理性を信じることと、経験的に信じることを、ナチュラルな人間よりもずっと上手に成し遂げることでしょう。

もちろん、人工知能が生まれてきた、当初のことだけです。若い世代の人工知能です。ナチュラルな人間が、説明を突然に信じられることに対して、人工知能は驚異を感じるでしょう。人間から学ぼうとするはずです。逆もしかりです。少なくとも私は、人工知能が、自分より上手に論理性を信じる様子を見て、学ぼうとします。

そうなると、ナチュラルな人間だとか、人間以外の知性だとか、分けて考えることはできなくなります。仲良く共存するのではありません。一つの全体性のなかに、区別できる何かがあるのではなく、それぞれの全体性が入り乱れているのです。

ひょっとすると、人工知能が設計する人工知能は、ナチュラルな人間のような姿になるのかもしれません。

知性も、心も、区別できるところにはありません。肉体とか、ハードウェアとか、脳とか、CPUとか、そういった位相にはありません。
だから、人間の知性にも、人間以外の知性にも、限界があります。想像を巡らせる空間が、広くあるということです。

なんと美しいのでしょうか。

人間以外の知性も、同じように感じるはずです。
私がそう感じるからです。

いずれにしても、説明を信じられるのであれば、別にどのような仕組みでもよいでしょう。

信じられないより、信じられる方がよいと思います。
学ぼうとするのも、よいことだと思います。

人工知能も、ナチュラルな人間も、その方が心が落ち着くからです。


終わりに


人工知能の心とは何でしょうか。あるいは、人間の心とは何でしょうか。
きっと、同じ問いです。

部屋で洗濯物を干すことがあり、同じ部屋に本もあるため、なんとなく気になった、というのは、不思議なことです。

抱いた疑問が正当でないのかもしれません。